【中古】 初代対馬藩主 宗義智 対馬藩外交の礎を築いた英主 マンガ対馬の歴史偉人物語1/長崎県対馬市(編者),屋代尚宣(その他) 【中古】afb

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ユネスコは「朝鮮通信使に関する記録」を世界記憶遺産として登録しました。
朝鮮通信使とは、江戸時代に朝鮮国王が徳川将軍家に派遣していた外交使節団のことです。
この使節団は、日本と朝鮮が互いに対等で審議を交わす象徴となっていました。
そんな友好の歴史がスポットを浴びたのです。
この「朝鮮通信使」誕生の裏には、江戸時代のはじめ、ある男のギリギリの選択があったことは知られていません。
その男とは・・・九州北部対馬島主・宗義智です。
義智が治める対馬は、日本本土と朝鮮半島の間にある島です。
朝鮮との貿易を生活の糧とし、対馬は日本本土とは違う独自の生活をしていました。
しかし、豊臣秀吉によって天下統一がなされると、対馬も本土の体制に組み込まれていきます。
義智は天下人・秀吉からとんでもない命令を受けます。
「朝鮮王朝は秀吉に服属するよう義智は説得せよ。」
というものでした。
朝鮮王朝が従う筈もない命令・・・。
そして・・・後に徳川家康からは国交回復を・・・!!

九州本土から130キロ離れた長崎県・対馬・・・
古代律令制のもとでは、対馬国として島で一つの国を形成していました。
日本本土から離れた地で、中央の影響を受けにくく、島は地元の豪族たちによって支配されていました。
しかし、その多くが山に覆われて・・・耕作に適した地はなく、人々が目をつけたのは貿易でした。
その相手は、対馬から50キロほどの朝鮮半島でした。
対馬にある韓国展望所からは、うっすらと島と建物が・・・釜山を見ることができます。
夜になると明かりも確認でき、朝鮮半島の人々は目に見える存在でした。
朝鮮側も、古くから対馬は無視できない存在でした。
朝鮮王朝が対馬の豪族を家臣に任命した「告身」も残っています。
どうして朝鮮王朝が、日本の対馬の豪族を家臣に任命したのでしょうか?
その裏には、当時朝鮮半島近海を荒らしていた倭寇の存在がありました。
朝鮮王朝は、成立から倭寇に悩まされていました。
根拠地の一つとして対馬が対馬と想定されていました。
なので、朝鮮王朝は、倭寇の狩猟に対して朝鮮の官職を与えて懐柔するという政策をとるのです。
これによって、彼らは、定期的に挑戦に渡って貿易をする権利を手に入れました。
身近であるがゆえに勝川rざるを得なかったのです。
微妙な関係の上に成り立っていました。
そんな対馬の豪族の中で台頭してきたのは宗氏でした。
宗氏は、倭寇を取り締まることを条件に、朝鮮王朝から特別な権利を手に入れます。
朝鮮への渡航証明書を発行する権利を独占的に担ったのです。
これによって対馬から朝鮮に渡る船は、宗氏によって管理されることとなります。
島内の豪族たちが、これまでのように自由に船を出すことができなくなったのです。

戦国時代末期、島主となったのが、宗義智でした。
義智も、朝鮮王朝との関係をうまく生かしながら、対馬の支配を確固たるものにしようとしていました。
しかし、日本の中央では・・・義智の将来を左右する政権が誕生していました。
戦国の世を一つにまとめた豊臣秀吉です。
天下人として全国の大名を従えた秀吉は、義智にも書状を送ります。

「対馬一国はこれまで通り、安堵いたす。」

義智の対馬支配は認められます。
しかし・・・条件が・・・
「次に高麗(朝鮮)の事だが、国王が日本に参れば、これまで通り朝鮮の支配を認めるが、遅れるようであれば、即時に海を渡って誅罰を加える。」by秀吉

秀吉に服属する為に使節を朝鮮に送らせるように義智に仲介を命じたのです。
これは、朝鮮王朝の立場を考えればあり得ないことでした。
当時、朝鮮国王は、明の皇帝に従うことで、国王と認められていました。
柵封体制です。
その朝鮮国王が、秀吉に従うということは、明との関係を断ち切るということでした。
それは、当時の東アジアの常識ではありえないことでした。
どうする??
義智は驚くべき作戦を立てます。
自らが使者となって朝鮮へ渡った義智は、朝鮮国王に対して日本への公式使節派遣を願い出ます。
しかし、使節の名目は、”秀吉に服従せよ”というものではありませんでした。
秀吉が、新しく天下の支配者になったことを祝福する祝賀使節を送ってくれとしたのです。
他に言いようがありませんでした。
秀吉の意図を隠し、あくまで秀吉の国土統一を祝う使節派遣を求めたのです。

宗氏はこのような大胆な外交手腕を使って、日本と朝鮮の間を渡り歩いていました。
その異色の外交を物語るものが、宗氏が偽造した朝鮮国王の印”為政以徳”です。
日本に残されていた印を、科学的検証を試みると・・・国書に押された印の朱肉の成分が宗氏の偽造印に残る朱肉の成分と一致したのです。
残されていた国書は、宗氏が偽造したものだったのです。
このような危うい行為をしながら、両者の間を渡り歩いていたのです。

1590年朝鮮使節団来日。
11月7日、聚楽第で秀吉と会見に及びます。
ところが・・・目の前の使節が自らへの服属と考えていた秀吉は、使節団に対し、とんでもない命令を下しました。
「明国全体を我が国の習俗に変えてしまおうと思う。
 わが軍が明に攻め入る際には、朝鮮もはせ参じるように。」
なんと、秀吉は朝鮮の宗主国・明を征服すると宣言!!
朝鮮に手伝うように命じたのです。
秀吉を祝いに来た使節団は寝耳に水で、受け入れられるものではありませんでした。
ここに至って交渉は決裂!!
秀吉は朝鮮出兵・・・文禄の役です。
秀吉、朝鮮王朝、双方の意図を誤魔化して、強引に会見を成立させた義智の戦略は大失敗に終わったのです。

1592年4月13日、秀吉は朝鮮半島へ軍勢を進めます。
日本軍の第一陣を率いたのは、義智の妻の父・小西行長でした。
そしてその日本軍の先導役を任されたのが宗義智でした。
この時25歳、皮肉にも、朝鮮の事情に詳しいことが災いしました。
釜山に上陸して破竹の勢いで進撃を開始。
およそ半月後には、朝鮮の首都・漢城を攻略します。
さらに、平壌まで進撃します。
しかし、進撃はここまででした。
朝鮮の宗主国・明が4万で援軍にやってきました。
明と朝鮮の連合軍は、義智ら1万5000がこもる平壌に攻め寄せてきました。
敵の大軍勢を前に、成す術のない日本軍・・・。
義智たちは、命からがら平壌を脱出し、仲間のいる漢城へ・・・!!
何とか漢城にたどり着いたのは7000の兵・・・半分以下になっていました。
最早日本軍に勝ちがないと判断した義智たちは、明との講和に向けて動き出します。
講和に当たり、明が日本に要求したのは、秀吉による降伏文書でした。
秀吉が明に降伏するならば、戦を止めても良いと言ってきたのです。
秀吉が受け入れるはずもない要求・・・。
どうすればいいのか・・・??
小西行長は、秀吉名義の国書を明に送ります。
”明国皇帝陛下の御威光のもとでは、日本など小さな存在でございます。
 是非とも日本国の王として、任命していただきたく存じます。”
秀吉が自らの過ちを認め、明に服属することを求めた・・・??
これは、偽造国書だったのです。
この作成に、宗義智が参加していたのではないか??といわれています。

義智が公式文書の偽造に関わっていたかどうかは疑問です。
しかし、この偽造国書のおかげで、休戦協定が無事成立しました。
1596年9月、明の使節が秀吉に謁見・・・
自らの降伏文書のことなど知る由もない秀吉・・・明の使節は、敵の降伏の使者と信じていました。
しかし・・・
”ここに特に なんじを封じて 日本国王となす”
秀吉を日本国王に任命する・・・つまり、柵封体制に入ることを意味していました。
秀吉は怒り心頭!!
再び朝鮮出兵を命じるのでした。

朝鮮での戦を終わらせるために企てた秀吉の降伏文書の偽造・・・
またもや、義智たちの外交戦略は失敗に終わりました。

1597年7月・・・慶長の役が始まります。
この時も、義智は先鋒を強いられます・・・!!
日本の武将たちに対して、秀吉の命令は苛烈を極めました。
”老若男女 僧侶 なで切り”

大分県にある安養寺には、朝鮮での惨状を記したものが残されています。
当時の安養寺の住職・慶念が朝鮮出兵の折に書いた日記です。
この日記には、日本軍によって多くの朝鮮人が連れ去られている様子が書かれています。
”男女老若 縄で首をくくられ 歩くのを止めた者に対しては 杖でおい立て打つ有様は さながら 地獄の鬼が罪人を 責め立てているようである”

この時、日本に連れ去られた人々は、数万人といわれています。
日本で農村の労働力に使われる場合、奴隷として売買される場合があります。
東南アジアの各地に奴隷として転売される朝鮮の人たちも沢山いたと言われています。

一方、日本軍も明・朝鮮軍の攻撃によって兵站を遮られ、寒さと飢えから次々と兵が倒れていきます。
そんな中・・・日本への撤退命令が出されます。
1598年8月18日、豊臣秀吉が死去したのです。
義智はふるさと対馬に戻ります。
文禄・慶長の役から6年の月日がたっていました。
久し振りの故郷は・・・荒れ果てた島の現実でした。

”朝鮮での戦いが終わった後、村には人がいなくなっていた
 戦で多くの人が死んだり逃げたりしたからである”

文禄の役で、宗氏は5,000人の軍勢の派遣を求められました。
当時の対馬の人口は、1万にも満たなかったのです。
当時は漁業中心・・・漁師たちも船の漕ぎ手として動員されていました。
人がいなくなって・・・田畑は荒れ放題、漁業も荒れ放題だったのです。
天下人秀吉に命じられた朝鮮出兵・・・。
その結果、義智は朝鮮との貿易だけでなく、島を支えていた家臣や領民をも失ってしまったのです。

秀吉の死で戦いが終わった2年後、秀吉亡き後の天下を決める戦いが・・・
1600年関ケ原の戦いです。
この時、宗義智は三成に味方をしました。
舅の小西行長の頼みに応じたものといわれています。
しかし、戦いは徳川家康の大勝利に終わり、義智は次の天下人に弓を引いた形となってしまいました。
家康からの厳しい処分は避けられない・・・??
ところが、下されたのは所領安堵・・・家康は対馬を治めることを許したのです。
その裏には、家康の意図がありました。
外国との通商貿易には義智の力が必要だと思ったのです。
家康は通商国家を考えていました。
しかし、朝鮮国と貿易を再開するにあたっては、まず戦後処理が必要だと思っていました。
戦後処理とは、外交関係の復活であり、それをやらなければ通商貿易は出来ないと考えていたのです。
家康としては、朝鮮問題の解決について、宗氏の力が絶対に必要だという判断があったのです。

対馬を安堵されたことで、家康に大きな借りができてしまった義智。
国交回復は絶対に成し遂げなければならない課題となったのです。
義智は朝鮮王朝に使者を送り続けながら、公式使節派遣の要請を繰り返します。
一方朝鮮王朝は、義智の要請に対して完全拒否を貫いていました。
しかし、遂に松雲大師と呼ばれる僧侶の派遣を決めます。
この時の松雲大師の派遣には、朝鮮の日本に対する不信が関係しています。
新しく政権をとった家康が、再び朝鮮に責めて来るのではないか?
家康政権がどのような挑戦認識か確かめる必要があったのです。

1605年義智は松雲大師を伴い、家康に謁見。
この時、家康が大師に語った内容が朝鮮側の記録に残っています。

「我は朝鮮出兵の時、関東におり、戦いに関わっていない。
 朝鮮との間に恨みはなく、ただ和を通じることを望むのみである。」by家康

朝鮮出兵は毛頭ないと語ったのです。
この時、家康は日本に連れ去られた朝鮮の人々の返還要求についても誠意を尽くすとしています。
会談を成立させた義智としても、これで朝鮮王朝の態度も軟化し、公式使節派遣も近いと安堵しました。
会談から1年余り後、義智の元に硬式使節派遣の条件が届きました。
しかし、その内容は厳しいものでした。
使節派遣の条件は、”家康が日本国王として先の戦について謝罪する国書をだすこと”だったのです。
すなわち、家康が明に服属し”日本と朝鮮が対等である”と示したうえで、国書を出して謝罪せよと言ってきたのです。
この要求を家康に取り次がなければならない・・・。
家康に謝罪国書を頼む??
家康の謝罪国書を偽造する・・・??
どちらの道を選ぶのか・・・??

朝鮮王朝が宗義智に突き付けた「日本国王としての家康の謝罪国書の要求」から数か月・・・
義智は家康の国書を携えた使者を朝鮮に送りました。
国書は残っていない・・・しかし、朝鮮王朝の記録にはその内容が記されていました。

”我々が、前の代の非を改めることは、去年松雲大師に話した通りである”

家康が謝罪する国書は朝鮮に届いたようです。
ところが、朝鮮側の記録には・・・これは偽書であると判断したと書かれています。
それは、数か月後に来たこと・・・。
対馬から江戸までの往復の期間、幕府側がどういうような判断をするか、形式上の手続きも必要でした。
つまり、そんなに早く家康国書が届くはずがないという判断があったのです。

そう・・・義智は、自ら家康の謝罪国書を偽造して送っていたのです。
朝鮮側に見破られてしまった以上・・・使節派遣の道は絶たれてしまったかに見えました・・・
が、朝鮮国王は公式使節派遣を決定します。
朝鮮側としては、自分たちが出した錠kwんが満たされた・・・
蒸し返して偽物だとなると和平が遠のいてしまう・・・。
一番の課題であったひ被虜の人々の送還が遅れる・・・これは許されない・・・。
もう一つは、北方の女真族・・・後に清国となる大きな勢力が鴨緑江を渡って侵入してきていました。
南方、北方、二つの大きな外交課題を抱えていました。
軍事情勢を少しでも安定化させるために、日本との和平を急いだのです。

偽物とわかっていても受け取る・・・。

1607年1月12日、朝鮮使節団、漢城を出発!!
そして、2月29日、使節一行は対馬に到着しました。
この時、対馬側と朝鮮側で奇妙なやり取りがあったことが残されています。

「先年の国書は、果たして家康のものか?」
「もちろんである
 なぜ、そのようなことを問うのか?」
「あの国書に押された国王印はどういったものなのか?」
「あれは、明の使節が文永の役の講和で来日した際に、秀吉を日本国王として任命する為に渡したものである。」
「あの時、日本はそれを拒否したではないか。
 にもかかわらず、その時の国王印を使ったというのか。
 日本とはよくわからない国だ。」
対馬側は、苦笑して何も答えませんでした。
以後、朝鮮側は、国書について何も触れることはありませんでした。
対馬を出発した一行は、瀬戸内海を通って大坂に上陸、陸路で江戸へ・・・!!
1607年5月6日、江戸城にて将軍に謁見。
遂に日朝国交回復が成し遂げられた瞬間でした。 
以後、朝鮮通信使は、江戸時代11回にわたって日本を訪れ、この使節は、まさに日本と朝鮮の友好関係を示す象徴となったのです。
危ういながらも役目を遂げた宗義智・・・国交回復から2年後には、朝鮮国王から貿易再開の許可も得ます。
これによって、朝鮮に攻め込んで以来、荒れ果てていた対馬は、息を吹き返していきます。
6年後、対馬の復興と日朝友好を見届けた宗義智は・・・1615年48歳でその生涯を終えたのでした。

一筋縄ではいかない国際外交の中、宗義智が繰り出した禁断の一手・国書偽造・・・。
日朝友好の象徴・・・朝鮮通信使誕生の裏には、こんな秘話が隠されていたのでした。

江戸時代、日朝友好の象徴となった朝鮮通信使・・・
その足跡が時代を超えて400年経った今、平和を語る大事な記録として新たな輝きを発している。

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