日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:木下藤吉郎

”退く戦は攻める戦より難しい”

戦国時代、撤退戦は武将たちを死の間際に追い込みました。
乱世に幕を引いた天下人・徳川家康も例外ではありません。
生涯で幾度も危険な撤退戦を経験した家康・・・
その中で、今まであまり語られてこなかった戦があります。

”金ヶ崎の退き口”です。

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織田信長が、朝倉氏討伐のために越前へ出兵。
信長と同盟関係にあった家康も、この戦に参陣しました。
戦いを優勢に進めていた織田軍でしたが、浅井長政の裏切りにより形勢が逆転。
信長は、撤退せざるを得なくなりました。
軍の殿・・・つまり、最後尾を任されたのが、木下藤吉郎・・・のちの豊臣秀吉でした。
しかし、この時、最も厳しい状況にあったのが、敵中深くまで攻め込んでいた家康でした。
家康の家臣はこう記しています。

”信長は、家康を前線に残したまま、何の連絡もなく退却した”

家康は、信長が撤退したことを知らされておらず、最前線に取り残されてしまったのです。
家康は、いかにしてこのピンチを生き抜いたのでしょうか??
信長、秀吉、家康・・・
戦国の三英傑を窮地に追い詰めた金ヶ崎の退き口・・・
この戦いに徳川家康の視点から迫ります。

1560年、桶狭間の戦いで、織田信長が東海の雄・今川義元を討ち果たしました。
これを機に、今川家中の一武将だった家康は、生まれ故郷の三河に帰り、独立を果たします。
この時、19歳でした。
まもなく、尾張の織田信長と同盟を締結。
西からの脅威を無くした家康は、三河を統一し、版図を拡大させていきます。

1570年、29歳の家康に、同盟相手の信長から書状が送られてきました。
それは、天下静謐のため、各地の領主に上洛を命じるものでした。
家康はこの命令に従って、上洛。
将軍・足利義昭の前で、馬揃えを披露しました。
その盛大さに、多くの見物人が集まったと記録されています。
しかし、華やかな式典の裏で、信長はある作戦を実行しようとしていました。

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1570年4月20日早朝、信長は、3万ともわれる大軍勢で都を出陣!!
その中には、家康率いる徳川勢もありました。
都の西岸を北上した軍は、4月22日、若狭国の熊川城に到達。
この時、家康は城下の得法寺に泊まったといわれています。

この時信長は、3万もの大軍を動員して何をしようとしていたのでしょうか?
信長が、毛利元就に送った書状にはこうあります。

”若狭の武藤と申す者が悪逆を企てているので、成敗しなさいと将軍から命令された”

足利義昭から、若狭国衆・武藤氏の討伐を命じられたと言います。
しかし、4月23日、熊川を出た信長は、武藤氏の西ではなく北へ軍勢を向けました。
その先は越前・・・戦国大名・朝倉氏が支配する地です。
従来、この信長の出兵は、朝倉の当主・朝倉義景が上洛命令に従わなかったためと考えられていました。
しかし、近年違った解釈があります。
信長が、最初から越前攻めを考えていたかは非常に難しい所です。
若狭国は、朝倉方と将軍・信長方で二分されていました。
言うことを聞かない武藤氏が、越前の朝倉に援助を求めたとわかってきました。
それなら懲らしめないといけないと、若狭から越前に入って行ったのでは??

朝倉義景が、反将軍派の後ろ盾になっていたと知り、信長は越前に軍を向けたのです。
4月23日、信長は若狭と越前の国境にある国吉城に入城。
その2日後に、越前の敦賀に進軍を始めます。
狙うは金ヶ崎城と手筒山城・・・2つの山城です。

信長はまず手筒山城への総攻撃を指示、家康率いる徳川勢も、南側から力攻めを行います。
結果、手筒山城はわずか半日で落城。
この時織田軍は、1300人以上を討ち取ったと記録されています。
翌日、信長は金ヶ崎城を包囲。
ここで手柄を立てたとされるのが、木下藤吉郎・・・のちの豊臣秀吉です。
城に乗り込んだ木下藤吉郎は、降参すれば命を奪うことはないと説いて開城させました。
越前と畿内を結ぶ要衝・敦賀の全域を易々と占領したのです。

信長は、すぐさま越前のさらに奥へと軍勢を進ませます。
その先鋒を務めたとされるのが、徳川家康!!
4月27日、家康らの先陣は、越前の南北を分ける木ノ目峠に達したと考えられています。
朝倉氏の本拠地・一乗谷まではおよそ50キロ・・・家康は峠を越え、一気に一乗谷へと流れ込もうとしていました。

しかし、その時、信長に驚くべき知らせがもたらされていました。
北近江を治める浅井長政が、朝倉川についたというのです。
長政は、信長の妹婿でもある同盟相手です。
もし裏切った浅井が近江から北上してくれば、信長は朝倉・浅井に挟み撃ちにされます。
一国の猶予も許されない絶体絶命の状況・・・
ここで信長は、”是非に及ばず”と言い捨てました。
後に本能寺の変でも口にする言葉です。
そして、撤退を決断!!
わずかの馬廻りだけを従え、都へ一目散に駆け出しました。
朝倉の追っ手をふさぐ殿は、木下藤吉郎らに託されました。
この時、越前の最も奥まで攻め込んでいた家康は、いかなる状況にあったのでしょうか?
家康の家臣が記した”三河物語”にはこうあります。

”信長は家康を捨て置き、何の連絡もなく宵の口に退却した
 家康はそれを知らず、夜が明けてから木下藤吉郎に知らされ、退却することになった”

危険な最前線に取り残されてしまった家康・・・
ここから決死の撤退戦をすることになります。

信長が退却したことを知らされた家康は、すぐさま兵を集め撤退を始めました。
目指すは、木下藤吉郎ら殿の軍勢が残る金ヶ崎城。
朝倉から奪ったばかりの城です。
この山城は、今は周囲を埋め立てられていますが、当時は三方を海に囲まれた天然の要害でした。
敦賀湾に突き出た金ヶ崎城は、朝倉の追撃を防ぐのに最適の城であったように思われます。
しかし、撤退する家康が、この城に入ったという記録はありません。

その理由の一端が、航空レーザー測量によって見えてきました。
赤色立体図には、細かな地形が視覚化されています。
そこには金ヶ崎城の意外な姿がありました。
それは、朝倉時代に整備された遺構が驚くほど少なかったことです。
南北朝時代に作られたものを、そのまま利用したのではないかと思われます。
南北朝時代の城の遺構は多く確認されましたが、戦国時代の最新の防衛設備は極めて少なかったのです。
山を削って平地を作ったように見える場所・・・それまでは曲輪かと思われていましたが、調査の結果は古墳でした。
朝倉時代のものではなく、新たに確認された古墳です。
城の遺構と思われていたのは、1000年以上前に築かれた前方後円墳でした。
朝倉は、こうした空間に手を付けず、城としての大規模な整備を行っていなかったのです。
実は当時、敦賀では金ヶ崎城のふもとにあった氣比社・・・現在の気比神宮が強い力を持っていました。
氣比社にとって、金ヶ崎城にある山並みは、神が降臨したとされる聖地でした。
朝倉は、こうした事情に配慮したとも考えられます。
金ヶ崎城は、天然の要害であるけれど、自分から反撃するということが籠城するとできない場所でありました。
徳川家康も、ここで残って何かをしようとは思わずに、脱出できる間に脱出して、追撃をかわしながら安全な場所に行く・・・と、考えたと思われます。
金ヶ崎城では、朝倉の追撃を食い止められない・・・
家康は、この城を横目にさらに西に向かいます。
木下藤吉郎ら殿の軍勢も金ヶ崎城を出て西に向かったと考えられます。
背後には、朝倉の追撃軍が迫っていました。
一体どこまで逃げれば助かるのか・・・??

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この時家康が目指したのは、越前と若狭の国境と考えられます。
そこには、国吉城という城があります。
国吉城とはどんな城だったのでしょうか??
登りにくく、ここに山城が無ければ登ろうとは思わない登りたくない山です。
山頂までは急峻な斜面が続き、敵の侵入を防ぎます。
さらに、本丸の手前には、高度な守りの設備も築かれていました。
”連郭曲輪群”があり、5つの階段状の曲輪が並んでいます。
それぞれの曲輪の間には、切岸が築かれています。
攻めよせる敵に、およそ10メートルのがけの上から鉄砲や弓矢で攻撃を浴びせるのです。
本丸までにはこうしたがけが5つ続いていました。
まさに、難攻不落!!
北側は、若狭湾が一望でき、大池もある・・・非常に、防御にも適した立地にある城山でした。
堅い守りを誇る国吉城・・・朝倉氏は、これまで何度もこの城を攻略しようとしていました。
しかし、その度に激しい反撃にあい、失敗。
朝倉義景は、この城について語っています。

”国吉城は、城の守りが固く、自由に攻め寄せられず
 攻めても有利にならない”

国吉城は、家康が逃げ込むのにうってつけの城でした。
織田軍全体の中でも、国吉城に帰れば、国吉城まで撤退すればというところがありました。
朝倉にしてみると、国吉城まで逃げられてしまうと、今まで攻めても落ちない城・・・
そこまで逃げられたら追いかけるのに諦める・・・!!

金ヶ崎城から国吉城まではおよそ10キロ・・・
金ヶ崎の退き口での家康の撤退戦は、この10キロを逃げ切れるかどうかだったのです。
しかし、その道のりは過酷なものでした。
朝倉の記録には、こう記されています。

”親は子を捨て、郎党は主人を知らず、我一番にとひ引き行く
 進むときは鉄壁をも砕く程の猛勢も、退く時は波の声も敵の寄ると恐れをなし
 後より味方の落来るを 敵の追うかと心得て 同士討ちする族もあり”

敵は朝倉の追撃だけではありませんでした。
朝倉や浅井の息がかかった一揆勢が、家康のいく手を遮っていたともいわれています。
そんな中、家康を守る三河武士は、決死の戦いを続けました。
徳川勢の最後尾にいた弓の名手、内藤正成は、6本の矢で6人を倒す、百発百中の腕前を発揮。
槍の半造と呼ばれた渡辺盛綱は、数十人を突き伏せ、一揆勢を退却させたと記録されています。
壮絶を極めた戦いの末、若狭へ入った徳川軍・・・
しかし、国吉城を目前にして、家康は難しい選択を迫られることになります。

若狭国の国吉城へ向け、およそ10キロの道を戦い続ける徳川軍・・・
ようやく国境を越えてまもなく、家康が目にしたのは味方のピンチでした。
殿として撤退していた木下藤吉郎の軍が、敵に囲まれていたのです。

木下藤吉郎の軍が、敵兵に四方から取り囲まれ、全滅寸前になっていた

そんな窮地に陥っている木下藤吉郎を目の当たりにした家康・・・どうする??

木下藤吉郎が、朝倉軍に囲まれたと伝えられる黒浜は、国吉城まで2キロ足らず・・・
家康は信長の家臣ではないのだから、かまわず城へ行くのが当然だと思われます。
しかし・・・見方を見捨てたとなれば、信長はどう思うのか??
浅井に裏切られた怒りにまかせて、どんな仕置きをされてもおかしくはない・・・!!
救援に行き、信長の覚えをよくしておくべきか??

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国吉城の手前で敵に囲まれた木下藤吉郎の軍勢・・・ 
それを見た家康は、こういったと伝わっています。

「ここで木下藤吉郎が討たれれば、再び信長殿に合わす顔がない」

家康は、木下藤吉郎を救援に行く選択をしました。
朝倉軍に突撃した家康は、水から鉄砲を放ち、木下藤吉郎を救出。
命拾いした木下藤吉郎は

「お陰を被りかたじけない次第」

と、家康に感謝を伝えたと言います。
こうして、危険な撤退戦を生き抜いた家康は、何とか国吉城に到達。
朝倉軍は、ここで追撃をあきらめたと考えられています。

数日後、家康は木下藤吉郎とともに都に帰還。
信長は、殿をやり遂げた木下藤吉郎をほめ、黄金数十枚を与えました。
しかし、家康に褒美があったという記録はありません。

金ヶ崎の退き口からわずか2か月後、家康は再び信長の求めに応じ出陣。
浅井・朝倉との姉川の戦いです。
ここで家康は、朝倉軍を一手に引き受け、さらに窮地に陥った織田軍を救い、勝利に導きます。
同盟締結から信長が死ぬまでのおよそ20年・・・
家康は信長を助けつづけるのです。

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JR岐阜駅北口駅前広場・・・ここで圧倒的な存在感を放っているのが、黄金に輝く織田信長像です。
岐阜市の市政120周年を記念して建てられたものす。

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乱世を生き抜き、天下統一に大手をかけた戦国のカリスマ・織田信長・・・
しかし、戦上手だったかというとそうではありません。

武田信玄・・・54勝6敗22分
上杉謙信・・・64勝8敗36分
織田信長・・・151勝42敗9分

戦歴を比べてみても、負け戦がダントツに多く、およそ5回に1回は負けています。
では、信長はいかにして勝ち残っていったのでしょうか??

常識破り成功術①「合理主義」
1570年、信長率いる織田軍は、朝倉義景討伐のために越前国へ侵攻・・・
しかし、同盟を結んでいた北近江の浅井長政に裏切られます。
前方から朝倉軍、後方から浅井軍に攻められるという窮地に立たされます。
そんな時、当時の武士たちは、一か八かの大勝負に出て、負ければ自刃するというのが一般的でした。
醜態をさらすぐらいなら、潔く死を選ぶべし!!
これが、武士道だったのです。
ところが、この時信長は、木下(豊臣)秀吉・明智光秀らを殿にして戦場に残し、自らは京都に逃げ帰ってしまいました。

「天下の統一は命あっての物種じゃ」

信長は、武士としての誇りなどあっさり捨て、天下統一という野望を実現する為に生き残ることを選んだのです。
信長は、当時の武将にしては珍しく、合理主義者でした。
なんの役にも立たない武士道の観念にとらわれることはなかったのです。
武士のプライドにとらわれず、いざとなれば恥も外聞も捨てて、生き残りを図ったのです。
これこそが、信長の強みでした。

1573年8月・・・朝倉・浅井連合軍と対峙していた信長は、朝倉義景が越前に退去したとの報を受けるや否や、家臣団の出撃準備が整う前に、僅かな兵のみで先陣を切って追撃を開始しています。
大将が真っ先に駆け出すなど、通常ではありえません。
命知らず??信長には、この時勝機が見えていました。
実際、信長は朝倉の本拠地・一乗谷城を占拠して、朝倉義景を自刃に追い込んでいます。
勝てると踏んだら迷わず突き進む!!
これも、他の武将にはない信長の強みでした。

そして信長は戦以外の道でも天下取りに進んでいきます。
それは、経済力です。

常識破りの成功術②「マネーパワー」

1568年9月、信長は室町幕府の再興を図る足利義昭を擁して上洛します。
義昭の兄で13代将軍足利義輝を殺害した勢力を京都から追放します。
こうして、第15代将軍となった足利義昭は、信長に深く感謝し、褒美を取らせることに・・・

「此度の礼として管領に任ぜよう」by義昭

管領とは、将軍を補佐して幕政を統括する役職です。
まだ、尾張と美濃を擁するだけの信長にとってはこの上えない大出世です。
「身に余ること・・・」と、辞退しました。
信長が喜ぶと思っていた義昭は、困惑し、

「ならば、副将軍ではどうじゃ?」by義昭

それでも信長は、首を縦に振りません。

「では、一体何が良いのじゃ!?」by義昭

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にするということでした。
では、どうして副将軍の座より、3つの直轄地を選んだのでしょうか?
信長は、3つの街を手に入れることが、天下統一への一番の近道だと考えていました。
大阪湾に面した堺は、日本最大級の貿易港で、物流の拠点でした。
日明貿易、南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに栄えていました。
それは、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが
「日本の殆どの富が、ここに集まっている」と、評したほど。
一方、琵琶湖に面する大津と草津は、琵琶湖水運の港町でした。
当時、京都と日本海側を行き来する際には、琵琶湖水運を利用して船を使うのが一般的でした。
その為、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が将軍に所望した町は、物流の拠点となる港町だったのです。
そして、当時の港では、船の積み荷に関税を課すのが慣例となっていて・・・
例えば、越後国の上杉謙信は、柏崎港と直江津港からの関税収入で、年間およそ4万貫・・・約60億円を得ていたといわれています。
堺や大津はそれらよりはるかに大きな港・・・信長はそこから得る莫大な関税収入に目をつけたのです。
信長は武力ではなくて、他の武将たちを圧倒する経済力によって、天下統一を成し遂げようと考えていました。

経済力を強化する為に、信長は様々な財政政策を行っています。
楽市楽座・・・商売の自由化もその一つです。
信長は、それまで商人たちが公家や寺社に納めていた店の場所代と売上税を廃止、どこでも、だれでも、自由に商売ができるようにしました。
商人たちは大いに喜び、経済が発展、城下町がにぎわいます。
信長は、もう買った商人たちからそれまでよりも安い売上税だけを徴収しました。
WIN-WINの関係を築き上げたのです。
商人たちを味方につけたのです。

「物資の流通を担う商人と手を組めば、得るものは大きい」

当時、それに気付いている武士はいませんでした。
そして信長は、手に入れた強大な経済力をもとに、戦国の世に嵐を巻き起こしていきます。



常識破りの成功術③交通インフラの整備
勢力拡大を目指し、戦に明け暮れていた戦国時代・・・
その為、戦国大名たちは領国への侵入防止のために、周辺の道をあえて悪路とし、川に橋をかけることもほとんどありませんでした。
しかし、その中で信長は、1574年にこんな命令を下しています。

”入り江や川には橋をかけ、石を取り除いて悪路をならせ
 
 本街道の道幅は3間2尺とし、街路樹として松と柳を植えよ

 街道周辺の民は、道の清掃と街路樹の手入れをせよ”

当時の道幅は1間ほどでした。
3倍以上の幅広で、平らにならし、街路樹を植え、川には船を並べた橋まで架けました。
信長が整備した道は、見通しもよく真っすぐで、山賊に襲われる心配が少なく、安心して通行することが出来ました。
また信長は、バイパスも作っています。
岐阜から京都に向かう途中、磨針峠という難所がありました。
その為、米原経由で行かなければなりませんでした。
信長は、およそ3万人を動員して磨針峠を開削、バイパスを通しておよそ12キロもショートカットしたのです。
どうして信長は、交通インフラを整備したのでしょうか?
商品流通を活性化し、商人たちをさらにもうけさせ、税収upをしようとしたのです。
経済政策を推し進める信長ならではの戦略でした。

しかし、広くて真っ直ぐな道では、敵に攻め込まれやすい・・・
信長は、デメリットを承知の上でした。
経済力があれば、兵や武器を十分に備えられると考えたのです。
攻め込まれても、負けることはない!!

そして、その圧倒的な経済力によって、信長が充実させた武器が、舶来の最新兵器・鉄砲でした。

常識破りの成功術④「鉄砲の大量導入」

1543年、種子島に漂着したポルトガル人によってもたらされたといわれる鉄砲・・・
弓よりも飛距離があって、殺傷力も高いため、鉄砲の登場が戦国時代の合戦スタイルを一変することになりました。
しかし、伝来後、すぐに普及したわけではありませんでした。
原因の一つは値段の高さです。
鉄砲1挺=1丁30金(約50万円)でした。
非常に高価だったので、おいそれと買いそろえることが出来なかったのです。
さらに、致命的だったのが、連射が出来ないことでした。
引き金を引けば次々と出る近代の銃とは違い、火縄銃は、一発撃つごとに準備が必要で、結構時間がかかりました。
これでは、弾込めの間に攻め込まれてしまう!!
命中精度もそれほど高くなかったため、多くの武将たちは鉄砲の導入に消極的で、使ってもせいぜい威嚇用だったのです。
しかし、信長は・・・連射が出来ないという欠点を克服し、織田軍の主力武器にしたのです。
日本の合戦史上初の大規模な銃撃戦・・・1575年長篠・設楽原の戦い・・・
武田勝頼率いる戦国最強の武田騎馬軍団と対峙することとなった信長は、現在の15億円相当という大金を投じて3000挺ともいわれる鉄砲を購入それを足軽たちに持たせて三列に並ばせ、最前列が撃つ間に後方に準備をさせ、狙撃手を後退しながら撃たせた・・・とか、
3人一組となって、射撃と弾込めを分担し鉄砲を交換しながら撃つ・・・とか、新たな戦法を生み出すことで、連射が出来ない弱点を克服しました。
また、騎馬軍団の侵入を防ぐ馬防柵も鉄砲の弱点を補うのに利用しました。
当時の鉄砲は、非常に重く、銃口も長い・・・狙いを定めにくかったのです。
そこで信長は、馬防柵の横木に銃口を乗せて撃たせました。
これによって命中率が上がったと言われています。
信長は創意工夫によって鉄砲を主力武器に変え、長年の宿敵だった武田軍を撃破!!
天下統一の実現に、大きく近づくとともに、戦国の世に新たな戦い方をもたらしたのです。

また、槍の使い方にも革命をもたらしています。
戦国時代に使われていた槍の長さは、2間~2間半(3.6m~4.5m)・・・しかし、信長が兵たちに持たせた槍は、3間半・・・6.3mもありました。
槍は、刀よりも遠くから攻撃できるのが特徴です。
しかし、さすがに長くて使いづらいのでは・・・??
長槍を持った兵たちを横一列に並べ、そのまま槍を前方に90度に傾けて、敵の最前線に一斉に攻撃させたのです。
”槍ぶすま”・・・これなら、槍が長い方が断然有利です。
敵も驚いたことでしょう。

力こそが正義だった戦国時代・・・
武士の評価を決めたのは、何と言っても戦場での槍働きでした。
有能に戦ったものや、敵の首を取ったものが高く評価され出世していきます。
その為、槍働きが苦手なものは、出世が出来ず役立たずと見なされました。
しかし、織田信長は、この常識をも覆します。

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常識破りの成功術⑤「人事革命」

信長が行った人事革命の最たる例が、木下藤吉郎の大出世です。
後の豊臣秀吉です。
農民の出と言われ、身長154cmほどと体格にも恵まれなかった秀吉は、槍働きはさほど得意ではなかったといいます。
しかし、信長のもとでめきめきと頭角を現し大出世・・・
信長は。秀吉の何を評価したのでしょうか??
それは、人たらしの才能でした。
秀吉は、相手を説得したり、誘惑したりすることが抜群に上手だったのです。

その最たる例が、美濃攻略での暗躍です。
1564年、美濃国の攻略を目論んでいた信長は、戦国大名・斎藤龍興に与する武将たちを寝返らせるため、秀吉に懐柔作戦を命じます。
すると秀吉は、尾張と美濃の国境に立つ松倉城の城主を言葉巧みに寝返らせ、信長の侵攻に抵抗していた鵜沼城の城主も説得し、戦わずして降伏させました。
これによって斎藤氏の居城・稲葉山城は孤立無援となってしまい・・・そこを信長に攻め込まれ、1567年陥落・・・。
秀吉の人たらしの才能によって、信長は最小限の戦力で美濃を手中に収めることが出来たのです。
家臣の才能を見抜き、それを最大限に活用する・・・これもまた、信長成功の秘密でした。
常識にとらわれない信長のもとでなければ、秀吉の奇跡の大出世もなかったことでしょう。

そんな信長に、武力以外の能力を買われた武将といえば、明智光秀もその一人です。
信長に仕えたのは、40歳を越えてからと遅かった光秀ですが、足利将軍家に仕える幕臣だったこと、教養豊かで諸芸に通じる文化人だったことが信長の目に留まり、家臣となってわずか1年で京都奉行に抜擢されます。
朝廷との交渉役や、幕府の監視役を見込まれての大抜擢だったと思われます。
信長は、家臣のキャリアにもこだわらず、新参者でも役に立つとみなせば、引き立てたのです。
さらに、信長には・・・宣教師に連れられて来日したアフリカ出身の弥助という家臣もいました。
初めて弥助に出会った時、信長は弥助が肌に墨を塗っているのだと思い、服を脱がせ、肌をこすってみたといいます。
しかし、本物だとわかると弥助を気に入り、家臣として召し抱えました。
弥助を傍においておけば、いつでも異国の話が聞ける・・・
また、身の丈6尺・・・180cm以上と、身体も大きかったので、護衛役には最適だと考えていたのです。
実際、弥助はかなり信長から重用され、信長公記にはこうあります。

”弥助は城下町に従者付きの住居を与えられ、身分に相応しい衣服と武具を与えられた”

さらに、信長が天下を統一した暁には、弥助は大名に取り立てられるだろうという噂まで流れていたといいます。

宣教師たちと交流し、異国の知識を取り入れるなど、常に新しいことに目を向けていた織田信長・・・
趣味も多く、中でも一番のめり込んだのが、当時の最先端の文化・・・茶の湯でした。
信長が茶の湯に傾倒するようになったのは、足利義昭を擁して上洛を果たした1568年頃。。。
大和国の戦国大名・松永久秀、堺の豪商・今井宗久から名物茶器を献上され、その魅力にとりつかれたといいます。
欲しい茶器があれば、誰彼構わず買い上げる名物狩りも行っています。
名物狩りの噂が広まると、信長の気を引くために進んで献上する者も現れ、茶器の数はどんどん増加・・・
信長は、度々茶会を開いて集めた茶器を、家臣や商人たちに披露していました。
そして、この茶の湯で、戦国の常識を打ち破ります。

常識破りの成功術⑥「恩賞革命」

当時、主君が家臣に与える恩賞は、土地というのが基本でした。
しかし、信長は土地の代わりに自慢の茶器や茶会を開く権利を与えました。
どうして茶の湯を恩賞に利用したのでしょうか?
土地を与えれば、家臣の力が増すことになります。
しかし、恩賞が茶器ならば、家臣の勢力が拡大することはなく、謀反が起こらないのです。
家臣たちは、茶器で満足したのでしょうか?
土地には限りがあり、天下統一を果たさなければ手が入らない・・・恩賞が不足すれば、家臣たちの統制が乱れる・・・
それを見越して、信長は土地に代わる恩賞として茶の湯を利用したのです。
茶の湯の価値を高めるために、茶会を開催できるのは信長が認めた家臣だけという制限をかけました。
茶会の開催は、信長に認められた証、最高の栄誉だったのです。
実際に家臣たちは喜び、秀吉は、初めて茶会の開催を許されたとき、ようやく信長に認められたと大いに喜んだと言われています。
滝川一益は、武田家を滅ぼした功績で、関東地方の広大な土地を与えられましたが、
「土地ではなく茶器が欲しかった」と嘆いたこともあるとか・・・。

経済力を重視し、鉄砲を大量に導入、能力本位の人材登用に新たな恩賞の創生・・・
と、様々な常識を打ち破り勝ち残ってきた織田信長・・・
疎の居城もまた、乱世の常識を大きく打ち破るものでした。

常識破りの成功術⑦「居城戦略」

信長が、生涯で移り住んだ居城は・・・
那古野城、清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と5つ・・・これは、当時においては異例のことでした。
一生懸命・・・もともとは、一所懸命でした。
一所・・・旧制の武士たちが、主君から与えられた土地を守るために、懸命に戦っていたのです。
武士にとっては、自分の土地は、何物にも代えがたい一番大事な財産でした。
その為、自ら慣れ親しんだ土地を離れる武士はいません。
あの武田信玄や上杉謙信も生涯、居城は一度も移していません。
そんな中、信長は4度も居城を移しているのです。

1555年、22歳の時、父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心にあったからです。
8年後の1563年、清洲城から小牧山城に・・・理由は、次の攻略目標である、美濃に近いためです。
そして美濃を攻略すると、斎藤氏の居城だった稲葉山城に移り名を岐阜城に変えたのです。
信長は、勢力の拡大に伴って居城を移しています。
本拠地である居城を固定するよりも、目的に合わせて移動した方が効率がいいと考えていました。
そしてそれは、最後の城となる安土城も同じです。

1576年1月、琵琶湖の東岸にある標高200mほどの安土山で築城が始まりました。
信長が安土山を選んだ理由・・・それは、本拠地である岐阜と京都のちょうど中間に位置し、中京の経済圏と畿内の経済圏を共に視野に入れることが出来たからです。
船に乗れば半日足らずで京都に行けたこと、中山道と八風街道が近くを通る商品流通の要所だったことが挙げられます。
安土城の建築と並行して、信長は城下町を反映させるための政策を打ち出しました。

・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は、必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からの転入者も在住者と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

城下町を発展することで、税収を増やし、天下取りの基盤となる経済力をさらに強化するのが目的でした。

そして着工からおよそ5年・・・1581年、安土城完成!!
地上6階、地下1階という壮大、かつ絢爛豪華な天守を誇る高さは30mをゆうに超えていたといいます。
派手好きな信長らしく、全面に緊迫が施され、屋根には金のしゃちほこが・・・
5階は鮮やかな朱色が目を引きます。
贅を尽くしたしつらえ・・・鮮やかな襖絵を手掛けたのは、日本美術史上最高の絵師の一人と称される狩野永徳とその弟子たちでした。
当時の技術の粋を集めた安土城は、空前絶後のスケールを誇る天下無双の城でした。
見るものすべてを圧倒し、言葉を失わせました。
安土城そのものが革命だったのです。
どうして、空前絶後のスケールで安土城を築いたのでしょうか?

安土城が完成した年の7月・・・
信長は盂蘭盆会と言われる仏教行事の際に、安土城を幻想的にライトアップしました。
誰も真似することのできない圧倒的な景色を見せつけることで、自らの偉大さを知らしめたのです。
信長は、安土を京都や堺と並ぶ大都市に完成させる・・・天下統一を成し遂げた暁には、安土に遷都しようと考えていたのかもしれません。
そして、天皇を越える存在となって、斬新な発想で理想の国家を建設するつもりだったのかもしれません。
安土城は、信長が天下人となった際の、権威の象徴とするため空前絶後のスケールで築かれたのです。

しかし・・・その夢が実現することはありませんでした。
1582年6月2日・・・本能寺の変・・・
信長は無念の死を遂げ、安土城もその13日後、原因不明の火災によって完成後わずか1年ほどで姿を消したのです。

「臆病者の目には敵は常に大軍に見える」

怯えていては、何も始まらない・・・天下を恐れず挑戦してこそ、新たな道は開かれる・・・それを実践し、天下統一に多くをかけた織田信長はまさに戦国の革命児、カリスマでした。
時には常識を破ってみる・・・簡単ではありませんが、やってみる価値はありそうです。


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羨望術数渦巻く戦国時代、大きな野望を抱き、下剋上という荒波を乗り越え、遂には天下統一を成し遂げた男・豊臣秀吉。
そんな秀吉には二人の軍師がいました。
一人は、若き日の秀吉を支えた竹中半兵衛。
織田信長が認め、家臣にしたがったほどの逸材!!
もう一人は、その半兵衛の後を継ぎ、秀吉を天下人へと導いた黒田官兵衛です。
天下無双の戦術と巧みな交渉術で次々と敵を落としていきます。
清算帽として名を馳せた半兵衛と官兵衛。
二人の天才軍師・・・最強なのはどちらでしょうか?

美濃国・斎藤家に仕えた竹中半兵衛は、1544年に生まれ、細身で色白女性のような面立ちでした。
性格も温和で女性のようでした。
しかし、軍師・半兵衛は、「敵を制すること神の如し」と、軍師・諸葛孔明に例えられ、”今孔明”と呼ばれていました。
黒田官兵衛は・・・半兵衛よりも年下の1546年生まれ、姫路出身です。
軍師としては、戦国一の切れ者と言われました。

①戦術
竹中半兵衛は、豊臣秀吉に仕える前は、美濃国・斎藤龍興の家臣でした。
龍興に対し、クーデターを起こします。
難攻不落の稲葉山城をわずか17人で、1日で落としてしまいました。
1564年稲葉山城占拠事件です。
半兵衛はどうやって難攻不落の城を落としたのでしょうか?
まず、稲葉山城に詰めていた弟・久作に仮病をさせ、その見舞いの為と見せかけて城に向かいます。
酒と御馳走と偽って、長持ちの中にびっしりと武具を詰め込んで!!
一行は、武具を身に着けるや否や、一気に奇襲!!
龍興の側近ら6人を殺害します。
半兵衛の奇襲に龍興は動揺し、家臣らと共に城から飛び出していきました。
どうして半兵衛はクーデターを起こしたのでしょうか?
斎藤龍興は、政務に関心を示さなかった上に、遊興に溺れていました。
この悪政を見かねてのクーデターだったのです。
電光石火のクーデター・・・半兵衛21歳でした。
これに織田信長が驚きます。
自分が長年攻めあぐねていた稲葉山城をわずか17人で・・・しかも1日で落としてしまった・・・。

「稲葉山城を明け渡すならば、美濃国を半分与えよう」by信長

しかし、半兵衛はこれを拒絶し、半年後、反省した主君・龍興に城を返すのです。

この一件で、半兵衛に惚れこんだ信長は、木下藤吉郎をつかって落とそうとします。
渋る半兵衛のもとに足しげく通う藤吉郎。
どうやって口説き落としたのでしょうか?
と、これは、三国志演義を元にしたお話。。。
信長が美濃・斎藤家を滅ぼした後、斎藤家の家臣を自らの家臣団に迎えています。
この中に一緒に家臣となって、秀吉の与力となっています。
与力とは・・・身分は信長の家臣で、軍事行動の際には、秀吉の一員として戦ったのです。

信長が、天下統一を目指す中、同盟を結んでいた北近江の戦国大名・浅井久政、長政親子が反旗を翻します。
起こった信長は、小谷城を攻撃!!
半兵衛は、秀吉と共に小谷城近くの横山城へ!!
浅井は横山城攻略のために・・・
あたかも別の場所に向かうふりをして横山城を通過、これにつられて出てきたところを迎え討とうというのです。
秀吉は、この策にまんまと引っかかり出撃命令を出してしまいますが・・・
半兵衛はこれを見ぬいていました。
出撃を思いとどまらせ、近くの山中に速やかに兵を配置!!
なかなか兵を出さない秀吉軍に業を煮やした浅井軍は、横山城に接近!!
半兵衛はこれを不意打ちして撃退したのです。
半兵衛のするどい洞察力と起点に救われた秀吉でした。

浅井攻めも大詰め・・・小谷城に・・・!!

「城内にいる御位置を救出せよ!!」by信長

信長の妹であり、浅井長政の正室・お市とその子供たちを救出せよという難題でした。
小谷城は、急峻な山城で、攻め落とすだけでも困難・・・その上、救出とは!!
仮に攻め落とすことができたとしても、お市も自害してしまうかもしれない!!
半兵衛は、情報収集に走ります。
反信長は、父・浅井久政で、長政は仕方がなかったという。
長政とお市は織田に城本丸に、父・久政は小丸に・・・と、離れていました。

そこで半兵衛は、本丸と小丸の間にある京極丸を占拠!!
父・久政を攻撃し、長政のもとへ使いをだしお市を説得!!
追い込まれた浅井親子は自害するものの・・・お市と三人の娘は助け出されました。
情勢を把握し、知略を尽くした半兵衛の見事な戦略でした。


黒田官兵衛は、播磨の小寺政職の家臣でした。
1575年、着々と勢力を伸ばしている織田に付くか、西の大勢力毛利輝元に着くべきか??判断に迫られていました。
割れる意見・・・
小寺家の重臣は、今までのことを考えて毛利に付こうという考えの者が多かった中、官兵衛は・・・
「輝元は凡庸な男、一方信長は向かうところ敵なしで、武名を天下にとどろかせている!!」と、重臣たちを説き伏せました。
播磨が信長に味方することを使者として伝えに行く官兵衛。
秀吉に信長へのとりなしを頼みます。
これが二人の初対面でした。
そして、二人は、毛利の中国地方に攻め入ることになります。

城攻めを得意とした官兵衛。
❶1577年福原城攻め・・・囲師必闕
この時福原城には、毛利方1000の兵が!!
これを知った半兵衛は、三方に兵を置き、一方を空けておきました。
どうして一辺を空けておいたのでしょうか?
「孫氏」の戦術・囲師必闕で、四方を囲むと置き込まれた敵が、予期せぬ力を発揮することがある・・・
死に物狂いでかかってくることを生じさせないために、逃げ道を作っておいたのです。
その逃げ道に密かに兵を置いた官兵衛は、城から逃げてくる敵を一網打尽にしました。
リスクを避けて効率よく相手にダメージを負わせる・・・。
合理的な戦術です。

❷1581年鳥取城攻め・・・渇え殺し
毛利に組した山名豊国の重臣と、毛利からの援軍・吉川経家合わせて2000の兵が鳥取城に籠城!!
経家は兵糧の確保に走りますが、一向に手に入らず苦境に・・・
事前に官兵衛は手を打っていました。
1年前の秋口に、官兵衛が派遣した商人が通常の倍の値段でコメを買い占めていたのです。
農民たちは、鳥取城に治めるはずの備蓄米まで売り払ってしまい・・・城下の米の殆どを手にした官兵衛。。。
そして・・・①城下の村々を焼き払い
      ②領民を鳥取城に逃げ込ませます。
      ③2000人ほどだった城内は倍に!!食料は瞬く間になくなり、多くの人が餓死していきました。
非情な渇え殺し!!
たまらず吉川経家は、鳥取城を明け渡したのでした。

❸1582年備中高松城攻め・・・水攻め
この時、秀吉軍は攻めあぐねていました。
高松城は、湿地帯の中にあり、容易に近づけなかったからです。
大軍では近づけない・・・。
官兵衛が選んだのは水攻めでした。
湿地帯の南側に3キロ(高さ8m・奥行24m)に及ぶ堤防を築きます。
土嚢一つを100文(5000円)で買い取ると農民たちに呼びかけて・・・
数百万個の土嚢が集まって、2週間ほどで完成!!
次に官兵衛は、西にある足守川を堰き止めます。その方法は・・・大量に石を積んだ船を空きなく並べ、一気に船底に穴をあけて沈めました。
梅雨の時期だったこともあって、湿地帯の水位は瞬く間に上昇!!
城主・清水宗治は観念して自害!!
毛利と秀吉との間で講和が結ばれることに・・・!!
官兵衛の場合、極力味方にダメージを与えないような合理的な戦術です。


②交渉術

戦は、必ずしも力のある者が勝つとは限りません。
天候、運、不運・・・も関係している??
戦国時代前期までは、占い、呪術を使う軍師が活躍していました。
戦いによい日時を占ったり、勝利を願う儀式を執り行いました。
しかし、後期になると、兵法に長け、策略や外交交渉もこなせる策士タイプが求められるように!!
豊臣秀吉を支えた竹中半兵衛と黒田官兵衛もこのタイプでした。

半兵衛がその力を発揮したのは、浅井の小谷城攻め!!
信長と秀吉は半兵衛を使って浅井家家臣の寝返り工作を進めさせます。
半兵衛の場合、浅井家にも仕えていたのでは??と言われています。
浅井の家臣・堀秀村、宮部継潤など浅井の家臣を寝返らせています。
戦わずして勝つことを理想とした半兵衛は、事前に敵との交渉し、できるだけ戦を避ける戦術をとったと言われています。
外交交渉だけでなく・・・半兵衛のことを快く思わない秀吉の家臣たちとも交渉を・・・
相手を褒めちぎり、褒めた後にアドバイス!!
秀吉の名前を上手く使いました。


官兵衛の交渉術は・・・
1590年小田原城攻めでは・・・
長期に渡り籠城していた北条氏政、氏直親子を、説得し無血開城していますが・・・。
その交渉術は大胆なものでした。
秀吉軍は小田原城を完全に包囲したものの、なかなか落とせずにいました。
そこで、交渉役として官兵衛を遣わします。
城の中の北条方に、酒・二樽、魚・十尾を差し入れます。
北条家はプライドも高いので、礼を尽くし懐柔しようとしました。
その返礼として鉛玉と火薬が出されました。
この意味は・・・北条の降参ととり、交渉に臨んでいます。
礼装に身を包むと、台頭せずに丸腰で、単身で小田原城に乗り込む官兵衛。
礼を尽くし、説得に当たった官兵衛に対し、北条親子は城を明け渡すことを承諾します。
この官兵衛の働きによって天下人となった秀吉です。


③人間力
二人が秀吉の下で一緒に働いたのは4年間ほどでした。
その頃の二人のエピソードから人間力を推察すると・・・??

官兵衛が秀吉について間もない頃、毛利方の大名を次々と織田方に寝返らせたことで、秀吉から感謝状を受け取り有頂天に!!
得意げに半兵衛に見せると・・・その書状を破り捨てた半兵衛は・・・
「こんなものを残しておいても、そなたの物にはならぬ!!」過去の栄光に縋りつくことを戒めた半兵衛は、手柄をひけらかすことを良しとしない愚直な男でした。

1578年織田信長に仕えていた荒木村重が裏切って毛利についたとき・・・
官兵衛は信長から村重を説得してくるように命じられ、意気揚々と有岡城に入りますが・・・
そこで囚われの身となってしまいます。
いつまでたっても戻ってこない官兵衛に、「村重に続き、官兵衛も裏切ったか!!」と思い込んだ信長は、人質に取っていた息子・松寿丸を殺すように秀吉に命じます。
これに断固反対したのが半兵衛でした。

「人質を殺せば、官兵衛は深く恨み、敵となるでしょう。
 そうなれば、大きな損失となります。」by半兵衛

しかし、この信長の直談判は聞き入れられません。
そこで半兵衛は松寿丸を、美濃国にあった自分の屋敷に匿ったのです。
バレれば自分の命も危ういというのに・・・。
しかし、半兵衛は、官兵衛を信じていました。
出会って数年のふたり・・・半兵衛は、軍師としての官兵衛を高く評価しており、自分が死んだ後、秀吉を支えるのは官兵衛だと思っていました。

1年後、救出された官兵衛は、家臣から半兵衛が息子を匿ってくれていたことを聞くと、半兵衛の懐の大きさに改めて感服し、自分を信じてくれたことに深く感謝しました。


④危機管理能力

乱世の世、危険だらけ??
半兵衛は、高価な馬には乗りませんでした。
それは、いつでも捨てて逃げられるように!!

官兵衛は、??
1582年毛利方の備中高松城を落とした秀吉は、毛利との講和条約を結ぼうとしていました。
が・・・衝撃の知らせが!!
本能寺で信長が光秀に討たれたのです。
焦る官兵衛!!
そもそも、毛利が交渉に応じるのは、急速に勢力を拡大している信長に脅威を感じていたから・・・。
しかも、秀吉軍は、信長軍に加勢すべく集まっていた播磨・備中の諸大名の混成部隊!!
信長が死んだと聞けば、秀吉軍は瓦解する可能性があり、毛利から反撃を受けた場合どうなるか・・・大ピンチでした。
おまけに秀吉は、主君・信長の死で冷静な判断ができない状況でした。
官兵衛はどうしたのか??
秀吉の耳元で・・・
「今こそ、貴殿が天下人となる好機ですぞ!!」by官兵衛

この言葉で我に返った秀吉は、官兵衛にすぐさま毛利との講和条約を結ばせ、明智光秀を討つべく、岡山から猛スピードで200キロを進軍!!
光秀がいた京都・山崎に僅か1週間で到着します。
中国大返しです。
この中国大返しを成し得た裏で、官兵衛が動いていました。

「本能寺で無念の死を迎えた信長公の仇を、秀吉さまが討てば、秀吉さまが天下人となる。
 此度手柄を立てた足軽は侍大将に、侍大将は大名になれるであろう。」by官兵衛

出世欲を刺激された兵たちは走りに走ります。
こうして、空前絶後の大移動が完成したのです。
本能寺の変の時点で、信長の部下がどこにいるのか?それを官兵衛は把握していました。
なので、一早く、秀吉に光秀を撃たせるために!!
信長の死を、秀吉のチャンスに変えたのです。
これがなければ、秀吉は天下をとれなかったかもしれません。


⑤秀吉からの信頼度
軍師・竹中半兵衛最後の戦いは、1578年播磨三木城主・別所長治の三木城攻めでした。
兵糧攻めに出るも、粘る別所軍に思わぬ持久戦に・・・。
長く陣を張り、待つ中で、半兵衛は病に倒れてしまいました。
京都に戻って養生するも、一向に回復せず・・・。
死を悟った半兵衛は・・・
「どうせ死ぬのであれば、戦場で死にたい・・・」
望み通り、戦場に戻ると36歳の若さで亡くなりました。
秀吉はその亡骸に縋りついて泣き崩れたといいます。
病弱だった半兵衛は、私利私欲のない男でした。
いかに敵を攻略するかだけを求めた、生粋の軍師でした。
なので、野心のない半兵衛は、秀吉にとって信頼できる数少ない家臣でした。


中国大返しの後、官兵衛は四国征伐、九州征伐で武功をあげ、秀吉の天下統一に大きく貢献していきます。
しかし、秀吉から与えられたのは・・・豊前12万石の小国でした。
どうして官兵衛の印象は少なかったのでしょうか?

酒の席で・・・
「わしが死んだなら、誰が天下をとると思うか?」by秀吉
家臣らは、徳川家康や前田利家など、有名武将の名をあげたといいます。
すると秀吉は・・・
「官兵衛こそが、天下を取るであろう!!」と言ったと言います。

数々の戦で絶妙の判断・・・多くの信頼を寄せていたものの、あまりの切れ者ぶりにいつしか恐れを抱くようになったのではないか??
天下人の座を官兵衛に奪われるのではないか??
これを伝え聞いた官兵衛は・・・
「某は、恐ろしい者と目されているようだ。」
自分がいると秀吉にお家を潰されてしまうかもしれない・・・と、44歳で隠居。
切れ者過ぎたことで、秀吉に疑念を抱かせてしまった官兵衛でした。

秀吉の軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛・・・どちらが最強でしょうか?
どちらか一人ではなく、二人いたからこそ、秀吉は天下をとれたのです。
 


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