今から100年ほど前に起きた日本最悪の獣害・・・三毛別ヒグマ事件!!
巨大なヒグマが北海道の山里を何度も襲う・・・わずか2日で8人を殺害!!
ヒグマが凶暴に・・・!!
人間を襲撃した原因は・・・??
”禁断の4条件”とは・・・??
ヒグマが大きな人里へ・・・伝説のマタギが迎え撃つ!!

エゾヒグマ・・・大きな牙と鋭い爪を持ち、体長2m以上、体重300kg!!
北海道にしかいない国内最大の陸上生物です。
鮭、鹿などの獣を襲って食べるイメージですが、実際は雑食性で食事の8割は植物や昆虫です。
アリやハチなども好物で、獣の肉はあまり食べません。
警戒心が強く、人間の気配を察すると接触を避けるために、自分から離れる臆病な一面も・・・。
では、100年前の事件で、臆病なヒグマがどうして人を襲ったのでしょうか?
しかも、2日連続で8人!!
この異常な行動は、どうして生まれたのでしょうか?

1915年11月中旬・・・北海道。
霙の降る早朝・・・山の集落で・・・最初の異変が起こりました。
家の主・池田富蔵は、異様な気配を感じ目を覚ましました。
しばらくたち外に出てみると・・・30㎝はあろうかというヒグマの足跡が・・・!!

「どうしてこんなところまで・・・??」

これまで近くで見かけることはあっても、家の前まで近づくのは初めてのことでした。
しかも、足跡の傍には・・・軒先に干してあったトウモロコシが食い荒らされていました。
これが始まりでした。
トウモロコシは乾燥させると半年以上持ち、当時の集落では家の外壁一面に干し、外気で低温保存していました。
ヒグマにとって自然の中のエサは、季節や年次変動で不足しがちです。
ヒグマはエサを求めて徘徊し、人里近くにトウモロコシが・・・!!
美味しくて珮カロリー、クマにとっては絶好の食べ物でした。
それに手を出したのが最初でした。

異常なヒグマになる条件①人里に近づく
食べ物目当てなので、品減への警戒心が薄らぐのです。

北海道北西部苫前郡苫前町・・・
大正時代の人口およそ8000人・・・漁業で栄えた港町から川に沿って20キロほどさかのぼる・・・
山に囲まれた平野部の集落が三毛別地区・・・そして事件のあったのがさらに川上。
山が迫る谷、川沿いの狭い地域・・・当時六線沢と呼ばれ15戸、40人余りが暮らしていました。

人々はどんな環境で暮らしていたのでしょうか?
集落を流れるルペシュペナイ川・・・多くの家は、この沢沿いに建てられていました。
険しい土地に住み、農地を切り開こうとしていたのは開拓民たちでした。
その多くは、東北、北陸、四国の出身者で、30~40代の若い世代が多くありました。
少しでもいい生活をという夢を抱いてやって来ていました。
簡単な木組みに、藁や板を張り付けただけの粗末な家・・・
原生林で木を切り倒し、根っこを掘り、農地へと変える・・・農業が軌道に乗るまでは貧しい暮らしが続きます。
六線沢は、斜面が多く土地も狭い・・・
どうしてわざわざ農地に不向きな地域を開拓しなければならなかったのでしょうか?
まず移住者は、開拓しやすい場所に入ります。
後からくる人たちは条件が悪くなります。
山に近い傾斜地とか、水に恵まれない場所しか残っていないのです。

北海道に入植がはじまったのが明治2年・・・政府が北海道に開拓使を設置。
まず人々が集まったのは札幌や海岸沿いの平野でした。
明治中期になると、帯広や旭川などの高原や高地にも入っていきます。
そして明治の終わりから大正にかけて、深い山奥が割り当てられるようになります。
明治末期、六線沢に本格的な入植開始。
そこはヒグマの生息圏でもありました。

入植から数年後の大正4年11月下旬・・・
六線沢では雪がつもりはじめ、厳しい冬が始まりました。
ヒグマが接近した池田家では数日後、再び足跡が・・・。
池田は家の外のトウモロコシを回収せずに干し続けました。

異常なヒグマになる条件②人間に近づくといいことがあると学習する
人間の近くでエサを食べることに成功すると、警戒心が薄れ、積極的に人里に来るようになる

二度目の被害から数日後・・・大正4年11月30日午後8時・・・
夜の闇の中、ヒグマはまた池田家に現れました。
この時、すでに六線沢で鉄砲を持つ金子富蔵が池田に頼まれ待ち伏せていました。
撃ったものの・・・・・外れた!!
ヒグマは一目散に雪山に・・・!!
鉄砲を持っているとはいえ、農業や林業で暮らす身・・・西武が不十分でした。
が・・・その後、ヒグマが池田家に現れることはありませんでした。

しかし、予想外の恐ろしい行動に・・・!!

池田家からヒグマが追われて10日目・・・12月9日。
この朝、六線沢の男たちは村の入り口に集まっていました。
隣村との境、三毛別川に橋をかける共同作業をするために集まっていたのです。
六線沢では女性と子供が残されていました。
以前、クマが現れた池田家から3キロ奥・・・太田三郎家で・・・。
六線沢では珍しい板壁の家でした。
太田三郎がコツコツと材料を買いそろえて、頑丈な作りにしていました。
三郎も家を空けたその日、家にいたのは妻・マユ、隣村から預かっていた少年・幹雄・・・子供のいないこの夫婦は、正式に幹雄を養子にもらうつもりでいました。
午前10時30分・・・そこへ・・・。
壁の向こうに何かが・・・!!
1時間ほど後、正午・・・壊された板壁の中では・・・!!
幹雄の死体が・・・マユは・・・??
ヒグマにさらわれていました。
トウモロコシ目当てで人家に来るようになったヒグマ・・・どうして家の中にいる人まで襲う・・・!?
原因は”悲鳴”??
悲鳴は弱みを見せている行為なので、それに驚くことはあまりなく、むしろ弱みに付け込んで襲ってくるのです。
これはクマに限らず、捕食性の動物の習性として持っています。
人は襲いやすい獲物だと学習したのです。

異常なヒグマになる条件③人間を弱いと知る
人が逃げたり悲鳴を上げたりすると、ヒグマは本能で攻撃してしまうのです。
すると、それまで警戒すべき人間が”実は弱い”と知るのです。
こうして人間を攻撃するヒグマになってしまうのです。

男たちはマユの血の跡を追います。
血の跡は、人が登るのが困難なほどの斜面ををあがっていました。
太田家から150mの場所でマユは見つかります。
全身を完膚なきまでに喰い尽された残骸は、雪中に匿されていました。

異常なヒグマになる条件④人間の味を覚える
最初の一例は、たまたま襲ってしまった・・・たまたま人肉を食べておいしいと学習してしまうと・・・エスカレートして人を襲うクマになってしまうのです。

最初の襲撃の翌日の12月10日夕方・・・
事件の報せは三毛別、古丹別、苫前村と伝わり、六線沢の人々をヒグマから守ろうと約50人の男たちがやってきます。
中には鉄砲を持つ者が10人以上・・・!!
男たちは数人ずつに分け、5キロに及ぶ六線沢を見回ります。
しかし、人が歩ける範囲をはるかに超え、ヒグマはいつどこに現れるかわからない・・・
夜8時・・・ヒグマが盛んに活動する時間・・・
太田家では妻・マユの遺体を持ち帰り、幹雄とあわせ葬式が始まりました。
傍には鉄砲を持つ男・・・異様な緊張感の中、7人が立ち会います。
その時・・・!!
再びの襲撃・・・!!
クマは逃走!!仕留められませんでした。
呼び寄せたのはマユの遺体・・・??
食べ物に対する執着心は相当なもので、1回自分がとった獲物は自分のものと認識していました。
取り返されたら取り返す!!のです。
ヒグマが出た・・・!!
銃を持った男たちが太田家へ・・・!!

太田家から500mのところに明景安太郎の家が・・・広めの家には、女性と子供たちが集まっていました。
明景安太郎の妻・ヤヨと子供5人、妊娠中の斎藤タケと子供2人・・・そして世話役の男性・・・鉄砲はありませんでした。
この襲撃で、子供5人、女性一人、重傷2人!!
襲撃直後、悲鳴を聞きつけて鉄砲を持った男たちがやってきます。
しかし・・・断末魔のうめき、人骨をかみ砕くいような響き、クマの暴れまわる鈍い音・・・もはや生存するものはいないと誰もが思わずにはいられませんでした。

空に放った銃声に驚いて飛び出すヒグマ!!
不発!!
慌てる男たちをしり目に、ヒグマは悠然と闇に消えました。
最初の襲撃からわずか36時間・・・六線沢40人余りのうち10人が犠牲になりました。

明景家襲撃の2時間後・・・12月10日午後10時・・・
六線沢の開拓民たちは決断を下します。

「もう・・・ここにはいられない・・・山を下りよう」

50人以上で警戒しても命は守れない・・・
再び戻ってくれる保証のないまま、全住民が村を離れました。
重傷者3人を運び、6キロ下流の三毛別小学校まで非難しました。

最初の襲撃から4日目の12月12日朝・・・
ヒグマ駆除のために、警察隊が動き出します。
若者たちを集め、討伐隊が組織され・・・それは270人以上、鉄砲60挺以上という大規模なものでした。
討伐隊は、三毛別川にヒグマを迎え撃つ防衛線を張りました。
今は射止橋と呼ばれています。
この川幅は15m・・・ヒグマなら簡単に超えることが出きる・・・ここからの地域は人家が増えていく・・・ヒグマを通すわけにはいかない・・・!!

12月13日午後5時・・・
無人となった六線沢にヒグマが戻ってきました。
二斗樽の鰊づけを食い荒らし、さらに鶏舎を襲ってニワトリ数羽を食い殺し、雑穀類を暴食しました。
民家を次々と襲い、家畜や食料を食い漁っていく・・・八軒を渡り歩き、下流へ・・・!!
女性の匂いのついたものに、異様な執着を見せていました。
その日の夜8時・・・
川沿いを見張っている男たちは、月明かりの下、不思議な光景を見ることに・・・

川岸にはヤナギの大木の切り株が六本ある
討伐隊員が何気なくその切り株を眺めてみると、暗闇とはいえ、どう数えても一本多い・・・。

「ひとか?クマか・・・??」

10数丁の銃が、一斉に火を噴く・・・!!
一発が確かにヒグマに命中!!
しかし、黒い塊は川岸をひとっとびに、元来た節減をと美容に走り去ったのです。
このヒグマは不死身・・・??
ヒグマの体は分厚い脂肪と筋肉でおおわれています。
なので、脳と心臓周辺以外では、1発で致命傷を与えることは難しいのです。
しかも、頭蓋骨は厚く流線型で弾丸が貫通しにくいのです。
銃の扱いに慣れた者でも仕留めるのは至難の業・・・
翌朝、討伐隊は、傷を負った熊の血の跡を追います。
270人以上、10数匹の犬・・・山狩りが始まりました。
そこには伝説のマタギと呼ばれる男・山本兵吉!!
生涯で300頭以上のヒグマを仕留めたといいます。

討伐隊は山の頂上付近まで追い込みます。
ヒグマの習性を熟知していた山本・・・!!
頂上付近でヒグマを見つけ、引き金を引きます!!

巨熊は大きくのけぞり、どうと倒れた

仕留めた!!かと思いきや、倒れたクマがやおら立ち上がり、大きく吠えて山本を睨みます。
山本は2発目を発射しました。
山本の初弾は心臓近くに、2発目は頭部を貫通し、共に致命傷となりました。

人間によって凶暴になったと思われるヒグマ・・・
その命は人間が放った銃弾によって終わりました。

ヒグマの被害によって一つの集落が消滅するのはありませんでした。
アイヌの人たちがクマと共存してきていました。
しかし、相容れないところはきちんと敷居を確認して、クマとに一定の関係を保ちながらやってきました。
人間とクマが同じ場所で仲良く暮らす・・・そんなことのできる相手ではなかったのです。

現代では人間に近づいてきたヒグマをどうする・・・??

駆除するという対応が殆どです。
厄介な行動をしてしまうクマは、人間の不注意による面が多くあります。
ひとりひとりが最低限のクマに対する正しい知識を持つ普及教育が重要です。
現代の問題を「自然と人間との関係」に引き寄せて、知恵を出していかなければいけなくなってきています。

日本史上最悪の獣害といわれた三毛別ヒグマ事件・・・
異常な事件は新聞などによってセンセーショナルに報道されました。
しかし、人々とヒグマの間に何が起きたのか・・・??冷静に調査した記録は作られませんでした。
事件から50年経った昭和40年・・・調査を行い人物が現れました。
北海道で森林管理を行う林務館・木村盛武・・・「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」
当時六線沢で何が起きたのか?大村さんは高齢となった関係者から聞き取り調査を行います。
浮かび上がってきたのは、人間によって一線を超えるヒグマの生態・・・不幸な事故の責任は、99%人間側にあるのではないか?というものでした。

2015年に木村さんはこう言っています。
近年、異常ともいえる都市生活圏へのクマの侵入、激増する目撃情報などから、森林生産力の低下は否めません。
野生の熊が、餌を求めて移動する索餌行動は本能であり、行動半径の拡大につながっています。
熊は意外と身近なところに棲んでいます。
私はいたずらに熊を恐れ、憎んだりするのではなく、熊と人間が共生できる社会であってほしいと願っています。

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