決定版 大坂の陣 歴史検定公式ガイドブック

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戦国の世を生き抜き、齢62にして天下人となった徳川家康。
それからおよそ10年・・・天下統一の総仕上げとする最後の戦いに挑みます。
大坂の陣です。
難攻不落の大坂城を2度にわたる合戦で攻略・・・豊臣家を滅亡へと追い込むのです。
しかし・・・炎に包まれたその城には、家康最愛の孫・千姫がいました。
その生涯は悲劇に満ちていました。

徳川家康の孫娘・千姫は1597年4月11日に京都伏見で生まれます。
父・秀忠、母はお江です。
誕生の地・御香宮神社には、貴重な品が・・・贅を尽くした神輿が残っています。
これは、千姫の初節句に寄進したものです。
その重さは2トン・・・江戸時代から昭和35年まで、祭りで実際に担がれ、人々に親しまれてきました。
そこに込めた父・秀忠の思い通り、健やかに育った千姫・・・。
しかし、千姫の行く先には数々の悲劇が待ち受けていました。

①政略結婚
千姫が生まれた頃、天下を治めていたのは豊臣秀吉でした。
祖父・家康は五大老のひとりとして豊臣政権を支える一大名にすぎませんでした。
そんなある日・・・病に伏していた秀吉に、家康はこう言われます。

「徳川殿の孫娘を秀頼の正室に迎えたい。」

秀吉は、秀頼との婚姻を持ちかけたのです。
そこにはある思惑がありました。
秀吉は、秀頼と千姫を結婚させることで、自分が死んだ後も家康を豊臣家に従わせようとしたのです。

二人の婚礼を待たずに・・・
1598年8月18日、秀吉死去。。。
その後を狙って天下取りに動いたのが徳川家康でした。
豊臣家に忠義を尽くす石田三成と激しく対立!!
そして・・・秀吉の死から2年後・・・関ケ原の戦いが起こります。
戦いに見事勝利した家康は・・・3年後に・・・1603年に征夷大将軍となります。
これによって、豊臣家の五大老から天下人へ・・・!!
徳川の世が訪れたのでした。
そんな中、家康は秀吉との約束を果たすのです。

孫娘・千姫と、豊臣秀頼との縁組です。
この時、秀頼11歳、千姫は7歳になっていました。
どうしてここに来て千姫を豊臣家に嫁がせたのでしょうか?
家康は、秀吉との約束を守ることで、豊臣家を尊重しているとアピールしたかったのです。
淀の方・・・豊臣家に忠誠を誓っていた大名たちの多くが、徳川家はまだ豊臣の一家臣だと思っていました。
彼等は、秀頼さまが成人すれば、家康は政権を返すと思っていたのです。
そんな豊臣恩顧の大名達を納得させるためにも、
豊臣家と良好な関係を保っていると見せたかったのです。

1603年7月28日、千姫、伏見から大坂城に向かいます。

この時、千姫にお供した船は、1000艘以上・・・
前田利長、細川忠興、黒田長政が警護を務めるなど、盛大な輿入れでした。

祖父・家康の思惑で、僅か7歳で豊臣家に嫁いだ千姫。
嫁ぎ先の大坂城の暮らしは・・・??
姑となった淀の方が教育しました。
豊臣家にふさわしい最高の教養を身に着けるために・・・!!
我が子のように幼い千姫を養育しました。

しかし・・・千姫の幸せは長くは続きませんでした。
祖父・家康の思惑は・・・??
家康は・・・上洛した際に、秀頼に二条城にまで来るように要求・・・
秀頼が求めに応じて対面します。
久し振りの秀頼に驚きます。
19歳になった秀頼は、身長190㎝以上の聡明な男に成長していたのです。
この時、家康70歳。。。!!
徳川家安泰のために、豊臣家を潰しにかかります。

1614年11月大坂冬の陣!!
この戦いが千姫の運命を大きく変えるのです。

②夫・秀頼との死別
秀頼を総大将とする豊臣方は、全国から寄せ集められた浪人を含め15万!!
対する徳川方は20万で大坂城を包囲!!
兵の数では劣りながらも善戦する豊臣軍!!
徳川方は、巨大な堀を前に攻めあぐねていました。
そこで・・・和睦に持ち込もうとしますが、豊臣方がこれを拒否!!
徳川方が放った砲弾が淀の方のいた御殿を直撃!!
お付きの者が死傷したことで、淀の方がおびえだし、一転して和睦を受け入れるのです。
和睦の条件は、秀頼の領地を安堵する代わりに、大坂城の堀の一部を埋めるというものでした。
しかし、家康の策略により、堀の殆どを埋められてしまいました。

すると家康は、防御力が落ちた大坂城を一気に攻め落とそうとします。
1615年5月大坂夏の陣!!
総勢5万5000の豊臣方。
それを15万という兵力で大坂城を包囲!!
数の上で一方的に勝る徳川軍が、豊臣方の武将を次々と討ち取っていきます。
そして豊臣方の立て籠もっていた城が炎上!!
中の千姫たちに危険が・・・!!
落城寸前!!
千姫は、火の手を避けるために、秀頼や淀の方、お付きの者たちと糒櫓に避難します。
侍女たちは、この時、櫓から千姫を逃がそうとしていました。
それを察してか、淀の方は千姫の振袖を膝で押さえていたといいます。

が・・・大野治長が、秀頼と淀の方の助命嘆願の為、千姫を家康の元へ向かわせたといいます。
豊臣家のために城を出たのです。

夫秀頼らの助命嘆願のために、大坂城を出て茶臼山に向かった千姫・・・。
豊臣家の命運は、千姫に託されていました。
千姫は、徳川方から攻撃されないように葵の御門入りに衣を身にまとっていました。
そして、二の丸を出たところで・・・徳川方の坂崎直盛に出会います。
この坂崎の護衛によって家康のいる本陣に・・・!!

しかし、その判断は、秀忠に任せると家康は言い出しました。
父・秀忠の岡山砦に向かう千姫。
そして、秀頼と淀の方の助命嘆願をしますが・・・。

「なぜ、秀頼と共に自害しなかったのだ??
 夫を置いて一人城を出るとはどういうことじゃ!!」

と、激怒しました。

千姫の助命嘆願が受け入れられることはなく、5月8日秀頼と淀の方は大坂城の中で自害・・・豊臣家滅亡。
燃え上がる大坂城が見えた千姫・・・二人の自害を聞いて、ただただ泣き崩れたといいます。

家康は、徳川家が権力を掌握するためには、豊臣家を滅ぼすしかないと考えていました。
豊臣家と運命を共にしようと思っていた千姫は、自分だけが生き残ってしまったことに苦しみます。
病に伏せる千姫・・・。

大坂の陣の後、江戸に戻った千姫は、江戸城北の丸にあった御殿で暮らし始めましたが・・・。
夫・秀頼を救えなかったことで心に大きな傷を負い、病に伏せるようになります。
家康は・・・再婚相手を探すことにしました。
候補に挙がったのは・・・
大坂城から千姫を連れ帰った坂崎直盛。
家康は、千姫を助けたものには、千姫を嫁にやると言っていました。
ところが・・・この約束を反古にしてしまいます。
1616年正月・・・鷹狩りに出かけた家康は突然病に・・・駿府城で床に伏せっていました。
多きの見舞客の中には、孫娘・熊姫も・・・熊姫は、息子・本多忠刻とやってきていました。
忠刻は、桑名藩主・本多忠政との間にできた嫡男で、眉目秀麗と評判でした。
そんな忠刻に・・・家康は忠刻の祖父・忠勝(徳川四天王)を思い出しました。
坂崎直盛は、豊臣家五大老・宇喜多家の出身でした。
対して本多忠刻は徳川四天王・本多忠勝の孫・・・。
坂崎よりも、長く忠義を果たしてくれている本多家に嫁ぐのが幸せだと・・・千姫と忠刻の縁談を進めることにしました。

当時は夫に離縁されない限り結婚はできませんでした。
秀頼は、九州まで遁れて生き延びたという噂まで出ていましたが・・・。
このままでは再婚できない・・・と、家康は・・・。
満徳寺・・・妻が満徳寺に弟子入りすれば、夫と離縁できる習わしとなっていました。
家康は、千姫を満徳寺に入れることで、秀頼との縁を切ろうとしたのです。
千姫の場合、特別に撃場である刑部卿局が寺に入り、千姫は江戸城で修業するという形がとられました。

家康は、4月17日75歳の生涯を閉じました。
再婚する千姫の姿を見ることはなく・・・。
5か月後、千姫は本多忠刻と再婚。
桑名藩主となった本多家が、翌年姫路藩15万石の藩主となり、千姫も姫路城へと移りました。
本多家に結婚祝いとして10万石が与えられました。
忠刻は、姫路城西の丸に二人の御殿をもうけ、それを囲むように日本一の櫓を建てるのです。
夫の心遣いに癒された千姫は、長女・勝姫、嫡男・幸千代を授かります。
ようやく訪れた心の平安・・・しかし、不幸が襲います。

③相次ぐ家族の死

幸せな暮らしをしていた千姫・・・
1621年幸千代、3歳で夭折。
千姫はもう一度子宝に恵まれるようにと、城の傍に天満宮を建て、羽子板などを奉納します。
そして、朝に夕に櫓から見える天満宮に祈りました。
しかし・・・流産を繰り返します。
そんな千姫が、藁をもすがる思いで頼ったのが、占いでした。
それによると不幸の原因は、秀頼の祟りだというのです。
驚いた千姫は、秀頼のために仏像を彫らせます。

その願いもむなしく・・・子が生まれることはありませんでした。
そんな中、1626年参勤交代で江戸から戻った夫・忠刻が病に倒れてしまいました。
介抱するも・・・この世を去ってしまいました。
またしても夫に先立たれてしまった千姫・・・。
そして・・・熊姫、お江の死・・・。
愛する人々を次々と失った千姫は、この時30歳。
娘・勝姫を連れて失意の中江戸へ・・・。
天樹院となり、仏門に入ります。
そんな千姫を気にかけていたのが弟である三代将軍家光でした。
千姫には、江戸城の竹橋御殿で暮らし、500石が与えられました。
ここで、娘・勝姫と何不自由なく暮らすことに・・・
千姫は、家光の子・綱重の養育を任されたことで、大奥にも影響力を持つようになっていきます。

1628年千姫に嬉しい出来事が・・・
娘・勝姫が、鳥取藩主・池田光政と結婚。
二人の夫婦仲は良く、5人の子供に恵まれました。

千姫にはもう一人守りたい人が・・・
古都・鎌倉・・・東慶寺。
ここに千姫が守り続けた人物・東慶寺第20世住持天秀尼でした。
かつての夫・秀頼が側室との間にもうけた一人娘です。
秀頼は千姫との間に子は出来なかったものの、一男一女をもうけていました。
二人の子は、大坂の陣で大坂城から逃げだすものの、徳川に捕まってしまいました。
そして、豊臣家の血を絶やさねば・・・と考えていた家康によって、息子・国松は市中引き回しの上、京都・六条河原で斬首刑に・・・。
この時、国松は8歳でした。
娘もどうなるのか・・・千姫が家康に懇願します。
「秀頼殿の娘を、私の養女にさせてもらえぬでしょうか?」
そんな千姫の必死の嘆願に折れた家康。
娘は家康の命により、東慶寺に入れられて出家し、生きていくこととなったのです。
出家させて結婚できなくさせることで、処刑せずとも豊臣家の血を絶やすことができたのです。
千姫は終生天秀尼の事を気にかけ、何通もの手紙で強い絆で結ばれていきました。

天秀尼のいた東慶寺も縁切寺で、天秀尼はそこで夫と離縁できずに駆け込んでくる者たちの保護に努めていました。
千姫も縁切寺で救われた一人・・・。
千姫は、不幸な女性を天秀尼の寺で救いたいと思うようになります。
東慶寺の縁切り・・・二人は、東福寺の「縁切寺法」を幕府に認めてもらうため動きます。
その思いが通じ、東慶寺は幕府公認の縁切寺となり、その後200年以上、女性を守り続けました。

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家康の遺言

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ここまでわかった! 大坂の陣と豊臣秀頼 (新人物文庫)

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