利家・利長・利常 前田三代の人と政治

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加賀・能登・越中・・・加賀100万石です。
加賀藩は、江戸時代に徳川に次ぐ実力No,2を維持し続けました。
その基礎を築いたのが三代・前田利常です。

maeda前田家お取り潰しの危機・・・謀反の噂・・・
1631年寛永の危機です。
謀反は、その噂だけでお取り潰しになることがありました。
その危機を乗り越えて・・・加賀繁栄をもたらせたのが利常でした。

江戸時代初期・・・徳川の天下を脅かす大名が3つ・・・
島津家(関ケ原で敗戦)・伊達家(政宗がもう歳を取っている)・・・そして前田家。。。
一番危険なのは、加賀100万石・前田利常だったのです。

どうして江戸時代が300年続いたのか??それは、No,2の前田家が謀反を起こさなかったからかもしれません。

1616年駿府城・・・徳川家康が世を去ろうとしていました。
そこに呼ばれたのは・・・120万石を誇っていた加賀藩当主・前田利常でした。

「その方を、どうにか殺そうと考えていた。
 しかし、秀忠が容赦するよう言うたため助けおいたのだ。
 決して心変わりの無いように。。。」by家康

関ケ原の合戦の前・・・徳川家は前田家と肩を並べる存在で、今となっては目の上のたんこぶとなっていました。
大きな大名で、邪魔な存在とっていたのです。
天下第二の勢力を持つ利常を恐れ続けていたのです。
この時・・・利常24歳でした。

戦国の世も終わりを告げようとしていた1594年11月、利常は利家の四男として生まれました。
本当なら家を継ぐはずではなかった地位の利常でした。
1600年関ヶ原の戦いで・・・勝利した家康は、1603年江戸幕府樹立!!
豊臣家を完全に無き物にしようとしていた家康・・・戦国大名たちは、どちらかにつくことを迫られていました。
当時の前田家は利家の長男・利長が継いでいました。
利長にとって悩ましい選択・・・天下が徳川に流れている今、豊臣につくのか??
しかし、前田家は、豊臣恩顧の大名で裏切るわけにはいかない・・・。

そこで、わずか13歳の弟・利常に家督を譲ります。
というのも、利常は1601年徳川の珠姫を正室に向えていました。
徳川と強固な関係に・・・!!
1605年秀忠が将軍に就任するとともに、加賀前田家を継いで藩主となる利常。
前田家は、新しい時代を生き抜くために、豊臣よりも徳川へ・・・舵を切ったのでした。
しかし、藩主が変わったものの・・・家康の目は厳しいものでした。

1611年家康の重臣から前田家に提案が・・・
「本多政重を前田家で雇ってもらえないか?」と。。。
政重は、本田正信の次男で、政治的能力に長けていたものの、徳川側の人間。。。
が、政重に3万石・筆頭家老として迎え入れます。
若い利常を支えるために・・・
幕府から頼れる人物になるために・・・
家康から常に厳しい目をつけられていた利常でした。

1614年11月、豊臣家打倒のために・・・大坂冬の陣!!
この戦いに徳川方として参戦した前田家。
翌年の夏の陣では、3200もの首をあげ・・・全大名中2番目の大活躍でした。
その功績により120万石を盤石の物とした利常でしたが・・・その7年後。。。
1622年・・・利常の正室・珠姫死去・・・。
幕府と前田家をつなぐ要を失ってしまったのです。
将来に大きな不安を残すこととなりました。

1631年11月、江戸から金沢城に一通の書状が・・・
「幕府が前田家の動きを不審に思っているので、すぐに江戸に参勤した方がいい」と書かれてありました。
前田家に謀反の動きがあるという衝撃的なものでした。

それには、利常の3つの行動が挙げられています。

①金沢城の修理
 寛永の金沢大火によって城も被害を受け、その修理。
②16年前の大坂の陣の論功行賞を今になってやり直し、家臣に加増したこと。
③新しい家臣をたくさん召し抱えたこと。

でした。

この3つが謀反の兆候として幕府内で問題となっていたのです。
これは、前田家存亡の危機・・・。

重臣・本多政重・横山長知に意見を求めます。
江戸へ出て弁明するべきか??
金沢城に籠もって江戸からの軍勢と戦うべきか??

①江戸に出て弁明・・・横山長知
②金沢城に引きこもる・・・本田政重

どうする利常??

「老木をハ捨よ」

ということで、処罰を覚悟で江戸に弁明をしに行くことにしたのでした。
11月25日、金沢を出発。
横山長知の息子・康玄 を江戸城に弁明に向かわせ・・・老中・土井利勝を訪問。
数々の行為は領国経営のためで謀反ではないと。。。すべては上様への御奉公のため!!と、弁明し、疑いは晴れ・・・存亡の危機を脱するのです。

その後利常は3年間金沢には戻らず、江戸で信頼回復に勤めるのです。
1634年金沢に戻った利常は、領国経営に力を入れるのでした。

藩の財政を安定させる・・・
徳川は、江戸に幕府をひらいてから城・河川の整備・・・普請をさせていました。
中でも120万石の加賀藩の負担は大きく、1636年の江戸城の改築では全工事区域の1/6を負担、過酷な要求に応えるために・・・。
御算用場を改革します。

kakeibo















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算用者と呼ばれる計算に強い家臣を置き、農地の測量、年貢の計算、参勤交代の費用・・・事細かく調べ、管理させます。

御算用場を置いたことで・・・改作法という農業改革となりました。
利常は・・・加賀藩で家臣たちが農地を管理し、年貢をとっていましたが・・・。
その為に農民が苦しむことも・・・
年貢率を決定し、取り立てまで藩が行い、家臣たちには俸禄を与えることとなったのです。
このことで、104万石が128万石に増えることとなりました。
増税をするのではなく、ベースである農地の再建を行うことで領主たちによる容赦ない取り立てから救うことに成功するのです。
このような農村救済、農地改革を行えたのは、この時代、加賀藩だけでした。
260年の加賀藩の礎を築いたことは間違いありまあせん。

京や江戸から高名な芸術家を招き、加賀藩の文化振興も図っていきます。
その拠点が御細工所と呼ばれる藩お抱えの作業所でした。
始まりは利長の時代・・・武具甲冑の管理、手入れをするのに始まったといわれています。
戦乱の世が終わると、利常はこの御細工所を、藩主の調度品や美術工芸品を作る所に替えていきます。
将軍への献上品、各藩に贈呈されることもありました。

職人たちに義務付けられていたのは・・・能楽でした。
将軍の前でも披露される能。。。ここに、今に繋がる加賀の文化が花開いていくのです。

兼六園の中にある成巽閣には・・・後水尾法皇から送られた書が残されています。
後水尾法皇の妻と利常の妻は姉妹・・・このつながりから親しかったふたり。
その御宸翰には「忍」の一文字が書かれています。

日頃から幕府に耐えかねていたという法皇・・・
江戸という時代を生き抜いた人々の想いがこもっています。

”武”から”文”へ・・・それは利常の生き残り戦略でした。


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