日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:本多正信

1560年5月、一つの合戦が時代を大きく変えました。桶狭間の戦いです。
尾張の織田信長が、東海の雄・今川義元を討ち果たしたのです。
この戦い、もう1人の武将の運命をも大きく変えました。
その人物とは・・・長きにわたる戦国時代を終わらせ、天下泰平の礎を築いた徳川家康です。
この頃家康は、大国・今川氏の傘下から離れて、現在の愛知県東部・三河国の統一を図っていました。
そんな若き家康に、絶体絶命の試練が訪れます。
家康の生涯三大危機のひとつに数えられる三河一向一揆です。
当時、三河一円に広がっていた一向宗勢力が、打倒・家康を唱えて一斉に蜂起したのです。
すると、家康を支えてきた家臣団までもが、家康をとるか、信仰をとるかで敵味方に分かれてしまったのです。
存亡の危機に面した家康・・・この苦難を如何にして乗り越えたのでしょうか??
その奇策とは・・・??

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桶狭間の戦いが行われた1560年5月19日、松平元康・・・後の徳川家康は今川軍の先鋒として最前線である尾張の大高城まで進出していました。
ところがこの日、総大将・今川義元は新興勢力の織田信長に破れ、討ち死にしてしまいました。
同じ日の夕刻、この衝撃の報せが元康のもとに届けられました。
義元が討ち取られ、今川本体が総崩れになると、孤立無援となった大高城が織田軍に囲まれるのは時間の問題でした。
その日の夜・・・元康は大高城からの撤退を決断、一路三河国の岡崎城を目指します。
岡崎は、松平氏代々の本拠地です。
岡崎の地に生れ、幼いころ駿河の今川家に人質に出された元康・・・
「桶狭間の戦い」をきっかけに、10数年ぶりの帰郷を果たしました。
義元が討ち死にしたことで、織田・今川の大国のハザマとなった西三河・・・
元康は、岡崎城を拠点に西三河の統一を目指します。

岡崎城は、矢作川と乙川の二つの河川に囲まれた天然の要害です。
しかし、堅固な岡崎城を居城としたとはいえ、元康のような小勢力が生き延びるためには織田か、今川か・・・どちらかに与さなければなりません。
そして・・・元康は、桶狭間の戦いの翌年、その後の運命を決める決断をします。

「松平記」には・・・岡崎と尾張の間の戦いを停止する

元康は、織田との和睦を図ったのです。
どうして今川ではなく織田を選んだのでしょうか?
当時の松平家は、国衆という立場でした。
国衆は、自分を保護してくれる戦国大名を次々に選んでいきます。
ところが、今川家は上杉の南下により、東で武田・北条と三国同盟をし、家康まで手が回りませんでした。
切り捨てられた今川との関係より織田との関係の方が開けるのではないか??と考えました。

織田と和睦したことで、西に対する憂いの無くなった元康は東に向かいます。
東三河の今川方の重要拠点・牛久保城を攻めます。
将軍・足利義輝が、ある大名に送った手紙には、「今川氏真と三河岡崎の元康が戦になった」と記されています。
牛久保城周辺に砦を築き、城攻めを仕掛けた元康に対し、氏真は1万の大軍勢を率いて三河へ出陣!!
家康方の砦を攻撃しました。
砦に籠った兵は、数百だったと言われています。
知らせを受けた元康は、3千の援軍を率いて岡崎城を出陣!!
砦を包囲する今川軍を攻め、籠城していた兵の救出に成功します。
1万の今川方が、3千ばかりの元康を食い止めることが出来なかったのです。

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1563年、元康は、名前を家康と改め、今川義元からもらった元の字を捨て、ここに今川からの完全な独立を宣言しました。
ところが・・・12月、三河統一に邁進する家康の前に、更なる敵が立ちはだかります。
若き日の家康、最大の苦難・「三河一向一揆」の始まりでした。

三河統一を目指し、今川方と戦う家康・・・
しかし、そこには第三の勢力が存在しました。
当時、一向宗と呼ばれた宗教勢力です。
武士・農民の区別なく、信仰で結びついた一向一揆は時には大名とも対立、徹底抗戦しました。
加賀国では守護大名を倒し、100年にわたる一揆勢の支配を実現・・・戦国大名に匹敵する武装集団でもありました。

戦国時代、全国各地に勢力を拡大した一向宗・・・
一向とは、一心に阿弥陀仏を念じることで、浄土真宗本願寺派の呼び名です。
飢饉や戦乱が続く乱世に生きる人々は、死と隣り合わせの中、来世に救いを求めました。
それは、家康の三河国にしても同じことでした。
当時、三河では家康の居城・岡崎城の周辺に、一向宗の寺院が勢力を拡大していました。

「信長公記」にも・・・三河の一向宗寺院は、川沿いの攻めにくい要害の地にある
経済的にも豊かで、人の多い港である・・・国中の半分が門徒となっていました。
三河一向宗は、武士たちの心を主従関係とは別の形で強くとらえ、勢いを増していました。
今川との戦いを続ける家康は、そんな一向宗と敵対することになります。

きっかけは、家康の家臣が一向宗寺院から強引に兵糧米を取り立てたことでした。
本願寺教団からすれば、不入の権で税の免除・警察権が及ばないという特権を得ていました。
しかし、家康は、戦争をつうけるために兵糧を課してしまったのです。
一向宗寺院との対立が深まる中、家康は一向宗門徒である家臣たちに一向宗から改宗し、反逆者に味方しない旨の起請文を出すことを命じました。
しかし、一向宗門徒の家臣たちは、「主君の恩は現世のみ、しかし、阿弥陀如来の大恩は未来永劫尽きることなどない」と、一揆方につきました。
家康の有力家臣たちも、家康側に残る者と一向一揆に参加する者に分かれました。
後に、家康の天下統一事業を支え懐刀と言われた本多正信も、一向一揆側に分かれたその一人です。
そして、1563年12月、ついに三河の一向宗門徒が一斉蜂起!!
堅固な寺院に籠城し、反家康の兵を挙げたのです。
兵の数は、家康方を上回っていました。
若き家康に最大の試練の時が訪れました。

1564年1月11日、一揆勢は岡崎城の南3キロにあった家康方の砦・上和田城に大軍勢で攻めかかりました。
知らせを受けた家康は、すぐに岡崎城を出陣!!
一揆勢に突入します。
大乱戦の中、家康に銃弾が命中!!
鎧が硬かったため、命拾いをしたといいます。
翌日も一揆勢の攻勢は続きます。
ところが、一揆勢の武士の中には、家康の姿を見ると逃げ出す者も多くいました。
一揆方に身を投じたとはいえ、主君と侵攻のハザマで苦悩していたのです。

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1月15日、最大の激戦が小豆坂で行われました。
小豆坂は、岡崎城の南東3.5キロに位置する丘陵地にあります。
この時、一揆勢は、家康の別動隊と戦っていました。
そこを家康本隊が小豆坂を押し登って一気につきました。
挟み撃ちになった一揆勢は撤退せざるを得ませんでした。

2月になって、一揆方から和議の申し入れがありました。
この申し出をとりあえず受け入れた家康・・・
しかし、問題は和睦ののちの一揆勢の処分です。

反旗を翻した一揆勢を許すべきか??
それとも厳しく罰するべきか??

「家康十六将図」・・・家康に仕え、特に功績のあった16人の家臣です。
酒井忠次や井伊直政など、後に徳川四天王と称えられる名将が居並ぶ中、槍の半蔵と称えられた渡辺守綱、人質時代の家康のそばに仕えた蜂屋半之丞・・・この二人は、三河一向一揆の際、一向宗側に付き家康に敵対した門徒武士です。

1564年2月、一揆勢の主将格にあった蜂屋半之丞が家康方に和議を申し入れました。
一揆方は、参加者や首謀者たちの命を保障すること、そして一揆のきっかけとなった寺院については前々の通り不入の権を認めるということを出しました。
家康は、これらすべての条件を受け入れ、起請文を交わしたといいます。
反旗を翻した一揆勢を許すことを選択したのです。

これによって、一揆勢は正式に降伏・解散しました。
一揆に加わった武士たちは、許されたものの多くは家康のもとを去り三河国を離れました。
家康は、この時を待っていました。
一揆勢との和睦から2か月・・・家康は、一向宗寺院に対し一つの要求を突き付けました。
”宗旨を変えよ”と迫ったのです。
それに対し、寺側は前々の如くと起請文を交わしたと主張します。
ところが家康は、
「寺が立つ前は野原である
 前々の如く野原にせよ」と言い、
一向一揆の拠点となった四寺や道場を破却しました。

寄るべき寺院の無くなった僧侶は、三河から離れるほかありませんでした。
以後、20年に渡り、三河では一向宗の活動が禁じられました。
この戦いを乗り越えることによって、三河における家康優位の状況が出来上がってきました。
そして、家康のもとに三河国がまとまっていきました。
戦国大名・徳川家康の誕生でした。
西三河を完全に掌握した家康は、勢いに乗って東三河・奥三河を制圧!!
三河国の統一を成し遂げ、天下人への第一歩を踏み出しました。


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「偉大なる父親を持つ2代目は辛い」

よく言われることですが、それは徳が分けでも同じです。
江戸時代2代将軍・徳川秀忠・・・
父・家康のようなカリスマ性を持たず、目だった武功をあげることもできなかったため、ダメな2代目という烙印を押されてきました。

「秀忠はあまりに律儀すぎる
 人は律儀のみではならぬものだ」by家康

側近はこれを秀忠に伝え、殿もたまにはほらを吹かれた方がいいのでは・・・と、進言しました。
すると・・・

「父上だからホラを吹いても許されるのだ
 何事も成し遂げていない私がホラを吹いてどうする」by秀忠



1579年4月7日、徳川秀忠は、当時三河と遠江を支配していた家康の三男として浜松城で生まれました。
家康が38歳の時の子で、幼名は長松。
母は側室のお愛の方。
美人で聡明だったため、家康から深く寵愛されたといいます。
三男の秀忠が家康の後継者となったのは・・・??

もともと、家康の跡継ぎと目されていたのは正室・築山殿との間に生まれた長男の信康でした。
剛直で武勇に優れて、跡継ぎとして申し分なかったのですが・・・秀忠が生まれた年に、家康から切腹に処せられ、21歳の若さで死去。
家康が切腹を命じた理由については・・・当主の座を奪おうとしていた信康を、家康が先手を打って亡き者にしたと考えられています。
長男の信康が亡くなりましたが、秀忠の上にはまだ6歳上の次男・秀康がいました。
しかし、秀康は、家康が築山殿の次女に手を付けて産ませた子だったため、築山殿の目を気にする家康から愛情を注いでもらえず、3歳になるまで対面すら叶わなかったといいます。
そして、17歳の時、北関東の大名・結城氏に養子に出され・・・結城秀康です。

秀忠の幼少期は不明です。
しかし、戦国時代から江戸時代中期の人物列伝「名将言行録」によれば、ある日、秀忠が家臣による書物の朗読に耳を傾けていた時のこと・・・突然、巨大な牛が障子を突き破って部屋に飛び込んできました。
過信は慌てふためき悲鳴が上がりましたが、秀忠は顔色一つ変えず

「かまわぬ、読み続けよ」

家康に与する武将たちはこの話を聞いて、

「度量の大きさは家康公に勝るとも劣らない」

と、秀忠を褒め称えたといいます。


また、秀忠に大きな影響を与えたと言われているのが、乳母を務めた大姥局・・・
大姥局は、今川義元の人質になっていた頃の家康の世話役でした。
その人柄を高く評価していた家康が、秀忠の乳母にしようと浜松城に招いたといいます。
秀忠の乳母となったとき、大姥局はすでに50代半ばでした。
その役目は、乳を与えることではなくて教育係だったと言えます。
大変聡明で、慈悲深かったため、高く慕われました。
秀忠は、決して驕ることなく謙虚さを身につけていきます。

秀忠・・姉さん女房を娶る
1595年9月、17歳になった秀忠は、豊臣秀吉の肝いりで結婚。
妻となったのは、織田信長の姪で秀吉の寵愛を受けていた淀の方の妹・江です。
秀忠より6歳年上で、3度目の結婚、出産経験がありました。
酸いも甘いもかみ分けた姉さん女房のお江。
お江と結婚したことで、秀忠は秀吉と相婿・・・姉妹の夫同志となりました。
豊臣家と密接な関係となりました。
この結婚の2年前に、淀の方が秀吉の嫡男の秀頼を生んでいたため、秀吉は、秀忠を秀頼の補佐役にしようと考えていました。
徳川家と豊臣家を結びつけるキーマンとして大きな期待を寄せられていた秀忠・・・
しかし、この3年後、天下人・秀吉が62歳でこの世を去ると、状況は一変します。
父・家康が、天下取りへ・・・!!



秀忠・・・大失態をさらす
1600年9月、徳川家康の三男・秀忠は、わき目もふらず中山道を西へと急いでいました。
どうして・・・??
話しは2か月前に遡ります。
天下取りを目論む父・家康と、豊臣の世を守ろうとする石田三成の対立が激化、京都にある徳川方の伏見城を三成に与する反家康陣営(西軍)が襲撃。
三成蜂起の報せを遠征先の下野国で聞いた家康は、これに対抗するため自らは江戸を経由して東海道で、息子の秀忠には中山道で西へ向かうように命じます。
22歳の秀忠にとって、これが実質的な初陣でした。
その為、家康は精鋭が揃った3万8000の徳川本体を秀忠に預けました。
家康はこの戦いで、後継者である秀忠の存在を、広く世に示そうとしました。
秀忠が必ず活躍できるように万全の態勢を整えていました。

跡継ぎとしての重責を背負った秀忠は、父の期待に応えるべく、8月24日に宇都宮城を出立。
一方、家康は東軍の先鋒を出陣させたのち、江戸城で体制を整え、9月1日に出立。
東海道を進み、9月11日に清州城に入城します。
この時、石田三成が西軍の主力は美濃国の大垣城に入っていたため、東軍の先鋒たちは、家康の到着を待って大垣城に総攻撃をかけようとしていたのです。

家康は、「風邪を引いた」と嘘をついて、出陣しませんでした。

先に出立したはずの秀忠がまだ到着していなかったのです。
この時、秀忠は、清州城の春か手前、信濃の上田城付近にいました。
上田城主の真田昌幸が、次男の信繁(幸村)が共に西軍についたため、まずは上田城を落として西上しようと考えていました。
あくまでも家康の姪を受けて上田城を攻めていました。
3万8000の大軍を擁すれば、3000ほどの兵しかいない真田軍など簡単に攻略できると考えたのです。
しかし、ことは家康の思惑通りにはいきませんでした。
9月1日に中山道を外れて上田城に向かった秀忠は、その2日後、真田昌幸のもとに降伏を求める使者を派遣・・・
すると昌幸は「剃髪して降伏する」と泣きついてきたため、秀忠は昌幸たちの助命を約束します。
ところが・・・そのわずか2日後、

「あれは嘘じゃ、実は戦の仕度を整えておった
 兵糧の運び入れが済んだので、いつでも戦いに応じよう」by昌幸

まんまと騙された秀忠は、激怒して上田城を攻撃!!
当初は兵力で大きく勝る秀忠軍は優勢でした。
敵を引き付けてから一斉攻撃を仕掛ける真田軍の戦略によって形勢は逆転。
秀忠は次々と兵を討ち取られ、上田城を落とすことができませんでした。
この時が秀忠の初陣でした。
真田親子の方が一枚も二枚も上手でした。
しかし、それだけではなく、多くの精鋭が付き従っていた秀忠軍・・・
秀忠に統率力がなかったためか、一枚岩になれなかったのです。
それが、苦戦した原因でした。
そんな中、西軍との決戦が迫っているという知らせが届きます。
こうして9月11日、秀忠は中山道に戻り、西上を再開したのですが・・・真田軍の追撃を警戒しての進軍は、速度が出せず、しかも、途中の河川が増水し、渡るのに時間がかかってしまいます。
焦った秀忠は、「我だけでも先に進まねば・・・」と、わずかな兵のみで先を急ぎます。
しかし、秀忠がまだ信濃国をひた走っていた9月15日午前8時ごろ、美濃国の関ケ原において、東西両軍が激突!!
しかも、戦いは、先陣を切った家康の四男・松平忠吉の抜群の働きや、西軍・小早川秀秋の突然の寝返りなどによって、わずか半日足らずで東軍の勝利に終わってしまいました。
その為、秀忠は、天下分け目の大事な戦いに間に合わなかったのです。

勝利した家康は、近江国の大津状に入ったのですが、そこに秀忠がやってきたのは、戦いが終わって5日後の9月20日。
秀忠は家康に面会し、遅れた理由を説明して許しを乞おうとします。
しかし、秀忠への怒りが収まらない家康は、「気分が悪い」といって、面会を許しませんでした。

秀忠が家康に激怒されたのは、戦いに遅参しただけではありません。
先を急ぐあまり、軍勢を置き去りにしたこと・・・これも原因でした。
結果として東軍が買ったからよかったのですが、もし負けていれば、少数の兵しか連れてこなかった秀忠も討ち取られてしまうかもしれません。
秀忠は、そこまで考えて動く古語が出来なかったために「大将としての資質に欠ける」と激怒されたのです。

この後、家臣の弁明などによってなんとか許された秀忠・・・
家康は、「秀忠が跡継ぎでいいのか」と悩みます。
5人の重臣たちに、「どの子に家督を譲るべきか」と、相談したと言われています。
その結果・・・
無回答・・・・・1名
次男・秀康・・・1名
四男・忠吉・・・2名
三男・秀忠・・・秀忠付きの家老・大久保忠隣

だったのです。

どうして秀忠が跡継ぎとなったのでしょうか??
この時、秀忠を推した大久保忠隣が家康に進言した言葉が、秀忠を口径の座に留まらせました。

「天下を治めるためには武勇よりも文徳が大事
 後継者は知勇と文徳を兼ね備えた謙虚な人柄の秀忠様しかいない」by大久保忠隣

家康も納得し、秀忠を後継者としました。



秀忠・・・2代将軍になる
1603年2月、徳川家康は、征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。
そして、そのわずか2年後、27歳の秀忠が家康の後を継いで将軍となりました。
このあまりにも早い将軍職の交代は、豊臣の世が終わり徳川家が政権を担っていくのだと天下に知らしめるためでした。
家康は大御所と呼ばれるようになります。
2年後には江戸城も秀忠に譲り、駿府城に移りました。
関ケ原の戦いに遅れたという大失態はあったものの、なんとか無事に家康の後を継ぐことができた秀忠・・・その後も幕府の実権を握っていたのは家康でした。

秀忠・・・家康の傀儡になる
1605年、徳川秀忠が2代将軍に就任。
先代の家康は、江戸を離れ駿府城に移ります。
ただ・・・隠居をしたわけではなく、駿府においても政を行い続けました。
この頃の江戸幕府には、将軍・秀忠のいる江戸と、大御所・家康のいる駿府という2つの政庁があったのです。

二頭政治、二元政治ともいわれますが、実際は、圧倒的に家康が上でした。
江戸幕府の実権は、駿府の家康が完全に掌握していました。

その政権運営は・・・?
秀忠のいる江戸城には、秀忠付きの家老・大久保忠隣の他、家康の腹心・本多正信など家康譜代の重臣たちを置きました。
家康の駿府城には、新参の官僚と僧侶・儒学者・豪商・外国人などで構成された政策集団を置きます。
そして、そこで家康たちが発案、検討した大名統制政策や、外交方針を、江戸城にいる秀忠と重臣たちに伝え、実行させたのです。

「今はただ父上の仰せのままに」by秀忠

秀忠は家康の性格やふるまいを研究していました。
秀忠は、家康になりきることで家臣たちの信頼を得ようとしました。

秀忠・・・汚名返上を狙う
関ケ原の戦いに間に合わなかったことが負い目となっていた秀忠でしたが、30代半ばでようやく汚名返上の好機が・・・
徳川家と豊臣家の最後の戦い・・・大坂の陣です。
莫大な資金力を有し、秀吉恩顧の大名たちもいまだ健在の豊臣家を危険視していた家康は、1614年10月11日秀吉の嫡男・秀頼のいる大坂城を攻めるため、20万の大軍を率いて駿府城を出立。
23日には二条城に入りました。
一方、秀忠は、江戸城を留守にする準備に手間取ってしまい、家康が二条城に入ったその日に、ようやく6万の兵と共に出陣、その際、家康の側近へ書状を送っています。

「私が到着するまでは、開戦を待ってほしいと父上に伝えてくれ」

関ケ原の二の舞だけは避けたかったのです。
その後も秀忠は、同様の書状を何度も送りつつ先を急ぎます。
秀忠は、馬廻役や歩兵に240人ほどの剣客自慢を選抜、

「遅れずについてきた者には褒美を与える」

といって先を急がせました。
最後まで遅れずについてきた者は30名ほどでした。

二条城でこれを知った家康は、

「人馬が疲弊すると、統率が取れなくなる
 無茶はするな」

と、秀忠の申し伝えましたが、従順な秀忠もこの時ばかりは父の言葉を黙殺。
わずか17日間で6万の兵を京都まで進めました。
そして、11月19日、大坂冬の陣開戦!!
20万ともいわれる徳川軍に対し、9万の兵しか持たない豊臣軍は、大量の鉄砲で応戦します。
家康はこれを予測し、大量の鉄盾を作らせていましたが・・・
秀忠は、「鉄の盾など必要ない」と、受け取りませんでした。
この大坂の陣が汚名返上のラストチャンス・・・!!
家康の庇護下にいると思われたくなかったため、鉄盾を受け取らなかったのです。

一進一退となった冬の陣・・・両者の和睦によって集結します。
しかし、翌年5月、大坂夏の陣!!
汚名返上を果たしたい秀忠は、激戦地を希望!!
家康が首を縦に振ることはありませんでした。
その理由は・・・??
跡継ぎの秀忠を危険にさらしたくはなかった
豊臣家との決着を自分の手で付けたかった
などといわれています。

激闘の末、徳川軍の勝利に終わり、豊臣家は滅亡。
結局、秀忠はこの戦いでも目だった武功をあげることができなかったのです。
それから間もなくして秀忠の側近にこう伝えます。

「これからは何事も秀忠が決めよ
 わしに伺い立てする必要はない
 江戸で決めたことを駿府に伝えてくれればよい」

家康の引退宣言でした。



秀忠・・・豹変する
大坂夏の陣の翌年・・・1616年3月。
75歳の徳川家康は病の床にいました。
そして、2代将軍の秀忠を、枕元に呼びこう問いかけます。

「わしが死んだら天下はどうなると思うか」by家康

「乱れると思います」by秀忠

この答えを聞いた家康は、満足げに一言

「ざっと済みたり」・・・おそらく「そう思っていればよろしい」という意味ではないかと思われます。
再び天下が乱れることを覚悟していれば、本当に転嫁が乱れた際に慌てずに対処できるそういうふうに家康は考えていました。
翌月・・・4月17日、徳川家康は波乱の人生に幕を下ろしました。
そして、秀忠が名実ともに幕府の頂点に立ったのですが・・・家康の陰に隠れていた頃のダメな2代目から豹変・・・苛烈な大名統制をはじめました。
まず秀忠は、実弟の松平忠輝を改易・流罪に処します。
忠輝は、大坂夏の陣に遅参して、十分な働きが出来ずに怒った家康から謹慎を申し渡されていましたが、秀忠はそれでは生ぬるいとして忠輝の所領を取り潰し、伊勢国に流したのです。
不届き者は、身内でも許さないという見せしめでした。
さらに、関ケ原の戦いで東軍勝利に大きく貢献した福島正則に対し、居城を無断で修築しただけで安芸・備後50万石を没収、正則には弁明の機会すら与えませんでした。
その後も秀忠の大名統制は続き、親藩や譜代の大名でもお構いなし、取り潰した大名家41家、没収した石高は439万石にのぼりました。

秀忠は、自分に家康のような才覚やカリスマ性が無いことをよくわかっていました。
そのため、父のようには諸大名と統制できないと考え、力で抑え込む方法を選んだのです。
秀忠には、家康にできないことができました。
家康は、いろんな人物に恩もあり大名統制に躊躇があったのです。
しかし、秀忠にはしがらみが一切なく、幕府のためと割り切って大鉈を振るうことができました。
秀忠の大名統制によって、将軍の権威は高まりゆるぎない幕府の基礎を作り上げました。



秀忠・・・幕府の安定を図る
苛烈な大名統制によって将軍の権威を高め、江戸幕府の基盤を堅固なものにした秀忠。
さらに秀忠は、将軍と一握りの側近によって行われていたそれまでの政治体制を改め、集団合議制を採用します。
これによって、将軍の才覚に左右されない安定した政治ができるようになり、幕府の寿命を大きく引き伸ばしました。
カリスマ性のない時分では、父のようなトップダウンは無理と考えたうえでの改革でしたが、それが功を奏したのです。
また、秀忠は中国船以外の外国船の入港地を平戸と長崎に限定します。
キリスト教の排除に力を注ぎましたが、これがのちの鎖国政策の基礎となりました。
秀忠は、戦国の世を生き抜いた名将、猛将をつねに近くにおいて、彼らの言葉に謙虚に耳を傾け、政について貪欲に学びました。
その性格は、実直で非常にまじめでした。
生誕の日に労われても・・・

「将軍たるものは、常に己を慎み、死ぬ瞬間まで政を行い続ける義務があるのだ」

その思いは、病になっても少しも変わらず・・・

「天下の主が長生きを望んで政をなおざりにするなど畜生にも劣る行為だ」

そう言って、通常通り政務を行いました。

1622年、徳川家光が3代将軍に就任。
秀忠は45歳で大御所となりましたが、家臣たちの希望もあってそのまま政を続けました。
しかし、50歳を過ぎた頃から胸に激しい痛みを感じるようになり、元々悪かった片目を失明。
それでも秀忠は、毎日身なりを整え政務を行っていましたが・・・
病状は悪化の一途をたどり、ついには薬も受け付けなくなってしまいます。
死期を悟った秀忠は、家臣たちに

「わが命は幾ばくも無いが、今一度東照宮を詣でてここまで天下の安寧を保っていたことを父上に伝えたい」

秀忠は、父・家康に認めてもらいたいと、ずっと思っていました。
幕政に参加していた天海僧正が、見舞いにやってきて秀忠に問いました。

「大御所様(秀忠)は家康公のように神号をお受けにならぬのですか」

「我はただ先代の業績を守ってきただけで何の功徳もなく、神号などとんでもない
 人はとかく上ばかりに目が行くが、己の分際を知らぬのが一番おそろしいこと」by秀忠

そう言って、神となることを辞退し、1632年1月24日、54歳でこの世を去りました。
何事につけ、父・家康を尊重し、傀儡将軍となることを受け入れ、家康の死後は幕府の基礎をしっかりと築いた徳川秀忠・・・
この2代将軍の実直さ、謙虚さ、賢さがあったからこそ江戸幕府は260年以上続いたと言って過言ではありません。

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戦国の世に終止符を打ち、260年あまりの太平の世を築き上げた徳川家康。
その家康に仕え、江戸幕府最大の功労者といわれるのが、家康よりも4歳年上の本多正信です。
家康の傍で、天下取りの戦略を練り続けた参謀。。。
家康の知恵袋でした。
本多正信はどのようにして家康に認められ、どのように支えたのでしょうか?

1538年、本多正信三河国に生まれました。
本多家は、藤原氏を始祖とする名門でしたが、若い頃は家康の臣下として足軽よりも身分の低い鷹匠として仕えていました。
そんな正信に大きな転機がやってきたのは、26歳の時・・・。

1563年三河一向一揆です。
一向宗の門徒と家康が激突します。
今川家から独立したばかりの家康が、領国支配を急ぐあまり、一向宗の特権を侵害したことが原因でした。
この時、一向宗の門徒であった正信は、家康に反旗を翻し、一揆軍に身を投じて、家康の首をとるために戦うこととなったのです。
どうして一向宗側に着いたのでしょうか?

本多家は貧しく一向宗に肩入れしました。
当時はまだ家康との固い絆はありませんでした。
正信だけではなく、かなりの家臣が一向宗に加担しています。
困窮のために、家康よりも一向宗に救いを求めたのです。
そして翌年、一揆が収束すると・・・
家康は、一向宗に加担した家臣たちの罪は問わないとし、多くの家臣が家康のもとに帰りましたが・・・。
正信は家康の元には戻らず、身重の妻を残して出奔。
その後の消息ははっきりとは分かっていませんが、諸国を回り、加賀一向一揆に加わったり、三好家の家臣松永久秀に仕えていたといわれています。
久秀は、戦国時代きっての梟雄と呼ばれた人物です。
松永久秀自身は、主人の三好家を乗っ取ったり、室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃して殺害するなど戦国時代きっての戦略家です。
そこで多くの事を学んでいた正信・・・
久秀は正信のことをこういっています。
「剛に非ず 柔に非ず 非常の器である」と。

強いだけでも優しいだけでもない・・・計り知れない器量の持ち主である・・・と。
正信が家康のもとに起算したのは、出奔から20年後の事でした。
”帰り新参”といわれる肩身の狭い立場で、かつ、裏切り者・・・。
槍も剣もあまり使えなかったようで・・・。
家康に仕え、生死を共にしてきた家臣たちにとっては総スカンの存在でした。

広い視野と情報網を持つ本多正信が名参謀となったのは・・・??
1590年豊臣秀吉は、北条氏を倒して天下を統一!!
徳川家康は、家康から北条氏が治めていた関東への転封を命じられ、江戸城に入城。
その頃、家康は、家臣たちを試すためにこんな問いかけをしていました。

「さて・・・力づくでどのあたりまで攻め込むのがよかろう?」

徳川軍が関東から京に攻め上った場合の可能性についてです。
すると・・・ある者は勇ましく「関ケ原」まで。「浜松」まで。
しかし、正信は一言も発しませんでした。

今の徳川は、江戸を出ることはできない・・・。
冷静な状況判断でした。
以心伝心・・・的確な分析能力を読み取った家康は、その通り・・・と、頷いたといいます。
家康を関東に封じ込めたのは、後ろに蒲生氏郷がいたからです。
関東から西に動いた瞬間に、蒲生が攻め込んでくる・・・正信はそれが解っていたのです。
分析や戦略を立てることのできる正信・・・家康の天下取りには必要な人物でした。
また、人を諫めるのも上手でした。

家康の信頼を得た正信は、家康が大きな決断を求められるたびに参謀として意見し、それを家康はことごとく採用していくこととなります。
1592年、朝鮮出兵。
家康は、九州・名護屋城への参陣を命じられます。
しかし、兵を出すのはそこまで・・・というのが正信の主張でした。

「朝鮮出兵は、必ず失敗に終わり、出陣すればただ兵が疲弊するのみ。」

正信は、朝鮮出兵が無謀な戦いであると見抜いていたのです。
幸い、家康は朝鮮半島の出兵は免れ、徳川の軍事力の保持を図ることができました。
正信の読み通り、朝鮮出兵は豊臣政権に多大な打撃を与え、家臣たちに大きな亀裂を与えたのです。

「この戦のあと、殿に天下取りのチャンスがやってくる・・・」

朝鮮出兵のさ中に、豊臣秀吉が62歳で死去。
すると徳川家康の知恵袋・本多正信が動きます。
石田三成ら文治派と、加藤清正・福島正則ら武断派の対立を煽り、秀頼政権の弱体化を図ったのです。
その結果・・・事件が勃発。
朝鮮出兵で身を削って戦った浅野幸長・加藤嘉明・黒田長政・福島正則・加藤清正・池田輝政・細川忠興らが三成を討つべく兵を挙げました。
世に言う”七将襲撃事件”です。

窮地に陥った三成は、屋敷をでると家康の元へ助けを求めます。
家康にとっては、飛んで火にいる夏の虫・・・三成は、反家康勢力の急先鋒で邪魔な存在でした。
そんな三成をどうする??
正信は家康に進言します。
「三成を助けた方が、天下取りには都合がよいと存じます。」
本多正信ならではの考えでした。

三成を殺しても、反家康勢力を一掃することはできない・・・
家康は、三成を隠居させる条件で、七将の怒りを抑えました。
この騒動で、七将を咎めなかったことで、家康は彼らを味方につけることに成功。
そして、三成を生かしておいたことで・・・三成が反家康勢力を集結して挙兵!!
天下取りのために、彼らを討つという大義名分が家康に転がり込んできました。
東西16万の軍勢が関ケ原で激突!!
戦いは、一日で決着がつき、反家康勢力は一掃されたのでした。
まさに、参謀・本多正信の知略が、家康に天下をもたらしたのです。

しかし、家康の命運をかけたこの戦いで、正信は大きな失敗をしていました。
正信は家康の子・秀忠に付き従い、徳川本隊3万8000を引き連れて中山道を・・・。
しかし、真田一族が守る2500の兵・・・上田城を落とせず・・・関ケ原の戦いに後れてしまいました。
正信は武将としての経験は少なく・・・しかし、そんな正信を怒ることはありませんでした。
というのも、、正信の実力は武功ではなく、戦後処理能力にあったからです。
井伊直政らと共に、関ケ原の論功行賞と処罰を行った正信・・・。
石田三成を処刑するなど西軍の武将には厳しく・・・三成の息子の処分については驚くべき進言をします。
「助命するのが徳川の為です。」
西軍を敵に回すのではなく、味方につける・・・恨みを残さない・・・というのが正信の戦略でした。
人の心を知り尽くした知略が、徳川幕府を築いたのです。
恨みの連鎖を断ち切ることによって・・・。

この助言を聞き入れた家康・・・三成の子は、処刑されることなく、生き延びることとなります。
一方、豊臣恩顧の武将たちで東軍に加わったものには・・・加増を行います。
先陣を仰せつかり、戦功第一とされた福島正則は24万石→49万石に。
関ケ原の戦いには参加しなかったものの・・・九州で反家康派を抑えた加藤清正は19万石→52万石。
ところが、石田三成本体と華々しく戦った加藤嘉明には10万石→20万石。
この沙汰を知らされた嘉明は怒り心頭!!
家康が50万石への加増を提案したのに、正信が反対し20万石に留まったのです。
怒りの収まらない嘉明は正信と直談判・・・。

「豊臣家に恩がありながら武功をあげた者が大きく加増されれば、恩賞目当てでまた裏切るのでは?と、人に都に大きな疑念を与え、将来、災いをもたらすことになります。
 それでもよければ、更なる加増を考えます。」

正信は、嘉明の子孫の事も考えていたのです。
正信の言葉通り、大幅に加増された福島家、加藤家はおとり潰しの憂き目にあっています。
しかし、正信の一言で、それを受け入れた加藤嘉明の子孫は明治維新まで13代・・・大名であり続けることができました。

正信の処遇は・・・??
正信が大名に列せられたのは53歳の時でした。
幕府成立以降は、相模国玉縄に2万2000石を拝領していました。
他の武将たちが次々と加増を受けても、正信の所領は変わりませんでした。
幾度となく加増の話が家康からありましたが、受けようとはしなかったのです。
「たとえ家が富まずとも、貧しいわけではなく、一生食べていくことができまする。
 それがしにとお考えの領地は、ぜひ武功があったものにご加増をお願い申し上げます。」
そして跡継ぎ・正純に対しても、「3万石を超える加増を受けてはならん!!」ときつく言い含めていました。
人事権を持つ者が、武功をあげずに加増を受けると、周囲の反感を買うと思ったからです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府を開きます。
この時、家康は62歳、正信66歳になっていました。
家康はその2年後に、秀忠を2代将軍に付けます。
徳川幕府が世襲制だと天下に知らしめるためでした。
家康自身は大御所となって、駿府からの院政を行います。
正信は江戸で新しい将軍秀忠に仕え、正信の子・正純が家康の側近となって支えます。
どうして秀忠の参謀に着いたのでしょうか?

家康からの伝言を聞けば、全てわかっている正信が秀忠に着いたのです。
そして、正純を家康に育ててもらうという側面がありました。
正信は、江戸幕府を盤石にするために、徳川家臣団の再編成に着手します。
幕府重臣から多くの武功派を粛正する一方、実務能力のある官僚にポストを与えていきます。
正信の標的となった武闘派のひとりが、譜代の重臣・大久保忠隣です。
正信は領地を没収し、一族や親しい大名までも処罰します。
その理由は・・・かつて大久保家に仕えていた金山奉行の大久保長安が、金銀を横領、私腹を肥やしていたことに連座するものでした。
忠隣は、長く家康の天下取りを支え、多くの武功をあげていました。
しかも、父・忠世は正信にとって大恩人でした。
かつて正信が身重の妻を残して出奔した際、ずっと家族を援助していてくれていたのです。
そんな恩人の子である忠隣をどうして処罰したのでしょうか?
私利私欲がなく、清廉潔白・・・しかし、政治はきれいごとでは済まない・・・徳川のために、大久保を処罰したのです。
恩人の息子だからといって許してしまえば、法は立ちいかなくなります。
正信は、戒めの為にも厳しい処罰を下し、江戸幕府の体制引き締めを図ったのです。

江戸に幕府が開かれ、長い戦乱の世が終わろうとしていました。
しかし、徳川家の参謀・本多正信には、生きているうちに決着をつけておかなければならない難題がありました。
大坂城にいる豊臣秀頼です。
1611年・・・家康70歳、秀頼19歳の時に、二条城で会見をします。
現れた19歳の秀頼は、想像以上にたくましく聡明に育っていました。
その姿を見た正信は警戒しました。
秀頼が徳川の天下を脅かす存在になるのでは・・・??
「もし戦が起きたとき、秀頼が求めれば、豊臣恩顧の大名の10人のうち、6人が応じるでしょう。
 早めに征伐を・・・!!」
正信の最後の大仕事が始まりました。
秀頼追い落としの謀略とは・・・??
大坂城に蓄えられた軍資金を減らすために、淀殿の信仰心をくすぐります。
神社仏閣への寄進、建物の改修費用として金銀を湯水のように使わせます。
正信の狙いは、豊臣家を無力化し、淀殿を大坂城から移すことでした。
天下は徳川にあり!!豊臣は無力である!!ことを、知らしめたかったのです。

しかし、徳川の思ったようには行かず、淀殿が大坂城を動くことはありませんでした。
そこで正信は、豊臣家に対し、地震によって崩壊していた秀吉ゆかりの方広寺大仏殿の再建を勧めます。
1614年、豊臣家が巨額の費用をかけて大仏殿を完成させると、徳川方は疑惑を突き付けます。
大仏殿の再建のために鋳造した鐘に見過ごせないものが・・・
その問題とは、鐘に刻まれた「国家安康」・・・家康の文字が分断して呪い、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を祈っていると非難したのです。
そう、「方広寺鐘銘事件」です。
方広寺鐘銘事件は、完全な言いがかりで、豊臣方は激怒!!
秀頼は、大坂城におよそ10万の兵を集めて籠城、対決姿勢を鮮明にし、最終決戦へ・・・!!
正信の思うつぼ・・・まんまと豊臣方がはめられたのでした。

1614年、大坂冬の陣!!
徳川軍はおよそ20万の兵で大坂城を取り囲むものの・・・最強の城を落とすことは容易ではありませんでした。
自然の川と、幾重もの堀で難攻不落!!攻め込むことはできません。
そこで、この堀を無力化するべく・・・和議を申し出、秀頼の領地を安堵する代わりに、徳川方が大坂城の外堀を埋めるという条件で和議を結びます。
しかし、徳川はその約束を反古にして、外堀どころか、二の丸の堀まで一気に埋め始めました。
病気を理由にのらりくらりと豊臣方をかわし、正信が大坂城に赴いたときにはもう、城は丸裸同然でした。

ここまで愚弄されるとは!!
豊臣方は、再度挙兵します。
これこそ、正信が待っていた瞬間でした。
こうして堀のない大阪城は、大坂夏の陣(1615年)であっという間に落とされ、豊臣家は滅亡・・・
江戸幕府は名実ともに盤石となったのでした。
凄まじい本多正信の策略・・・。
諸国放浪でいろいろな主人に仕え、鷹匠であったことがこの策略、謀略に長けていた理由なのかもしれません。

1597年4月17日、徳川家康は、豊臣家の滅亡を見届けた翌年この世を去りました。
その2か月後・・・6月7日、家康に仕えた本多正信も後を追うように亡くなります。79歳でした。
所領は2万2000石のまま、生涯、つつましく精錬に生きたのでした。
そんな正信の信念は、息子・正純に厳しく言いつけられていました。

「決して3万石以上を拝領してはならぬぞ。」

ところが、正純はその言葉を守らず、宇都宮藩15万5000石を拝領。
すると、謀略が正純を待ち構えていました。
武功もなく出世した本多親子に対して、不満を持っていた重臣たちからの謀略が・・・

1622年、2代将軍徳川秀忠が家康の7回忌のために日光に赴いたとき・・・
正純は、将軍暗殺の疑いをかけられます。
正純の居城・宇都宮城に宿泊予定の秀忠を釣り天井で殺そうとしていると・・・。
根も葉もない作り話でしたが・・・正純は拝領してしまったことで、周囲の嫉妬を煽って、親の言いつけを守らなかったことで、自ら墓穴を掘ってしまったのです。
正純は、将軍・秀忠への謀反の意志ありとして、領地没収、出羽国・横手へ流罪となってしまいました。

父・本多正信の戒めを守らなかった故に、他の重臣たちの謀略で潰されてしまいました。
正純は失脚してしまったものの、正信が作った徳川幕府は平和な世をもたらしました。
もし、正信が家康の参謀でなかったら・・・天下は家康のものとなったのか・・・??

「およそ主君を諫める者の志
   戦いで先駆けするよりも大いに勝る」by徳川家康

本多正信の功績は、どんな武将よりも徳川家康に評価されていたのでした。



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いよいよ最終回です。
とにかく、実在しているのかもよくわからない井伊直虎という主人公を、1年間もドラマとして成立したことにビックリ!!と同時に感心しています

それでは・・・最終回!!

「敵は本能寺にあり!!」ということで、明智光秀の謀反によって、信長は亡き者に・・・!!

そして、その混乱に乗じて、三河に帰ってきた家康です。
そうそう・・・伊賀越えもせずに・・・??

明智に謀反を持ちかけられながら・・・何食わぬ顔で、信長の弔い合戦に向かう家康でした。

この半年後に死んじゃうのに、ピンピンと元気に堺にいた直虎は・・・??
井伊に戻ることに・・・。
ということで、龍雲丸とはまたお別れ・・・なのでした。

龍雲丸は、南蛮船に乗るという・・・
「共に行きますか??」って、もう死ぬ直前なんだよ~~~!!直虎はっ!!
水筒を選別にもらって、別れる龍雲丸なのでした。

信長の弔い合戦に馳せ参じた家康ですが・・・
すでに明智は討たれていました。
そして家康は、甲斐・信濃に侵攻していきます。

浜松では・・・
謀反の証拠となる光秀の息子・自然をどうするか・・・悩んでいました。
直虎は自然を井伊谷の隠し里へ・・・。
と思っていたら、万千代登場!!その子を徳川が預かるという・・・。
と、於大登場!!
って、それこそおばあさんじゃん・・・
この時点で嘘くささ100倍になってしまいました。

「お家のためにござりまする・・・」と、渡すように・・・

naotora4
















そこへやってきたのは織田の者・・・「明智の子」を探してやってきたのです。

「この子は、亡き信長公のお子じゃ!!」by直虎

と、信長の子にしてしまいました。
信長にもらった茶碗をもって、本人と認めさせてしまいました
ちょっと強引かな??とも思うんですが・・・
もし、信長の子であって、こんな騒ぎになっていたら、迎えが来るんじゃないの?なんて思ってしまいます。

実際、龍潭寺四世・悦岫永怡は信長の子では?と言われています。
もちろん、あの茶碗は本人がもっていたという説もあります。
が・・・自然に関しては、明智光秀の五男ともいわれています。

明智光秀が豊臣秀吉に負け、討ち死にした後、近江坂本城で自刃したとされています。

ま、創作でも何でもいいんです。
嘘が真になることもあるしね・・・でも、かなり強引でしょう


いきなり咳をし出す直虎。

「治らんのう・・・」by直虎
って、いつからだよ??
先週堺に行ってたじゃん!!って、ツッコミ入れたくなります

そして、直虎は、自分の死を悟ったのか、井伊谷のみんなの行く末を考えだしました。

「面の世で上手くいかぬものは、必ず出続けましょう。
 さような者たちを逃したり生き直す場を与えたり・・・世に戻るための洞穴のような役目を果たすところがいるのではないかと・・・。

 そのためにも、ここにはもはや世捨て人がおるだけただの一つの寺があるだけだとした方が、働きやすいのではないかと。」by直虎


「逃げ回り、策を巡らし、挙句潰してまで・・・
 それでも命脈を保ってきた井伊じゃ・・・。
 それは、井伊が負うべき役目なのかもしれぬの・・・」by南渓和尚


なんて話は終息に一気に向かいます。
近藤殿の屋敷で倒れてしまった直虎・・・。


その頃、徳川は北条と戦うことになってしまっていました。
笛を吹いてほしいと家康に頼まれた万千代・・・どこを探しても笛がありません。
笛は・・・??
その頃、笛は、直虎の耳に聞こえていました。
笛に誘われてやってきたのは井伊の井戸・・・
そこには、亀が・・・笛を吹いていました。

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そこには鶴も・・・。
「まあ、とにかく行きますぞ!!」by鶴

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「行くんだったら。俺も連れてくれよ~~!!」by龍雲丸

ということで、みんなで旅立ってしまうのでした。

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そして・・・笛は直虎の手元に・・・。
直虎が守った井伊谷の村のみんなに見送られて・・・。
その地には、沢山の穂が!!

家康のもとにいる万千代に井伊からの知らせが・・・
手紙を読んだ万千代の目には涙が・・・!!
みんなの心を表すかのように大粒の雨が・・・雷鳴と共に!!

北条と和睦をしようと考えている家康の面々。
気もそぞろの万千代ですが・・・

そこへやってきたのは南渓和尚。

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弔いに行けない万千代に笛と・・・碁石を渡します。
だから。。。副題が石なんですね?

「井伊の魂じゃ・・・」by南渓和尚

「井伊の魂?」by万千代

「なんじゃと思う?それは・・・」by南渓和尚

「井伊は井戸端の拾い子が作った国・・・。
 ゆえにか殿は余所ものに温かかったです。

 うたミニは竜宮小僧のようにあれかしとし。
 泥にまみれることも厭わず恐れず。
 戦わずして生きていける道を探る・・・」by万千代

「殿は、小さな谷でそれをやった。
 そなたはそれを、この日の本を舞台にやるのじゃ!!
 頼んだぞ。」by南渓和尚

そうして万千代は、北条での交渉を・・・和睦の使者を自分に任せてほしいと進言するのでした。
そうして、これを成功させた万千代は、遂に、元服の日を迎えます。

「井伊万千代、今日これよりは・・・”直政”と名乗るがよい!!
 井伊の通字である”直”そして、小野の通字である”政”を取り、そなたの名とせよ。

 どうじゃ・・・わしはこれよりない良い名じゃと思うが・・・。」by家康


「”百尺竿頭進一歩”
 ”犬死一番絶後再蘇”
 何事も大死あってこその蘇りにございましょう。
 この身にございましょう。

 新しき井伊は、この方々から始まったのだと、井伊直政、この名と行いを通して、伝えていく所存にございます!!」by直政

そして・・・直政には褒美として、沢山の家臣たちと、武田の赤備えの猛者を預かることとなったのです!!


時は戦国、群雄が割拠し、戦や略奪が繰り返された混乱の世。
その流れに果敢にも飛び込んだ女子がおった。
彼女が守り続けた井伊家は260年にわたり、江戸幕府の屋台骨を支えることとなったのじゃ。
勇ましい男名で男たちと渡り合ったその女の名は・・・。

完!!

ということで、遂に、「おんな城主直虎」が終わってしまいました。

直虎の最期は、まるで少女漫画そのまんまというか・・・男子の中に女子一人・・・
花男みたいな演出でした。
個人的には、一緒に殺されてしまったような龍雲丸が可哀想な気もしますが、皆さんはどうでしょう?

終盤、直政が出て来てからは、結構面白かったと思います。
メリハリがあるというか・・・戦国時代っていうか!!
ま、三河武士でもないにもかかわらず、徳川四天王に上り詰めた男ですから、そりゃあ、面白いでしょう。
でも、直政が生きている間には、戦い、戦いの時代が続きます。
直虎や?家康が願っている天下泰平の時代はまだ来ないんですよね。
戦って、戦って・・・鬼となった直政を見てみたい気もします。
っていうか、通年書いてきましたが、直政じゃダメだったんかい!!
あ・・・女子でないとダメなのか??

でも、何もわからない井伊直虎という人物を、50回も持たせたなんて、すごいなあ・・・!!っては思います。

個人的には男子が主人公の方が好きです。
それがたとえ、視聴率ワースト1位の平清盛であったとしても!!
清盛、面白かったじゃん!!
松山ケンイチも、窪田正孝も、若いのにめっちゃ演技派だったの覚えてるよ!!
あんなに面白かったのに・・・

それにしても、南渓和尚って、直平の兄弟だよね??
影の主人公である和尚は一体何歳なの??

ということで、今年が終わってしまいました。
来年は西郷さんですね。
とっても人気なというか、思い入れな人が多い人気の歴史人物です。
どんなふうに描いてくれるのか、楽しみに待ちましょう!!
今年もありがとうございました!!
それではよいお年を!!


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あああ・・・
この副題のなんと緊張感のない事かっ!!
「桐島、部活やめるってよ」と、なんか通じるものがあるのかっ!!
ま、神木隆之介君は、私のお気に入りですが・・・。
これから天下統一に向けて盛り上がろうってときに、テンション下るわ~~~!!

織田に従い、無実の妻と息子の首を差し出した家康・・・
武田攻めでも織田に計略を潰され・・・
それでも耐えに耐え、武田の滅亡とともに、駿河を手にしました。

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お祝いムードの徳川家臣たち

そこへ、織田からの火急の使者が・・・!!

ご用命とは・・・??
「織田様は、まだ甲斐におられ、これから終わりに戻られるそうです。
 その折に富士を拝みたい。」らしい。
ついでに、遠江・三河の名所も楽しんで戻りたいと・・・。

つまり・・・
「ご遊山の旅じゃ」
粗相をすることなく、織田様をもてなさなければ!!

道を広げたり、陣屋を設けたり・・・

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六左は大忙しですね

万千代も奮闘中です

織田が浜松にやってくる・・・
氏真は・・・「われもいよいよ取り入らねば!!」
ほんと、最近の私のお気に入り、食えない氏真大爆発です。

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やってきましたよ、信長!!
ひれ伏す家康&家臣たち。

「此度は、駿河・遠江までわざわざのお出ましいただき、まことに恐れ入ったる次第でございます。」by家康

そこへ、祝賀のためとやってきた氏真。。。
祝い事には楽しい男であろう・・・と、家康との挨拶中にもかかわらず、氏真を引き入れるのでした。
ま、必死に接待する家康にとっては助け船になったかな・・・??

やってきた氏真・・・
よくよく考えたら、氏真は父を殺されお家は無くなり、お家は残ったものの家康は正室と嫡男を殺されている・・・
凄いメンバー

「上様、徳川様、此度の武田との戦の事、おめでとう存じます。
 当今川家にとっても、武田は積年の仇敵・・・上様、また徳川様のお骨折りには、ただただ感謝しかございません。
 よろしければと、一つ、お祝いの座興を用意いたしてまいりました。
 ここのところ、上様に置かれましては、こと、相撲をお好みと伺いまして・・・
 三河の美丈夫どもを集めて参りました。」by氏真

と、相撲が始まりました。
そこには、直之も・・・相撲に出さされたことに納得のいかない直之ですが・・・。

小さいのに頑張る直之を見て、桶狭間の頃の私と被るという信長。

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「徳川殿・・・
 道中のもてなし、実に見事であった。
 そなたの真心、信長、いたく感じ入った。
 徳川殿の働きにて、武田攻めのために備えた兵糧八千俵も使わずに済んだ。
 あれを汗をかいた皆に遣わそう。
 これからも頼むぞ、弟よ。」by信長

何を考えているのか??信長!!
そして氏真は何を思う??

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井伊谷に迷い込んできたのか??
この少年は誰・・・??
村の子供でもないらしい・・・。
というか、百姓の子にしては、作法もしっかりしている・・・武家の子ではないか??
その名前は自然!!

何事もなく帰っていった信長・・・。

たくさんお金がかかってしまったと怒る万千代ですが。

そしてまた・・・信長からの手紙が・・・。
せんだっての徳川のもてなしに対し、織田ももてなしを持って返礼としたい。
安土、京や堺などを案内したい。との事でした。
しかも、家臣たちも・・・。
何か怪しい??

城ががら空きになってしまう・・・。
罠なのか・・・??
しかし、断りたくても断れない??

そこへやってきたのは、氏真でした。
その理由は・・・??

「今日、安土から招きが来たようじゃの。
 何故知っていると思う?
 わしは、招きに応じた方が良いと思うぞ。」by氏真

と、家康に耳打ちしました。
その内容は・・・??

いきなり場面は変わって井伊谷??っていうかおとわ。
太守様に子供のことを白状するように迫ります。

「彼は・・・織田の家臣・明智の子供じゃ・・・」by氏真

苦虫をかみつぶしたような顔で、白状しました。
祝と称して徳川にやってきたのは、光秀との密談の為でした。

「太守様・・・共に信長を殺しましょうぞ・・・!!」by光秀

ということで、光秀によると、徳川のもてなしに感動したふりをして、京へ招いて家臣もろとも暗殺しようとしているらしい・・・!!と、おとわに密談?するのでした。 
その饗応と暗殺を任されているのが光秀で・・・それを反対に信長を殺す機会にしようと氏真に相談したのでした。
そして、その証に息子を人質に出したのだそうだ・・・。

「井伊殿・・・桶狭間で死んだ井伊の者たちの仇・・・ 
 瀬名の仇・・・討ちとうは無いか?
 わしは討ちたいぞ・・・!!
 フッ・・・そうか・・・そなたからすれば、わしも仇か・・・」by氏真

「故に、仇は誰かと考えぬようにしております。
 それで、その話に徳川殿は乗ると・・・??」byおとわ

このままでは、徳川は織田に消される・・・家康もそうなる前に、風向きを変えたい・・・とは、思うのでは??
自分が家臣たちに裏切られた経験から・・・そうして、家康の経験からそうするのでは??
と、おとわに投げかける氏真。。。

実のところ家康は、迷っていました。
そして・・・おとわと対談する家康。

「私は、徳川様に、織田にとって代わってほしいと望んでおります。
 私は、徳川様に、いつかこの日の本をまとめる扇の要となっていただきたいと・・・!!
 心ひそかに望んでおります。」byおとわ

「わしなどに何故・・・」by家康

「さようなことをお考えになったことはございませぬか。
 世を動かしたいと・・・!!」byおとわ 

「わしは此の世が嫌いじゃ・・・
 戦や、謀や、首や・・・さようなことばかりで物事を決する・・・昨日までの味方が、今日よりは敵になるような・・・
 一年かけて育てた稲が一日で焼かれるような・・・
 一体誰が望んでかようなことになっておるのかの。
 変えられるものならば、変えたいに決まっておる・・・」by家康

「戦を無くされたいと・・・」byおとわ

「戦という手立てがこの世にある限り、武勇が自慢の者たちは、そこに訴える!!
 ならば、あらかじめ、戦を起こせぬような仕組みを敷いてしまうがよい。
 そんなことを考えたりはする・・・

 出来ると思うたことは・・・ないの・・・ない!!」by家康

「なれど、やってみねばわかりますまい!!
 おやりになっては下さいませぬかの。
 私はさような世が見てみとうございます。
 子は預かっておきます。
 お心がお決まりになりましたら、お知らせくださいませ。
 ささやかながら、お力になれる事はあるかと・・・。」byおとわ
 
自然の味方であると自然を安心させるおとわ・・・。
自然を預かることは運命・・・直親も、虎松も、よその寺で守ってもらっていた・・・
此度は、私たちが守る番では・・・??
と、思うおとわなのでした。

そして・・・迷っている家康の背中を押したのは、瀬名の「出るときはでる!!」という言葉でした。

う~ん・・・戦うにあたって、家康のテンションが低すぎるのがなんだかなあ・・・盛り上がりに欠けるような気もします。
瀬名と信康の弔い合戦のような感じで主だった面々は、京都へ旅立つことに・・・!!
その裏では・・・万千代がおとわのもとへ・・・。
理由は・・・徳川を日の本一にするために・・・!!

とりあえず、創作な感じですね。
ま、ドラマなのでいいんですが・・・信長を討ちに行くのなら、あんなに少人数で上洛しないだろうし、逃げ方も考えていたろうから必死に伊賀越えする必要ないなあ・・・と、去年の真田丸を思い出していました。

iga

















この家康もビックリしましたが、”命からがら感”が出ていてとってもいいと思うんですよね。
だからこその神君伊賀越えですし、だいたいから伊賀者が活躍して半蔵門を守るまでになるのになあ・・・??

あんなこんなはどうなるのか?
ま、戦うシーンへの期待は皆無なので、どうなるのか?
楽しみにしています


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