【新品】【本】石田三成〈秀吉〉vs本多正信〈家康〉 島添芳実/著

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戦国の世に終止符を打ち、260年あまりの太平の世を築き上げた徳川家康。
その家康に仕え、江戸幕府最大の功労者といわれるのが、家康よりも4歳年上の本多正信です。
家康の傍で、天下取りの戦略を練り続けた参謀。。。
家康の知恵袋でした。
本多正信はどのようにして家康に認められ、どのように支えたのでしょうか?

1538年、本多正信三河国に生まれました。
本多家は、藤原氏を始祖とする名門でしたが、若い頃は家康の臣下として足軽よりも身分の低い鷹匠として仕えていました。
そんな正信に大きな転機がやってきたのは、26歳の時・・・。

1563年三河一向一揆です。
一向宗の門徒と家康が激突します。
今川家から独立したばかりの家康が、領国支配を急ぐあまり、一向宗の特権を侵害したことが原因でした。
この時、一向宗の門徒であった正信は、家康に反旗を翻し、一揆軍に身を投じて、家康の首をとるために戦うこととなったのです。
どうして一向宗側に着いたのでしょうか?

本多家は貧しく一向宗に肩入れしました。
当時はまだ家康との固い絆はありませんでした。
正信だけではなく、かなりの家臣が一向宗に加担しています。
困窮のために、家康よりも一向宗に救いを求めたのです。
そして翌年、一揆が収束すると・・・
家康は、一向宗に加担した家臣たちの罪は問わないとし、多くの家臣が家康のもとに帰りましたが・・・。
正信は家康の元には戻らず、身重の妻を残して出奔。
その後の消息ははっきりとは分かっていませんが、諸国を回り、加賀一向一揆に加わったり、三好家の家臣松永久秀に仕えていたといわれています。
久秀は、戦国時代きっての梟雄と呼ばれた人物です。
松永久秀自身は、主人の三好家を乗っ取ったり、室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃して殺害するなど戦国時代きっての戦略家です。
そこで多くの事を学んでいた正信・・・
久秀は正信のことをこういっています。
「剛に非ず 柔に非ず 非常の器である」と。

強いだけでも優しいだけでもない・・・計り知れない器量の持ち主である・・・と。
正信が家康のもとに起算したのは、出奔から20年後の事でした。
”帰り新参”といわれる肩身の狭い立場で、かつ、裏切り者・・・。
槍も剣もあまり使えなかったようで・・・。
家康に仕え、生死を共にしてきた家臣たちにとっては総スカンの存在でした。

広い視野と情報網を持つ本多正信が名参謀となったのは・・・??
1590年豊臣秀吉は、北条氏を倒して天下を統一!!
徳川家康は、家康から北条氏が治めていた関東への転封を命じられ、江戸城に入城。
その頃、家康は、家臣たちを試すためにこんな問いかけをしていました。

「さて・・・力づくでどのあたりまで攻め込むのがよかろう?」

徳川軍が関東から京に攻め上った場合の可能性についてです。
すると・・・ある者は勇ましく「関ケ原」まで。「浜松」まで。
しかし、正信は一言も発しませんでした。

今の徳川は、江戸を出ることはできない・・・。
冷静な状況判断でした。
以心伝心・・・的確な分析能力を読み取った家康は、その通り・・・と、頷いたといいます。
家康を関東に封じ込めたのは、後ろに蒲生氏郷がいたからです。
関東から西に動いた瞬間に、蒲生が攻め込んでくる・・・正信はそれが解っていたのです。
分析や戦略を立てることのできる正信・・・家康の天下取りには必要な人物でした。
また、人を諫めるのも上手でした。

家康の信頼を得た正信は、家康が大きな決断を求められるたびに参謀として意見し、それを家康はことごとく採用していくこととなります。
1592年、朝鮮出兵。
家康は、九州・名護屋城への参陣を命じられます。
しかし、兵を出すのはそこまで・・・というのが正信の主張でした。

「朝鮮出兵は、必ず失敗に終わり、出陣すればただ兵が疲弊するのみ。」

正信は、朝鮮出兵が無謀な戦いであると見抜いていたのです。
幸い、家康は朝鮮半島の出兵は免れ、徳川の軍事力の保持を図ることができました。
正信の読み通り、朝鮮出兵は豊臣政権に多大な打撃を与え、家臣たちに大きな亀裂を与えたのです。

「この戦のあと、殿に天下取りのチャンスがやってくる・・・」

朝鮮出兵のさ中に、豊臣秀吉が62歳で死去。
すると徳川家康の知恵袋・本多正信が動きます。
石田三成ら文治派と、加藤清正・福島正則ら武断派の対立を煽り、秀頼政権の弱体化を図ったのです。
その結果・・・事件が勃発。
朝鮮出兵で身を削って戦った浅野幸長・加藤嘉明・黒田長政・福島正則・加藤清正・池田輝政・細川忠興らが三成を討つべく兵を挙げました。
世に言う”七将襲撃事件”です。

窮地に陥った三成は、屋敷をでると家康の元へ助けを求めます。
家康にとっては、飛んで火にいる夏の虫・・・三成は、反家康勢力の急先鋒で邪魔な存在でした。
そんな三成をどうする??
正信は家康に進言します。
「三成を助けた方が、天下取りには都合がよいと存じます。」
本多正信ならではの考えでした。

三成を殺しても、反家康勢力を一掃することはできない・・・
家康は、三成を隠居させる条件で、七将の怒りを抑えました。
この騒動で、七将を咎めなかったことで、家康は彼らを味方につけることに成功。
そして、三成を生かしておいたことで・・・三成が反家康勢力を集結して挙兵!!
天下取りのために、彼らを討つという大義名分が家康に転がり込んできました。
東西16万の軍勢が関ケ原で激突!!
戦いは、一日で決着がつき、反家康勢力は一掃されたのでした。
まさに、参謀・本多正信の知略が、家康に天下をもたらしたのです。

しかし、家康の命運をかけたこの戦いで、正信は大きな失敗をしていました。
正信は家康の子・秀忠に付き従い、徳川本隊3万8000を引き連れて中山道を・・・。
しかし、真田一族が守る2500の兵・・・上田城を落とせず・・・関ケ原の戦いに後れてしまいました。
正信は武将としての経験は少なく・・・しかし、そんな正信を怒ることはありませんでした。
というのも、、正信の実力は武功ではなく、戦後処理能力にあったからです。
井伊直政らと共に、関ケ原の論功行賞と処罰を行った正信・・・。
石田三成を処刑するなど西軍の武将には厳しく・・・三成の息子の処分については驚くべき進言をします。
「助命するのが徳川の為です。」
西軍を敵に回すのではなく、味方につける・・・恨みを残さない・・・というのが正信の戦略でした。
人の心を知り尽くした知略が、徳川幕府を築いたのです。
恨みの連鎖を断ち切ることによって・・・。

この助言を聞き入れた家康・・・三成の子は、処刑されることなく、生き延びることとなります。
一方、豊臣恩顧の武将たちで東軍に加わったものには・・・加増を行います。
先陣を仰せつかり、戦功第一とされた福島正則は24万石→49万石に。
関ケ原の戦いには参加しなかったものの・・・九州で反家康派を抑えた加藤清正は19万石→52万石。
ところが、石田三成本体と華々しく戦った加藤嘉明には10万石→20万石。
この沙汰を知らされた嘉明は怒り心頭!!
家康が50万石への加増を提案したのに、正信が反対し20万石に留まったのです。
怒りの収まらない嘉明は正信と直談判・・・。

「豊臣家に恩がありながら武功をあげた者が大きく加増されれば、恩賞目当てでまた裏切るのでは?と、人に都に大きな疑念を与え、将来、災いをもたらすことになります。
 それでもよければ、更なる加増を考えます。」

正信は、嘉明の子孫の事も考えていたのです。
正信の言葉通り、大幅に加増された福島家、加藤家はおとり潰しの憂き目にあっています。
しかし、正信の一言で、それを受け入れた加藤嘉明の子孫は明治維新まで13代・・・大名であり続けることができました。

正信の処遇は・・・??
正信が大名に列せられたのは53歳の時でした。
幕府成立以降は、相模国玉縄に2万2000石を拝領していました。
他の武将たちが次々と加増を受けても、正信の所領は変わりませんでした。
幾度となく加増の話が家康からありましたが、受けようとはしなかったのです。
「たとえ家が富まずとも、貧しいわけではなく、一生食べていくことができまする。
 それがしにとお考えの領地は、ぜひ武功があったものにご加増をお願い申し上げます。」
そして跡継ぎ・正純に対しても、「3万石を超える加増を受けてはならん!!」ときつく言い含めていました。
人事権を持つ者が、武功をあげずに加増を受けると、周囲の反感を買うと思ったからです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府を開きます。
この時、家康は62歳、正信66歳になっていました。
家康はその2年後に、秀忠を2代将軍に付けます。
徳川幕府が世襲制だと天下に知らしめるためでした。
家康自身は大御所となって、駿府からの院政を行います。
正信は江戸で新しい将軍秀忠に仕え、正信の子・正純が家康の側近となって支えます。
どうして秀忠の参謀に着いたのでしょうか?

家康からの伝言を聞けば、全てわかっている正信が秀忠に着いたのです。
そして、正純を家康に育ててもらうという側面がありました。
正信は、江戸幕府を盤石にするために、徳川家臣団の再編成に着手します。
幕府重臣から多くの武功派を粛正する一方、実務能力のある官僚にポストを与えていきます。
正信の標的となった武闘派のひとりが、譜代の重臣・大久保忠隣です。
正信は領地を没収し、一族や親しい大名までも処罰します。
その理由は・・・かつて大久保家に仕えていた金山奉行の大久保長安が、金銀を横領、私腹を肥やしていたことに連座するものでした。
忠隣は、長く家康の天下取りを支え、多くの武功をあげていました。
しかも、父・忠世は正信にとって大恩人でした。
かつて正信が身重の妻を残して出奔した際、ずっと家族を援助していてくれていたのです。
そんな恩人の子である忠隣をどうして処罰したのでしょうか?
私利私欲がなく、清廉潔白・・・しかし、政治はきれいごとでは済まない・・・徳川のために、大久保を処罰したのです。
恩人の息子だからといって許してしまえば、法は立ちいかなくなります。
正信は、戒めの為にも厳しい処罰を下し、江戸幕府の体制引き締めを図ったのです。

江戸に幕府が開かれ、長い戦乱の世が終わろうとしていました。
しかし、徳川家の参謀・本多正信には、生きているうちに決着をつけておかなければならない難題がありました。
大坂城にいる豊臣秀頼です。
1611年・・・家康70歳、秀頼19歳の時に、二条城で会見をします。
現れた19歳の秀頼は、想像以上にたくましく聡明に育っていました。
その姿を見た正信は警戒しました。
秀頼が徳川の天下を脅かす存在になるのでは・・・??
「もし戦が起きたとき、秀頼が求めれば、豊臣恩顧の大名の10人のうち、6人が応じるでしょう。
 早めに征伐を・・・!!」
正信の最後の大仕事が始まりました。
秀頼追い落としの謀略とは・・・??
大坂城に蓄えられた軍資金を減らすために、淀殿の信仰心をくすぐります。
神社仏閣への寄進、建物の改修費用として金銀を湯水のように使わせます。
正信の狙いは、豊臣家を無力化し、淀殿を大坂城から移すことでした。
天下は徳川にあり!!豊臣は無力である!!ことを、知らしめたかったのです。

しかし、徳川の思ったようには行かず、淀殿が大坂城を動くことはありませんでした。
そこで正信は、豊臣家に対し、地震によって崩壊していた秀吉ゆかりの方広寺大仏殿の再建を勧めます。
1614年、豊臣家が巨額の費用をかけて大仏殿を完成させると、徳川方は疑惑を突き付けます。
大仏殿の再建のために鋳造した鐘に見過ごせないものが・・・
その問題とは、鐘に刻まれた「国家安康」・・・家康の文字が分断して呪い、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を祈っていると非難したのです。
そう、「方広寺鐘銘事件」です。
方広寺鐘銘事件は、完全な言いがかりで、豊臣方は激怒!!
秀頼は、大坂城におよそ10万の兵を集めて籠城、対決姿勢を鮮明にし、最終決戦へ・・・!!
正信の思うつぼ・・・まんまと豊臣方がはめられたのでした。

1614年、大坂冬の陣!!
徳川軍はおよそ20万の兵で大坂城を取り囲むものの・・・最強の城を落とすことは容易ではありませんでした。
自然の川と、幾重もの堀で難攻不落!!攻め込むことはできません。
そこで、この堀を無力化するべく・・・和議を申し出、秀頼の領地を安堵する代わりに、徳川方が大坂城の外堀を埋めるという条件で和議を結びます。
しかし、徳川はその約束を反古にして、外堀どころか、二の丸の堀まで一気に埋め始めました。
病気を理由にのらりくらりと豊臣方をかわし、正信が大坂城に赴いたときにはもう、城は丸裸同然でした。

ここまで愚弄されるとは!!
豊臣方は、再度挙兵します。
これこそ、正信が待っていた瞬間でした。
こうして堀のない大阪城は、大坂夏の陣(1615年)であっという間に落とされ、豊臣家は滅亡・・・
江戸幕府は名実ともに盤石となったのでした。
凄まじい本多正信の策略・・・。
諸国放浪でいろいろな主人に仕え、鷹匠であったことがこの策略、謀略に長けていた理由なのかもしれません。

1597年4月17日、徳川家康は、豊臣家の滅亡を見届けた翌年この世を去りました。
その2か月後・・・6月7日、家康に仕えた本多正信も後を追うように亡くなります。79歳でした。
所領は2万2000石のまま、生涯、つつましく精錬に生きたのでした。
そんな正信の信念は、息子・正純に厳しく言いつけられていました。

「決して3万石以上を拝領してはならぬぞ。」

ところが、正純はその言葉を守らず、宇都宮藩15万5000石を拝領。
すると、謀略が正純を待ち構えていました。
武功もなく出世した本多親子に対して、不満を持っていた重臣たちからの謀略が・・・

1622年、2代将軍徳川秀忠が家康の7回忌のために日光に赴いたとき・・・
正純は、将軍暗殺の疑いをかけられます。
正純の居城・宇都宮城に宿泊予定の秀忠を釣り天井で殺そうとしていると・・・。
根も葉もない作り話でしたが・・・正純は拝領してしまったことで、周囲の嫉妬を煽って、親の言いつけを守らなかったことで、自ら墓穴を掘ってしまったのです。
正純は、将軍・秀忠への謀反の意志ありとして、領地没収、出羽国・横手へ流罪となってしまいました。

父・本多正信の戒めを守らなかった故に、他の重臣たちの謀略で潰されてしまいました。
正純は失脚してしまったものの、正信が作った徳川幕府は平和な世をもたらしました。
もし、正信が家康の参謀でなかったら・・・天下は家康のものとなったのか・・・??

「およそ主君を諫める者の志
   戦いで先駆けするよりも大いに勝る」by徳川家康

本多正信の功績は、どんな武将よりも徳川家康に評価されていたのでした。



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