日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:本能寺

一冊でわかるイラストでわかる図解戦国史(SEIBIDO MOOK)

新品価格
¥1,365から
(2013/11/1 18:23時点)

久しぶりの「英雄たちの選択」です。

敵は本能寺にあり!!
本能寺の変は、天下統一目前だった織田信長が、家臣・明智光秀に討たれた戦国史最大の事件です。

後世に大きな影響を与えたこの事件・・・
いろいろ憶測が・・・

①野望説
②怨恨説
③朝廷黒幕説
④足利義昭黒幕説

様々な説が唱えられています。
が、本人もいろいろ悩んでいました。
鍵となるのは・・・光秀の細やかな性格です。

謀反人というイメージが強いのですが・・・???
光秀が多数者の運命に大きな影響を与えたのは間違いありません。

滋賀県大津市1571年光秀は初めての城・・・坂本城を築きました。
その近くにある西教寺には、戦で亡くなった部下たちを弔うための寄進米をしていました。
そこには、侍大将から足軽の名前も・・・そして、名前も同じ位置に、寄進米も同じだけ・・・お供えをしている心優しいところがありました。

どうしてこんなに家臣を大切にしたのか???
光秀は美濃の名門・土岐市の流れをくむと言われています。
前半生はよく分かりませんが・・・
転々とし、15代将軍足利義昭に仕えることになりました。

同じころ・・・織田信長の目に留まり、家臣団に!!
高い教養を備えて、一流の文化人たちや公家たちと親密な光秀は京の事情にも明るかったのです。
光秀は、朝廷や公家たちとの交渉に当たり、織田家の外交官のような存在でした。
信長の期待に応えていきます。

秀吉や重臣たちを差し置いて・・・
初めての城持ち大名となったのです。
その地が坂本城でした。

光秀は、織田家の中では成り上がり・・・
外様大名・・・譜代の家臣が少ないので、自分の領地の地侍や豪族を家臣団に編成していく・・・だからこそ、気を使い大切にしたのです。
軍事面でも戦功をあげていきます。
1580年丹波を平定・・・信長から最高の称賛を受けます。
しかし、光秀は気を抜くことができません。
古参の佐久間信盛が働きが不十分だからと追放されてしまったのです。

今後の働き次第で追放されるかも???

信長の苛烈な要求にこたえていきます。

1582年・・・ついに怖れていたことが!!
光秀が信長に頭を叩かれた!!とか、足蹴にされた!!という記録が残っています。
事の発端は、光秀の重臣・斉藤利光が他の武将の家臣を引き抜こうとしたことが・・・織田家家臣の規律を乱すということで信長の怒りを買ったのです。

斎藤利三は、光秀が最も信頼していた家臣でした。
切腹は免れたものの・・・
大切な家臣の命を奪おうとした信長・・・
光秀は敵意を持ち始めたのです。

さらに・・・光秀と利光を追い込んでいく信長。。。
長宗我部元親と同盟を結び、四国の支配を認めていた信長・・・
長宗我部家と斉藤家は姻戚関係にありました。
その取次役が光秀たちだったのです。

しかし・・・長宗我部に領地の差出を命じます。
従わないと見るや討伐を決定!!
その妨げになると・・・光秀を四国担当から外してしまいました。
長年良好な関係を築いてきた光秀にとって・・・面目丸つぶれでした。

さらに・・・
中国攻めに行っていた秀吉の応援に!!
立場も危うく悪くなり、秀吉の下に・・・!!
心中穏やかならず・・・

光秀は人生の大きな岐路につき悩んでいました。

1582年5月27日、戦勝祈願で有名な京都・愛宕神社に光秀はいました。
秀吉のために、中国攻めに行く途中でした。
2度、3度くじを引き・・・何かを考えている光秀。
そこへ・・・ある情報が!!
信長がわずかな手勢で京都・本能寺に入るという・・・嫡男・信忠と一緒に!!

①千載一遇の好機??
②ひたすらに耐え、信長に従う?
③時期を待つ?

ルイス・フロイスの書によると・・・
日本の66ヶ国を治める覇者になったならば、大船団を形成し、中国を武力をもって征服する・・・
とあります。
大陸を侵攻する場合、秀吉と光秀を総大将にし、九州の大名を従え大陸侵攻を行う可能性が高かったのです。
しかし、九州の大名たちもそんなところには行きたくはない・・・
ということは、光秀に味方してくれるかもしれない。。。
当時光秀は55歳説と67歳説があり、人生50年といわれる時代に残された時間は少ない。

光秀の考えに大きな影響を与えたのは・・・斎藤利三。
斎藤利三が謀反の首謀者だという資料もあります。

信長の長宗我部討伐は6月3日に迫っていました。
利三にとっては姻戚。。。長年の付き合いがありました。
長宗我部氏の利益を守るべき???
ゆれる光秀!!
一刻の猶予もないと決断を迫る利三。

”斎藤内蔵助は四国の儀を気遣いに存ずるによって
 明智殿謀反の事いよいよさし急がれ”           by元親記

家臣団に支えられてここまで来た光秀・・・ここで立たなければ、家中の結束が乱れてしまう!!!
信長の理不尽な行為・・・首を切られる恐怖・・・

「上様を・・・討つ!!!」

1万の軍勢を連れて京都へ!!
家臣たちに真の目的を告げた時・・・

「今日より我が殿は天下様におなりになるゆえ
       下々草履取に至るまで勇み喜ぶがよい」

6月2日未明、本能寺を光秀の軍勢が襲います。

信長は蘭丸に・・・
「これは謀反か 如何なる者の企てぞ」
「明智が者と見え申し候」
「是非に及ばず。。。」

光秀ほどのものが起こした謀反なら、抜かりはないはずじたばたしても仕方がない・・・。と理解されています。

信長を討ち果たし安土城に入る光秀。
6月7日朝廷は光秀の行動を許可し、勅使をよこします。
順調に行くかに見えました。。。
そこに誤算が。。。
味方に付くと思われた畿内の大名たちが離反。
中国地方で毛利攻めを行っていた秀吉の中国大返し。
秀吉の大義名分に呼応するかのように、京に向かう間に多くの武将が味方します。
6月13日の山崎の合戦時には2万に膨れ上がっていました。

光秀軍は・・・近江や丹波などの小大名・・・。
戦力不足の中、光秀は敗れ・・・京都・小栗栖の地で絶命しました。
斎藤利三も生け捕りにされ・・・処刑されてしまったのでした。

12日間の胸中は・・・如何なるものだったのでしょう?
6月9日の細川父子に宛てた手紙が・・・
しかし、当てにしていた細川幽斎は、信長の死を悼み剃髪していました。
無欲を訴え、隠居をほのめかす手紙でした。

人柄が良いのにどうしてついてこなかったのか???
まさに乱世に向かない文化人・教養人だからこそ、武の世界では受け入れられなかったのかも知れません。
でも、信長が死んだことで・・・大量虐殺を防ぐことができていたのかも???

本能寺の変の謎はこちら
秀吉・天下取りへの必勝戦略~奇跡の“大返し”の謎はこちら
悲劇!二君に仕えた男~明智光秀~はこちら

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。


にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

戦国時代100の大ウソ

新品価格
¥580から
(2013/11/1 18:24時点)

本能寺の変 四二七年目の真実

新品価格
¥1,600から
(2013/5/29 06:11時点)




「敵は本能寺にあり!!」

しかし、この数年前まで、光秀は信長にとって最も信頼できる家臣でした。
明智光秀は、信長の家臣の中で一番最初に城持ち大名となりました。
その働きは凄まじく、軍事から朝廷まで、あらゆることに働き・・・
信長は三成のことを「粉骨の度々の功名比類なし」と言ったほどです。

家臣の筆頭格としてありました。

織田軍団にあって、スーパーエリートだった明智光秀、何故本能寺の変を起こしたのでしょうか?
そこには信長と光秀の・・・長きにわたる因縁の関係がありました。

それは・・・天下人・信長を生み出した明智光秀・・・光秀は足利義昭の家臣でもあったのです。

本能寺の変の時・・・信長49歳・秀吉45歳・光秀は54~55歳だったと言われています。
もっと年上だったかもしれません。
もともとは朝倉家や将軍家・・・いろいろと浪人時代も長い苦労人です。

明智光秀は、武将として優秀なのはもちろん、将軍家との交渉や朝廷との交渉・・・外交能力にも長けていました。
そして、領地を治める才能も・・・すべてを持っている武将でした。

光秀は、美濃の守護・土岐氏の一族の出身と言われています。
斉藤義龍によって国を滅ぼされ、諸国を放浪しながらさまざまな知識を習得しました。6年にも及ぶ流浪の末、朝倉家に仕えたものの、義景は凡人で、光秀の才能に気付くことなく官職にあえいでいました。
40歳頃だった光秀、人生はこんなもんかと思っていた時、思わぬチャンスが・・・
足利13代将軍・義輝が、松永久秀と三好一族に殺されるという事件がおきました。
弟・嘉昭は京を逃れ・・・朝倉家に助けを求めてやってきました。

放浪中に、足利家の側近と親しくなっていた光秀は、動き出します。

足利義昭は、朝倉義景に京に上洛し、自分を将軍につけてくれるようにと頼みます。
が・・・実力も野心もなかった義景・・・

イラつく義昭側近の細川藤孝に近づいた光秀は、進言します。
「朝倉に頼んでも・・・
 今の朝倉には、武力も知略もかけております・・・

 尾張・織田信長!!
 義昭様が後ろ盾として頼るべきは、この者をおいて他にはございませぬ!!」

当時、終わりを平定し、勢いに乗る信長・・・なぜ信長だったのか???
光秀は、信長の正室・濃といとこの関係にありました。
自分が交渉役に・・・という計算があったのかもしれません。

そして、信長は実力主義者・・・
それまでは、家とは同族会社のようなもので、縁故なものしか入ることが出来ませんでした。しかし、信長は、実力のあるものを採用します。
傭兵のような形になったのは、信長からなのです。

足利幕府再興の為に・・・

足利義昭は、自らの使者として光秀を信長のもとへ・・・
天下を狙う信長にとっては、渡りに船のことでした。
同時に信長は、光秀の才能を見抜き、自らの家臣となるように勧めたのです。
1568年明智光秀を介して信長は、足利義昭に会うことになります。
そして、その2か月後には上洛、3か月後には義昭を15代将軍に押し上げました。

わずかの間に現実となった天下統一・・・信長の全国デビューの仕掛け人は、明智光秀だったのです。

そして、足利義昭の側近と共に信長の家臣という、異例の処遇を受けます。
信長からは、京都奉行を任され、朝廷や公家たちの接待を任されます。
新参の家臣としては、異例の抜擢です。

学識があり、和歌も読める。京都で通用するのは光秀。。。

しかし、やがて2君に仕えたことが、光秀の苦悩となっていきます。

義昭と信長・・・その橋渡しをすることで立場を守ってきた光秀・・・
しかし、2人の間に対立が出来てきます。

将軍になったからには自らがTOPとなれると思っていた義昭。
そんな義昭を、天下取りの道具としか思っていなかった信長。

光秀は二人のはざまで・・・

義昭は将軍として、各地の武将たちに書状を出し始めます。
これを苦々しく思った信長は・・・
「諸国へ御内書を以て
 仰せ出さるる子細あらば
 信長に仰せ聞せられ
 書状を添え申すべき事」
と、厳しく制限します。

この五箇条の条書には、光秀も承認役として・・・義昭を説得します。
義昭の為に信長を推薦した光秀が、義昭を説得する・・・
その心中は複雑だったでしょう・・・

それに反発した義昭は、武田・朝倉・浅井・比叡山・石山本願寺などに信長討伐を!!と、考え始めました。

将軍の統制のもとに世を治めるのがわが理想・・・
しかし、今の将軍家には、名こそあれ力はない・・・
力を持っているのは信長様・・・
私の出世は・・・
名を取るか、実を取るか・・・
結局光秀は、信長の家臣であることを選びました。

比叡山攻めを高く評価してもらった光秀は、信長から滋賀県大津にある坂本城を与えられます。光秀は、信長の家臣の中で、一番最初に一国一城の主となったのです。
信長の最も近いところに守っている光秀は、信長の近衛軍団でもありました。
最も信頼しているからなればこそでしょう。

坂本は、比叡山の門前町として栄えていました。
信長は、町中にも火を放ち・・・山へと追いやったのですが・・・
今でも光秀の評判はいいようです。
西教寺を再興し、ここを菩提寺にしました。
自ら滅ぼした寺を、自らの手で復活させたのです。
この地の人は、今、光秀の名誉復活の活動をしています。

光秀は西教寺以外にも、町を復興しています。
比叡山攻めは、彼の本心だったのでしょうか???

この頃は、信長の家臣であったものの、義昭からのラブコールもまだありました。
そんな中、1572年武田信玄が上洛に動きます。

信長に最大の危機が!!

この時、足利義昭から光秀に・・・
「将軍家に尽くさば 美濃の守護に任じる」
という書状が届いたと言います。

光秀は・・・
天下の主導権は信長にあると解っていました。
だからこそ義昭に、和睦を薦めます。

結局義昭は・・・
1573年信長に京を追放されてしまいます。
理想を棄てて、実利を取った光秀でしたが・・・

信長の家臣として粉骨砕身頑張る光秀。
1579年4年がかりで丹波の国を平定、その間も、近畿方面の様々な戦いに援軍として参加(越前・伊丹・石山本願寺・雑賀)、京都での朝廷との交渉もしていました。
まさに、“粉骨のたびたびの功名比類なし”です。

が・・・信長はリストラもどんどんしていきます。
古参の佐久間信盛は・・・
「光秀の功名は聞こえど、おぬしの功名は一度も聞いたことがない。
いっそのこと討ち死にするか、剃髪して高野山にでも行け」
と、追放してしまったのです。

古参に対しても容赦のない信長・・・
存分に働けるうちはいいが、働けなくなったら・・・???
自分もいつ切り捨てられるか・・・

事実、丹波平定の後、3年間は戦働きの任を与えられませんでした。
1582年信長は武田氏を滅ぼします。が、光秀に参戦の機会なし。
そうした焦りからか・・・戦勝祝いの席で・・・
「これでわれわれも骨を折ったかいがあった・・・」
これを聞いた信長は・・・
「お前に何の骨折りがあった!!」
と、激怒!!幾度も光秀の頭を欄干に打ち当てたとか・・・!!!

本当でしょうか???
これは後世の作り話だとか・・・???
かなりの屈辱です。
1582年3月・・・本能寺の変の3か月前のことでした。

急速に狂い始めた歯車・・・
1582年5月、信長は、長宗我部元親の討伐を決意します。
実は、光秀は、長宗我部と長年友好関係にありました。
しかも、討伐軍は、光秀ではなく三男の信孝でした。
光秀から息子たちへ・・・世代交代を始めていたのでしょうか?

5月12日誕生日に、信長は、「神格化宣言」を配布します。
同時に、信長の非情さも激しくなっていきます。
殺戮に対しての躊躇が無くなっていきます。

5月15日光秀は、安土城にやってきた徳川家康の饗応接待役を務めます。
しかし、6日後・・・5月21日には秀吉の援軍を命じられるのです。
その際・・・光秀の領地だった丹波を召し上げ、毛利領である出雲・石見を与えると告げたのです。
この国替えは、光秀にとっては左遷人事に思えたでしょう。

運命の6月1日、丹波亀山から1万の兵を従えた光秀は、中国地方に向かわずに京の本能寺へ・・・
どうして光秀が・・・
主君を討つには相当の覚悟がいったことでしょう。
しかし、足利義昭に引き合わせたのは自分・・・
そのことで、尾張の一地方から天下の織田信長としたのは自分だった・・・
そんな後悔の念があったのかもしれません。
その後悔の念が、光秀を本能寺に向かわせたのかもしれません。

討ち取った後、友人への手紙には・・・
「信長親子の悪虐は天下の妨げ討ち果たし候」
と送っています。


信長を討った光秀は、中国から取って返した秀吉によって三日天下で終わります。
しかし・・・京都には、光秀の首塚が残されています。
そして・・・
明智光秀は、理想主義と現実主義を兼ね備えた武将でした。
文武両道で引き出しも多く、やるとなったらあらゆる仕事をパーフェクトにこなす、主君にとっては理想的なNo,2だったと言えるでしょう。

しかし、そんなスーパーエリートこそが、キレやすく壊れやすい・・・
理想と現実をバランスよく保っていられるほど、人は強くないのです。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ


このページのトップヘ