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敵は本能寺にあり!!
本能寺の変は、天下統一目前だった織田信長が、家臣・明智光秀に討たれた戦国史最大の事件です。
後世に大きな影響を与えたこの事件・・・
いろいろ憶測が・・・
①野望説
②怨恨説
③朝廷黒幕説
④足利義昭黒幕説
様々な説が唱えられています。
が、本人もいろいろ悩んでいました。
鍵となるのは・・・光秀の細やかな性格です。
謀反人というイメージが強いのですが・・・???
光秀が多数者の運命に大きな影響を与えたのは間違いありません。
滋賀県大津市1571年光秀は初めての城・・・坂本城を築きました。
その近くにある西教寺には、戦で亡くなった部下たちを弔うための寄進米をしていました。
そこには、侍大将から足軽の名前も・・・そして、名前も同じ位置に、寄進米も同じだけ・・・お供えをしている心優しいところがありました。
どうしてこんなに家臣を大切にしたのか???
光秀は美濃の名門・土岐市の流れをくむと言われています。
前半生はよく分かりませんが・・・
転々とし、15代将軍足利義昭に仕えることになりました。
同じころ・・・織田信長の目に留まり、家臣団に!!
高い教養を備えて、一流の文化人たちや公家たちと親密な光秀は京の事情にも明るかったのです。
光秀は、朝廷や公家たちとの交渉に当たり、織田家の外交官のような存在でした。
信長の期待に応えていきます。
秀吉や重臣たちを差し置いて・・・
初めての城持ち大名となったのです。
その地が坂本城でした。
光秀は、織田家の中では成り上がり・・・
外様大名・・・譜代の家臣が少ないので、自分の領地の地侍や豪族を家臣団に編成していく・・・だからこそ、気を使い大切にしたのです。
軍事面でも戦功をあげていきます。
1580年丹波を平定・・・信長から最高の称賛を受けます。
しかし、光秀は気を抜くことができません。
古参の佐久間信盛が働きが不十分だからと追放されてしまったのです。
今後の働き次第で追放されるかも???
信長の苛烈な要求にこたえていきます。
1582年・・・ついに怖れていたことが!!
光秀が信長に頭を叩かれた!!とか、足蹴にされた!!という記録が残っています。
事の発端は、光秀の重臣・斉藤利光が他の武将の家臣を引き抜こうとしたことが・・・織田家家臣の規律を乱すということで信長の怒りを買ったのです。
斎藤利三は、光秀が最も信頼していた家臣でした。
切腹は免れたものの・・・
大切な家臣の命を奪おうとした信長・・・
光秀は敵意を持ち始めたのです。
さらに・・・光秀と利光を追い込んでいく信長。。。
長宗我部元親と同盟を結び、四国の支配を認めていた信長・・・
長宗我部家と斉藤家は姻戚関係にありました。
その取次役が光秀たちだったのです。
しかし・・・長宗我部に領地の差出を命じます。
従わないと見るや討伐を決定!!
その妨げになると・・・光秀を四国担当から外してしまいました。
長年良好な関係を築いてきた光秀にとって・・・面目丸つぶれでした。
さらに・・・
中国攻めに行っていた秀吉の応援に!!
立場も危うく悪くなり、秀吉の下に・・・!!
心中穏やかならず・・・
光秀は人生の大きな岐路につき悩んでいました。
1582年5月27日、戦勝祈願で有名な京都・愛宕神社に光秀はいました。
秀吉のために、中国攻めに行く途中でした。
2度、3度くじを引き・・・何かを考えている光秀。
そこへ・・・ある情報が!!
信長がわずかな手勢で京都・本能寺に入るという・・・嫡男・信忠と一緒に!!
①千載一遇の好機??
②ひたすらに耐え、信長に従う?
③時期を待つ?
ルイス・フロイスの書によると・・・
日本の66ヶ国を治める覇者になったならば、大船団を形成し、中国を武力をもって征服する・・・
とあります。
大陸を侵攻する場合、秀吉と光秀を総大将にし、九州の大名を従え大陸侵攻を行う可能性が高かったのです。
しかし、九州の大名たちもそんなところには行きたくはない・・・
ということは、光秀に味方してくれるかもしれない。。。
当時光秀は55歳説と67歳説があり、人生50年といわれる時代に残された時間は少ない。
光秀の考えに大きな影響を与えたのは・・・斎藤利三。
斎藤利三が謀反の首謀者だという資料もあります。
信長の長宗我部討伐は6月3日に迫っていました。
利三にとっては姻戚。。。長年の付き合いがありました。
長宗我部氏の利益を守るべき???
ゆれる光秀!!
一刻の猶予もないと決断を迫る利三。
”斎藤内蔵助は四国の儀を気遣いに存ずるによって
明智殿謀反の事いよいよさし急がれ” by元親記
家臣団に支えられてここまで来た光秀・・・ここで立たなければ、家中の結束が乱れてしまう!!!
信長の理不尽な行為・・・首を切られる恐怖・・・
「上様を・・・討つ!!!」
1万の軍勢を連れて京都へ!!
家臣たちに真の目的を告げた時・・・
「今日より我が殿は天下様におなりになるゆえ
下々草履取に至るまで勇み喜ぶがよい」
6月2日未明、本能寺を光秀の軍勢が襲います。
信長は蘭丸に・・・
「これは謀反か 如何なる者の企てぞ」
「明智が者と見え申し候」
「是非に及ばず。。。」
光秀ほどのものが起こした謀反なら、抜かりはないはずじたばたしても仕方がない・・・。と理解されています。
信長を討ち果たし安土城に入る光秀。
6月7日朝廷は光秀の行動を許可し、勅使をよこします。
順調に行くかに見えました。。。
そこに誤算が。。。
味方に付くと思われた畿内の大名たちが離反。
中国地方で毛利攻めを行っていた秀吉の中国大返し。
秀吉の大義名分に呼応するかのように、京に向かう間に多くの武将が味方します。
6月13日の山崎の合戦時には2万に膨れ上がっていました。
光秀軍は・・・近江や丹波などの小大名・・・。
戦力不足の中、光秀は敗れ・・・京都・小栗栖の地で絶命しました。
斎藤利三も生け捕りにされ・・・処刑されてしまったのでした。
12日間の胸中は・・・如何なるものだったのでしょう?
6月9日の細川父子に宛てた手紙が・・・
しかし、当てにしていた細川幽斎は、信長の死を悼み剃髪していました。
無欲を訴え、隠居をほのめかす手紙でした。
人柄が良いのにどうしてついてこなかったのか???
まさに乱世に向かない文化人・教養人だからこそ、武の世界では受け入れられなかったのかも知れません。
でも、信長が死んだことで・・・大量虐殺を防ぐことができていたのかも???
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