日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:本能寺の変

1982年6月2日未明・・・
京都本能寺で突如炎が上がりました。
わずかな手勢で宿泊していたのは、天下の織田信長!!
その最も信頼する家臣・明智光秀が襲ったのです。
事件当日光秀には、中国地方で戦う羽柴秀吉の応援に向かう筈が、突然軍を本能寺に向けます。
夢にも思っていたなかった光秀の謀反・・・信長は寺に火をかけ、奥に入って自刃しました。
日本史上最大のクーデターともいわれる本能寺の変・・・いまだに謎が多く、光秀の動機について数えられないほどの説が語られてきました。
真実は何なのか・・・??

①怨恨説
これまで通説そして長く信られてきた怨恨説・・・映画やドラマなどで常に描かれてきた信長による光秀への暴力的叱責・・・怨恨説は、光秀が恨みを募らせて謀反を起こしたというものです。
この説の根拠の一つとされているのが、1582年の「惟任退治記」です。
本能寺の変の4か月後、羽柴秀吉が書かせたもので、光秀を討伐したという記録です。
この資料には、光秀が謀反を起こした動機について、こう書かれています。

「決して当座の思い付きではなく、積年積もる逆意があって、この時が好機であると決断したのである」

主君・信長を殺害するまでに、積もりに積もった逆意とは・・・??
光秀の信長に対する恨みの理由に関して、後世の資料では様々なエピソードがありますが、その中でも有名なものが”徳川家康の饗応役解任”をめぐる確執です。

本能寺の変の2週間前、信長は同盟相手の徳川家康をねぎらうために、安土城で盛大にもてなすことに・・・饗応役としてその仕切りを任されたのが、明智光秀でした。
光秀は、各地から山海の珍味を集め、豪勢な料理の準備に余念がありませんでした。
しかし・・・接待の食事に出した魚から悪臭が漂っていたとして信長が激怒、光秀は足蹴にされたと言います。

信長からの暴力的な叱責は、宣教師ルイス・フロイスの記録にも見ることができます。

”人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度足蹴にしたということである”

信長の光秀に対する激しい叱責と、積年の恨みが光秀が謀反を起こす理由だったのか??

怨恨説の中にはもう一つ・・・斎藤利三をめぐる怨恨説があります。
斎藤利三は、光秀の右腕ともいわれた明智家の重臣です。
本能寺の変から遡ること1か月、斎藤利三は明智家のために他の織田家の家臣から家老の一人を引き抜きました。
これを聞いた信長は、織田家家臣団の規律を乱すとして激怒、利三の切腹を命じるほどの激しい怒りでした。
このエピソードは、利三に家老を引き抜かれた稲葉家の記録「稲葉家譜」に書かれています。
1582年5月27日、光秀は、利三の監督責任を問われ、叱責を受けたと言われています。
この時、あるアクシデントが起こり、光秀のプライドがズタズタになります。
殴ったはずみで、”かつら”が取れてしまいました。
光秀は、髪が薄いことを気にして、普段から付髪をしていました。
人前であからさまに付髪を取られてしまったのは、屈辱でした。
この事件が起きたのは、本能寺の変の4日前です。
公衆の面前で潰された武士の面目・・・これが本能寺の変に向かわせたのでしょうか?

怨恨説の根拠は、後の時代に書かれた二次資料です。
一次資料には、光秀が信長を恨んでいたという記録は残っていません。
怨恨説の否定材料となる一次資料は・・・??
本能寺の1か月前の信長の最後の朱印状が細川家に残っています。
あらゆる軍事情報は、光秀を通じて送るように命じています。
虐めるどころか、光秀あっての近畿の軍事政権であると信頼していました。

光秀が信長を恨んだエピソードは、後世の脚色で、一次資料には見られません。
おおむね否定です。

②共謀説

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、光秀についてこう評しています。

”彼は裏切りや密会を好み、己を偽装するのに抜け目がなく、計略と策謀の達人であった”

計略に長けた光秀と何者かが手を組んで本能寺の変を起こしたのか・・・??
数ある共謀説の中でも代表的なのが”朝廷共謀説”です。
朝廷と光秀が共謀して信長を殺したというものです。
だとしたら、朝廷が信長を亡き者にしようとした理由とは・・・??
本能寺の変の前年、信長は京都で馬揃えを行いました。
馬揃えとは、今の軍事パレードです。
しかも信長の馬揃えは、かつてないほどの壮大なものでした。
朝廷共謀説によれば、信長は軍事力で朝廷を威圧するためのものだったのでは・・・??と言われています。
自らの軍事力を見せつけたうえで、これまでにない要求をします。
”三職推任”です。
三職とは、朝廷の最高職「太政大臣」、天皇の補佐「関白」、武家のTOP「将軍」という天皇の除く最高権力・・・信長はこのうちのどれかに自分を推薦するように天皇に迫ります。
三職を与えるかどうかを決めるのは、天皇の専権事項・・・
信長の要求は、天皇の権力を蔑ろにするような前代未聞の暴挙でした。
朝廷にとって信長は危険な存在・・・
そこで朝廷は、公家とも親しい文化人の光秀に近づき、謀反を共謀したというのです。

イエズス会共謀説
さらに、朝廷以外にも、公家と親しかったイエズス会・・・
キリスト教の布教のために、イエズス会は本能寺の変の33年前から日本で活動を始めました。
この時彼らは、中国進出のために日本での基盤を固めるべく、信長を経済的に支援していました。
ところが、信長がほぼ天下を収め、手中に収めると・・・天下人として振る舞うようになり、イエズス会にとってコントロールできない存在となってきました。
ルイス・フロイスは、イエズス会を震撼させた信長の言動を記しています。

「途方もない凶器を盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないというに至った
信長はあろうことか絶対的な存在であり、キリスト教の守ですら否定し、自分はそれよりも上の存在だと言い出したのだ
神を冒涜する信長を許してはならない」

イエズス会は信長に次ぐ実力者だった光秀に近づき、共謀して信長を暗殺した??
信長を亡き者にしたい朝廷、そしてイエズス会・・・それらの巨大組織が光秀と繋がって本能寺の変を起こしたのか・・・??
イエズス会の重要人物の一人・宣教師オルガンティーノは、安土にいたものの本能寺の変の後、明智軍を恐れ、批難したと言われています。
イエズス会と明智が繋がっていたとすると、オルガンティーノの動きは説明がつきません。

朝廷共謀説、イエズス会共謀説は、根拠となる資料が乏しく否定。

③鞆幕府推戴説

広島県福山市にある惣堂神社・・・
厳重に保管されている御神体は、室町幕府最後の将軍・足利義昭です。
広島と足利義昭、本能寺の変の関係とは・・・??
本能寺の変の9年前・・・1573年に室町幕府が滅亡。
信長に槙島城の戦いで敗れ、京都から追放された足利義昭・・・
これをもって、室町幕府が滅亡したと言われています。
しかし・・・京都追放後、義昭は広島県福山市の鞆の浦に毛利氏の庇護のもと、鞆幕府と呼ばれる勢力を存続・・・
将軍として再起を図ろうとしていました。
しかし、どうして鞆の浦・・・??
港からほど近い小松寺・・・
ここは、室町初代将軍・足利尊氏が京都で幕府を開く直前戦勝祈願のために立ち寄ったとされる寺です。
再び上洛を果たし、幕府復興を目論む義昭にとって、鞆の浦は縁起のいい場所でした。
さらに、鞆の浦は、海流が満潮時に丁度ぶつかる瀬戸内海屈指の交通の要所でした。
四国・九州から、人、物、そして情報が集まり、戦力的にも有利な場所でした。
義昭は、京都から広島に逃れ、信長と敵対する西国の大大名・毛利氏らと組み、打倒信長を画策していたのです。

義昭が御所として使ったとされる常国寺・・・
今でも足利将軍家の家紋「足利二つ引」が掲げられています。
寺に伝わる羽織は、義昭が地元の有力者に贈ったものだとされています。
そこには、将軍家など権力者だけに許されていた紋「九七桐」が使われています。
光秀が鞆の浦で京都奪還を望む義昭に近づき「本能寺の変」を引き起こした??

義昭の野望と、光秀の深いつながりを示す証拠が本能寺の変から10日後に書かれた「土橋重治宛光秀書状」に書かれています。
秀吉との最終決戦・山崎の戦いを控え信長と敵対していた勢力に宛てた協力を求める書状には・・・


「上意への奔走を命じられたことを、お示しいただき、ありがたく存じます
 しかしながら、(将軍の)ご入洛につきましては、すでにご承諾申し上げています。」

信長亡き後、上意が使われる人物は、義昭以外に他ならない・・・??
その義昭の入洛・・・光秀自身既に承諾している・・・??
光秀が、鞆幕府を推戴していた証拠なのでは・・・??
光秀は、室町幕府復興の大義のために、本能寺の変を起こしたのか・・・??
義昭の入洛について承諾しているという光秀の書状から、光秀が義昭を担ごうとしていたことはわかるものの、問題は、光秀と義昭が結びついたのが、本能寺の変の前か、後か??
書状が本能寺の変の後に書かれていることから、光秀が自分の正当性を示すために義昭の権威を利用したのかも??

光秀と義昭のつながりは、変の前→義昭と計画的に行われた謀反
へんの後であれば、謀反の大義名分のために推戴したのでは・・・??と思われるのです。

将軍義昭を再び京都に迎え入れるために奔走した光秀、最近、義昭と光秀のつながりが発見されました。
そもそも、明智光秀に関する信頼できる資料は非常に乏しく、前半生は謎に包まれています。
本能寺の変を起こした時の年齢も、明智軍記=55歳、当代記=67歳と、言われています。

光秀に関して最も信頼されている古い記録は、本能寺の変の15年前、永禄10年の「永禄六年諸役人附」です。
そこには、光秀が越前国の足利義昭陣営の足軽衆であったと記されています。
信長に会う前、光秀は足利義昭の家臣でした。
当時義昭は、将軍だった兄を殺され、京を追われ朝倉氏のもとに身を寄せていました。
幕府とつながりの深い朝倉氏のもとで、上洛に必要な大名を探していました。
そこで目をつけたのが、美濃で力をつけてきていた織田信長でした。
その時、義昭と信長を結びつけるために出てきたのが明智光秀です。
この時、若く見積もっても40歳・・・出自もわからない光秀が、どのようにして義昭と結びついたのでしょうか?
長い間謎となっていました。
そんな中、2017年、熊本で・・・謎に迫る発見が・・・!!
「針薬法」と呼ばれる書物は、細川家の家老米田家に残された光秀本人が語った新資料です。
資料には、永禄9年の物と書かれていますが・・・これが事実なら、光秀に関する一番古い資料となります。
その奥書には・・・
”明智十兵衛光秀は、近江国高嶋の田中城に籠城していた”
光秀は、永禄9年(1566年)以前に武将として活躍していたことがわかります。
どうして明智光秀は、主君・織田信長を討ったのか・・・??

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④構造改革反発説
光秀は、信長の行った革新的な構造改革に反発し、変を起こしたという説です。
世は戦国時代、自分たちの所領や領地を守り、いかにして拡大するか・・・??
大名たちによる限られた土地の奪い合いは、100年近く続いていました。
そんな時代を終わらせるべく、信長が出した全く新しい思想は・・・預治思想です。
土地はあまねく天の物・・・それを預けられ、治める・・・この思想が、信長の革命的な思想なのです。
土地はすべて天からの物で、天下人に与えられたものであり、各大名はその土地を預かっているだけ・・・
そうすることで、土地の奪い合いは無くなる・・・預治思想は、秀吉・家康に受け継がれ、幕藩体制の礎となっていきます。

天正8年・・・1580年8月、信長は大和一帯を治める筒井順慶に居城ひとつを残して他の大和一帯の城をすべて破壊するように一国城割を命じました。
領地・城の管理は、従来の各大名の権限で、それを信長は奪い、自ら差配、それまでの権力者とは、一線を画す命令でした。
そして天正8年を機に、
天正8年 大和 城割 検地
      摂津 城割 検地
      河内 城割 検地 
      和泉 城割 
      丹波 城割 検地
      丹後 城割 検地
天正9年 越中 城割
      能登 城割
      伊賀 城割
光秀や秀吉などの家臣の領地で、石高を調べる検地を次々と行い、領地管理を徹底管理させていきます。
さらに、長年自らに仕えてきた宿老に対し・・・
滝川一益 伊勢長島→上野厩橋
越前府中 江千仙府中→能登七尾
細川藤孝 山城青龍城→丹後宮津
見ず知らずの土地に国替えを命じました。
全ては、天下人を中心とした集権国家にするためのもの・・・まさに、国の形を劇的に変える構造改革をしようとしていたのです。
そして次なる国替えは光秀だった・・・??
江戸時代にまとめられた「明智軍記」によれば、「丹波・近江を召し上げ出雲・石見を与える」と言われたと言います。
丹波の地は、光秀が4年の歳月をかけて平定した土地です。
新しい国の形を探して信長が行った構造改革・・・しかし、旧来の常識にとらわれる家臣たちにとっては、あまりにも革新的過ぎたのでは・・・??

革新的なのは信長か?光秀ら家臣たちか??
革命家・信長と旧来型の家臣・光秀・・・そうした従来の評価は近年大きく変わってきています。
信長の革新的の象徴とされる安土城・・・信長は土の城から城郭へと進化させ、城革命を成し遂げたと言われてきました。

しかし、光秀と親交のあった吉田兼見によると・・・
「坂本城の天守を作るところを見せてもらった」とあります。
坂本城とは、安土城の4年前に建築が始まった光秀の城です。
信長よりも早く、荘厳な天守を築いていた可能性があるのです。
さらに、京都市に残る周山城は、東西に800m、南北に620mの広大な山城で、天守の役割をする建物もありました。
当時の一般的な城は土塁・・・周山城は石垣・・・広大で巨石を積み上げた総石垣の山城は、他に例がありません。
さらに、家臣たちを統率する規律も、時代を先取りしたものでした。
「明智光秀家中軍法」によると・・・
当時の軍は、いろいろな出自の者が集まる寄せ集めでした。
家中軍法では、こまごまとした規律が定められています。
戦場での雑談や抜け駆けの禁止が徹底され、織田家はもとより他の大名家に軍法が存在しない中、明智家だけに存在した法律・・・そのあまりの革新性に、江戸時代につくられた偽の文書ではないかとも言われていました。

革命家と言われてきた信長・・・
朝廷が執り行う儀式には、多額の資金が必要で、それを援助するのは伝統的に室町幕府が行うものでした。
しかし、室町将軍・義昭を追放した後は、信長が変わって経済的援助を行い、朝廷を支えていました。
さらに、岐阜城に入ったのち、天下布武の印を使い始めた信長・・・天下統一を目指し、天下人となる決意表明ととられがちですが・・・
信長にとって戦の目的は、天下統一ではなく、各地で起きる反乱を鎮め、朝廷を中心とした伝統的な秩序を守るためでした。
信長は、次の時代を作った革命家ではなく、最後の戦国大名だったのでは・・・??

この頃、信長が使っていた”天下”という言葉も、最近解釈が変わってきています。
天下とは室町幕府、朝廷、京都のこと・・・??
天下布武は、日本全土を支配するのではなく、近畿一円では・・・??
従来のイメージと異なる信長と光秀の人物像・・・
ここから本能寺の変の真相に、新たな説が見えてきます。

⑤暴走阻止説
信長の暴走を止めるために、本能寺の変を起こした・・・??
1580年、石山本願寺との戦いが終わり、畿内を平定。
しかし、信長は戦いをやめることはありませんでした。
全国各地の自らに従わない勢力に対し、兵を送り、武力で押しつぶそうとしました。
信長の行動は、武力に任せるという旧来の戦国大名と何ら変わりのないものでした。
既に中国地方での毛利との戦いは6年に及び、上杉とも戦いは続いていました。
長引く戦と、拡大する戦線・・・織田家臣団は、疲弊しつつありました。
そんな中で、信長は更なる戦を決定します。
四国攻めです。
尾張の見えない戦の日々・・・そんな信長に最も危機感を持っていたのは光秀でした。
織田家の有力者たちに任された地域を見ると、秀吉の中国地方、柴田勝家の北陸地方に対して、光秀は信長のおひざ元・畿内周辺を任されていました。
さらに、光秀と軍事行動を共にする大名を含めると、京をぐるりと包囲しているのがわかります。
信長の暴走を止められるのは、畿内を任され、軍事的No,2だった光秀のみ・・・??
本能寺の変の動機に関して、自筆の書状が残っています。
”明智光秀覚条々”(1582年6月9日付)によると・・・
本能寺の変の後、細川藤孝に対して自ら筆をとっています。
ここに書かれた動機こそ、この説の大きな根拠になっています。
本当に光秀は、信長の暴走を止めるべく本能寺の変を起こしたのでしょうか?
本能寺の変は、光秀が天下を取るためではなく信長の時代を終わらせ、次世代に渡すためだった可能性も・・・??

⑥四国説
2014年、歴史界を驚かす、驚きの発見がありました。
”石谷家文書”によると・・・明智光秀の重臣・斎藤利三と土佐の長曾我部元親がやり取りした膨大な数の手紙によると・・・
注目されたのが、四国説です。
長曾我部元親は、四国統一を目指していた戦国大名でした。
元親は、信長と同盟関係にあり、その取次ぎを務めていたのが光秀でした。
戦いで勝ち取った土地は、自分のものにしてよいという信長のお墨付きをもらい、敵対する三好家と戦い続けた元親・・・四国統一目前でした。
ところが、状況は一変・・・本能寺の変の前年・・・信長は突然長宗我部ではなく三好家と接近・・・元親が戦いで勝ち取った四国の一部を三好家に返上を要求します。

「元親のために光秀は尽力している」

手の平を返す用に領地を奪われる立場となった元親のために、奔走していた光秀・・・
その結果、ようやくたどり着いた妥協案は・・・??
本能寺の変の10日前、元親から光秀の重臣・斎藤利三に出された手紙です。

「信長との間を始終取り計ららってくれたことは忘れない
 阿波国内の主要な山城は明け渡す」

領土の返上を渋っていた元親の説得に成功した光秀・・・
しかし、信長は情け容赦ない決定を下します。
長宗我部を滅ぼすと・・・!!

光秀の人力空しく、四国出兵が決まります。
元親討伐軍が四国渡航予定の6月2日未明・・・光秀は本能寺の変を決行したのでっす。
この四国政策の手のひら返しが本能寺の変を引き起こさせた・・・??

本能寺の変が起こった1582年、信長はすでに家督を信忠に譲っていました。
二人を同時に討たなければ、謀反は成功したとは言えない・・・
ところが、当初信長と別行動をとるはずだった信忠が、予定を変更。
二人が急遽、兵を伴わずに京都にいることになりました。
これが決定したのは、本能寺の変がおこるわずか3日前のことでした。
中国出兵が決まっていた光秀のもとには、1万3000余りの軍勢が・・・!!
光秀にとってありえないほどの好条件が重なったことが、本能寺の変の大きな要因の一つになりました。
四国をめぐる信長の判断が、光秀を追いつめ、織田家家臣団の問題が表面化し、本能寺の変につながった可能性が高いと思われます。

⑦秀吉陰謀説
四国説で浮き彫りになった光秀と秀吉による織田家臣団のNo,2争い・・・
ここからまことしやかに囁かれているのが・・・秀吉陰謀説です。
本能寺の変の直後の光秀について、京都・吉田神社の神官・吉田兼見・・・
朝廷にも深くかかわり、光秀と頻繁に行き来する間柄の吉田兼見によると・・・
本能寺の変当日の兼見の日記には、

”光秀は信長方を悉く討ち果たし、大津に異動した
 私は馬に乗って粟田口まで走り出て光秀に対面し
 吉田家・吉田神社の領地を保証してくれるよう直接頼んだ“

兼見だけでなく、京都の多くの勢力が光秀を謀反人として扱うことはなかったようです。
その後、安土城に入城した光秀のもとに、朝廷からの勅使が訪れました。
これは、朝廷が光秀を次の天下人として認めた可能性を示しています。
本能寺の変後、光秀の動きは順調に見えました。
しかし・・・
それを打ち砕いたのが、秀吉の中国大返しです。
本能寺から200キロも離れていた高松城から毛利との講和を結び、京都に取って返した秀吉・・・
変からわずか11日後・・・1582年6月13日、山﨑の戦いで光秀は秀吉に破れました。
本能寺の変で最も得をした人はだれか・・・??
天下人の道を歩み始めた秀吉です。
どうして秀吉は、こんなに早く変の情報を入手し、動くことができたのか・・・??
秀吉は本能寺の変に何らかの形で関わっていたのか・・・??

秀吉の陰謀である可能性は低いが、秀吉は光秀の謀反を予知していた可能性は高いと思われます。

本能寺の変の直後から、光秀は味方になってくれる織田家家臣団を取り込むべく各所に書状を送り、援軍を頼みました。
敵対勢力・・・最大の秀吉を制すれば、謀反は成功するはずでした。
光秀が最も頼りにしていたのが、細川藤孝・忠興親子でした。
藤孝は、光秀が信長と出会う前からの長い付き合いで、当時光秀の与力大名として軍事行動を共にする間柄でした。
息子の忠興は、三女のガラシャが嫁いだ相手・・・つまり、娘婿でした。
当然彼らの援軍を得られるであろうと思っていた光秀・・・
ところが、本能寺の変を知ると、細川親子は信長の喪に服すると出家、光秀とは組まないという意思を示しました。
さらに、娘婿の忠興は、たまを離縁、幽閉します。
思いもよらない細川親子の反応・・・
光秀はどう受け止めたのでしょうか?
本能寺の変の7日後・・・
光秀が細川家に送った書状によると、細川親子の出家に対し、抗議しながらも、今からでも味方してほしいと強く要請しています。
にもかかわらず、細川家が動くことはありませんでした。
細川家のこの判断によって、光秀の運命は決まりました。

秀吉による中国大返し、それでももし、秀吉の通り道にある丹波で細川が迎え撃てば、秀吉の足止めができたかもしれない・・・
しかし、細川は動かず、実に三倍の兵力を引き連れた秀吉と・・・
1582年6月13日、山﨑の戦い!!
光秀を撃破した秀吉は、信長の後継者の地位を手繰り寄せました。
本能寺の変の1か月後・・・光秀に組しなかった細川家に宛てた秀吉の文書が残っています。
”羽柴秀吉血判起請文”によると・・・花押の上に秀吉の血判が・・・今に残る秀吉唯一の血判です。
細川家によって、400年以上大切に保管されてきました。
秀吉はこう書いています。

”この度のご不慮(信長が自刃に追い込まれた本能寺の変で)
 細川家の行動は「比類なき頼もしさ」であった”と。

そして秀吉はこう続けます。

”これからは、ごく親しい関係を結び
 表裏なく、公私とも抜かりなく協力していこう”

そこには、細川家に対する最大の感謝が伺えます。
しかも、書かれたことが真実であることを誓う、熊野神社の護符の裏紙が使われ、この誓いを破ったら、日本中の神の罰を受けてもいいとまで書かれています。

本能寺の変で、中世が終わり近世が始まる・・・国家の在り方を江戸時代につなげる転換期でした。

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1582年・・・天正10年6月2日・・・京都・本能寺に宿泊中の織田信長を、明智光秀が急襲・・・!!
信長を自害へと追い込みました。
光秀は、そのまま近くにいた信長の嫡男・信忠も襲撃し、死に追いやりました。
本能寺の変・・・未だ、様々な謎が残る、戦国史上最大のミステリーです。
この謀叛には、数少ない生き証人がいます。
その男の名は弥助・・・弥助は、光秀の襲撃、信長の自害、信忠の自害まですべてを目の当たりにした歴史の目撃者なのです。

①なぜ信長の遺体は見つからなかったのか・・・??
弥助は、身の丈6尺以上(190cm)の大男で、十人力の怪力の持ち主と、信長公記には書かれています。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが上司に宛てた書簡には「イエズス会日本年報追加」には、本能寺の変における弥助の行動が書かれていました。

”信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が彼に近づいて恐るることなくその刀を差し出せといったので、これを渡した”

弥助は、イエズス会から信長への贈り物でした。

159年7月・・・本能寺の変の3年前・・・
イエズス会の船が、島原半島の口之津に入港しました。
その時、宣教師ヴァリニャーノの従者として降り立った一人が弥助でした。
信長公記によると・・・
”年の齢二十六、七と見えたり
 その身の黒きこと牛のごとし
 彼の男 健やかに器量なり”
アフリカのモザンビーク出身と言われる弥助は、奴隷として買い取られ、インドのゴアで宣教師の護衛兼荷物持ちとなった事がわかっています。
更に弥助には大きな役目がありました。
宣教師たちは物珍しさが好きな日本人のために、黒人を「人寄せ」に使っていました。
当時、日本では黒人の人気は相当なもので、布教をしていた宣教師はこう書いています。
”日本人は極めて新奇なことを喜ぶ
 彼らは黒人を見るためにお金を払うだろうから、それを監督する者は短期間で金持ちになるだろう”
イエズス会は、黒人を日本に連れてくることで、日本人の心をつかもうとしていたのです。

1581年、弥助は宣教師に連れられて、京都に来ました。
弥助の噂は瞬く間に広がり、弥助を一目見ようと大勢の人が押しかけました。
見物人同士の喧嘩でけが人が出るほどでした。
その騒ぎを聞きつけた織田信長が、弥助を連れてくるように命じます。

1581年2月、信長と面識のあった宣教師オルガンティーノは、弥助を伴って信長との謁見に臨むこととなります。
信長は当時、畿内を中心とした強力な政権を確立、イエズス会は信長を日本の実質的最高権力者と見なし、信長に取り入ることでキリスト教の布教と庇護を確実にするという目論見がありました。
この時弥助をはじめてみたときの信長の反応は・・・??

”信長は大いに喜んだものの、愉しませるために我らが墨を塗ったのではないかと考え、男の肌の色が生来の者であると信じなかった
 しかしながら、帯から上の着物を脱がせて検分した後は、信長もようやくこれを納得した”

弥助の漆黒の肌に驚いた信長は、肌をこすったり引っかいたりしました。
それでも肌の色が変わらないとわかると、やっと黒い肌を認めたといいます。
片言の日本語が喋れるとわかった信長は、矢継ぎ早に質問をしたといいます。
数日後・・・弥助の主人ヴァリニャーノも信長に謁見します。
そこで弥助の運命が一変!!当時珍しいクリスタルガラスなどを献上したところ、弥助の献上も申し出たのです。
弥助を気に入っていた信長は、この申し出を受け入れました。
しかも、単なる従者としてではなく、弥助を侍として取り立てたのです。
信長公記によると・・・
”弥助は安土城の城下町に従者付きの住居を与えられ、さらに身分に相応しい衣服と武具も与えられた”とあり、正式な家臣となっていました。
こうして弥助は、日本初の外国人侍となったのです。
本能寺の変のわずか1年3か月前のことでした。

1582年6月1日・・・
天下統一を目指す織田信長は、羽柴秀吉の毛利攻めの援軍に向かうために、京都本能寺に宿泊していました。
当時の本能寺は、東西140m、南北270mの広大な敷地と大伽藍を有していました。
しかし、信長が連れていたのは僅かな手勢のみでした。
従者のうち戦力となるのは弥助を含め、30人ほどでした。
そして翌、6月2日未明・・・
信長と同じく秀吉の援軍に出立するはずだった明智光秀が、1万3000の兵で本能寺を包囲!!
只ならぬ喧噪で目を覚ました信長は、当初、従者たちの喧嘩だと思ったといいます。
しかし、小姓の森蘭丸が、明智光秀の謀反であると告げると・・・

「是非に及ばず」

と覚悟を決めたのです。

鬨の声を上げ攻撃を仕掛ける明智の軍勢、それでも信長は弓を次々と放ち、弦が切れると槍を突き立てて敵をなぎ倒しました。
弥助も主君の首をとらせてなるものかと必死に応戦!!
しかし、兵力の差は歴然・・・状況を打破するには至りませんでした。
そして、雑兵によって深手を負わされた信長は、もはやこれまで・・・と観念・・・
一説によると奥に誰も通さぬよう命じ、燃え盛る本能寺で自害し、果てたといわれています。
49歳でした。
問題はこの後・・・襲撃後、明智軍は信長の遺体を探します。
しかし、それらしき遺骨すら見つけることができませんでした。
信長の遺体はどこに消えたのでしょうか?
それが、本能寺の変おける長年の謎でした。
その謎を解くカギを握っていたのは弥助でした。

森蘭丸が、信長の首を切り落とし、弥助が本能寺から持ち出すことを任されていた・・・??
戦国の世では、首をとることが戦に勝った事の証・・・
首が見つからなければ、光秀は信長を討ったとは証明されず、大きな打撃となります。
弥助に首を持って本能寺を脱出した・・・??
明智軍をどうやって突破したのか??

信長の死後の弥助の行動は・・・??
本能寺の近くにあった阿弥陀寺に残されています。
本能寺の変の頃、阿弥陀寺の住職をしていたのは清玉上人です。
清玉上人は、幼い頃信長の兄・信広に命を救われ、その後織田家に家族同然に育てられた織田家とつながりの深い人物でした。
そんな清玉上人の本能寺の変当日の行動を書いたものが「信長公阿弥陀寺由緒之記録」です。
そこには・・・
本能寺の変の知らせを受けた清玉上人は、大いに驚き、仲間の僧侶20人ばかりと一緒に信長のもとに駆け付けます。
なんとか寺の裏側から寺に入ると、既に信長は切腹した後・・・
墓地のやぶの中で、10人ほどが火葬をしていました。
話を聞くと、遺言通り信長の首を持ち出そうとしたものの、四方を明智軍に囲まれているので仕方なく火葬しているとの事・・・
この火葬を行っていた家臣の一人が弥助・・・??
弥助たち家臣は、織田家にゆかりのある清玉上人なら信長の遺骨を託せる・・・と、あるものは再び明智軍に飛び込んで行ったといいます。
火葬を終えた清玉上人は、信長の遺骨を取り集め、自らが着ていた法衣に包みました。
そして、本能寺の僧侶のふりをして阿弥陀寺に持ち帰ります。
火葬し、遺骨にしていたので、目立たずに持ち運ぶことができたというのです。
清玉上人は、葬儀を行い、死を弔いました。
そのため、現在でも阿弥陀寺では信長の法要が毎年行われています。
墓地も存在しています。
弥助たち家臣が火葬し、清玉上人が遺骨を持ち去った可能性が高いと思われます。

本能寺の変の直後、京都と近江を支配下に置いた光秀は、織田家の武将たちの反撃に備えます。
その際、光秀は周辺の武将たちに味方になるように要請します。
しかし、信長の遺体が見つからないことで、信長が討たれた確証はなく、もし生きていた場合光秀に加担したことで攻め滅ぼされてしまう・・・と、ほとんどの武将が光秀の味方に付かなかったといいます。
その結果・・・
1582年6月13日、明智軍は本能寺の変を知り急遽引き返した秀吉の軍と山崎で激突し敗退・・・
光秀は、逃げる途中に落ち武者狩りにあい、本能寺の変からわずか11日後に命を落としました。
弥助と清玉上人の活躍が、光秀の三日天下につながったとも考えられます。

遺骨を上人に預けた弥助は・・・??

②なぜ信忠も巻き添えとなってしまったのか・・・??
本能寺と1.2キロのところに信忠が宿泊していました。

本能寺の変の当日、織田信長の嫡男・信忠は、京都にいないはずでした。
本能寺の変の3か月前・・・3月11日、織田家が長年争っていた甲斐の武田氏を滅ぼしたことで、信忠は功労者である徳川家康をねぎらうために堺に向かう予定だったのです。
しかし、父・信長が毛利と戦う羽柴秀吉の応援に向かうことになり、安土を出発したことを知った信忠は、急遽予定を変更し、信長を迎えようと京都にとどまったのです。
このように信忠が信長の顔色をうかがうのには理由がりました。
織田家の嫡男として小さい頃から帝王学を学んできた信忠は、父・信長と共に多くの戦に参戦し、自らも多くの功績をあげてきました。
1575年織田家の家督を継いで岐阜城へ・・・
美濃・尾張の二か国およそ100万石を治める大名に・・・正式に織田家の当主となったのです。
しかし、信忠に対する信長の評価は・・・

「信忠は、一見器用に見えるが、城持ち大名としては不器用だ
 もっと人が予測できないことをやらなければ合戦には勝てない」

と、極めて厳しいものでした。
信忠は19歳で織田家を継承しましたが、天下平定の実権は父・信長のもとにありました。
そんな中、信長が自らの後継者として信忠に並々ならぬ期待をしていました。
信忠にとっては、そのプレッシャーは、計り知れないものがありました。
その父・信長の重圧が、信忠を京都に止まらせてしまったのです。

1582年6月1日・・・
信忠は、本能寺にいる信長のもとを訪ね、酒を酌み交わしたといいます。
それが、父と子の今生の別れとなりました。
その僅か数時間後・・・本能寺の変が起きたのです。
信忠は、明智軍が本能寺を攻めたという知らせを妙覚寺で聞きました。
その信忠のもとへ弥助が駆けつけることに・・・
どうして弥助が向かったのか・・・??
明智急襲の知らせを聞いた信忠は、直ちに手勢500人を引き連れて、父・信長を救うべく本能寺に向かいました。
その途中で、信長の家臣で村井貞勝に遭遇します。
すると村井が、
「本能寺は明智勢に取り囲まれ、近づくことすらできません。」by村井
「となれば、もはや明智勢から逃げ切ることは出来ないだろう
 もし逃げられたとしても、雑兵に討ち取られては後世の物笑いになり、無念である」by信忠
「ならば、御所へお行き下さい
 御所であれば、光秀も攻め入ることはできないでしょう」by村井
「仕方あるまい・・・」by信忠

こうして信忠は、二条御所に向かい、籠城することになったのです。
一方、死を覚悟した信長は、一刻も早く京都から脱出の命を信忠に伝える必要がありました。
信長にとって最悪の事態は、自分と信忠が同時に討ち取られてしまうことでした。
織田家の当主である信忠が生きていれば反撃できる!!
そこで、信長が考えたのが、何とかして信忠を京都から脱出させることだったのです。
しかし、本能寺は光秀の軍勢に取り囲まれている・・・
どうやって伝える・・・??
信長は、十人力の弥助なら、明智軍を潜り抜け、自らの首と伝言を妙覚寺の信忠に届けられると考えたのかもしれません。
信長の命を受けた弥助は、信長の遺骨は清玉上人に託すことになりましたが、伝言だけは・・・と、命がけで妙覚寺に向かうこととなります。
その結果、弥助はなんとか信忠のもとにたどり着くことができました。

弥助は、織田家の当主だった信忠に、信長の死を報せ、京都から退避するように伝えるために、信忠のもとに向かったのです。
明智光秀が信長を討ち取ったのち、織田家当主の信忠は、弥助から父・信長の死と、京都を脱出せよという最後の命を受け取りました。
しかし、信忠が逃げようとした形跡はありません。
すでに、安全であったはずの二条御所も明智軍に包囲され、京都を脱出することは不可能だったのです。
それでも信忠は、明智軍と命の限り戦いました。
弥助も信忠を守ろうと応戦しますが、それも時間の問題でした。

信忠の最期について信長公記には・・・

「私が腹を切ったら縁の板をひきはがし、亡骸を床下に入れて隠せ」

こう言い残し、信忠は自決という名誉の死を選んだのです。
26歳の若さでした。

③光秀に謀反を起こさせた黒幕とは誰なのか・・・??

織田信長とその嫡男・信忠が自害し、明智光秀軍の勝利に終わった本能寺の変・・・
ここにもう一つの謎があります。
その後の弥助について、フロイスはこう書いています。

「明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差し出せと言ったので、これを渡した」

こうして弥助を捕らえた明智の家臣が光秀にその処分をたずねると・・・光秀はこう命じました。

「インドのパードレの聖堂に置け」by光秀

インドのパードレの聖堂とは、京都・南蛮寺・・・イエズス会の京都における本拠地のことです。
明智軍と戦った信長の側近・弥助をなぜか無罪放免・・・かつて従者として仕えていたイエズス会へ戻したのです。
どうして弥助は殺されることなくイエズス会に戻されたのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀に味方する武将はいませんでした。
そこで、光秀が目をつけたのが、京都に近い高槻城主の高山右近でした。
右近はかつて信長によって弾圧された荒木村重の家臣だったことで、信長に反感を持っていると考えたからです。
光秀は、右近がキリシタン大名でもあったことから、宣教師を通じて書状を送り、味方になるように要請していました。
とにかく見方を作る必要があった光秀・・・
イエズス会と連携して、キリシタン勢の支持を得ようとしたのです。

こうした光秀とイエズス会との関係が、本能寺の変の前からあったという説があります。
そのきっかけとなったのは、信長のある行動でした。
ルイス・フロイスの「日本史」によると・・・

「安土山の寺院には神体はなく、信長は己自らが神体であり、生きたる神仏であるとし、彼の上に万物の創造主もないと言い、地上において崇拝されんことを望んだ」

信長は、自らが神になろうとしたのです。
安土城・・・の本丸に清涼殿という天皇を招く館を作りました。
しかし、この館の上に、信長のいる天守を置いたのです。
自ら天皇の上にたとうと・・・あらゆるものを超越しようと自らを神格化し、全く新しい権力構造を作ろうとしたのです。
この信長の野望は、キリスト教に忠実なイエズス会にとって絶対に許すことにできないものでした。
そして、そんな信長の絶対的権力に恐れを抱いたのが、信長の重臣・明智光秀でもあったのです。
当時光秀は、信長によって丹波・近江志賀郡などの領地を召し上げられ、出雲と石見を自ら攻略し、領土とするよう命じられていました。
このことから、打倒信長という点で、イエズス会と光秀の利害が一致、そのため、イエズス会が本能寺の変の黒幕だった・・・??

その結果か、光秀は本能寺に宿泊していた信長を襲い、自らの主君を自害に追い込むことになりました。
そして、この謀叛の一部始終を、イエズス会の宣教師たちは、本能寺のすぐ近くの南蛮寺から見届けていたのです。

「インドのパードレの聖堂に置け」・・・

つまり、弥助がイエズス会に返されたのは、光秀とイエズス会との密接な関係の証であった可能性があるのです。

イエズス会の思惑と、信長の野望・・・その狭間で、運命を翻弄されたのが弥助だったのかもしれません。
この後、弥助に関する記録は残っていません。
日本を離れ、モザンビークに帰ったのでは??と言われています。
しかし、イエズス会の報告書に気になる記述がありました。
本能寺の変の2年後、九州に黒人がいたことが記され、キリシタン大名であった有馬晴信の軍勢の大砲の使い手として活躍し、勝利をもたらしたというのです。
その黒人が弥助だったとしたら・・・九州のどこかで一生を終えていたのかもしれません。
本能寺の変の目撃者として全ての真相を胸に秘めたまま・・・。

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天正10年6月2日・・・この日、歴史が変わりました。
天下統一目前だった織田信長が、家臣・明智光秀の謀反により非業の死を遂げる・・・本能寺の変です。
光秀はどうして謀反を起こしたのか?
今なお多くの謎に包まれた本能寺の変ですが・・・
今回の視点は”どうして信長は本能寺に泊まったのか?”です。
この時、信長には京都において定宿が三カ所ありました。
その中で、信長が本能寺を選んだのはなぜか??

戦国最大の事件本能寺の変・・・この時明智光秀は、主君・織田信長だけでなく信長の跡継ぎ・信忠をも討ち果たしました。
この信忠の死により、織田政権は実質的に崩壊したのです。
信忠とは・・・??
26歳で亡くなっていますが、非常に活躍した有能な息子でした。
偉大な父・信長の影に隠れ、歴史に埋もれてしまった信忠・・・。
1557年、信長の長男として誕生します。
信長のもうけた息子は、信忠・信雄・信孝など11人・・・。
しかし、信忠以外は幼くして養子に出されています。
攻めようとしている伊勢などに、養子に送ったりしています。
しかし、それは織田家に限らず、戦国大名のいろんな家がしてきている事・・・。
嫡男以外の男子を戦略的に周辺の領主に養子に入れるので、余程能力に問題がない限りは、後継者は嫡男でした。
生れながらにして信長の後継者として育った信忠・・・
その帝王学は厳しく・・・織田家の家臣が信忠を褒めると・・・信長は、
「家臣に手の内を読まれるなど、信忠は大将の器ではない
 そうであれば、信忠を我が後継者とするわけにはいかない」と。
他にも、信忠が自ら能を舞うのが好きな能数寄だとわかると、それに対し、
「武将たるものが能にうつつを抜かすなど何事か」と怒り、能に使う道具を取り上げたといいます。

信長から後継者としての資質を疑われた信忠・・・いかにして信頼を勝ち得たのでしょうか?

1575年5月、織田・徳川連合軍が戦国最強とうたわれた武田軍と激突!!
世に言う長篠の戦いです。
結果、織田・徳川連合軍は、武田軍に完勝!!
この機に乗じ、織田軍は武田領の東美濃を攻略。
その総大将に抜擢されたのが、わずか19歳の信忠でした。

岐阜県恵那市岩村町・・・武田の東美濃の拠点となった岩村城は、標高717メートルの巨大な山城です。
信忠軍が包囲する岩村城は、自然の地形を利用した難攻不落の要塞でした。
その秘密が井戸にあります。
兵糧攻めでは、水の手をたつということが行われます。
しかし、この城は、豊富な水が城内に湧いているので、城を落とすことができませんでした。
信忠が攻めたときも、半年間ここに籠っていました。

事実、信忠は5か月間岩村城を落とせず・・・

そこに、長篠の戦いの敗戦から息を吹き返した援軍が迫ってきます。
岩村城に籠城していた武田勢は、援軍を待たずして出撃!!
信忠の陣を逆に攻めたてます。
この時信忠は、自ら先陣として出陣!!
敵を返り討ちにしたばかりか、大将格21人を討ち取りました。
これによって岩村城は落城!!
11月、信長は信忠に茶器などの名物を褒美として与えたばかりか、尾張・美濃の二国を与ます。
さらに織田家の家督を譲りました。
信忠は、自らの武勇を示すことで織田家当主の座を勝ち取ったのです。
そして、天下人の後継者としての地位を盤石にしたのが・・・1582年2月武田征伐!!
総大将・信忠率いる織田軍は、怒涛のように武田領を席巻!!
最大の激戦となった高遠城攻めでは、自ら前線に赴き、采配を振るいました。
信忠は武田が誇る高遠城を、わずか1日で落城させたのです。

戦国最強の武田軍を相手に、自ら先陣を切る信忠に、信長は苦言を呈しています。
武田を弱敵と侮ってはならぬ・・・
しかし、そんな信長の心配を余所に、信忠は快進撃を続け、遂に武田家は滅亡!!
信忠が武田領に侵攻してわずか1月でした。
武田滅亡によって東の憂いは無くなりました。
信長は宣言します。

「信忠に天下を譲る!!」

織田家の家督だけでなく、天下人の座も継ぐことになった信忠・・・
本能寺の変3か月前の出来事でした。

本能寺の変2日前・・・1582年5月29日。
信長は安土を出立!!
二、三十人のお供を連れて上洛。
信長が少人数で上洛したのはなぜか?
「信長公記」によると・・・

直ちに中国へ出陣しなければならないので、安土に残るものは戦の準備をして待機させ、命令次第出陣するというので、この度小姓衆以外は随行しなかった。

当時織田軍は、関東・北陸・中国・四国と各地に展開。
中国方面軍羽柴秀吉は、備中高松城で中国の覇者・毛利と対峙。
信長に援軍の要請をしていたのです。
大規模な軍事遠征を間近に控え、上洛した信長・・・
その宿所となったのが本能寺でした。

戦国時代の京は、応仁の乱の被害があって、かなり荒廃した様子でした。
現在の本能寺は、豊臣秀吉の時代に移されたもので、元の本能寺は別のところにあります。
信長が宿所とした本能寺は、南西におよそ1キロ離れたところ。
戦国時代の京都を克明に記しているのが「国宝 上杉本洛中洛外屏風」です。
本能寺の周辺には、水堀などの防御施設が描かれています。
本能寺周辺で行われた発掘調査では、寺の周囲に幅およそ4メートル以上、深さ1メートル以上の堀などが設けられていたことがわかっています。
戦国時代の京都は、応仁の乱で焼け野原になって以降も戦乱で・・・その結果・・・上京と下京に分断され・・・それぞれの町は、総構えと呼ばれる濠などの防御施設に守られていました。
しかし、本能寺はその総構えの外に位置していました。
市街地のいちばんの外側・・・攻めやすかったのです。
信長自身は、本能寺はそれほどたくさん泊まっていません。
当時、信長が上洛した際に宿としていたのは、主に本能寺・二条御新造・妙覚寺でした。
記録によれば、二条御新造には14回、妙覚寺には20回、本能寺には4回・・・。
本能寺の北東に位置した妙覚寺は、一番多く泊まった宿です。
寺の周りに土塀や堀を巡らせた防御機能のある寺です。
本能寺の変の時には、信長の嫡男・信忠がここにいました。

1582年5月21日・・・信長が上洛する8日前・・・
信忠は兵500を率いて上洛!!妙覚寺に宿泊していたのです。
本来、妙覚寺は信長が京都へ上洛した時、頻繁に寄宿していた場所です。
信忠も妙覚寺へ泊るようになり・・・信長は本能寺に移り、信忠が妙覚寺にいるようになったのです。
妙覚寺と向かい合っていたのは、二条御新造。
信長の宿所として築いた屋敷です。
しかし、2年後には、時の皇太子に当たる誠仁親王に渡しています。
信長は、一旦妙覚寺に来て、その後、本能寺に移っていくのです。
妙覚寺には長男・信忠、二条御新造には皇太子・誠仁親王が・・・信長は本能寺に宿泊せざるを得なかったのです。

では、信長と信忠はどうして同時に上洛していたのか?
朝廷に対し、信長はこう申し立てています。
「我が顕職は信忠に譲与したい」と。
当時、信長の官位は右大臣・右大将(右近衛大将)・・・武士の頭領を意味します。
信長は、朝廷の許しを得て、自分の官位を信忠に譲ろうとしていたのです。
戦国武将は、いずれも成り上がりの者が多く、公家・帰属に比べると家柄も悪い・・・
権威付けという意味で、官職は重要な意味を持っていました。
これは、明治維新まで官職が人の序列を定める一番の根幹部分でした。
当時信忠の官位は従三位・左中将(右近衛中将)・・・信長は信忠の官位を武家の頭領である右大将に引き上げようとしていたのです。
今回の上洛で、信長は普段と異なる行動をとっています。
それまで信長は公家宗徒の対面を断ることが多かったのです。
その理由は「くたびれ云々」・・・面倒くさいということです。
しかし、今回の上洛では、信長は公家衆40人と数刻にわたり雑談に応じ、自慢の茶道具まで披露。

当時、信長が京都に来るときは、なにか京都に用事がある時・・・
信忠がいるということは、信長は官職を辞めた後、息子・信忠に高い位をつけてほしいと朝廷に働きかけていたのです。
その答えを聞くため・・・信忠が妙覚寺にいて、信長が本能寺にという可能性が高いのです。

後継者の豚だの地位を盤石にするために、本能寺に泊まった信長・・・
しかし、この時、明智光秀の大軍勢が本能寺を目指して進軍していました。

1582年6月2日早朝・・・
明智軍1万3000が信長のいる本能寺を襲撃!!
記録には、この時信長はこう叫んだといいます。
「信忠の別心(謀反)か!!」と。
近くにいる軍勢は信忠の身と思い込んでいた信長・・・それほど明智軍の襲撃は想定外だったのです。
本能寺から信忠の妙覚寺まで600m・・・明智軍の時の声は信忠の宿所にも届いていました。
信長のいる本能寺が明智軍に攻められている・・・信忠はどうするべきなのか・・・??

①信長の救援に向かう・・・??
②それとも、安土へ撤退する・・・??

ルイス・フロイスの記録によると・・・
信長は、安土から宮子までの陸路におよそ6mの道幅の道路を作らせたとあります。
道は平たんで真っすぐであった。
およそ50キロ・・・整備された道・・・
伊勢には次男信雄、大坂には三男・信孝集結・・・京都脱出に成功すれば、弟たちと合流することもできる・・・。
信長の弟・織田長益など、名のある武将も脱出しています。
信忠なきあと、後継者候補は信雄と信孝・・・二人はそれぞれ信雄=北畠・信孝=神戸に養子に出ています。
家督相続をめぐり、骨肉の争いは必至!!

③光秀を迎え討つ??
戦わずに退くなど、武士の一分が立たん!!

明智軍の本能寺への攻撃はわずか1時間余り・・・光秀の次なる標的は、妙覚寺にいる信忠・・・!!
その頃信忠は、妙覚寺を後にしていました。
向かった先は、隣の「二条御新造」
妙覚寺より守りが堅かったからです。
この時、信忠の側近は、「安土に移り、光秀を退治しては?」と進言します。
信忠は・・・
「これほどの謀反を企てた光秀が、洛中のあらゆる退き口に手をまわしていないはずがなかろう。
 途中で相果てることこそ、無念である。
 いたずらにここをひくべきではない!!」
信忠は、二条御新造に籠り、光秀と戦う道を選びました。
信忠は追手門を開門させ、敵をそこへ集中させます。
敵が怯むと打って出て、押し寄せる大軍勢を3度にわたって押し返したといいます。
信忠は、新陰流の免許皆伝で、剣の達人でした。
自ら剣をふるい、敵17人を切り伏せたといいます。
しかし・・・多勢に無勢・・・獅子奮迅の働きをしたのち、家臣にこう命じました。

「縁側の板をはがし、遺体を床下へ入れて隠せ!!」と。

そして、燃え盛る炎の中、信忠は切腹!!
壮絶な最期を遂げたのでした。
信忠死去・・・享年26歳でした。

明智軍は、信長同様、信忠の首も見つけることができませんでした。
この時、光秀は都の出入り口を押さえていたわけではありませんでした。
もし、この時信忠が逃げていれば、生き残れる可能性は十分にあったのです。

信忠亡き後の織田家は、弟達の家督争いで力を失い、天下は秀吉・家康のものとなっていくのです。

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戦国時代、戦いに明け暮れ野望と裏切りが渦巻くイメージですが、天下への野心よりも、家族や親友との絆を大事にし、生き抜いた武将がいました。
前田利家です。
利家とまつは、戦国一のおしどり夫婦と言われ、加賀100万石の礎を築いていきます。
しかし、その道のりは決して平たんなものではありませんでした。

戦国指折りの勇敢さで知られる前田利家・・・
しかし、気が短く、我を忘れる欠点がありました。
怒りのあまり、主人の前で人を切り殺してしまうことも・・・!!
しくじりばかりだった若き利家・・・しかし、周りの人望を集め、大名として加賀100万石の礎を築いていきます。

そんな利家を支えた3人は・・・??
最強の上司・織田信長、風雲児だった信長は、型破りな利家を可愛がりました。
そして一国一城の主となってからは、信長に倣って豊かな国づくりを推し進めていきます。

最愛の妻・まつ、敵の大軍を目の前にしてしり込みする利家を叱ります。
時には夫の代わりに自ら交渉・・・その内助の功とは・・・??

そして親友・豊臣秀吉。
秀吉は、貧しい時代から苦楽を共にした仲間で、家族ぐるみの付き合いでした。
利家は、そんな親友と天下を争うのではなく、あえて家臣の道を選びました。
秀吉も、利家こそが最も大切な家臣と認めていました。
豊臣政権のナンバー2として、加賀100万石の豊かさと華やかな文化の礎を築いた前田利家。
しかし、秀吉の死後、巨大な敵が現れます。

織田信長に仕えた十代の頃、利家は手の付けられない乱暴者でした。
派手な身なりで町を練り歩き、喧嘩となれば喜び勇んで駆けつけます。
利家たちは傾奇者と呼ばれ、周りからはみ出し者として白い目で見られていました。
そんな利家が、天下統一を目指す信長の家臣として活躍、慰霊の大出世を果たしていきます。

1537年、前田利家は尾張国・荒子村の領主の四男として生まれます。
幼名は犬千代。
1551年、14歳の頃、尾張の大名・織田信長に仕えることになります。
暴れ者の利家にとって、戦は格好の場でした。
初めて戦場に出たとき・・・初心者は先輩武者がつきっきりで指導することになっていました。
しかし、利家は先輩の指導を無視し、真っ先に敵陣に斬り込んで首をとってしまいました。
これに驚いた信長は、「肝に毛が生えているようじゃ」と言ったといいます。
以来、利家は戦に出るたびに、武勇伝を作っていきました。
身長182センチで筋骨隆々の利家は、それまでの倍の6メートルを超える槍を自在に操り、”槍の又左”と恐れられました。
そんな利家を信長は、幼名の犬千代から犬、犬!!と、可愛がったといいます。
信長は、部下をよく見ていました。
利家は自分と同じやんちゃなところのあるタイプを見て、面白い男だと思ったのです。
そして利家には「信長様だから、俺を使ってくれる」という強い信念がありました。

1558年、21歳の時に結婚。
相手は、9歳年下のまつでした。
利家とまつは幼なじみで、幼くして父を亡くしたまつは、4歳の頃前田家へ。
乱暴者の利家でしたが、いつもまつのことを気にかけていました。
利発でお転婆なまつと利家は相思相愛だったといいます。
結婚の翌年には長女が生まれ・・・何より利家は家族を大切にしました。

そんな幸せからどん底に落ちたきっかけは、髪をかく道具”笄(こうがい)”でした。
ある時、利家の笄を、信長に仕える茶坊主が盗んだのです。
利家は信長に処分を願い出ます。
しかし、信長は些細なことから茶坊主を処分せず、それどころか仲間からは・・・

「たかが髪かき道具一つ、傾奇者のくせに情けない!!」

と噂され、遂には盗んだ茶坊主にまで馬鹿にされてしまいました。

「なぜ、盗まれた自分が笑い者にされねばならぬのか??理不尽な!!」by利家

遂に利家は、信長の前で茶坊主を斬ってしまいました。

余りの乱暴ぶりに怒った信長は、
「犬を討て!!」
死罪にしようとします。
その後、家臣の懸命の嘆願で死罪は免れたものの、利家は織田家から追放されてしまいました。
浪人となった利家は、家族を残し、一人放浪生活・・・
食べ物を得るのも一苦労・・・この頃の生活が、利家の金銭感覚に大きな影響を与えました。

「ともかく金を持てば、人も世も恐ろしくは思わないものだ。
 金がなければ、世も人も恐ろしくなるものだ。」by利家

なんとか信長の家臣に復帰したい信長・・・しかし、おいそれと許してくれるはずもない・・・
利家は驚くべき行動に出ます。
勝手に戦場に出て、織田軍として戦ったのです。
ここで利家は、敵方の強者の首をいくつもとり、大手柄をあげます。
当時、名誉挽回の近道は、戦で目覚ましい働きをすることでした。
利家は、体を張って信長の信頼を得、家臣に復帰したのです。

この頃利家は、生涯の親友と出会います。
織田家の家臣となっていた後の豊臣秀吉です。
年齢も近い二人はすぐに意気投合!!
秀吉とおねの仲を取り持ったのは、利家とまつだったともいわれています。

1569年、32歳の時、前田家の当主だった兄が隠居、兄が次の当主に義理の息子を指名しましたが、それに信長が”待った”をかけます。
「利家という実弟がおるであろう。
 利家に譲るがよい」by信長
この一言で、当主は利家に決まり、祝の席が設けられました。
この時、利家の武勇を褒めていた客人たちが、そんな利家を蔑ろにするとは・・・と、兄の悪口を言いはじめます。
すると利家は、強い口調で言いました。
「兄を謗れることで称えてくれる心遣いはありがたいが、そのようなお世辞は無用にしていただきたい。」by利家
褒めたつもりの客人たちは、利家に唖然としたといいます。

この頃信長は、破竹の勢いで領地を拡大していました。
天下統一への道をひた走っていました。
1575年、38歳の時、長篠の戦い!!
最強の武田の騎馬隊を封じるには、膨大な鉄砲を用いて絶え間なく攻撃を仕掛けるしかない!!
この戦で利家は、戦術の要・鉄砲隊の指揮隊長を任されました。
信長の思惑は的中し、利家たちは大手柄を立て、戦を勝利に導きました。

1581年、利家44歳の時、これらの功績から能登国を与えられます。
はみ出し者が、信長に取り立てられ、一国一城の主にのし上がったのです。

1582年、45歳の時に利家に大きな転機が・・・主君・信長が、家臣・明智光秀の謀反に斃れたのです。
本能寺の変です。
仇である光秀を討ったのは、親友の秀吉でした。
秀吉はこの功績で、信長の後継者争いに躍り出ます。
裏切りが当たり前の戦場で、器用に立ち回る才能は利家にはありませんでした。
利家は秀吉から絶大な信頼を寄せられ、政権のナンバー2になるのです。
どうして右腕になり得たのでしょうか・・・??
信長の死後、後継者を決める清須会議が開かれます。
幼い跡継ぎを立て実質的な当主の座を狙う秀吉VSあくまでも織田家を守ろうとする柴田勝家・・・
両者は激しく対立します。
その間で板挟みになる利家・・・
勝家は利家の上司であり、かつて信長を怒らせてしまった時に死罪から救ってくれた大恩人、秀吉は親友・・・家族ぐるみの付き合いでした。
11人の子供を授かった利家とまつは、四女・豪を養女に出すほどでした。
恩義をとるか、友情をとるか・・・苦渋の決断でした。

1538年、46歳の時、賤ケ岳の戦い!!
悩んだ末に利家は、恩義をとり勝家側として出陣します。
ところが戦闘が開始すると、利家は戦場から撤退するのです。
自分の城に引きこもってしまいました。
勝家に味方するも、秀吉を攻めることができなかったのです。
利家の撤退により、一気に秀吉軍の優勢に傾きます。
結果、勝家は敗走!!

この時、秀吉は勝家が敗走する途中、利家の城に立ち寄っています。
利家にその本心を聞こうとしたのです。
しかし、利家は部屋に籠って出て来ません。
秀吉に会わせる顔がない・・・??
このままでは本当の敵となってしまう??
危機感を抱いたまつは、秀吉にこう言います。
「このたびのご戦勝、おめでとうございます。」秀吉の価値をたたえることで、利家が敵対したのは本意ではないと伝えたのです。
すると秀吉は、
「豪姫も立派に大きくなっておるぞ。」と、まつの想いに気付き、娘の話に花を咲かせます。
最後に秀吉は言いました。
「勝家を討つため、利家殿のお力添えをといただきたい。」by秀吉
まつはこの申し出を、利家に相談することなく承諾します。
そして、利家に勝家を討ちに出るように促したのです。

まつが、利家に対し、これからは秀吉と一緒に・・・むしろ、秀吉の下で働いた方がいいという・・・
女性の目でそれまでの秀吉の信長から抜擢された動きを見ていて、信念を持っていたのでしょう。
戦は、秀吉軍の圧勝に終わります。

1583年、46歳の時、二国(加賀・能登)を与えられ、居城を金沢城に移します。
最大のライバルを倒した秀吉は、残る敵対勢力と戦い、天下人への道を歩んでいきます。
秀吉に味方する利家にも戦いの火の粉は降り注ぎます。
秀吉の敵・かつての同僚・佐々成政が攻めてきたのです。
成政は利家とは何かにつけて反目していました。そう・・・笄事件の時も・・・!!
成政は、末森城を攻撃してきました。
積年の恨みを晴らすとき!! かと思いきや、利家が向かったのは机でした。
兵の数を計算します。
浪人時代にお金で苦労した利家は、大軍を動かすのにいくらかかるかを計算するのが常でした。
その間にも、成政の勢いで、末森城は落城寸前・・・!!
ところが、成政より兵の数が少ない利家は、ぐずぐずと計算するばかり・・・
遂にまつはこう叫びます。
「この度は、この金銀をお持ちになって槍をお突きになるのが良いでしょう。」byまつ
日頃、兵を蓄えるより蓄財に熱心だった利家・・・そんなに金銀が大事なら、金銀に槍を突かせたらよいでしょう。と、強烈な皮肉で尻を叩いたのです。
この檄で目を覚ました利家は、数で勝る成政軍をなんとか撃退し、城を守ったのです。
やがて、秀吉軍の火星に寄って、成政は降伏!!
夫の影日向となって働いたまつの愛情を、利家は裏切ることはありませんでした。
1585年、48歳の時、越中国を与えられ、三国を領有することとなった利家。
加賀100万石の礎となっていきます。
1590年、53歳の時、秀吉は関東を支配下に・・・天下統一!!
天下人となった秀吉は、益々利家を頼ります。
利家が任されたのは、主に大名間の調整役です。
利家は、裏表のない人物として、暑い信頼を寄せられていました。
秀吉配下の諸大名で、こんな会話がなされたといいます。

「位も石高も、利家は家康より低いけれども、5倍も人望があり、城中でも、道中でも、人々に敬われている。」

己の信じる道を進んできた利家の真っ直ぐな生き様が、秀吉政権の右腕として欠かせない存在となっていたのです。

現在でも名勝・兼六園、加賀友禅、輪島塗・・・見事な工芸品・・・北陸には加賀100万石の文化が息づいています。
その礎を築いた利家は、領国経営で卓越した手腕を発揮します。
加賀100万石の国づくりの秘密とは・・・??
1585年、48歳の時、利家は北陸3か国の強大な領地を得ました。
金沢に入った利家が初めに行ったのは・・・
「まずは、検地をおこなう
 そして、正確な石高を見定める」by利家
性格な検地こそ、領国経営の基礎。
これは織田信長を真似たものです。
前田利家は、経済の重要性をかなり認識していました。
前を走っていた、信長や秀吉を真似ています。
そして細かい検地をおこないました。
それを支えたのは、利家の得意・そろばんでした。
普段から携帯用のそろばんを持ち、米やお金の収支を計算していました。
そして、このそろばんを使う部署を作ります。
御算用場と呼ばれる経理専門の部署です。
最盛期には150人もの武士が、この加賀の経理を取り仕切りました。
年貢や支出を計算し、合理的な領地経営、無駄のない経営を行いました。

利家が経済に関心を持つようになったのは、浪人時代と言われています。
信長から追放され、酒を煽っては喧嘩の日々・・・ある時、熱田神宮の神職の基に身を寄せました。
神職に書庫に閉じ込められた利家は、こう言われます。
「強いばかりが人の道ではない。
 中国や日本の古い書物を読みなさい。」
このことがきっかけで本を読むようになり、国づくりに大いに役立てられました。
利家は後に勉強の大切さを述べています。

「武道ばかりを重んじてはいけない。
 文武二道の侍は まれだか よくわきまえて良いものを探し出しなさい。」by利家

本の重要性を終生持ち続けました。

信長に大きく影響を受けた利家の国づくり・・・しかし、信長を見習わなかったこともあります。
それは、家臣を監視する目付を置かなかったことです。
当時の大名家では、目付を置くことが当たり前でしたが、利家は家臣たちがお互いの監視をすれば疑心暗鬼になると、目付を置かなかったのです。
信長と同じく、家臣たちに強い忠誠心を望んだ利家・・・しかし、その方法は、信長とは真逆で、家臣たちに温かく接することでした。

利家は、自ら家臣たちに手紙の作法を教えます。

「どんな書状でも、筆先で相手を満足させることが大事。」

豪快な見た目からは感じることのできない細やかな心遣いで周囲からの人望を集めていきました。
こうした利家の下で、豊かな文化を花咲かせていったのです。

どうして金沢で和菓子作りが盛んになったのでしょうか?
それは、信長の影響・・・茶の湯です。
茶の湯を嗜んだ利家・・・和菓子作りは茶の湯には欠かせません。

1598年8月、利家61歳の時・・・。
天下人・豊臣秀吉が死去・・・
この時、次の天下を狙える人は二人いました。
徳川家康と前田利家です。
しかし、利家が自ら天下をとろうとすることはありませんでした。
どうして、天下のナンバー2を貫いたのでしょう。
秀吉は死ぬ間際、利家や家康を始め諸大名を枕元に呼び、遺言を託しました。

「どうか、くれぐれも息子・秀頼のことを頼む。
 私が死んだ後は、家康が政治を取り仕切り、利家が秀頼の世話役となって成人するまで面倒を見てやってほしい。」by秀吉

秀吉に後を託されたものの、利家も病に伏せることが多くなってきていました。
1599年元日、京都・伏見城に病をおして赴く利家。
そこで、7歳の秀頼と共に諸大名の新年のあいさつを受けます。
秀頼の世話役という役割を忠実に努めようとしました。
そして、秀頼を大坂城に移すという遺言を実行しようとします。
しかし、それに反対する人物が・・・徳川家康です。
諸大名の中でも家康の官位と石高は群を抜いていました。
天下は実力のある者の持ち回り・・・次の天下人を狙っていました。
秀頼の権威が高くなることを恐れた家康は、

「そう急ぐことでもない
 4月か5月でいいではないか」by家康

しかし、利家はこの意見をはねつけます。

「もう、ご遺言を忘れたのか??」by利家

正月10日、遺言通り、秀頼を大坂城に移す利家。
そこでも、秀吉の意志を忠実に守ろうとしました。
それを無視して、天下人への道を着々と進んでいく家康。
秀吉の遺言で禁じられていた大名同士の婚姻を行い、徳川の勢力拡大を図ります。
家康の行動を受け、豊臣派と徳川派に分かれて対立します。
一触即発!!
家康はいずれ自分に反対する勢力と戦いをも辞さない思いはあったようです。
天下への野望をあらわにする家康に対して、直談判を決意する利家!!
単身、家康の屋敷に乗り込もうとします。
息子が一緒に行くと進言すると・・・

「家康が我らを斬らぬということは、百にひとつもあろうはずはなく、斬るのが必定
 そんな時、そなたは兵を据え置き、出陣して、弔い合戦を行い、勝利を得ようと思わんのか。」

利家は己の命と引き換えに、家康を攻めて豊臣家を守ろうとしたのです。
しかし、言えた巣の態度は・・・利家を盛大にもてなし、ごもっともと受け入れたのです。
当てが外れた利家ですが、家康の口約束を得ただけで帰ることになってしまいます。
その2週間後・・・利家の病状が悪化・・・
利家を慕う大名が大勢見舞いに来る中、意外な人物がやってきます。
徳川家康でした。
昔から一緒に、信長、秀吉の下で苦楽を共にした仲間のひとりとして病気見舞いに出かけたのです。
豊臣政権を守るために、一生努力してきた前田利家に敬意を表すという意識がありました。
家康の訪問から1か月後・・・
1599年閏3月3日、前田利家死去・・・享年62歳でした。

利家の最期を悟ったまつはこう語りかけました。
「あなたは若い頃から多くの戦いに出て、多くの人を殺めてきたから、後生が恐ろしい。
 ですから、この経帷子をお召しになって下さい。」
しかし、利家は断ります。
「これまでに、多くの敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことはないから、地獄に落ちるはずがない。
 もしも地獄に行ったら、閻魔を相手にひと戦してくれよう。
 かえすがえすも秀頼さまのことをお頼み申す。」by利家

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「わが敵は本能寺にあり!!」
主君を裏切った悪人??
光秀の実像はあまりよくわかっていません。
が・・・どうして主君を討つことになったのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀が味方を集めようと各地に送った書状が見つかりました。
この発見で、どうして光秀が信長を討つことになったのか??に関心が集まりました。
もともと長い間浪人生活を送っていた光秀・・・そんな彼を、一国一城の主としたのが織田信長です。
信長のもとで、光秀は裁縫をいかんなく発揮します。
朝廷との交渉、戦場での活躍・・・まさに信長の右腕といえる存在でした。
いわれたことをきっちりこなす理想的な部下・・・とんとん拍子の出世でした。
しかし、光秀は突如、信長に反旗を翻します。

怨恨説、野望説、四国説、前途悲観説、黒幕説・・・真相はいまだ闇の中・・・。

天下の謀反人の真の姿とは・・・??

京都府亀岡市・・・かつて、明智光秀の居城・亀山城がありました。
町では光秀の功績を称え、毎年祭りが行われます。
もともと農家が点在する場所に、光秀が城を築き、城下町として発展させたのです。
織田信長のもとで成功を手にした光秀・・・しかし、信長に仕え始めたのは41歳の時でした。
その年で、どうして信長を主君と仰ぐようになったのでしょうか?

光秀は戦国時代を迎えていた1528年美濃国明智城主の子として生まれました。
その後、美濃国は下剋上でのし上がった斎藤道三が治めるところとなり、土岐明智家も道三に仕えることに・・・。
ところが、光秀29歳のころ・・・
斎藤道三の息子・義龍が兵を挙げ、道三を討ったのです。
そして、道三の家臣だった明智家も攻撃を受けます。
1556年、29歳の時に明智城落城・・・光秀は城から逃れます。
以来、再び明智家を再興することが、光秀の使命となります。

光秀は主君を探し、何年も諸国を渡り歩きます。
「再び我らの領国を手にするためには、力ある主君に仕えねばならぬ。」by光秀
しかし、生活は厳しく、食事にも事欠く始末・・・

そんなある日、客人をもてなすことになって困り果てた光秀・・・。
しかし、豪華な料理が・・・!!
客人の帰った後、妻に聞くと・・・長く美しかった煕子の髪を売って客をもてなしていたのです。
光秀は生涯側室を持つことはなく、煕子を大切にしたといいます。
子宝にも恵まれ、光秀の三女は、後の細川ガラシャ・・・関ケ原の戦いの際に、人質になる事を拒み、死を選んだことで有名です。

放浪生活の末、越前の朝倉義景に仕えることに・・・
すでに戦国の世、武田信玄、上杉謙信、新興勢力の織田信長も台頭しつつありました。
ある日、光秀が仕える朝倉家に、思いもよらない人物が・・・後に室町幕府の第15代将軍となる足利義昭です。
当時の室町幕府は、有力大名に牛耳られていて、足利家に何の実権もありませんでした。
義昭は、復権を望んでいました。
そこで、昔から将軍家と関わりのあった朝倉家に支援を求めてきたのです。
この時光秀は、足利義昭の家臣・細川藤孝と出会います。
二人は意気投合し、強い信頼関係で結ばれます。
足利義昭の意向を知りながら、主人・朝倉義景はなかなか動こうとしません。
遂に光秀は、細川藤孝に切り出します。

「残念ながら、朝倉家には義昭公を京に上らせ奉るほどの武力も、気力もござりませぬ。
 もっと強い力と、果敢な意気に燃えた大名を求めねばなりませぬ。
 尾張の織田信長さまがおよろしかろう。」by光秀

光秀は、仲介役として信長の元へ・・・!!
二人が対面したのは、光秀41歳、信長35歳の時でした。
信長は光秀の申し入れを承諾します。
足利義昭を将軍に就かせ、その権威を利用しようとします。
こうして信長は、義昭を擁し、京へ上ります。
1568年、上洛
義昭は室町幕府第15代将軍に・・・!!
そして光秀は、朝倉義景のもとを去り、足利義昭と織田信長に仕えることになるのです。
両属といって、二人から禄をもらっていたのです。

信長と出会った光秀は、その後、織田家臣団のTOPに上り詰めます。
信長は光秀をこう評しています。
「明智光秀の働きは、天下に誇れるものである。」
どうして信長の信頼を勝ち得ることができたのでしょうか?

信長に仕えることになった光秀は、重要な役職に抜擢されます。
京都奉行です。
都の治安維持や朝廷や公家との交渉を行う要職です。
光秀は歌会や茶会を開いては、公家たちの要望を聞きだしていきます。
貴族は、各地に荘園を持っていましたが、応仁の乱以降、武士に侵略されたその公家や調停の荘園を取り戻す仕事もやっています。
公家と光秀は親密になっていきます。

1570年、朝倉義景討伐!!

しかし、同盟関係にあった近江の浅井長政に裏切られ挟み撃ちに・・・!!
撤退することさえ難しい、信長最大のピンチに、光秀は秀吉と共に金ヶ崎の退き口と呼ばれる武功を挙げます。
撤退する軍の殿を担い、見事撤退させたのです。
続いて信長が取り掛かったのが比叡山焼き討ちです。
当時、武装していた比叡山は、戦国大名さながらの一大勢力で、信長と対立していました。
しかし、寺院や仏像を焼き、僧侶を殺すことに家臣の多くは二の足を踏みます。
そんな中、光秀は、信長の命に忠実に従います。
光秀は、比叡山を壊滅させます。
こうした光秀の働きを、信長は評価します。
そして、比叡山に近い近江・坂本に5万石の領地を与えるのでした。
光秀はここに坂本城を築城し、念願の城を手に入れるのでした。
信長の家臣の中で、一国一城の主となった最初です。
明智城の落城から17年・・・ついに光秀は、明智家再興の悲願を達成したのでした。

信長に仕える一方で、足利義昭にも仕えていた光秀・・・しかし、厳しい選択を迫られることに・・・
将軍・義昭を飾りとしか考えない信長に不安を募らせた足利義昭が挙兵!!
光秀が選んだのは信長でした。
戦いに敗れた義昭は、京都から追放され、室町幕府は事実上の滅亡!!
室町幕府を滅ぼした信長は天下統一へ・・・!!
そして、48歳の光秀に新たな命が・・・!!
丹波攻略!!
丹波国には、堅固な山城が点在し、信長をはじめ、多くの戦国武将が攻めきれずにいました。
その丹波攻略を命じられた光秀!!
しかし、他のものの援軍も命じられ、各地を転戦します。
1576年、過労によって・・・陣中で病に倒れます。
それでも復帰を果たした光秀は、5年がかりで丹波攻略をします。
信長は光秀を絶賛!!
「明智光秀の働きは、天下に誇れるものである。」by信長
光秀は、攻略した丹波29万石を加増。
元々の5万石とで34万石の大名に!!
信長につかえて12年・・・信長の右腕となった光秀なのでした。

信長は次々と支配地域を拡大!!
1582年、最大のライバルだった武田氏を滅ぼします。
天下統一に大きく近づいた信長・・・
しかし、その数か月後、本能寺で討たれることとなるのです。

どうして光秀は、信長に反旗を翻したのでしょうか?
様々な説があります。
黒幕説も・・・
・朝廷黒幕説
天下統一目前の信長は、朝廷に対し不遜な態度をとるようになっていました。
そこで朝廷が光秀をそそのかし、信長を討つように仕向けたというものです。
・幕府黒幕説
信長に追われ毛利家に滞在していた足利義昭が、後ろで糸を引いていたと言うものです。
・秀吉黒幕説
本能寺の変の後の素早い行動は、事前に光秀の動きを知っていたからというのです。

光秀自身の決断??
・四国説
四国統一を目前にしていた長宗我部元親。
信長と同盟関係にあり、その仲を取り持ってきたのは光秀でした。
しかし、一方的に信長が元親との同盟を破棄!!
領地を差し出すように命じます。
光秀は面目丸つぶれ・・・信長は四国討伐を決意!!
本能寺の変の当日、四国征伐軍が出陣予定だったのです。
光秀がこれを阻止しようとした??
・怨恨説
ポルトガルの宣教師が人々から聞いたところによると、口答えをした光秀を、信長が足蹴にした。
この理不尽な仕打ちに恨みを抱いた・・・??
・前途悲観説
この頃信長は、息子たちなど身内を重用するようになっていました。
一方で、織田家に長年仕えてきた家老二人を、最近目立った働きがないと追放!!
そして、光秀にも信長の命令が・・・
現在の領地・近江と丹波を手放し、山陰地方(出雲・石見)に移れと言うもので・・・しかも、その二つは毛利家の領地・・・実力で奪えというものでした。
この時、光秀は55歳・・・将来への不安が心を占めます。
「人を道具としてしか見ておらぬ・・・」
・野望説
本能寺の変の4日ほど前、毛利出陣のための戦勝祈願を神社でしています。
翌日、この神社で連歌会がありました。
その時光秀が詠んだ歌は・・・
「時はいま 雨が下しる 五月かな」
時は土岐明智家、雨が下は天下、しるは治める・・・
つまり、今こそ自分が天下を治める時だ!!という解釈です。

果たして、光秀の真意は・・・??

1582年6月1日・・・
この時、信長の主だった家臣たちは京都から遠く離れたところで戦っていました。信長は、僅か100人の手勢と共に、本能寺に・・・!!
光秀は、毛利攻めをしている秀吉の援護に向かうために、夜8時ごろ、丹波・亀山を出発!!
光秀の決意を知るものは僅かな者だけ・・・

「我が敵は、本能寺にあり!!」by光秀

一万を越える軍勢が、本能寺に攻め入ります。
ただならぬ物音に起きた信長は、謀反を知ります。
「相手は、何者・・・??!!」by信長
「明智光秀にございます!!」by家臣
「是非に及ばず・・・!!」by信長

信長は自害し、亡骸は、炎に包まれたのでした。

信長を討った光秀は、天下をとろうと動き始めます。
しかし、光秀の天下は僅か11日・・・後に三日天下という言葉が生れるほど、あっけないものでした。
光秀は、何を読み違えたのでしょうか?
信長、長男・信忠を討った光秀は、安土城へと向かいます。
我こそが天下人という立場を示すためでした。
しかし、信長の家臣によって、安土城への橋が落とされます。
止む無く光秀は坂本城に戻りました。
橋の復旧には3日かかりました。
その間に、各地の大名たちに書簡を書き続けます。

「信長父子の悪逆は、天下の妨げ、討ち果たし候」

信長を討ったことを知らせるとともに、協力を要請します。
3日後、橋が復旧し、光秀は安土城に入城!!
しかし、ここでも足が止まります。
光秀は朝廷からの使者を待つことに・・・。
天下人として朝廷からのお墨付きをもらおうとしたのです。
待ちに待った勅使が来るまで、3日間待ちます。
朝廷からの公認を得た光秀。
一安心ですが・・・気がかりは書状を受け取って集まってくるはずの武将たちがなかなかやってきません。
原因は、秀吉の策略でした。
本能寺の変が起きたとき、秀吉は京都から200キロ離れた備中高松城に!!
毛利勢と睨み合っていました。
信長が討たれたことを知ると、迅速に行動に出ます。
毛利勢に信長の死が伝わらないようにし、停戦!!
そして、各地の武将に書状を送ります。
「信長さまは、無事に切り抜けられた!!」
遺体が見つかっていないことをいいことに、生きているというニセ情報を流したのです。
そして、猛スピードで京都へ・・・中国大返しです。
稀に見る強行軍で、1日で70キロの日もありました。
光秀は完全に秀吉に出遅れ、協力を得られず孤立していきます。
かつての盟友・細川藤孝にも断られてしまいました。
ガラシャを細川家に嫁がせていたのに・・・藤孝は出家をしてしまいました。

いよいよ秀吉の軍が迫ってきました。
上京の途中で兵が加わり、2倍以上になった秀吉軍!!
6月13日、山崎の戦い!!
光秀の軍1万VS秀吉3万6000以上!!
圧倒的な兵力の差に、勝負は短時間でつきました。
そして光秀は、落武者狩りをしていた農民に命を落としたのです。
享年55歳。。。

ながい放浪生活に耐えた苦労人。
家族を大切にしたよき夫。
恩をアダで返した逆臣!!

かつて光秀が治めた近江坂本にある寺には一通の書状が残っています。
光秀が戦で亡くなった家臣を弔うために供養米を収めたときのものです。
当時、部下である家臣を弔うのは、珍しい事でした。
一人一人の名前、同じ量の供養米・・・身分の分け隔てなく、家臣を平等に弔った光秀・・・
中には苗字を持たない低い身分の者もいました。
天下の謀反人といわれた男の素顔は、ようやく光が当たり始めたばかりです。


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