日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:本能寺の変

今から400年前の日本に、260年もの長きにわたる平和を実現させた人物がいました。
戦国乱世に終止符を打った英雄・徳川家康です。
家康が築いた天下泰平の世・・・この奇跡は”パクス・トクガワーナ”・・・徳川の平和と呼ばれ、世界にも広く知られています。

しかし、家康75年の生涯は、平和とは程遠い、過酷な試練の連続でした。
幼くして父と母を失い、隣国の人質に・・・
本能寺の変、関ケ原の戦いなど、あまたの合戦を生き抜き、江戸幕府を開府、そして、大坂の陣で天下人となり、その翌年に死を迎えました。
戦国武将の中で、どうして家康だけが長い平和な時代を築くことができたのでしょうか??

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そんな家康の選択のベスト⑩、最強の家臣ベスト⑩とは??

家康の選択10位・・・今川での人質生活
・今川家の人質となった家康は、空気を読み、相手の気持ちを洞察することに長じるようになった。それが後々まで効いてくる。
・少年から青年になるまでの家庭を、当時、東国の都と呼ばれるほど、文化の成熟した駿府で過ごした経験は、家康の自己形成を考えるうえで非常に重要であったと考えられる

徳川家康が今川家に連れていかれたのは8歳の時でした。
人質生活は、それから12年間続きました。
1542年12月26日、三河・岡崎城主・・・松平家の嫡男が産声を上げました。
幼名は竹千代・・・後の家康です。
松平家は、家康の祖父の代に三河全土に勢力を広げた国衆です。
しかし、東を今川、西を織田に挟まれ、どちらからも領地を脅かされる状況にありました。
そんな不安定な環境が、竹千代の成長に大きく影響します。
母・於大の方の実家と松平家の方針の違いによって両親が離縁・・・3歳で母と離れ離れになりました。
さらに8歳の時、父・広忠が家臣に暗殺されます。
その混乱に乗じたのが、駿河・遠江を治める今川家当主・今川義元でした。
義元は、松平家の嫡男・竹千代を人質にとり、三河を実質的に支配するようになります。
今川の本拠地・駿府・・・現在の静岡市で過ごすことになった竹千代・・・
8歳から19歳まで続いた人質生活は、家康の人格形成に多くの影響を及ぼしました。

奈良時代に創建されたと伝わる清見寺は、家康ゆかりの寺です。
幼い家康が、学問に勤しんだとされる三畳の小部屋があります。
教育係を務めたのは、太原雪斎。
僧侶でありながら、今川家を重臣として支えた人物です。
論語、教養の書物、兵法書を学びながら育ちました。
太原雪斎から、儒教の経典である四書五経や、孫氏の兵法などを学んだという竹千代・・・
人質という立場ではあったものの、当代随一の英才教育を施されていました。
しかし、若き当主が不在の中、三河では松平の家臣たちが辛酸をなめる日々を送っていました。
満足な録もえられず、農業をして凌ぐ生活・・・
それでも彼らが松平家を離れることはありませんでした。
ある時、三河をを訪れる機会を得た家康は、家臣たちが畑で土にまみれている姿を目の当たりにします。
すると涙を浮かべ・・・

「私の所領が少ないせいで、家中の皆に辛く苦しい生活を遅らせ申し訳ない」

家臣たちの忠義は、若い家康の心に深く刻み込まれました。

家康の選択9位・・・大坂の陣
征夷大将軍を息子・秀忠に譲り、大御所として君臨していた73歳の家康。
天下統一の総仕上げとして臨んだのが生涯最後の合戦・大坂の陣でした。
大坂城から南15キロの位置に建つ堺にある南宗寺。
この寺に、家康にまつわる奇妙な言い伝えが残されています。
徳川家康の亡骸を、しばらくの間納めていた墓の跡があるのです。
家康の墓・・・家康が亡くなったのは、大坂の陣の翌年、駿府でのハズです。
大坂の陣の時に、家康が後藤又兵衛に槍で刺されて亡くなったことを公表するとまずい!!となり、しばらくの間、寺で預かっていたというのです。
こうした死亡説が残っているほど、家康にとって生きるか死ぬかの瀬戸際だった大坂の陣・・・。
戦いは庶民たちをも巻き込み、両軍合わせて10万の死者を出したともいわれています。

大坂の陣で家康と相対したのは、豊臣秀吉亡き後、逞しく成長していた嫡男・秀頼でした。
戦乱の世に終止符を打つために避けては通れない決戦でした。
しかし、家康の前に、三国無双と称えられた大坂城が立ちはだかります。
台地の北端に建つ城は、三方を川に囲まれた天然の要害で、巨大な惣構えも備えた難攻不落の城でした。
1614年、冬の陣では・・・家康は、総勢20万とも言われる大軍勢で城を包囲します。
しかし、秀頼率いる10万の籠城軍に阻まれ、戦いは膠着。
そこで家康は、一旦秀頼側と和議を結んだ後、城を囲む堀をすべて埋め立て、再び城攻めを行うこととしました。
この策は、後の記録によれば、家康も参陣した小田原攻めの秀吉を真似た策だと言われています。
生涯最大の戦いに、家康は知恵と経験を総動員して臨んだのです。
翌年の1615年、夏の陣が始まりました。
大坂城を丸裸にした家康は、余裕綽々、甲冑も着ずに側近が具足の着用を求めると、大声でこう言い放ちました。

「あの世倅めに何の具足!!」

しかし、戦の一寸先は闇・・・
豊臣方の真田信繁・・・赤備の軍勢が、家康本陣にまで斬り込んできました。
信州・上田を居城としていた真田家は、一度ならず二度までも、徳川軍を打ち負かしている因縁の相手です。
家康は、夏の陣の直前、信濃一国という破格の待遇で調略を図るも、信繁はこれを拒否していました。
真田軍の猛攻を受け、崩れかける家康本陣・・・
もはやこれまで!!家康は自害まで追い込まれました。
しかし、兵力に勝る徳川軍の猛攻で、形勢は逆転!!
大坂城は炎上し、豊臣秀頼は自刃!!
家康は幕府による全国支配を盤石なものとしました。

勝利から2か月後、家康は年号を元和と改めます。
元和とは、9世紀、中国大陸の唐が大乱を平定した際に用いた元号です。
家康は、応仁の乱以来、150年近く続いた戦乱の終わりと平和の始まりを、改元によって高らかに宣言したのです。
これが、家康の亡くなる9か月前のことでした。

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家康の選択8位・・・長篠の戦い
家康の選択7位・・・信康事件

どちらも、家康と信長、武田との三つ巴の戦いでした。
家康、34歳の時の長篠の戦い・・・
信長の勝ち戦として知られていますが、家康にとっても大事な一戦でした。

織田・徳川連合軍・・・信長は、軍勢の後方に・・・
前線に布陣するのは、ほぼすべて徳川の軍勢でした。
家康にとって長篠の戦いは、長年の宿敵・武田との雌雄を決する戦でした。
1575年5月、家康は窮地に陥っていました。
信玄の跡を継いだ武田勝頼が、徳川方の長篠城を包囲したのです。
その数、1万5000!!
わずか8000の軍勢しか用意できなかった家康は、同盟を結ぶ織田信長に援軍を要請します。
これに応じた信長が、自ら軍を率いて出陣!!
その数3万!!
織田・徳川連合軍は、3万8000の大軍となりました。
さらにもうひとつ、信長は勝利への秘策を戦場に持ち込んでいました。
突撃してくる武田の騎馬隊に向かって放ったのは、当時最新の武器だった鉄砲でした。
信長が用意した鉄砲の数は、3000丁ともいわれています。
これによって、山県昌景や、馬場信春などの武田の名だたる武将を相次いで討ち果たしました。
信長のもたらした大軍と鉄砲によって、家康は宿敵・武田に勝つことができました。
しかし、信長の力にすがったことで、家康はそののち残酷なジレンマに陥ることとなります。

長篠の戦いの4年後に起きた信康事件です。
この時、家康は38歳!!
家族か、信長か、究極の選択でした。
1579年、家康は、同盟相手の信長から思わぬ命令を受けます。

”信康に腹を切らせるよう家康に申し伝えよ”

家康の嫡男・松平信康は、この時21歳!!
跡継ぎにしようという息子の命を奪えというのです。
さらに信長は、家康の正室・築山殿も殺すように命じます。
そのきっかけについて通説では、信康の正室・徳姫が、夫や姑の素行の悪さを父・信長に訴えたためだとされてきました。
近年では・・・
信長に妻子殺害を命じられる前から、徳川家中に織田ではなく武田と組まんとする派閥が生まれ、内紛状態にあったというのです。
武田と徳川の戦争は、一進一退の膠着状態が続いていました。
この武田とたたかっちえる状況を見直したいという動きがあったのです。
信康は、こうした家臣や築山殿と共に、武田方に内通していたといいます。
父・家康の新織田路線の危うさを見て、武田との関係を捉え直そうとしていたのです。
徳川家はふたつに分かれてしまうような状況でした。
その中で、家康としてはどちらに行くべきなのか、立場をはっきりと示さなければならなかったのです。

信長の命令によって、選択を迫られることとなった家康・・・
武田に寝返るか??織田との同盟を継続するのか・・・??
家康は苦渋の決断をします。
家臣に命じて築山殿を殺害!!
続いて信康を切腹させました。
家康は、家族の命と引き換えに、織田との同盟を継続したのです。

家康の選択6位・・・三河一向一揆
22歳の若き当主・家康を襲った家臣団分裂の危機でした。
愛知県豊田市にある隣松寺・・・ここに珍しい像が残されています。
20代前半と伝わる家康の木像です。
この頃、三河統一に向け、着々と勢力を拡大させていた家康・・・
しかし、思わぬ敵が足元から現れます。
一向宗の門徒たちによる一向一揆です。
きっかけは、家康が寺院から強引に米を兵糧として取り立てたことだと言われています。
これに一向宗門徒が反発!!
武装集団が蜂起します。
さらに家康を悩ませる事態が・・・
一揆方に、一向宗門徒の家臣たちがたくさんいたのです。
彼らは離反の理由をこう主張しています。

「主君の恩は現世のみ、阿弥陀如来の大恩は未来永劫つきることはない」

家康軍は、内部分裂に陥ります。

1564年1月、ついに大規模な武力衝突が起こります。
一揆勢が家康方の砦に攻め寄せたのです。
乱戦のさ中、銃弾二発が家康に命中します。
鎧が頑丈だったため、命拾いはしました。
しかし、このまま戦いを続ければ、大勢の家臣を失うのは間違いありませんでした。

一揆方と和睦する??それとも、徹底抗戦・・・??

衝突から1カ月半・・・家康は決断を下します。
一揆方と和議を結び、敵対した家臣たちを不問に処することにしました。
許された家臣の中には、後に徳川十六神将と呼ばれる蜂屋半之丞や渡辺守綱など、家康の躍進に欠かせない人物が多数含まれています。
後に家康の懐刀として辣腕を振るった本多正信ももとは一揆の首謀者の一人・・・
若き家康は、こうして家臣団分裂の危機を乗り越えたのです。

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家康の選択5位・・・本能寺の変と伊賀越え
家康41歳!!
宿敵・武田が滅んだわずか3か月後、家康を襲った絶体絶命の危機・・・その発端が本能寺の変でした。
1582年6月2日、この日、家康は主だった家臣と共に大坂・堺にいました。
長年の武田攻めの労をねぎらうべく、信長から畿内見物に招待されたのです。
そんな家康のもとに知らせが届きます。

21年間、家康と同盟関係にあった信長が、明智光秀の謀反によって本能寺で自害したというのです。
これを聞いた家康は狼狽・・・
信長の後を追い、京の知恩院で切腹すると口走ります。
この時、家康を思いとどまらせたのは、本多忠勝はじめ、家臣たちの言葉でした。

「信長公への方向として追腹を切るのと、弔い合戦をして討ち死にするのとどちらが良いとお思いか・・・??」

我に返った家康は、ひとまず三河に戻ることにします。
しかし、この時の家康の手勢はわずか30人余り・・・
京を通れば光秀の手勢に襲われ太刀打ちできない恐れがありました。
そこで家康たちが選んだのが、最短ルートの伊賀越えです。
しかし、この道のりにも困難が待ち構えていました。
まず、家康一行の前に立ちはだかったのが京都・木津川。
地元の漁師から船を借り、なんとか川を渡るも・・・数百人に地侍たちが家康一行を襲撃。
絶体絶命化と思われたその時!!
助っ人が現れました。
地元の伊賀衆200人余りが家康の警護を買って出たのです。
仲介役を果たしたのが、同行していた家康の家臣・服部半蔵正成!!
服部半蔵は岡崎で生まれていますが、父が伊賀の出身でした。
半蔵を通じて伊賀者との結びつきが強かったのです。
こうして家康一行は、丸3日で200キロ以上の道のりを踏破し、岡崎城へ到着。
幕府の記録には、この伊賀越えこそ、家康の生涯にとって艱難の第一・・・もっとも苦しんだ出来事であったと記されています。

家康の選択4位・・・小牧・長久手の戦い
家康43歳・・・
後に天下人となる秀吉と家康、その最初で最後の直接対決が、小牧・長久手の戦いでした。
江戸時代後期の歴史家・頼山陽は言いました。

「家康の天下をとるは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にあり」

本能寺の変から2年、信長亡き後の家督争いに静観を続けていた家康も、巻き込まれることになります。
畿内を中心に急拡大をとげていた羽柴秀吉と対立することになったのです。
戦いは、明らかに秀吉の優勢でした。
徳川軍およそ2万に対し、羽柴軍は10万もの大軍で攻め寄せたのです。
しかし、結局戦いは和睦で幕を閉じます。

愛知県にある小牧山城は、家康が戦いの拠点とした城です。
かつては信長の居城でもあった山城です。
家康は、如何にして秀吉の大軍に抗ったのでしょうか?

小牧・長久手の戦いの戦いの時に、徳川家康がつくらせた巨大な土塁と堀が残っています。
敵を迎え討つために築かれた高さ8mもの土塁・・・
土手を駆け上ってこないと小牧山城の中心には近づけません。
おまけに、土手の上で鉄砲で迎え撃つことができました。
その奥には大きな空堀があります。
一斉に弓矢や鉄砲で向かってくる敵に対して反撃が出来る!!
当時としては最大級の堀を持っていました。

この巨大な堀が、当時は城を取り囲むように築かれていました。
さらに家康は、山の中腹にも空堀を築き、2重の堀で鉄壁の防御を施します。
小牧山城は、もともと織田も武長がつくった城がありました。
その信長の城は、石垣を中枢部のところに巡らせた当時としては最先端の城でした。
家康は、信長の造った石垣を一部壊しながら、一気に巨大な空堀を作ることで中心部分の守りを強くしていきました。
小牧山城は、「石垣」の城から「土」の城に変わった珍しい城です。

こうした大土木工事をたった5日で終わらせたともいわれる家康・・・
城を攻めあぐねた羽柴軍とにらみ合いの状態に・・・
しびれを切らして先に動き出したのは羽柴軍でした。
秀吉の甥・秀次が大将となり、およそ2万の兵が密かに南下。
家康の領国・三河への侵攻を試みます。
しかし、敵の動きを察知した家康も自ら兵を率いて密かに小牧山城を出陣!!
羽柴軍を追撃します。
決戦の舞台となったのは、現在の愛知県長久手市。
激しい戦いの様子が、屏風絵に残されています。
先鋒を務めたのは井伊直政。
武田の兵法を引き継いだ赤備えの軍団が、弾丸を羽柴軍に雨のように降らせます。
さらに追い打ちをかけたのが、戦場に突如掲げられた金地に日の丸の扇。
家康の所在を示す馬印です。
家康は小牧山にいると思い込んでいた羽柴軍は驚愕!!
瞬く間に戦意を喪失!!
池田恒興や、森長可など秀吉に与した名だたる武将が討ち死に!!
長久手の戦いでは家康の圧勝に終わったのです。
その後、7カ月近くにらみ合いが続いた後、和睦という結果に終わった小牧・長久手の戦い・・・
5倍の兵数を誇る秀吉と互角に渡り合ったことで、家康強しの評価が轟きます。
これが豊臣政権下でナンバー2となるステップとなったのです。

家康の選択3位・・・関ケ原の戦い
家康59歳の時、天下分け目の合戦、関ケ原の戦い!!
家康の目には、戦いの先にどんな風景が映っていたのでしょうか?
秀吉の死後、その遺児・秀頼を頂点とする豊臣政権は大きく揺らいでいました。
政権を支える有力大名で構成された五大老筆頭・徳川家康と五奉行の中心人物・石田三成が政権内の主導権を巡り対立!!
武力衝突にまで発展したのです。

1600年9月15日、家康率いる東軍と、三成の西軍・・・
両軍合わせて10万余りの兵たちが、関ケ原に集結しました。
関ケ原の戦いの幕開けです。
戦いの勝敗は、家康が事前に調略を仕掛けた西軍の武将達が次々と味方したことで決しました。
わずか数時間で決着がついたともされています。
ところが・・・実はこの戦い、勝敗の行方は直前までわかりませんでした。
近年、関ケ原周辺で航空機を使った測量調査が実施されました。
空から地方にレーザー光線を当て、地形のデータを読み取る最新の測量方法です。
その結果、驚くべきことが判明しました。
関ケ原古戦場から西に2キロほどの山頂に、玉城と呼ばれる巨大な山城があったのです。
正体不明の巨大な城は、誰が、何のために築いたのか・・・??
地元には、関ケ原の戦いの200年以上前、城があったという言い伝えが残されていました。
そこには、最新の築城技術がなされていました。
そこからこの山城は、豊臣秀頼の本陣として西軍が築いたものと考えられるようになりました。
もし、この時、兵を挙げた秀頼が西軍陣地である玉城に入城を果たしたならば・・・豊臣恩顧の武将達で編成された家康率いる東軍は、秀頼に歯向かうことが出来ず、家康は大敗北を喫したと推測されます。
石田三成や大谷吉継たちは、勝利の作戦をしっかり立てていて、少し状況が変われば西軍が勝っていたかもしれません。
もし仮に、毛利輝元やあるいは豊臣秀頼が玉城に来てしまうと、家康がつくった戦略の全体が崩れて行ってしまう・・・!!
なんとしてもそれより前に、今いる西軍の主力部隊と決戦をしなければ勝ち目がなくなるという状況に家康はありました。
しかし、秀頼は決戦場に現れることはありませんでした。
そして家康は決戦を制しました。
関ケ原の戦い・・・それは家康にとってまさに薄氷を踏む勝利だったのです。

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家康の選択2位・・・桶狭間の戦い
今川家で人質生活を送る家康・・・19歳。
その危機は、平和を目指す出発点となりました。
1560年5月、今川義元が1万を超える大軍を西へと進めていました。
目指すは織田信長のいる尾張!!
この時、今川軍の先陣には、若き家康の姿がありました。
義元の命によって、家康は本隊から先行し、今川方の大高城に兵糧を搬入。
しかし、待てど暮らせど義元が姿を現すことはありませんでした。
桶狭間にいた今川本体を、信長がわずか2000足らずの兵で急襲。
義元を討ち取ったのです。
家康のいる大高城にも、信長軍が責めてくることは必定でした。
この時、家康には2つの選択肢がありました。
駿府に戻るか、岡崎へ帰るのか??
密かに大高城を抜け出し、家康が向かった先は、岡崎城でした。
敗戦の将となった家康は、実に十数年ぶりに故郷に帰ることを選択しました。

岡崎城の北3キロのところに立つ大樹寺・・・
家康から5代遡った松平家の先祖が建立した菩提寺です。
岡崎城への道中、織田軍に襲撃された家康は、大樹寺へと逃げ込み、祖先の前で自害しようとしたといいます。
しかし、この時、住職は諌めます。

「厭離穢土 欣求浄土」

浄土宗・仏教書に書かれた一節・・・
乱れたこの世を離れて、清らかな浄土を目指していくという意味です。
戦乱の世の中から平和な、皆が安心して暮らせる社会を作っていくために生を受けてきたのだから、もう一度頑張りなさい

平和な世の中を願った松平家代々の思いをここで断ち切るのか、そう住職に諌められた家康は、墓前に額づいたと言われています。
岡崎城に入った家康は、これまでの状況を一変させる動きに出ます。
桶狭間の戦いから9か月後、今川義元の首をとった織田信長と和睦。
さらに、義元から一字を授かっていた名前・元康を家康に改めます。
家康は、今川氏への従属関係を完全に断ち、一国一城の主となる道を選んだのです。
家康は自らの旗印に菩提寺で授かった「厭離穢土 欣求浄土」の文字を刻み、平和国家建設の大望を持って戦乱の世に出て行ったのです。

家康の選択1位・・・三方ヶ原の戦い
家康31歳!!
生涯最大の敗北を喫した三方ヶ原の戦い・・・!!
敗北以上に大きなものを家康は手に入れたとされています。

1572年10月、武田信玄が2万5000の兵を率いて本拠地・甲府を出陣!!
徳川領への侵攻を開始しました。
家康より21歳年上の信玄は、戦国最強ともいわれる武田軍を率い、甲斐の虎と恐れられていました。
武田軍の勢いはすさまじく、徳川方の城を次々と攻略。
なす術のない家康は、武田軍を迎え討つべく浜松城で籠城を決めます。
しかし、ここで信玄は、家康の想定外の行動に出ます。
浜松城に向かっていた軍勢が、突如西へと進路を変えて、家康の前を素通りしたのです。
家康は選択を迫られます。
武田を追撃する??それとも野戦を避けて籠城を続ける・・・??
この時、籠城を勧める家臣たちに対し、家康はこう述べました。

「信玄が領土内を横切るのに、多勢だからといって出陣しないわけにはいかない」

家康は、武士の誇りにかけ、追撃することを選択しました。
12月22日の夕刻、自ら兵を率いて出陣、日が落ちるころ合いをみて背後から武田軍を襲撃しました。
ところが・・・家康の追撃を見越していた信玄は、坂の上で進軍を止め、徳川軍を待ち構えていました。
戦闘はわずか数時間で勝敗が決しました。
徳川軍の惨敗でした。
静岡にある浜松八幡宮・・・
ここに、敗走中の家康にまつわる伝承が残されています。

「雲立の楠」・・・
味方が原の戦いで、この地まで逃げ延びた徳川家康が、楠の根元のウロに隠れて難を逃れたという伝承です。
家康が一心に八幡様に祈りをささげると、瑞雲という吉兆の雲が湧き出て、楠の梢から白馬に乗った白い着物を着た翁が浜松城の方向へ飛び去りました。
家康は、まだ自分に運があることを悟って浜松城に戻りました。
浜松周辺には、権現(家康の神号)谷という地名があったり、八幡様も含めて、匿ってもらった農家の伝承もあります。
浜松市の調査によれば、市内に残る三方ヶ原の戦いの伝承は40以上。
家康の窮地が語り継がれていることが特徴です。
みんな家康に同情的です。
弱き家康、殺されそうな家康を、みんながこぞって匿ってあげた・・・
天下人になり、江戸幕府を作った英雄、東照大権現という仰々しい厳めしい家康ではなく、守ってあげたい弱き家康が伝えられています。

伝承の中には、家康家臣に関するものもたくさん残されています。
その一つが、死を覚悟した家康を諌め、自らが影武者となって討ち死にした夏目吉信の忠義を讃えた日もあります。
この戦いで、家康は1000人もの家臣を失ったといわれています。
自分の未熟さを痛いほど叩き込まれた家康・・・
もし、三方ヶ原での敗戦がなければ、家康の人生は全く違ったものになったかもしれません。

家康が平和の世を切り開くうえで、欠かせない経験・・・
本能寺の変と伊賀越えでは、信長の死を反面教師に持続可能な組織作りとは何かを考え、小牧・長久手の戦いではかつての敵さえ家臣に取り込み力に変える柔軟性を発揮、そして関ケ原の戦いではどんなに理詰めで戦略を練っても最後は勝負は時の運・・・ギャンブルだと悟りました。
桶狭間の戦いでは、平和を目指す原点「厭離穢土 欣求浄土」のスローガンを得ました。
そして、三方ヶ原の戦いでは、人生最大の敗北から自分より優れた者がいることを忘れない謙虚さを学びました。

信長でもなく、秀吉でもなく、家康が平和な世を築けた理由は・・・??

色んな時代のいろんな戦国大名を見てきた家康・・・その中で、戦い方、都市づくり、城づくり、統治・・・すべて学んで、自分の天下に活かしていく術に非常に長けていました。
織田信長からは戦争・合戦で如何にして勝つのかを学びました。
秀吉が認めた戦争しか正統な戦争とは認めない・・・戦争を違法化していく、内戦を違法化していく・・・他の大名は、幕府に許可を得なければ軍事的なことができないようにしました。
そして、家康の残した遺産を後継者たちが上手く理解して応用していった結果が平和な世でした。

戦いの連続を経験し、本当に戦いがない時代になればいいなという思いをずっと持ち続けていました。
関ケ原の3年後、征夷大将軍になった家康は、定を出しています。
その中で、”百姓をむざと殺すまじく候”・・・施政方針を書いた中に、命の大切さを謳っています。
命の大切さを・・・戦いがない時代を実現しよう・・・
家康が一生戦いの連続だったことが、最終的には平和を求める精神になったのです。
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今まで大河ドラマに登場した戦国武将の登場回数ベスト3は・・・??

①徳川家康・・・21回
②織田信長・・・17回
③前田利家・・・17回

4位の豊臣秀吉を抑えてランクインしたのが前田利家です。

下剋上はびこる乱世に終止符を打つべく、天下統一を目指した織田信長と豊臣秀吉・・・
前田利家は、その二人に仕え、彼らの偉業を陰で支えた人物とされています。
そんな利家の人生には、4つの転機がありました。




①信長に仕えていた23歳の時

信長か、他の大名か??
尾張国の豪族・前田家の4男として生まれた利家は、15歳で織田信長のそばに仕える近習として召し抱えられます。
その信長の家臣時代の同僚には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)がいて、同い年の2人は終生の友となります。
前田利家の身長は、180センチ以上もあったといわれ、かなりの大男でした。
端正な顔立ちをした若き日の利家は美男子でしたが、派手な拵えの槍をひっさげ闊歩する傾奇者で、けんかっ早い事で有名でした。
気性の粗さと腕っぷしで、戦で数々の武功を上げていきましたが・・・
23歳の時、窮地に陥ります。
発端は、信長が寵愛する茶坊主・拾阿弥が、利家の笄を盗んだことでした。
けんかっ早い利家は、怒りのあまり信長にこう願い出ます。

「拾阿弥は盗人でございます
 あ奴をたたっ斬ることをお許しください」by利家

当然信長は許可しませんでしたが・・・
利家はあろうことか信長が見ている前で、拾阿弥を斬り捨ててしまいました。
これに信長は大激怒!!
利家は、織田家からの追放を言い渡されます。
妻・まつとの間に子供が生まれたばかり・・・
それなのに、利家は、牢人の身となってしまいました。

利家は、食い扶持を稼がなければならず、信長とは別の主君に仕える道もありました。
利家が選んだのは、信長に再び仕えることでした。
利家が追放された翌年・1560年5月・・・
織田信長は、駿河の今川義元と激突!!
桶狭間の戦いです。
織田家がのし上がっていくために、重要な一戦でしたが、利家はその戦に、信長に断りもなく、単独で参戦しました。
武功さえ上げれば処分が解かれると考えた利家は、決死の覚悟で戦い、敵将の首を3つも討ち取りました。
恐る恐る信長にその首を差し出しましたが・・・信長は見向きもせずに利家を無視しました。

それでもあきらめきれない利家は、粘り強く機会を伺い、1年後、美濃の斎藤龍興との戦いに、またも無断で参戦しました。
この戦でも、首とり足立と恐れられた敵将・足立六兵衛などの首2つを討ち取ります。
すると、信長はようやく利家の帰参を許しました。
牢人の身となって、2年の歳月がたっていました。



②本能寺の変で信長が非業の死を遂げた翌年47歳の時

勝家か?秀吉か??
1582年、京都・・・織田信長は、家臣の明智光秀の謀反により、本能寺で自害に追い込まれました。
光秀は、織田家の他の家臣が出払っている隙に蜂起したと言われています。
この時、羽柴秀吉は毛利方が立てこもる備中高松城を、そして前田利家は柴田勝家らと共に上杉方の越中魚津城を攻略中でした。
その為、利家が信長自害の報せを聞いたのは、しばらくたってからのことでした。
本能寺の変の4日後のことでした。

利家は、勝家や佐々成政らと相談の上、自らの領地である能登に帰ることになります。
かつて能登国を支配していた畠山家の旧臣達が、利家が支配する能登国を奪い返そうと動き出していたのです。
京都の光秀を討つための軍勢を差し向けるのは、難しい状況でした。
身動きの取れない利家らに代わり、秀吉は電光石火の早業で備中から京都に戻ると山崎の戦いで光秀の軍勢を打ち破り、信長の無念を晴らしたのです。

本能寺の変からほどなくして、尾張の清州城に織田家の家臣たちが集まります。
そこで、織田家の跡目を誰にするかなどが話し合われましたが・・・
秀吉らが信長の孫である三法師を跡目に推したのに対し、勝家らは信長の三男・信孝が相応しいと主張。
両者譲らない中、結局秀吉が強引に押し切ります。
その後も、秀吉が信長の葬儀を取り仕切るなど、まるで自分が信長の後継者であるかのように振る舞ったため、織田家の重鎮である柴田勝家は秀吉に対し不満を募らせていきました。

勝家と秀吉の対立によって、どちらにつくのか・・・利家は選択を迫られます。
この時、利家は、与力大名として柴田陣営にいました。
しかし、秀吉は、家族ぐるみで付き合う無二の親友でした。
さらに、利家の四女・豪が、秀吉の養女となっていました。
どちらにも近しい利家は、和睦させようと上洛し、秀吉と交渉します。
しかし・・・徒労に終わりました。

信長の仇を討った秀吉と、織田家の重鎮の勝家・・・。

こうして、1583年、近江国・・・勝家と秀吉は、賤ケ岳で相まみえることになります。
利家が選んだのは・・・柴田軍として戦う・・・!!
勝家の与力であった利家が、武士として勝家方につくのは当然のことでした。
しかし・・・羽柴軍の勢いに押され、やがて柴田軍が総崩れとなると、利家は近江から撤退し、息子・利長の領地・越前府中へ逃げ延びます。
そして、翌日、羽柴軍の追手がやってくると、利家は降伏し、そのまま羽柴軍と共に勝家のいる越前・北ノ庄へと進軍します。
秀吉と共に、勝家を自害へと追い込みます。

下剋上の世、戦国時代にあって、大出世を遂げていった前田利家・・・
その裏には、妻・まつの尽力があったと言われています。
能登の末森城が、佐々成政によって攻められた時、利家は戦費がかさむことを懸念し、援軍を送ることを渋っていました。

「家臣ではなく、金銀を召し連れて槍をつかせたら??」byまつ

自分の家臣の命よりお金に執着する利家を痛烈に皮肉ります。
ようやく利家は援軍の派遣を決断します。
この戦での勝利が、秀吉の北陸制覇の大きな一歩になったと言われています。

こうしてまつの内助の功を受けながら、盟友・秀吉を支えていく存在となっていきます。

1585年、羽柴秀吉は関白に任ぜられ、豊臣姓を賜り、ここに豊臣政権が誕生します。
秀吉は、京都に豊臣政権の本拠地・聚楽第を造営。
その周辺には、諸だぢみょうの屋敷が置かれ、利家は1年の大半をここで過ごし、秀吉のために働いていきます。
秀吉も、そんな利家を信頼していました。

1587年、秀吉自ら九州平定へ出陣。
留守居として京都を守ったのは利家でした。
実直な働きぶりと、気心の知れた安心感・・・諸大名の中にあって、利家の存在は秀吉にとって特別なものでした。
しかし、2人の関係を脅かすことが一度だけありました。

1590年小田原攻め・・・
上洛の求めに応じない、北条氏政・氏直親子を討つため、秀吉は諸大名を動員し、自らも小田原へと攻め込みます。
利家は、越後の上杉景勝と共に別動隊を編制。
北陸から南下し、北関東に陣取る北条勢力を討ち取るよう秀吉に命じられました。
利家らは、上野国の松井田城、武蔵国の鉢形城などを落としていきました。
しかし・・・利家が、秀吉の怒りを買ったのは、この頃のことでした。

従来の説によると、降伏した北条方の武将を助命するなど、利家の戦い方の甘さに秀吉が不満を持ったからだと言われています。
しかし・・・一緒に戦っていた上杉景勝や息子の利長も連座しているはず・・・
しかし、そんな形跡はありません。
そして、秀吉からとがめられた後も、軍事行動を行っています。
利家に政治的な落ち度があったのではなく、感情的なもつれ、意思疎通の問題など、小さな揉め事の可能性があります。
一説に、ある大名が、利家に関してありもしないことを秀吉に告げ口したことで、秀吉が真に受け怒ったと言われています。
それは、秀吉と利家の仲の良さを妬んでのことだったのかもしれません。
結局、秀吉の側近である浅野長政のとりなしもあって、秀吉の利家への怒りは収まります。

小田原攻めで、北条氏を攻め滅ぼしたことで、秀吉は関東を平定し、東北の諸大名らも臣従させ、天下統一を成し遂げます。
すると、甥の秀次に関白の座をあっさりと譲り、太閤となった秀吉は次なる野望・朝鮮出兵に向けて行動を起こします。
そして、この頃から、秀吉と利家の関係に再び変化がみられることになります。



③信長に代わり天下統一を進めていく秀吉に仕えていた56歳の時
秀吉の朝鮮行き・・・認めるか?止めるか?
1592年、豊臣秀吉は、中国・明を平定するため、朝鮮半島への出兵を命じます。
朝鮮出兵です。
丁度その頃、前田利家は、新しい役目を仰せつかります。
秀吉のそばに付き、雑談の相手などをして秀吉の心を癒すというものです。

隠居した大名や、話術・学問に秀でた者がその任につくのが通例でしたが、利家のように現役の大名が務めるのは異例のことでした。
この頃、秀吉は、親族の死・・・弟・秀長、嫡男・鶴松が相次いで病死。
特に、秀吉の右腕として働いた秀長の死は、豊臣政権にとって大きな痛手でした。
そこで、利家に白羽の矢が立ったのです。
この時、利家の三女が秀吉の側室になっていたため、もはや利家は、秀吉にとって親族のような存在でした。
秀吉は、親族のように信頼できる利家をそばに置くことで、弟・秀長のような相談役になってもらおうと考えたのです。
これによって、利家は、秀長が担ってきた秀吉の暴走を止めるという役目も背負うことになります。

もう一人の有力大名・徳川家康と共に、秀吉について朝鮮出兵の拠点である肥前・名護屋城で・・・
豊臣軍が、朝鮮半島で善戦していることを聞いた秀吉が、なんと自分も海を渡って戦場へ行くと言い出しました。

秀吉の朝鮮行きを容認するのか、止めるのか・・・
利家が選んだのは、止める!!
利家は、家康と共に秀吉を必死で説得し、なんとか思いとどまらせたといいます。
結局、日本側が撤退する形で終わった朝鮮出兵・・・
もし、利家が秀吉を止めていなければ・・・戦は長引き、日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。




④利家が亡くなる直前63歳の時
1593年8月、豊臣秀吉と淀の方との間に秀頼が生まれます。
諦めかけていた跡継ぎの誕生に、もろ手を挙げて喜ぶ秀吉。
しかし、その裏で、秀吉に仕えていた前田利家は複雑な思いでした。
遡ること2年前、秀吉が甥の秀次に関白の座を譲ったことで、誰もが秀吉の跡継ぎは秀次だと考えていました。
しかし、秀頼が生まれたことで、跡継ぎが誰になるか不透明な状況に・・・!!
秀次とも親しい関係にあった利家は、秀次の立場が危うくなることを案じていました。
そんな中、1595年、突如、秀次に謀反を企てたという嫌疑をかけ、関白の職を剥奪、高野山へ追放しました。
秀次は、失意の中自害してしまうのです。
秀次の死によって、跡継ぎが秀頼に決まったことで、秀吉は新しい組織づくりに着手します。
五大老五奉行せいです。
五大老・・・徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝
五奉行・・・石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以
の合議制により、自分が無き後も豊臣政権を維持しようと考えたのです。
さらに秀吉は、一番信頼していた利家を秀頼の後見人・・・傅役に指名しました。
それで安心したのは、やがて秀吉はこの世を去ってしまうのです。

主君であり、無二の友である秀吉の死に、悲しみに暮れる利家でしたが、この時、すでに利家も病魔に侵されていました。
それでも利家は、最期の力を振り絞り、跡継ぎ・秀頼の後見人よしての役割を務めます。
ところが・・・不穏の動きを見せる者が・・・五大老のひとり、徳川家康です。
秀吉の生前から、許可なく大名家同士が結婚することを禁じられていたにもかかわらず、家康は味方を増やそうと自分の親族と、伊達家や蜂須賀家との結婚話を進めていました。

これに怒ったのが、四大老と石田三成ら五奉行でした。
家康のもとにも支持する諸大名が集まり、利家らと家康との間に一触即発の様相が漂い始めます。

家康と戦うのか、それとも和解するのか??
最後の選択を迫られます。
利家が選んだのは、家康と和解するでした。
利家が、病を押して家康の屋敷を訪ね、その後、家康が利家の屋敷を訪問。
双方が和解したのです。
しかし、家康が訪れた際、利家はすでに死の床にありました。
一説に、その際利家は家康に、こう頼んだといいます。

「これが暇乞いでござる
 わしは間もなく死ぬ
 利長のことを頼み申す」

さすがの家康も、この利家の申し出を涙ながらに受け入れたといいます。
その翌月・・・1599年3月3日・・・利家死去。
63歳の生涯でした。

徳川家康が、天下分け目の関ケ原で勝利したのは、前田利家が亡くなった翌年のことでした。
利長は、関ケ原の戦い直前、母親で利家の正室である”まつ”を家康に人質に差し出すことで、家康方につくことを表明。
関ケ原の戦いののち、家康から加賀国の南半分を加増され、併せて120万石を領することになります。
前田家と徳川家は、婚姻関係を結び、両家は良好な関係にあったといいます。

利家と家康の和解は、前田家にとって大きなターニングポイントだったのかもしれません。

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愛知県半田市にある浄顕寺・・・ここに、戦国時代に描かれた珍しい仏画が残っています。
”血判阿弥陀如来絵像”です。
仏画の裏に記された名前と、生々しい血判・・・その数342人。
農民や武士、僧侶など、さまざまな階層の人々は、当時一向宗と呼ばれた門徒たちでした。
人々の血判は、ある人物に対して徹底的に戦う決意でした。
彼等が激しい怒りを向けたのは・・・戦国の覇者・織田信長です。
そして、この一向宗の門徒を率いたのは、大坂に本拠を構えた本願寺第11代門主・顕如です。
信長生涯最大の敵ともいわれています。
一向宗との戦いは、信長が制圧するまで11年もかかりました。
どうしてこれほどまでに苦戦を強いられたのでしょうか?

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戦国の覇者・織田信長・・・
その名を天下に広く知らしめたのは、1568年、足利義昭を奉じて上洛したことに始まります。
信長は、征夷大将軍となった義昭や、朝廷の権威を背景に、次々と近隣の武将たちを攻略。
1570年、姉川の戦いでは越前の朝倉と、北近江の浅井を破り、その武威をとどろかせました。

そんな信長が次に狙いを定めたのは、大坂の地でした。
「信長公記」にこうあります。

”大坂は日本一の境地なり”

境地とは、交通、経済、防御に秀でた優れた土地のことを刺します。
信長は、大坂こそが、日本一だと称賛したのです。
周囲を多くの河川で囲まれた大坂は、水陸交通の要衝でした。
都がおかれた京や奈良、貿易が盛んな堺を結ぶ拠点であり、さらに、西に面した瀬戸内海を通じて、朝鮮、中国、南蛮などの異国とも通じる富貴の湊でした。

信長の野望に危機感を抱いた大坂本願寺・・・。
後に名付けられた石山という地名から、石山本願寺とも呼ばれています。
当時、一向宗と呼ばれた仏教宗派の一大拠点だった本願寺は、大坂を中心に越前、伊勢、近江、紀伊など、日本各地で勢力を拡大。
西方極楽浄土の仏・・・阿弥陀如来を信仰する門徒たちは、一向・・・ひたすら念仏を唱え、来世に救いを求めました。
こうした門徒は、全国数十万に及んだといいます。
孤の一大宗教勢力を率いたのは、本願寺第11代門主・顕如。
勇ましい武者姿の肖像画も残されています。
顕如率いる一向宗は、巨大な宗教勢力というだけではなく、本願寺は当時最新の鉄砲に習熟した紀州・和歌山の雑賀衆を傭兵として雇用するなど、戦国大名に匹敵するほどの武装集団でした。

1570年、顕如は、大坂に狙いを定めた信長から、最後通告とも思われる要求を突き付けられました。
顕如が門徒にあてた書状によると・・・

”信長が、上洛を果たして以来、様々な難題を持ち掛けられた
 これまで信長の要求に応じてきたにもかかわらず、今度は本願寺を破却するとの意向を告げてきた”

信長は、顕如に対し、大坂からの退去を求めたのです。
9月、ついに本願寺は、反信長の兵を揚げました。
足掛け11年に及ぶ長きにわたる戦いの始まりでした。
挙兵した本願寺勢は、大坂周辺の織田軍を一気に攻勢、精強誇る織田軍を、わずか1日で退けることに成功しました。

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本願寺の強さの秘密とは??
後の天下人・豊臣秀吉によって築城された大坂城・・・それまでは、本願寺の本拠地でした。
織田軍を寄せ付けなかった本願寺の強さ・・・その立地とは??
堀や土居、あるいは土塁、防御のための土の土手・・・それぞれの町の周辺にめぐらせて、自主的な防御が出来ています。
河川を天然の要害となし、海抜30mに及ぶ上町台地の戦端に築かれた本願寺。
堅固な防御施設に囲まれた戦国大名の城下町を彷彿とさせます。

上町台地の自然にも秘密がありました。
比高差、落差があり、天然の城壁となります。
例え法下としても、織田軍は崖の下から包囲することになります。
どう攻めるのか??
それは、天然の要害でした。

さらに本願寺を難攻不落の要塞にしたのは、台地上でも豊富に得られた湧き水でした。
台地・山の上というのは弱点もあります。
なかなか水を得にくいということでした。
水かなければ、長期の籠城を戦うことはできません。

強敵・本願寺と戦端を開いた信長・・・
まもなく、思いもよらない勢力に囲まれることになります。
当時、最強と謳われた武田信玄が、反信長を掲げて参戦。
翌年、信長が擁立した将軍・足利義昭も本願寺に与し、反旗を翻しました。
敵の包囲網・・・信長は、その中心となった本願寺を攻略するため、各個撃破で挑みます。
敵勢力が分散しているうちに、それぞれ個別に打ち破るというものです。
1573年7月、将軍足利義昭を降伏させたことを皮切りに、宿敵・朝倉、浅井を一気に滅亡にまで追い込みます。
これによって、畿内周辺の敵は、本願寺を残すのみとなりました。

大坂本願寺の挙兵以降、各地で織田軍に抵抗をつづけた一向宗の門徒たち・・・
この一向一揆に対し、信長は強硬な作戦に打って出ます。
1574年9月、長嶋一向一揆・・・せん滅
この時、男女2万人を焼き殺したと言われています。
さらに1575年8月、総勢4万人を超える大軍勢で、越前一向一揆・・・せん滅
いっきに参加した人々を皆殺しにしました。
各地の一向一揆を容赦なく弾圧し、本願寺の孤立を図った信長・・・


1576年5月、ついに本願寺の攻略に取り掛かります。
織田軍は、大軍勢で本願寺を囲みます。
ところが・・・本願寺は、数百丁もの鉄砲を駆使し、攻め寄せる織田軍をことごとく蹴散らしました。
さらに、前線に向かった信長は、足を撃たれ負傷・・・
信長が戦場で負傷したという記録は、本能寺の変を除いてこの時だけです。
戦線は膠着しました。
信長は、力攻めを諦め、敵の武器や兵糧の輸送を断つ持久戦に転じます。
本願寺の南に堅固な天王寺砦を築き、西は荒木村重、東は明智光秀と、織田軍精鋭の武将に本願寺を包囲させました。
しかし、本願寺を完全に包囲するためには、海に面した木津川口を封鎖しなければなりません。
信長は、急遽水軍を編制・・・木津川口の封鎖を試みました。
この織田軍の包囲作戦に対し、本願寺が救援を求めたのは信長と敵対し始めていた毛利輝元でした。
本願寺は毛利と同盟を結び、兵糧の輸送を依頼します。
当時、瀬戸内海を制していた毛利水軍の中核を担っていたのは村上海賊でした。
本願寺への兵糧輸送を阻止すべく、木津川口を封鎖しようつする織田軍・・・
対する毛利水軍は、淡路島に終結後対岸に移動、鉄砲に熟達した雑賀衆と合流・・・その数800艘にのぼりました。
7月13日、毛利水軍は300艘からなる織田水軍の防衛線を突破すべく、攻撃を開始します。
この時、勝敗を決したのが村上水軍のほうろく火矢です。
球体の鉄や鉛などの内部に、黒色火薬を詰めた新兵器です。
信長公記はこう伝えています。

”海上ほうろく火矢などというものを作り、味方の船を取り囲み、繰返し投げ入れて織田方の船を焼き崩した”

木津川口の戦いに呼応して籠城していた本願寺勢も陸上で包囲する織田軍を責攻めてました。
本願寺勢の勝鬨は、大坂に響き渡りました。
信長は、本願寺勢の猛攻を前に、またも大敗を喫したのです。

信長の窮地は、木津川口の戦い敗北の後も続きました。
追い打ちをかけたのが、松永久秀叛逆!!
久秀は、本願寺包囲戦の要となる天王寺砦を守っていました。
ところが、それを放棄し、軍を撤退・・・本願寺と内通した裏切りでした。
さらに、荒木村重謀反!!
村重もまた本願寺と通じていました。
信長の痛手は大きかった・・・!!
荒木村重は、信長軍の中では摂津担当でした。
本願寺の北側エリアを中心的に任されていました。
本願寺方に渡ると、西日本から本願寺へ向かう船、様々な物資が容易く入って来れるのです。
これは、信長が摂津を掌握していたことを考えると、形勢逆転となるのです。

この機を逃さず、毛利水軍を動き始めていました。
本願寺に兵糧を輸送するため、織田水軍の倍以上に当たる600艘もの軍勢が、淡路島に集結していました。
度重なる家臣の叛逆、迫りくる敵の大船団・・・!!

本願寺と和議を結ぶ??それとも本願寺との戦いを継続する??

これまで信長は、鉄甲船を準備したと言われてきました。
ところが、他の資料には、その記述がありません。
しかも、信長の船を実際に見学した宣教師はこう記しています。

”その船は、日本国中最も大きく、また華麗なるものにして、ポルトガルの船に似たり
 船には、大砲三門を載せ、無数の大なる長銃を備えたり”

こうしたことから、信長が新たに建造したのは船体を鉄で覆った鉄甲船ではなく、大砲と長銃を備えた南蛮船のような大船だと、近年では考えられています。
この大砲があれば、さすがの敵も、木津川口に近づくことさえできまい!!

毛利水軍との戦いを避けて、本願寺と和議を結ぶべきか??
海戦に挑み本願寺との戦いを継続すべきか??

信長は、本願寺と和議を結ぶと見せつつ、新たに建造した大船を木津川口に配置。
和戦両様を見せていました。
そんな信長に対し、優位に進めていた本願寺が和議を結ぶいわれはありませんでした。
その2日後、大坂湾で戦端が行われました。

11月6日、第2次木津川口の戦い!!
戦いはどのように展開したのでしょうか?
11月6日、淡路島に拠点を置いた毛利水軍600艘が、大坂湾を進み、木津川口に船を進めます。
織田水軍は、巨大軍船を軸に、船を並べ、それを待ち受けました。
両軍の船が近づいたとき・・・織田の巨大軍船の大砲が火を噴きました。
この攻撃で、毛利水軍の大将が乗った大船を大破させました。
織田水軍は、大砲などの重火器による集中砲火で敵に大打撃を与えて行きました。
しかし、織田方の一方的な勝利というわけではありませんでした。

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開戦の後も、本願寺に兵糧を運び入れていた毛利軍・・・
第2次木津川口の戦いに勝利したとはいえ、海の搬入路の完全封鎖は不可能でした。
そこで信長は外交策に出ます。
まず、荒木村重配下の武将たちを次々に調略。
村重を孤立させることに力を注ぎます。
本願寺への兵糧輸送を阻止するべく、豊後の大友、肥前の宇喜多と同盟を結び、東西から毛利本国に圧力をかけて行きました。
これによって、毛利は自衛の戦いを余儀なくされ、本願寺の兵糧輸送にまで手が回らなくなってしまいます。

1569年、荒木村重の居城・有岡城陥落。
信長は、大坂湾周辺の制海権を取り戻すことに成功します。
そして・・・1580年4月、深刻な兵糧不足に陥った本願寺は、朝廷を介し信長に和議を申し入れます。
信長もこれを受け入れ、最終的な和睦が成立しました。
その結果、顕如は大坂を知り沖、紀州に逃れます。
門徒たちも、無事に大坂を退去。
当時の信長にとって、大坂の地を手に入れることこそ、最も重要な目的だったのです。

こうして信長は、足掛け11年に及んだ本願寺との戦いに幕を閉じ、ようやく畿内統一を果たしました。
ところが・・・そのわずか2年後、本能寺で明智光秀に打たれることとなります。
信長が、日本一の境地とたたえた大坂は、後継者の秀吉に受けつがれます。
秀吉は、ここに当時日本最大の大坂城を築城し、天下統一を成し遂げたのです。

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1582年、日本を揺るがす大事件が勃発しました。
本能寺の変です。
どうして明智光秀は主君・信長を討ったのか??
日本史最大の謎とされています。
本能寺の変のカギを握るのは細川藤孝・・・細川幽斎となる戦国大名です。
戦国の動乱期に、信長・秀吉・家康という三人の天下人に仕えた稀有な武将です。

江戸時代、239年にわたって熊本藩を統治してきた細川家・・・
現在、熊本市には細川家の数万点に及ぶ資料が蓄積されています。
どうしてこれほど多くの資料が細川家に受け継がれてきたのか・・・
細川藤孝は、室町幕府の名門・細川家の分家筋に生れ、足利将軍家と大名家との取次役として活躍していました。
藤孝の母方は、天皇の教育係をしていた清原家。
藤孝は、幼いころから一流の教育を受けていたといいます。
藤孝が、幼いころから鍛錬を積んだのは、連歌が外交に不可欠な道具だったからです。
和歌や連歌を藤孝が地方の大名たちに教えたり共有したりすることは、その秩序と地方の大名たちを結びつける意味を持っていたのです。
そういう役割が、京都の政権には必要でした。
そして、それを担ったのが藤孝でした。

これが真相! 光秀と盟友細川藤孝が知る「本能寺の変」(上巻)【電子書籍】[ 飯田イチロオ ]
これが真相! 光秀と盟友細川藤孝が知る「本能寺の変」(上巻)【電子書籍】[ 飯田イチロオ ]

当時、貴族や武士は、和歌や連歌を通じて外交交渉を行い、広いネットワークを築いていました。
藤孝は、将軍家の交渉人として、その才を発揮していきます。

1565年12月5日、藤孝に宛てられた手紙が残っています。
差出人は、あの織田信長です。
”京都に入られるときには命令次第でいつでもお供する覚悟である”
この時藤孝は、暗殺された将軍・足利義輝の実の弟・義昭と京都から逃げ延びていました。
藤孝は、義昭を将軍にするため、地方大名たちに支援を呼びかけ、京都に戻ろうと画策していました。
この文書からは、藤孝が当時勢いのあった新興武士・織田信長の後ろ盾を得ることに成功したことが読み取れます。
さらに、藤孝はこの頃、近江周辺で活動していた明智光秀と出会い、親交を結んでいたとみられています。

1568年10月14日、足利義昭入洛。
室町幕府15代将軍となりました。
藤孝は、3年がかりで目標を果たしたのです。
ところが・・・足利義昭の政権は、わずか5年で瓦解・・・
政治に介入してくる信長に、不満を抱いた義昭が挙兵・・・!!
将軍に忠誠を立て、必死で働いてきた藤孝は、この時驚くべき行動に出ます。
抗争が始まって間もなく、信長が藤孝に送った手紙が現存しています。

”京都の模様を具体的に知らせてくれて満足である”

藤孝は、信長に京都の情報を流していたのです。
この時藤孝は、明らかに信長側についていたとみられています。

1573年7月18日、室町幕府滅亡・・・。
義昭は信長によって京を追放されました。
新時代のリーダーに誰が相応しいのかを見極めた藤孝の大きな決断でした。
そして、すでに信長の配下にいた明智光秀と共に、藤孝は激動の時代を迎えることになります。

室町幕府が滅亡すると、信長は畿内を支配するための新しい闘いの日々を始めます。
信長の命を受け、光秀と藤孝は丹波・丹後攻略に向かっていきます。
丹波と丹後は、近畿と西国を結ぶ要衝・・・信長が何として手に入れたい土地でした。
2人は、4年もの歳月を費やし、丹波、丹後を平定。
藤孝は、光秀の指示のもと、丹後に城を築き領国を運営することになります。
さらに、信長の薦めで藤孝の息子・忠興と光秀の娘・玉子(ガラシャ)が結婚し、姻戚関係で結ばれた細川家と明智家の結束は、さらに堅くなっていきました。

ところが・・・1582年6月2日、本能寺の変勃発。
光秀の謀反によって、信長は討たれました。
どうして光秀はこのような行動に出たのでしょうか??
2014年に発見された石谷家文書「長曾我部元親書状」
光秀の家臣・斎藤利三と、土佐の領主・長曾我部元親が交わした複数の手紙が見つかりました。
元親の四国支配政策を、真っ向から否定した信長は、討伐を決断。
四国との調整役をしていた光秀は、戦闘を回避しようと元親と交渉を重ねました。
その結果、元親の側に信長の要求に応じようとする形跡が見られます。

”信長の朱印状に従う
 全く叛逆する気持ちはない”

これが、本能寺の変のおよそ10日前のやり取りです。
しかし、光秀の苦労むなしく、信長の四国討伐の方針が覆されることはありませんでした。
信長は、四国の対岸に、三男・信孝の軍勢を集結させ、まさに四国上陸は寸前にまで迫っていました。
調整役の面目が丸つぶれになった事が、光秀謀反の引き金になったともいわれています。

信長の軍事要員の仕方は、具体的な動員人数、動員期間を一切指定しません。
自分の領国の家臣や百姓たちに、過重な軍事動員をかけてしまうことになります。
そうなると、自分たちの領国を回せなくなっていきます。
そんな悪循環と、それに対する危機感が非常に高まっていました。

かくして、6月2日、本能寺の変が発生したのです。

その知らせは、数時間後に丹後の宮津城にいた藤孝の元へと届けられました。
共に苦労を重ね、どの武将よりも親交の深かった光秀と藤孝・・・
細川家は明智側であると考える者も少なくありませんでした。
しかし・・・本能寺の変の速報を聞いた藤孝は、すぐに剃髪し、信長への弔意を示したのです。
そんな藤孝の元へ、光秀は書状を送っています。
そこには、光秀の切実な思いが書かれていました。

第1条では、藤孝が剃髪したことについては腹は立ったがそれは仕方のないこと。
こうなったからには全軍を率いて入魂してほしいと懇願しています。
さらに第2条では、恩賞として摂津や若狭といった領国を渡すと綴っています。
第3条では、信長を暗殺した理由は、自分の息子や忠興の世代を取り立てる為であり、自分自身は身を引くつもりだと書かれ、私利私欲のための謀反でないことを藤孝に訴えています。
盟友・光秀の思いを聞いた藤孝は、どう動くのか??

光秀に加勢する??それとも、光秀を討つ・・・??
自分の行動次第で時代が大きく変わる・・・どうするのか・・・??

本能寺の変を受けて、藤孝は丹後・宮津で緊急会議を開きました。
会議には藤孝の息子や細川家家臣たちが集められました。
長男の忠興は、光秀の使者に斬りかからんばかりに怒り、光秀討伐の意思を見せます。
一方、次男の興元は、信長は悪逆無比で人望もなく、細川家は光秀に協力すべきだと主張します。
藤孝は、家が二分するほどの究極の選択を迫られることになります。

信長と本能寺の変 謎99 (イースト新書Q) [ かみゆ歴史編集部 ]
信長と本能寺の変 謎99 (イースト新書Q) [ かみゆ歴史編集部 ]

藤孝が選んだのは、丹後を動かず中立を貫くという選択でした。
藤孝は軍を動かすことはなかったものの、いち早く情報収集の手を打ちます。
家臣を京都に送り、東福寺に情報本部を設置します。
目まぐるしく変わる京都の情報を、逐一入手しています。
さらに、息子・忠興は、玉子を人里離れた山奥に幽閉。
細川家は中立の立場であると天下に知らせます。

光秀にとって、藤孝の選択は大打撃でした。
細川藤孝動かず!!
この事実は、光秀側につくかどうか迷っていた大名たちを足止めさせたからです。
結局、藤孝の行動は、戦いを大きく動かすことになります。

1582年6月13日、山崎の戦いで、光秀は秀吉軍に敗れ、滅亡・・・。
本能寺の変からわずか10日ほどのことでした。

7月15日、藤孝は、信長追善懐旧連歌百韻興行を主宰します。

墨染の 夕べや名残り 袖の露   幽斎

細川家は、亡き信長に忠誠を尽くしたことを天下に知らしめたのです。

信長が秀吉に送った手紙が、細川家に伝わっています。
そこには、鳥取城攻めの方針が事細かく書かれていました。
この事実から、藤孝と秀吉が、本能寺の変以前から深く通じていた可能性もあると考えられます。
両者の軍事連携が、急速に進んでいます。
丹後から・・・光秀の背後から”京都に細川が加勢してくる可能性なし”と、秀吉には確信があったと想定できます。

1582年7月11日、本能寺の変から1か月後に、秀吉から藤孝に宛てた手紙があります。

”この度の信長の不慮について、比類ない覚悟をもって行動されたことは頼もしかった”

秀吉は、光秀に与せず、丹後から動かなかった藤孝を高く評価しています。
さらに、これからは入魂・・・協力関係を維持し、表裏なくどんな時も見放すことはないと血判を押し、藤孝と盟約を結んだのです。
この時、藤孝は来るべき秀吉の時代を見通していたのかもしれません。

1600年9月、関ケ原・・・天下分け目の戦が始まろうとしていました。
秀吉亡き後、石田三成が率いる西軍と、徳川家康が率いる東軍の決戦が迫っていました。
その2か月前・・・丹後の細川藤孝に、人生最大の危機が訪れていました。
舞台は、丹後・田辺城・・・
徳川方の東軍についた藤孝は、この城に立てこもっていました。
これを包囲する西軍勢1万5000!!
対する藤孝の軍勢はわずか500!!
死を覚悟していた藤孝を救ったのは??
古今伝授・・・古今和歌集の解釈を秘伝として伝える儀式で、三種の神器を模した鏡・剣・玉を前に執り行われます。
当時、数少ない古今伝授の継承者が藤孝でした。
籠城戦に入る直前、藤孝は急いで次の継承者・八条智仁親王に古今伝授の講義を行っています。
そして田辺城で死を覚悟して、辞世の句を・・・

いにしへも今もかハらぬ世中に
             心の種をのこすことの葉

そんな藤孝を助けようと働いた人物が、後陽成天皇でした。
藤孝の死によって、古今伝授の伝統が失われることを嘆き、藤孝に西軍と講和するように要求します。
一方、西軍には、田辺城の包囲を解くように迫ったのです。

9月18日、天皇の勅命により、藤孝は籠城をときます。
古今伝授を伝える藤孝は、危機を乗り越えたのです。
籠城が解かれる3日前に、関ケ原の戦いは終わっていました。
藤孝の2か月に及ぶ籠城が、西軍勢を田辺城に足止めしたことが合戦の行方に大きな影響を及ぼしたのです。
そして、徳川家康が次の天下人となります。

藤孝は家康に、室町幕府時代の伝統やしきたりを伝授し、77歳で亡くなるまで、江戸幕府の基礎作りに貢献しました。
1610年8月20日・・・死去。

国宝「太刀 豊後国行平」

古今伝授を終えた記念の名刀です。
武士でありながら、教養を手掛かりに、戦国を生き抜いた細川家の誇りを、今に伝えています。

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本能寺の変の首謀者はだれか 信長と光秀、そして斎藤利三 (読みなおす日本史) [ 桐野 作人 ]
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1582年6月2日、この日、時代を揺るがす大事件が勃発!!
明智光秀が謀反を起こし、主君・織田信長を討ち取った本能寺の変です。
この時、羽柴秀吉・・・豊臣秀吉が奇跡を起こします。
備中高松城から姫路城まで100キロを、わずか2日で駆け抜けた・・・??
秀吉軍、2万5000の高速代移動・・・中国大返しです。
この奇跡の行軍により、秀吉は京郊外・山崎で光秀を討つことに成功!!
その後、天下人への道を切り開いたのです。
秀吉は、どのような方法で長距離移動を可能にしたのでしょうか?
戦国の軌跡・中国大返し・・・秀吉は天下への道程をいかにして切り開いたのか・・・??

1582年5月26日、本能寺の変5日前・・・近江の居城・坂本を出発した光秀は、丹波・亀山城に入城しました。
その3日後、安土城を出発した信長も、光秀同様、上洛を果たしています。
信長と光秀・・・両者の行く先は、実は同じ場所にありました。
史料には・・・”中国への御出陣”とあります。
中国方面軍・羽柴秀吉の援軍のため、2人は西へ移動したのです。
この時秀吉は、備中高松城を水攻めで包囲、中国地方の覇者・毛利軍と対峙していました。
ところが・・・6月2日、前代未聞の大事件・本能寺の変が勃発します。
光秀が謀反を起こし、信長を殺害!!
これにより、秀吉の戦況は一変します。

6月3日、秀吉に事件の一報が届きます。
6月4日、毛利と講和を締結・・・停戦協定を結びます。
信長亡き今、秀吉はすぐさま敵の勢力圏から離脱し、100キロ先の姫路城まで撤退・・・不測の事態に備えなければなりません。
秀吉はいつ撤退したのでしょうか??
史料によると、6月5日・・・秀吉が撤退したのは、本能寺の変から3日後のことでした。
いよいよ中国大返しの始まりです。

撤退は、実際どのように行われたのでしょうか?
そのほとんどが平装でした。
移動には、武者押しと平押しがあって、武者押しはのぼり旗を押し立てて全員が武装して美々しく軍事行動をします。
それに対して、現場に向かう時には平押し・・・平常の衣服のまま、甲冑などはすべて荷駄として後方から運ぶというものです。
そして敵地に近づいてきて警戒しなければとなると、武装するのです。
兵や馬の消耗を防ぐため、甲冑は戦場に近づいたときに着用するのが戦国の世の習わしでした。

では、当時の道路事情は・・・??
道幅6~8m、綺麗に平らにして人工的な道を作っていました。
これは、記録に残る軍道と呼ばれるもので、このような道を作っておくことで即座に軍勢が大勢を維持しながら進むことが出来る・・・退却することが出来るのです。

信長は、早くから道路政策に力を注いでいました。
信長はこう命じています。

「険しい道を平らげ岩を砕き、道を広げよ 道幅は三間半とする」

三間半とは、およそ6.3mのことです。
当時としては道幅の広い道路でした。
道路を整備することで、補給路を確保、日本各地での戦闘を展開した織田軍・・・
迅速な行軍こそ、織田軍をして常勝軍たらしめたのです。
秀吉の中国大返しでも、こうした軍道が利用されたと推測されます。

6月5日、沼城まで撤退。
しかし、秀吉の行く手を待ち受けるのは、居城・姫路城までのおよそ78キロの道程・・・
秀吉はどのような方法で、中国大返しを実行したのでしょうか?

謎多き中国大返し・・・
その手掛かりが、中国大返しのルートで新たに発見されました。
兵庫県神戸市・兵庫城跡・・・近年の発掘調査で、兵庫城は信長時代の特徴を持つ城郭であったことが明らかになりました。
兵庫城の石垣は、石垣の下に木材を敷き、朕かを防ぐ胴木組と呼ばれる築城技術・・・当時の最新技術が取り入れられていました。
当時、畿内の先進的な技術を握った信長と家臣たちは、こういう石垣を築いていました。
さらに、城の中心部本丸に入るための出入り口が2カ所もあります。
城の守りを固める入り口がたくさんあるのはそれだけ守りが弱くなります。
通常ではこのようなことはしません。
しかし、わざわざ正面に2つの入り口を作った兵庫城は、城の使い方が大きく変わるきっかけがありました。

洛中洛外図屏風の格式高い大名の屋敷には、正門と脇門があります。
高貴な人とそれ以外の人を分ける出入り口です。
兵庫城がこのような形に改修されたのは、本能寺の変の2年前のことでした。
同じ頃、秀吉の書状にある言葉が頻繁に出てきます。

”御座所”・・・織田家の武将にとっての高貴な存在・・・信長のことです。
兵庫城の改修は、信長の”御座所”にするために、2つの入り口を持っている城としたのです。
中国大返しのルート上にある兵庫城の御座所跡・・・食料などを備蓄していたと考えられています。
秀吉の中国大返しでは、御座所を利用することで高速の長距離移動が実現できたのでは・・・??

御座所の痕跡は、兵庫県加西市にある小谷城にもあります。
室町時代に築かれたとされる山城です。
小谷城は、東西南北すべてに通じたまさに交通の要衝に築かれた城で、信長時代に改修されたところがたくさん発見されています。
秀吉が、この地の領主に宛てた書状では、小谷城の改修が見受けられます。
書かれたのは、本能寺の変の数年前とされていて、信長の御座所、信長の西国政策・毛利攻めを前提とした城を造っていたのではないか?
信長が中国の毛利と決戦する時に、ここへ入っていただく城としても造っていたのです。

歴史上、これとは全く違う戦場においても、信長のための御座所が築かれた実例があります。
本能寺の変の2か月前、織田家滅亡後・・・甲府市にある右左口宿・・・武田攻めを担った徳川家康が、この地に信長の宿所を築いたとされています。

驚くべきは、信長が甲府に入る時、すでに息子・信忠が躑躅ヶ崎に立派な御殿を造っていました。
さらに、駿河を通って帰る際に、家康が立派な御座所を造って・・・それは、かなり金銀をちりばめた豪華なものでした。
信長の移動には、織田・徳川両氏はかなり気を遣っていました。
信長が中国に来る際にも、上様の御座所を要所要所に整備しておくのは必要不可欠のことでした。
信長のために整備した街道を走り、信長のために造った御座所を活用する・・・それこそが、秀吉が中国大返しを成功させた秘策だったのでは・・・??

秀吉軍は、整備された道を行軍し、途中食料を備蓄した御座所を休憩所し、1日78キロを移動したとみられます。
そして・・・次に秀吉の前に立ちはだかるのが明智光秀。
秀吉対光秀・・・決戦の時が近づいていました。

1582年6月6日・・・本能寺の変から4日後、秀吉は信長のために用意した街道を駆け抜け、沼城から居城・姫路城までおよそ78キロの道程をわずか1日で走破することに成功!!
次に秀吉の前に立ちはだかるのは明智光秀!!
さらに、この時大阪近海の淡路島で異変が起こっていました。
瀬戸内の海賊・菅達長が本能寺の変をきっかけに洲本城を奪取、光秀に組したのです。
こうした不穏な情勢の中、いかに光秀と戦うべきか・・・!?

即時決戦を挑む??
当時、織田家の武将たちは全国各地で戦っていました。
本能寺の変の情報伝達には時差がありました。
北陸の柴田勝家には6月6日、関東の滝川一益には6月9日・・・この時点で、どの織田軍武将よりも一歩先んじていました。
光秀は信長様の三男・信孝さまを討とうと大坂へ向かったと聞く・・・
我が軍も大坂に向かい、この弔い合戦に勝利すれば、織田家中での発言力が増すことは必定・・・
信長様の後継者となるのももはや夢ではない!!
信孝はこの時、四国に攻め入るべく、軍を率い大阪に配陣していました。
ところが・・・信孝を切腹させたという風聞が・・・!!

もはや亡き者に・・・??情報を冷静に見極めるべきか??

当時秀吉は、本領・長浜をほぼ明智に押さえられてしまっていました。

1582年6月9日、秀吉は居城・姫路城を出陣!!
明石に到達しました。
およそ35キロの道程です。
秀吉は、光秀を討つべく即時決戦を挑みました。
秀吉の書状には・・・
”反旗を翻した菅達長には海と陸から軍勢を派遣し、攻め崩し、悉く討ち果たした”
とあります。
秀吉は、僅かの日にちで大坂への道を切り開いたのです。
さらに秀吉は、明石を出立、尼崎まで進出しました。
およそ45キロの行軍・・・大坂まで残すところあと10キロの距離です。

一方光秀は、この頃京に対陣。
光秀が大坂を包囲したというのは噂話に過ぎなかったのです。
しかし、秀吉の素早い進軍は、予想以上の結果をもたらすことになります。
秀吉が急速に兵を進めたことで、大坂の信孝、摂津の武将たちはもちろん、光秀の配下に属していた細川藤孝、筒井順慶、高山右近、中川清秀・・・秀吉に味方したのです。

6月13日、京の郊外で山崎の戦い・・・両軍が激突します。
軍勢の勝る秀吉は、わずか半日の戦いで光秀軍に勝利しました。
備中高松城を発した秀吉の中国大返し・・・光秀との決戦の地・山崎まで総距離230キロ・・・この長距離移動が勝敗を決したのです。

光秀との決戦に勝利した秀吉は、天下人への道を切り開いていきます。
山崎の戦いから4か月後、天下への野心を表した秀吉の書状にこうあります。
27里を一昼夜で姫路城まで帰陣することができた。
27里とはおよそ108キロのことです。
備中高松城から姫路城まで2日がかりで走破した中国大返し、それがわずか1日のことに改ざんされています。
秀吉が書き換えた中国大返し・・・
秀吉自身の手により、戦国の軌跡と称えられる伝説がここに誕生したのです。

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