日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:村上水軍

織田信長が、豊臣秀吉が、徳川家康が・・・天下統一を目指して熾烈な戦いを繰り広げた戦国時代・・・彼らの戦場は陸だけではありませんでした。
その一つは・・・海!!
軍船対軍船の戦い・・・その数多ある水軍の戦を勝ち抜き、遂には天下人に恐れられた海の侍たち・・・それが村上海賊です。
当時日本にいたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、村上海賊のことを日本最大の海賊と評しました。
天下取り目前の信長を、海の戦で完膚なきまでに打ちのめすほどの力を持っていたからです。

近畿、中国、四国、九州に囲まれた瀬戸内海・・・この海は、古くから西国と大坂・京都を結び、年貢や交易のための物資が行き交う大動脈でした。
戦国時代はその沿岸に、周防・長門の大内氏、伊予の河野氏、安芸の毛利氏、それぞれが領土の拡大を目指す戦いの場でもありました。
そんな瀬戸内海を拠点としていた村上水軍・・・その名を一躍とどろかせたのが、海の桶狭間でした。

広島県廿日市市にある厳島神社・・・
海に立つ鳥居で知られ、国保であり、世界遺産です。
この宮島と呼ばれる静かな島が、かつて戦の舞台となりました。
1555年厳島の戦いです。

領国の拡大を狙う毛利元就と、大内氏の重臣で、実質的に権力者だった陶晴賢が厳島で激突したのです。
晴賢は前年に元就によって奪われたこの島を取り戻すために、毛利軍の拠点宮ノ尾城に襲い掛かります。
大軍の敵に囲まれ窮地に追いやられた毛利軍・・・もはやこれまでか!!と思われたその時、数百艘の水軍が現れ陶の水軍を急襲したのです。
これこそが、村上海賊・・・!!
つながりの深かった毛利の援軍として参加したのです。
村上海賊は、瞬く間に陶の海軍を撃退!!
形勢は逆転し、毛利軍の逆転勝利となりました。
奇襲によって形勢が逆転したことによって勝利したことで、織田信長が今川義元に奇襲作戦で勝ったことになぞらえて、後に海の桶狭間ともよばれるようになりました。
陶の水軍を一気に破った村上水軍・・・
その強さの秘密とは・・・??

①船乗りとして優れていた
島が入り組んで、狭い水路、複雑な潮の流れなど難所の多い瀬戸内海で、船を自在に操る高い航海技術を持っていました。
さらに、彼らの使う軍船の強さ!!
当時、大名らが使用する軍船の主力となったのが、全長20mを超える安宅船と呼ばれる大型船で、兵士が乗り、弓矢や槍などで戦いました。
もちろん、村上水軍も安宅船を使っていましたが、違ったタイプの船を駆使していました。
その一つが小早船です。
安宅船は大型船だったので、小回りが利かず、容易に方向転換ができないという弱点がありました。
村上水軍は、全長5mの小早船を操り、スピードと縦横無尽の動きで敵船を攻めました。
もう一つが中型船の関船です。
その鋭い船首で体当たりし、敵船を破壊、時には敵を沈没させました。
こうして海を知り尽くして多様な船を使いこなしていた村上水軍は、瀬戸内海で無敵の存在となっていきました。

村上氏の始まり
・平安時代の村上天皇が祖
・南北朝時代に北畠氏の一族が村上と名乗った
しかし、その出自は定かではありません。

村上家は三家に分かれていました。
因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏です。
この三家は連携しながら沿岸の諸大名と手を組んで拡大していきます。
中でも、海の戦国大名と呼ばれ、大きな力を持っていたのが能島村上氏当主・村上武吉です。

今に伝わる陣羽織があります。
架空の動物で赤面赤毛で猿に似た猩猩の血の色と言われる真赤な生地に、背に記された丸に上の文字は村上家の家紋・・・
これを身にまとい、瀬戸内海をわがものにしていた人物こそ、村上武吉です。
1533年に生れました。
若くして沼島村上家の当主となり、後に能島殿と呼ばれ畏れられる存在になっていきました。
人々は、武吉の何を畏れたのでしょうか?

それは、拠点とした能島にありました。
能島の周囲は850mほど・・・小さな島で今は無人島となっています。
潮の流れが早く、海は渦を巻き、船を近づけることができません。
能島は敵が攻められない天然の要塞だったのです。
能島と鯛崎島が城となっていて、築城は14世紀半ばと考えられています。
能島城は、小さな島全体を城としていますが、上から本丸、二の丸、三の丸、ハナには曲輪・・・
周りが急斜面で切岸となっています。
基本的なお城の構造を島全体で作っていました。

残っている岩礁部分に空いた穴は、船を停めておく杭を刺した穴で、島にはこのような穴が400ほど残っています。
能島村上海賊が大規模だったことがわかります。

敵から攻められにくい天然要塞である能島を拠点に、多様な船を駆使して瀬戸内海に君臨した村上海賊の棟梁・村上武吉・・・
武吉が周囲から恐れられたもう一つの要員は・・・経済力でした。
武吉が能島村上氏の当主となる前は・・・その名の通り、航行する船を襲っては抵抗すれば殺害してでも積み荷を奪う海賊行為を行っていました。
しかし、武吉が当主となると、配下の海賊たちに言い放ちます。

「これからは船を襲うことは許さん!!」

武吉は、略奪行為を一切やめさせました。
その代わりに航行する船から通行料である帆別線を徴収します。
金を支払えば、村上海賊の勢力圏での安全を保証・・・通行料は船の帆の大きさで決められたといいます。
さらに武吉は、上乗りという警護も担当します。
村上海賊が依頼のあった船に乗船するというもので、上乗りが言えば顔パスで、襲われることも通行料を撮られることもありませんでした。
その見返りとして警護料を支払わせたのです。
それらの収入を合わせると、一説には戦国大名の石高に匹敵するといわれています。
武吉は、無敵の水軍と、戦国大名に匹敵する財力を持っていたのです。
それで、周囲から畏れられたのです。
武吉は、瀬戸内海の船の航行を牛耳ることとなり、瀬戸内海の支配者となりました。

1576年、瀬戸内海を支配する村上海賊の頭領・村上武吉に大大名となっていた毛利輝元が、要請します。
「大坂に行ってもらえぬか・・・??」
「大坂・・・??」
輝元が、どうして大坂行きを武吉に要請したかというと、そこには織田信長の存在がありました。

天下布武を掲げる織田信長にとって、長年の障害となっていたのが浄土真宗の総本山・石山本願寺でした。
宗主の顕如率いる本願寺が、10万人の門徒を従え、畿内を中心に一大勢力を築いていたからです。
何としてでも畿内をわがものにしたい信長は、石山本願寺を攻め、遂に寺を包囲して兵糧攻めにします。
それによって、本願寺は兵糧が無くなり風前の灯火に・・・。
この本願寺の危機を知った輝元は、援軍を送ることに・・・!!
本願寺に送る大量の武器や食料を積んだ輸送船の警護を村上水軍に依頼したのです。
要請を受けた武吉は、嫡男・元吉を大将にして村上海賊を大坂に向かわせました。
その数、毛利水軍と合わせておよそ800艘・・・!!
そして、遂に大阪湾から石山本願寺の脇を流れる木津川の河口にやってきたところで200艘の織田水軍と当たります。
世にいう第一次木津川口の合戦です。
その結果は・・・村上水軍を任された元吉が、毛利輝元に報告しています。

”織田の船をことごとく焼き崩しました
 敵方を数百人は討ち取りましたので、首実検のために揃えてお持ちします”

村上海賊との連合軍が、織田水軍に圧勝したのです。
どうして村上海賊は圧勝することができたのでしょうか?
「信長公記」にはこう書かれています。

”海上はほうろく、火矢などと云う物をこしらえ、お味方の船を取籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し、多勢に敵わず”

ほうろくが、織田水軍に有効だったのです。
村上海賊の特色は、ほうろくという小型爆弾のようなものを用いていました。
それ以外にも、村上水軍は
熊手・・・敵や物をひっかけて自分の方に引き寄せる
袖がらみ・・・棘がついていて、相手の衣服に絡めて相手の動きを封じる
村上海賊の勝因は、多様な武器に加え、様々な船による組織的な攻撃力でした。

その戦法は・・・
①射手船・・・火矢や銃弾で混乱させて相手の反撃能力を奪う
②ほうろく船・・・ほうろく玉を投げ入れて、敵船を炎上させる=船は瞬く間に炎上
③武者船・・・兵たちが敵船に乗り込み、敵兵を海に追い落とす
これで織田水軍を壊滅的に追い込んだのです。
海での戦術に優れ、ほうろく玉などの秘密兵器を駆使して圧勝していたのです。
こうして食料や武器などを石山本願寺に届けた村上海賊と毛利水軍の連合軍は、意気揚々と西に帰っていきました。

木津川口の合戦で、織田水軍に勝利した村上海賊の村上武吉・元吉親子は、毛利氏から令嬢が贈られるなど、信頼が厚くなっていきます。
そんな中、木津川口の合戦から2年後の1578年・・・
石山本願寺攻略に執念を燃やす織田信長が、またもや本願寺の兵糧攻めを開始しました。
そして毛利氏は、本願寺に援軍を送ります。
再び村上海賊の出番となりました。
この時は、当主である武吉自らが600艘を率いて、毛利水軍と共に大坂へ・・・!!

ところが、木津川の河口についた武吉は愕然とします。
武吉が目にしたのは、今までに見たこともない異様な船でした。
第一次木津川口の戦いで村上海賊に完膚なきまでに叩かれた信長は、ほうろく玉の攻撃に耐えうる船の建造を志摩の領主であり海賊の頭領・九鬼嘉隆に命じていました。
そこで完成したのが鉄甲船でした。

「多門院日記」によると・・・
”人数五千程乗る横に七間、縦へ十二、三間もこれあり 鉄の船なり”

それは、横幅13m、全長23m、5000人もが乗船できる鉄の船でした。
これを6艘も作らせていました。
銃弾が通らないように、部分的に鉄で船を装甲していたのです。
こうして第二次木津川口の合戦が始まりました。
村上海賊は、ほうろく玉攻撃を繰り出しますが・・・
厚い鉄板で跳ね返され、織田水軍の鉄甲船に全く歯が立ちませんでした。
さらに、信長にはもう一つの秘密兵器が・・・
近づいてくる村上海賊を引き付けて・・・鉄甲船には大砲が装備されていたのです。
その一斉砲撃を受けると、村上海賊は撤退を余儀なくされました。
海戦では無敵だった村上海賊が、最新鋭の武器の前に敗れ去ったのです。
この敗戦を機に、毛利氏の瀬戸内海での影響力が弱まり、2年後の1580年に石山本願寺は織田信長に明け渡されることになります。

当然村上海賊にも、信長による懲罰が待ち受けているはずでした。
武吉と元吉の元に信長から書状が届きます。

”望む事これ有るにおいては いささかも異議なく候 その意を成すべく候”

なんと信長は、希望があれば何でも聞くという寛大な姿勢を示したのです。
どうしてでしょう・・・??
信長は、軍事力に関して陸上は毛利氏に勝っていると考えていましたが、海上の水軍力については毛利氏に劣っていると認識していました。
そこで、武吉の軍事力は織田に欠かせないと考えていました。
そして毛利攻めを任せていた秀吉に対し、村上武吉への調略を命じます。
それを受け秀吉のにこう伝えます。

”能島殿が信長公に味方するなら、所領は伊予十四郡はもちろんの事、四国全土を与えてもよい”

それは、秀吉の常套手段でした。
過大な条件を出して誘いをかけたのです。
一族のごたごたも利用・・・
当時、武吉と元吉の間に隙間風が吹き始めていました。
元吉を揺さぶります。
秀吉は、村上三家の団結を崩そうとも考えていました。
同じように、因島村上氏・来島村上氏にも仕掛けていました。
すると来島村上氏が織田側に寝返ります。
それでも武吉は、信長、秀吉の誘いに首を縦に振りませんでした。
あくまで毛利氏に追従する道を選んだのです。
その理由とは・・・??
毛利氏の必死の引き留め工作がありました。
武吉は、毛利氏と強い絆で結ばれていたため、裏切れなかったのです。

信長・秀吉の誘いを蹴った能島村上氏の武吉ですが、来島村上氏が織田方に寝返ったため、村上家は結束を欠くことに・・・
これで織田軍の毛利攻めが易くなる・・・!!
そんな矢先、1582年6月、家臣明智光秀の裏切りによる本能寺の変で信長が自害!!

これで村上海賊の宿敵が無くなった・・・??新たな敵が現れました。
羽柴から豊臣となった秀吉です。
信長亡き後、天下人を狙う秀吉は、中国、四国、九州を支配下に置き、残すは東北となっていました。
そんな中、ある法令を発布します。
1588年7月8日、秀吉は「海賊停止令」を発布します。
そこには、諸国の海上において速やかに海賊行為をやめよ・・・とありました。
各地の領主に対し、船に関わる全ての人物から誓約書をとって提出するように求めたのです。
船頭や漁師までも・・・!!
もし、海賊行為を行った場合、その海域の領主も罰せられるという「海の刀狩り」とも取れる厳しい令でした。
これによって、武吉は海での警護や通行料の徴収などができなくなってしまいました。
まさに、秀吉の海賊取り締まりは、村上海賊を狙い撃ちしたもの・・・
もはや懐柔ではなく目の敵にし、弾圧したのです。
海賊停止令は、秀吉の天下統一の理念を海にまで及ぼそうとしたものです。
海の世界まで統一する為に、海上交通路も秀吉が支配しなければならないと考えたのでした。
村上海賊は、その障害になると考えたのです。

1588年9月・・・秀吉から毛利方に書状が届きます。

”能島が海賊行為をしているという知らせがあったが言語道断”

禁令を破ったとして武吉を処罰するという者でした。
秀吉は、”赤間関より上国には居ることまかりならざる様に”と、武吉追放を命じます。
赤間関とは今の下関のことで、瀬戸内海から出て行けということ・・・
武吉は、一族配下のものを守るため、従うほかありませんでした。
村上三家のうち、武吉だけが筑前・糸島に移り住むこととなったのです。

1598年、武吉を瀬戸内海から追放した秀吉が亡くなります。
これによって、武吉に再びの活躍の場が・・・!!
再び毛利氏に仕え、所領2万石を得ていた武吉・・・
その際、新たな本拠地としたのが伊予制圧の要衝・竹原鎮海山城でした。
それは、あわよくば天下を狙う毛利輝元の指示によるものでした。

秀吉の死後、実権を握った徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成の対立が激しくなります。
そして遂に三成を中心とした西軍が挙兵したことで、家康の東軍と激突することとなります。
その際、西軍の総大将に担ぎ上げられたのが武吉の仕える毛利輝元でした。

勝てば毛利の天下も・・・!!
この時、武吉68歳、嫡男元吉48歳!!
村上海賊復活のチャンスが。。。!!

1600年7月、西軍の総大将毛利輝元は、秀吉の嫡男・秀頼を守るために大坂城に入ります。
その輝元から武吉が任されたのは、西国にある徳川方の城を攻め落とすことでした。
村上海賊は、阿波・蜂須賀氏を攻略すると、加藤氏の伊予に乗り込むことに・・・!!
9月14日、武吉親子が向かったのは、興居島・・・加藤氏の拠点である松前城に攻め入るためでした。
翌15日、村上海賊は三津浜に上がり布陣します。
まさにその同じ日・・・美濃の関ケ原で天下分け目の戦いが始まりました。
しかし、わずか6時間で東軍が勝利し、毛利輝元は敗軍の将となってしまいました。
16日、敗戦を知らない武吉は、松前城に三千の兵を差し向け、開場を要求・・・
松前城の留守役に開場を受け入れさせます。
あっけない勝利に見えました。
もはや攻め入る必要もない・・・武吉は猶予を与え、一旦引き上げることに・・・。
武吉たちは近くの民家に陣を張り、宴会を開き勝利を祝ったのです。
西軍本体が負けたとも知らずに・・・!!
そしてその日の夜中・・・
兵を整えた加藤氏の軍が、武吉の陣を夜襲・・・間一髪で難を逃れましたが、この戦いで嫡男元吉を失ってしまいました。
村上海賊の完敗でした。
村上氏が持っていた優れた船や熟練した乗組員が力を発揮する余地がなかったのです。
瀬戸内海で百戦錬磨の海の支配者も、陸の上では並の武将に過ぎなかったのです。
その後、関ケ原で西軍が敗戦したことを知ると、武吉は撤退・・・屋代島へと追いやられていきました。
その所領は2万石からわずか1,500石へ・・・付き従っていた者たちも、その財力を失った武吉の元を次々と去っていきました。
そして、1604年8月22日、村上武吉は72歳で波乱の生涯を閉じたのでした。
村上武吉の死と共に、水軍としての村上海賊も終わりを告げました。
しかし、能島の村上一族は、その後船手衆として生き残ります。
江戸時代には、参勤交代の際の藩主の送迎や、朝鮮通信使などの船の護衛を担いました。

南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海に君臨し、そして消えて行った村上海賊・・・
その海の侍たちの勇壮な姿とロマンは、これからも語り継がれていくでしょう。

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大小3000の島からなる瀬戸内海・・・
この海で、何百年にわたり中央権力に媚びることなく、自由に生きた一族がいました。
その一族とは、村上水軍です。
行き交う船は、彼らに関銭を払うことが掟!!
拒否すれば、誰であれ襲い略奪!!
奪い取った関銭を元に海洋貿易をし、瀬戸内最強の水軍を組織していきました。
そんな村上水軍を戦国時代に率いていたのが村上武吉!!

その実力は、陸地の名だたる大名が、武吉を敵に回すことを恐れていました。
そんな武吉を宣教師ルイス・フロイスは・・・日本最大の海賊と称しました。
群雄割拠・戦国の世に、瀬戸内海に君臨した海賊王でした。
この武吉の前に大きく立ちはだかったのが、豊臣秀吉です。
日本を一つにまとめようとしていた秀吉は、武吉が支配している海にも影響を及ぼそうとしていました。
秀吉は命じます。海の関所を停止することを・・・!!
関銭を停止するように命令してきたのです。
関銭徴収は、武吉たちが先祖代々自らの手で勝ち取ってきた既得権益です。
この権利を完全に否定したのです。
村上水軍の力を根こそぎ奪おうとする秀吉の苛烈な要求!!
村上武吉はどう応えるのか・・・!!

村上水軍はいつから存在しているのでしょうか??
それは謎です。
が、既に12世紀・平安時代に海賊に対する禁圧令が出されています。
古くから海賊たちは、中央政府にとって悩みの種だったのです。
中でも瀬戸内海は、朝鮮半島や中国からの船が都に向かう際の重要航路。
物資の往来も激しかったことから、多くの海賊が跋扈していました。
海の荒くれものは、陸の権力者のものであろうとお構いなし!!
海の民たちは、陸の権力者に阿ることなく自分たちの掟で生きていたのです。
そんな瀬戸内のリーダーとなったのが村上水軍!!
彼らが歴史の表舞台に躍り出たのが室町時代中期。
世は戦国時代へと突入していました。
村上水軍は、瀬戸内海の中央部、現在の山口県・上関から香川県・塩飽諸島まで170キロを支配下に置いていました。
その内部は3つの家から成り立っていました。
・因島村上氏
・来島村上氏
・戦国時代村上水軍の主となった能島村上氏
・・・武吉が頭領だった家です。

3つの村上家が協力することで、瀬戸内を遮る網を張ることができ、行き交う船から関銭を徴収していたのです。
戦国時代、武吉が瀬戸内を通る船に与えた村上の上の字が書かれた旗「過所旗」・・・行き交う船は、この旗を、関銭を払うことによって掲げ、安全を保障するパスポートとしていました。
逆に言えば、村上の許可なくしては瀬戸内海の海を通ることは許されなかったのです。
そんな武吉たち村上水軍が、瀬戸内の王者となれた秘密は・・・??

能島・・・能島村上氏が本拠地とした島です。
このあたりの潮流は、瀬戸内海とは全く違います。
まるで渓流のような激しい潮流・・・その速さは、最大10ノットおよそ時速18キロで流れています。
その動きは、潮の満ち引きによって絶えず変化していました。
このような中で育った村上水軍。
島々が密集しているこのあたりは、非情に潮の流れが激しかったのです。
この潮の流れで育まれた操縦技術が、彼らの力でした。
村上水軍は、卓越した操船技術を手に入れ、そして、瀬戸内の海賊の中でも抜きんでた存在となっていきます。

戦国時代、能島村上氏が本拠地としていたのが、この島全体を丸々城塞化した能島城でした。
島には、岩礁ピットが残っています。
岩礁ピットの総数は、能島城の周囲で400を越えています。
かなりの数の船を保有していました。
船をどれだけ持っていたのか?関銭をどれだけとっていたのか・・・??それは謎のままです。

しかし、海賊的な行為以外にも・・・
見近島からは、陶磁器の破片がたくさん(およそ1万2000)見つかっています。
中でも際立っているのが、中国、朝鮮の陶磁器の多さです。
能島村上氏が商品流通に干与していたことがわかります。
大名クラスの品々を取り扱っていました。
こうした活動を代々続けながら、瀬戸内海の王者となっていったのです。

1555年、武吉22歳の時・・・
瀬戸内海に接する中国地方では、ある新興勢力が・・・
広島県・・・安芸を拠点に勢力拡大を狙う毛利元就です。
その元就と対立していたのが、陶晴賢。
陶晴賢は、周防国を実質的に支配していた武将です。
この両者が、厳島神社がある宮島で激突!!
厳島の戦いです。
この一大決戦を前に、元就は武吉をかなり警戒していました。
小早川隆景によると・・・
「音戸の瀬戸の両側に砦を築くこと」としています。
能島村上氏が音戸の瀬戸を通過して、広島湾に侵入するのを防ごうとしたと考えられます。
元就は、武吉が敵方として参戦することを恐れ、砦を築いたというのです。
武吉の存在を恐れていた毛利元就!!

「能島村上武吉は、何としても味方に引き入れたいものだ」
「世を日に継いで調略せよ」

能島の力は、三島の村上の中で、一番強かったのです。
毛利にとって、瀬戸内の水軍の力は、他の大名と戦っていくうえで、極めて重要な意味を持っていました。
元就は、どうしても武吉を味方に付けたかったのです。

武吉の力・・・それは、室町幕府13代将軍村上義輝の知るところとなります。
この頃中国地方では、毛利と尼子が戦っていました。
それを何とかして鎮めようとした義輝は、武吉に仲介を頼みます。
能島村上氏が、将軍から「毛利に対して働きかけ出来る存在」として認められていたのです。
大名や将軍などの陸の支配者からも力を認められていた村上武吉。
日本最強の海賊として戦国の世を堂々と渡り歩いていました。

群雄割拠の戦国時代・・・それぞれの地域を代表する大名が誕生してきました。
中国地方を制覇したのは毛利家。
この頃には、毛利輝元になっていました。
そして、その毛利家を飲み込むように成長してきていたのが、東海、近畿を抑えた織田信長。
日本を一つにしようとしていた信長は、既存のルールを壊していきます。
関所を廃止、座を撤廃、楽市楽座を行いました。
信長は、旧来の支配者の既得権を否定することで、大きくなっていきました。

1576年、信長は本願寺を攻め立てていました。
そんな本願寺を助けようと思っていた毛利輝元は、本願寺に援助物資を運び入れるよう武吉率いる村上水軍に依頼します。
1576年7月、木津川の戦い・・・村上水軍と織田水軍との間で戦いの火ぶたが切られました。
ほうろく火矢で戦う村上水軍に織田水軍は驚きます。
この戦いで織田軍を壊滅させた村上水軍の名は、世に響き渡ります。
村上水軍の強さを痛感した信長は、天下統一のためには武吉の力が必要だと感じます。
そこで信長は・・・
「望むことがあるようなら、何でもその意を叶える。」と、武吉に言っています。
来るべき毛利との戦いに。村上水軍を味方にしようと思ったのです。
その翌年、信長は中国攻めに・・・!!
信長の意を受け進出してきたのは、羽柴秀吉。
秀吉は、村上水軍を本格的に調略すようと動き出します。
武吉の息子・元吉に書状を送ります。

「先日送ってきた使者を、こちらに寄こせ。
 内緒の話をしよう。」と・・・。

実は、能島村上家では、毛利に付こうとする父・武吉と、織田に付こうとする息子・元吉の間で意見が分かれていました。
それを知っていた秀吉が、調略を仕掛けたのです。
秀吉によって親子分断の危機・・・。
そして・・・来島村上氏にも・・・。
秀吉の誘いに、来島村上通総が乗ってしまいます。
これまで一致団結して瀬戸内海を支配してきた村上水軍・・・信長、秀吉という強大な敵を前に、結束に乱れが生じてしまいました。
このまま信長によって瀬戸内海は分断されてしまうのか??
そんな時大事件・・・1582年6月、本能寺の変!!
織田家の棟梁・織田信長が、家臣・明智光秀の謀反によって非業の死を遂げたのです。
この一大政変によって、秀吉の毛利攻めは中断!!
結果、瀬戸内海は、武吉が君臨することに・・・!!
武吉人生次第の危機は去ったかに見えました。
そかし、それはつかの間の事・・・。

本能寺の変という予想だにしなかった事件で再び瀬戸内海に君臨した村上武吉。
しかし、天下は一人の男によって、信じられないスピードでまとまろうとしていました。
その男とは、武吉たち家族の分断を図った羽柴秀吉です。

信長の後を継いだ秀吉は、本能寺の変の僅か3年後には関白に就任。
事実上の天下人となりました。
天下人となった秀吉は、日本を一つにまとめていく政策を打ち出します。
太閤検地・・・これまで地域によって異なっていた田畑の広さの単位を統一

「海陸役所停止の事。
 海と陸の関所は禁止とする。」

秀吉からすれば、関銭徴収は中世だから存在しえた私的な行為・・・
このような過去の遺物は、新しい国家には必要ない!!
何百年にわたる中世の海賊の基本的な在り方を侵害されてしまう!!
秀吉が命じた関銭の禁止・・・

関銭徴収は、先祖代々作り上げた海の掟・・・。
自由な海賊としての道か、生き延びてこその道か・・・??

天下人・豊臣秀吉の関銭禁止命令に、村上武吉は・・・??
豊臣政権側は、当然会場の静謐、対して武吉側は従来の権益・・・。
お互い引けない・・・!!
関銭行為を止めない武吉。
海賊として自由に生きる選択をしたのです。
しかし、武吉の態度に業を煮やした秀吉がついに動き出しました。

「能島・村上武吉が海賊行為を行ったと聞いた。 言語道断!!」

そして、武吉の瀬戸内追放!!

武吉を先祖代々の地から追い出したのです。
福岡県糸島半島へ移された武吉。
その4か月後、秀吉は「海賊禁止令」を出します。
「今後は、船を使うものは代官が管理し、海賊行為をしないように約束させる。」
秀吉はこの法令によって、今後海は、陸の者が支配すると宣言したのです。

中世の海賊の一番代表として日本中に名前が通っていた武吉を屈服させ、本拠地瀬戸内海から追放したということは、もう中世の海の世界というものはダメということを日本全体に知らせる出来事でした。

しかし、1598年3月、天下人・豊臣秀吉死去。
二年後の1600年、関ケ原の戦い!!
この混乱を待っていたように武吉が動き出します。
この時、68歳!!
武吉が向かったのは、愛媛県にある興居島。
この時、この地を治めていた加藤義明は関ケ原の戦いで不在。
この好きに武吉は瀬戸内海を取り戻そうと考えていました。

しかし・・・突如夜襲に・・・
檄文を送った相手が裏切ったと考えられています。
彼らにとっては、武吉はもう、過去のものだったのかもしれません。
瀬戸内海にある周防大島・・・夢破れた武吉はこの地に移ります。
以降、能島村上氏はもう海賊ではなく、毛利家の一家臣として生きていくのです。
関ケ原の戦いの4年後・・・
1604年8月22日、村上武吉死去・・・享年72歳でした。
武吉の死は、日本から海賊が姿を消したことを意味していました。
以降、海は、陸の論理によって支配されることとなります。


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1576年・・・天正4年7月・・・ 安土城で・・・
織田信長が怒り心頭していました。
その相手は海賊。。。
長篠の戦で武田勝頼に勝利、天下統一を目前の信長でした。
大坂の・・・木津川口の合戦・・・

毛利水軍VS織田水軍です。
毛利の主役は、瀬戸内海の海賊たちでした。
機動力に長けた小舟を使います。
秘密兵器は焙烙玉と呼ばれる手榴弾。。。
この威力に織田水軍は殲滅されてしまったのです。
向かうところ敵なしの信長を震撼させたのは、日本一の海賊大将・・・
村上水軍の村上武吉でした。

古来海賊達は、海の荒くれ者として怖れられていました。
10世紀には・・・紀貫之が土佐日記で。。。
”海賊の恐怖で髪も白くなる・・・”と書いています。

しかし・・・
村上海賊の旗は、瀬戸内海におけるパスポートでした。
海賊こそが、航海の安全・秩序を守る海の管理者だったのです。
日本の実在の海賊は・・・よくある物語のパイレーツとは別物で、しかし、海洋国家の日本にとっては海の勢力を抜きにして日本史は語りきれません。

港を押さえ、お金を取りたて秩序を守る・・・
社会的な役割を果たす、必然であり必要な存在だったのです。

14世紀・・・最果ての地に幻の海の民がいました。
青森県津軽半島、十三湊・・・大津波で一夜にして滅んだと言われていました。
1996年の発掘調査で・・・当時のままの姿が出て来ました。
南北2キロの道路に・・・整然と当時の町が並んでいました。
朝鮮半島の高麗青磁・中国の天目茶碗・タイの陶磁器も発掘されました。
十三湊の交易範囲はアジア全域に渡っていたことが分かります。
西の博多に匹敵するほどの港でした。
そこを一手に担っていたのは安藤氏。
日本海で活躍していた安藤水軍です。
が・・・16世紀以降忽然と消えてしまいました。


瀬戸内海でも海賊が台頭していきます。
そこには塩が関係している???
愛媛県弓削嶋は・・・中世・・・京都の東寺の荘園で、古くから塩づくりが盛んでした。
東寺に塩を献上していたのです。
京都の貴族や寺社勢力は、瀬戸内海に塩を作るための荘園を置きました。
大量の塩を運ぶための武装集団として発達してきたのです。
これが海賊の台頭の契機と言われています。
939年の藤原純友の乱は、最初の海賊の氾濫でした。
数千艘の船団で博多に現れ、大宰府を陥落。

12世紀末・・・1185年の壇ノ浦の戦いで・・・
水軍の平氏に対して馬の源氏と言われていましたが。。。
源氏は四国の海賊を味方につけます。
さらに・・・平氏方だった和歌山の熊野水軍を寝返らせ味方につけるのです。
壇ノ浦の戦いになると、源氏は船舶数でも勝っていたのです。
源平合戦の勝敗を分けたのは海賊だったのです。
海賊は大軍団ではないものの、要所を握っていたのです。

戦国時代に入って・・・
瀬戸内海の海賊が力を拡大していきました。
芸予諸島の3つの島を拠点にしていた三島村上水軍(因島・能島・来島)が最も力を拡大していきます。
当時最短で瀬戸内海を航行するためには、どのルートを使ってもこの拠点は通らなければなりません。
中でも能島村上氏は瀬戸内海最強の海賊集団でした。

棟梁は村上武吉。
ポルトガルの宣教師も日本一の海賊と言っています。
後に信長・秀吉を怖れさせることになります。

彼らを知らしめたのは・・・
1555年の厳島の合戦。。。
中国地方の覇権を争う陶氏と毛利元就・・・
村上水軍は、毛利方に味方をしました。村上水軍は、夜陰に紛れて船300艘で毛利軍を陶氏の背後に送ったのです。
この事が村上水軍の名を天下に轟かすことになりました。
村上水軍の強さの秘密は???
能島の当たりは瀬戸内海の中でも最も潮流の難しい場所・・・
「舟に乗るより潮に乗れ!!」
エンジンもない時代・・・この天然の要塞・能島に近づくことは無理でした。
村上水軍の”子早”は小回りが利き、機動力に長けていました。
そして特殊な武器・・・”熊手”です。
相手の船をひっかけて引き寄せて、相手の船に乗り込み白兵戦に持ち込むのです。
鎖帷子は・・・海に落ちた時を考えて、薄く、軽く作られていました。
戦術書によると・・・布陣図が・・・布陣図を変えながら戦うことを得意としていました。
能島全体に岩礁ピットが作られていて・・・その数400以上。
能島の高台には・・・三の丸・二の丸・本丸があり、平時にも利用できる万能な城だったようです。

この財力は・・・
帆別銭です。
一定の場所・・・海の関所(秋穂・上関・塩鮑本島)を通過するときに、帆の大きさに合わせて額を変えたお金を徴収していたのです。
そして、支払ったものには、村上水軍の旗を与えていました。
上乗り。。。
船に海賊を乗せると安全が保障され、終着点で警固料を徴収していました。
荒くれ者のイメージが強い海賊ですが、平時は経済活動や交易の舞台となっていたようです。
優れた統率力と、経済力を持ち合わせていたのです。


1573年7月13日・・・大坂湾で・・・
毛利と村上海賊の大船団がやってきました。
待ち受けるは織田水軍・・・
第一次木津川口の合戦です。

海賊だった武吉が信長と闘うことになったかというと・・・
天下統一を目指す織田軍の最大の敵となったのが一向宗・石山本願寺・蓮如でした。
6年もの間抵抗を続け・・・信長は手を焼いていました。

本願寺を兵糧攻めにしようとした信長・・・
困窮した本願寺は、門徒宗の多かった毛利輝元に援助を要請したのです。
毛利家は10万石の兵糧米を申し出ます。
この運搬と、これにみ合う海上戦に強い集団・・・それが村上水軍だったのです。
船団は一路大坂へ・・・!!
村上水軍の大活躍で、織田の船団は焙烙玉で炎上・・・
毛利家は、石山本願寺に兵糧米を入れることに成功!!
射手舟⇒焙烙船⇒武者船⇒道具船を駆使した村上氏の名前は天下に轟くのでした。
信長は、天下統一には水軍力は欠かせない!!と、思う戦いとなったのでした。

1578年11月織田が石山本願寺に!!
第二次木津川口の合戦の始まりです。
村上水軍になすすべもなく敗北していた織田軍は、その轍を踏まない様に・・・
尾張の海賊の棟梁・九鬼嘉隆を使います。
九鬼嘉隆は、伊勢志摩の海賊衆の棟梁で、信長の水軍創設に尽力しました。

信長は、焙烙玉対策をさせます。村上水軍に対峙した織田軍団の船は、鉄板に囲まれた軍船・・・鉄板装甲軍船でした。
この船を6艘建造したと言われています。
村上水軍の焙烙攻撃も歯が立たず・・・
さらに、機動力対策も・・・!!
大砲を使って狙い撃ち・・・村上水軍は敗退を余儀なくされたのでした。

信長は、村上水軍の海軍力を傘下に入れようと画策します。
それを仰せつかったのが秀吉。。。

「私事を捨てて分別を持って東方に忠節を尽くしてほしい」

書状が武吉に届きます。

しかし、武吉は海の民のプライドを持って断固拒否!!
信長と距離を取ります。
天下が秀吉に移って・・・
秀吉は、毛利輝元と和睦を結び、四国・九州を平定したことによって、四方を秀吉勢力に囲まれてしまった武吉。。。
追い詰められ・・・秀吉は止めの一撃として・・・海賊停止令を出します。
そこには海賊の取り締まり・・・さらに船頭や漁師・・・船を操れる者を地頭や代官がリストアップし、秀吉に報告させたのです。
海賊の自立性・自治を全部否定するものでした。

この海賊停止令を機に、通行料の徴収も禁止され、海賊たちは自立して生きる術を失っていくのです。
村上海賊衆は歴史の表舞台から忘れ去られ、姿を消していくことになるのです。
1600年、関ヶ原の戦いで毛利が破れ、山口県の周防に移住させられます。
そこに村上武吉の墓がありました。

”誇りを忘れるな!!”

1604年村上武吉死去、享年72歳でした。
ここに・・・海賊たちの時代は終わりを告げたのでした。

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