日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:東郷平八郎

東京原宿の東郷神社・・・ここに祀られているのは、明治時代、連合艦隊司令長官だった東郷平八郎です。
さらに、東郷神社からおよそ3キロ・・・乃木神社には、陸軍第三軍司令官・乃木希典が祀られています。
この二人が、神とあがめられる活躍をしたのが、今から116年前の1904年2月10日に始まった日露戦争でした。
明治という新しい時代が始まって40年足らず・・・東アジアの新興国だった日本は、その無謀ともいえる戦争でロシアに勝利することになりました。
その国力は・・・
歳入   日本・・・・・約2億5000万円
      ロシア・・・約20億円
兵力   日本陸軍の常備兵・・・・・約20万人
      ロシア陸軍の常備兵・・・約120万人
圧倒的軍事力の差でした。
それにもかかわらず、日本はどうして勝てたのでしょうか?
そこには3人の男がいました。

1800年代末~1900年代初頭
日露戦争が始まる前、ニコライ2世治めるロシア帝国が、中国・清から遼東半島にある大連・旅順を租借、南下政策を進めていました。
北極圏に近いロシアは、冬になると領土に面する港がほとんど凍ってしまうために、不凍港を確保したかったのです。
そこで狙われたのが日本海・・・制海権の掌握を狙います。
ロシアは、太平洋艦隊の主力戦艦をウラジオストク港以南の旅順に移し、増強を図ります。
さらに、ロシア陸軍も満州に次々と基地を築き、遂には朝鮮半島北部にも進出!!
日本列島の背後にも迫ってきていました。
この危機的状況を打破するため、日本は1904年2月10日、ロシアに宣戦布告します。

出来るだけ、短期に勝って講和に持ち込みたい・・・!!
綱渡りのような戦いでした。
短期決戦を目指す日本の連合艦隊が、旅順港に奇襲攻撃・・・!!
陸軍部隊が朝鮮半島の仁川に上陸します。
戦いの火蓋が切られました。
日本が戦いを挑んだ相手は、超大国ロシア・・・それはまさに、ギリギリの戦いでもありました。
どうやって短期決戦に勝利し、講和に持ち込むのか・・・?

①旅順攻略・・・その作戦のTOPは、陸軍第三軍司令官・乃木希典!!
当時54歳。

②世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊と戦った日本海海戦・・・それを指揮したのは、乃木の1歳年上・・・連合艦隊司令長官・東郷平八郎でした。

2人の司令官がどのように決断し、どのような戦いを繰り広げたのでしょうか?

①乃木希典の決断・・・203高地攻略
日露戦争で、最も激戦となった旅順の攻防戦・・・
日本軍15万のうち、死傷者数8万人・・・
未曽有の犠牲を余儀なくされました。
どうしてこれほどの犠牲を出してまで、旅順を攻略しなければならなかったのでしょうか?

中国・遼東半島の先端に位置する港町・旅順は、港の入り口が狭く港内が広いのが特徴で、軍港として最適でした。
そのため、ロシアは南下政策の新たな拠点として、ここに太平洋艦隊を配備、また旅順港を守るために市街の周辺100カ所以上に砲台を設置、要塞化していました。
そんな旅順を、日本軍は当初、海軍の連合艦隊による海からの攻撃で落とそうとしますが、激しい砲撃にあい、撤退を余儀なくされます。
そこで、海軍は自分たちの戦艦をあえて港の入り口に沈め、敵艦を港に封じ込める作戦に出ますが、これも失敗・・・
開戦から3か月たっても、手も足も出ない状態となっていました。
そんな中、追い打ちをかけるような情報が日本軍にもたらされます。
ロシアがバルト海に配備していた世界最強の艦隊・バルチック艦隊を日本海に向かわせる準備を始めたというものでした。

バルチック艦隊が来る前に旅順を落とさなければ・・・!!
タイムリミットが迫っていました。
もし、連合艦隊が敗北すれば、ロシアに日本海の制海権を奪われ、大陸への兵士の移送や物資の運搬ができなくなり、日本の敗戦は明らかでした。
そうなる前に、旅順の太平洋艦隊を撃滅しなければ、日本海の制海権を奪われ敗戦濃厚になるのです。

そこで日本軍を統括する最高機関・大本営は、海からの攻撃を諦め、陸から旅順要塞を攻める作戦に切り替えます。
その指揮を任せたのが、日本陸軍第三軍司令・乃木希典です。
10年前の日清戦争の際、清国の基地だった旅順をわずか1日で落とした乃木の実績が買われたのです。

「乃木なら、また旅順を落としてくれる・・・!!」

大本営や、国民の期待が寄せられました。
乃木は、その期待に応えるべく、作戦を立てます。
それは、旅順港に近いロシア軍の陣地を集中攻撃し、守りを崩し、歩兵を突撃させ要塞を突破、港を攻めるというものでした。

「これで一気に旅順を落とす・・・!!」

1904年8月19日、日本軍は攻撃を開始、5万1000の兵で総攻撃をかけました。
それが、惨劇の始まりになるとは知らずに・・・。
どれだけ攻撃しても、旅順要塞はびくともしませんでした・・・。
ロシア軍は、守りの要である旅順要塞を徹底的に増強・・・乃木が10年前に落としたものとは全く違っていました。
防護壁は厚さ1.3mのコンクリート、その壁の裏には、ロシア兵が攻撃をかわしながら自由に動ける通路が作られていました。
更には、防護壁の周囲には幅7mの堀が張り巡らされ、敵が容易に近づけないようになっていたのです。
この要塞の情報は、乃木には知らされていませんでした。
突撃した兵が敵の攻撃を潜り抜けても、堀の中へ落ち、先に進めず作戦失敗。
乃木はこの戦闘で、総兵力5万人のおよそ1/3にあたる、5000人の戦死者と1万人の負傷者を出してしまうのです。

この旅順の戦いはすさまじいものでした。
多数の死傷者が出ていきます。
乃木は、無能な司令官として国民から大きな非難を受けます。
要塞の情報が乃木に伝えられなかったことが失敗の原因でしたが、国民はそんなこととは知らず無能な司令官という汚名を着せたのです。
政府には、辞職や切腹を求める投書も殺到し、自宅には投石が相次ぎました。
窮地に立たされた乃木をさらに追いつめる最悪の知らせが届きます。
1904年10月15日、バルチック艦隊、バルト海のリバウ港を出港!!
ロシアから日本海に到着するまでは早ければ3か月・・・乃木に旅順攻略のタイムリミットが課せられたのです。

そんな中、日本軍を統括する大本営は、作戦の変更を要請・・・
旅順要塞を攻めるのではなく、その背後にある通称203高地と呼ばれる丘を占領し、そこから港を停泊する太平洋艦隊を砲撃する作戦に変えろというのです。
しかし・・・乃木はそれを受け入れませんでした。
乃木はどうして受け入れなかったのでしょうか?
203高地の攻略は、乃木の第三軍内での検討され、既に実行されていました。
その際、203高地が兵士たちの身を隠す場所が全くない斜面だったため、ロシア軍の反撃をまともに食らい、2500人もの死傷者を出していたのです。
また、ロシア軍は203高地を重要と判断し、砲台を増強していました。
そのため乃木は、
「次に203高地を攻めたら、もっと多くの者が犠牲になる・・・!!」
乃木は、多くの兵士の犠牲を出すことが予想されたので、大本営からの203高地攻略作戦の要請を受け入れなかったのです。
その代わりに乃木がとった作戦は・・・
兵士たちが身を隠せる塹壕を掘って、旅順要塞の近くまで進み、そこから突撃するというものでした。
そして作戦を決行・・・!!
ところが、要塞からの反撃に耐えられずにまたも作戦中止に・・・。
このままでは敗戦必至・・・!!
しかし、203高地攻略に固執する大本営は、天皇を動かし、天皇の勅語を得ることに成功します。

「いまや陸海両軍の状況は、旅順攻略の期を緩ふするを許さざるものあり
 此時にあたり 第三軍総攻撃の拳あるを聞き 成功を望むの情 甚だ切なり」

「陛下が期待されている・・・失敗は許されない・・・!!」

乃木に、旅順攻略の重圧がかかります。
さらに・・・日本海を目指すバルチック艦隊が、11月上旬にアフリカ沖まで到達、早ければ2か月後に日本海に到着する・・・!!
乃木に旅順攻略のタイムリミットが迫っていました。
しかし、それでも乃木は、要塞の間近にまで塹壕を掘り進める攻略作戦を続行!!
あくまでも兵士たちの犠牲を最小限に抑えたかったのです。
今度は塹壕を要塞の防護壁の真下まで到達させ、防護壁を爆破、突入を試みますが・・・頑丈な壁を壊すことができず、ロシア軍の反撃を浴びて突入部隊は全滅してしまいました。

「間近で爆破しても、要塞の壁は崩せぬのか・・・!!」

乃木に決断が迫られんす。
塹壕を掘り進む攻略は、着実とはいえ長期戦になりバルチック艦隊が日本海に到着までに落とせるかわかりません。
一方203高地の攻略は、敵の守りが旅順要塞よりも薄いが、身を隠す場所が全くないため多くの犠牲を出すのは明らか・・・
そして、11月27日午前10時・・・

「第三軍はこれより203高地を攻略する・・・!!」

日本が勝つために、乃木は苦渋の決断をするのでした。
203高地に配備されたロシア軍の砲台に対し、2300発もの砲弾を一斉に撃ち込みます。
そしてロシア軍がひるんだうちに兵士たちは203高地を一気に駆け上っていったのです。
戦闘は熾烈を極め、辺りは兵士たちの累々たる屍に覆われていきました。
その時の様子をある兵士はこう語っています。

「ああ惨劇 虐殺以上の惨劇 
 数十メートルの地面は瞬時にして
 一面我が兵の死体を持って蔽われ
 尺寸の地をも余さざるに至った」

日本軍の絶えまない攻撃は9日間に及び、12月5日、ついに203高地攻略!!
日本軍はすぐさま旅順港の太平洋艦隊を攻撃します。
次々と艦船を沈め、バルチック艦隊が日本海に到着する前に、太平洋艦隊を壊滅させたのです。
この203高地の戦いでの死傷者数は・・・ロシア軍4600人に対し、日本軍は1万7000人。
兵士の命と引き換えに得た勝利でした。
そのため乃木は、

「皆すまぬ・・・この責任は死んでとる・・・」

日露戦争が終わって、明治天皇のもとに参内した乃木は、切腹して罪を謝りたいといっています。
しかし、明治天皇は「死ぬならば私が死んでからにしろ」と止めたといいます。
その後、明治天皇が崩御された後に、1912年9月13日、乃木は妻と共に殉死しています。


②東郷平八郎の決断・・・日本海海戦

日本海軍連合艦隊の指揮を任された東郷平八郎は、日露戦争での海での戦いについてこう考えていました。

「ロシアの太平洋艦隊を、運よく叩くことができても、ヨーロッパに展開するバルチック艦隊が参戦すれば、日本に勝ち目なし
 ただし、唯一の作戦を除いて・・・!!」

東郷の懸念通り、1904年10月15日、バルチック艦隊がバルト海のリバウ港を出港。
一方、日本軍は乃木希典率いる陸軍第三軍の奮戦によって、旅順港にいたロシアの太平洋艦隊を壊滅させました。
これで、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊と太平洋艦隊に挟み撃ちにされることは回避されます。
それでも、当時世界最強を誇ったバルチック艦隊との一騎打ちは大苦戦が予想されました。
そして遂に、翌年の1905年5月・・・バルチック艦隊が、ベトナム沖までやってきたのです。
世界最強の艦隊が、まもなく日本海に・・・
東郷は、バルチック艦隊に勝てる唯一の作戦に備えます。
その作戦とは”丁字戦法”・・・トウゴウターンです。
丁字戦法とは、正面からやってくる敵艦隊に向かって攻撃することなく突進
攻撃の射程に入ったところで、船首の方向を一気に変える大回頭を行い、敵の戦闘に対し、主砲と側面の副砲から集中して砲撃を加え、1艦づつ順次に撃滅するという戦法です。
船の向き合う形が、漢字の”丁”の字を描くため、こう呼ばれました。
これは、「坂の上の雲」の主人公秋山真之が考案したといわれています。
秋山の頭脳と、東郷の決断力・・・これがあっての戦法でした。
しかし、この戦法には大きな問題点がありました。
大きく大回頭している間、日本軍は敵から攻撃されやすい・・・きわめて危険な方法で、一か八かの戦法でした。
しかも、敵から離れていると逃げられるため、危険を冒してでもギリギリまで敵船に近づく必要がありました。
そしてこの戦法で最大の問題だったのが、バルチック艦隊がどの航路でやってくるのか?ということでした。
丁字戦法は、艦隊同士が真正面から向き合わなくては使うことができないからです。

「こちらの待ち伏せを敵に外されたら、その時点で我々は負けだ」

旅順が陥落しているため、バルチック艦隊が向かうのはウラジオストク・・・!!
そこに向かうルートは対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の3つ!!
東郷は最初の決断を下します。

「我が艦隊は、対馬海峡で待つ!!」

どうして東郷は対馬海峡を選んだのでしょうか?

東郷は相当迷い、最後は軍人の感だったようです。
東郷は、バルチック艦隊委は長旅で疲れているので、来るならば最短距離でウラジオストクに入ってくるだろうと考えました。
東郷の決断により、連合艦隊は朝鮮半島の鎮海湾でバルチック艦隊を持ち撫せることに・・・
しかし、待てど暮らせど、バルチック艦隊はやってきません・・・。
対馬海峡で待つという東郷の決断は間違っていたのでしょうか??
この時、司令部からはバルチック艦隊は津軽海峡を通過するのでは・・・??という意見が強かったのです。
津軽海峡に異動するのか??このまま対馬海峡で待つのか??
東郷の下した2つ目の決断は・・・??

「もう1日対馬海峡で待つ!!」

すると・・・1905年5月27日4時45分!!
偵察に出ていた信濃丸が長崎の五島列島沖で濃霧の中を進むバルチック艦隊を発見!!
信濃丸は、すぐさま連合艦隊に打電します。

「敵艦隊 対馬東水道ニ向カウ」

東郷の決断は、間違っていませんでした。
この時、連合艦隊は大本営に向けてこう打電しています。

「敵艦見ゆとの警報に接し 連合艦隊はただちに出動
 これを撃滅せんとす
 本日天気晴朗なれども波高し」

連合艦隊が鎮海湾から対馬海峡へ向かうと・・・
13時39分!!
そこに姿を現したバルチック艦隊を確認!!
遂に決戦の時!!
先頭を行く旗艦「三笠」に乗艦した東郷は、四色のZ旗を掲げました。
その旗に込められた意味は・・・??

「皇国ノ興廃 此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」

連合艦隊は、攻撃することなくバルチック艦隊にひたすら近づいていき、8000mを切った時、14時05分!!

「左150度 回頭!!」

東郷の命により、連合艦隊が大回頭を開始、これを見たバルチック艦隊はここぞとばかりに猛攻撃を開始します。
東郷が乗った三笠は、敵弾を一手に浴びながら、猛攻に耐えました。
14時10分、連合艦隊は回頭を終えるとバルチック艦隊の先頭を進むスワロフに、一斉に砲撃を開始。
連合艦隊の猛攻により、スワロフに乗艦していたバルチック艦隊の司令官が負傷!!
さらに、散り散りとなったバルチック艦隊を次々と撃沈していきました。

5月28日、激戦は2日に及び、バルチック艦隊に壊滅的な被害を与えた日本の連合艦隊が世界最強の艦隊に勝利したのです。
どうしてリスクの高い丁字戦法が成功したのでしょうか?
そこには、連合艦隊の徹底的な作戦方針がありました。
基本的には複数の艦船で敵艦一隻を長時間攻撃を浴びせる方針を・・・隊列を崩さないで攻撃するという方針をとりました。
バルチック艦隊は遠くからきているので、小さな船は連れてこれません。
大きな船ばかりでした。
日本は中小の艦船で、小回りが利いたのです。
長期間の航海で、ロシア側はフジツボ、カキなどの貝が船底について抵抗になり、速力が上がらなかったことが原因です。
そのため、連合艦隊はバルチック艦隊の動きよりも早く、丁字の体勢をとることができました。
連合艦隊の徹底された作戦と速力が、バルチック艦隊の攻撃力を上回ったことが、作戦成功の大きな要因でした。

③小村寿太郎の決断・・・日露講和条約

1904年2月10日、日露戦争開戦。
旅順攻略や、日本海海戦など次々と日本が大国ロシアに勝利し、優位に進めていました。
しかし、日本の実情は・・・
日露戦争開始から1年半の日本の戦費は約15億2000万円・・・日清戦争の7倍、国家予算の5年分でした。
また動員兵力は、1年半で、動員兵力約110万人、戦死者は8万8000人に及んでいました。
日本がこれ以上、戦争を続けることは財力的にも、兵力的にも限界でした。

それに対し、国力に勝るロシア帝国は、本国に精鋭部隊を温存していました。
そのため、戦争が長引けばロシアが優位になるのは明らか・・・
日本は戦況が優位なうちに、出来るだけ早い講和を望んでいました。
そんな切羽詰まった講和交渉に臨んだのが外務大臣・小村寿太郎でした。
小村は、ロシアとの仲介を第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに依頼します。
というのも、日本は、日露戦争の開戦直後から、元司法大臣の金子堅太郎をアメリカに派遣し、ルーズベルトに接触していたからです。
金子はルーズベルト大統領とハーバード大学で学友でした。
最初から講和を早期に持ち込もうという準備をしていたのです。
この準備が功を奏しました。
日本海海戦での日本の勝利からわずか13日後の6月9日・・・
ルーズベルトは、日本とロシアに対して講和会議をアメリカで開くことを提案します。
もちろん、日本はすぐに受諾。
ロシア皇帝ニコライ2世は、この戦争に負けたと思っていなかったので、講和に反対します。
しかし、ロシア国内で社会主義が台頭!!
ロシア国内での情勢の悪化で戦争どころではなく、止む無く講和会議への参加を受け入れました。

日本側のロシアへの講和条件は・・・
・朝鮮半島における日本の優越権を認める
・満州からロシアが撤退する
・遼東半島の租借権と鉄道の権利を日本に譲り渡す

この時、小村が政府から任された条件です。

さらに・・・

・樺太の割譲
・賠償金15億円の支払い

要求も命じられていました。

小村は、こんな講和条件をロシアが丸々飲むわけがない・・・と考えていました。

国民は、勝ったんだから・・・と、期待していたのです。
小村は、こうした国や国民の期待には応えられず、交渉の非難を浴びることを覚悟してアメリカに渡りました。

そして、8月9日、アメリカの東海岸ポーツマスで講和会議が始まります。
小村の交渉相手となったのは、ロシア全権大使セルゲイ・ウィッテです。
小村の孤独な戦いが始まりました。

「満州は本来、清国の領土
 すみやかな撤退は、当然と考える」by小村

「そんなものは認められん!
 ロシアを何だと思っておるのか!!」byウィッテ

「賠償金については、これは日本が戦いのために使った実費に過ぎない」by小村

「ロシアは、日本語時に1ルーブルも支払うつもりはない!!
 もし、日本軍が我が国を占領できたなら、払ってもいいがなぁ」byウィッテ

何ともふてぶてしい態度で交渉に臨むウィッテ・・・
実は、それには理由がありました。
戦争に負けたと思っていないウィッテは、予めどんなことがあってもロシアが講和を望むような態度を見せない、自分はロシアの全権大使であると大きく構えて相手を威圧することという交渉方針を立てていたのです。
全てはウィッテの演技・・・高圧的な態度をとることで、日本を怯ませ交渉をロシアペースで進めようともくろんでいたのです。
しかし、ロシアに駐在経験のある小村はそれを見抜き、ウィッテの術中にはまることなく
”なぜ日本は満州からの撤退を求めるのか、なぜ遼東半島の租借権を譲り渡せといっているのか”と、理詰めで交渉を進めたのです。
それによって、ウィッテは日本の求めた主な条件に付いては認める姿勢を見せます。
しかし、樺太の割譲と賠償金の支払いは、断固拒否、それどころか

「日本は賠償金欲しさに戦争を続けようとしている」byウィッテ

と、国際世論に訴えたため、日本は非難を浴びるようになったのです。
このままでは日本が悪者になって、交渉が決裂する可能性が・・・!!
小村は悩みます。

「交渉が決裂すれば、戦争が続く・・・
 そうなれば日本は負ける・・・!!」by小村

そんな中、アメリカの水面下の交渉により、ロシア皇帝ニコライ2世が樺太の南半分の割譲を承認・・・
という情報が入ってきました。
それを受け、小村は決断しました。

1905年8月29日、10回目の講和本会議・・・
小村はウィッテに対し、こう切り出します。

「日本政府が樺太の南半分の割譲を条件に、ロシアの賠償金支払いの要求を撤回する」by小村

小村は、講和交渉の決裂を避けるべく、賠償金を諦める決断をします。
するとウィッテは、皇帝が認めた条件で納まったことで、日本の講和条件をおおむね受け入れました。

日本は資金も兵力もない状態で、本来ならば戦争に勝ったといえるかどうかも微妙な状態でした。
この条件を手に入れたというだけで、小村のすごさが分かります。
そして9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)締結。

1年7か月に及んだ日露戦争は、日本の勝利で終結したのです。
しかし、日露講和条約が締結された同じ日に、東京日比谷公園で賠償金のない日露講和条約に反対する人々の集会が開かました。
それは、大臣の官邸や交番、新聞社が襲撃されるなどの大暴動に発展します。
東京は数日間にわたって無法地帯と陥ったのです。
帰国した全権大使・小村寿太郎も、罵倒を持って国民に迎えられたのです。
賠償金なしでも講和できたことのありがたさを知らずに・・・

日本が勝利した日露戦争・・・アジアの小さな国でもヨーロッパの大国に勝てる・・・
この大きな自信、大きな過信が、やがて大局を見誤ることにつながってしまいます。
この後、日本は新たな大きな戦争に向かって、突き進んでいくことになるのです。

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時は風雲急を告げる幕末!!
西郷隆盛や大久保利通、大改革を担った逸材を生んだ薩摩藩の人材力!!
欧米列強と互角に渡り合った軍事力と外交力!!
あらゆる能力に抜きんでた薩摩藩は、江戸幕府の幕引きという大改革を成し遂げていきます。
どうしてそんなことができたのでしょうか?

鹿児島市にある照国神社・・・この神社は、薩摩藩の活躍を導いたある人物を祀るためにつくられました。
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬公です。
その死後、孝明天皇により照国大明神という名をもらい、この地に祀られました。
国を照らすとまで言われた島津斉彬・・・
どんな人物だったのでしょうか?

島津斉彬は、江戸の薩摩藩邸で生まれました。
薩摩藩の未来の藩主として青年時代を送りました。
斉彬の人となりは・・・

”色が黒く、体格はお背が高く、横張りの頑丈なお方で、お正月のはじめなど
 「おめでとう」と、隅々まで通る大きな声で仰せられたものである。
 まことに威風堂々たるものであった”

人柄は穏やかで頭脳明晰、会えば雷に打たれたような印象を与えた斉彬・・・
斉彬が、日本の将来に強い危機感を抱く事件が中国で発生します。
アヘン戦争です。
イギリス軍の圧倒的な軍事力を前に、清が屈服したという知らせに、斉彬は衝撃を受けました。
斉彬自身がまとめた「清国阿片戦争 始末に関する聞書」では・・・
貿易を強引に要求し、相手国を植民地化する脅威を察知したことがわかります。

1851年、43歳で藩主となった斉彬は、すぐさま行動に出ます。
尚古集成館には、斉彬が取り組んだ大砲が再現されています。
それまでの大砲は、青銅で作られていました。
斉彬は、銅よりも安く強度の高い次世代の武器・・・鉄製の武器に取り掛かります。
そして、この鉄製の大砲が、飽くなき探求心の始まりでした。
青銅に比べて、鉄は高い温度で溶かさなければなりません。
青銅の大砲よりも高度な技術が必要でした。
オランダから反射炉を使った鉄の大砲づくりが導入されることとなります。
衝撃や熱に耐える良質の鉄を造ることができます。

佐賀藩の専門書を頼りに見たことのない反射炉の製作に取り掛かります。
失敗の連続の末に・・・5年の歳月をかけて反射炉が完成!!
斉彬は、溶鉱炉や鑚開台を作らせます。
大砲づくりのコンビナートを作ったのです。

斉彬の目標は、大砲だけでなく、西洋式の軍艦の建造。
貴重な情報源は、中浜万次郎・・・ジョン万次郎でした。
小型の様式帆船を建造し、それを発展させ、大砲を備えた日本初の大型軍艦「昇平丸」を作りました。

蒸気の力を動力とする蒸気機関は、当時の最新技術でした。
その開発に成功し、日本初の蒸気船を完成させます。
”薩摩の火だるま船”と、呼ばれ、ペリーの来た直後には完成していました。
斉彬が開発に成功したのは、ペリー来航からわずか2年後だったのです。
薩摩の技術力には驚かされるばかりです。

更に斉彬が取り組んだのが・・・「薩摩切子」・・・カットグラスです。
薩摩独自の産業にも力を入れた斉彬は、貿易による国力増強も考えていました。
軍備の強化だけではなく、人々の生活を豊かにする・・・富国強兵・殖産興業の先駆けだったのです。

未曽有の外圧を前に斉彬は・・・

「幕府も、諸大名も、これまでの一国一群単位の意識では、欧米の脅威から日本を守ることはできない。
 日本一致一体となって一応に高性能の軍備を備えて初めて、本当の防備が出来るというものだ」

西欧列強の脅威にオールジャパンで対対応していくことを提言した斉彬・・・そのキーワードが「日本一致一体」でした。
この後、どのようにこれを実現していくか・・・??薩摩藩の幕末は動き出したのでした。


16世紀後半のアジアの地図・・・
日本が曖昧な形の時代に、Cangoxina(鹿児島)が書かれています。
薩摩藩は、中世以来、交易の門戸を開き続けてきた海洋国家でした。
江戸時代を通じ、琉球王朝(沖縄)を統制下におき、鎖国の時代に、莫大な貿易の利益を得ていました。
鹿児島県日置市美山、薩摩焼の郷。
薩摩焼のルーツは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、島津家が優れた陶工を鹿児島に連れて帰ったことに始まります。
そこに、海洋国家薩摩藩の知られざる姿がありました。
他の藩も陶工を連れて来たものの日本人にしてしまいました。
しかし、薩摩藩は、朝鮮人技術者のみならず、彼らの言語を保護し、一カ所に住まわせ、朝鮮名を名乗らせ、朝鮮語を喋らせる・・・「リトルコリア」・・・保護区を作ったのです。
江戸時代を通じ、薩摩藩は鹿児島の朝鮮人陶工たちに髪型や朝鮮の言葉を使い続けることを許しました。
密貿易で薩摩にやってくる商人たちを、漂流民として扱い、幕府に報告していました。
そこに、海洋国家の薩摩のしたたかさがありました。
薩摩の人が船の修理のお代にもらった高麗人参は、富山の薬売りに高く売れました。
代わりに仕入れるのは、北海道産の昆布でした。
それを選別として朝鮮に渡し・・・彼らも地元に戻ってこの高級品を売りました。
広大な海の交易圏の中心に薩摩があったのです。
幕府に極秘に行われた密貿易・・・
それは、物資だけでなく、大陸からもたらされる最新の国際情勢や、技術、文化をいち早く入手することを可能にしました。
この海洋国家としてのDNAが、代々国際性豊かなリーダーを作り上げていくのです。

中でも・・・蘭癖大名・・・島津重豪。
ローマ字を書く重豪は、学問を重視し、天文館を設置、百科事典や辞書、世界地図を作成させ、文化力向上に努めました。
そんな重豪から将来を託されたのがひ孫の斉彬でした。
斉彬は18歳の時、重豪に連れられてオランダ商館付きの医師・シーボルトと面会・・・世界を見つめる目を茶しなっていきます。
斉彬もローマ字をマスターし、海の向こうの未知の文明を全身で学び取ろうとしました。
はるか中世から続く、海洋国家としてのDNA・・・それが、東アジアの小さな島国・日本の危機を見抜いた名君・島津斉彬をうんだのです。


寺島宗則(松木弘安)
鹿児島の中心・・・鹿児島中央駅前の銅像・・・タイトルは「若き薩摩の群像」
激動の時代に密かにイギリスに渡った薩摩の17人の留学生を顕彰しています。
メンバーの一人は、五代友厚・・・後に、大阪経済界を代表する実業家となります。
明治政府の初代文部大臣・森有礼。
なかでも名君・斉彬ととりわけ深いかかわりを持っていたのが、寺島宗則です。
明治の条約交渉で、日本外交に大きな功績を残した政治家でした。

元の名は、松木弘安。1832年に生まれ、優れた蘭方医の養父に育ちます。
語学力に優れた薩摩きっての秀才でした。
彼の力は藩も認め、医学の修行や最先端の蘭学にかかる費用は、全て藩が負担したといいます。
マルチな才能を持っていた松木弘安・・・蘭学、医学、文学、化学、物理学、天文学・・・語学の天才で、オランダ語が凄くできました。
期待したのは斉彬・・・。
オランダ語の翻訳から、反射炉の実験、蒸気機関の設計に至るまで、集成館に必要な技術の研究と実用化くぉ松木に一任しました。
期待に次々とこたえていく松木は、島津家別邸仙巌園では、庭園の石灯篭に石炭から精製したガスを使用しガス灯をともすことに成功・・・明治にガス灯が作られる15年も前の事です。

また、絹糸を巻いた電線を鶴丸城から庭園探勝円まで引き、550mの距離で電気通信に成功。
松木は日本の電気通信の父と称えられました。
写真術の研究にも没頭し、松木の飽くなき探求心に応え、斉彬は次々にミッションを与えていきます。
薩摩藩の近代化の夢に邁進していく二人がいました。
ところが・・・1858年7月16日島津斉彬死去。
大砲教練を視察した日に・・・50歳での突然の死でした。
藩主として7年・・・その悲報に、斉彬の薫陶を受けた者たちは涙しました。
松木は勉学を続けます。
開港したばかりの横浜で、外交文書の翻訳に従事しながら、斉彬の志を・・・西洋を研究していきます。
すると、その努力が認められ、幕府のヨーロッパ使節団の一員に選ばれます。
日本の未来を担う有能な存在を幕府がリストアップし、松木は海外諸国を歴訪する初めての薩摩藩士として参加します。
時に1861年、松木弘安30歳でした。
その中で松木を驚かせたのが、産業革命後高度な文明のイギリスでした。

「このヨーロッパ巡視の中で初めて知ったことがあります。
 オランダ国外に出れば、オランダ語を知る人は一人もおらず、
 イギリス、ドイツ、フランスに比べれば、百分の一以下の国でした。
 日本に戻ったのち、もはや蘭学を教える意味はないと思います。」by弘安

松木の視線は、オランダからイギリスに移っていきました。
斉彬の遺志を継ぎ、松木はヨーロッパを巡り、世界の中で日本の進む道を考える・・・
そして・・・それが、薩摩藩の窮地を救うこととなっていきます。


1862年松木がヨーロッパ視察から帰国・・・この年を境に、薩摩藩の藩の存亡の危機に・・・!!
この難局をいかにして乗り切っていくのでしょうか?
ピンチで発揮される薩摩イズムとは・・・??
斉彬の死後、その遺志を継いだのは弟・久光でした。
そこに、薩摩藩最大の危機・・・生麦事件が・・・!!
1862年8月21日生麦事件。
江戸から鹿児島へと帰還する島津久光の大名行列に、不用意にも近づいてしまったイギリス人一行を、薩摩藩の警護役が迷いなく斬りつけました。
一人のイギリス人青年が、死亡・・・するとこれが大事件に・・・。
イギリス側が、幕府と薩摩に賠償を要求。
犯人の処刑も求める強硬姿勢にでます。
その時、誤った情報が薩摩に伝わります。
「イギリスは、久光の首の差出を求めている・・・」
薩摩とイギリスとの激突は必至・・・!!
この時、イギリスとの交渉に薩摩が頼みの綱としたのが、語学力に長け、海外経験のある松木弘安と五代友厚でした。
1863年6月27日・・・イギリス艦隊が鹿児島湾に現れます。
その4日後・・・一向に動かない薩摩にしびれを切らし、薩摩藩の汽船3隻を捕らえようとします。
その1隻に松木と五代が・・・!!
薩摩の船を守るために、抗議する松木!!
しかし、船は拿捕され、二人はイギリス軍に拘留。
それをきっかけに、砲撃を開始する薩摩でしたが、イギリスとの火力の差は歴然!!
砲台や集成館が破壊され、鹿児島城下は火の海となりました。
薩英戦争です。
想定外の戦闘となってしまったイギリスは横浜に帰還。
松木と五代は捕虜として連行されてしまいました。
その後、薩摩とイギリスとの関係は・・・
そこには、もう一人の薩摩藩士の活躍がありました。
横浜で行われた薩英戦争の賠償交渉・・・英国代理公使・ニールと相対したのは、薩摩藩士・重野厚之丞。
重野も、斉彬の薫陶を受けた学者肌の藩士で、後に久光の庭方役をしていた切れ者でした。
イギリスとの難しい交渉に驚くべき提案をしています。
賠償をするので、その代わりにイギリスから軍艦を購入します。
さらには、軍艦操縦法を教わりたいので、若者を留学させたい・・・。と。
なんと、重野は、賠償問題だけにせず、両国の通商交渉へと変換させたのです。
思いもよらない提案に、虚を突かれたイギリスは、もともと望んでいたのでこの提案を受け入れます。
相手の本心をついて事態を打開する・・・これこそ、究極の薩摩イズムでした。

重野の功績で、薩摩とイギリスとの関係は急接近していきます。
この交渉の結果、留学生として再び海を渡ったのが、捕虜となっていた松木でした。
松木は五代友厚らと共に、1865年3月22日・・・イギリスへと向かいます。
この留学で松木はある任務を帯びていました。イギリスと薩摩との間で貿易協定を結ぶこと・・・でした。

最初に面会したのが、英国下院議員・オリファントでした。
来日経験もある知日派で、日本に同情的でした。
オリファントは、はるばる海を渡ってきた松木に言っています。

「我がイギリスが、貿易条約を結ぶ時、両国お互いに利益があるというのは、表向きの挨拶にすぎません。
 その本心は、あなたの国をむさぼり尽すことにあります。
 兵器を使って戦うのではなく、貿易による知略が、弾丸となることを知らなくてはなりません。」

オリファントから教わった、国際貿易の本質・・・松木に日本のあるべき姿が見え始めていました。

「我が国が諸外国と並立していくためには、国家最上の主君の目を覚まし、一人の新生児のようにならなくてはならない。
 天皇の指揮のもと、我国が一体となって他国と友好関係を築かなければ、独立は難しい・・・」

それは、斉彬が唱えた日本一致一体の発展形・・・天皇による中央集権国家への変革構想でした。
そして、松木は英国外相・クラレンドンとの会談に持ち込みます。
日本の条約批准権を幕府から天皇に移す構想を語り、その協力を求めました。
幕府の下に薩摩があるのではないのです。
イギリスから薩摩に戻ると、イギリス公使・パークスの鹿児島訪問に列席。
通訳をしながら、薩摩と日本がとるべき外交の道を探り続けます。
その時、松木は故郷に浮かぶ小島にちなみ、寺島宗則と改名・・・日本の未来のために尽くす外交官としての道を歩み始めます。
斉彬の唱えた日本一致一体を胸に、寺島宗則は、日本外交のパイオニアとなっていくのです。

薩摩の武士の伝統は、野太刀自顕流です。
一撃必殺で相手を倒すのが極意です。
維新の原動力となった多くの英傑も、この剣術のけいこに汗を流しました。
同じ志を持った先輩、後輩たちが同じ道を進んで行く・・・郷中教育です。
「郷中」という地域ごとに成立した集団教育で、西郷隆盛の郷中には、大久保利通、大山巌、東郷平八郎、黒木為楨がいました。
同じ郷中出身の者は、強い結束で結ばれていました。
そして、二才という15~25歳の元、6歳からの稚児たちが文武両道をたたき込まれていきます。
中でも特徴的なのが「詮議」と呼ばれるケーススタディ・ディスカッションです。
例えばお題は・・・
「目の前に、主君の敵と親の敵が同時に現れたら、どちらから成敗するか?」
不測の事態に陥った時、どうやって対処していくのか?
実践的な思考を養う伝統が、薩摩の英傑たちを生み出していきます。

薩英戦争の翌年、京都で大事件が起こります。
1864年7月、禁門の変です。
過激な攘夷論を掲げる長州と、それを暴挙と見なす薩摩、会津の幕府連合軍が御所の前で激突しました。
長州藩は、薩摩の軍事力の前に惨敗・・・御所に向かって発砲したことで、朝敵の汚名を着せられました。
この時、幕府側の陣頭指揮を執ったのが、西郷隆盛です。
生前の斉彬の遺志を継ぐ、薩摩きっての戦略家でした。

幕府は、西郷に命じ・・・第1次長州征討!!
かくして、西郷は、歴史の表舞台に躍り出ました。
日本に内乱の危機をもたらした長州を許すわけにはいかない・・・!!
無謀に攘夷を叫び、内乱の火種をまき散らす長州・・・そんな長州を断固討ち果たす覚悟でいました。
が!!そんな考えを一変させる情報が・・・!!
「幕府が忌み嫌っているのは、薩摩と長州の勢いです。
 幕府の真の狙いは、ここで薩長両藩を戦わせ、その力を消耗させようというもの。
 先鋒を務めれば、薩摩の災いとなるのは必至、徳川の思うつぼとなるでしょう。」
情報に接した西郷は・・・幕府の本当の狙いは、長州だけでなく、薩摩の力を削ぐことであると判断します。
そう悟ると、強硬路線から、急遽、長州との戦争回避策に方向転換します。

しかし・・・いきり立っている長州をどう説得するのか・・・??
すると西郷が放った探索方から突破口な情報が・・・!!
岩国藩主の吉川経幹が、長州の過激派に反対、幕府に恭順すべきだと内部分裂を起こしているというものでした。
一計を案じる西郷・・・
西郷の交渉術①穏便派を懐柔
吉川を取り込んで長州の過激派に揺さぶりをかければ、幕府との衝突を避けられるのでは・・・??
長州の分裂に乗じた一か八かの賭けでした。

1864年11月、西郷は岩国・吉川経幹と会談
幕府との戦いを避けたければ、禁門の変の首謀者である三家老の切腹など幕府と朝廷への謝罪の意を示すことを要求・・・
その代わり、西郷は捕虜となった藩士の開放や、朝敵となった長州の汚名返上に薩摩が力を尽くすことを誓います。
すると、吉川は過激派の説得に向かいます。
西郷にはもう一つの難問がありました。
幕府が提示した長州を許す条件に、過激派の本拠地・下関に匿われていた三条実美ら攘夷派の公家らの身柄開放がありました。
しかし、それに反対したのが、奇兵隊をはじめとする長州の民兵組織諸隊でした。
彼らにとって攘夷派の公家たちは、自分たちを正当化する存在・・・
むざむざと引き渡すわけにはいきませんでした。

西郷の交渉術②命を懸けた直談判
すると西郷は、自ら下関に赴き、諸隊との直談判に・・・!!
今、無防備に長州に乗り込めば、命の保証はない・・・!!
周囲の反対を押し切って、密談に・・・諸隊の説得に向かいます。
相手の意表をついて、懐に飛び込んで、自分の命を投げ出すことのできる人でした。
西郷以外にはあり得ないやり方でした。
長州藩の説得に成功!!
1864年12月27日、幕府軍撤兵!!
幕府は長州の恭順に兵を引いたのでした。
ここに、第1次長州征討は、未然に収束しました。
この時、西郷は、交渉の窓口となった吉川に驚くべき交渉をしていました。

「天皇を疎んじる幕府の非情の仕打ちは、許しがたい。
 西国の諸藩連合結成の折は、是非とも長州にも参上願いたい。」by西郷

後の薩長同盟の伏線でした。
内乱の危機を防いだ西郷・・・苦虫を噛み潰すように見ていたのは、一橋慶喜でした。

「幕府軍は、薩摩の芋焼酎にひどく酔わされ、してやられた!!
 その焼酎の銘柄は大島(西郷)とかいうらしい・・・」by慶喜

京都・・・幕末の薩摩藩の活躍は、この地を抜きには語れません。
薩摩藩の底力を支えたのは・・・まずは・・・京都南にある伏見。
薩摩藩伏見屋敷は、篤姫が江戸に向かう途中滞在したことでも有名です。
寺田屋から逃げて来た龍馬が助けを求めた場所でもあります。
江戸時代、伏見は人や物資、情報の一大集積地でした。
伏見は、参勤交代の重要地点で、薩摩は琉球使節団を連れてやってきました。
異国情緒漂う行列は、京都の人々の注目を集めたといいます。
上洛のチャンスに存在感を示す・・・したたかな戦略です。

二つ目は、洛中にありました。
薩摩藩にとって幕末の一大拠点となったのは・・・久光が政治的に立ち回りやすいように作った屋敷です。
現在の同志社大学の敷地にあった京都二本松薩摩藩邸。
造営されたのは1862年で、京都における薩摩藩の政治活動を支えました。
当時、この周辺は武家屋敷はなく、公家の屋敷が並んでいました。
そんな場所に、どうやって広大な屋敷を構えることができたのでしょうか?
大名の京都における政治の条件は、京都における公家との関係にあります。
近衛と島津・・・日本中世以来、関係の深い縁戚関係でした。
摂関家のTOPの公家・近衛家・・・この権威を朝廷工作に使ったのです。
近衛家の近くに藩邸があれば、極秘の任務にうってつけです。
これが、薩摩藩の政治活動に多くの利点をもたらします。
そして、周りにいる人にも威圧感を与えることができました。

御所の東には・・・薩摩の英傑のひとり・西郷隆盛の盟友・大久保利通が住んでいました。
大久保は、島津久光の側近で、当時の大久保の任務は朝廷工作でした。
薩摩藩への国政への影響力を強め、反幕府運動を展開する為に、公家との連携を深めていきます。
西郷隆盛も、大久保邸の近くに暮らしていました。
そして、薩摩藩邸の北西1キロほどのところに屋敷を構えたのが小松帯刀です。
諸説ありますが、近衛家の別邸・・・お花畑屋敷と言われていたこの場所に、薩摩の家老・小松が借りて住んでいたのです。
久光の名代として全権を任されていました。
この屋敷の治外法権・・・幕府の力の及ばないところを利用していました。
この小松邸で結ばれたのが、幕末最大の密約・・・1866年薩長同盟でした。
薩摩は長州との関係を急速に深め、反幕府体制を強めていきます。
小松はその誠実な人柄で幕府の人間にも信頼されており、過激な西郷や大久保を御しながら、新体制樹立を模索します。
西郷や大久保、小松・・・薩摩屈指の人材が集結した幕末の京都・・・ここから日本の大変革が始まるのです。

幕末の動乱は、最終局面へ・・・。
徳川慶喜に突き付けられる大政奉還、密かに進められる武力討幕・・・
電光石火の突破力がものをいいます。
幕末も押し迫った1867年5月・・・西郷が島津久光に送った3メートルに及ぶ建白書。
その中で西郷は、徳川も一大名となり、諸大名と共に天皇を補佐する体制をつくるべきだと進言します。
そのための政権返上の建白を行ってもらいたいと久光に訴えます。
島津斉彬が掲げた日本一致一体の理想・・・。
その西郷たちが、どうして徳川を排除した中央集権国家をつくることになっていくのでしょうか?

1866年6月、日本を再び内乱の危機が・・・
幕府に謝罪したはずの長州が、再び軍備を増強!!
この事をかぎつけた幕府が再び征討へ・・・しかし、一度謝罪した長州に出兵するなど不当な戦いだと薩摩藩は出兵を拒否。
薩摩の軍事力を失った幕府軍は惨敗し、権威を失墜します。
第2次長州征討失敗!!
その背景にあったのは、小松帯刀の采配でした。
幕府には極秘に薩摩名義でイギリスから大量の洋式銃を購入。
それを長州に流していたのです。
ところが、その半年後、西郷たちの前に巨大な壁が・・・!!
その政治手腕の高さから、家康の再来と言われた慶喜が、第15代将軍に・・・!!
慶喜は、失墜した幕府の権威回復に、次々と手を打ちます。
フランスからの支援の下、幕府の軍備の近代化を図ります。
薩摩と繋がるイギリスとの関係強化も画策します。
さらに、外交問題にも類まれな能力を発揮!!
当時、欧米列強との間での問題となっていた兵庫の開港。
慶喜は、外国との貿易利権に繋がる決断を、幕府の力のみで実現しようとします。
そして、1867年5月24日、誰もが不可能だと見ていた兵庫開港の勅許をえるのです。
将軍慶喜の名は、日本の新しい君主・大君として知れ渡り、指導者としての力量が高く認められることとなります。
時代の風向きが徳川に向き始める・・・??
焦燥感を抱き始める西郷たち・・・兵庫開港勅許の5日後の5月29日、薩摩藩邸で重臣会議を招集した小松帯刀。
形勢逆転に打って出ます。
徳川に政権返上を迫るために硬軟織り交ぜた計画でした。
この強硬策の大一手が、大政奉還。
黒船来航以来、幕府の政治力の衰退は明らか・・・
将軍慶喜に、朝廷に政権を返上するように求め、天皇のもと、諸大名が挙国一致で国政に当たる新体制の樹立を・・・!!というものでした。
その裏で、西郷と大久保は違う策を練っていました。
8月・・・長州との密談で明かした秘策・・・京都・大坂・江戸の三都同時挙兵計画でした。
京都藩邸の1000人を三手に分け、一手は天皇を確保、一手は会津邸、一手は幕府駐屯所を襲撃、国元からは3000人が出兵し、大坂城、大阪湾の軍艦を焼き払う!!
江戸にいる1000人は幕府軍の上京を阻止する!!
この時、西郷と大久保は、慶喜は大政奉還を拒否すると踏んでいました。
その時は、武力をもって政権返上を要求する!!
もし、失敗したら、薩摩藩の存在が危ぶまれる危険な策でした。

そんなこんなが水面下でうごめいていた頃、薩摩藩のリアリズムを象徴する暗殺事件が・・・
暗殺されたのは、イギリス兵学の専門家であった信州上田藩士・赤松小三郎でした。
京で私塾を開き、その評判から薩摩藩が兵学の師として登用していました。
西郷たちの武力蜂起計画を知るや否や、反対する赤松!!
しかし、西郷たちは止まることはなく・・・失意の赤松は上田に帰ることに・・・。
薩摩の出兵計画は、会津と二条城を襲うこと・・・赤松が薩摩から離れたときに、情報が漏れる可能性がある・・・。
回避するためには命を奪うほかない!!
薩摩藩だけではなく、会津、幕府とも通じていた赤松・・・いかに信頼できる人物であったとしても、内情を知るものを放ってはおけない・・・赤松が殺害されたのは、薩摩主催の送別会の帰りの事でした。
そこには、薩摩の冷徹なまでのリアリズムがそこにはありました。

ところが・・・驚天動地の事態が・・・!!
1867年10月14日、景気が大政奉還を表明!!
将軍自ら260年の幕藩体制に終止符を打って・・・政権返上をしたのです。
武力討伐の大義名分が無くなってしまいました。
しかし、慶喜の狙いはその先にありました。
幕府に代わる新体制がつくられたのち、自分もそこに加わり、日本の近代化政策に自らの政治手腕を発揮したい!!
西郷と大久保は、慶喜に対する警戒を強めます。
新政府が誕生しても、そこに慶喜が参加した場合、政治の主導権は、能力の高い慶喜に再びわたる可能性がありました。
一方、突然の政権返上に、公家たちは動揺するばかり・・・
諸大名からも慶喜の手腕に期待する声が・・・
その状況に西郷たちは、新体制から徳川を排除しなければ、本当に日本が生まれ変わることにはならない・・・

1867年12月9日、京都の薩摩藩邸から西郷率いる1,000人の兵士が、近衛邸を通って御所に侵入し、慶喜を排除した新政権の樹立が強引に宣言されました。王政復古のクーデターです。
その前日、西郷はこんな言葉を残しています。

「二百有余年の太平の旧習に、汚染仕り候人心・・・
 一度干戈を動かし候て 反て天下の耳目を一新・・・
 戦いを決し候て 死中活を得るの御着眼」

その後、時代は怒涛の中を突き進みます。
鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争・・・激しい衝突を経て明治の日本は産声をあげます。
幕末の大変革・・・それは、時代のうねりに挑み続けた西郷たちの執念の結晶でもあったのです。

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感想(1件)



どうすれば軍備を縮小し、争いの芽を摘み取れるのか・・・??
世界はその答えを探し続けてきました。

国同士が抱く不信感が軍事的な緊張を生み出し、それが更なる不信感となる・・・
戦争とは、得てしてそんな悪循環の中から始まる・・・。

1941年のハワイ真珠湾攻撃で、アメリカと日本が不信の連鎖が生み出す対立の末に悲惨な戦いへと突入していきました。
しかし日米開戦の11年前、その事態を防ぐべく、行動を起こした政治家がいました。
第27代内閣総理大臣・浜口雄幸です。
その浜口が政治生命をかけて臨んだのが、1930年のロンドン海軍軍縮会議です。
軍艦の数を互いに制限することで生まれる信頼関係が、日本が繁栄を勝ち取る唯一の道だったのです。
しかし、その浜口に真っ向から対立したのが、日本海軍でした。
アメリカは・・・ハワイ併合、フィリピンの植民地化・・・強い海軍力が必要・・・??

1870年4月、高知市を望む山間のちいさな集落の家に、浜口雄幸は三人兄弟の末っ子として生まれました。
付近の山林を管理する役人だった父は、才能さえあれば立身出世できる新しい時代に、子供たちの教育に力を注ぎました。
雄幸は15歳までの多感な時期をこの山間の村で過ごします。
高知市内の中学校まで片道2時間をかけて通った雄幸は、帰ってきたら離れの勉強部屋に籠っていることが多くなります。
学校での成績は常にトップ、めったに笑わない、むっつりと常に黙っている少年でした。
中学へ進学しても変わらず、しかし、仲間内でも一目置かれる存在に・・・。
いかつい武士のようにとっつきにくいけれど、他人への思いやりに満ちた男で、周りの人々の信頼を得て行くようになります。

1895年東京帝国大学卒業後、大蔵省に入省。
不器用な性格が災いし、上司とぶつかり左遷もされるも、堅実な仕事ぶりが評価され、頭角を現すように・・・。
ところが、45歳で大蔵省に辞表を提出。
1915年立憲同志会に入党。
どうして浜口は、高級官僚の職を投げ打ち、政治家を目指したのか??
そこには、彼の生まれ育った土地柄と関係が・・・。
明治前半の高知では、盛んに政治集会(自由懇親会)が行われ、人々が自由に集い、要求を掲げていました。
自由に声を挙げて、日本を良くしていこうという熱気の中に、少年浜口も身を置いていたのです。

「先輩が、政治思想の養成に必死の努力を払われた結果、言論の発達、驚くべきものあり。
 自然にその気風を受けて、同好の友人達と共に、附近の小学校の校舎を会場として、盛に討論会をやったものである。」

浜口が政治家になって3年・・・
浜口は数多いる新人政治家の中でも、特に一目を置かれるようになっていきます。
世の人々は、大いに期待し、信用している・・・なぜなら、官僚が一時の気まぐれに政治家を目指したものではないと信じたからです。
浜口は、官僚として培った経験と人脈を買われ、大蔵大臣、内務大臣を歴任!!
その頃・・・世界は歴史の大きな転換点に立っていました。
第一次世界大戦・・・・。
戦車、飛行機、毒ガス・・・新兵器が次々と戦場に送られ、死傷者は1千万人に・・・!!
戦後、このような悲劇を二度と起こしてはならないという反省から、1920年国際連盟発足。
国同士の利害を調整しながら戦争を未然に防ごうという試みが行われます。
その一方で、緊張が高まっていたのが、国の統一の機運が高まる中国での情勢でした。
4億人を越える巨大市場に、アメリカ、イギリス、フランス、日本が権益拡大を狙っていました。

1929年7月、浜口雄幸が第27代内閣総理大臣に・・・
欧米諸国との協調と、軍備縮小を掲げて・・・!!
その背景には、恐慌と軍備拡大によって疲弊していた日本の経済を立て直したいという強い思いでした。

「我等は、世界人類の間に、平和愛好の精神を具体化し、我が外交政策の基調と為し、以て世界の進運に寄与しつつ、帝国の前途を開拓することを以て、我国の使命となすべきであると信ずるのである。」

首相に就任して4か月後・・・
浜口は、自らの代理である全権団を組織し、命運をかけた国際会議に送り出します。
1930年1月・・・ロンドン海軍軍縮会議です。
イギリス、アメリカ、日本の3か国にフランス、イタリアを加えた5か国がロンドンに集まりました。
会議は、国と国の利害と思惑がぶつかり合う、熾烈な国際交渉の場となっていきます。
中でも激しく対立していくのが、日本とアメリカ・・・!!
第1次世界大戦を経て、経済的にも軍事的にも世界の超大国となったアメリカ・・・世界最強の戦艦部隊を持ち、強大な海軍力を誇っていました。
日本の海軍は、そんな状況に、強い危機感を覚えます。
アメリカに太刀打ちできる軍艦を持たなくては、いずれ抑え込まれてしまうのでは・・・??
不信感が高まっていました。
そんな対米不信の急先鋒が、海軍の作戦立案の責任者、海軍軍令部長の加藤寛治大将でした。
その原因は、およそ10年前・・・1921~22年のワシントン海軍軍縮会議でした。
そこで、戦艦など・・・主力艦の持てる量を国ごとに定めた会議で、日本は対米7割を主張したものの、認められたのは6割・・・。
そこには、攻める側が守る側を屈服させるためには1・5倍の兵力が必要という世界の海軍関係者が共有している軍事的常識が関係していました。
どうして日本に対してアメリカが強く出るのか・・・攻めてくる意図があるのではないのか・・・??
対米6割・・・そこで、加藤が目を付け増強したのが、ワシントン軍縮会議で対象となっていない補助艦艇の強化でした。
戦艦に次ぐ攻撃力を持つ巡洋艦と、敵を待ち伏せする潜水艦・・・
ところがロンドン軍縮会議では、これらの補助艦も制限の対象になろうとしていました。

そこで日本海軍の要求は・・・??

①大型巡洋艦・・・・対米7割
②潜水艦・・・・・・・・78,000トン
③補助艦艇・・・・・・対米7割     でした。

浜口は、この海軍の要求を受け入れました。
全権団の代表として国際協調に深い理解のある若槻礼次郎を選び、交渉の行方を委ねます。
こうしてロンドン軍縮会議が幕をあけました。
交渉相手はアメリカ全権代表のスチムソン国務長官です。
アメリカ側の要求は、日本にとって厳しいものに・・・

①大型巡洋艦・・・・対米6割
②潜水艦・・・・・・・・全廃
③補助艦艇・・・・・・対米6割     だったのです。

これに対し、若槻は真っ向から対立していきます。

東京で待つ浜口の元では、逐一電報で会議の様子が知らされていました。
イギリスやアメリカの代表団からは、日本が歩み寄るべきだと揺さぶりがかけられます。
こうした圧力に若槻が食い下がります。
するとスチムソンは妥協案を・・・
交渉開始から2か月の3月15日、若槻全権から浜口のもとに妥協案の電報が・・・。
それは、日米療法が、譲歩に譲歩を重ねての結果でした。

①大型巡洋艦・・・・対米6割
②潜水艦・・・・・・・・52,000トン
③補助艦艇・・・・・・対米6.975割   

これ以上は譲歩は望めず、いたずらに押し返せば、会議は決裂する・・・!!
しかし、妥協案に強固に反対する者が・・・加藤寛治です。
一見、アメリカも譲歩しているように見えて、到底考慮の余地なし!!
これでは、日本の国防の責任は持てない・・・。
不満を抱いた加藤は、交渉中の外交秘密を新聞に発表!!
国民に訴えかけるという禁じ手に打って出たのです。

国際協調する・・・??
対外強硬する・・・??

ロンドンにいる若槻全権から最終回答案が来てから1週間・・・浜口は決断を下せずにいました。
そんな浜口を後押ししたのは国民の声・・・
1930年2月20日の第2回普通総選挙では、国際協調を説く浜口らの民政党が圧勝していました。
改心の勝利・・・さらに決断した決定的な出来事は・・・
3月27日、昭和天皇から参内するように申し付けられ宮中に向かった浜口・・・

「世界の平和のため、早くまとめるよう努力せよ」by昭和天皇

天皇に拝謁した日の午後、加藤が浜口の元へ・・・。
若槻からの妥協案を押し返すべきだという加藤に、浜口は
「これ以上交渉を先延ばしにすることはできない。
 もはや、決断の時だ。海軍の事情は理解したので、あとは自分の責任で決めさせてもらう。」
浜口が下した決断は・・・国際協調でした。

1930年4月22日、ロンドン海軍軍縮条約調印。

一方、面目を潰された海軍強硬派は、反発を強めていきます。
軍令部長の加藤が頼ったのは、東郷平八郎元帥でした。
東郷は、1905年ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦に破った国民的英雄でした。
加藤と東郷は、浜口の判断は軍事的越権行為であると攻め、条約を審議する枢密院で廃案に追い込もうとします。
再び苦しい立場の浜口を後押ししたのは、やはり国民の声でした。
6月18日、ロンドンから若槻全権代表が帰国・・・15万を越える人々が熱烈に出迎えました。
一方の東郷には天皇が使いをだし、これ以上口出ししないように暗に伝えさせました。

「東郷もそろそそ達観すべき。。。」

東郷が身を引いたのが決め手となって、10月2日、ロンドン海軍軍縮会議批准。

その3週間後の10月27日、日本、アメリカ、イギリスの各首脳が協約の成立を祝い、それぞれの国民にメッセージを送るラジオ放送が・・・。
浜口は、いつものように笑顔を見せることもなく呼びかけます。
「ロンドン海軍条約は、人類の文明に一新紀元を画したるものであります。
 今回の条約は、国際的平和親善の確立に向かって大なる一歩を進めたるものでありまするが、我々は今後益々この崇高なる事業の進展を切望してやまざるものであります。」

1930年11月14日、この日、浜口は東京駅4番線ホームから岡山に向かう特急に乗ろうとしていました。
近づいてきた一人の男が、至近距離から銃弾を浜口に浴びせたのです。
銃弾は下腹部に命中、内臓を傷つけ、腰骨を砕いていました。
運び込まれた東京駅の駅長室で・・・浜口はつぶやきました。

「男子の本懐だ。。。」

浜口はこの傷が元となり、1931年8月26日死去・・・61歳でした。

現場で捕らえられた21歳の青年は、取り調べに際して・・・

「軍部の意見を無視して、米国の主張に屈し、軍備縮小条約を締結したのは、一大汚辱であり、国家の存立を危うくすると憤慨した。」と述べていました。

浜口の死を、国民は大いに悼みます。
8月29日、東京日比谷公園で行われた葬儀には・・・15万にも及ぶ人が参列しました。
しかし、その僅か3週間後・・・国民は、新たな熱狂へと・・・!!

1931年9月18日、満州事変勃発!!

満州全域を支配下に置こうとする陸軍の行動を、国民は熱烈に後押しし、日本は軍国主義の道を突き進んでいきます。
一方海軍では、ロンドン軍縮条約に賛成した穏健派が海軍を追われ、強硬派が台頭していきます。
やがて、軍縮条約から脱退・・・
そして、数ではかなわないアメリカの戦艦を質で圧倒しようと「大和」「武蔵」の建造に着手しました。
こうして陸海軍は、悲劇的な結末に終わる太平洋戦争へと突入していくことになります。



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1905年、明治38年5月27日・・・
対馬沖で・・・日本連合艦隊は圧倒的なロシアのバルチック艦隊を撃破!!
日露戦争の勝敗を喫した日本海海戦。
小国日本が大国ロシアを破ったニュースは、世界をびっくりさせます。
連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、TIME紙の表紙を飾った最初の日本人となりました。
世界が認めた英雄の誕生でした。

heihati
日本海海戦の勝利は、東郷の信念にあると思われていました。
が・・・やはり悩んでいたようです。
そこには、国の存亡がかかっていました。

大勝利の裏で隠された真実とは・・・???

東郷平八郎は無口で・・・
母親でさえもよく分からない・・・とらえどころのない子供でした。

帝政ロシア時代の首都・サンクトペテルブルク・・・
無敵と恐れられたバルチック艦隊の一隻が・・・残っていました。

20世紀初め、ロシア帝国は強大な軍事力を以て満州を占領・・・
中国の旅順を拠点に南下政策を進めていました。
それを阻もうとする日本・・・
明治37年日露戦争勃発。

日本軍は、半年に及ぶ攻防で・・・莫大な犠牲を払って旅順を攻略します。
さらに・・・満州を北にあがる日本軍。。。しかし、兵力は消耗し、限界に達していました。

その頃・・・バルト海を出発したバルチック艦隊は、ウラジオストクを目指していました。
戦艦8隻を擁するバルチック艦隊がウラジオストクに配備されれば、日本の制海権が脅かされ・・・
大陸への補給路が絶たれることになり、陸軍は孤立してしまう・・・!!
おまけにロシアは開通したシベリア鉄道で、兵力を増強します。
戦争が長引けば、日本の負けは見えていました。
バルチック艦隊をウラジオストクに入れてはならない!!
東郷が背負ったのは・・・がけっぷちの戦いだったのです。

海軍との連絡がスムースにとれる場所・・・朝鮮半島南岸の鎮海湾でした。
ここは50隻を隠せるという内海は・・・韓国では今でも軍港となっています。
鎮海湾から対馬までおよそ50㎞。。。
対馬海峡でバルチック艦隊を迎撃する!!と決めて、作戦を練るのでした。

島を標的に・・・島の形が変わるまで大砲を撃ちこみます。
当時の倉庫や兵舎の跡も残されていました。

日露戦争には、最新式の通信技術が使われていました。
海底ケーブルが活躍しています。
日本海海戦に先立ち・・・本土から対馬に、対馬から鎮海湾に・・・ケーブルが引かれました。

戦艦三笠の停泊する入江の奥には電信局が置かれ、海底ケーブルが陸揚げされました。
東郷の元へ・・・!!
情報が次々と上がるようになっていたのです。

情報網を張り巡らし、練習を積んでいきます。
東郷の選んだ作戦参謀は・・・秋山真之。
この開戦の為に、手の込んだ作戦を立案しています。

その作戦の使命は・・・???

七段構えの2日間にわたる作戦でした。
水雷艇による奇襲に始まり、日中は戦艦戦、夜は駆逐艦!!
これを繰り返す七段構えの作戦です。
最後には・・・ウラジオストク近くの水雷艇に追い込む!!というものでした。

ウラジオストク入港は・・・ロシアの反撃を生む!!
この時、東郷平八郎の使命は、バルチック艦隊の殲滅でした。
日本は戦艦の数も少なく・・・1回の戦いで全てが終わるように・・・!!
そんな作戦、撃滅だったのです。

万全の態勢で待つ東郷・・・
しかし、敵の艦隊が消えてしまいました。
5月14日、インドシナ半島を出航して・・・消えてしまったのです。
バルチック艦隊は、戦艦18ノット、駆逐艦26ノット、運送船10ノットでした。

参謀・秋山は、10ノットと計算し、七日余りで対馬にやってくると計算しました。
5月22日には来るはずでした。。。23日になっても来ない。。。
東郷と参謀たちとの焦りと迷走が始まったのです。

「坂の上の雲」では、鎮海湾から動く気はなかった・・・ということになっていますが。。。
しかし・・・悩みぬいていた資料が出て来ました。
「極秘 明治三十七年海戦史」・・・日露戦争の膨大な記録です。
明治天皇献上されたひとつのみが残っています。

そこには・・・
鎮海湾以外の場所として・・・隠岐・能登・津軽海峡・・・本拠地候補として挙げられていました。
何処をとるか・・・!!国を挙げての大問題でした。

5月23日・・・三笠に電報が打電されました。
4日前・・・フィリピン沖で、ノルウェーの商船がバルチック艦隊に遭遇・・・対馬海峡に向かうと言っていたという。。。

①秋山はこれを敵の策略と考え・・・バルチック艦隊は太平洋を北上している!!
即刻北へ向かうべきだ!!!
これは、移動策。幕僚のほとんどがこれに賛成しました。
津軽海峡を通ることを見越して・・・連繋機雷が用意されます。
当時極秘の新兵器でした。
最大の難点は、津軽海峡とウラジオストクの近さでした。
ダメージを与えても・・・殲滅できないかもしれない!!

5月24日
東郷の命令は・・・北への移動と配置・・・密封命令を下しました。
この方針にびっくりし、異を唱えたのは・・・参謀長・藤井較一と司令官・島村速雄。

5月25日
②緊急に三笠に召集・・・!!
ふたりはこのまま対馬にとどまるべきだ・・・待機策を薦めます。
しかし、待機策では・・・津軽海峡に現れたバルチック艦隊に追いつくことは出来ない・・・!!!
待機策は理想的だが・・・敵に遭えるかどうかは賭けでした。

③もう一人の参謀・佐藤鉄太郎の意見は・・・隠岐・能登の両にらみ策。。。
敵の位置が不明な場合は、どこから来られても大丈夫な・・・柔軟な作戦でした。
しかし・・・日本海の全体を補足するので、散らばられると戦いにくい・・・。

決めるのは東郷平八郎・・・!!

津軽か・対馬か・中間か・・・
日本の将来を左右する決断に迫られたのでした。

5月25日午後・・・東郷の決断が行われました。
「明日正午まで当方面に敵影を見ざれば、夕刻より北海方面に移動す」
北へ向かう密封命令は、翌日まで延ばされたのでした。

現時点では待機策、待った後は移動策をとったのでした。
この、たった1日が、運命の1日となるのでした。

26日夜明け・・・
バルチック艦隊の燃料船が、上海に入港したという電報が・・・!!
敵はまだ東シナ海にいる!!
ここで運搬船を手放すということは、最短距離の対馬海峡に違いない!!
密封命令は廃棄されました。

27日午前4時45分。
五島列島にいた哨戒船から、待ちに待った一文が・・・!!

”敵艦見ゆ”・・・北に向かう石炭をすべて海に捨て・・・
身軽となって鎮海湾を出ます!!

三笠に乗る東郷は・・・敵艦隊をついに捕えました。
日本海海戦の始まりです。
直前まで訓練を積んでいた連合艦隊の砲弾は・・・敵艦に次々と命中・・・
通信システムを駆使し、ロシアを圧倒しました。

バルチック艦隊戦艦8隻のうち、6隻を撃沈!!2隻を捕獲し、1隻もウラジオストクに向かわせんでした。
東郷によって殲滅がなされたのです。
我慢の東郷の勝利でした。

既に国力の限界を超えていた日本は、アメリカに講和の斡旋を願います。
ロシアはこれに応じ、日露戦争は幕を閉じたのでした。

日本の命運を決めたのは・・・東郷のたった1日だったのです。

作戦に置いて・・・すべてに取り掛かれるようにしていたと思われます。
しかし、みんなを納得させるために1日待った・・・これが東郷の勝因だったのです。

東郷はこれを”奇跡”と語っています。

その後の日本にもたらしたものは・・・
メディアは勝利を神話に引き上げていきます。
英雄談に、民衆は熱狂していきます。

勝った戦いは反省しない。。。
脈々と日本海軍の伝統として残っていきます。

第1次世界大戦後のワシントン軍縮会議で・・・
日本は戦艦西欧の6割という条約に甘んじます。
これに不満を募らせた海軍は、大鑑巨砲主義を掲げ、やがて機運を高めていきます。
昭和10年・・・日露戦争30周年に当たり、多くの戦記本が出版され、神話に拍車がかかっていきます。

昭和11年以降・・・急速に国内も軍部も臨戦態勢に入っていきます。
昭和12年世界最大の戦艦大和寄港。
日露戦争の勝利をきっかけに、大国と肩を並べた日本は、リアリズムを失い・・・太平洋戦争への道を突き進んでいくのでした。

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秘密の国・薩摩です。

鹿児島が生んだ英雄・西郷隆盛・・・
薩長同盟や江戸城無血開城・・・維新の功労者となった鹿児島最大のヒーローです。

幕末最大のヒーロー・西郷隆盛は、下級武士の長男として鹿児島城下・下加治屋町に生まれました。
kago1.png
侍の身分としては、御小姓与。藩の政治にかかわるどころかお城に入れるギリギリでした。
西郷の石高は、わずか41石。年収200万だったと言われています。
しかし、家族は10人だったとか。
客間を除いて1LDK。畳もそろわない板の間の家に10人も住んでいたのです。
そして、この下加治屋町には、大久保利通・大山巌・東郷平八郎・山本権兵衛・・・日本を牽引するそうそうたるメンバーが住んでいました。

ここで行われていた教育は・・・郷中教育。
郷中とは、城下で暮らす武士の子を区分分けしグループ化した組織。
稚児・6~14歳、二才・15~24歳、長老・25歳以上とし、子弟たちは、朝から晩まで薩摩精神を語ります。
教え教えられ・・・英雄が英雄を生む・・・そんなシステムでした。

その教育の筆頭は・・・負けるな!!
その始まりは、関ヶ原での敗北にあるようです。
毎年10月には妙円寺参りが行われています。
関ヶ原の合戦の苦難を偲び、城下から20km離れた徳重神社への詣でをしています。

イギリスのボーイスカウト・・・その原型は郷中教育と言われています。
薩英同盟が結ばれ・・・明治維新に・・・薩摩とイギリスが仲良くなり・・・そんな中、薩摩の教育がイギリスへ渡ったものだというのです。
リーダーが後輩のメンバーを見る。。。それは、グローバルスタンダードとして世界で英雄をつくっています。


幕末の名君・島津斉彬。
薩摩藩という一国の領主でありながら、世界情勢に精通し、世界に負けない国へと導いた名君と言われています。
薩摩藩の近代化を進めます。日本初の近代工場・集成館事業に携わり、日本初の写真撮影、日本初の洋式軍艦製造、日の丸を船尾につけたのも斉彬。
日本の近代化をはじめ、富国強兵・殖産興業を推し進めました。
さらに。。。西郷を取り立てたのも斉彬。
斉彬こそ、新しい日本を造った負けない名君なのです。

この斉彬。自らが釣ったサバにあたって当日に亡くなったと言われています。
その5年後、薩摩藩に最大の危機が・・・
1863年イギリス艦隊7隻が襲来。
生麦事件をきっかけのことです。

この戦いは、スイカで始まり蜜柑で終わったと言われています。
その薩摩の仰天作戦は???
西瓜売り決死隊。
その任務は、西瓜売りに扮した薩摩藩士80名がイギリス艦隊に乗り込んでそのまま奪おうというものでした。
しかし・・・作戦は中止。
その2日後に薩英戦争が始まります。

鹿児島城下が火の海に・・・それを救ったのは、斉彬の富国強兵でした。
負けない国づくり・・・
大砲でイギリス艦隊を砲撃・・・撤退させることに成功します。
この和解交渉が行われ・・・イギリスに温州ミカンを送ったと言われています。
ちなみにこの温州ミカン、イギリスではSatsuma Mandarinと呼ばれ、今でも愛されています。
そして・・・負けない国づくりはイギリスをも味方にし、ついに悲願の打倒徳川、明治維新へ。。。

kago.png

鹿児島のシンボル桜島。
桜島は、鹿児島と呼ばれていたことがありました。
南方の人が、籠のような船に乗ってきたから籠島。ということです。
しかし、火山が噴火するさまが桜の花びらが散ることに似ているから桜島と呼ばれるようになったとか。

関ヶ原の合戦でやぶれた島津義弘が、徳川家康に恭順の意を示すために謹慎していたのが桜島。
荒れた火山島での生活・・・ではなく、天然温泉と海の幸、山の幸の悠々自適の謹慎生活だったようです。

この桜島は宝の島。
火山灰が島に恵をもたらします。桜島大根と桜島小蜜柑。
桜島小蜜柑は、17代当主島津義弘が戦国時代に朝鮮半島から持ち帰ったと言われています。

薩摩切子。
天璋院篤姫に嫁入り道具に持たせたのが薩摩切子。
西洋からガラスの技術が入って間もないころ、この嫁入り道具は、藩の技術力を誇示すためのものでもありました。

島津斉彬が集成館事業を始め・・・近代化を進める一方で、薩摩の特産品を造ることにも貢献します。
しかし、斉彬が急死し、薩英戦争となり・・・薩摩切子は消滅。
いつしか幻の切子細工と言われるようになりました。

資料にも乏しく、復元は難しいとされてきましたが・・・
復元に成功しました。
透明のガラスの上に色つきガラスをかぶせた二重構造に、繊細なカット技術を使ってグラデーションを出す・・・江戸切子などにはないぼかしを世界初・・・開発しました。
製造期間はわずか20数年・・・現存するのは百数十種点・・・だからこその幻の切子なのです。

そして、最も特徴的なのが、薩摩の紅ガラス。
当時は日本にはまだ赤を発色させる技術はなかったのです。
斉彬公の自慢の紅ガラスでした。

様々な苦難をばねに、薩摩の人たちの心に刻まれていった“負けない精神”。
今も愛する伝統や文化にもしっかりと受け継がれた城下町でした。


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