日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:松下村塾

1909年10月26日、日本の初代内閣総理大臣・伊藤博文が、視察に訪れていた満州のハルビン駅で、韓国の独立運動家によって射殺されました。
東京・日比谷公園で行われた国葬には、40万人が参列し、激動の時代をリードした稀代の政治家の死を悼んだのです。

「私の一生で、一番ありがたく思うのは言うまでもなく天皇陛下だが
 その次はおかかである」

おかかとは・・・伊藤の妻・梅子の事です。
つまり、日本初の内閣総理大臣婦人・・・最初のファーストレディです。
明治という新たな時代で、日本の近代化を推し進めた伊藤博文が有難く思った妻・梅子とはどんな女性だったのでしょうか?

本州と九州を隔てる関門海峡に面した山口県下関市・・・
その中心街に鎮座する9世紀創建の亀山八幡宮は、天下人豊臣秀吉が、朝鮮出兵の戦勝祈願をしたことで知られています。
そして、その境内には、かつてお亀茶屋と呼ばれる茶屋がありました。
ここで、伊藤博文と梅子が劇的な出会いをします。

1865年、亀山八幡宮のお亀茶屋に、うら若き18歳の梅子の姿がありました。
貧しい町人の娘だった梅子は、家計を助けるためにお茶子として働いていたのです。
そんなある日のこと・・・一人の青年が息を切らして駆け込んできました。
追われていたのです。
梅子がとっさに指さしたのは、ゴミ溜め・・・男はためらうことなく、そのゴミ溜めに隠れました。
すると・・・

「男が来なかったか??」
「あっちに走っていきましたよ」

「もう大丈夫ですよ」
「助かった・・・恩に着る・・・」

そう言って男は、長州藩の伊藤春輔と名乗りました。
後の伊藤博文です。
どうして伊藤は命を狙われていたのでしょうか?
伊藤博文は、1841年、周防国・束荷村で生まれました。
生家は貧しい農家でしたが、14歳の時に父が長州藩に仕える足軽の身内になった事で、伊藤も足軽として召し抱えられました。
17歳で、吉田松陰の松下村塾に入門すると、過激な攘夷運動に身を投じていきます。
敵を知るために、23歳の時、盟友の井上聞多・・・後の井上馨らと共に、密航という形でイギリスへ留学。
しかし、ロンドンについた伊藤たちが目にしたのは、想像をはるかに超えた近代国家の姿でした。

「これでは勝ち目がない・・・」と悟った伊藤は、開国派に転じ、英語や西洋文化を懸命に学びます。
そして、帰国すると藩にも開国を勧め、馬関戦争ののちには、イギリスで身に着けた英語を駆使して講和会議の通訳を務めます。
さらに、松下村塾の先輩・高杉晋作らと共に、下関の開港を画策・・・これが、伊藤が命を狙われる原因になったのでは・・・??といわれています。

長州藩は、本藩と呼ばれる萩藩と、支藩と呼ばれる長府藩がありました。
その中で、下関の大部分が長府藩でした。
長府藩としては、本藩の高杉や伊藤が下関を開港しようとしたことに、怒ったのです。
すでに、四国に逃げていた高杉同様、伊藤も対馬に渡ろうとしていたのですが、長府藩士に見つかってしまい、逃げていたのです。
そんなこととはつゆ知らず伊藤を助けた梅子でしたが、事情を知った後も伊藤の身を案じ、隠れ家として知り合いの土蔵を紹介・・・
時折食事を届けるなど、何かと気にかけたといいます。

2人は、お互いに惹かれあうようになります。
しかし、時は、激動の幕末・・・!!
1865年7月、英語が話せる伊藤らを長崎に行かせ、イギリス人貿易商のグラバーから武器を買い付けることにしました。
それによって離れ離れになってしまいました。
8月下旬・・・伊藤が下関に戻ってくると、梅子の姿が茶屋から消えていたのです。
梅子は、下関の置屋ににいました。
父親の借金のかたとして身売りされ、小梅という名前で芸者見習いをしていたのです。
思いがけない事態に、伊藤は肩を落としました。
会って話がしたいと置屋に行っても、見習い中の梅子は稽古に忙しくそれすらなかなかかないません。
思い悩んだ末、伊藤は梅子を見受けすることを決意します。
お金を工面し、置屋の主人に伝えたところ・・・

「梅子を伊藤様の本妻にしていただけるのならば、嫁入り支度もして差し上げましょう
 しかし、側妻ということであれば、せっかくですがお断りさせていただきます」

すると伊藤は、答えに窮してしまいました。
伊藤博文には、すでに奥さんがいました。
結婚していたのです。
松下村塾の先輩で、入江九一の妹のすみと、1863年に結婚していました。
すみは、伊藤の両親が伊藤の了承を得ずに迎えた妻でした。
当時、伊藤は江戸やイギリスなどに行っていて、実家に帰れず、すみとはほとんど顔も合わせていなかったのです。
伊藤の母・琴子は、すみを大変かわいがっていました。
母の期待を裏切るわけにはいかなかったのです。

とはいえ、梅子に対する思いは断ち切れず、すみとの離婚を決意します。
長州藩の実力者であった木戸孝允に、母親の説得を頼み、梅子を見受けします。
そして梅子は、伊藤とすみの離婚がまとまるまでの間、商家に預けられましたが・・・
そこで、伊藤からお願いされます。

「文が出せんから、字を覚えてくれよ」

貧しい家で育った梅子は、幼いころに手習いをさせてもらえず、読み書きがほとんどできませんでした。
藩の仕事で各地を飛び回る伊藤は、その先々から梅子と文のやり取りをするため、読み書きの勉強をさせたのです。
最初、伊藤は、仮名文字を使っていましたが・・・だんだん漢字で書くようになります。
猛勉強によって、難しい漢字も読み書きできるようになっていきます。
後に梅子は伊藤の代筆までできるようになりました。

1866年4月に結婚。
梅子は晴れて伊藤の妻となりました。
そして、下関で二人の新婚生活が始まりました。
英語の話せる伊藤は、長州藩の仕事で大忙し・・・
結婚した年の7月には、長崎でイギリス人貿易商のグラバーから蒸気船を購入。
さらに、翌月には別の蒸気船購入のために上海に渡ってしまいます。
この時、梅子19歳・・・
一人寂しく留守を守っていたわけではありません。
伊藤の知り合いの長州藩士たちが、宿屋代わりとしてひっきりなしに泊りに来ていました。
新婚の梅子にとっては知らない人ばかり・・・
しかし、宿の女将のように藩士たちをもてなしました。

梅子は「不逞の輩が家に来ても、自分が追い払う」といつも伊藤に言っていました。

結婚した年の12月、長女・貞子を出産・・・
しかし、伊藤はなかなか家に帰ってきませんでした。
新たな日本を作るため、江戸幕府を倒すために、各地を飛び回って暗躍していました。
伊藤は、京都の偵察に向かう際、白い粉を包み「これを着物の襟に縫い込んでくれ」と梅子に頼みました。
白い粉は、致死量のモルヒネでした。
当時の京都は、新選組が長州藩などの志士たちを血眼になって探していたため、捕まった時にこれを飲んで自決する覚悟だったのです。
梅子は、そんな伊藤の覚悟を黙って受け入れ、白い粉の包みを襟に縫い込んだといいます。
命を懸けて日本を変えようとしている夫を、私が支えるのだ・・・!!

1867年10月14日、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還し、250年続いた江戸時代が終焉・・・
それと共に、伊藤梅子の人生も大きく変わりだしました。
大政奉還の翌年、住み慣れた下関から神戸に・・・。
博文と名を改めた夫が、廃藩置県まえに県となった初代兵庫県知事に任命されたためでした。
明治時代の神戸は、外国人の来る大切な土地でした。
それに相応しい人物・・・英語のしゃべれる伊藤の大抜擢でした。
しかも、当時の県知事は5万石以下の大名と同格の扱いで、農民出身の伊藤にとっては大出世でした。
支えてきた梅子の苦労も報われました。
まもなく次女・生子も誕生・・・順風満帆でした。

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翌年の1869年8月・・・長女・貞子が病死・・・

しかし、深い悲しみに暮れる梅子の側に夫の姿はありませんでした。
この時、新政府の大蔵少輔に昇進して東京にいたのです。
多忙のため、訃報を聞いてもすぐに神戸には戻ることができませんでした。
その後、梅子は生子を連れて東京に移り、伊藤と共に暮らしていましたが・・・
今度は伊藤が、欧米使節団に選ばれて、日本を離れてしまいました。
また留守番・・・
しかし、梅子には大仕事が残っていました。
一人故郷の山口に戻り、伊藤の盟友である井上馨の兄の長男・勇吉(2歳)を伊藤家に引き取ったのです。
親代わりとなっていた勇吉の祖母が無くなる間際に梅子に勇吉を託したためでした。

周囲の人々も、梅子の器量を認めていたのです。
海の向こうで勇吉を受け取ることを知った伊藤は、梅子に手紙を送っています。

「そなたの子としてお生同様に何も隔てなく育ててください」

その言葉通り、梅子に大切に育てられた勇吉は、後に博邦と改名し、伊藤の立派な後継者となりました。
1年9か月に及ぶ視察を終えて、日本に帰国した伊藤は、貨幣制度の導入、鉄道の建設・・・日本の近代化を推し進める政策を次々と実施します。
それらの功績が評価され、1878年、内務卿に就任します。
政治のTOPに立った伊藤が、外務卿の井上馨と共に力を注いだのが欧化政策でした。
開国の際に、欧米諸国と結んだ不平等条約・・・改正するためには、日本が西洋に負けない文明国になる必要があると考えたのです。
その欧化政策の象徴と言われたのが、1883年、日比谷に建てられた鹿鳴館です。
ここに、欧米の要人たちを招き、華やかな舞踏会を開催して日本の近代化をアピールしようとしたのです。
要人たちをもてなすのは、政府高官の妻や娘たちの仕事でした。
梅子もその一人でしたが・・・当時は、慣れない西洋文化に戸惑うばかり・・・。
梅子たちは、西洋人たちの嘲笑の的になってしまいます。
笑い者にはなりたくないと、誰もが舞踏会への参加をしり込みする中、一人気を吐いたのが梅子でした。
梅子は、英語の猛勉強を開始しました。
目が悪くなりながらも、英語で手紙が書けるまでになります。
そして、もうひとつ梅子が取り組んだのが社交ダンスです。
婦人たちを説得して、70人も引っ張り出し、大苦戦しながらも夫たちのため、日本のために練習に励みました。
梅子は子供たちに常々こう言っていました。

「人間、これが大事と思うう時には、真剣にやらなければなりません」

何事にも真剣に取り組み、社交界の華として鹿鳴館外交の一端を担った梅子に思いがけない依頼が舞い込みます。
当時、宮中で働く女官たちはまだ和装のままでした。
洋装を取り入れることになると、その制作を貴族出身でもない梅子が任命されます。
鹿鳴館で海外の貴賓を見てきたことからの抜擢でした。
梅子は、試行錯誤を繰り返し、女官たちの服を作り上げるのです。
日本政府の欧化政策には、梅子をはじめとした女性たちの奮闘が欠かせませんでした。

1885年12月、欧米諸国に習い、日本に内閣制度が発足。
初代内閣総理大臣に任命されたのが、梅子の夫・伊藤博文でした。
これによって、梅子は日本初のファーストレディに・・・
国家の顔・・・梅子は常に身だしなみを整え、首相官邸にやってくる欧米諸国の要人たちと流暢な英語で会話をし、日本人らしい心配りで人々を感心させたといいます。
こうした内助の功から、梅子は”賢夫人”と呼ばれるようになりました。

この頃、梅子の英語の家庭教師をしていたのが後に津田塾大学を創設する津田梅子・・・
津田は、アメリカの友人に向けた手紙の中で、母としての伊藤梅子をほめています。

「伊藤夫人は、子供に対してとても良い母親で、子供たち母親の言うことをよく聞き素直です」

ところが・・・
津田梅子の手紙にはこんな続きがあります。

「父の過ちや不道徳があっても問題ありません」と。

梅子の夫・伊藤博文には、過ちや不道徳があったというのですが・・・??
伊藤は、衣食住には興味がなく、金銭にも無頓着で、好きなものといえば、酒とたばこ・・・
そして、何よりご執心だったのが、女性でした。
特に芸者が大好きで、行く先々で手を出して、全く隠そうとはしませんでした。
芸者と芝居小屋に行った際には、芝居そっちのけでいちゃついていたため、役者から怒鳴りつけられたこともあったとか・・・。
新聞にも格好の餌食にされ、”明治好色一代男”といわれ、掃いて捨てるほど浮気相手がいたため箒というあだ名までつけられました。
遂には、見かねた明治天皇から・・・
「少しつつしんだらどうか」と苦言を呈される始末・・・
しかし、伊藤は開き直ってこう言ったといいます。

「とやかく申す連中の中には、密かに囲い者などを置いている者もいますが、私は公に許された芸者と遊んでいるだけです」

公然と芸者遊びをする伊藤は、浮気相手を自宅にまで呼んでいたようです。
しかし、梅子はそんな夫に腹を立てることなく、芸者に対し、「ようこそいらっしゃいました」と笑顔で出迎え、芸者の食事や着替えまで用意してやり、時には悩みまで聞いてやり、母親が病気だと聞くと伊藤に早く返してあげるように頼んだといいます。

しかし、伊藤は優しく、自分にとっての一番の女性は梅子以外の何物でもないと細やかでした。
夫の浮気に対して寛容だった梅子でしたが、すべてを許したわけではありませんでした。
それは伊藤が住み込みで働いていた若い女中に子供を産ませた時の事・・・

「あの子の人生を台無しにするおつもりですか!?」

女遊びにも、最低限のルールがあると、烈火のごとく怒りました。
梅子は伊藤が女中に産ませた子供を引き取って、自分の子供と一緒に育てました。
伊藤としては頭の上がらない大きな女性でした。

夫を寛容な心で許し、何があっても支え続けてきた梅子には、意外な趣味がありました。
花札です。
夫の伊藤は、かけ事を好まなかったので、花札が大嫌い・・・
そこで、梅子は、伊藤が寝た後、近所に住んでいた西園寺公望や井上毅などを家に呼んでは花札に興じていたといいます。
時には、目を覚ました伊藤に見つかってしまい、怒られることもあったようです。
それでも梅子は、終生、花札をやめませんでした。
梅子なりのストレス解消法だったのかもしれません。

伊藤梅子と夫・博文の間に生まれた子供は、3人だったと言われていますが、成人したのは生子一人でした。
しかし、用事の博邦や、伊藤が他の女性に産ませた子供も引き取って育てていたため、40代の梅子は多くの子供や孫たちに囲まれて育ちました。
そんな中、1894年日清戦争勃発!!
1万3000人以上の犠牲を出しながらも、清国に勝利した日本は、台湾と遼東半島を手に入れます。
国民は大いに歓喜し、二度目の総理大臣を務めていた伊藤の人気も高まります。
しかし・・・その翌年、日本のやり方を快く思わないロシア・ドイツ・フランスが遼東半島の返還を要求します。
伊藤はこれを承諾し、遼東半島を返還しましたが、日清戦争の勝利に酔いしれていた国民は、これを弱腰外交とし、伊藤を裏切り者とする者まで現れました。
伊藤が三国干渉を受け入れたのは、これを拒否すれば西洋列強の三国と戦争になると判断してのことでしたが・・・
苦渋の決断をしたその思いを、伊藤は梅子に手紙で打ち明けています。

「再び戦を始めて、数万の人を殺すよりも、土地を返還した方がよい
 わからず屋が喧しく騒ぐだろうが、儂は日本のためにこうしたのだ」

伊藤の心のよりどころとなっていた梅子・・・伊藤もまたそんな梅子を気遣い、普段は金品の贈答を嫌って何を送られても受け取ろうとしませんでしたが、梅子が盆栽いじりを趣味にするようになると、「妻が喜ぶから・・・」と、盆栽だけは受け取ったといいます。

その後、伊藤は・・・
1898年第3次伊藤内閣発足
1900年第4次伊藤内閣発足
1905年12月、韓国統監府の初代統監に就任します。
当時、日本は韓国を実質的な支配下に置いていて、韓国統監府はその統治機関として漢城にありました。
当然現地の反日感情は強く、伊藤は死を覚悟して韓国渡り、教育の振興や宮中の改革など統治政策に尽力していきます。
これまで明治政府の樹立、大日本帝国憲法の制定、内閣制度の確立、初代韓国統監に就任・・・
日本という国を背負い大役を果たしてきた伊藤・・・その激動の時を、陰に日向に共に生きてきた梅子でしたが、すでに還暦を過ぎていました。

韓国統監を退いても、海を渡る伊藤を見送らなければなりませんでした。
1909年10月26日、伊藤は満州のハルビンに到着します。
ここで、ロシアの大蔵大臣と会談し、満州や韓国についての日本の方針を説明する予定でした。
しかし、伊藤がハルビン駅のホームで出迎えを受けていると・・・
3発の銃弾が伊藤を襲ったのです。
撃ったのは、日本の韓国支配に反対する韓国人独立運動家・・・
伊藤は撃たれた後も、意識はありましたが手当の甲斐なく死亡・・・69歳でした。

梅子のもとに、夫の死を知らせる電報が届いたのは、それから間もなくのことでした。
一瞬狼狽したものの、梅子の目から涙がこぼれることはありませんでした。
どうして・・・??
伊藤はかねてから梅子に言っていました。

「自分は畳の上では
 満足な死に方はできぬ
 敷居を跨いだ時から、これが永遠の別れになると思ってくれ」

2人が出会った時も、伊藤は命を狙われていました。
それからも、常に危険と隣り合わせ・・・
夫が家を出るたびに、これが今生の別れになるかもしれないと言い聞かせてきました。
その覚悟があったからこそ、夫との突然の別れに涙を流さなかったのです。
しかし、梅子は伊藤が無くなったその日、こんな歌を詠んでいます。

国のため
 光をそえて
  行きましし
君とし思へど
 悲しかりけり

梅子は心の中で泣いていたのです。
その後、梅子は伊藤と離れていた滄浪閣を離れ、娘である生子の嫁ぎ先に移り住み、1924年4月12日、多くの家族に見守られながら77歳で亡くなりました。
激動の時代を駆け抜け、近代日本を作った伊藤博文を支えてきた日本初のファーストレディ・伊藤梅子・・・

「私の一生で、一番ありがたく思うのは言うまでもなく天皇陛下だが
 その次はおかかである」

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幕末、長州藩を率いて幕府と戦った高杉晋作の歌です。
理想に燃え、仲間の死に涙し、そして無鉄砲とも思える勇気で時代を動かした男です。
明治維新の先駆けとして活躍した長州の風雲児・高杉晋作。
晋作の代名詞と言えば奇兵隊・・・
身分の枠を超えて兵を募集した画期的な部隊です。
最新兵器で武装し、変幻自在に戦いを仕掛ける奇兵隊・・・晋作は戦の天才と言われました。
しかし、戦場から戻れば和歌を嗜み、三味線にも興じました。
誰もが晋作に憧れたといいます。
一見、誰にも縛られない粋な風流人・・・
ところが、事実は全く逆でした。
武士の家に育った晋作には、常に家名を汚すなというプレッシャーが襲いました。
人生を教えてくれた恩師との早過ぎる別れ。
夢を抱いて習った西洋航海術も、モノになりません・・・!!
教師に意見が通らず、酒に溺れ、頭を丸めることも・・・。

しかし、時代は晋作を求めていました。
長州藩取り潰しを狙う幕府に対し、仲間に決起を訴えかけます。
最初はたった80人でした。
晋作がつけた小さな炎は、やがて長州藩全体を燃え上がらせ、大きなうねりとなって日本中に広まっていきます。
しかし、そのさ中・・・晋作を待ち受けていたのは不治の病でした。

1862年、江戸時代の末、限られた人しか外国に行けなかった時代・・・
高杉晋作は、船の上から上海の街並みを見ていました。
幕府が作ったおよそ40人の視察団に、長州代表として参加したのです。
晋作は、かねてから外国に行くことを望んでいました。
どうして海外を目指したのでしょうか?

日本海を望む山口県萩・・・
1839年、この城下町に高杉晋作は生まれました。
高杉家は戦国時代から藩主毛利家に仕える名家です。
晋作の父・小忠太も、藩主の傍で要職を務めていました。
晋作は、高杉家の跡取りになるために厳しく育てられました。
特に、父の言うことには絶対に逆らえませんでした。
しかし、外では負けん気の強い性格が抑えられず・・・

15歳の時、晋作は、父と共に江戸に向かいました。
そこで目にしたのは、巨大な黒船・・・!!
1854年、15歳の時ペリーが来航。
ペリーは軍事力を背景に、日本に開国を迫ります。
大混乱の江戸の町・・・晋作は、激動の時代の始まりを肌で感じていました。
西洋列強が日本に迫ってきているのが、黒船を見ることによってリアルに感じられました。
これからの日本という国の形が変わっていく・・・彼の中で大きなテーマとなります。
この時、高杉晋作と同じ長州藩の中に、黒船に密航しようとした者がいました。
吉田松陰です。
晋作より9歳年上の兵学者で、若い頃から藩主にその才能を称えられていました。

1857年、18歳の時に萩に帰って吉田松陰の松下村塾に通い始めます。
松下村塾には、幼馴染の久坂玄瑞、後の総理大臣の伊藤博文も参加していました。
塾には自由な空気が流れ、時間の制約もなく、身分の制約もない・・・
熱い議論を交わしたといいます。
世界の情勢についても学びます。
そんな中、松陰の唱えたのは攘夷論でした。
松陰は、日本は西洋列強に学び力をつけ、その力で西洋を打ち払う攘夷を行うべきだと主張しました。
しかし、松陰の訴えと過激な行動は、一般の人たちには危険な行為としか思えませんでした。
そのため、晋作の家族は松下村塾に行くことを禁じます。
しかし、晋作は深夜にこっそりと松下村塾に通ったといいます。
国防論についても尊王論についても現実的で、そんな話が晋作は心底好きだったのでしょう。
日本の国を何とかしなければ・・・という積極的な燃えている炎があったので、松陰に引き付けられたのでしょう。

1858年、19歳の時に江戸に再遊学
この頃、藩の上層部に海外留学の希望をかなえてほしいと強く願い出ています。

”お願いしておりました私の洋学修行の件、どうなりましたでしょうか
 一刻も早く取りかからないと、手遅れになります”

ところが、この海外渡航の夢にも暗雲が立ち込めます。
晋作が江戸に来た年、幕府による危険分子の弾圧・・・安政の大獄が始まりました。
そして、晋作の師、吉田松陰も江戸の牢に投獄されてしまいます。

晋作は、牢に入った松陰のため、文具や書物を工面するなど奔走します。
この頃、晋作が感銘を受けた松陰の言葉があります。

”死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし”

そして松陰は・・・過激な思想の持ち主として処刑されました。

”松陰先生の仇は必ず取る
 しかし、主君も父もいて、わが身はわが身のようでわが身ではない”

それからおよそ5か月・・・20歳になった晋作に、海外渡航のチャンスが巡ってきました。
幕府の軍艦教練所で航海術を学び、様式軍艦の訓練をせよと命が下ったのです。

”男子としてこの宇宙に生れたのだ
 筆や硯の家来などになっていられない”

しかし、毎日書き続けていた日記がある日から書かれていません。
航海術の勉強を放棄したのです。
理系の航海術が得意ではなかったようです。
航海術は挫折したものの、藩主の跡継ぎの側近となります。
そして今度こそ、海外へ行くチャンスが・・・
1862年、22歳で海外視察団の一員となります。
行先は、清国の上海・・・晋作22歳、遂に海外に飛び出す時が来ました。
病に倒れる4年前のことです。

幕末・・・身分制度に縛られた世の中に、新風を吹き込んだ人がいました。
武士から商人、浪人に至るまで身分を問わず志ある者で編成された革新的な集団・・・その名も奇兵隊です。
創設者は、高杉晋作です。
晋作はどうして奇兵隊を作ったのでしょうか?

1860年、20歳・・・上海に渡航する2年前・・・晋作は結婚しました。
相手は城下一の美人と言われた4歳下のマサでした。
晋作はマサと仲睦まじく、上海から手紙を送っています。

”無事にお暮らしとのことめでたく思っています
 長崎でめずらしい高価な反物を買って送りました
 しかし、どうかこの反物で作った着物や帯で人の多いところ、お祭りなどへ出かけないでください
 あなたが武家の立派な妻の手本となれば、私も安心です
 稽古事や和歌の勉強をしながら、家のことをお願いします”

1862年5月、上海に到着
しかし、目の当たりにしたのは、かつての大国・清の惨状でした。
イギリスにアヘン戦争で敗れた清は、外国人が所有する居留地を各地に置かれ、貿易の主導権を握られていました。

”清の人たちは、イギリス人が街を歩けばみな避けて道をゆずっている
 その上、ことごとく外国人にこきつかわれている
 実に上海の地は清に属してはいても、イギリス、フランスの属地といえるくらいのありさまだ”

更に晋作が驚いたのは、イギリス軍の設置した砲弾・・・最新鋭の兵器・アームストロング砲です。
日本にある大砲とはけた違いの威力・・・西洋列強に武力で対抗するには軍備が欠かせない・・・!!
帰国した晋作は、長崎のオランダ商館へ。
最新鋭の武器を買うためです。
現在の価値で10億円の軍艦の契約を、藩に無断で契約!!
しかし、藩の了承を得ることができず、軍艦が買えませんでした。

”国の情勢が切迫している・・・!!”

もはや一刻の猶予もならない・・・!!
晋作は、自らの手で外国人を攻撃し、攘夷を決行しようと考えます。
向かったのは江戸・・・!!
1862年12月、23歳の時・・・
久坂玄瑞や伊藤博文ら松下村塾の仲間たちと共に、品川のイギリス公使館を焼き打ちしました。
極秘に進められたこの計画は、犯人が晋作たちだと判明するのは、明治時代になってからです。

晋作は、長州藩に攘夷のための軍備を主張し続けましたが、なかなか理解が得られません。
自暴自棄になる晋作・・・。
23歳の時、藩の要職を辞して休職・・・さらに、晋作は武士の命である髷を落とし、頭を丸めてしまいました。
酒を飲んではどんちゃん騒ぎの毎日・・・その胸には、むなしさと焦りが渦巻いていました。

”空しく月日を送り 愚か狂か 智か節義か
 なんだか訳も分からぬ人物にあいなり”

そんな中、ある事件から晋作の主張が認められるようになります。
1863年、23歳の時・・・下関事件です。
長州藩は下関を通る外国船を砲撃しました。
長州藩としては、外国船を打ち払い、攘夷を実行したのですが・・・
しかし、すぐに外国船から砲撃を受け、蹴散らされてしまいます。
初めて列強の武力に直面した長州藩・・・軍備の重要性を思い知った上層部が、晋作に意見を求めてきました。
この時、晋作は新しい部隊の新設を進言します。

”有志の士を募り、一隊を創立 名付けて奇兵隊と云わん”

奇襲をかけるなど敵の不意を打つための部隊という意味です。
武士だけで戦うには限界がある・・・戦いに長けたものを広く集め、武士ともども戦闘部隊にしようという考えでした。
志があればだれでも入隊ができる・・・
中での扱いも身分の上下はない、実力で決めていく・・・!!
後に庶民も入ってきて、それを軍事力として利用していきます。
封建社会を壊す一つのステップになりました。

1864年、25歳の時に四国(イギリス・フランス・アメリカ・オランダ)連合艦隊が下関に来襲。
前年に行った長州藩の攻撃に対し、更なる報復に出てきたのです。
この時、晋作の奇兵隊も初陣を飾ります。
しかし、圧倒的な戦力の四国連合艦隊にあえなく惨敗・・・
そればかりか、沿岸の砲台まで占拠されてしまいました。

追いつめられた長州藩は、戦いを諦め停戦交渉を行うことに・・・。
圧倒的に不利な仲での和平交渉に誰もがしり込みします。
結局、頼りにしたのが晋作でした。
藩の全権を任された晋作は、船に乗り込みます。
その姿は、家紋が入った直垂、黒の烏帽子・・・家老の正装でした。
居並ぶ提督たちに格で負けないように家老の息子だと偽っての交渉でした。
列強の代表は、安全な航行のための砲台撤去や、補給のための下関港への立ち寄りなどを求めます。
その上、300万ドルという巨額の賠償金を求めてきました。
これは、長州藩の年間予算の10倍でした。

こんな大金を払えば、藩の財政は壊滅・・・強硬な姿勢を崩さない外国人を前に晋作は言い放ちます。

”長州には、主君の為に命を捨てることなどなんとも思わないものが大勢いる
 もし、戦争を続けるというのならば、最後の一人になるまで戦うつもりだ”

この晋作の気迫の前に、賠償金は一銭も払われませんでした。
藩の存亡をかけた停戦交渉に成功した晋作、この時25歳。
病に倒れる1年前のことでした。

1864年12月、長州藩が幕府の圧力に屈しようとしている中、晋作は反乱を起こします。
晋作の呼びかけに応じたのは、最初はわずか80人ほど・・・長州藩は2000もの兵を動かし反乱を押さえようとするものの、戦いが進むにつれて晋作に共感するものが増え・・・800人にまで膨れ上がりました。

1864年7月、長州藩は、兵を率いて京に上りました。
御所で天皇に嘆願し、長州の地位回復を狙ったのです。
そこで、御所を警備する有力藩と激突・・・禁門の変です。
この戦闘で、長州藩は敗北し、晋作の仲間も命を落とします。
その中には松下村塾で共に学んだ久坂玄瑞もいました。

”後れても後れてもまた
 君たちに誓いし言を
 吾忘れめや”

この事件をきっかけに、幕府は長州征討を決定!!
15万を超える兵を動員します。
この動きに対し、長州藩は真っ二つに割れます。
幕府に抵抗し戦いも辞さない抗戦派と、幕府に謝罪して従うべきという恭順派です。
晋作は、抗戦派を支持していました。
しかし、藩の存続を優先するべきという恭順派が主導権を握ることとなります。

長州藩は幕府に従う証として禁門の変に関わった家老3人を切腹させ重臣たちを処刑しました。

”処刑の知らせを聞き 胸中やけるがごとく
 藩が受けた辱めをそそぎたい”

もはや武力決起しかない・・・!!
晋作は、奇兵隊の元へ・・・!!
晋作は隊士たちに恭順派の打倒を訴え決起を促します。
しかし、それに応える者はいませんでした。
この時奇兵隊は、自分たちの地位を保証してもらう代わりに藩の方針に従うという約束を交わしていました。

”この腰抜けどもが!!
 ぼくは毛利家300年の家臣だ
 たとえこの身が打倒されようと忠義を尽くす”

晋作が次に向かったのは、松下村塾の同志・伊藤博文の元でした。
この時伊藤は、下関で力士隊を率いていました。
伊藤は晋作の訴えに共鳴します。
他の部隊からも続々と集まってきました。
晋作は、約80人あまりの同志と共に決起します。

自分が死んでも自分の志を誰かが引き継いでくれるだろう・・・!!

”下関の鬼となり討ち死にする覚悟
 これより長州男児の肝っ玉をお見せする”

晋作は下関の役所を狙い、占拠することに成功。
この騒ぎを聞きつけた商人が資金援助を申し出ます。
次に晋作は、長州藩の海軍局へ・・・そこで軍艦三隻を手にします。
一方奇兵隊にも変化が・・・藩に反旗を翻します。
やがて奇兵隊は、晋作の隊に合流・・・
晋作がつけた決起の炎は、800人にまで燃え広がりました。
1月7日、ついに奇兵隊と藩兵が激突!!
最新式の銃を使いこなす奇兵隊は圧倒的勝利をおさめます。
すると藩の上層部に変化が・・・。
晋作の主張を受け入れなければ内乱はおさまらないと判断し、恭順派が更迭され始めます。

そして決起から40日後・・・藩主は徹底恭順の方針を撤回。
幕府へは恭順の意を示すもののもし攻撃を受ければ最後の一兵まで戦い抜くという武備恭順の方針を固めます。
この決起をきっかけに、晋作は長州藩の指導者の一人になるのです。

晋作が25歳の時に、マサとの間に待望の長男が誕生します。
名は梅之進・・・自分の好きな花の名で、溺愛しました。
しかし、晋作には家族と共に過ごす時間は残されていませんでした。
1865年9月、長州藩が敵対的な態度に変わったことを察知した幕府は、再び長州征討に乗り出します。
長州藩は徹底抗戦の構え・・・幕府との戦いの大義名分を文章にして民衆に示し、士気を高めていきます。
長州藩全体が沸き立つ中、25歳の晋作は、原因不明の病にかかっていました。

”腹痛がひどかったが、少し良くなった
 征長軍との戦いまでは命を保ちたいと鬼神に祈っている”

1866年6月7日、幕府軍は長州藩を取り囲み、四方向から攻めてきました。
長州藩の存亡をかけた戦い・・・幕府軍の兵数は、長州軍のおよそ50倍だったともいわれています。
しかし、晋作は怯むことなく最前線で指揮を執り、敵艦に奇襲をかけています。
小型の船を使った奇襲は大成果を納め、200隻余りを焼き払いました。
これをつぶさに見ていたのが土佐の坂本龍馬です。
龍馬は長州藩に味方し、軍艦を率いて参戦していました。

”晋作は兵士たちを鼓舞し、敵を打ち破り敵陣の陣幕屋旗などを奪っていった”

6月22日・・・激戦のさ中、晋作は突然倒れてしまいます。
不治の病と言われた肺結核でした。
それでも晋作は、病床で作戦会議を行います。
敵を蹴散らし進めと長州男児たちを鼓舞し続けます。
しかし、病は悪化・・・
喀血を繰り返すようになり、8月には戦線離脱、下関にある友人の家で療養することに・・・

晋作が最前線で戦う仲間に送った手紙は・・・

”進撃や勝利に大変喜んでいます
 体調は日々よくなっていますが、戦場に赴くほどではありません
 ご笑殺ください”

この頃、晋作を看病したのは愛人のうのでした。
元々下関の芸者だったうの・・・晋作が口説き落として一緒に暮らすようになったともいわれています。
うのは優しい性格で、正妻のマサといがみ合うこともなく、明治になっても二人の交流は続いたといいます。
そんなうのの看病の会もなく・・・晋作の病状は悪化の一途をたどります。
余命いくばくかの晋作の元へ、萩からマサと梅之進がやってきました。
医者が最後の別れに呼んだのです。
この時晋作はこう言います。

”しっかりやってくれろ・・・しっかりやってくれろ・・・”

そんな晋作の心の支えになったのはアルバムです。
そこには松下村塾からの盟友伊藤博文をはじめ晋作と深くかかわった人たちの写真が・・・
それだけではなく、アメリカ合衆国16代大統領のリンカーン、イギリスのビクトリア女王の写真まであります。

翼あらば
 千里の外も飛めぐり
よろづの国を
   見んとぞおもふ

1867年4月13日、晋作の命の炎が静かに消えました。
27歳でした。
最晩年に詠んだ歌が残っています。

面白き
   こともなき世に
          面白く

晋作がこの世を去ってから半年後・・・日本は明治維新を迎えます。

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赤禰武人・・・長州の奇兵隊第三代総督をつとめた男・・・
「不忠不義の至り」と断罪されて刑死しました。
冤罪だという声もあるにはありましたが・・・長く捨て置かれてきました。

kane
こちらが本人です。

akane


花燃ゆでは、阿部亮平さんが演じてくれています。

こんなに笑っていますが、実は、いわゆる奇兵隊の闇を一人で背負ってくれています。




柱島の島医師・松崎三宅の次男に生まれたといわれています。
15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に学び、月性の紹介で浦靱負の郷校である克己堂で学びます。

1856年、15歳の時に短期間でしたが松下村塾で学びました。
その後、長州藩重臣浦家の家老・赤禰雅平の養子となり、陪審ながら武士の身分を手に入れ・・・梅田雲浜の望南塾に入塾します。

安政の大獄で捕縛されるものの、釈放され帰郷。
その後、吉田松陰らに相談し江戸において雲浜の救出を試みるが失敗、藩から謹慎処分を受けています。
1862年4月に謹慎が解かれると、松下村塾メンバーと共に尊王攘夷活動に・・・。
英国公使館焼き討ち、下関戦争に参加、その後、第三代奇兵隊総督となります。

1864年の第一次長州征伐のあと、藩内の幕府に俗論党(椋梨藤太・恭順派)VS正義派(奇兵隊などの主戦論派)の融和を図ろうとしますが、それが二重スパイの疑いをかけられることとなり、いろいろあって高杉らと対立するのでした。
ようやく奇兵隊を残すこととなったのに、高杉晋作またもやの暴走!!

武人は、同志から俗論派のスパイ、裏切り者と疑われ・・・そのせいで脱藩して大坂に逃走!!
その後も、一人で長州藩を何とかしようと頑張りますが、長州藩士に捕縛されて・・・
山口に送られるも、一度も詮議されることなく・・・
「奇兵隊総督当時に、馬関戦争に於いて敵前逃亡した罪」によって斬首され、首級は、出合河原に晒され・・・むごい最期を遂げるのです。

武人の獄衣の背には・・・

「真は誠に偽りに似 偽りは以って真に似たり」

と書かれてありました。

その死に山縣狂介(有朋)が関わっていたという説もあるのですが・・・この花燃ゆではどう描かれるのでしょうか??
もしかして描かれない???

奇兵隊は、上下の関係のないフラットな集団みたいな感じがします。
が・・・本当はそんなことは全くなく・・・
変な言い方になりますが、武士という”くくり”のない集団。。。
粛清に粛清を重ねた新選組の方が、当時の荒くれ者を管理するのには当たり前な感じがします。

もしかすると、闇の部分はこの赤禰武人が全部持って行ったのかもしれません。。。


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松下村塾メンバーの中で・・・高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿と共に「松下村塾の四天王」といわれる男、入江九一です。


kuiti















要潤さんが演じてくれています。
が・・・この「よ」の写真を出して良かったのか・・・??

だって九一は・・・寡黙で・・・「誠に才知これあり、忠義の志厚く感心のもの」と松陰から高く評価された男だったから。。。こんなおちゃらけていいの・・・??

萩藩の足軽・入江家の長男として萩で生まれた九一は・・・13歳で藩の下役に就きます。
松下村塾に足を突っ込んだのは、21歳の時。。。弟の和作(野村靖)も松陰の門下生でした。

松陰が獄に投じられると、松陰の指示を受けて弟一緒に奔走します。
が、松陰の”老中・間部詮勝暗殺計画”の実行隊として・・・藩に投獄されてしまいました。

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松陰死後も獄にとらわれ続けますが、玄瑞の指導で勉学に励みます。
釈放されたあと・・・玄瑞のもと、村塾メンバーの中心となっていきます。
その後、藩から尊王攘夷の志を賞賛され、士分の待遇へ昇格。姓も許されます。

その年、晋作の「奇兵隊」創設に加わり、参謀となり、その後も国事に奔走し・・・
1864(元治元)年、萩藩の復権を目指した「禁門の変(蛤御門の変)」では上京藩士の幹部として活動、参謀を務めましたが、戦の中で重傷を負い、公家の鷹司邸で自刃。満27歳でした。

kuiti2
志士として・・・その後の活動が期待されていたのに、志半ばで無念の死を遂げた志士のひとりです。

これから中心メンバーとして目立ってくるのかしら??
でないと、玄瑞と一緒に死んじゃうから・・・出番が・・・!!


と、もっと目立ってもいいキャラクターの入江九一なのです。
ドラマでは、まだ・・・いえいえ、全く存在感なしなんですけど・・・。
なので、今後、どんなふうにお話に絡んでくるのか気になりますね。


楽しみにして待ちましょう。

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吉田稔麿・・・普通の人にはあんまり馴染みはないかもしれませんが・・・
新選組好きにはたまらない宿敵です。

tosimaro

この人も、とがったイメージがありますが・・・
「花燃ゆ」ではかわいい瀬戸康史くんが演じてくれています。

個人的には(↓)こちらの狂気な稔麿さんのイメージが強いのですが、ま、こちらはマンガ・アニメですから・・・。


tosimaro2















実際には瀬戸君の方がホントなのかもしれません。

名は栄太郎⇒23歳の時に稔麿と改名しました。
高杉晋作、久坂玄瑞、そして吉田稔麿を称して松陰門下の三秀(入江九一を入れて松下村塾 四天王)と呼ばれています。


吉田稔麿は、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子として生まれました。
安政3年11月、松陰主宰の松下村塾で最初の塾生である増野徳民に連れられ、松下村塾の門を叩き、門下生となります。
なので、松下村塾初期メンバーの一人です。

松陰は・・・特に親愛の情を示した稔麿には「無逸」という字(あざな)を付け、同じく「無」がつく字を付けられた増野徳民、松浦松洞と共に「三無生」とも言われています。
無駄口を利かず、謹直重厚な人物でした。

松陰は稔麿を「足下の質は非常なり」「才気鋭敏にして陰頑なり」「久坂玄瑞の才能は自由自在で妨げるものは何もない。高杉晋作は陽頑、つまり頑固さが表に出るが、稔麿の陰頑というのは、心に秘めた強い意志を持っている。それは人により安易に動かされるものではない」と高く評価したといいます。

ドラマでもそうでしたが・・・松陰に下獄の命が下されると、家族・親族一門を守るために師の元を離れました。松陰が江戸送りになるときも、合わせる顔がないと・・・隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されています。

松陰死後も、暫く志士としての活動を控えていたものの、脱藩、京で行なわれた松陰の慰霊祭にも参加するようになります。

文久3年(1863年)6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。
7月には「屠勇隊」を創設。
8月の朝陽丸事件(幕府の軍艦を襲撃)では始末を任され、烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功します。

彼の名前が轟くのは・・・元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件。
池田屋の会合には稔麿も出席していましたが、一度屯所に戻るために席を外します。
 しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいて・・・吉田は奮闘の末、討ち死にするのでした。

 最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした、とも・・・
池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もあります。
稔麿の最期については諸説ありますが、それだけ魅力的な人物だったのでしょう。

ドラマとしては、今はあんまり出番はないですが・・・また帰ってきますよ。
お楽しみに。。。

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