日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:松平信康

家康長男信康と大久保家の謎 [ 野村武男 ]

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天下を統一して江戸幕府を開き、神君とされた徳川家康。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
その強靭な忍耐力は、家康最大の武器であり、天下人になり得た大きな要因の一つでした。
しかし、そんな家康でさえも耐え難い人生最大の事件がありました。

大事な跡取り息子・信康に切腹を命じた”信康自刃事件”です。
事件は織田信長の圧力に家康が屈した・・・つまり、信長が信康を殺させたのでは・・・??と、考えられてきました。
が・・・??定説を大きく覆す意外な事実がでてきました。

徳川家康と清逸・築山殿との間に生まれた嫡男・信康。
大切な跡取りを切腹させることになってしまった信康自刃事件の顛末は、家康の家臣の書いた「三河物語」に書かれています。
1579年徳川家康は、織田信長と同盟を結んだ証として、徳姫を信康の正室に迎えています。
しかし、1579年、徳姫が父・信長に書状を送っています。
そこには、夫信康と姑に対する不満や恨みが12か条に渡って書かれていました。

信康は無慈悲で非道
築山殿は悪人で私と信康を仲たがいさせようとしている
築山殿が武田勝頼と内通して織田・徳川の滅亡を訴えている

信長は、驚き、激怒!!
天下取りを邁進する信長にとって武田は難敵!!
徳川と手を結ぶようなことがあれば、窮地に陥ることは必至でした。
信長は、家康の側近・酒井忠次を呼び出します。
この時、酒井は、手紙の内容を否定しませんでした。
「即刻信康に切腹を申し付けよ!!」by信長
信長は、築山殿の処罰ではなく、信康の切腹を要求!!
家康は愕然とします。
織田と徳川は、同盟とはいえ、主従関係に近いものでした。
力の差は歴然!!
信長の命は絶対でした。
しかし、家臣たちの多くは、信長との同盟を破棄してでも信康を守るべきだと主張しました。
信康の守役・平岩親吉は、代わりに自らの首を差し出すとまでいいだしました。
苦渋の決断を迫られた家康は・・・
武田と内通していると疑われた築山殿を家臣に殺害させます。
そして、信康に切腹を言い渡したのです。
信康にとっては、まさに青天の霹靂でした。

1579年9月15日、信康切腹!!

この時の介錯人は、家康の側近で、後に伊賀忍者の棟梁となる服部半蔵正成でした。
忠義に篤い半蔵は、信康の首をどうしても落とすことが出来ず、検視役が介錯したといいます。
こうして信康の首は、信長に差し出されたのです。
この時、信康21歳でした。

これが、家康最大の苦渋として三河物語に書かれている信康自刃事件です。

しかし、この事件、謎が多いのです。

武田と徳川の内通??
信長に信康が切腹を要求した??

事件から遡ること20年、徳川家康はまだ松平元康という名で、弱小大名の松平家から強国今川家に差し出された人質として駿府に暮らしていました。
正室は、今川家当主・今川義元の姪・瀬名・・・後の築山殿です。
そんな二人の間に生まれた待望の子が、嫡男・信康でした。
幸せな結婚生活を怒っていた家康たち・・・

1560年桶狭間の戦い!!
織田信長と今川義元が激突し、義元が討死すると、今川軍として参戦していた家康は、人質生活から逃げ出せる絶好の機会とそのまま三河に帰参!!
岡崎城を今川の手から奪還します。
しかし、この時、築山殿と信康は駿府に置き去りのままでした。

「裏切り者の身内として、今川に殺されるかもしれない・・・」by築山殿

そんな瀬名姫の心配を余所に、家康は信長と同盟を結び、今川と断交してしまいます。

「今川の仇である信長と手を結んだ・・・なんということを。。。」by築山殿

そして、いつ殺されるかもわからない状態は、2年以上続いたのです。
祖の後、人質交換によって救出され、三河に移ることができたものの・・・悲劇は続きます。
嫡男・信康は家康のいる岡崎城に迎え入れられたのですが・・・
信長と同盟を結んだ家康にとって、今川義元の姪である瀬名姫は、もはや厄介者・・・。
城に入ることを許さずに、裏の尼寺で暮らすように命じました。
その尼寺が築山という場所にあったので、築山殿と呼ばれるようになりました。

家康を罵る母の言葉が、信康の父に対する反発心を生んだのではないか?
1567年5月、まだ9歳の信康が、政略結婚させられます。
その相手は・・・信長の娘・徳姫でした。
7月・・・信康が元服。
織田と徳川の同盟の象徴となりました。

1570年今川家の領地・遠江を手に入れていた家康は、岡崎城から浜松城に本拠を移すと、岡崎城を信康に譲ります。
そして、幼い信康のために、信康専属の家臣団が形成されました。
家康の後継者として嘱望されていたのです。
1573年15歳で初陣を飾ると、信康は期待に応え、武田勢を相手に幾多の武功をあげます。
「真の勇将なり
 (武田)勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも 恐るるに足らず」
しかし、その一方で、正確には何があったようです。
無慈悲で非道な一面があり、些細なことで領民を手打ちにしたことがありました。

何が原因で信康は自刃となったのか??
家康にとって、公にしたいことではなかったようです。
家康が隠そうとした徳川家のタブーとは・・・??
「安土日記」には・・・
”岡崎三郎殿逆心あり”と書かれています。
岡崎三郎とは信康のことで、父に背こうとしていたというのですが・・・??
そこには、当時の徳川家の厳しい状況がありました。
1572年12月22日、家康は遠江の三方ヶ原において武田信玄と激突!!
兵力にはるかに劣っていた家康は、信長に援軍を求めましたが、信長の援軍は僅かに3000ほどでした。
結果は・・・戦国最強といわれる武田信玄に翻弄され、徳川軍大惨敗!!
命からがら浜松城に帰る際、家康は恐怖のあまり脱糞したともいわれています。

しかし、それからおよそ5か月後・・・打ちひしがれている家康に思わぬ知らせが飛び込んできました。
1573年4月12日、武田信玄が急死したのです。
これを機に、家康は反撃に転じ、武田軍が三河侵略の拠点としていた長篠城を奪還します。
これで一気に形勢逆転かと思われましたが・・・家康の前に立ちはだかったのは、信玄の跡継ぎ・・・武田勝頼でした。
1574年5月、勝頼は2万5000の兵を率いて、高天神城を襲撃、これを攻め落とし、翌年には三河に攻め入り、徳川方の城を次々と攻略していきます。
信玄の後継者の名に恥じない戦いをする勝頼・・・さらに、長篠城の奪還にも取り掛かります。
かたや防戦一方となった家康は・・・。
こうした危機的状況の中、徳川では意見の対立が起こります。
家康率いる浜松衆・・・武田との戦いを続ける
信康率いる岡崎衆・・・武田との敵対関係を見直すべきだ
としたのです。

この頃の信長は、領地こそ拡大していたものの、各地に強敵がおり、天下統一など遠い先の話でした。
1575年徳川家に大事件が起こりました。
信康の家臣で岡崎町奉行の大岡弥四郎らが、武田と内通し、あろうことか軍勢を岡崎城に引き入れ合流しようとしたのです。
計画がもれ、未然に防げましたが、家康の怒りは大きく計画に加担したものは皆極刑にされ、首謀者の大岡は、岡崎の町中にいきたまま埋められ、首を鋸引きの刑となりました。

このことは、家康の”徳川は武田とは手を組まない”という強烈な意思表示となりました。
1か月後・・・長篠の戦いで織田・徳川軍と武田軍がぶつかります。
信長は3000丁もの鉄砲で、武田自慢の騎馬軍団を撃退、重臣たちもことごとく討ち果たし、武田勝頼を這う這うの体で甲斐に引き揚げさせるという圧倒的な勝利を収めました。
家康は確信します。
武田を選ばずに、織田を選んだ自分の判断は正しかったのだ!!と。
しかし!!この長篠の戦いの勝利が、浜松衆と岡崎衆の軋轢を、ハッキリと浮かび上がらせるのです。
その軋轢とは・・・??
浜松衆と岡崎衆の軋轢は、二つの城の位置が関係していました。
浜松衆は最前線で戦い、武功と出世の機会に恵まれていましたが・・・
岡崎衆は、ケガで戦えなくなった者の後方支援のような仕事・・・裏方で、出世にも遠かったので不満がたまっていた。
出世の奇計に恵まれていた浜松衆に対し、損な役回りの岡崎衆が反発していたのです。
一枚岩ではない・・・これは、徳川家にとって由々しき問題でした。
家康の後継者である信康は、本来ならば岡崎衆を諫め、事態の改善を図る立場です。
それをしなかった信康・・・
信康も、岡崎衆こそが徳川の前線に出るべきと考えていました。
この時信康はまだ20歳前・・・家康に対するライバル心は日に日に強くなっていきます。
そして・・・1578年、信康を逆心へと向かわせたのが・・・
3月13日上杉謙信死去。
謙信の二人の養子・景勝と景虎の間で跡目争いが勃発・・・
結果、武田勝頼を味方につけた景勝が勝利します。
しかし、敗れた景虎が相模の北条家からの養子だったために、同盟を結んでいた武田と北条との関係が悪化・・・。
武田は、敵対している徳川と北条に挟まれることとなりました。
生き残りの道を模索する勝頼は・・・得意の調略を行います。

武田勝頼から築山殿に宛てた内通の文書が発見された・・・??
勝頼は、徳川との敵対関係を見直すために岡崎衆との接触を図ったのです。
この時、信康も武田と接触していた可能性があります。
徳川の将来を思えばこその武田との接触・・・
それは、父・家康を裏切るだけではなく、信長をも裏切るものでした。
そして、このことが徳姫の知るところとなり、信長に知られてしまったのです。

徳川と織田の関係は、緊迫状態にありました。
家康は徳川家を残すために・・・信康の処断を考えていると信長に伝えたと思われます。
酒井忠次が訪れたのは、その決断を知らせに行ったのでは・・・??
切腹させろと命じていない信長・・・すべては家康に託されたのです。

1579年8月3日徳川家康は、嫡男信康のいる岡崎城を訪れます。
信康と武田との接触の真偽を調べ、どのような処断を下すべきか・・・??

8月4日、家康は信康から全権を剥奪、三河の大浜城へ移し、謹慎処分とします。
9日・・・堀江城へ。
10日・・・岡崎城に松平家一族や地元の領主を集め、信康とは以後かかわりを持たないという誓約書を書かせました。
その後、信康を二俣城へ・・・!!
信康をすぐに切腹させなかったのは、家康の時間稼ぎでした。
家臣たちが信康を逃がしてくれるのでは・・・??と。
そして家康は決断を下すのです。
9月15日信康は父の命で命を絶ちました。

家康のしたこと・・・家の存続を第一と考える戦国大名としては仕方のなかったことなのかもしれません。
しかし、織田信長は、「家康殿の思い通りにせよ。」と、切腹は求めていませんでした。
死をもって償わせる必要があったのか・・・??
廃嫡、蟄居、出家・・・の選択枝があったのに・・・??

信康に切腹を言い渡す半年前に2代将軍となる秀忠が生れていた。
後継者が他にいれば、信康を生かしておく必要はなかった・・・??

浜松衆が切腹を後押ししたのでは・・・??
酒井忠次ら側近から、信康を処分すべきという声が上がっていました。
家康が人質だった時からの家臣・忠次は、家康にとって頭の上がらない存在でした。
そして・・・家臣によって暗殺されていた祖父と父・・・。
冷静沈着、老獪のイメージの強い家康ですが、実際は気が小さく悲観的だったといいます。
最悪の場合・・・信康が生きている限り、信長から責められる危険が残ると考えたのです。

「無事に育ちさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても信康は親を敬わず、その結果、父子の間が上手くいかず悲劇を招いてしまった。」

しかし、この性格が天下人とさせたのです。

信康を切腹させるとは、信長も想定外のことでした。
そして、嫡男の信康を切腹させたことで、律義者という印象を信長や秀吉に植え付けたのです。

二人の親子の間には、戦国という動乱の時代が生み出した父と子の姿、武将としての生き様がありました。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」

重荷の一つには、信康の死があったことでしょう。

そして、関ケ原の戦いの際、秀忠が戦いに遅刻するというだいだい失態を犯した際、家康はこう言いました。

「信康がいてくれれば、こんな苦労はせずに済んだものを・・・」と。

家康は信康を死なせたことを悔やんでいたのです。
この関ケ原の戦いが起きたのが、9月15日・・・21年前に信康が亡くなったその日でした。


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信康謀反

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前回で織田に逆らえずに、正室の瀬名と嫡男・信康を失ってしまった家康です。
これ以後、家康は子供の教育に対して熱心になっていきます。
もしかして、家光の乳母にとっても賢くって公家との関係も深い春日局を選んだのもそうなのかもしれませんね

が・・・もう立ち直ってしまいました。
”絶望から救ったのは、万千代の言葉でした”・・・って、「そうか??」とも思うんですが・・・
主人公もどきの万千代のおかげで「この先の徳川のために!!」で、立ち直りました

岡崎衆は・・・去る者、信康の後を追うもの・・・なので、殿が自ら仕置きのためにやってきました。

瀬名と信康を褒めて、褒めて、褒めちぎり・・・
二人のためにも駿河を取りたい!!と、大演説を繰り広げます。
皆の力を貸してほしいと!!頭を下げます。

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「やりましょう!!」
「駿河取るぞ~~~!!」
みんな、やけに素直なんだな・・・。
それは、腹を割って話すように勧めた万千代のおかげになりました。

私は・・・史実は信康&瀬名が武田と手を組んでいたと思っているので、命を懸けたやり取りにすんなり応じるんだな・・・と、違和感ありますが、この大河では、武田あれこれは濡れ衣なので、これでOKなんでしょう。
基本、戦国時代はいろいろと策を練らないと生きていけない世界だと思っています。
つまり、どちらに転んでもいいように、二手、三手を考えていると思うんですよね。
この家康の立ち位置・・・織田と武田と北条に囲まれている状況では、どこと手を組んでもいいようにあの手この手を考えていたんじゃないかな?って思うんです。
ま、悲劇は武田と内通していたかもしれない信康の正室・徳姫が信長の娘だったってことかな・・・??

戦に出ることとなった六左と直之・・・もちろん今回も材木を擁するお役目・・・なので、高天神へ!!

織田が天下布武をするという・・・
しかし、卑劣極まりない男に天下を治めることができるのか??
人が慕って従うのか??
疑問を持つおとわです。

高天神城は遠江支配の要でした。
以前から小競り合いをしていた武田VS織田なのです。
まずは、横須賀城に本陣を置く徳川!!

指揮を執って立派な万千代に目頭を熱くする六左と直之!!

誰とでも気さくに仲良くできる六左は、”竜宮小僧”の話で盛り上がっていました。

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とある場所では”川三郎”というらしい・・・
この”川三郎”が引っかかる直之・・・
「あ・・・確か、高瀬様の育ったところではそういうらしい・・・」by六左
ピン!!ときた直之!!
「あの者、武田領から来たということではないか・・・??」by直之

そう・・・彼らは間者でした。
万千代は・・・
「おい、お前らもはや、武田には戻れぬであろう。
 話によっては、俺のところで抱えてやっても良いが・・・
 高天神城の井戸がどこにあるか知っておるか?」by万千代

ということで、高天神城攻めに有利になりそうです!!

と・・・

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この井戸を聞き出したことで、ご加増を受け、2万石になったらしい!!
そして、六左と直之を抱えたいと家康が言っているらしいと・・・!!

話しをしたいと万千代の元へやってきたおとわ。

本多忠勝と挨拶するんですが・・・
忠勝、おとわが綺麗なので、気があるような振る舞いで・・・気持ち悪い・・・
私の忠勝はやっぱり仮面ライダー1号だし・・・でも、高嶋政広さんも最近は武骨な感じやナイスガイな感じで私好みの俳優さんなんですが・・・
この演出はほんと、気持ち悪かった・・・だって、すでに、おとわはBBA・・・
あ・・・忠勝もJJIだからいいの・・・??
それでもなあ・・・許せないのよ・・・この大河の一番の許せないところ。
女を捨てたおとわに女を匂わせるところです!!


家康は、高天神城を兵糧攻めすることで、じわじわと追いつめて、一兵も失うことなく降伏させようと思っていました。
そして、反旗を翻さないように、家臣は徳川が丸抱えにするという考えを持っていたのです。
叩き潰して屈服させるのではなく・・・

「織田に屈せずとも良い力を持つため、徳川のこれから先のために。
 敵を叩き潰す力ではなく、敵を味方とする力を鍛える。」by家康

それを聞いたおとわは・・・戦わない道を選んだ政次を思い出していました。
そう・・・政次も戦わない方法をずっと考えていました。
自分の考え方に似ている徳川・・・日の本一になるように・・・
戦の嫌いな人がなれば、戦は無くなるかも・・・と。

「しますよ・・・俺が・・・徳川を日の本一の・・・殿を日の本一の殿にします。
 俺が仕える殿なのですから、なってもらわねば困ります。」by万千代

久し振りに万千代と話したことで、ちょっと成長したな・・・と思うおとわでした。

徳川のもとで働かないか??と言われた六左と直之・・・。

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「それがしは、参りませぬ。。。
 身に余るお話ではございますが、お断りください。
 それがしは、井伊谷の番人にございます故、徳川へは参りませぬ・・・。」by直之

「井伊谷の安堵は願わぬ・・・と、万千代が言うておったと・・・
 中野殿や六左には来ていただきたい。
 なれど、井伊谷の土地は、何の役にも立ちませぬ故。」by万千代

一大事が!!
高天神から降伏したいと矢文が飛んできました。
そこには、家康が助命を受け入れるならば、小山城、滝坂城も明け渡すと・・・??

しかし・・・織田からの使者が・・・。
高天神城の降伏を受け入れてはならぬ!!と言いだしました。

「高天神は、最後は力攻めで落とすようにと織田様のお指図でござる。」by水野忠重

どうして下るという者を攻め滅ぼさねばならぬのか??
最後には織田が戦を代わると言い出しました。

「降伏は受け入れぬと、我等から申し上げる。
 まずは駿河じゃ・・・。
 武田に干上がるか、討ち死にするか選ばれよと申し伝える。
 織田様はそれでよろしいか・・・!!」by家康

もちろん、武田と徳川が内通していると思われているんだから、叩き潰すしかないわな・・・。

武田が出てきたというのに・・・本意ではない戦に力なく参陣する徳川勢・・・。

徳川を日の本一にするために、万千代の元へ行けとおとわに言われる直之。
直雪にとっては、今の織田の顔色を窺っている徳川は、今川の顔色を窺っていた井伊のように映っていました。

「俺は、俺なりに折り合いをつけてやってきたのでございますよ。
 女子が己の殿となり、女子だからこそ守るのだと己に言い聞かせ、その殿は井伊を潰すというならば、井伊谷の番人になればよいと思い直し・・・。

 そうやってきて、今があるのでございます。
 断ることなどできることがございますまい!!
 俺だって、ずっと見てきたのですから!!
 殿が、但馬が、必死に戦を避けられなかったさまを・・・。
 逃げられなかったさまを・・・。
 百姓となってなお、武田から皆を逃がすさまを・・・!!
 あなたの・・・隣で、見てきたのですから・・・。
 殿がさような戦をするというならば、やってみるしかないではないですか・・・!!

 まあ・・・男みょうりに尽きるということにしておきますよ。」by直之

ということで、六左、直之は万千代の元へ!!

武田との戦いが、勝頼の自刃で終わり・・・それは同時に、戦国随一の武勇を誇った武田家は、滅亡を迎えたのでした。

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そして・・・たくさんの犠牲のもとに、徳川が、駿河を拝領することとなりました。

いよいよ天下統一に向けて・・・タヌキオヤジになるんでしょうかね?家康!!
そして、その家康の四天王として活躍する直政を見たいものです

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「信康を斬ります・・・!!」
武田と内通していたかどで死罪を宣告されてしまった信康・・・。
どうなる??

前回と違って、おとわがいるのは不自然な気もしますが、ま、主人公ですからね・・・

「信康さま、ご謀反の疑いあり。
 以後、刃向かうものは同罪と見なす!!」by榊原

ということで、信康と一切の交わりを断つという証文を書かされる家臣たち・・・!!

狼狽える瀬名!!
織田からの言いがかりではないかと石川数正!!

おとわに何とかしてもらおうと考える瀬名ですが・・・もう、おとわは帰ってしまっていました。
そうね・・・前回の側室のことといい、今回といい、瀬名には厳しいおとわですが・・・。
ま、それは成長したってことでしょう。
井伊谷に類が及ばないためにも・・・!!

信康は大浜城へ!!
家臣には起請文を書かせて、織田へ!!

そして万千代は・・・三河・大浜城跡へ!!
うらぶれた・・・主のいないその城には、信康がいました。万千代たちの手紙によると・・・遠江の堀江城に移すという!!

そこに、徳川の策があるのでは??と、考える南渓和尚。

信長にしたがったと見せかけて、北条との密約に臨んでいることを信康に伝える万千代。
武田に大きな痛手となる北条の懐柔を手土産に、織田へと許しをもらう手はずになっているという。

「父上にあまり無理をなさらぬようにと伝えてくれ」by信康

と、健気な信康です。
今川は徳川の名代として北条との交渉に・・・それにはあと半月はかかるという常慶!!

「待っておれよ・・・信康!!」by家康

「待っていなされ・・・信康!!」by瀬名
瀬名も何か考えているようで・・・数正に頼みごとをしたようです。

時を稼ぐ家康・・・そののちも、二俣城に・・・処刑を遅らせようと努力します。
流石に織田も苛立ち始めていました。

瀬名が石川数正と姿を消したと家康のもとへ使いが来ました。
なんと、文箱には武田と内通していたのは瀬名だという証拠の手紙が残されていました。
瀬名の首を差し出せば、信康は許される??
本当に通じているならば、こんなわかりやすい証拠は残さないのでは??と、慌てふためく家臣たち・・・
しかし、家康は冷静でした。

「瀬名に追手を放て!!
 捕らえ次第、首を刎ねるがよい!!」by家康

その頃、瀬名は井伊のあの井戸へ・・・。
そこへやってきたのはおとわ・・・。

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信康の顔を見にいくと嘘をついたものの・・・。
おとわはすべて承知のことでした!!
どうしてわかるのか??それは、井伊も同じだったということ!!

「ならば、お分かりのはずです!!
 お方様のお覚悟を・・・!!」by数正

そこへやってきたのは万千代&万福でした。
二人は、家康の考えを瀬名に伝えに来たのです。
井伊で匿ってほしいと家康の要望でしたが、しかし瀬名は・・・
その策は必ず実るのか??そして、その問いに答えられない万千代!!
殿と、愛する息子のために命を使いたいという瀬名・・・

「死んでいくやつはみな、さようなことを言う!!
 お家のために命を捨てるは本懐!!そんなことばかり言いよる!!
 残される者のことを考えたことはあるか!!
 助けられなんだ者の無念を!!
 考えたことがあるか!?
 もう二度と、私はあのような思いはしとうない!!
 徳川殿を大事というなら、どうか、さような思いはさせないでくれ!!」byおとわ

そんな瀬名を責めるおとわ

しかし、瀬名の気持ちは揺るぎません。

追手の追撃が・・・!!
信康を守るための数正とは離れることに・・・!!

「お方様・・・
 私はお方様ほど美しいお人を知りませぬ!!」by数正

「何を今更・・・」by瀬名

「一度、お伝えしとうございました。」by数正

??
追手の声が聞こえているというのに、何を言っとんねん!!
この言葉、必要か??
何とも、話しの腰を折る一言でした

捕まってしまった瀬名!!
浜松へと送られることに・・・!!

北条との話はついた・・・と、一生懸命頑張ってくれた氏真でしたが・・・時すでに遅し!!
瀬名が・・・!!

「すまなかった・・・間に合わず・・・」by氏真

「悪いのは私にございます。
 お方様をお止めできず・・・」by万千代

「悪いのはわしじゃ・・・ 
 わしは瀬名に信じてもらえなかった・・・
 もっと頼りがいのある夫であれば、大人しく岡崎に座ってくれておったはずじゃ・・・」by家康

瀬名の首を持って織田に参上する家康でしたが・・・
信康を許してもらおうと北条と手を結んだことを報告!!
武田を亡き者にした後も、徳川は織田と変わらずよきかかわりを続けていきたいと・・・
しかし、信長は・・・。
「そこまで申すのなら、徳川殿のお好きになさればよい。
 その代わり、余も好きにするがの。」by信長
と、意味深発言をして行ってしまいました。

そうして・・・天正7年9月15日・・・

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信康自刃!!
一連の騒動は、正室と嫡男を失いという徳川にとって最悪の結果に終わりました。

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「かようなことが、ずっと繰り返されるのでしょうかね、武家の世は・・・
 理不尽に命を差し出せと言われ、差し出す方は本懐などと笑い・・・
 いっそ、大名が一堂に会し「やっ!!」と、盟約を結んでしまえばよいのです。
 さすれば、戦もやりにくうなりましょうし、戦が無くなればかような愚かしい命のやり取りも無くなりましょう。」byおとわ

「ならば・・・やってみてはどうじゃ。」by南渓和尚

??「やっ!!」の意味がよく分かりませんけど・・・

「瀬名は・・・っ派として、妻として、その命を使い切った・・・
 では、そなたは何のためにその命を使うのじゃ・・・
 母でも妻でもないそなたは、何にその命をかけるのじゃ・・・!!」by南渓和尚

お・・・久し振りに、いいこと言いましたね。

「虎松を使い・・・徳川様に、さような世を目指していただくよう持って行く!!

 何一つ、使いどころのない命・・・
 ならば、途方もない夢にかけて見たとて誰も何も言いますまい・・・!!」byおとわ

やっと主人公らしくなってきたおとわです。
そうか・・・家康の黒幕っておとわだったんだ・・・

岡崎では、逃げ出す者がたくさん出ていました。
家康のもとへやってきたのはおとわ。

naotora2













瀬名の形見を持ってきたのでした。

「かようなことは、いつまで繰り返されるのでしょうかの・・・
 父上や、但馬や・・・同じように首を望まれ、同じように首を差し出すことを止められず・・・」by万千代

万千代も、ちょっとは大人になったようです。
おとわと同じことを考えているなんて??

「そなたの父上を救えなんだ時、私に出来るたことは父上の変わり身となって生きる事であった。
 死んだ者はどうやったところで戻っては来ぬ。
 生き残った者に出来るのは、せめて、その志を宿すことだけじゃ

 信康さまはどのような志を持っておられた?」byおとわ

「信康さまは・・・己の立場よりお家の行く末を考えるようなお方で・・・
皆の信用も厚く、 殿も信康さまとだけは碁を打たれ・・・」by万千代

「ならば、そなたが信康さまの変わり身となればよいではないか。

「さような不遜なことが、よう言えますな!!」by万千代

「徳川殿にすれば、息子の如くお家の行く末を考えてくれる家臣が出来るということ・・・
 ありがたいものじゃと思うがな・・・」byおとわ


おとわ・・・言っている意味は分かるけど・・・ほんとにそうか??
息子・・・嫡男だよ??

万千代が碁の相手をすると言い出しましたが・・・??
何様のつもりじゃ!!と、怒りだす家康!!
皆のいうことを聞いたらこの様じゃ!!と、これからはすべて自分が決めると言い出しました。

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「昔井伊の先代も一人で碁を打っておりました。
 幼い私には一人に見えましたが、和尚があれは一人ではないと言われました。
 見えぬけれども相手はおると・・・その者から、私は碁を教わりました。
 その者は、教えてくれました。
 負け戦になってしまったら、そもそもどこで間違えたかを確かめよと!!
 次に勝つためには!!
 負けた意味は、次に勝つためにあると!!
 お方様が見ておられます!!
 考えましょう!!この先に徳川のために!!」by万千代

「まずは岡崎じゃ・・・!!」by家康

「はい!!」by万千代

「忠勝を呼べ!!」by家康

ということで、この”おんな城主直虎”という大河ドラマの中で、一番のクライマックスになりました。
家を守るということ、守らなければならないのかということを、この1年間ずっと考えてきました。
その集大成ともいえる家をとるか、嫡男をとるか・・・??
どちらも本当は同じことを言っているんですが、この信康の場合はちょっと違いますよね??

ドラマ的には家康と瀬名の仲がと良かったのならこれもアリかな??とも思うし、でも、仲が良かったなら、家康も説明するだろうし、瀬名のフライングはないんじゃないかな??とも思います。
ということで、ちょっと不自然な仕上がりになっているのかな??とも思いますが、このドラマは井伊の方から・・・今川の方からも書かれているので、今までの瀬名とは違い、”いい人”なのでしょう。

おまけに、年若い万千代に諭される家康ってのもどうかな??とも思うし・・・
いくらおとわの意見とは言え、重みがなさすぎる・・・。
し、愛していて悔いているのなら、この立ち直りの早さはどうよ!?とも思うのでした。
とにかく、家康はこの信康事件を一生悔いることとなります。
そして、今後の子供たちの教育にも熱心口を出すようになるのです。
ってことは、やっぱり信康で岡崎の家臣の含めての失敗。。。って思っていたのかもしれません。
ドラマでは、さわやかいい子な信康ですが・・・。
とにかく、この時代お家・・・跡取りは大事で、秀忠が生れたことで、家康も踏ん切りがついたような節もあります。
という諸々を考えても、やっぱり信康が岡崎衆と一緒に武田に内通していたというのがしっくりくると思います。
ま、これはドラマなので、これもいい感じですけどね

個人的には、石川数正の告白は、蛇足だな!!ってことだけは、ハッキリと思うのでした
もう、瀬名もおとわもきれいな女性ではなく、中年々だから・・・ドラマの腰を折るなよな~~~!!

で、「悪女にてついて」って、悪女って誰よ??
こじつけのような副題もドラマの腰を折っているような気がする・・・
興ざめ~~~!!

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井伊の木で作った馬除けの柵が活躍し、武田との戦いに勝利を治めたこと&万千代が兵糧や武具を丹念に用意していたことを家康は見てくれていました。
色小姓だから取り立てたのではないですよ・・・??
色小姓になったら、いやがらせも減るよ??と、家康に言われていましたが・・・どうでしょうね??
常の小姓にはしてもらえました

でも・・・仕事をもらえない・・・もらえない・・・
割り込める隙もありません。
が、そんな嫌がらせにもめげることなく、何かと仕事を見つけては頑張る万千代です。

仕事をくれるように殿に直談判!!
戦の手柄改めをさせてもらうことに。
沢山の人が押しかけてきて・・・

naotora3












みんなを手際よくさばいていく万千代。

井伊谷では・・・たくさんの雨が降っていました。
「山の神がお怒りになっているかも・・・??」と、甚兵衛。
山崩れが起こっていました。そして川に土砂が流れ、底があがってしまいました。
異変は木を伐り過ぎたためなのか・・・??
その差配をしていた頃・・・。

家康はやっぱり戦改め
まあな・・・これをしなければ、下級武士はおまんまにありつけず・・・
そして、手柄を認め、褒美を取らすのは家康の仕事なのです。
報いるべきところに報いなければ・・・

naotora5














疲れた家康に薬を持って参上の万千代。
家康は、万千代の薬を毒見もせずに、何の疑いもなく飲んでくれました。
認めてくれたってことですね

naotora6











そんな夜遅くまで忙しい家康の手伝いを申し出る万千代。
手柄改めを表にし出しました。
朝まで家康のもとで寝てしまった万千代。。。
しかし、その表の見事さに感嘆する家康!!

naotora1












朝から家康の寝所を出てきたことで、勘違いされてしまったかも??

naotora2












どうする??万千代。

薬を取り寄せて、家康に気に入られるようにと考える万千代。

井伊から土砂止めの指図をして欲しいと言ってきました。
その代わりに薬を手に入れようとする魂胆な万千代です。

万千代が作ってくれた表を基に、褒美を考える家康ですが・・・
家臣の間でのバランスが崩れているという・・・
浜松と岡崎では活躍が・・・武功が違うのです。

武功が第一という榊原。
濱松の士気が一番大事という榊原・・・。
ああ・・・伏線ですね、これ!!
信康の一件の・・・!!


万千代は得意の絵を使って地図を書きます。
おとわに隠していたものの・・・六左にはバレバレな絵なのです。
そんなこんなで薬を手に入れた万千代。

近藤殿に土砂止めの普請を願い出るおとわ。
やってくれなければ、信長にもらった茶碗を売ると言って近藤殿を脅すおとわです。
「かの高僧・臨済禅師の説話に・・・」と、もと尼さんらしいお話でなんとか説き伏せるのでした。
この土砂止めをしたことで、子々孫々近藤家が語り継がれるとかなんとか・・・??

手に入れた薬を殿に・・・と、寝所に向かう万千代。
毒が入っていたら・・・??と、他の小姓たちともみあいになりましたが・・・ここで一言!

「それがしは、殿のご寵愛をいただいたぞ!!
 見たであろう、そなた。この間の明け方に・・・。」by万千代。

ビックリ仰天の兄小姓たち・・・??

「嘘をつくな!!殿は衆道はたしなまぬ!!」by兄小姓

「それは、そなたらのような武骨者しかおらなかったからではないのか?
 俺や万福に手を出してみよ、殿のお怒りが・・・及ぶぞ・・・!!」by万千代

ということで、めでたく色小姓となったのでした

「なんじゃ・・・結局・・・色小姓ということにしたのか。」by家康

ということで、全部お見通しの家康ですが、万千代の持ってきた薬にも、万全の信頼を置いています。
もちろん、井伊から取り寄せた薬であることはわかっています。
そして、その薬をも信用する家康。
どうしてそんなに信用するのか??という万千代の問いに・・・
「無欲じゃからの・・・」と、答える家康でした。

そうね・・・やっぱり欲のない方が強いのよね。
自分を守ることよりも、民のことを守ろうとするおとわのことをわかっているのです。

色小姓ということにした手前、すぐに寝所を後にするわけにも行かず・・・
と、家康が問いかけます。
「岡崎の処遇をどうするのか?」と。。。
 
「首をとった城を攻め落とした・・・そういう類の武功で見ると、岡崎は浜松に比べると大変淋しい手柄となっておりましたかと・・・」by万千代
「然しながら、此度織田が数多の援軍をよこしたのは、日ごろの岡崎の働きあってのことじゃ。」by家康

「殿が、方々の働きをすべてご存じと伝えるのが肝要かと・・・
 誰も知らずとも、殿は見ていてくださると知るのは心強いものにございます。」by万千代

悩む家康でしたが、このことで万千代を岡崎に派遣することにしました。
小姓なのに城を出ていいの??
瀬名の縁戚なので、挨拶をしてくると・・・岡崎を探ってくるように命じられます。
大役なのに、「そなたじゃからよいのじゃ・・・」と、密命です!!

三河・岡崎城にやってきた万千代。
そこに居たのは、瀬名と聡明な信康でした。
何もかも見透かされている万千代です。
恩賞の件か・・・??と、見透かされてしまっていました。
もちろん、強者の殆どは浜松勤めであることは信康もご存じ!!
武功を元に考えれば、岡崎は一文もない・・・ということも。

「日頃の岡崎あってのことと・・・今川勢に諏訪腹城を与えるということでどうか?
 若様も、奥方様も今川のご縁戚。
 今川が一家として徳川に根を下ろすことは、必ずやお二人の力。ひいては、岡崎の力になろう。
 これから駿河を切り取っていくにあたり、地の利のある今川勢を手厚く遇しておかねばならぬ。
 そういう理屈ならば、酒井さまや本多さまにこの仕置きをごご納得させることができる」との事を伝えます。

「徳川の先行きのため、岡崎は耐えます。
 しかしながら、後々には地味な働きをしている岡崎の衆にも直に報いてくださいませ。」そう伝えてくれ!!by信康

かしこいですね、信康。
だからこそ、家康は悔いて、悔いて、悔いるのです。

その頃・・・松を植えている井伊谷の人たち。

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そして、万千代は信康の答えをもって浜松へ・・・。

「岡崎は、堪えてくれると・・・・?」by家康

「”まあ、いずれは俺の家になる。
 これは俺の為じゃ。”と、最後は笑っておられました。」by万千代

「良い男じゃろ?わしの息子は・・・??」by家康

「はい。おおらかで頼もしく、人の上に立つために生まれたような趣をお持ちです。」by万千代

「のにゃすに譲るまで、せいぜい後10年ほどか・・・
 主従として年の釣り合いも良いかもしれんの。
 信康とそなたは・・・。」by家康

「では、若のお役に立てまするよう、殿のもとで精進いたしとう存じます。」by万千代

「はあ~、上手くまとめるのう。」by家康

と、万千代は、いよいよ家康の信頼も厚くなってきたようです。

諏訪腹城を今川勢に与えるということをしぶしぶ飲んだ浜松勢・・・
このことに、万千代が一枚かんでいると思っているみたい・・・。


甚兵衛も亡くなってしまいました。
万千代と万福の初陣が決まったので、髪を下ろすことにしたなつ。。。
そして時は流れ・・・

ということで、万千代が・・・菅田将暉君が出て来てから、ちょっとギュッと締まった作品になってきましたね。
でも・・・やっぱり戦国時代にあって、戦わないわけで・・・
おとわが近藤殿を手玉に取るようなシーンがありましたが、近藤殿、素直過ぎると思いませんか?
もう少し、駆引きを見てみたい気もする大河ですが、面白くなってきましたね。

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1600年9月15日、日本を東西に二分した関ケ原の戦い・・・

勝者となったのは、東軍総大将・徳川家康です。
しかし、家康には大きな誤算がありました。
徳川の主力を率いる家康の三男・秀忠が決戦に間に合わないという前代未聞の大失態を犯したのです。
この時、家康はつぶやいたといいます。

「倅がいたらば、こんな事にはなっていないはずだ。」と。

家康が口にした倅とは、家康の長男・松平信康のことです。
その名は、徳川の歴史においてタブーでした。
1579年9月15日、奇しくも関ケ原の合戦と同じ日に、事件は起こりました。
21歳の信康が、織田信長の命により自害させられたのです。
世に言う”信康事件”です。
どうして信長は、家康に長男を殺害するように命じたのか?
どうして家康はそれを受け入れたのか??
それは謎です。
カギを握るのが”逆臣”!!

家康の後継者として期待された信康。
家康と正室・築山殿との間に生まれた初めての男子です。
当時、家康は、駿河・遠江・三河を有する今川家の配下にあったため、駿府に生まれました。
信康2歳・・・この年(1560年)、今川家の当主・義元は桶狭間の戦いに討ち死に、これによって家康は独立することに!!

しかし、この時大きな問題が・・・。
駿府にいる築山殿と信康が人質に取られていたのです。
人質奪還のために、家康は今川義元の妹婿の城を攻め、当主の子を生け捕り、人質の交換に成功!!
これによって一命をとりとめた信康は、駿府から岡崎に移ることになりました。
1567年信康9歳の時、信長の娘・徳姫と結婚。
信長から信の一字、家康から康の一字を与えられています。
信康は、徳川と織田の同盟関係を象徴する存在でした。

1573年12月、家康は絶体絶命の窮地に立たされます。
甲斐の武田信玄が、遠江に侵攻。
戦国最強と謳われた武田の大軍勢が襲来したのです。
徳川軍は、三方が原で武田軍と激突し大敗北(三方ヶ原の戦い)!!

しかし、翌年の1573年4月、武田信玄死去。
武田軍は撤退し、家康は九死に一生を得ます。
とはいえ、信玄亡き後も、武田の勢力が弱まることはなく、家康は信長との同盟を維持しながら、対武田の拠点となる浜松城に身を置き、背後の要・西三河の岡崎城に信康を置き、領国の防衛強化に努めています。
信康が岡崎城主となったのは12歳(1570年)の時。
幼い領主を支えるために、新たに家臣団を作り・・・
徳川は、浜松家臣団と岡崎家臣団に分かれることとなったのです。

1575年5月長篠の戦いで、家康・信長連合軍が武田に圧勝!!
この時、17歳の信康も、一軍を率いて参戦!!
局地戦で殿を務め、功名をあげます。

1579年4月、武田軍が徳川領に侵攻。
徳川と武田の国境では、緊張が高まっていました。
そのさなか、家康のもとに、信長から信じられない命令が・・・!!

「信康に切腹させるよう家康に伝えよ。」by信長

そのきっかけとなったのが、信康の妻・徳姫が、父・信長に、夫の悪行を訴えたことでした。
信康の悪行とは・・・??
史料には、鷹狩りで意に沿わない僧侶を殺したことや、下手な踊り子に腹を立てて射殺したことが書かれています。
信康の行動は傍若無人で、慈悲の心がなく、そのため夫婦の仲は悪くなったとありますが・・・
しかし、信康と家臣との間が上手くいっていないわけではなく、揉めたこともなく・・・
粗暴な君主だったという形跡は、同時代の資料には見られません。

そして、信康のことは家康に一任していた???
信長が家康に殺せという命令を出していないのでは??
家康が、このままではいけない・・・と、忖度で殺したのでは??

当時の徳川は、武田と織田の二大大国の狭間にありました。
家康は信長と結び、武田と対峙していました。
この時、家康と対峙したのは武田勝頼。
信玄亡き後、武田の家督をついだ勝頼は、後世評価の低い武将であるが・・・
信長の評価は・・・
「勝頼は若年ながら、信玄の教えを守り、表も裏もある油断のならない相手である」と。
事実、勝頼は、父・信玄ですら攻略できなかった徳川方の高天神城を僅か1か月で落としています(1574年6月)。

徳川と武田の熾烈な奪い合いの舞台となった高天神城。
難攻不落だった高天神城・・・。
奪還を目指す徳川の猛攻を7年もはねのけた勝頼。
武田が施した数々の備え・・・横堀・・・武田の城兵は、土塁を盾にして、見下ろす形で横堀に迫ってきた徳川の軍勢に対して、鉄砲や弓、つぶてを投げて守ることができたのです。

城は、水陸交通の要所・・・家康の浜松城まで直線で僅か30キロ。。。
派は松上の喉元に刃を突き付けられるような、大きな危機を感じる場所だったのです。

家康にとって、生命線ともいえる高天神城・・・。
なんとか奪還しようとする家康ですが・・・信長からの援軍は無し・・・
10数年続いてきた徳川と織田の軍事同盟。。。
家康は、姉川の戦い、信長上洛戦、越前遠征・・・に参陣を果たしたにもかかわらず、織田からの見返りは多くありませんでした。
織田と徳川の関係は、実質的な主従関係だったのです。

そんな関係に対し、徳川家臣団の不満が一つの事件を起こします。
1575年4月、信康の家臣・大岡弥四郎事件です。
大岡弥四郎を中心とする反逆です。
密かに武田に通じていた岡崎町奉行・大岡弥四郎が、城を乗っ取り、武田に合流しようとしたのです。
事件は未遂に終わり、首謀者たちの処刑で幕を閉じました。
信康の守役も武田に内通し、岡崎奉行の三人のうち大岡を含めて2人も武田に加担していました。
さらに、正室・築山殿も加わっていたといわれています。
岡崎衆をあげて、武田家に鞍替えしようとしたものです。

武田との抗争が激化して以来、家康の浜松、信康の岡崎と家臣団は二分していました。
そこに微妙な内部対立がありました。
家康の周りには、主要メンバーで最前線で戦う。。。
しかし、信康側は、最前線で戦うことはあまりなし。。。
いつでも功績をあげられて、恩賞の利益にあずかれる可能性の高い浜松衆と、チャンスに乏しい岡崎衆との確執が、背景にあったと思われます。

この4年後・・・再び徳川家に大事件が・・・それが信康事件です。

事件の顛末を記した資料は少ない・・・
「三河の信康殿逆臣!!」
当時、岡崎にいた信康としては、先の見えない武田軍との戦い・・・いつ進軍してくるのかもわからない・・・
信康が父・家康追放、もしくは暗殺というクーデターを実行に移した場合、頼れるのは武田しかいない。。。
突如として出た信康謀反の噂・・・。
家康は、我が子・信康をどうする???

1579年8月3日、家康は岡崎城に向かいます。
信康の真意を。。。!!翌日二人は対面。
信康は家康に対し、織田を見限り武田に着くと言ったと考えられます。
一方家康は・・・厳しく問い詰めます。
苦悩する家康。。。

信康を捨て織田をとる??
このまま信長に着けば徳川は安泰。。。
この頃の信長の版図拡大は凄まじく、北陸の上杉、西の毛利に対し、織田軍が出兵し領地は膨張の一途にありました。
安土城も完成し、信長の天下は盤石になりつつあったのです。
しかし、謀反の噂が信長さまに入った以上信康に罰を・・・!!
処置を誤れば、家中が二つに割れてしまう!!


信康をとり武田と結ぶ??
家中が二つに分かれる最悪の事態は避けられるのでは??
武田はこの頃、最大の版図を獲得していました。
勝頼は、北条と対決をし、領土を拡大!!
糸魚川にまでも領土は拡大し、武田の領国は日本海にまでも達していました。
「信康事件」の前後は、武田の領土が再び拡大している時期なのです。

織田家臣団にも綻びが・・・
信長に反旗を翻す武将が続出!!
松永久秀の謀反・・・荒木村重の反乱はまだ続いていました。
が、畿内の制圧を目前の信長・・・。
信康の意見を通せば、家長としての自分の立場は・・・??


1579年8月4日、信康と対面したその日、家康は信康を岡崎から20キロ離れた大浜に幽閉。
家康は、信康を処断し、信長との同盟を維持することを決断したのです。
翌日には弓・鉄砲衆を連れて、大浜に近い西尾城へ入るように家臣団に命じます。
信康と謀反を画策した重臣たちへのあからさまな威圧です。
さらに家康は、岡崎城に家臣や三河の国衆を集め、信康と連絡を取り合わないなどの起請文を提出させます。
家康は同盟相手・信長にも事の顛末の説明をするため書状を送っています。

「信康は士道不覚悟により、岡崎城から追い出しました。」

処断されたのは信康だけではなく、信康と同じく武田との内通を疑われていた正室・築山殿が家康の家臣の手で殺害されたのです。
信康は大浜から堀江、二俣城へ・・・
家康としては信長との手前、信康を処断しなければ・・・しかし、やはり親子。。。
家康と信康の関係が意思疎通を上手くすれば、自害に及ばなくても廃嫡??と考えていたのかも??

家康は、信康幽閉の一月後、武田と敵対関係にあった北条と同盟を締結。
織田・北条・徳川による武田包囲網が完成します。
武田と全面対決の姿勢を・・・!!

1579年9月15日、信康自刃!!

21歳、若すぎる死でした。

信康自害の報告をうけた家康は、黙ったままうなだれました。
信康自決後、信康を支えた岡崎重臣たちも粛正されます。

三重県桑名市・・・ここに妖刀・村正が残っています。
信康の介錯にも村正が使われたと言われています。
家康の父・広忠、家康自身、信康・・・徳川家にまつわる人が村正に関わっているので、妖刀といわれるようになりました。
信康が自害したとき、家康は語ったといいます。

「村正は、徳川家に仇成す刀である。
 今後、刀の中に村正があれば、みな取り捨てよ。」

家康が恐れた妖刀・村正・・・。

村正の妖刀伝説が長く流布されたのは、家康の信康を自害させた後悔の想いを生涯持ち続けていたからかもしれません。
そののち、家康は信康に対して固く口を閉ざして語ることはありませんでした。

30年後・・・秀忠の妻・江に対する訓戒に信康に対する家康の想いが記されています。

「信康が生れたときは、親も若く、子が珍しく、その上発育が悪く、丈夫に育ちさえすればいいと心得、気づまりになるようなことはさせず、気ままにさせておいた。
 成人になってから、急にいろいろ教育してみたが、後に親子の言い争いのようになってしまった・・・」と。

このことで、民衆や家臣の家康に対する尊敬心は増した・・・??
家康の言葉の重みが増したのです。
徳川が15代も続いたのは・・・この信康事件の後悔からの家康の子育てにあったのかもしれません。

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