日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:松平定信

1787年江戸・・・激しい物価高に悩んでいました。
原因は凶作と商人たちによる買い占め・・・米の値段は例年の4倍にまで跳ね上がりました。
生活に行き詰まり、橋や船から川に身投げする人が後を絶ちませんでした。
ところが幕府は助けてくれない・・・!!

「昔、飢饉の時には犬を食べた、今回も犬を喰え」

人々の我慢は限界を超え、米屋を狙った一斉蜂起が起きました。
江戸時代最大規模の打ちこわし「天明の打ちこわし」です。
将軍のおひざ元での大暴動は、幕府に強い衝撃を与えました。
打ちこわしは、政権交代のきっかけとなり、後に寛政の改革を行う松平定信の登場をもたらします。

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1787年5月20日、江戸。
どこからともなく集まった町人たちが米屋を狙い、打ちこわしを行いました。

”店にある米俵はもちろん、店に置いていた米俵も担ぎ出して切り裂き、路上にぶちまけた”

打ちこわしの原因は例年の4倍以上となった米価の高騰でした。
打ちこわしは20日に深川と赤坂で始まり、21日には江戸一帯へと広がりました。
米屋を中心に、油屋、乾物屋、薬屋などが襲われました。
男たちは身の回りにあった木槌や鍬などを持って参加しましたが、とりわけ多くのものが手にしたのが鳶口でした。
火事の際、延焼を防ぐために周囲の家を引き倒したり、解体した木材を運ぶための道具です。
町々には、火事に備えて数多くの鳶口が保管されていました。
しかし、打ちこわしといっても家そのものを壊したり、暴れまわったりするものではなく・・・
記録によるとそれは・・・

打ちこわしを始まめる前に数人で店に入りきちんと火の元を消す・・・
火事を起こして周囲に迷惑をかけることを避ける気配りからです。
打ちこわしは、リーダーがうつ拍子木で始まります。
さらに、再び合図が鳴ると打ちこわしを止め、みんなが一斉に休憩をとりました。
次の合図でまた打ちかかる・・・規律のある行動でした。

店の商売道具は滅茶苦茶にしたが、店の人には手出しせず危害を加えることはありませんでした。
混乱に乗じて物を盗むことも禁じ、万が一盗みを働く者がいたときは、仲間内で即座に打ち殺すという申し送りまでありました。
こうした打ちこわしの様子を見た水戸藩士の証言は・・・

「誠に丁寧、礼儀正しく狼藉に御座候」

狼藉には違いないが、秩序と統制を重んじた一風変わった暴動だったのです。
打ちこわしに参加した町人たちは目に余るほどの大勢と記録され、打ちこわしの被害に遭った商店は1000軒と言われています。
参加者は日増しに増え、広がっていきました。
事態収拾のため、江戸の治安を守る与力・同心が出動します。
この時彼らを指揮したのが、鬼平でお馴染みの長谷川平蔵でした。
しかし、蜂起した町人たちのあまりの規模に、与力と同心たちだけでは多勢に無勢・・・
騒ぎを収めることはできませんでした。
こうして江戸の大混乱は5日間にわたって続いたのでした。

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18世紀、江戸の人口は100万を超え、その半分を町人が占めていました。
町人の大半は、家を借りて長屋で暮らす店子でした。
長屋では3坪か4坪の部屋にそれぞれの家族がひしめき合って暮らしていました。
仕事は異なれど、長屋で暮らす者は稼ぎで食料を買って暮らすその日暮らし・・・
食事は白米にみそ汁と漬物が基本の一汁一菜。
おかずは質素でも江戸っ子は白米を好んで食べました。
そんな江戸の庶民を直撃したのが、急激な物価高でした。
大豆や麦、そばなど穀物全般が値上がりしましたが、激しく値上がったのが米でした。
例年ならば100文で1升1合買えましたが、打ちこわしの正月には値上がりによって100文で6合~7合しか買えなくなりました。
米の値上がりは、留まることを知らずに、4月下旬には100文で5合~4合半、その10日後には4合半~4合・・・さらに1週間後には3合・・・その2日後には2合半にまで高騰しました。
例年の4倍以上、米価高騰が庶民を襲いました。
棒手振の稼ぎが1日300文・・・当時の人は、ひとり1日3合の米を食べたと言われています。
日銭暮らしの町人が一家を養うことは不可能となりました。

米価高騰の裏には・・・1783年浅間山の大噴火と異常気象がもたらした天明の大飢饉がありました。
降り続く火山灰と冷夏が、東日本で農作物に深刻な被害を及ぼしました。
さらに追い打ちをかけたのが、大洪水!!
関東一帯が大洪水に見舞われました。
打ちこわしの前年、全国の米の収穫量は例年の1/3にまで減少していました。

幕府も手をこまねいていたわけではなく、品不足による米価高騰を防ぐ対策を打っていました。
それが通称”米穀売買勝手令”です。
当時、決められた業者のみが米の販売や流通を行うことを許されていましたが、それを撤廃。
素人・・・それまで米取引を行っていなかった商人も自由に売買してもいいというものでした。
新たな商人の参入によって、米の流通量を増やして米価の引き下げを狙った緊急時の時限立法です。

しかし、この政策は、幕府の意図とは逆の方向に・・・
新たに参入した商人たちの中に、投機目的で米を買い占めて価格のつり上げを狙うものが現れました。
買占めによって米価は一層高騰します。
幕府は、米価高騰を収めるため、商人による米の買い占めを禁止します。
しかし、これが出されても、米の買い占めは治まることはなくあがる一方でした。
どうして買占めは止まなかったのでしょうか?
それは、商人たちが法の目をかいくぐったからです。
米価高騰の背景には、商人が旗本と結託して、賄賂などを贈って旗本の屋敷に預けて米を隠す・・・
市中に出回る米が少なくなるので米の値段が上がります。
これは、将軍直属の隠密であるお庭番が、町で広がる噂の実情を探っています。

米の値上がりと不正への怒りが、人々を打ちこわしに向かわせました。

打ちこわしがあった町の辻には、木綿の旗が掲げられていました。
その旗には、打ちこわしに及んだ理由と幕府への要求がびっしりと書かれていました。

”老中をはじめ町奉行や諸役人が、結託して悪事を働いたため、その罪により打ちこわしを行った
 もし、幕府が徒党の者をひとりでも逮捕し、罪を科すならば老中や町奉行、諸役人を行かしてはおけない
 その為の人数は、何人でも動員するし、このことを厭うことはない 生活の成立を保障する政策を実施すべし”

木綿の旗に記された言葉には、打ちこわしは正義の行いという強い思いが書かれていました。
怒りの矛先は、直接的には不正を行う商人に向かいます。
しかし、為政者たちにも向いていきます。
為政者は、全ての人の生活を成り立たせる大きな役割があるからです。
今、自分たちの生活が成り立たなくなっている・・・
これは正義の行いだと、自分たちは思っているのです。
自分達の正義の行いを取り締まるような為政者がいたならば、本来の正義に反するという思いがありました。

打ちこわしを目撃した人は・・・

「誰一人打ちこわしを憎むものなし」

打ちこわしは江戸に暮らす人々に強く支持されていました。

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1787年5月・・・江戸では米の値上がりの影響で家賃が払えなくなり、長屋を追い出される町人が続出し、飢えに苦しんでいました。
そして、思わぬ社会現象が起きました。
隅田川にかかる永代橋や両国橋から多くの人が身を投げ、溺死する人が続出しました。
その為、見張りが増やされ、橋の上での行動が監視されるようになりました。
橋からの身投げが難しくなると、隅田川の渡し船から身を投げるようになり・・・渡し船が停止されました。

米の値上がりで最も苦境に立たされたのが、長屋に住むその日暮らしの店子でした。
かつて享保の大飢饉の時、幕府は多くのためにお救い米を出しました。
今回も、店子たちの間でその期待が高まりました。
身分の低い店子が、町奉行に直接願い出ることなど許されません。
そこで、店子たちは自分の暮らし町の責任者である町名主にすがりました。
町名主にお救い米嘆願を訴えたのです。
ところが、町名主たちは、町奉行から、店子たちが騒動を起こさないように監視するように言われていました。
町名主たちは板挟み状態・・・苦しい立場にありました。
そうした町名主たちの代表が、商業の中心地・日本橋界隈を取り仕切っていた3人の年番名主でした。
上からの命令と、下からの訴えに挟まれた彼らは・・・??

お救い米を願い出る・・・??
町の者たちをなだめて騒ぎを防ぐ・・・??

5月18日、年番名主たちは決断を下します。
それは、店子たちに寄り添い、お救い米を願い出ることでした。
嘆願書は、江戸の行政と司法の責任者である町奉行宛に出されました。

”町の者たちはみな、困窮しています
 お救い米をいただけないと、餓死者が出続けます”

その文末には、

”お慈悲が全ての者たちに行き届くよう、甚だ恐れ入りつつお願い奉ります
 町中すべてが嘆いているため、やむを得ず申し上げた次第です”

必死の思いで町人たちが出した嘆願書・・・果たしてその願いは・・・??

江戸の年番名主の訴えから遡る事1年・・・
幕府を大きく揺るがす事態が起きていました。
1786年8月25日、10代将軍徳川家治死去。
これによって、およそ20年間にわたって老中として幕政を取り仕切ってきた田沼意次が失脚。
以後、田沼派と、白川藩主の松平定信を老中にしようとする反田沼派が反目する事態となります。
城内は緊張状態にありました。
そうした中、年番名主によるあのお救い米の嘆願書が提出されました。

5月19日、町奉行所からその回答が出ます。
しかし、それは驚くような内容でした。

男性は米2合、女性と子供は米1合を時価で売り渡すというものでした。

さらに、米の代わりに大豆を食べることを推奨するおふれが出されました。
しかし、大豆もまた高騰!!
無償のお救い米を待ち望んでいた江戸の町民たち・・・
その期待は、すっかり裏切られたのです。
おふれが出された日、米価が20%上昇。
さらに、北町奉行・曲淵景漸が暴言を吐いたという噂が・・・

「昔、飢饉のときに犬を食べたことがある
 今回も犬を食え」

町人たちの怒りは頂点に達しました。
そして翌日の5月20日、打ちこわしが始まりました。
5日間に渡り江戸の町は大混乱に陥ります。
事態を収拾すべく、幕府は遅ればせながら動き出しました。
お救いの実施を決定!!
まず、奉公人を除くすべての町人に米と大豆を3合ずつ支給されました。
さらに幕府は、20万両を支出し、商人から買い集めた米を安価で販売。

町人たちは、水を得た魚の如く喜び安堵したといいます。
町人たちの願いに向き合おうとしなかった着た町奉行曲淵景漸が打ちこわしの責任を取らされ解任。
さらに、田沼派の重鎮で御側御用取次の横田準松が将軍に打ちこわしを隠したとして失脚。
これをきっかけに、政治の主導権を反田沼派が掌握。
翌月には、松平定信が老中に就任しました。
民衆の蜂起によって政権が交代したということは、江戸時代始まって以来、初めての出来事でした。

田沼派に変わって政治の実権を握った松平定信は、米価引き下げのための政策を次々と打ち出します。
幕臣と商人との癒着や賄賂を厳しく取り締まります。
米を大量に必要とする酒の製造を1/3に制限。
さらに、地区ごとに町会所と呼ばれる米蔵を設置。
50万人が1か月食べられる米を備蓄しました。

これらの政策が功を奏して、天保の飢饉の際には江戸で打ちこわしが起きることはありませんでした。
町人たちの怒りの抗議が世を変えたのです。

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日本人が知らされてこなかった「江戸」 世界が認める「徳川日本」の社会と精神 (SB新書)

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1806年、蝦夷地と呼ばれていた北海道周辺の島々に、突然異国の船が姿を現しました。
ロシアの軍艦です。
ロシア船は、樺太や択捉島にあった幕府の出先を次々と襲撃、略奪や放火を続けました。
いわゆる露寇事件です。
ことの発端は、通商を求めてきたロシアの申し出を、幕府が無下に拒絶したことでした。

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時は11代将軍・徳川家斉の御代・・・江戸では華やかな文化が花開いていました。
ところが、1807年6月、はるか北方から江戸幕府を揺るがす知らせが届きました。
ロシアの軍艦が、蝦夷地にある幕府の出先を襲撃したのです。
外国船による日本への襲撃・・・蒙古襲来をおもわせる大事件でした。

舞台となったのは、蝦夷地の北東に位置する択捉島・・・
報告によると、この年の4月29日、ロシア船2隻が択捉島のシャナに姿を現したのです。
シャナには、幕府の施設が置かれ、函館奉行所の役人と弘前、盛岡の藩兵が駐屯、警備していました。
この時、幕府役人は戦う意思がないことを示す白旗を掲げ、穏便に交渉を行おうとします。
しかし、ロシア兵は上陸するとすぐさま銃撃を仕掛けてきました。
弘前、盛岡藩兵も、銃で応戦!!
しかし、艦砲射撃まで繰り出してくるロシア側の圧倒的な火力を前に防戦一方となり、戦意を失った指揮官はついに撤退を命令します。
ロシア兵は、倉庫にあった食糧や武器、金屏風などを奪い施設を焼き払って去っていきました。
この時、捕虜になった盛岡藩兵・大村治五平の手記が残されています。
大村は、襲撃のさ中に捕虜になり、ロシア船に連行されます。
その際に見聞きしたことを絵を交えて詳細に記録していました。
ロシア船は、大型の大砲を4門装備、水兵たちは砲径の大きい鉄砲を装備していました。
さらに大村は手記で日本が敗走する様子を記しています。

”ロシア人が上陸すると、警備の者どもは鉄砲を担いでみな山中に逃げ、姿を消してしまった”

7月、幕府に新たな知らせが届きます。
6月初め、ロシアの攻撃に対抗するため武器を積んで蝦夷地北部の宗谷に向かっていた幕府御用船が、利尻島沖でロシア船に襲われたのです。
大砲や鉄砲、食料などが奪われ、船は焼かれてしまいました。

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6月5日、利尻島で日本人捕虜が解放されます。
彼らはロシア側からの手紙を持たされていました。

”先だってお願いしたロシアとの通商の件、承知しなければ大軍を以て北国筋を占領する”

一連のロシア船の襲撃は、単なる海賊行為ではなく、ロシアが国家として行ったことが分かったのです。
武力で脅かして通商を求める・・・あからさまな脅迫でした。

択捉島襲撃から15年前・・・1792年9月に、蝦夷地・根室の沖合に一隻のロシア船が来航しました。
ロシア船エカチェリーナ号です。
乗っていたのは、ロシア皇帝エカチェリーナ2世の使節で陸軍中尉のアダム・ラクスマンです。
ラクスマンは、松前藩を通じて幕府に書状を提出します。

”ロシア領に漂流してきた日本人を江戸の役人に引き渡したい
 返答がなければ、我々の船は直接江戸に向かう”

日本人漂流民の返還を理由に、直接江戸に赴きたいという要求でした。
この時、対ロシア外交に臨んだのが、老中首座・松平定信でした。
1793年6月、定信は松前に回るように求め、そこで返答書を渡しました。

”国交なき異国の船は、打ち払うのが古よりの国法”

まず、国の定めとしてロシア船の江戸行きを拒否、一方で譲歩も行います。

”通商を望むならば長崎へ行き、現地の沙汰に任せよ”

定信はラクスマンに長崎の入港許可証を与えました。
長崎に行けば通商の可能性があると示したのです。
その背景には、定信のロシアへの強い恐れがありました。
定信がロシアを知った書物・・・仙台藩の医師が書いた「カムサスカ国風説考」です。
それにはアフリカからアジアまでが描かれた世界地図が収められています。
その中でひときわ目を引くのがロシアでした。
ヨーロッパからシベリアを経て、オホーツク海沿岸まで広大な領地を持つロシア・・・
さらにロシアは勢力を拡大、千島列島を南下し始めており、日本は蝦夷地を挟んで大国ロシアと向き合っていたのです。

「鎖国」と呼ばれる日本の通航管理の体制は九州シフトでした。
17世紀「鎖国」が完成した段階では、ヨーロッパは東南アジアや南中国の方面から来て・・・長崎屋平戸に来ていたからです。
そこをしっかりとしておけば、対外関係は管理出来ました。
しかし、想定されていなかった北のロシアが東進して、カムチャッカ半島から千島列島・ウルップ島まで進出してきました。
今度は九州ではなく、日本の北方のどこまでが日本なのか??
どこまでを鎖国の範囲にするのか??
課題を迫られたのが、松平定信の幕閣でした。

定信は、ラクスマン来航に際してこう記しています。

「数百艘の蛮船 もし江戸海へ入り来たり候はゞ いかで勝ん
 御武器なんとも 俄にはそろひがたし
 この処は誠に必敗の道なり」

戦いになれば勝てない・・・定信はラクスマンに通商を望むならば長崎に回るようにとすることで、紛争を回避したのです。
「将軍のお恵みによってロシアが願ってきた交易や貿易を許してあげる」との形式が整えば、交易は許す余地をロシアとの関係においては、定信は交易を実現させる余地は残したのです。
しかし、ラクスマンが長崎に現れることはありませんでした。
ところが、ラクスマン来航から12年後、長崎にロシア船が姿を現します。

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長崎湾を警備する福岡藩、佐賀藩、大村藩の船の前に現れたのは、巨大なロシア船・ナデジタ号でした。
目的は、通商の要求・・・彼らは、定信がラクスマンに渡した長崎入港許可証を持参していました。
代表者は、ロシア使節ニコライ・レザノフ。
ロシア皇帝アレクサンドル1世の侍従長という貴族で・・・もうひとつの顔がありました。
当時ロシアは、アジアからさらに北米まで勢力を拡大し、交易をおこなう露米会社を設立。
レザノフはその総支配人でもありました。
露米会社は、上質なラッコの毛皮を求めて東へ東へと進み、アラスカまで進出していました。
しかし、入植地のカムチャッカ・アラスカは寒冷地の為、食料不足に苦しんでいました。
後に入植地の現状を、レザノフはこう記しています。

「現地は飢餓に悩まされており、冬は特に苦しい
 全域で悲惨な状況にある」
 
入植地の問題を解決するには、最も近い日本で食料を手に入れる以外にない!!
レザノフは、日本との通商を強く願って自ら赴いたのです。
レザノフは、ラクスマンが長崎の入港許可証を与えられたからには通商は許可されると信じていました。
しかし・・・知らせを受けた幕府上層部は、レザノフの上陸を拒否、24時間の監視体制を敷きます。
2カ月半後・・・レザノフはようやく上陸を許されますが、陸の上でも軟禁状態に置かれます。
住まいの周りは壁で厳重に囲われ、周囲との交流も許されないまま半年が過ぎます。
ようやく江戸から来た役人と対面したのは翌年・・・1805年の3月でした。
レザノフは駕籠に乗せられ長崎奉行所に向かい、日露会談が行われました。
しかし、幕府の役人はレザノフが持参した国書も贈り物も受け取りを拒否、けんもほろろの対応でした。

”我が国が国交を結んでいるのは、朝鮮と琉球、通商を行っているのはオランダ、中国のみ
 貴国の希望には、議論の余地がない
 速やかに日本から去れ”

これが半年の軟禁の末の答えでした。
レザノフは、日記にこう記しました。

”これは私にとって、屈辱以外の何物でもない”

なぜ日本はラクスマンの時とは全く違う対応を行ったのでしょうか?
ラクスマンに長崎入港許可証を与えた松平定信は1793年に老中を辞職、対ロシア外交には関与していませんでした。
当時の幕閣は、老中首座が戸田氏教、レザノフ担当は老中・土井利厚。
レザノフは滞在期に親しくなった通訳から、この対応は老中首座の戸田氏教が反対しているからで、戸田が政権を去れば通商交渉は可能になると告げられたと記しています。
一方、老中・土井利厚から対応について諮問を受けた大学守・林述斎の記述によれば・・・

”丁寧に対応して交易をお断りするのがよかろうと申し上げたが、老中は粗略に扱えば腹を立てて二度と来ないだろうと、無礼な対応をとることにした”といいます。

1805年4月、通商を拒否されたレザノフはカムチャッカに帰国。
しかし、怒りは治まりません。
露米会社の入植地の苦境も深まっていました。
レザノフは、武力で日本を脅そうと決断し、部下にこう命じました。

「日本はかつて一度通商に同意しながら、我々を拒絶するという背信行為を犯した
 カラフトに入港し、日本船を見つけてそれを焼き討ちすること

 日本人はこれを阻止する難の能力もないことに気づき、我々と通商関係を結ばざるを得なくなるだろう」

こうして露寇事件が始まりました。

蝦夷地襲撃の報せを受けた幕府は、直ちに東国諸藩に蝦夷地に兵を出すように命令します。
弘前・盛岡・秋田・庄内、4藩の3000人の兵が蝦夷地に赴きました。
兵は、函館や宗谷・斜里など海岸線の要所に配置され、ロシア船の攻撃に備えました。
この危機にあって、幕府が意見を求めた人物がいます。
松平定信・・・かつてラクスマンに対応した定信です。
この頃、老中首座が、定信の腹心である松平信明に代わっていました。
その為、定信に意見を求めたと考えられます。

定信が3回にわたって提出した意見書・・・蝦夷地一件 意見書草案が残っています。
最初の意見書の日付は6月15日、エトロフ襲撃の報せが幕府に届いてまもなくです。

”択捉島にロシア人がいれば厳しく打ち潰し、海辺へロシア船が来たら激しく攻撃して焼き捨てにし、幕府の武威を示したうえで、蝦夷地への狼藉の理由をただしその回答次第で対応を決める
 通商を求めてのことなら、後々の問題にならないように議論をつくせ”

第2の意見書は、7月2日。
解放された日本人捕虜がもたされた書簡から、通商を承知しないとさらに攻撃を加えるとロシアが強迫してきたことが判明した直後です。

”武威を示したうえで、通商に応じ、実力行使は択捉より先の島々二三島に行う”

第1の意見書では武威を示す場所が日本の勢力圏のエトロフだったのを、ロシアの支配下である島々への攻撃に改めています。
ロシア領にまで踏み込んで攻撃しない限り武威を示したことにならないと考えたのです。
その理由を定信はこう記しています。

”長崎で丁寧に頼んできたときには断わり、侵略すれば願いが叶うでは、ロシアだけでなく他の外国からも日本の武威が軽蔑されてしまう”

侵略されたので通商に応じるとなれば、日本の国威が揺らぎ、ロシア以外の国からも軽蔑されてしまうと考え、ロシア領への攻撃を提案したのです。
武威さえ示せば、通商を認めても良いと考えていました。
しかし、事態は急変します。

蝦夷地でロシアに惨敗・・・!!
幕府が隠していた事実が、世間に知られてしまいました。
余りに不甲斐ない負けっぷりに憤慨した函館奉行所の役人が、その様子を手紙で江戸に知らせたからです。

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”日本は開闢以来他国に負けたことのない国である
 然るに この度のエトロフの大敗は、日本国の大恥
 誠に残念至極である
 江戸中に知らせて見せしめにいたし候”

さらに、利尻島沖で幕府御用船がロシア船に襲われた時、幕府の役人たちが戦うことなく船を捨てて逃げたことが明らかになりました。
幕府の兵が戦わずして逃げた・・・江戸市中では、こんな狂歌が詠まれました。

”蝦夷の浦に打出でて見ればうろたへの
    武士のたわけの わけもしれつつ”

ロシアにいかに対抗するか、幕府の権威をいかに回復するのか??
二つの問題に直面した定信は、3つ目の意見書を書き始めます。

武威を示して通商を認める??
それとも通商不可、外国徹底排除??

松平定信に洗濯の危機が迫っていました。

8月3日、第3の意見書の草案を書きあげました。

”最初は武威が立って、ロシアが謝罪すれば通商を求めようとも考えていた
 色々風説を聞くと、御用船が襲われた時の逃亡などまるで武威が立たない
 これでは異国だけでなく、国内の取り締まりさえ危うくなる
 通商を許すことは決してあってはならない”

定信は、通商不可・外国徹底排除を選択しました。

1807年12月に、ロシア船打ち払い令を出し、徹底対決の方針を示します。

”おろしや船と見請候は 厳重に打ち払い おろしや人不埒之次第に付 取計方きびしくいたし候”

幕府は新たに秋田・庄内・仙台・会津藩に出兵命令を出します。
兵は、クナシリ、エトロフ、宗谷、樺太を中心に配置され、ロシアの攻撃に備えました。
4年後の1811年、クナシリ島にロシア軍監の館長・ゴローウニン上陸。
ゴローウニンは捕らえられ、松前に送られて取り調べを受けます。
そこで、ロシア側の襲撃は、皇帝の許可なく行われたこと、さらにレザノフは命令を撤回したが部下が暴走していたことが判明します。
ロシア側の謝罪文が届けられたことで、ゴローウニンは釈放されました。

かくして江戸幕府を震撼させた露寇事件は一応決着を見ます。
決着から4年後の1817年、松平定信は、この経験からこう記しています。

”ヲロシアのみ蛮国にあらず
 とるこ いたりあ ぽるとがる イギリスなどの大国もまた多し
 されば不慮に備えるのが防御の寛容なり”

露寇事件をきっかけに、鎖国は幕府始まって以来の決まり事として強く意識されるようになります。
この後、ペリーの黒船が力でこじ開けるまで、日本は外国との新たな通商を始めることはありませんでした。

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新紙幣・・・1万円の顔となった渋沢栄一・・・
明治時代、日本最初の銀行や、製造業、鉄道、ホテルなど500の会社を設立、日本資本主義の父と呼ばれた人物です。
次々に会社を興した経済人としてのイメージが強い渋沢ですが、別の顔があります。
日本の社会福祉事業の創始者です。
完成して間もない鹿鳴館でチャリティーバザーを開催、貧しいに人々の救済に奔走します。
貧民は経済発展の邪魔だといわれる中、悪戦苦闘します。

eiiti
















こちらは、渋沢栄一の風刺画です。
まるで千手観音のように色々なものに手を出していたというものです。
実業家としての渋沢栄一ではなく、福祉事業家としての渋沢栄一とは・・・??

1867年、一隻の大型汽船が日本からフランスへと向かっていました。
15代将軍慶喜の義弟・徳川昭武を長とするパリ万博使節団一行です。
その中に、28歳の渋沢栄一の姿がありました。
渋沢は、武蔵国の豪農の息子でしたが、その才覚を認められ、幕臣として随行を許されたのです。
到着したパリは、万博を契機に大きな経済発展を遂げていました。
日本が足元にも及ばないこの発展は、どのようにしてできたのでしょうか?
渋沢は、その源泉をパリで出会った一人の銀行家から学びます。
フリュリ・エラールは、渋沢を銀行や株式取引所に案内し、資本主義のシステムを教えます。
銀行や株式会社は、人々から集めたお金で投資、そこで得たもうけを人々に還元する・・・
この資本主義の仕組みを使えば、巨額の資金を調達でき、フランスの発展の原動力となっていたのです。
渋沢は、パリで髷を切り、決意します。

「銀行や株式会社などの資本主義のシステムを日本に作ろう」

渋沢がパリにいた頃・・・
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発!!
これに勝利した薩長を中心に明治政府が樹立しました。
帰国した渋沢は、1873年民間人の立場で日本人で初めて銀行(第一国立銀行)を設立。
国立とあるが、国の法律にのっとるというもので、あくまで民間の銀行でした。
かくして、渋沢は日本の資本主義の父として第一歩を歩み出したのでした。

一方、渋沢にはもう一つの顔がありました。
東京都板橋区の一角に建てられた銅像・・・渋沢栄一の銅像です。
こここそ、社会福祉事業家・渋沢栄一の原点でした。
渋沢が終生関わった東京養育院という福祉施設のあった場所です。

1872年鉄道開設。
東京は文明開化を迎え、大きく変貌を遂げようとしていました。
しかし、その一方で、繁栄から取り残され住む家を失った人々も街にあふれていました。

江戸幕府の瓦解により、100万都市といわれていた人口が50万人に・・・。
その6割以上が貧民とされ、日々の食事や寝るところにも困窮していました。
渋沢は、この現状を目の当たりにして、何とか方法はないか??助けることはできないか??と、強い問題意識を抱いていました。

1874年、渋沢にとって好機が・・・!!
東京府知事大久保一翁から依頼を受けます。
「七分積金の運用を引き受けてくれないか?」と。
七分積金とは90年前、松平定信の寛政の改革にさかのぼります。
その際に行われた政策の一つで、江戸の町内会の積立金の七分に相当する米やもみを徴収し、備蓄していたのです。
飢饉や災害が起こった時に御救い米として放出し、江戸庶民のセーフティーネットとなっていました。
さらに、松平定信は人足寄場を作っています。
浮浪人に大工やわらじづくりなど手に職をつけさせ社会復帰させる更生施設です。
江戸幕府が瓦解すると、七分積金は、そのまま東京都に引き継がれました。
この時七分積金の総額は、170万両・・・今の金額で170億円でした。
この江戸幕府の遺産に目をつけたのが、財政のひっ迫していた明治政府でした。
文明開化の時代、橋や道路の補修、連歌外建設・・・インフラ整備に流用しました。
元幕臣だった大久保東京府知事は、「七分積み金を困窮者の救済のために使ってくれ」と、渋沢に要請。
渋沢は早速、行動を起こします。
彼は、東京養育院という生活困窮者の救済施設を訪れます。
そこで愕然・・・子供も老人も、病人も一緒に収容され、100畳ほどの部屋に100人以上が詰め込まれていました。

「頗る乱雑を極めている
 その実情を見て、全く情けなく感じた
 いかに無料で収容しているにしても、これではあまりにも気の毒だと考えた」

ホームレスのような人々を、収容するだけの施設・・・
「その人たちをどうするのか?」という目標もなければ、施設自体をどのように維持させていくのかも考えていませんでした。
「社会全体で事業として確立させなければいけない」と、福祉という活動に非常に強くのめり込んでいきます。
渋沢は、七分積み金を使って、養育院の改革に乗り出します。
近代的な診療施設を設置、職業訓練所を設け、草鞋つくりなどの技術を学ばせ手に職をつける職業訓練所を作り社会復帰を支援、子供達には学問所で学ばせ知識をつけさせます。
渋沢は、七分積み金の生みの親である松平定信を生涯進行していました。
松平が行った構成システムにあるべき社会の姿を見ていました。

渋沢の談話集「論語と算盤」・・・渋沢は、論語と算盤を結び付けて理想の社会を説こうとしました。
”論語と算盤は、はなはだ不釣り合いで大変にかけ離れたものであるけれども、富をなす根源は何かといえば、仁義、道徳。
 論語と算数というかけ離れたものを一致せしめることが、非常に重要だ”

日本初の銀行設立を皮切りに、渋沢は、近代化に必要な基幹産業を次々と立ち上げ、日本資本主義の父として華々しい活躍をしていきます。
その頃、その手腕を見込んでオファーが・・・
主演の席に招かれた渋沢栄一、招待したのは三菱の創業者岩崎弥太郎でした。
当時、岩崎は日本の流通業である海運業を独占し、経済界の大立者として権勢をふるっていました。

「君と僕が堅く手を握り合って、事業を経営すれば、日本の実業界を思う通に動かすことができる
 これから二人で大いに大いにやろうではないか」by弥太郎

「いや・・・独占事業は、欲に目のくらんだ利己主義だ」by栄一

市場の独占を狙う岩崎弥太郎、多くの株式会社が自由に市場に参入することが資本主義社会の原則だと思っていた渋沢。
渋沢は、岩崎の申し入れを断って席を立ちました。

1881年、東京府庁・・・渋沢は寝耳に水の知らせを受けます。
東京養育院の廃止案が東京府議会に提案されたのです。
1879年から養育院は、東京府の税金で運営されていました。

「貧民を救うために、多額の税金を使うことは止めろ」
「渋沢は、惰民製造の本尊だ
 渋沢が余計なおせっかいをするから惰民が増加する!!
 養育院にいる惰民はみな、一時に追い出せ」by田口卯吉

渋沢は、真っ向反対します。

「一国の首府にして、これ位な設備を置いて窮民を救助すると云うことは、絶対に必要である
 顧みざるはこれぞ暴涙の政になる」

渋沢は、議会に廃止案の撤回を働きかけますが、多くの議員は支持しました。
この頃、明治政府は富国強兵をスローガンに、産業の近代化を推し進めていました。
紡績や造船などの工業を発展させ、西欧列強に対抗する国にしようというのです。
富国強兵論者からすれば、東京養育院の維持費は無駄・・・それは弱者の切り捨てにつながりました。

「もしこの施設を欠けば、餓死者が道路に横たわる惨状となるだろう
 将来を遂行すれば、廃止すべきものではない」

渋沢にとって養育院の廃止は、あり得ないことでした。
養育院の人々の命と生活を守り、そこからどう抜け出せばいいのか・・・??
困窮者を惰民と決め付ける議会と真っ向対決する渋沢・・・!!

①養育院を税金で維持??
社会福祉事業は、政府・自治体のバックアップが必要だ・・・
之を失うわけにはいかない・・・
幸い府議会には、懇意にしている議員がたくさんいる。
彼等に味方になってもらおう!!
しかし、養育院の人たちを惰民という人たちは、理解してくれるだろうか・・・??

②民間資金で運営継続
養育院はかけがえのない場所・・・
経済界で築き上げたネットワークを駆使し、民間企業から出資者を募るのはどうか・・・??
500もの企業に携わってきた私だ・・・必ず協力者がいるはずだ・・・!!
しかし、株式会社は営利が第一目的・・・利益の出ない養育院に理解を示してくれる人はいるだろうか・・・??

渋沢栄一の必死の訴えにもかかわらず、1884年には東京養育院の廃止が決定。
そこで渋沢は、こう啖呵を斬ります。
「府會がそれほどまでに無情であるならば、今後は養育院を独立せしめて経営するの策を、取らなければならぬ」

渋沢は、養育院の所属は東京府のまま、自分が運営する委任経営を申し出ます。
民間資金で運営継続を選んだのです。

しかし、運営資金はどのように捻出するのでしょうか?
ここから渋沢の挑戦が始まりました。
まず、渋沢が目をつけたのは、完成したばかりの鹿鳴館です。
西洋流の社交の場として舞踏会などが催されていました。
そこで、渋沢は政府高官や財界の婦人たちに働きかけ、1884年日本初のチャリティーバザーを開催。
手袋、足袋、人形、絵画など・・・身の回りのもの3000もの品をオークションに出品。
売り上げは3日間で7500円・・・今の6800万円にも上ったと言われています。
さらに渋沢は、財界の篤志家を一人一人たずね、多くの経済人から寄付を仰ぎました。
寄付者の名簿の最初には、渋沢栄一の名が・・・
次に三井財閥の幹部、大倉財閥の設立者が名を連ねます。

渋沢は、寄付を集める時、必ず大きな袋を持ち歩き、それを差し出しました。
実業界の大物・渋沢に促されると、誰も寄付を断れません。
人々は陰でこのかばんを”泥棒袋”と呼んでいました。
中には、冗談交じりにボヤく人も・・・
「渋沢さんが、寄付金を集めに来ると、ついつい出してしまう
 渋沢さんに長生きされては、こちらの身代がもたないよ・・・」

福祉事業・慈善事業は、事業自体を長く永続させ、社会に定着させるためには、福祉事業を維持させるための資金を活用する集める方法を自分達で考えなければならない・・・
こうして集めた寄付金を、公債や銀行預金に運用し、資金を増やしていきます。

東京養育院の資金・・・
1885年には3万5031円(2億9800万円)だったのが、1890年には11万8104円(8億8500万円)とまで増え、寄付の文化のなじみの浅い日本で、渋沢は社会福祉事業の資金を着実に増やしていったのです。
その後、養育院は拡大し、収容者も増えていき、東洋一の福祉施設となりました。

そして渋沢は、福祉活動の対象を困窮者だけでなく、災害にあって困っている人や、病気で苦しむ人たちにも広げ、医療や学術研究の施設の設立や運営に協力していきます。
さらに、当時はほとんどなかった保育所の構想も練っていきます。

”母親が安心してこの子を委託し、日が暮れるころには仕事が終わり、子を連れに来て伴って帰るというようなよいしっくみを作ったなら、非常に良いと思います”

ここには、一般の人々の普通の生活も福祉で支えようという思いが伺えます。
1909年70歳となった渋沢は、経済界から引退します。
しかし、社会福祉活動は、終生つづけました。

1929年、世界大恐慌・・・
日本でも失業者が続出し、東北地方では農村が深刻な飢饉に見舞われます。
国会では、貧困者を救う救護法が制定。
救護法とは、貧困者を救護することを国や自治体に初めて義務化したもので、後の生活保護法につながります。
しかし、法が制定されても、政府は予算がないことを理由に実施を延期します。
このまま貧困者の窮状を見逃してもいいのか・・・??
福祉活動家たちは、最後の頼みとして渋沢を頼ります。
救護法実現のための協力を仰ぎます。
この時、渋沢は91歳・・・病気と闘っていました。
活動家たちの話を聞くと・・・
「私はもうどれだけ生きられるかわからない
 私の命をみんなに与えていくのは本望だ」

そして、医師の制止を振り切り、羽織袴に着替え、大蔵大臣にこう訴えかけます。
「私たちが一生懸命働いて来て、日本の経済をこのようにしたのは、この時にこそみなさんに役立てていただきたいからでありました
 渋沢の最後のお願いです
 救護法を実施してください」

2年後の1932年、大蔵大臣は、予算を工面してようやく救護法を実施。
24万人もの人々が救護されました。
しかし、救護法実施を見ることなく、前年の1931年渋沢栄一逝去・・・92年の生涯でした。

東京都板橋区の一角にある銅像・・・
その隣にそびえたつ巨大な東京都健康長寿医療センター・・・
ここは、かつて渋沢が終生関わった東京養育院のあった場所です。
現在はお年寄りの医療や、リハビリで最先端の取り組みを行っています。
渋沢の思想を受け継いで・・・その場所は、日本有数の医療施設として人生100年の老後を支えています。

渋沢は晩年、各地で公演を活発に行い、日本の資本主義の在り方を訴えました。
それをまとめたのが、「論語と算盤」です。

「世の中がだんだん進歩するにしたがって、社会の事物もますます発展する
 ただし、それに伴って、肝要なる道徳仁義というものが、共に進歩していくかというと、残念ながら”否”と答えざるを得ぬ
 仁義道徳と、生産殖利とは、元来ともに進むべきものであります」


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育てる力 栗山英樹『論語と算盤』の教え [ 栗山英樹 ]

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4月30日、先の天皇陛下は退位され、令和時代を担う新しい天皇が即位されました。
天皇の生前退位は、江戸時代以来実に200年ぶりのことです。
最も近い先例となった天皇は・・・??
光格天皇です。

時は江戸後期・天明年間・・・
度重なる天変地異や飢饉に民衆が苦しみ、江戸や大坂で打ちこわしが・・・京では5万人もの人々が御所を取り囲み、天皇に救いを求めました。”御所千度参り”です。
光格天皇は窮状を幕府に訴え、お救米を出させることに成功します。
天皇が政治に口を出すのは、幕府始まって以来、前例のないことでした。
天皇は幕府に物申すだけではなく、譲位式を描いた絵図は、さながら平安絵巻のような行列です。
公家、武家だけでなく、町衆も繰り出して見物しました。
古式にのっとって儀式を復活させ、朝廷の威光を高めていったのです。
朝廷の権威に生涯を捧げた光格天皇・・・その知られざる戦いとは・・・??

鳥取県倉吉市・・・光格天皇に関わる興味深い資料が残っています。
天皇の母が記した手紙です。
「どのような因縁でこのような恐れ多いこととなったのかと我ながら不思議に思います。」
実は、光格天皇の生母・磐代は、倉吉の庶民の娘でした。
京都で光格天皇の父・閑院宮典仁親王の屋敷に奉公し、親王との間に祐宮・・・後の光格天皇を産みました。
典仁親王は東山天皇の孫にあたる皇族で、庶民出身の母との間に生まれた祐宮は本来天皇位とは縁遠いはずでした。
ところが、後桃園天皇が亡くなり・・・残されたのは、生後10か月の皇女だけ・・・
皇統断絶の危機を乗り越えるため、次期天皇の白羽の矢が立ったのです。
1779年、9歳で皇位を継ぎます。
後にこう語っています。

「皇統の末端にいた私が天皇となったのは思いがけない天運だった。」

その出自もあって、光格天皇は生涯本来ある天皇の姿を追い求めたといいます。
中でも力を注いだのが、廃れていた朝廷儀式の復興でした。
新嘗祭・・・しかし、戦国時代以降は、長い間御所の外で公家が代行するようになっていました。
光格天皇は、1786年途絶えていた新嘗祭を再興。
他にも大嘗会、朔旦冬至旬、新宮旬・・・などを復活させ、かつての天皇の権威を取り戻そうと努めました。
しかし、それが儀式の枠を超え、政治に及んだ時、為政者である徳川幕府との衝突を生み出したのです。
きっかけは、1783年の浅間山の噴火でした。
大量の火山灰による天候不順は、東北を中心に数年にわたる飢饉(天明の大飢饉)を引き起こしました。
影響は大都市にも及びます。
1787年江戸や大坂で打ちこわしが起こります。
そして京都でも一大事件を引き起こします。
”御所千度参り”です。
貧窮に苦しむ人々が御所を取り囲み、天皇に向かってお参りを繰り返したのです。
その数、1日に5万人になることもありました。
現場に居合わせた男は・・・

「京だけでなく、大坂や近江からも人が集まり、まるで伊勢参りのような人の集まりだ
 御所では人々が厳しい熱さを避けられるよう、周囲の溝を掃き清め、湧水を流してくれている
 リンゴも三万個も配られていたが、昼過ぎにはなくなってしまった
 京の町衆は、奉行所に何度も訴えたが、何一つしてくれないので天皇に直接訴えることにしたのだ
 あまりにも大規模なお参りが続くので、幕府でも対応を協議し始めたようだ」

この背後で、民衆の窮状に心を痛めた17歳の光格天皇が動いていました。
幕府とのやり取りで・・・
「この頃、飢えて困窮した人々が、御所の築地塀を回って拝礼している
 幕府が米を出して救済するようにすることはできないだろうか」
と訴えています。

朝廷が政治のことに口を出すのは、徳川幕府が始まって以来前代未聞のこと・・・対応を巡って幕閣は紛糾します。
申し入れからおよそ1月・・・
1787年幕府1500石の御救米を京に放出します。
天皇の思いが、幕府を動かしたのです。

天皇としてなさねばならないことがある・・・将軍に意見を言うことを・・・!!
自分がやりたいことをやれば、結果として世の中が少しは良くなるのだ
人を助けるという実感を得たのです。

光格天皇の直筆の書簡には・・・
「自身を後にし、天下万民を先とする」
若き天皇は、幕府との関係を変える大きな一歩を踏み出したのです。

1788年1月30日、思わぬ事態が京都を襲います。
応仁の乱の大火を上回る大火・・・天明の大火で、市中の8割が焼失・・・
火の手は御所にも及び、禁裏御所をはじめ、全てを焼き尽くしたのです。
御所からほど近い聖護院・・・難を逃れてきた光格天皇が仮住まいをした部屋が今も残っています。
18歳の光格天皇は、この仮御所で、焼失した御所の再建という難題に取り組むこととなったのです。
光格天皇は、江戸時代に入って規模が縮小されていた御所を平安様式で再建しようとしました。
しかし、それは容易いことではありませんでした。
江戸時代を通じて朝廷の支出をすべて負担してきた幕府を説得する必要があったのです。

その頃、うち続く不作や飢饉の対策を余儀なくされ、幕府財政も深刻な打撃を受けていました。
再建を担ったのが、8代将軍吉宗の孫で、名君として知られた老中・松平定信でした。
寛政の改革で・・・定信は、徹底的な緊縮財政を行い、あらゆる支出の見直しを進めました。
そんな定信にとって巨額な平安様式の御所の再建など、到底認められるものではありませんでした。
1788年5月、御所造営奉行に任じられた定信は、自ら京に乗り込み、天皇の意を汲んだ関白との交渉に臨みました。
定信の主張は・・・
”費用が巨額となれば、負担を転嫁される下々が困窮する
 元の通りの再建でよい”
天皇の意向はこれと真っ向から対立し・・・
”御所全体というのではなく、紫宸殿と清涼殿を平安時代の様式で再建し、儀式の意味を整えたい
 材木についてえり好みはしない・・・”

半年に及んだ交渉・・・その結果は??
現在の京都御所・・・光格天皇の望み通り、平安様式で再建されたものが今に受け継がれています。
焼失前に比べ敷地面積が1800坪増加、紫宸殿は格式の高い入母屋造りとされ、儀式を滞りなく行えるように建坪が増やされました。
清涼殿は、武家様式の書院造から平安様式の寝殿造りに代わっています。
注目すべきは紫宸殿と南門との間の回廊・・・それまではなかったが、復元されました。
幕府が費用の面から一番難色を示した部分です。

どうして回廊が認められたのでしょうか?
幕府側の資料によると・・・他の個所で減らした部分があり、今回は天皇の考え通りに造営すると書かれています。
定信は光格天皇の強い想いに屈し、他の建物の坪数を少なくすることで帳尻を合わせたのです。
今後の朝廷への対応について定信は・・・
「復古と言っても程がある
 以後、新たな要求については固くお断り申し上げるべし」としています。
御所債権を目論み通り実現させた光格天皇・・・しかし、幕府との間に争いの火種が燻り始めたのです。



1791年12月、21歳となった光格天皇・・・幕府との対決は、新たな局面を迎えました。
この都市の12月、天皇は41人もの公家を御所に招集し、意見を求めました。

「父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたい」

典仁親王は、閑院宮家の当主で皇位についたことはありません。
従って、天皇の譲位後の尊号である太上天皇号を贈るというのは極めて異例のことでした。
背景には、宮中における序列の問題がありました。
「禁中並公家諸法度」には、””三公下親王”とあります。
三公とは、太政大臣・左大臣・右大臣のことで、典仁天皇は、天皇の父であるにもかかわらず、臣下のしもに座ることを強いられていました。
光格天皇は太上天皇の尊号を贈ることで、序列を変えようと図ったのです。
しかし、それには幕府の承認が必要でした。
天皇は殆どの公家が賛成同したことを力にして、幕府との交渉を間を取り持つ武家伝奏に交渉を命じました。

光格天皇の主張は・・・
閑院宮典仁親王に太上天皇号を贈るのは、かねてからの願いである。
わが父も老齢・・・何としても叶えたい
これまでに、鎌倉時代の後高倉院、室町時代の後崇光院のように、皇位につかずに太上天皇になった先例もある
朝廷の大多数が賛成している中、幕府が認めないようならこちらにも考えがある

事態はすぐに江戸に急報されました。

これ以上、新規の要望は認められない・・・定信は幕閣に対し、断固たる方針を表明します。

松平定信の主張
先例といっても、各々状況が異なるので、従う必要はない
天皇が持ち出したのは、政治の混乱期の特例である
私情により、皇位についていないのに太上天皇号を贈るのは、道理に合わない
それでも尊号を贈るというならば、責任者の公家を処罰し、閑院宮御自身に尊号を辞退していただくまで

定信は、断固として尊号の拒否を主張・・・しかし、天皇も引き下がる気は毛頭ない!!
1792年8月・・・朝廷は幕府にこう通告しました。
”新嘗祭までに尊号を贈れなければ、御心は穏やかではない
 天皇は11月上旬、尊号を贈ることをお決めになられた”
天皇側からの一方的な通告・・・定信も反撃に出ます。
”皇位とはそのように軽々しいものではない
 尊号を贈ることは決してご無用”

真っ向からぶつかった両者の主張・・・勝利するのは・・・??

1792年10月、光格天皇のもとに、幕府から驚くべき報せが・・・
”武家伝奏・正親町公明、議奏・中山愛親、広橋伊光、異常3名の公卿は江戸へ下向すべし”
武家伝奏や議奏は、本来朝廷と幕府の関係を円滑にするための公家です。
定信は、彼等こそが朝廷を強硬姿勢に傾かせた黒幕を説断じます。
あくる1月・・・正親町と中山は江戸へ下向・・・老中・松平定信直々の厳しい取調べを受けました。
下された処分は、正親町公明=逼塞・中山愛親=閉門・広橋伊光=差控というもので、幕府が皇位の公家を直接処罰するのは、前代未聞のことでした。

定信はその理由を・・・
朝廷が内々に天皇の意思を幕府に伝え、幕府がそれを承認した上で、表立って交渉するものだ

朝廷は幕府に図ることなく一方的に尊号を贈ることを強行しようとした・・・
これまでの手続きに従わず、幕府を蔑ろにしたことを定信は許せなかったのです。
一旦は抵抗するも、幕府の強硬な姿勢に屈し、尊号を贈ることを断念し、公家たちの処罰を受け入れました。
この件は、天皇にとって手痛い敗北となったのです。
しかし・・・光格天皇の心から朝廷の権威回復の意欲が失われたわけではありませんでした。

「桜町殿行幸図」・・・1817年、47歳を迎えた光格天皇は譲位し上皇となります。
これまで住んでいた禁裏御所から仙洞御所に移る様子を描いたものです。
行列を先導するのは、華麗な装飾の牛車・・・その後に正装に身を固めた公家が付き従います。
平安絵巻さながらの行列が繰り広げられました。
この行列の中に、鈴鎰(れいいつ)は鈴などを入れた櫃、大刀契・太刀などを入れた櫃などが行列にあります。
大刀とは、古代・律令制下の将軍が遠征時に天皇から与えられた節刀と割符、鈴鎰は国司が持参する駅鈴と赴任先の倉の鍵が入っています。
南北朝時代以降記録から消えていたこれらの品々を復活させ、譲位の儀式に用いたのです。
地方に国司を派遣、将軍を派遣・・・これは空間的な統治を表象するものです。
天皇は血統が一連につながっている・・・そして、国家国民全体に心を向けていることを示しています。

絵巻にはもう一つ興味深い光景が・・・
桟敷に陣取って行幸を見物する人々・・・公家武士に混じって庶民の姿も・・・当時殆ど外出することのなかった天皇が禁裏御所を出るというので、多くの人が拝観しました。
さらに絵巻に描かれたことで、その壮麗さは後世に残りました。
譲位はあらゆる人々に、朝廷の威光を思い起こさせる結果となったのです。
当時の幕府も例外ではなく、定信が老中を辞して20年以上・・・
時の将軍・11代徳川家斉は、その権威を確固たるすべく、朝廷に接近。
自らを従一位左大臣に、世子・家慶を正二位内大臣に異例の官位昇進を願い出ました。
譲位後も朝廷内で大きな力を持っていた光格上皇は、この要求に応じました。
見返りとして得た物は大きく・・・聖護院に秘蔵されています。
光格上皇が修学院離宮に行かれたときにお乗りになった網代輿・・・
江戸時代初め、後水尾天皇が造営した修学院への御幸は90年以上途絶えていました。
将軍家の官位昇進への返礼として幕府はこの行事を復活させたのです(1824年)。
庭園や建物は修復され、道具類も新規に整えられました。
500両にのぼる道具の費用、上皇の外出に伴う1000両の支出はすべて幕府が負担しました。
光格上皇の修学院御幸は14回に及び、そのための莫大な支度金が幕府から朝廷に支払われました。
幕府はいつしか天皇の権威に寄りかかり、自らを権威づけることに必死になっていたのです。

1840年光格天皇は70年の波乱の生涯を閉じました。
尊王攘夷が全国に広がっていく幕末の到来はその僅か十数年のことでした。


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小京都と言われる飛騨高山は、江戸時代の面影を今に止め、多くの観光客でにぎわっています。
この地で250年前に異彩を放つ一揆が起きました。
それは大原騒動・・・飛騨高山の農民1万人が決起しました。
3代にわたって19年もの間、親子2代の代官と対峙しました。
過酷な増税と、容赦のない拷問・・・タブーとされていた鉄砲による一揆弾圧。
農民たちはあらゆる手段で代官に抗い続けました。
強訴、捨訴、駕籠訴・・・
大原騒動、その真実とは・・・??

高山市の中心部にある飛騨国分寺・・・
1771年12月11日、この境内に飛騨高山の農民たちが続々と集まってきました。
その数実に数千人!!
人びとは大きな声で叫び、罵り、その声は町中に響き渡りました。
明和騒動と呼ばれる1回目の大原騒動です。
どうしてこんなにたくさんの農民たちが集結したのでしょうか?

大原騒動の顛末を参加した農民が著した「夢物語」
そこには農民たちの発言が鮮明に記されています。

「とにかく今度の代官は金銭欲が強い人で、皆でいろいろ工面してお金を納めた。
 江戸表からの要請だというが、そんなことはない。
 代官の言うことは信じられない。」

代官の支配に対する不平不満、疑念が騒動の原因でした。

1766年5月10日、高山陣内に新しい代官が。。。大原彦四郎です。
大原はもともと下級武士の出で、勘定所留役→勘定組頭→代官と順調に出世してきていました。
就任すると、高山陣屋の地役人に転勤をいいます。
地役人は皆、高山の出身で農民と近しい存在でした。
大原はここで飛騨高山の統治に厳しく臨む姿勢を鮮明にしました。

1771年飛騨高山に激震が・・・
向こう5年間、飛騨高山の樹木の伐採を禁止すると幕府の命令でした。
乱伐で木材の質が落ちたので、暫く山を休めようというのです。飛騨高山は江戸幕府の直轄地・天領でした。
豊富な山林は御用木にされ、山間部の農民たちはその伐採で糧を得ていました。
それが中止となれば、農民たちにとって死活問題です。
農民たちは代官所に向かい、御用木の伐採継続を願い出ました。
しかし、大原代官は「これは幕府の決定である」と、願いを退けました。
そして農民たちに追い打ちをかけます。
「陣屋の修復が必要なので、その費用は農民たちが負担するように」
息をのむ農民たち・・・しかし、大はr代官は・・・
「とはいえ、このままでは生活に困るだろう
 幕府に年貢を安くしてもらえるように取り計らってやる
 ついては運動費用として3000両を用立てよ」
どうして大原代官はこのように難題を要求したのでしょうか?

代官は勘定奉行の管轄下にあり、そのトップは老中・田沼意次でした。
田沼政権下に、大原彦四郎代官は、金銀の力で全てのことをうまくやっていたのです。
金権政治家・田沼意次を後ろ盾に、大原は異例の出世を成し遂げてきたのです。

かくして大原代官の難題に抗うべく、飛騨高山の農民たちは飛騨国分寺に集結してきました。
1771年12月14日、声を上げた一人の人物・・・大古井村伝十郎です。
伝十郎は、休山取りやめ嘆願のために江戸に赴いていました。
そこで、大原代官の更なる不正の情報を入手しました。

「休山で困っている俺たちを助けるどころか、大原代官は飛騨高山の商人たちと手を組み、治めた年貢米を巡って金儲けを企んでいる・・・!!」

代官は年貢米を元に安い米を買い、利ザヤを稼ごうとしている。。。
この話を聞いた農民たちは激高!!
暴徒と化して商人たちの屋敷を襲います。
これが明和騒動です。
打ちこわしは、2晩にわたりました。

農民たちの考えを、正式な文書として大原代官に提出。
そこには46の村、百姓たち95人の署名、捺印が円形に推されていました。
一致団結のために行われたものです。

農民たちの並々ならぬ努力を前に、3000両の資金提供と陣屋の修復費用の負担を取り下げます。
しかし、打ちこわしに参加した農民たちには厳しいお咎めが・・・徹底した首謀者探しのため、伝十郎ら数十人をつかまえ厳しい取調べが行われました。
角責、火責で苦しみ、さけび、かなしむ有様は目も当てられぬ上古湯でした。
そして・・・伝十郎たちに判決が・・・
大古井村伝十郎・・・
百姓どもを呼び集め、居宅へ踏み込み、建具諸道具損さし候 始末に及び候段 徒党の頭取に相決し 不届き至極につき・・・死罪申しつくるものなり。
伝十郎は打ちこわし首謀者として2年間獄中の後、1774年斬首!!



岐阜県高山市飛騨一宮水無神社・・・古来農業を奨励する神社として飛騨の人たちに厚い信頼を受けてきました。
神社の前に立つ強大な碑・・・そこには「一宮大集会之地」と書かれています。
明和騒動から2年後、この境内で農民たちの大集会が行われました。
その数、およそ1万!!
中心人物は本郷村善九郎、わずか19歳の若者でした。
安永騒動と呼ばれるこの一揆はどうして起こったのでしょうか?
1773年3月18日、陣屋に近い花里村に、大原代官の姿がりました。
検地が行われたのです。
元禄検地以来、飛騨では80年余り検地が行われていませんでした。
その間に新しくできた田畑を検地するのが目的でした。
その様子を見ていた農民たちおどろきます。
従来の検地では、1~2割少なめに測量します。
これは縄心といって、凶作や農民の意欲に対する配慮でした。
しかし、大原代官の検地は、全く縄心がありません。
極めて厳格に、正確な面積を帳簿に記していきます。
そして約束を破って、古田までも測量し始めました。
古田を正確に測量し、さらに新しい田畑を追加することで、年貢が2~3割増し、場所によっては5割増しとなりました。

花里村の検地の様子は、瞬く間に飛騨高山中に広がり、農民の代表たちは大原代官に抗議しました。

「古田は、検地しないお約束でした」

すると大原は・・・
「時に望んでは、嘘言方便も世の宝なり」

1773年7月22日、江戸品川の沖合に一艘の船が浮かんでいました。
中にいたのは密かに江戸に潜入していた飛騨の農民たちです。
彼等は大原代官の悪政を止めるために非常手段に訴えるべく相談していました。
それは、駕籠訴。
駕籠訴とは、幕府の有力者や大名の駕籠が通るところで待ち伏せして、直接訴状をだす・・・当時厳禁されていました。
決行する農民たちの家族は、国中の農民で面倒を見ると誓っての命をかけての訴えでした。
7月26日午前9時、桜田門通り・・・そこに、駕籠訴を決行する6人の農民の姿が・・・!!
訴える相手は老中・松平武元・・・。
いよいよ駕籠がやってきて・・・たくさんある駕籠・・・どれが松平武元の駕籠かわからない・・・
そこで農民たちは近所の者に金を渡して、どの駕籠か教えてもらうように頼んでいました。
脱兎のように飛び出す6人!!
ようやく駕籠にたどり着いて駕籠が止まり・・・早速嘆願書を差し出し・・・
決死の駕籠訴は成功!!訴えは老中に届いたのです。
しかし、決行した6人は一人は牢死、5人は獄門となりました。

駕籠訴決行の報せを聞いた大原代官は激怒!!
村の代表者を呼びつけ・・・
「6人の者は、村の総代ではない。
 私共の全く存ぜぬことである。」という文書を要求しました。

これに納得できない農民たちが、1773年9月、飛騨一宮水無神社に集まってきました。
その数1万!!
率いるのはわずか18歳の本郷村善九郎。
善九郎は農民たちに呼びかけます。
「駕籠訴を命がけで決行したのは、我々の代表だ!!
 どんなにつらい目にあおうとも、偽りの証文に捺印することはできない・・・!!」
10月20日、善九郎ら3000人の農民が、高山陣屋に押しかけました。
強訴の結構です。
強訴とは、多数の農民が団結し、領主側を圧倒・・・強引に要求をのませる百姓一揆を指します。
陣屋の門前に姿を現した大原代官に、善九郎は言います。
「今年の年貢米の上納を、来年3月まで延期してほしい。
 検地御赦免願いのため、代表3000人を江戸へ送るので、代官の添え状を書いてほしい」
3000もの農民に恐れをなした代官は、こう答えます。
「お前たちの願い承知した。」
歓喜の声を上げる農民、善九郎達。。。
この時、大原代官は、すでに武力による弾圧を考えていました。

かねてから幕府は一揆が起きた際には、幕府の沙汰を待たず直ちに近隣の藩に出兵を要請せよという通達を出していました。
大原代官は、隣国の郡上藩に一揆鎮圧を要請。
500人もの兵が高山藩に向かいました。
11月15日未明・・・1万もの農民が立て籠る飛騨一宮水無神社を郡上藩の大軍が襲いました。
この時、驚くべき事態が・・・!!
足軽20人が先頭に立ち、鉄砲を次々に撃ち始めました。
島原の乱以降、一揆制圧には鉄砲を撃ってはいけないというのが幕府の方針でした。
それを曲げ、幕府は鉄砲使用の許可を出したのです。
神社に入れば、手荒な真似は出来ないと思っていた農民たちは逃げ惑うのみ・・・
鉄砲による死者4人、逮捕者350人!!

首謀者善九郎は、自宅で捕らえられ・・・
抗うことなく善九郎は、年老いた両親に
「命は初めから無きものと覚悟していました。
 先立つことは不幸ですが、これも宿命と諦めてください。」
農民たちに下された判決は、磔4人、獄門10人、死罪2人、遠島14人・・・
このほか、罰金など1万人の農民の殆どがなんらかの罪に問われました。
農民の完全な敗北でした。

1774年12月5日、本郷村善九郎 獄門・・・。

検地は再開され、飛騨の石高は約25%増しの5万5000石に!!
農民たちの命をかけた戦いは、水泡と帰したのです。

1777年5月、大原代官は将軍お目見えの布衣郡代に昇進。
我が世の春を謳歌していました。
しかし、1779年、大原郡代は原因不明の熱病で悶死。
人びとは、亡くなった農民たちの祟りだと噂しました。

1783年7月、浅間山大噴火!!火山灰が空を覆い、各地に天明の大飢饉をもたらします。
飛騨高山も大凶作に・・・。
この時飛騨郡代の任にあったのが大原亀五郎・・・1781年9月22日に布衣郡代を父から継いでいました。
亀五郎は先代と同じく、ひたすら金銭を農民から収奪する姿勢を崩しませんでした。
この年、農民たちから6128両を借財。
翌1784年には江戸幕府からの返戻金1600両を没収。
その一部は、田沼意次の賄賂に使われたともいわれています。
飛騨の郡代は世襲というのはあまりなく、幕府から役人が派遣されてくる中・・・
二代続いたのは、金銀の力をもって世襲の配慮が働いたのでは・・・??

安永騒動で徹底的な弾圧を受けた農民たちは、大原亀五郎の悪政に耐えるほかありません。
しかし、生活は苦しくなるばかり・・・
追いつめられた飛騨の農民は、一策を講じます。
捨訴です。
捨訴とは、訴状を奉行所や老中の門前に密かに捨て去る・・・
身元がわからないので、誰が捨てたのか限定されずに、飛騨高山の様子を伝えることができる・・・!!
農民たちは、大原郡代に対抗しようとします。
折しも、1786年田沼意次は失脚していました。

この時農民がわらをもすがる思いで訴えたのは・・・新たな老中・松平定信でした。
松平は清廉な政治を目指していました。
訴状を見た定信は、諸藩や天領を視察する巡見使を飛騨高山に派遣!!
これを知った大原亀五郎は、農民が巡見使に願い出ないよう徹底的に取り締まります。
この時、農民側で活躍したのが大沼村忠次郎です。
忠次郎は飛騨を出て、能登の白瀬村まで逃亡・・・巡見使が飛騨に入るのを見計らって再び飛騨に戻り・・・
1789年5月26日、飛騨高山大萱村で巡見使に会います。
忠次郎が大原亀五郎郡代の悪政を伝え、国中の農民が困窮し、それを省みない郡代など百姓に勝利はありません。と訴えました。
8月20日、江戸の勘定奉行の屋敷において、郡代と農民の吟味が行われました。
朝10時、大原亀五郎がお白州に・・・夕方5時ごろ、忠次郎らが呼び出されました。
郡代と農民とが同じ白州で平等に吟味を受けたのです。
さらに郡代の部下や農民たちに吟味を行い、ようやく4か月後・・・
1789年12月25日、判決が申し渡されます。

大原亀五郎は八丈島流罪、大夢魔村忠次郎お咎めなし!!

他の農民の殆どが、お叱りなどの軽い罪で済みました。
かくして死者34人、遠島17人など多くの犠牲を払った大原騒動は、19年にわたる長い戦いに幕を閉じたのです。

自分達の命と生活をかけた飛騨の農民たちの戦いは、今も静かに語り継がれています。

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