日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:松平容保

1853年、アメリカ東インド艦隊司令官マシュー・ペリー率いる黒船4隻が、浦賀沖に姿を現しました。
黒船来航・・・それは、2世紀半続いた江戸幕府の終焉の始まり・・・
外圧に、攘夷を叫ぶ声、幕府の権威は低下していきました。
そんな時代に幕府をしょって立つことになったのが、14代将軍・徳川家茂です。
家茂が将軍だったのは、8年9カ月・・・そのすべてを、幕末の騒乱を治めるために奔走しました。

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14代将軍・徳川家茂誕生。
黒船の来航により、長く続いた太平の世は終わります。
ペリーは開国を要求、そのわずか19日後、危機に直面した幕府に追い打ちをかけるように、12代将軍徳川家慶が死去。
13代将軍に就任したのは、家慶の子・家定でした。
しかし、生まれつき病弱の家定に、世継ぎの誕生が望めなかったことから、早々に次の将軍を誰にするか、将軍継承問題が持ち上がります。
候補は2人・・・御三家・水戸藩の出身で御三卿・一橋家を継いだ一橋慶喜と、御三家・紀州藩主の徳川慶福(のちの家茂)です。
慶喜を擁立した一橋派を占めるのは、薩摩藩主・島津斉彬や土佐藩主・山内容堂らの外様大名、将軍選びには能力を重視し、譜代大名以外の有力大名も幕政に参加すべしという開明派でした。
対して慶福を担ぎだしたのは、譜代大名の彦根藩主・井伊直弼や会津藩主・松平容保らの南紀派・・・今までの幕藩体制を維持しようとする保守派でした。
この将軍争いで、当初は慶喜がリードしていました。
慶喜はすでに元服していて慶福より年長で、さらに、非常に優秀で、英名の誉れ高い青年でした。
慶福はまだ13歳・・・血筋は近いが、難しい政局を乗り切るには慶喜の方がいいのでは??と思われていました。
しかし、将軍の光景となったのは、劣勢とみられていた慶福でした。

どうして将軍になれたのでしょうか??
ひとつには、慶喜の足を引っ張った人物・・・慶喜の父で水戸藩主の徳川斉昭です。
斉昭は、かつて大奥の女中を襲って妊娠させ、大奥から嫌われていました。
その為、その子である慶喜が将軍になることに、大奥が強く反発したのです。
当時、大奥の力は強く、将軍後継選びにも及びました。
さらに、慶福を押す南紀派の井伊直弼が大老に就任。
形勢は逆転・・・直弼の強権によって、慶福は将軍後継となるのです。

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1858年、13代将軍・徳川家定が死去。
それに伴い、慶福は名を家茂と改め、14代将軍に就任します。
この時まだ13歳でした。

家茂は、1846年5月24日、11代紀州藩主・徳川斉順の嫡男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれます。
幼名は菊千代・・・父は、菊千代が生まれる前に亡くなってしまったため、誕生後、12歳紀州藩主となっていた叔父・斉疆の養子となりました。
ところが、斉疆も、30歳の若さで死去・・・
1849年、菊千代はわずか4歳で13代紀州藩主に就任しました。
そんな菊千代には心強い味方がいました。
波江という美しく聡明な教育係です。
家茂の誕生から教育係を務め、しっかりと手堅く、相応の人物でした。
波江の教育のおかげで、家茂はリーダーとしての資質を備えて行きました。

6歳になった菊千代は、元服の儀に先立って、12代将軍・家慶に拝謁することになりました。

「今日は非常に大切な日ですから、お泣きにならないよう、大人しくしていなければなりませんよ」by波江

しかし、重々しい雰囲気で不安になり号泣・・・

「好きなものでなだめすかし 遊ばせよ」by家慶

そうして座敷に持ってこられたのは小鳥・・・
菊千代は、鳥や虫が大好きで、この時もすぐに泣き止み、無事将軍と対面することができました。
屋敷に帰ってきた菊千代は、波江の顔を見るなり

「波江、泣いたよ!」by菊千代

約束を破って泣いてしまったことをそのまま報告・・・
誠実な少年へと成長していきます。

菊千代は、家慶から慶の字を賜り、13代紀州藩主・徳川慶福となります。
そして藩主として恥じないよう、鍛錬をかさねて行きました。
毎日、朝は手習いのために筆をとり、その後、論語や孟子などを素読・・・剣術や柔術の稽古も怠りませんでした。
まさに文武両道・・・
1858年、慶福は江戸幕府14代将軍・徳川家茂となります。
その真面目さ、聡明さは変わることがありませんでした。

そんな家茂は、多くの幕臣から慕われます。
しかし、その優しさが動乱の時代の家茂を苦しめます。
家茂は、自分を将軍にしてくれた大老・井伊直弼に絶大な信頼を寄せます。
しかし・・・幕府の実権を握る直弼が暴走して開国路線を強行・・・!!
朝廷の勅許をえることなく独断でアメリカと日米修好通商条約を結んでしまいます。
さらに、安政の大獄を行い、幕府に批判的な勢力を弾圧粛清していきました。
直弼の横暴を良しとしない水戸藩士たち・・・尊王攘夷派によって、大事件・・・桜田門外の変!!
1860年3月3日・・・水戸浪士たちが登城中の井伊直弼を江戸城桜田門前で暗殺!!
直弼の死を知った家茂は涙し、悲嘆にくれたといいます。

将軍継承問題で勝利した南紀派の力が一気に弱まり、対立していた一橋派が息を吹き返します。
1862年、新たに将軍後見職に就任したのは、家茂と将軍を争った一橋慶喜でした。
幕府の実権は、一橋派が握っていくことになります。

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1860年、家茂の婚礼の儀が執り行われます。
将軍家に輿入れするため、京の都から江戸へ向かったその女性こそ・・・
時の孝明天皇の妹・皇女和宮でした。

アメリカの強硬な姿勢に屈し開国を決めた弱腰外交への批判、そして、大老・井伊直弼が白昼暗殺されるなど幕府の権威は急速に衰えていきました。
焦った幕府は、将軍・徳川家茂と皇女との婚礼を画策します。
天皇家と姻戚関係を結び、公武合体を行うことで、緊張を緩和し幕府の権威回復を働こうと目論んだのです。
この時、家茂と年のころが釣り合うと選ばれたのが、時の孝明天皇の妹・皇女和宮でした。
しかし、宮中以外の世界を知らない皇女には、江戸は恐ろしいところと死か思えませんでした。

「鬼のような異人が集まるところに違いない」by和宮

和宮は、当初この婚礼を強く拒みました。
しかし、

”惜しまじな
   君と民とのためならば
 身は武蔵野の
   梅雨と消ゆとも”

兄・孝明天皇の為、民衆のためとこの婚礼を受けることになります。
1861年、和宮はお輿入れのために京都を発ちます。
道中の警備を入れると、総勢1万人以上、50kmにも及ぶ行列になったといいます。
そして、和宮の江戸到着から3か月後・・・
1962年2月11日、将軍家茂と和宮との婚儀が行われました。
この時二人は同じ17歳。
若い二人に混迷する幕府の行く末が託されたのです。

皇女から御台所となった和宮の住まいは、江戸城大奥!!
200年以上にわたる伝統と、厳しいしきたりによってつくられた女の園でした。
京の都とは異なる大奥での暮らし・・・不安と孤独の中で、和宮の心は固く閉じていきます。
しかし・・・やがて、和宮は心を開いていきます。
家茂の優しさから、信頼関係が生まれていったのです。
家茂は、和宮を大事にすることによって、幕府と朝廷の関係が良くなることを望んでいました。
かなり気を遣って大切にし、気にかけていたのです。
夫・家茂の優しく誠実な人柄が、和宮の心を開かせたのです。

229年ぶりの上洛・・・
時の孝明天皇は、異国人が日本に入ることを嫌い、外国勢力を打ち払う攘夷を望みます。
これに呼応し、天皇のいる京の都には、尊王攘夷派の志士たちが、全国から集結していました。
中心となったのは、桂小五郎・高杉晋作らのいた長州藩です。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけていきます。
そして、過激化した長州藩士とそれに呼応する公家たちは、天誅と称して、反対派への脅迫行為と暗殺を繰り返していました。
これに対し、幕府は会津藩主・松平容保を京都守護職に任じ、配下に浪士集団である新選組を置くなど、治安維持に努めます。
そんな中、1863年3月、14代将軍・家茂が上洛するのです。
江戸幕府将軍の上洛は、3代将軍家茂以来229年ぶりのことでした。

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当時の京都は、尊王攘夷を掲げる過激派の志士たちが暴れ回っていました。
将軍がいくことによって、幕府の力を京都に及ぼそうとしたのです。
それは、公武合体をより確かなものにするためでした。

孝明天皇と対面した家茂・・・2人の間である約束が交わされます。
「攘夷」実行が、天皇及び朝廷の強い意向でした。
孝明天皇の周りの尊王攘夷の過激派を納得させるためには、幕府が戦闘に立って外国船を打ち払うこと・・・それが、孝明天皇に対する忠誠だと考えました。
家茂は、現実的に外国船打ち払いは不可能だとわかっていました。
しかし、孝明天皇に対し、5月10日に譲位を実行すると約束するのです。

妻・和宮の兄でもある孝明天皇の御心を無下にはできない・・・
心優しき将軍は無理を承知の約束をしますが、これが家茂をさらに追い詰めていきます。
家茂が譲位決行日とした5月10日、幕府は動きませんでしたが、長州藩がとんでもない行動に出ます。
なかなか攘夷を行動に移さない幕府に業を煮やし、下関を航行中のアメリカ商船などに向かっていきなり大砲を放ったのです。
さらに、家茂が江戸に帰ったのち、京の都でも事件が起きます。
際限なく過激化する長州藩と尊王攘夷派の公家たちが、孝明天皇の不興を買い京都から追放されたのです。
世にいう、八月十八日の政変です。

その翌年の1864年1月・・・将軍家茂は、二度目の上洛を果たします。
参内した家茂は、孝明天皇からお言葉を賜ります。

「汝は朕が赤子
 朕 汝を愛すること子の如し
 汝 朕を親しむこと父の如くせよ
 その親睦の厚薄
 天下挽回の成否に関係す」by孝明天皇

親子のように互いに情愛をもって親しむことが、天下泰平へとつながると・・・
それは、公武合体を強固なものにしていこうということでした。
さらに、

「無謀な攘夷は望むところではない」

京都で家茂の心を癒してくれたものは、他にもありました。
和宮からの手紙でした。
しかし、時代のうねりは早く、激しく、家茂を巻き込んでいきます。

1864年7月19日、京の都を追放された長州藩が、御所周辺で武力蜂起!!
御所に攻め込んできました。
禁門の変です。
この暴挙に、孝明天皇は激怒!!
1865年9月、孝明天皇は長州征討の勅許を下します。
第1次長州征討・・・大坂にいた将軍・家茂が、幕府軍総大将として指揮を執りました。
しかし・・・なんと、混乱のさ中、朝廷に将軍の辞職を願い出るのです。
家茂はどうして将軍の辞職を望んだのでしょうか?
当時、国内の混乱に加え、諸外国からの圧力も強硬になっていく一方でした。
イギリス・フランス・オランダが、兵庫(神戸)の開港と、通商条約の勅許を強硬に求めていました。
幕府は兵庫開港をやむなしと考えていましたが、将軍後見職・一橋慶喜が開港に反対していました。
慶喜は江戸幕府と別の権力を京都で構築していました。
一会桑・・・一橋家・会津藩・桑名藩のことで、彼らは朝廷と強く結びついていました。
江戸幕府は、朝廷をコントロールしようと考えていましたが、「一会桑」は、朝廷の意向を第一に考えていました。
それが、大きな亀裂となっていたのです。
家茂は、幕府と一会桑の対立に板挟みとなり、有効な手段を打てずにいました。
事態は、家茂のキャパシティを越えてしまっていたのです。
将軍職を、慶喜に譲ろうとしていました。
しかし、慶喜はこの一番の難局に将軍となって火中の栗を拾う必要はないと考えていたのです。
家茂は、慶喜の説得を受けて辞意を撤回し、将軍職にとどまります。


不安なご時世に、庶民が歌い踊る「ええじゃないか」がはやる中、決してええじゃないかと言えない将軍・家茂はますます追い詰められていきます。

第1次長州征討の際、幕府への恭順派が権勢を握ったことで長州藩は戦わずして降伏。
しかし、これに我慢できなかったのが、長州藩の尊王攘夷派の中心にいた高杉晋作でした。
高杉は、町人や農民などの民衆で組織した奇兵隊を結成、武装蜂起し、再び幕府に反旗を翻しました。
これに対し、1866年再び長州征討の勅許が出され、幕府は15万人の兵を挙げて鎮圧に乗り出します。
第2次長州征討の始まりでした。
三度目の上洛をしていた将軍・家茂は、大坂城で布陣。
しかし、前とは状況が変わっていました。
長州藩と密か同盟を組んでいた薩摩藩が出兵を拒否します。
足並みが乱れた幕府軍は、敗戦を繰り返します。
そんな中、家茂が体調を崩します。
喉や胃腸の障害をきたし、やがて足が腫れだしました。
脚気です。
墓所の発掘調査によって、家茂には虫歯が30あったことがわかっています。
当分は、脚気の原因であるビタミンB1の消費を加速させます。

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孝明天皇が、自らの御典医を家茂のもとに送ります。
懸命の治療が行われましたが、その甲斐もなく、1866年7月20日、14代将軍・徳川家茂死去。
大坂城で息を引き取りました。
将軍在位・8年9カ月、まだ21歳でした。

激動の時代に将軍となった徳川家茂・・・後世の評価は??
幅広い人たちの信頼を得て、幕府の内紛や事件を未然に防いでいます。
確執が表に出ないような安定した政治を行えた人でした。
バランスがよく、人との信頼関係も上手に築けたようです。

家茂のような調整型の人との信頼関係を作る政治家には、もっと時間が必要でした。
家茂の亡骸は、和宮の待つ江戸城に運ばれました。
一緒に届けられたのが西陣織の反物・・・和宮が家茂におねだりしていたもので、家茂は具合が悪い中、忘れずに買っていてくれたのです。

悲しみに暮れる和宮が詠んだ歌・・・

空蝉の 唐織衣 なにかせむ
      綾も錦も 君ありてこそ

家茂亡き後、和宮は京の都に戻ることなく、徳川の女として生きます。
そして、1877年8月に亡くなりました。

その遺言により、2人は今、寄り添うように眠っています。
いつまでの仲睦まじく・・・

家茂の後、将軍となった第15代将軍徳川慶喜は、1867年に大政奉還。
江戸幕府は終焉を迎えました。
しかし、混迷を迎える幕末・・・
大きく揺れる日本を、崩れゆく江戸幕府を、必死で支えようと紛争開いていたのは間違いない将軍・家茂でした。
激動の世を駆け抜けた将軍、波乱に満ちた21年の生涯でした。

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戊辰戦争最大の悲劇・・・会津戦争。
新政府軍の猛攻を受け、鶴ヶ城は開城・・・民間人も多く巻き込まれ、戦死者は2000人を超えました。
この時、会津藩を率いたのが松平容保。
義を重んじ、幕府に殉じた藩主というイメージが先行する中、その実像は意外なほど知られていません。容保が幕末についてほとんど語らなかったからです。

容保の運命を大きく変えたのが、京都守護職への就任でした。
京に乗り込み、一橋慶喜らと共に政治の実権を握りました。
しかし、変革の嵐はあまりにも激しく・・・
幕府を揺るがす薩長の台頭、思いもよらない長州征討での敗北、そして・・・朝敵とされた鳥羽・伏見の戦い!!
容保を次々と襲った究極の選択がそこにはありました。
その悲劇の真相とは・・??



会津若松市鶴ヶ城・・・松平家23万石の居城です。
天守閣にある博物館に資料が残されています。
描かれているのは、会津から遠く離れた浦賀湾・・・江戸後期、イギリスの帆船が通商を求めて来日した様子を描いたものです。
中央には巨大な異国船・・・その周囲を取り囲むように小舟が・・・
よく見ると、小舟には会津の旗印が・・・!!
実は江戸ののど元にあたる浦賀の警備を会津藩が引き受けていたのです。

江戸時代、泰平の世ということもあり、各藩、武備には力を入れていませんでした。
しかし、会津藩は日ごろ地元でも軍事訓練を続けていました。
だから、会津藩に白羽の矢が当たったのです。

会津藩は、親藩の中でも特に最前線で徳川将軍家を守ることを期待され代々それに応えてきました。
藩祖・保科正之定めた「家訓」
十五条の最初にはこうあります。

”大君の義 一心大切に忠勤を存ずべし”

将軍に絶対の忠誠を誓うことが歴代藩主に課せられた使命でした。
第9代藩主・松平容保は、18歳の若さで藩主の座を引き継ぎます。
高須松平家に生まれ、会津に養子に入った容保が、まず教えられたのがこの家訓でした。
この教えを胸に、容保は時代の荒波に立ち向かっていきます。

時は幕末・・・京では尊王攘夷の火が燃え盛っていました。
導火線に火をつけたのが長州藩・・・
その狙いは、幕府の開国政策の阻止でした。
藩士を京に送り込み、異国排斥を訴え、朝廷の有力公家たちを味方につけていきます。

長州に呼応するように、過激な攘夷派の浪士が続々と京に集結。
幕府に近い公家の家臣などを標的に、テロを繰り返します。
この事態に幕府が頼ったのが、会津藩でした。
新たに設けた京都守護職に容保の就任を命じました。
その任務は、京に千人規模の軍隊を駐屯させ、治安を守るというものでした。
当然、巨額の費用も見込まれます。
家臣たちは、”薪を負うて火を救う”ようなものだと反対の声をあげました。
都での動乱に巻き込まれることを逡巡しながらも、容保は幕府の要請に応えることを決めました。

「我が会津藩は、徳川宗家と存亡を共に存亡すべし定められている
 君臣、ただ京の地を以て死所となすべきである」by容保

1862年12月、会津藩上洛。
容保は会津藩兵を率いて京に到着しました。
御所からおよそ2キロ・・・金戒光明寺は京都守護職の本陣が置かれた寺です。
容保が使った部屋が当時の姿に復元されています。
ここで容保は、京の治安回復の指揮を執りました。

1863年3月・・・この広間で容保と対面したのが、新撰組局長・近藤勇でした。
後に新撰組になる若い浪士たちと容保が初めてであったのもこの寺の境内でのことでした。
土方歳三や沖田総司らの腕前に期待を寄せた容保は、彼等を京の治安維持に用いました。
会津藩御預新撰組は、攘夷派の取り締まりに大いに力を振るいました。
守護職・会津によって、京の治安が回復に向かったことを誰より喜んだのは・・・時の孝明天皇その人です。
初めて謁見した際、天皇は容保の功績を称して、緋色の衣を下賜しました。

katamori

この時の陣羽織がそれです。
容保は大いに感激し、守護職の任務への思いを新たにしました。

しかし、その一方で、長州藩の動きは過激さを増していきます。

1863年5月、長州藩が下関海峡で外国船を砲撃。
長州藩は、攘夷派の公家と共に、更なる計画に動き出しました。

孝明天皇を神武天皇陵へ行幸させ、攘夷戦争の御前会議を開く
というものでした。




この計画が実現すれば、天皇の名のもとに外国へ宣戦布告するにも等しい・・・!!
対外戦争の危機が寸前に迫ったその時・・・!!
容保のもとに外様の大藩・薩摩からの報せが届きました。
長州と攘夷派公家に対するクーデターに、会津藩の協力を求めてきたのです。
容保はすぐに決断、会津藩士に薩摩と行動を共にすることを命じました。
そして、事態を知らされた孝明天皇からの極秘命令が容保に届きます。

”会津の兵力を以て、国家の害を除くべし”

1863年8月18日、政変の幕が切って落とされました。
会津藩兵が御所の門を封鎖し、長州に与した公家の参内を阻止、彼らを排除した朝議でその処分が決められました。
朝廷を牛耳っていた攘夷派公家たちは官位を剥奪、御所警備を解かれた長州藩と共に西国へと落ち延びていきました。
尊王攘夷派は、都から一掃されたのです。

事件のあと、孝明天皇から容保に下された直筆の和歌・・・
自分の意をくんで攘夷派追放に働いてくれた容保の忠誠に対し、天皇はこう詠んでいます。

武士と心合わして いわおをも貫きてまし 世世のおもひで

天皇と武士が心を合わして、国の難局に当たっていくことを望んだ孝明天皇・・・
容保もまた、朝廷と幕府が一体となって政治を行う公武合体の実現を自らの使命としていくのです。


1864年7月、失地回復を目論んだ長州藩が、京に進軍!!
御所を舞台に激しい戦いが繰り広げられました。
禁門の変です。
この時容保は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜らと共に出陣し、長州藩を撃退しました。
この結果、権力を掌握したのが一会桑・・・
容保と慶喜に桑名の松平定敬を加えた体制でした。
一会桑が目指したのは、江戸の幕府と京の朝廷をつなぐことです。
幕府が独断で政治決定を行う幕府専制から、朝廷の意思を組んで幕府が政治を行う公武合体への転換を図ろうとしました。

一方、禁門の変で御所に向けて発砲した長州に、孝明天皇は激怒。
7月23日、幕府に対し朝廷長州を討つべしと、長州征討の勅令を下しました。
この時、容保は江戸に書簡を送っています。
それは、将軍直々の上洛の要請です。
将軍・家茂を上洛させ、その後も京に常駐させることで、朝廷との意思統一を図り、公武合体を推し進めようという狙いでした。
ところが、容保の意図を阻止したのは、江戸の幕閣でした。

”容保公は単に京都守護職に過ぎない
 将軍の進退について、口を出すべきにあらず”

容保や会津藩は、朝廷と幕府が強調する・・・それが前提として幕府は存続できるという考えでした。
禁門の変みたいな重大な事件が起きれば、将軍自身が征夷大将軍として出陣をして、京都に行って将軍の誠意を見せる、朝廷の信頼を得るという考え方でした。
対して江戸の幕閣は、過去2度、将軍は上洛したが、朝廷や諸藩に振り回されて将軍の権威が失墜したと考えていました。
ここで、上洛をするということに対して非常に及び腰で、現状認識、危機感といううえで差がありました。

結局、家茂の上洛は持ち越され・・・代わりに征長総督に任命された尾張藩・徳川慶勝のもと、35藩・総勢15万の大軍が進発します。



1864年、第一次長州征討!!
全軍は、11月11日までに5つの攻め口に着陣。
1週間後に総攻撃を決しました。
ところが、ここで思わぬ動きを見せたのが薩摩藩でした。
薩摩は会津と共に長州排除に動いたものの、その後、一会桑によって政治の中枢から遠ざけられていました。
長州征討が成功し、一会桑の勢力がさらに強固になるのは好ましいことではなかったのです。
11月、征長軍参謀にあった西郷隆盛は、単身・岩国を訪れ、長州藩との交渉に臨みました。

”長州藩は速やかに禁門の変を主導した三家老を処分
 その首級を届けるべし”

過酷な処分のように聞こえますが、西郷は裏ではこの要求さえのめば攻撃を中止させ、その後も寛大な処分に動くことを長州に約束していました。
長州はこれを受諾、三家老を処刑し、恭順の意を示しました。
ここに、征長軍は、戦うことなく解兵することとなりました。

この時期、容保の元には、京都守護職をやめ、会津に戻ってくることを願う国元からの要請が度々寄せられていました。
しかし、長州征討が一段落した後も、容保はこう返答しています。

「自分が京にいるからこそ、薩長も好き勝手が出来ない
 引き上げた場合、どのような事変が生じるかわからない」by容保

第一次長州出兵は、三家老の首を長州藩が出して、一応終息しています。
しかし、問題はそれで終わっていません。
長州藩に対する朝敵としての具体的な処分を、京都で決めないといけません。
中途半端なところで帰っても、孝明天皇の信頼に応えることもできないし、幕府に対する責任を果たすことができない!!
京で自分が果たすべき使命がまだある・・・!!
容保は、守護職留任を決断しました。

1864年12月、長州で一大事変が勃発しました。
幕府への抵抗を掲げる高杉晋作らが決起、恭順派との内戦に勝利し、藩の主導権を握ります。
彼等は、藩内の武装を強化、表面上は幕府に恭順するが、いざとなれば戦争をも辞さないという方針でした。
この動きを察知した幕府は、
”長州藩内に容易ならざる企てがある
 御所からの要請もあったので、討伐のため将軍自ら出陣する”

朝廷にとっては寝耳に水でした。
天皇は軍事行動など命じていなかったからです。
急遽、説明のため参内を命じられた容保たちは、苦しい弁明を展開することになります。

「征伐」=将軍が大坂へ上る「進発」の意味に過ぎない

容保の言い訳の背景には、幕閣の計画を敢えて利用しようという狙いがありました。
容保たちから見れば、将軍を江戸から引っ張り出す千載一遇のチャンスでした。
将軍を上洛させて、長期間滞在させることで、朝廷と幕府が一体化、長州処分を執行することで、朝廷と幕府の権威が維持できる・・・!!

結局、朝廷も幕府の追討令を追認・・・
1865年5月、将軍・家茂は、江戸を進発し、大坂城に入りました。
11月、広島に目付が派遣され、長州の陰謀を糾問。
これに対し、長州側は、陰謀など事実無根だと弁明しました。
藩内への立ち入り調査も拒否され、使者は引き下がざるを得ませんでした。

どうにも不審な長州の態度に、老中が急遽状況。
一会桑との間で、対応が話し合われることとなりました。
この時、長州の軍事討伐にこだわった老中は失脚し、その顔触れは穏健派に代わっていました。
長州の態度にはあいまいな部分があるが、再度詰問すれば、紛糾し戦の恐れがある・・・
戦争を避けるためには、藩主親子の謹慎や、領地の削減など、寛大な処分にとどめるべき??

これに反発したのが一橋慶喜でした。
道理を曲げて寛大な処分を下すことに断固として反対しました。
反逆者への処分がうやむやになるようでは、幕府と朝廷の権威失墜を天下に示すことになる・・・!!
いざとなれば戦う覚悟で再度使者を送り、疑惑を徹底究明すべきだ・・・!!

果たして、容保はどちらに与すべきか・・・??

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容保の選択を伝える記述が越前藩の記録に残っていました。

”長州問題を巡って、一橋と老中は一旦決裂したが、その後、会津と桑名がとりなしたことで、両者は再協議することになった
 会議が物別れに終わると、容保が動いていた
 慶喜に直談判!!老中との再協議を説得した”

容保の選択は、長州に対する寛大な処分でした。
改めて開かれた会談で、長州処分最終案は・・・
・藩主父子の隠退
・領地10万石の削減
・朝敵の名は除く
でした。

1866年2月、長州藩に処分案を伝達、返答期限は5月29日に・・・!!

しかしこの時、容保の知らないところで歴史は大きく動いていました。
1866年1月・・・薩長同盟締結

”長州の朝敵の汚名を晴らすため、薩摩はいかようにも尽力する
 一会桑が邪魔立てするようならば、決戦に及ぶ”

長州は、処分を断固拒否し、徹底抗戦の意思を固め、薩摩もその支援を確約していたのです。
当然返答期限に長州の返事が届くことはありませんでした。
幕府の面目をつぶされたことに、慶喜は激怒。
6月7日、孝明天皇から一橋慶喜に長州征討の勅許が下ります。
開戦に踏み切りました!!
もはや、容保に止める術はありませんでした。
1866年6月、第2に長州征討の戦端が開かれました。
薩摩の援助で入手した最新式の武器が、幕府軍を圧倒していきます。
実はこの戦いには、精強を誇る会津藩兵が導入されていません。
容保は、この戦が、長州と会津の私戦と受け取られることを危惧し、出兵に踏み込めませんでした。
しかし、その後、会津兵を欠いた幕府は、各地で連戦連敗・・・
戦局を変えるべく、遂に出陣を決意します。
しかし、予期せぬ事態が待ち受けていました。
1866年7月20日、将軍・家茂が大坂で病死。
後を託された慶喜は、容保の必死の説得にも応じず、戦を続けることを断念・・・
第2次長州征討は、幕府の敗北に終わりました。
そして、更なる事態が容保を襲います。
1866年12月25日、孝明天皇崩御。
これをきっかけに、まるで崖を転がり落ちるかのように容保は窮地に追い込まれていきました。



1868年1月3日、鳥羽・伏見の戦い
会津は、徳川慶喜擁する旧幕府方として、薩長を中心とする新政府軍と戦火を交えました。
火力の差は歴然でした。
そして・・・新政府軍が、戦場に錦の御旗を掲げると・・・
朝敵に名指しされた慶喜は戦意喪失、海路を江戸へと帰ってしまいました。
傍らには、容保の姿もありました。

容保の小姓の手記「浅羽忠之助遺録」
容保の会津藩主就任以来そのそば近くに仕えた小姓です。
家臣に一言も告げず、戦場を離脱した容保に対し、忠之助はこう記しています。

「このような苦戦になり、死傷者も多く出ている
 それをお見捨てになって、お立ち退きとはあってはならない」

決死の逃避行の末、江戸にたどり着いた忠之助は、主君に拝謁し、そのことを諫言しました。
容保は、ただこう返したといいます。

「誠に失策の至りであった」

1868年閏4月、会津戦争
朝敵とされた会津は、新政府軍の猛攻に晒されました。
2500発もの砲弾を撃ち込まれ、鶴ヶ城は開城。
老人や女性、子供にまで多くの犠牲者を出し、会津戦争は終結しました。
鶴ヶ城のほど近くにある御薬園・・・
降伏ののち、死罪を免れた容保は、明治に入ってから数年間、この地で過ごしました。
公武合体の実現をひたむきに追い求め、夢破れた容保・・・

家訓十五箇条が会津藩の憲法でした。
「大君」は、将軍家であるとともに、帝・皇室であると考えていました。
帝と武家が、手を取り合って平和な国を作っていこうと・・・
これが、激しい時代の中で、全く逆の立場に立たされたのです。
自分は戦争責任者・・・
会津の罪もない人たちに大変な塗炭の苦しみを味あわせてしまった・・・
このことを、何より悔いていました。

会津戦争から25年・・・1893年、松平容保死去。
容保は59歳で没しました。
その亡骸は、会津の山中で、静かに眠っています。

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黒船が来航し、開国か攘夷かでゆれる幕末・・・日本事象最強と言われる剣客集団が京都で誕生しました。
新撰組と言えば、局長・近藤勇と鬼の副長・土方歳三です。

”近藤に誤謬なきは歳三ありたればなり”

近藤が過ちを犯さなかったのは、歳三がいたからこそ

と言われるほど、実質的に新撰組を取り仕切っていたのが土方歳三でした。
その人生は波乱万丈・・・!!
それでも最期まで新撰組として戦います。
江戸から明治へと時代が変わりゆく中、儚く散った新選組・・・土方歳三の生き様とは・・・??

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1835年武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農の家に10人兄妹の末っ子として生まれました。
父は歳三が生まれた年に病で病死。
母も6歳の時に他界しました。
歳三は、年の離れた兄夫婦に育てられました。
11歳と17歳の時、江戸の商家に奉公に出ます。
しかし、二度とも長続きせずに出戻って来てしまいました。
土方歳三は、2番目の姉・のぶの夫で日野宿の名主だった佐藤彦五郎の家など親戚の家に入り浸ります。
そこで、運命的な出会いを果たすことになります。

朋友との出会い・・・
土方は、17,8歳で武道を志し、立派な武人になって天下に名を上げようとして家の隅に矢竹を植えました。
しかし、江戸時代は、武家に生れたもの以外は、武士になることは難しかったのです。

土方が生まれる少し前・・・文化文政年間。
江戸近郊の村々にも急速に貨幣経済が浸透します。
それに乗じて農民の中には、高利貸しや質屋、酒作りなどを兼業するものが現れます。
彼等は商売で得たお金を使って、周辺の土地を買い集め、やがて豪農としてのし上がっていったのです。
土方の家も、「石田散薬」の製造販売で財を成していました。
その一方で、幕府の取り締まりを逃れようと博徒たちがやってきてしばしば賭場を開いていたので、多摩など関東の農村にならず者が集まり、治安は悪化。
そこで幕府は、集落のリーダー的存在だった豪農たちに、名字を名乗ることを許し、刀の所持・・・帯刀を認め、彼等に治安の維持を一任したのです。
このことが、豪農たちの意識を変えました。
名字帯刀を認められることは、武士と同様の刺客を与えられることを意味していました。
身分は農民でしたが、「身上り願望」・・・豪農たちには士族の身分に上がりたいという願望が強かったのです。
御家人に多額のお金を払い、家格を買い取るなどして実際に武士になる豪農もいました。

帯刀を許された豪農たちは、剣術の習得に励みます。
土方が育った多摩で一大勢力を誇っていた剣術の流派が、天然理心流です。
土方の義理の兄・佐藤彦五郎の家にも、天然理心流の師範が出稽古をつける道場がありました。
その為、彦五郎の家に入り浸っていた土方は、自然と剣術を学ぶようになります。
そして、そこへ江戸から指導にきていたのが、後に天然理心流宗家となる近藤勇でした。
一つ年上の近藤もまた多摩の豪農出身ということもあり、2人は意気投合。
やがて土方は、江戸にあった天然理心流の道場「試衛館」に通うようになり、若き日の沖田総司、長倉新八などと出会うのです。

土方が正式に天然理心流に入門したのは25歳の時でした。
10代の頃から彦五郎の道場で剣術を学んでいました。
実家で作っていた薬の行商を手伝っていて、薬箱に武具をくくりつけて売り歩いていました。
色々な流派の道場で、他流試合をし、腕を磨いていたようです。
天然理心流は、他流試合を禁じていたので、なかなか入門しませんでした。
正式に入門した2、3年後には、近藤に代わって門人の指導にあたっていました。
剣の腕前は相当でしたが、沖田総司には敵わなかったようです。
土方は、生涯独身で過ごします。
兄たちが世話した許嫁はいたようです。
江戸の三味線屋の看板娘でしたが、彼女をおいて京都へ行ってしまいました。

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いざ、京都へ
1862年、14代将軍徳川家茂が、京都の孝明天皇のもとへ参上することが決定します。
幕府将軍の上洛は、3代将軍家光以来・・・229年ぶりのことでした。
この頃、開国を進めていた幕府は、外国勢力を追い払う攘夷を主張する孝明天皇を懐柔しようと朝廷と共に政治を行う公武合体を進めており、家茂が京都で孝明天皇に拝謁することで、それを世に知らしめようとしていました。
しかし、当時の京都は、幕府に不満を抱き、天皇を敬い攘夷を唱える尊王攘夷派の浪士が暴れ回り、無法地帯と化していました。
そこで幕府は、浪士には浪士をぶつけようと・・・
江戸周辺の浪士たちを募って「浪士組」を結成します。
彼等に京都の浪士たちを取り締まらせ、家茂の警護に当たらせようとしました。
浪士組には、幕府に忠誠をつくし、腕に覚えのある者なら誰でも応募が出来ました。
無事、警護を務めれば、幕臣に取り立てられる可能性までありました。
それを聞きつけた土方は、武士になれると、近藤勇、沖田総司らと共に浪士組への参加を決めました。
土方が育った多摩地域は、江戸の西に接しています。
多摩は幕府の直轄領が多い地域で、西から敵が責めてきたときに、まず、多摩の地域で防衛することが想定されていました。
多摩の地域は、江戸を守る防衛線・・・自分達が江戸の町を守るという意識が高かったのです。
そんな土地柄で育った土方らは、将軍家茂の警護は自分たちの警護だと考えていました。

1863年2月8日、土方は故郷を離れ、将軍警護のために京都に向かいました。
この時、29歳。
京都についた土方たちは、会津藩お預かりとなります。
藩主の松平容保が京都守護職で、京都の治安維持と御所の警備などを担う役職でした。
その容保のもと、近藤や土方など試衛館のメンバーは、水戸出身の芹沢鴨の一派などと壬生浪士組を結成し、将軍家茂の警護を務めたのです。

1863年6月、14代将軍・家茂が江戸へ戻ります。
壬生浪士組は、引き続き会津藩預かりとして京都に残ることになりました。
その2か月後・・・八月十八日の政変が起き、朝廷とつながっていた攘夷派の長州藩やそれを擁護する公家たちを京都から追放することに成功します。
その際、会津藩と共に壬生浪士組は御所の警護に当たっていました。
その功績が認められ、新たに”新選組”の名が与えられたのです。
新選組は、かつて会津藩にあった剣客集団と同じ名前で、容保は期待を込めて、壬生浪士組に与えたものです。

新選組が誕生しましたが・・・
近藤勇と芹沢鴨の2人が局長の座についていたため、近藤派と芹沢派に分裂・・・
水面下でし烈な派閥争いが生じていました。
そんな中、鬼の副長・土方が、近藤勇中心の組織にすべく、冷徹なまでの一手に出るのです。

鉄の掟4箇条

一、武士道に背くことをしてはならない
二、局を脱走してはならない
三、勝手に金策をしてはならない
四、勝手に訴訟を取り扱ってはならない

禁を犯した者は切腹!!
厳しいものでした。
隊士の数は結成当初は24人でしたが、徐々にその数は増えていきました。
隊士は様々な身分から集まっており、地域も・・・千差万別でした。
そんな隊士をまとめるために、厳しい規制が必要だったのです。
しかし、その掟に従わないものがいました。
近藤勇と共に局長の座についていた芹沢鴨です。
芹沢は、活動資金と称して、豪商からお金の無心をします。
断わられるとその店を焼き討ちにすると脅迫しました。
さらに、力士たちと乱闘騒ぎを起こしたり、遊郭で遊女たちに乱暴を働くなど、その狼藉三昧は目に余るこのがありました。
これに激怒したのが、統括していた会津藩主・松平容保でした。
会津藩の沽券に関わる・・・もう一人の局長・近藤勇に、芹沢を処分するように命じます。
そこで動いたのが土方歳三でした。
土方は、芹沢を宴に誘い出し、たっぷりと酒を飲ませます。
そして、酔いつぶれた芹沢が屯所に戻り寝入ったところを・・・沖田総司らと共に襲撃し、惨殺したのです。
土方は、局長の近藤にカリスマ性を・・・と、自らはその為に、汚れ役に徹することで組織を円滑に運営していこうとしました。
時に冷徹なことも引き受けたことで、鬼の副長と呼ばれたのです。
こうして新選組は、局長の近藤勇と副長の土方歳三を中心とした組織へと生まれ変わるのです。

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1864年6月5日、そんな新選組の名を世に知らしめる事件が起きます。
池田屋事件です。
この日の朝、尊王攘夷派の協力者を捕縛します。
その男の家から大量の武器が見つかりました。
何かを企んでいると察した土方は、拷問にかけると・・・男はたまらず白状します。
長州藩が、尊王攘夷派の志士たちを使い、近々京都市中に火を放ち、孝明天皇を聴衆に連れ去ろうとしている計画が発覚したのです。
新選組は、なんとか阻止しようと近藤隊と土方隊の二手に分かれて捜索を開始。
やがて、近藤隊が池田屋で尊王攘夷派の志士たちを発見!!
知らせを受けた土方隊も池田屋に急行!!
新選組は、見事な連携で7人を討ち取り、4人を手負いにし、23人を捕縛しました。
京都の町と天皇を守ったのです。

新たな野望
局長・近藤勇のもと、新撰組を京都の治安を守る警察組織へと変貌させていった鬼の副長・土方歳三。
新選組は、京都の町で暗躍する尊王攘夷派の志士たちに畏れられる存在となりました。
そんな中、八月十八日の政変で京都から追放され、朝廷への影響力を失った長州藩が、7月19日、朝廷での復権を目論み、兵を率いて上洛・・・禁門の変を起こします。
しかし、御所を警備する会津軍や薩摩軍らの反撃にあい、長州軍は敢え無く敗走。
逃げる際、御所に発砲したため、朝廷は長州藩を朝敵と見なします。
幕府に長州藩を追悼するように命じます。
長州征討です。
これを聞いた土方は、「今こそ新選組の力を見せようぞ!!」と、新選組を発展させる新たな野望を抱きます。

土方が作成した”行軍録”・・・組織の編成表が書かれています。
長州征討に参加させるために書いたものです。
長州征討は、1864年と1866年の2度にわたって行われました。
土方は、新選組が招集されることを想定し、従軍した際の隊列を考え、行軍録に記したのです。
その編成を見ると・・・
中心には土方自身を、後方に近藤を配しています。
注目すべきは、部隊先頭に書かれた大銃隊、小銃隊です。
新選組は、軍備の洋式化を進めていました。
幕府は、フランスをバックに軍制改革をしていました。
その一環として、会津はもちろん、新選組も最新の軍備を進めていたのです。
長州征討が決まってすぐに、江戸で隊士の募集を行い、近藤は24人を連れて帰ります。
そんな近藤に宛てた手紙の中に、土方は、新選組隊士たちが毎日西洋式の砲術訓練を行っていることを報告しています。
土方は、組織を拡大し、西洋式軍備を進めることで、新選組を警察組織から軍隊組織に変貌させようとしていたのです。
結局、幕府は今まで通り、新選組を京都に残し治安維持にあたらせたため、新選組が長州征討に加わることはできませんでした。

1867年6月、新選組にとって嬉しい出来事がありました。
幕府直参の見廻組格となり、隊士全員が幕臣となったのです。
土方歳三は、見廻組肝煎格として70俵5人扶持が与えられました。
この時33歳。武士になるという大きな夢を抱き、29歳で江戸を発ってからわずか4年ほどでその夢を叶えたのです。
しかし・・・半年後、260年余り続いた江戸幕府が滅亡してしまいました。

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晴れて幕臣に取り立てられ、武士となった新選組でしたが、4か月後には15代将軍・慶喜が大政奉還。
それを受け、王政復古の大号令が発せられたことで、仕えるべき江戸幕府が滅亡してしまいました。
それでも、新選組、副長・土方歳三の幕府への忠誠心が揺らぐことはありませんでした。
1868年1月、旧幕府軍は、新政府軍と京都で激突。
鳥羽伏見の戦い・・・戊辰戦争の始まりでした。
新選組も、旧幕府軍として戦いに参加。
しかし、旧幕府軍がわずか3日で敗走・・・慶喜の指示によって、新選組は江戸へと向かいます。
土方は、鳥羽伏見の戦いを振り返り、こう述べたといいます。

「もはや銃や大砲の時代である
 刀や槍ではとても勝てない」

新選組自体は、近代化、西洋化されてきていました。
しかし、大きな戦いは初めてでした。
改めて、西洋式の軍隊としての訓練が必要だと考えたのです。
鳥羽伏見の戦いの敗戦で、新選組を西洋式の軍隊に変える必要性を痛感した土方。
江戸で、最新式の銃と共にマントやズボンを購入。
土方自身が洋服をまとい、髷を落としたのはこの頃だと言われています。
しかし、この新選組の軍隊かが思わぬ不協和音を・・・!!

盟友との別れ
江戸に入って2か月後・・・
新選組は、甲斐国の治安維持のために甲府に向かいます。
しかし、新政府軍がすでに甲府の町を占拠。
新選組はその手前、勝沼で新政府軍と激突します。
土方は応援を呼ぶために離脱!!
しかし、残った近藤らは、圧倒的な戦力の差によって2時間ほどで大敗してしまいました。
その直後、試衛館時代からの盟友・永倉新八や原田左之助らが脱退を表明。
永倉、原田など初期メンバーは、感情的にも不満がたまっていました。
そもそも新選組は、平等で同志的な関係性でした。
これに対して、近藤や土方は、上下関係がはっきりした関係性に切り替えたかったのです。
自分たちの意見が通らない・・・彼らの離脱は止む終えないことでした。

その1か月後・・・
近藤と土方は、新選組を立て直すべく200人以上の隊士と共に下総の流山に陣を張っていました。
すると、いつの間にか新政府軍に囲まれてしまいます。
隊士のほとんどが出払っていたため、陣には近藤と土方と数人のみ。
とても太刀打ちできない・・・と、観念した近藤は、切腹する覚悟を決めました。
しかし、土方は・・・

「ここで割腹するのは犬死にだ
 ここは近藤さんが出頭して、自分たちは徳川の脱走兵を鎮圧するための部隊だと言い張ってくれないだろうか」by土方歳三

少し前から、近藤はもしもの時のために、大久保大和という偽名を使っていました。
出頭しても近藤とわからず処刑されないだろうと土方は考えていたのです。
近藤は、土方の提案を受け入れ、新政府軍に投降。
一方、土方は隙を見てその場を抜け出し、出払っていた隊士たちに会津に向かうように指示して自らは江戸城に向かいます。
土方は、旧幕府の代表として新政府との交渉にあたっていた勝海舟に、大久保大和の助命嘆願の手紙を書くように頼みます。
しかし、土方の思惑は打ち砕かれました。
運悪く、新政府軍の中に元新選組隊士がいて、近藤の身元が露見!!

4月25日、近藤勇、斬首刑に処される

その首は見せしめとして京都・三条河原に晒されました。

土方は少したってから近藤の死を知ることになります。
最期は武士らしく切腹したいと願った近藤を出頭させたことに、小路方は後悔の念を感じていたかもしれません

盟友・近藤勇を失い、悲しみに暮れた土方。
新選組と共に・・・
江戸を発った土方歳三らは、大鳥圭介率いる旧幕府軍と合流し、東北を目指します。
京都で新選組と後ろ盾だった松平容保の会津藩を中心に、東北の諸藩が新政府軍と対決する姿勢を表明していたからです。
その道中、土方らは新政府軍が占拠する宇都宮城をわずか1日で攻め落とします。
幸先は良かったのですが・・・その後は劣勢続き・・・会津、仙台へと移動します。
その間、新政府軍の猛攻の前に、当てにしていた東北諸藩がわずか数か月で次々と降伏していき、戦況は苦しくなるばかり・・・!!
一説に、土方はこの頃こんな事を口にしたといいます。

「到底、勝算の必ず期すべきあるにあらず」by土方歳三

それでも土方は新政府軍と戦い続けていくのです。
ひとつは近藤勇のため・・・
新政府軍が近藤を罪人扱いし、処刑したことが許せませんでした。
もうひとつは、近藤と共に築き上げた新選組を守りたかったからです。
新選組がどこまで新政府軍と戦い続けられるかも届けたかったのです。

東北での劣勢が続く中、新たな出会いもありました。
仙台で夷で合流した旧幕府軍・海軍副総裁・榎本武揚です。
旧幕府軍の主力戦隊など6隻を率いていた榎本は、旧幕臣たちと共に蝦夷を開拓し、新たな独立国家を作ろうと考えていました。
松平容保の会津藩も降伏し、東北での後ろ盾を失った土方は、新天地を求め、20人余りに激減した新選組隊士を引き連れて榎本と共に蝦夷へと渡るのです。
箱館に築かれた五稜郭に拠点を置き、2か月後、榎本武揚を総裁とする箱館政府を樹立。
しかし、1869年4月、新政府軍が蝦夷に上陸。
乙部に上陸した新政府軍は、函館に向け徐々に進軍し、5月11日、奇襲攻撃をかけ、ついに箱館の町を制圧します。
すると、土方と別行動をとって弁天台場にいた新選組が新政府軍に囲まれて孤立。
土方は僅かな兵を率いて救出に向かいますが・・・そのさ中、悲劇が!!
五稜郭と弁天台場の間・一本木関門で両軍が激突!!
新政府軍の一人が放った銃弾が、土方の腹部を貫通したのです。
最期まで戦い抜いた男の突然の幕切れでした。
奇しくも盟友・近藤勇と同じ35歳でした。

その1週間後、箱館政府が降伏し、戊辰戦争は集結しました。
6年に及んだ新選組の歴史にも終止符が打たれたのです。
その後、新選組の生き残りの兵士によって、箱館の写真館で撮られたという洋装の写真が兄弟のもとに届けられました。
決して降伏することなく、どこまでの戦い続けた男がいた・・・その証として。

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涙涙です~~!!

涙無くしては語れないのが、この総集編③です。
理不尽な戦いに命をかけ、会津の人が、”敗けた”その時です。

総集編なのに・・・かいつまんだだけなのに、歴史が解ってしまうという・・・そんな丁寧な作りになっていましたね。
幕末から維新までが、本当によくわかりました。

そして何より、敵も味方も信念を持っていてカッコいい!!ってところでしょうか??

個人的には、やっぱり玉山鉄二さん演じる彼岸獅子の山川大蔵ですよね~~!!

ookura















ほんと、敵も味方もキャラだっていて、信念と思いがビンビン伝わってきて、本当に心を丁寧に書いてくれているので、見ていて感情移入しちゃいました!!

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いよいよドキドキの江戸無血開城です!!

1868年4月、西郷吉之助率いる新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜を大将とする旧幕府軍を打ち破りました。
吉之助は家臣たちを残して逃げ出した慶喜を追い、5万の大軍と共に江戸へと向かいます。
江戸総攻撃の日は、3月15日と決まりました。

ということで、前回、幾島と再会した吉之助は、なんと篤姫に会いに大奥へ!!
これじゃあ、山岡鉄舟の説得も、勝海舟との会談も、必要なしよね??

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吉之助が懐かしいだとか、篤姫が「頭を下げねばならぬのは私の方じゃ・・・
 西郷、頼みを聞いてくれ。」
その頼みとは・・・??慶喜の助命嘆願ではなく・・・
「慶喜殿の首ひとつで、この戦を終わらせてくれ・・・!!」でした。

思考回路停止だよ・・・全く・・・。
長州征討に当たっては、当主に責任を負わせたら家臣が黙っていない!!ということで、家老の首3つで勘弁してもらったんです。
そして、白旗を揚げて当主の助命嘆願をした会津は許してもらえず、吉之助たちが松平容保の首を!!と言ったもんだから、あそこまで戦争になったわけです。
だって、松平容保は、会津戦争の頃はもう当主ではなかったし、戦争をしたくなかったのに・・・
つまり、殿の首ひとつで勘弁してほしいなんて、当時の人は言わないんです!!
慶喜の命は、家臣の命すべてよりきっと重かったはず・・・。
そんな赤穂浪士的な感じだったんですよ・・・それなのに・・・
徳川家存続をあんなに望んでいた篤姫の口からこんな事を言わせるなんて・・・最低だよ・・・。

実際の篤姫&和宮は、吉之助や新政府軍に手紙を書いて江戸を守るために頑張ります。
そこんところ、お忘れなく!!
実際に会うなんて、恐れ多い・・・!!
そして、この手紙に西郷は涙したとも・・・

自分も自害する覚悟だと頭を下げる篤姫。
嘘かくなよな・・・
「どうか・・・徳川家だけは救ってほしい・・・」by篤姫
って、その慶喜の首が徳川家なんだよ!!

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・・・それなのに、慶喜の首案件はあっさり却下!!
完膚なきまでに叩くんだそうだ!!

嘘ばっかりの内容に、もう・・・見たくなくなっちゃった・・・。

そんな聞き入れてくれない西郷に、「私も命をかけて戦うのみです!!」という篤姫ですが、どんなにして戦うのか??そんなこんなは全くしてくれません。
幾島のゲホゲホ血を吐くのも、必要ないわい!!
憐れみを誘ってんのか??と思っちゃう。
血を吐いても頑張るって”言うこと”が頑張るんじゃなくって、頑張っているところ・・・例えば、〇〇に文を書いたとかそういうのを見たいんだと!!

「よ・・・西郷どん!!」by海舟
なんの緊張感もなく会談が始まったの・・・??

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西郷どんに江戸を戦で火の海にするのは止めてほしいとサラっという勝さん。
いや・・・勝さんも火の海にしても慶喜を守ろうとしたんじゃん・・・。
条件も、山岡鉄舟で根回し済みなんじゃないの??
スラスラと降伏条件を話し出す勝さん・・・
それって交渉じゃないよね・・・??
話の分かる勝さんで、慶喜の心も、吉之助の心も汲んだ話し方だわ・・・
この時点で勝海舟は緊張な感じで吉之助と対峙すると思っていたのに、どうしてこう負け犬な感じに仕上がっちゃったんだろ・・・??
もっと、交渉バトルしてほしいのに~~!!

「西郷どんが背負う新しい日本って何だい・・・??」by勝

なんて、フラットに聞く勝さんですが・・・
この時点で、西郷どんにはそんな新しい日本の構想なんてのはありませんよ・・・きっと。

「民を見捨てることは、おいはできもはん!!」by吉之助

と、前半、くどいほど民を思っていたことを、今頃思い出した西郷どんなのでした。
いや・・・民を救うためなら戦争しないからね・・・??

「わかりもした・・・明日の総攻撃は取りやめじゃ・・・!!」by吉之助

「ほんとにいいのかい・・・??」by勝

と、涙ぐむ勝海舟・・・。
西郷どんびいきの男・・・と、自ら西郷好き好き光線を発する勝海舟。
慶喜に会いに行けばいい・・・と、慶喜の首を狙っている男に言うという・・・最低の幕臣だ・・・。
今、自分が幕臣だから慶喜の命だけは・・・みたいなことを言ったのに、その舌の根も乾かないうちにそんなこと言う??
自分達のケンカは自分たちでけりをつけろと、サシで勝負しろって言い出しました。
まさに8933かヤンキーの様です。
泣くなよ~~~!!!
「江戸が焼けないで良かった。
 おかげで今年も上野の桜が見られる・・・。
 西郷どん、ありがとよ。
 こうなったら、上野におめえさんの銅像とやらでも建ててもらわねえと・・・!!」by勝

don3















はああ???なんじゃこの展開・・・!!??
銅像の未来予知・・・ありえへんわ・・・。
この一言、要る??蛇足ってもんでしょ??
で・・・これで終わり??無血開城!!??

こんな勝さん見たくない・・・。
本当に見たい勝さんはこちら

で・・・勝海舟の通り、慶喜に会う吉之助。
護衛もないのか??慶喜・・・??

don2
















この姿・・・もう心は決まっている格好ですが・・・。
「俺を殺しに来たんだろう・・・」と言い出します。
それ・・・死に装束ですよね??慶喜さん・・・??
で・・・早く殺せとか、なんだとか、おバカな話です。

どうして逃げたのか?と聞く吉之助に・・・「おれは・・・ロッシュ殿から逃げたのだ・・・」by慶喜

は??

フランス軍12万軍と、銃5万丁を援助するって言われたんだって・・・。
その代わり、勝利した暁には薩摩をよこせと言われたらしい。。。
薩摩からはイギリス軍も参戦し、日本の中でフランスとイギリスが戦って勝った方が乗っ取るから、乗っ取られないように逃げたのだと言い出しました。

あ~、さいですか・・・。

史実は、勝さんが手配して、イギリスに亡命でもする??って話でしたけど・・・??

吉之助は、慶喜が恐ろしかったらしい・・・
「ようやくわかりもした・・・徳川慶喜様ではなく、ヒー様こそがあなたなのでございもすな?」by吉之助

あ??何言っとんじゃ・・・言いたいことが全く理解できません。
おまけに、徳川に生まれたことが不幸だなんて恐れ多い事を言う始末・・・。
??ヒー様が本当の慶喜ってことは、品川宿で飲んで遊んでいるバカだってことを言いたいのか・・・??

「もう・・・よかでごわす
 徳川将軍としてのお覚悟、この牛男、しかと見せていただきもした。
 ヒー様、よくぞ逃げて日本をお守りいただきもした。」by吉之助

だから・・・何のこと??
”徳川将軍としての覚悟”って、どの部分??なんなの??全く解らないわ・・・
っていうか、脚本家先生の言いたいことが、こっちに全く伝わってこないのよ・・・。
ま、フランス精鋭部隊12万軍って言われた時点で「ウソこけ・・・」って思っちゃうから真実味全くなし!!

で・・・殺す、殺すって言ってた慶喜を殺さなかった西郷・・・
木戸が怒ってますが、当たり前でしょう。
史実ではイケイケどんどんの大久保ももう、戦争反対派だしな・・・。

江戸は江戸も徳川家も助かったと、勝と山岡に礼を言う慶喜。
「苦労を掛けたな・・・」by慶喜
「いや・・・一番苦労したのは私たちじゃござんせんよ・・・西郷です!!
 あの男がやってくれやした!!」by勝

やめて~~~!!

勝さん、そんなこと言わないよ・・・
で、何やったって言うんだよ、西郷吉之助!!
敵だろ??なに敵の事褒めてんねん!!天晴なこと、いつしたんだよ!!

1868年4月11日、江戸城明け渡しの日・・・。

城明け渡しでは・・・
またもや篤姫&幾島にあって・・・慶喜の命をとらなかったことを、「西郷さん・・・相変わらず本当に人がよろしいわ・・・」と、幾島に言わす・・・この展開・・・最悪。
「そなたが勝ったのです。そなたの決めたことには逆らえません。」by篤姫
いやいや・・・そんなこと言いません。
徳川の家を守ってくれたことに感謝する篤姫。

「西郷・・・礼を言います。」だって・・・。
徳川が260年かけた書物を差し出す篤姫。
こんだけしかないんか??と言いたくなるしょぼい量です。
西郷の作る国が見たくなった・・・と、ホンワカな3人ですが・・・こんな笑って応対できひんやろ・・・??

もう・・・なんでもええわ・・・。

どこにもいない西郷を、「先生、先生」と探すみんな・・・吉之助は・・・
二宮尊徳の書を胸に寝ていました。
あ・・・キンチョー感ないわ・・・。
で・・・放っていくなよ、みんな・・・。

こうして後の世に言う江戸無血開城は終わったのです。
う~ん・・・全く違うから江戸無血開城って言わないで・・・

しかし、新たな騒乱が起きようとしていました。
上野寛永寺には、彰義隊が・・・やりたくない戦いが始まりました。
って・・・やりたかったんだろ??新政府軍!!
え~!!
会津や米沢、庄内、仙台が徹底抗戦だって。
榎本武揚も軍艦で脱走!!
って・・・会津は、さっきも書いたけど、恭順の意を示してたんだよ・・・
でも、振り上げたこぶしを慶喜に振り下ろすつもりが慶喜が隠居しちゃったから会津に振り下ろしたかったんでしょ??
やりたかったのは、新政府軍の方じゃないの・・・!!
どうしてそうなるかな・・・!!??

そして、そして、いきなり大村益次郎登場。
いきなりだよ・・・「以後お見知りおきを・・・」って、そんないきなり出てきて戦略言い出しても説得力なし!!

「そうか・・・あの大村が出てきたか」by勝

この一言で、大物感を出すという作戦かっ??
「せっかく江戸で血を流させずに済んだってのによ・・・
 お前さん、これからも戦い続ける気かい??」by勝

なんで西郷と酒酌み交わしてんねん・・・??

「死んじゃいけねえよ・・・西郷どん、西郷どん、龍馬が言った新しい国を作ってくれ」by勝

・・・

きっと、勝さんはそんな人じゃない・・・。

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