日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:松永久秀

大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
2019年6月、この地で今までの戦国史を覆す大発見がありました。
大東市と四条畷市の3年に及ぶ調査の結果、50カ所で石垣が発見されたのです。
それは、戦国時代その山に築かれた飯盛城の石垣でした。
城全体に石垣を施した初期の城として織田信長の小牧山城が知られていますが、その信長より前に、城に巨大な石垣を作り上げていた戦国武将のいることがわかりました。
三好長慶です。

最近、長慶はこう呼ばれています。
「戦国初の天下人 戦国の革命児」・・・それは織田信長のことでは・・・??
しかし、三好長慶のことです。

江戸時代に歴史家・頼山陽が書いた「日本外史」には・・・
織田信長のことを”世に優れた才能である”と、高く評価している一方、
長慶は”まだ若いのに病の老人のように政を家臣の松永久秀に任せきり”と全く評価していません。
長慶は、信長の影に隠れて忘れ去られてしまったのかもしれません。

そんな三好長慶とは・・・??
1522年、武士たちが覇権を争う真っただ中、三好長慶は阿波国の武将・三善元長の嫡男として生まれました。
長慶の父・元長は、阿波国守護・細川晴元の重臣でした。
当時、細川氏は、細川晴元と細川本家室町幕府No,2の管領・細川高国が勢力争いをしていました。
その内紛で功績を挙げたのが、長慶の父・元長でした。
管領の高国を討ち、主君・晴元に細川家の実権を握らせたのです。

これで三好家も安泰・・・と思っていた1532年、元長に悲劇が起こります。
元長の力を警戒した晴元が、排除すべく大坂の本願寺と手を組んで、一向一揆を起こさせたのです。
それによって、10万の一揆勢が、堺にいた元長を襲います。
追いつめられた元長は、顕本寺で自害・・・。
一説に、元長は腹を掻っ捌き、内臓を引き出し、天井に投げ出したといいます。
壮絶な最期、無念の死でした。
この時、父と共にいた長慶は、辛くも逃がされ、阿波国に帰ったことで命を救われます。
わずか11歳で家督を継ぐことに・・・しかし、一揆勢の為に多くの重臣を失い、三好家は危機的状況にありました。

「三好の家を守るには、どうすれば・・・?」

考えた末に、長慶の決断は・・・??
1533年、再び機内にわたると、父の仇である細川晴元に服従を示しました。
弱体化した三好家を滅亡させないためには、晴元に従うしかなかったのです。

細川で実験を握った晴元は、1537年12代将軍足利義晴の時に管領に就任。
幕政を取り仕切るほどの力を持つようになります。
長慶は、そんな晴元の家臣として戦歴を重ねます。
18歳の時、力が認められ・・・1539年摂津国の越水城主となり、守護の代わりに守護代に任命されます。

「いつの日か、父の仇を・・・!!」

耐え忍ぶこと、晴元に仕えること15年・・・1548年、仇を討つ好機が・・・!!
摂津国の池田城主・池田信正は、ある戦で晴元を裏切ったと疑われ自害します。
すると、晴元の側近・三善政長が、池田家の財産や領地を没収しようとしました。
子の横暴な振る舞いに、四国の武士たちは、強い不信の念を抱くことになります。
長慶は、これを好機ととらえました。
兵を挙げ、各地の武士に訴えます。

「我こそが、武士の利益を守るものである」

すると、晴元に不満を持つ武士たちが、長慶のもとへ・・・!!
1549年1月、長慶は晴元側の軍勢と激突!!
そして6月24日、大坂・江口で800人の軍勢を破り、見事勝利するのです。
これを知った晴元は、すぐさま京都に退散・・・
さらに、家慶の追撃を恐れ、12代将軍だった義晴、13代将軍になった義輝親子を連れて、近江に逃げるのです。 
主君と袂を分かった長慶は、細川氏内で晴元と対立していた細川氏綱(高国の養子)に付きます。
そして新たに主君となった氏綱と京都に入ると、本拠地・阿波を始め、淡路、讃岐摂津を支配下に・・・!!

フランスの地理学者シャトランの描いた「歴史地図帳」、日本の統治者の変遷の図に・・・
そこには、天皇の内裏、将軍の公方と一緒に、三好殿とあります。
天下をとった三好家は、日本の統治者であったと海の向こうまで知れ渡っていたのです。

1550年、京都から逃げていた12代将軍足利義晴が病で死去・・・
これによってまだ15歳の13代将軍足利義輝が、名実ともに将軍家の指揮を執るようになります。
すると義輝は、京都奪還を目指して兵を挙げ、幾度となく三好家と激突します。

1551年3月7日・・・
長慶が京都の寺で酒宴に興じていると、そこへ忍び込んだ子供が寺に火をつけようとしました。
その7日後には、酒宴に乱入してきた男が、長慶に刀で斬りかかる事件が発生しました。
この2度にわたる暗殺未遂事件で、長慶は一時京都をでます。
全ては、将軍義輝の差し金・・・

すると翌年、将軍義輝と和睦します。
京都に迎え入れたのです。
長慶の残した言葉の中に「理世安民」という言葉があります。
長慶は、道理の通った民が安心して過ごせるような平和な世の中にしたいと考えていたのです。
そもそも、16世紀初めの戦いの原因は・・・
応仁の乱以降、足利家が分裂し、それが一番の原因だったのです。
長慶は、個人的な恨みは捨て、世の中の平和を生み出そうとしました。
長慶は、義輝が都に不在であることも内紛の原因だと思っていました。
義輝を京都に戻し、将軍の権威を復活させることで、争いを無くそうとしたのです。
長慶はその約束の際、自身を将軍の直臣にすることを条件としました。
そのため、和睦後は細川氏を離れ、将軍の臣下となったのです。
ところが・・・和睦した将軍義輝が、再び長慶にかかってきました。
さすがの長慶にも、もう、和睦の選択はありませんでした。

1553年、長慶は2万5000の兵を率いて上洛し、将軍義輝の軍勢が守る霊山城を襲い、圧勝します。霊山城の戦い
義輝は、長慶と一戦も交えることなく敗走!!
再び近江へと逃げていきました。
長慶は、この時も義輝を追いませんでしたが、義輝に付き従っていた者たちに言い放ちます。

「将軍に従う者の領地をすべて没収する」

すると、多くのものが京都に戻り、義輝のもとに残ったのはわずか40人ほどでした。
そして長慶は決意を固めます。

「これからは、この三好長慶が都の泰平を守る」

長慶は、義輝に代わる新たな足利将軍を擁立せずに京都を支配します。
戦国時代、京都から将軍を追放したものは長慶以外にもいました。
しかし、足利家から他の将軍を擁立するのが当時の常識でしたが・・・長慶は、足利将軍を擁立せずに、京都を支配したのです。
これは戦国乱世の中でも初めてのことでした。
足利将軍家の代わりに京都を支配した長慶は、その後次々と畿内五か国を手に入れていきます。
戦国初の天下人の誕生でした。
天下とは、鎌倉時代は首都・京都を指していました。
そして、戦国時代は、天下は京都の周辺五か国(山城・大和・摂津・河内・和泉)を指していました。
長慶は確かに天下人でした。
公家や農民も、実力のある三好長慶の政治を求めるようになってきていました。
長慶は、結果的に天下人となったのです。

江戸時代初期の戦国武将の逸話集「武辺咄聞書」によると・・・
「信長は長慶の家臣になって働きたかった」とあります。
戦国の覇者となって世の中を次々と変えていった革命児である織田信長。。。
三好長慶の家臣になりたがっていたといわれるのは、信長が長慶に畏敬の念を抱いていたからかもしれません。
なぜなら、長慶は信長に先んじて常識破りの政策を行っていたからです。
信長が、足軽だった秀吉を重用しましたが・・・
戦国時代、このような画期的な人材登用は長慶の方が先でした。
武家では、代々仕える家臣を大事にするのが常でしたが、長慶はその常識を破り、身分や家格に関係なく、才能や実力を評価しました。

①人材を登用
その一人が摂津国の土豪出身とされる松永久秀です。
久秀は、長慶の右筆に抜擢されると、持ち前の知恵で、将軍や大名との交渉に力を発揮、三好家の重臣となります。
京都郊外の西九条の荘園の代官だった石成友通は、長慶の元で奉行で頭角を現し、三好家の中核となります。
長慶は自らの弟たちも上手に差配・・・
次男・実休、三男・冬康、四男・一存を敵に備えて重要な場所に置きます。
越水城主となった際、次男・実休を本拠地・阿波に、三男・冬康を淡路(安宅家の養子)に、四男・讃岐(十河家の養子)に出しました。
こうして長慶は、自身が治める畿内の周辺を兄弟で固めることで三好家を守ったのです。

②鉄砲の導入
長慶は、堺、尼崎、兵庫津など京都の物流拠点の大阪湾の主要港を支配することが重要だと考えていました。
そこで、港を拠点に活動していた法華宗の寺院や、その信者である有力な商人たちを保護、これによって流通ネットワークを掌握します。
日本国内のみならず、東アジアの貿易に関与します。
長慶の元には、明などから貴重な品が届くようになります。
その一つが、当時の最新鋭の武器・・・鉄砲です。
1550年、足利義晴方の記録に残っています。
三好長慶は、大量の鉄砲を持っていたことになり、これは信長の長篠の戦いの25年前になります。

③キリスト教の保護
1564年長慶は、領内でのキリスト教の布教を許可し、保護します。
南蛮貿易がもたらす経済効果を早くから熟知していたようで、宣教師からの最新の情報や、西欧の新しい技術を取り入れることが目的だったと考えられています。

④居城の移転
長慶は天下人となった際に、越水城から同じ摂津国でも京都に誓い芥川山城に居城を移します。
これにより、芥川山城は、幕府に代わり政治の中心となるのですが、1560年に嫡男・義興に譲ります。
自らは河内国の飯盛城に移るのです。
越水城は阪神間を、芥川山城は京を、飯盛城は河内、大和、伊勢、紀伊に拡大していく・・・
長慶は、政策課題に応じて、臨機応変に居城を移していくのが特徴で、他の戦国大名には見られません。
これは、織田信長につながっていく政策なのです。
織田信長も、那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と、京都に近づいて行きながら戦国の覇者となっていきます。

⑤城の造り
大阪府大東市と四条畷市にまたがる飯盛山・・・
ここに、長慶最期の居城・飯盛城がありました。
長慶は、ここを新たな居城と定めると、大規模な工事を行い、南北700m、東西400mの山城を築きます。
山城は、山を削って、掘って盛り固めることで、堀や土塁なⅮ歩の防御システムを築き、それを囲った曲輪でつくられた構造となっています。
そんな当時は。。。石垣が施されるのは、土台が弱い一部のみ、補強でした。
石垣に適した花崗岩がなかなか手に入らなかったからです。
そのため、山城である飯盛城も石垣は一部だと考えられてきました。
大東市と四条畷市が3年間かけて発掘調査をしたところ、驚くべき事実がわかったのです。
千畳敷曲輪で・・・飯盛城の中でも最大級の石垣が発見されました。
その大きさは、長さ30m、高さ4mと推定され、石も大きなものが使われていて、一番大きなものは1.6mの花こう岩が使われていることがわかりました。
さらに、千畳敷曲輪を含めた50カ所で石垣が発見されました。
石垣が見つかったことで、飯盛城の全域に石垣が取り入れられていた可能性が高まったのです。
代全体に石垣を使った武将として有名なのが織田信長です。
1563年に築城した小牧山城をはじめ、岐阜城、安土城と総石垣にしています。
城を強固にするためだけでなく、貴重な花崗岩をふんだんに使うことで、その経済力を見せつけ、他を圧倒するためだったといわれています。
しかし、長慶の方が早く総石垣の城を作っていたという可能性が高まったのです。

大阪府堺市にある南宗寺・・・
ここは三好長慶が、非業の死を遂げた父・元長の菩提を弔うために、建てたといわれています。
その境内には天下人となった長慶の銅像があります。
そこには桐紋が・・・1561年、将軍足利義輝から、桐紋の使用を許可されていました。
名門の出ではない長慶が、桐紋を許されるのは、極めて異例なことでした。
この家紋のしようが許されたということは、三好家の家格が足利一門並みに上昇したことを意味しています。
長慶は、天皇からも大きな信頼を寄せられていました。
1558年、正親町天皇践祚(三種の神器を先帝から受け継ぐこと)のため、永禄の改元が行われたとき・・・
当時改元は、朝廷を代表する天皇から幕府を代表する将軍に相談や連絡があり、双方の合意により行われるのが通例でした。
しかし、正親町天皇は、将軍義輝を無視し、三好長慶に相談・連絡をしてきたのです。
これは、長慶が武家の代表者だと、天皇から認められたということでした。
名実ともに天下人となった三好長慶・・・
しかし、これから次々と悲劇に見舞われます。

1561年、和泉国を任せていた弟・・・四男の十河一存が病死、その翌年の1562年には次男の実休が戦死、そしてその翌年の1563年には長慶の嫡男・義興が22歳の若さでこの世を去ります。

「このままでは三好の家が・・・!!」

身を奮い立たせ、後継者選びに奮闘します。
候補となったのは、弟の中でまだ存命だった安宅冬康、亡き弟・実休の嫡男・長治、一存の嫡男・義継でした。
血縁の序列で言えば、弟・冬康ですが、長慶が選んだのは序列で一番下の義継でした。
長慶は、先の関白・九条植通の養女を母とする義継を選んだのです。
家格も天下人に相応しいようにと選んだのです。

「これで三好の家も安泰じゃ・・・」

しかし、1546年5月9日、弟・安宅冬康を飯盛城に呼び寄せると・・・殺してしまいました。
どうして・・・??
軍記物語などでは、長慶の家臣・松永久秀が三好家を乗っ取るために冬康を陥れるために画策・・・
「冬康殿が上様に謀反を起こそうとしております」
と、長慶にウソを吹き込んで殺害させたと書かれていますが・・・
松永久秀の讒言はなく・・・まだ幼少の三好義継が長慶の後継者となった事で、家臣団が義継と冬康に分かれてしまった事を恐れていました。
三好家の内紛で、世の中が乱れないように、内紛の火種になる弟・安宅冬康を殺害したのです。
内紛によって、衰退の一途をたどっていった足利将軍家や細川氏を目の当たりにしてきた長慶・・・三好家が同じ道を歩まないように、弟・冬康を殺害するという苦渋の結さんをしたのです。
実の弟を殺める・・・長慶は、病に伏してしまいます。
わずか2か月後・・・1564年7月4日、三好長慶、43歳で死去・・・。
この時、新たに当主となった義継はまだ15歳にも満たなかったため、混乱を避けるために長慶の死はふせられました。

家督を継いだ義継は、翌年の1565年、三好を陥れようとしたとして、将軍足利義輝を討ち取ります。
長慶の晩年より、将軍家との関係が急速に悪化していました。
そこを継いだ義継は、将軍義輝を討つことで、三好家を率いていくという姿勢を示したかったのです。
しかし、その後、長慶が憂いでいたことが起きます。

重臣・松永久秀と、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、石成友通)が対立!!
義継は、家臣たちをまとめきれずに、結局三好家は分裂・・・。
そんな中、1573年、天下布武を掲げて躍進していた織田信長の軍勢に攻められ、義継が自刃・・・
三好家の天下はここに潰えたのです。
長慶が亡くなってから、わずか9年後のことでした。

織田信長より先んじていた戦国の革命児・三好長慶・・・
戦乱の世を終わらせ、平和を築くことを願い、天下を掌握した男でした。
しかし、その天下は、皮肉にも、あとを追ってきた戦国の風雲児・織田信長によって奪われてしまうのです。
まさに乱世の因縁・・・長慶の死から4年後・・・
1568年、京都を目指して進軍していた信長は、芥川山城を攻め、10日余り滞在しています。
芥川山城は、長慶の本拠地、京都に代わる政治の中心地でした。
そこを攻め落とすことで、三好家の時代は終わったのだと、世間にアピールする狙いがあったのだとされています。
信長にそうまでさせる三好長慶は、大きな存在だったのです。

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戦国の世、天下を手中にすべく、尾張の国から突き進んだ織田信長。
非道ともいわれる行為を尽くし、自らを魔王と名乗った男が恐れた武将がいました。
越後の龍・・・上杉謙信です。
そんな二人が同盟を結びますが、最初にして最後の戦いを迎えることとなります。
そんな二人の関係とは・・・??

織田信長と上杉謙信・・・対照的な武将です。
自らを魔王と名乗り、天下を取るためなら比叡山焼き討ちなど、手段を選ばなかった織田信長。
片や、毘沙門天の化身と名乗り、関東管領として義の戦いを繰り広げた上杉謙信・・・。
二人が激突するのが1577年手取川の戦いです。
信長軍と謙信軍の最初で最後の戦いとなりました。

1534年尾張の国で生まれた織田信長・・・
1560年桶狭間の戦いで海道一の弓取りと言われた今川義元を討ち取ります。
隣国美濃への侵攻を進め、戦国時代の主役に躍り出ようとしていました。
上杉謙信は、信長よりも4歳年上・・・
1530年越後の守護代の家に生まれた謙信は、下剋上で守護の座を勝ち取り、1560年には大軍を率いて関東に侵攻。
翌年には、小田原城を包囲し、関東管領に任じられます。
1561年の第四次川中島の戦いでは、北に領地拡大を目指す武田信玄の軍に強烈な打撃を与えました。
天下統一・・・その偉業に最も近いものが上杉謙信でもありました。

謙信と信長の交流が生まれたのは、1560年のこと。
信長の方から接近しました。
信長は、息子を養子に差し出し申し出をしています。
それを受け入れてくれた謙信に対して・・・
「大変ありがたい事です。
 これからも御指南をいただきたく、ご相談させてください。」と徹頭徹尾へりくだっています。
どうしてへりくだる必要があったのでしょうか?

信長の狙いは、謙信の強さを恐れていました。
当時、関東管領の謙信と良好な関係を築くことは、武田の甲斐・信濃をけん制するという意味でもありました。
信長は、謙信にへりくだりながら、謙信の宿敵・武田信玄にも度々書状を送り高価な贈り物を届けていました。

一体誰がこの戦国の世に終止符を打ち、天下を治めるのか??
武将たちがしのぎを削る中・・・三好家家臣・松永久秀らが、室町幕府第13代将軍足利義輝を殺害しました。
間一髪で脱出した弟・義昭は、各地を転々とし、将軍の座に就こうと上洛を画策します。
この時義昭が頼ったのが、上杉謙信でした。
義昭は、上洛する為に、力を貸すように求めます。
しかし、当時の謙信は、武田、北条と戦いが続いていて、西に兵力を割くことができません。
義昭の要望に応えることができませんでした。
そんな謙信に代わって、義昭を上洛させたのは、誰あろう織田信長でした。

1568年、信長は義昭と共に上洛を成し遂げようと動きます。
この時、信長は謙信に書状を送り、義昭を奉じての上洛を説明しています。

「公方様御入洛の供奉の儀うけかい申す」

自分は義昭の上洛を請け負っただけとし、天下のために謙信殿も奔走されることを希う・・・と、謙信への配慮をしました。
自分の抜け駆けではなく、謙信に代わって室町幕府のために成したと弁明しています。
しかし、謙信が領地争いに忙殺されている間に、自分が一気に京都を抑えてしまおう・・・
謙信は、心の底では、悔しがっていたのではないか??

信長は、足利義昭を15歳将軍に就任させ、天下取りに向けて謙信に一歩先んじることとなります。
しかし、謙信を警戒・・・そこには理由がありました。
生涯の戦歴を比べると・・・
信長・・・214戦154勝48敗12分・・・負けない確率78%
謙信・・・108戦64勝7敗37分・・・・・負けない確率94%
この驚異的な数字は、信長が謙信を恐れた理由でした。
当時、周囲が敵だらけの信長にとって、謙信は絶対的にしてはならない相手だったのです。

どうして謙信は強かったのでしょうか?
負けない戦をする・・・軍略は自身が最前線で戦い統率力があったこと、兵士がお金で雇われたものではなく越後のために同意を得た民兵であったこと・・・が挙げられます。
信長は、戦に強いイメージがありますが、苦戦、敗戦が多く、信長は戦の人ではなく外交の人でした。
そして、戦う目的が違いました。
信長は自分の領土拡大のために戦いましたが、謙信は助力を乞われて・・・”義”のための戦いだったのです。
そんな欲のない戦いをする謙信に恐れを抱いていたのかもしれません。

足利義昭を奉じて上洛した織田信長・・・強引な手法がアダとなったのか、様々な困難に直面します。
その一つが、将軍・足利義昭との亀裂でした。
京を実質的に支配した信長は、義昭の実権を奪う五か条の要求をします。
その内容は・・・

天下の儀は信長に委任されたし
信長の添え状なしに、諸侯に書状を出してはいけない
今までの義昭殿の命令はすべて無効

などといったもので、義昭を名ばかりの将軍にしようとしたのです。
義昭は・・・将軍としての権力を保とうとして反発し、二人は対立することに・・・
義昭は、信長に対抗する為に、各地の大名に檄を飛ばします。
本願寺・筒井・浅井・朝倉で、信長包囲網を作り上げます。
そこには手ごわい敵も・・・大名以上に力を持っていると言われていた比叡山延暦寺も・・・
比叡山は、浅井・朝倉と連携し、苦戦を強いられた信長は、講和を申し入れますが聞き入れられなかったため、最終的には焼き討ちに・・・僧兵だけでなく、信者たちまで殺戮します。

信長は延暦寺に続いて、一向宗・・・石山本願寺との戦いに挑みます。
ところが本願寺との戦いに大苦戦!!
信長は、全国の一向宗門徒を敵に回すことに・・・。
遂に、友好関係にあったはずの武田信玄が将軍義昭の檄によって、二部長包囲網に参加。

1572年、西に向けて進軍開始!!遠江に侵攻・・・ここは徳川家康の領地・・・家康が負ければ、次は信長の領地です。
この瞬間、信玄は川中島で戦っていた謙信だけではなく、信長の敵となりました。
そこで、11月、遂に信長と謙信は、信玄に対抗すべく同盟を結ぶことに・・・!!
しかし、それでもなお信玄は西に進軍を止めようとはしません。
迎え撃った信長・家康連合軍は、三方ヶ原の戦いで大惨敗!!

信長は絶体絶命の窮地に・・・!!
ところが武田軍は、進軍を中止し甲斐に・・・
信玄が戦いのさ中、死去したのです。
天運によって危機を脱した信長・・・しかし、新しい畏れが・・・謙信の上洛です。

信長は謙信の上洛を恐れていました。
それは、自ら実権を握るというのではなく、室町幕府の復権を望んでいたからです。
武田信玄の宿敵の為、上洛できなかった謙信・・・
しかし、信玄の死によって、上洛のチャンスが・・・!!

もし、謙信が上洛するとなれば、信長との戦いは避けられない・・・。
信長包囲網も勢いづいてしまう・・・。

そこで信長は、謙信へ贈り物・・・「上杉本 洛中洛外図屏風」です。

応仁の乱で荒れ果てていた街並みが復興した京の町を一望する視点で描かれています。
京の夏を彩る祇園祭の山鉾・・・朝廷の貴族・・・武士・・・子供達・・・
描いたのは、当時随一の絵師・狩野永徳。
将軍家の御用絵師だった永徳は、足利義輝の死後、信長が新しい後ろ盾となっていました。
絵を送られた謙信は、喜んだといいます。

洛中洛外図は信長が描かせたものではなく、足利義輝が謙信に贈るために書かせたものだと言われています。
将軍が贈ってくれるはずだったものを、代わりに贈ってくれたことが、嬉しかったのです。

謙信は信長包囲網に加わることなく、越後を動くこともありませんでした。
そして・・・この屏風には、謙信の心を打つメッセージが・・・

義輝は、どうして永徳に絵を描かせたのでしょうか?
室町幕府足利将軍邸に年始の挨拶にやってきた行列・・・
輿に乗って将軍に挨拶にやってきているのは、謙信だといわれています。
江が完成した1656年、謙信は、この時すでに2回目の上洛を果たしていました。
将軍義輝に際し、全面支援を約束していました。
そんな謙信に対して・・・もう一度京の都に来てほしい・・・そして、将軍を中心とした秩序を取り戻そうではないか・・・
義輝から謙信へのメッセージが隠されていました。
この屏風に深い思い入れを感じたことでしょう。

しかし、二人の同盟は長くは続きませんでした。
織田信長は天下統一を目指して、しかけます。
信長包囲網の首謀者である足利義昭を京都から追放!!
越前・朝倉、北近江・浅井を攻め、一気に滅亡へと追い込み領地を拡大!!
越前の上杉謙信の近く・・・加賀まで侵攻して来ようとしていました。
そんな時、同盟を結んでいた謙信が思いもよらない行動にでます。
信長との同盟を破棄!!
この時、二人の緩衝地帯は能登・加賀・越中でした。
どうして謙信は同盟を破棄して信長と戦う決断を・・・??

信長と戦ってきた石山本願寺が、謙信に和解を持ちかけてきたのが大きなきっかけでした。
謙信が越後を離れられない大きな要因に、一向一揆がありました。
越後の隣、越中と加賀に立ちはだかっていたのです。
しかし、対立していた石山本願寺と和解したことで、一向宗が謙信の味方となり安全なルートが確保されました。
謙信にとって、朝倉家を滅ぼして、越前までやってきた信長は、脅威となっていたのです。

1577年閏7月、謙信は畠山家の本拠地である能登・七尾城に進軍!!
この時、畠山家は城主の春日丸が幼かったので、実権を握っていたのは重臣の長綱連と遊佐続光でした。
謙信の侵攻に直面した二人の意見は対立!!
信長に援軍を求めるのか?謙信に下るべきか??
意見がまとまらない中、長綱連は安土城の信長に援軍を求めます。

信長は、今こそ能登を手中に治め、謙信をたたく好機として北陸軍の派遣を・・・柴田勝家を総大将に任命します。
1577年8月、5万の大軍が北庄を出陣します。
信長も後を追う準備を・・・!!
絶対に負けられない・・・総大将・柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、羽柴秀吉!!
しかし、信長はまだ安心できなかったのか、出羽・伊達輝宗に使者を送り、越後の反謙信勢力である本庄繁長と連携!!
背後を脅かすよう申し入れます。
万全の体制!!信長軍の負ける要素なし!!

しかし・・・思わぬ事態が・・・
最強の信長軍団が・・・
秀吉が勝家の指揮に異論を唱え・・・無断で陣を解いて引き上げてしまいました。
秀吉と勝家の間に何が・・・??
この時の二人はライバルで・・・勝家が、秀吉軍が活躍できないように後軍に回しました。
秀吉としても、活躍しても、それは勝家の活躍となってしまう可能性があったので・・・。

悪いことは二人の亀裂だけではなく、進軍が困難を極めます。
その頃、七尾城内では異変が起こっていました。
信長派の長一族が謙信派の遊佐一族に皆殺しにされたのです。
9月15日、七尾城開城。
謙信に開けわたされました。
この事実を知る由もない勝家・・・。
手取川を越えて、松任城まで兵を進めたものの、七尾城との連絡は途絶えたまま・・・。
謙信はさらに能登南端の末森城を攻め落とし、加賀を南下。
七尾城を目指して進軍する織田軍の動きを察知した謙信は動じることなく命じます。

「一騎一卒も活て返す事 有べからず」

そして高らかに次の春には、自らが上洛すると宣言するのでした。

織田軍と上杉軍との戦いで戦局のカギを握っていたのは七尾城・・・
しかし、上杉軍に取り囲まれ、謙信の手に落ちていました。
そうとは知らない織田軍の総大将・柴田勝家は、陣を構えた松任城で、大きな決断を迫られていました。
このままやみくもに進んで勝ち目はあるのか??
百戦錬磨の勝家は、撤退をすることに・・・!!
漆黒の闇の中、5万の織田軍が南へと撤退を始めました。

9月23日夜・・・加賀国・手取川・・・退却する織田軍に突然大軍が襲い掛かります!!
謙信率いる上杉軍でした。
上杉軍が奇襲をかけると追い立てられた織田軍は手取川へ・・・!!
川を渡って逃げようとするも・・・川は連日の雨のために増水し、荒れ狂っていました。
万事休す!!
この機を逃してなるものか・・・!!
猛追する謙信!!
討ち取られた織田軍は1000人余り!!
数えきれないほどの兵が激流に流されて溺死してしまいました。
しかし、これは偶然ではなく、謙信が手取川に来るまで待って増水した川を利用した・・・謙信の作戦勝ちでした。

さらに織田軍の敗退にはもう一つ理由がありました。
上杉軍は一向一揆を味方につけていたので、織田軍の動向が手に取るように解っていたのです。
謙信を手助けしたのが、加賀・一向一揆の門徒たちでした。
上杉軍の動きを悟られないように、織田軍に情報封鎖を行い、織田軍の動きを逐次上杉軍に伝えていたのです。

上杉に 逢ふて織田も 名取川(手取川)
       はねる謙信  逃るとぶ長(信長)

上杉軍とぶつかった信長が、まるで飛ぶように逃げ去ってしまった・・・と。

実際には、信長は手取川にはおらず、到着する前に負けてしまったと考えられています。
しかし、上杉軍はそれ以上織田軍を追うことはなく・・・
春日山城に帰っていきました。
季節はまもなく冬・・・本拠地である越後は雪なので、謙信は、地元に帰って春を待たなければならなかったのです。
もしかしたら・・・これが、謙信最大のミス・・・??雪国の宿命だったのかもしれません。
あまりにあっけない勝利に、謙信はこう書き残しています。

「案外に手弱の様体 この分に候わば
 向後天下までの仕合わせ 心やすく候」

織田軍の弱さを皮肉ったうえで、上洛は難しいものではないと豪語したのです。
謙信の上洛が実現することはありませんでした。
手取川の戦いの半年後・・・1578年3月9日、謙信は、居城春日山城で突然病で倒れ、4日後に49歳という生涯を閉じることとなったのです。

もし、二人が直接対決していたら・・・??

外交戦略では信長の方が上、戦いそのものは謙信の方が上、武将としての力量は、謙信の方が上??

信長軍を破った越後の龍・謙信の突然の死・・・
天は信長を見放してはいませんでした。
実の子がいなかった謙信の死によって、上杉家は後継者争いを招き、能登をわずか3年で信長に明け渡すことに・・・
謙信という最大のライバルがいなくなった信長は、勢力を伸ばし、天下取り目前まで突き進んでいきます。
しかし・・・手取川の戦いから5年後・・・1582年、本能寺の変で明智光秀によって無念の死を遂げ、その夢を絶たれたのです。
その時信長49歳・・・奇しくも謙信の亡くなった年齢と同じでした。

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「私、信長様の忍びになります!!」本格戦国ギャグアニメ!はじまりはじまり~
原作は、重野なおきさんによる4コマ漫画です。

sinobi












ということで、先日から夜中にやっていたアニメです。
どんなものか全くわからず、それでも面白ければ・・・と思ってみました。
久し振りの私にとっての初めて見るアニメ作品です。
さて・・・どんなのでしょう?

1555年──世はまさに戦国の時代!!ひとりの青年がでっかい夢を抱いていた。
うつけと呼ばれる彼こそ後の…、そう、織田信長である。
そんな青年を慕う少女がひとり・・・名は千鳥。
信長の夢に魅せられた彼女は笑顔で言った。
 「私、信長様の忍びになります!!」目指すはひとつ、天下布武のみ!! 
ど天然帰蝶、パシリ秀吉、ツンデレねね、ツッコミ光秀、死にかけ半兵衛、脇を彩る豪華キャラと共に、本格戦国ギャグアニメ、はじまりはじまり~!!

sinobi2













ということで、このお茶目で可愛い忍び・千鳥が主人公です。
で・・・殿がこちら。

sinobi3












もちろん信長様です。

sinobi4













他のキャラクターはこんな感じで、簡単なキャラに見えますが、一度見ると納得の「そんな顔かもなあ・・・」と思えるキャラクターデザインになっています。

本格戦国ギャグアニメと銘打っているのも納得です。
キャラクターの顔が私たちの思う顔と結構リンクしているし、その性格もきっとこんな風だろうなあ・・・って思える性格になっています。
いい声優さんも沢山出ていますしね。

で・・・この作品を見て思ったのですが・・・
5分のギャグアニメ・・・それでも、その世界観は戦国だし、そのキャラクターの思想はかっこよく書かれています。
そうであってほしいと見る側が思うように書かれています。
そう・・・5分のアニメであっても・・・。
次のシリーズが4月10日からBSフジでやってくれるそうです。
とっても楽しみ!!

だからこそ、大河ドラマには見る側の夢を壊してほしくないんだよ~~~!!って思ってしまいました
ああ・・・西郷どん・・・どうにかしてくれ~~~

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松永久秀 歪められた戦国の“梟雄”の実像 [ 天野忠幸 ]

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戦国時代、室町幕府の権威は地に落ち、大名や武将たちによる熾烈な戦いが繰り広げられていました。
暗殺や裏切りが当たり前の時代・・・この時代にも、悪人と呼ばれる男がいました。
松永久秀です。

応仁の乱からおよそ70年・・・京の都はいまだ混乱のさ中にありました。
この頃、幕府のj権威は失墜しており、実権を握っていたのは管領細川氏の家臣・三好長慶でした。
1550年長慶は、将軍・足利義輝を攻め追放、周辺に勢力を広げ、畿内を支配していきます。
この長慶の腹心として活躍したのが松永久秀です。
久秀は、出自も経歴も謎・・・武将としてだけでなく、行政面でも辣腕を振るっていました。
1560年、朝廷より弾正少弼に選ばれ、松永弾正が通り名となり、翌年には従四位下を賜わり、更に主君・三好長慶と共に、足利の紋と同じ桐を使うことを許されます。
当時、日本を訪れていた宣教師は・・・
「さして高い身分ではないが、その知力と手腕によって、家臣であるにも関わらず、公方様(将軍)と三好殿を掌握していた。」といっています。

1559年三好長慶の命により、久秀は大和へ侵入。
当時の大和国は大名の支配しない特殊な地域でした。
他のところは、細川氏、畠山氏・・・足利一門の武士が、その国の守護という役職を与えられ、支配していました。
大和は足利一門は入れず・・・興福寺が大和の国を支配し、武士たちを支配していました。
その大和に侵入した久秀の前に立ちはだかったのは、興福寺の配下として大きな力を持っていた筒井順慶でした。
久秀は、順慶を二度の戦いで打ち破り、大和を我が物とします。
しかし、その後も順慶は久秀への攻撃を繰り返し、二人は宿命のライバルとなるのです。
1561年、久秀は大和の中心・奈良に本拠地となる城・多門城を築きます。
多門城からは、東大寺や興福寺・・・大和の主だった寺を見下ろすことができました。
興福寺に代わる新しい支配者を示す城でした。

この城を訪れたポルトガル人の記録が残っています。
「これだけの優れた建造物は世界にもない。
 すべての城や、塔の壁には漆喰が塗ってあり、かつて見たことのないほど白く輝いていた。
 この中を歩いていると、まるで天国に来たようだ。」と。

その城を一目見ようと、奈良中の人が見物にやってきたといいます。
今まで興福寺や東大寺しか立派な建物を見たことのない人々が、武士でも作れる・・・
寺の時代は終わって、武士の時代が来ることを見せつけていきます。

多門城は・・・
昭和22年、小学校が立てられて、城の遺構は無くなってしまいました。
しかし、校舎の周囲には、その痕跡が残っています。
多門城には、それまでの城にはない4階建ての櫓もありました。
瓦葺・・・当時は瓦葺は寺院建築にしか用いていませんでした。
内装は、絢爛たる襖絵に彩られ、金色の柱が並んでいました。
城の中には、いくつもの茶室があり、久秀は頻繁に茶会を開いていました。
千宗易などの超一流の文化人が集まっていました。
松永久秀は、戦で領地を争うだけの武将ではなく、優れた築城家であり、教養人でもあったのです。

多門城が作られたころ、久秀の支配地は、南山城にも及んでいました。
しかし、久秀の大和支配に暗雲が立ち込めます。
長慶の死と共に動き出したのは・・・将軍・足利義輝でした。
長い間、長慶に実権を握られていた義輝は、三好をたたき実権を取り戻そうと謀ったのです。
不穏な気配が・・・先手を打ったのは三好側でした。
1565年5月、長慶の後を継いだ三好義継、久秀の息子・久通らは、およそ1万の大軍で将軍御所を攻め、義輝を亡き者にしようとします。
義輝殺害!!
その首謀者とされたのが久秀でした。
ルイス・フロイスによると・・・「謀叛人の筆頭者は弾正殿」
「さらに、久秀が絶対的君主となり、将軍義輝への気遣いなどをしなくても良いように、暴虐な方法を用いて権勢の最高位にのぼろうと決意した。」とあります。

ところが将軍を暗殺してまで権力を守ろうとした三好家の中で内紛が勃発!!
1567年久秀と対立する三好家の武将たちが1万の軍を率いて大和に侵攻・・・。
興福寺や東大寺に陣を構え、久秀と対峙しました。
小競り合いが続くものの・・・決着は尽きません。
半年後、久秀は東大寺に陣を敷いた軍に夜討ちをかけ、遂に打ち破ります。
しかし、この時大仏殿に火が付き全焼・・・大仏の上半身がとけ落ちてしまいました。
一方、久秀は新しい動きも・・・大和の地侍たちに手紙が届いていました。
「近々、足利義昭を奉じて上洛するので、義昭に対する忠節と、松永久秀親子といっそう懇意になることをお願いしたい。」
差出人は、織田信長でした。
なんと、久秀は、上洛前の信長と手を結んでいたのです。

1568年、義昭を奉じて信長上洛!!
久秀は、直ちに義昭と信長の元を訪れ、大和の支配を認めてもらいます。
この時、自慢の「付藻茄子」を信長に送っています。
効果は絶大!!
宿敵・筒井順慶が久秀の城を奪った時も、信長の2万の援軍で奪還に成功しています。
久秀は、信長との同盟で、大和支配を強固なものにしていくのです。

信長上洛から3年後、久秀の大和支配を脅かす事態が・・・。
将軍・足利義昭が、久秀の宿敵・筒井順慶に娘を嫁がせ姻戚関係となったのです。
更に順慶は、信長の家臣になることも認められます。
筒井氏はもともと興福寺の有力な衆徒のひとりでした。
以前から、大和国内に勢力を持っていたのです。
義昭は、将軍になる前、興福寺の一条院門跡でした。
なので、興福寺の勢力は何たるかを知っていたのです。
大和をおさえる一つの手立てだったのです。
怒った久秀は、筒井順慶と組んだ義昭の家臣を攻撃!!
それは、信長に対する反逆でもありました。
その後、織田軍と各地で衝突を起こします。
そんな久秀に吉報が・・・
甲斐の武田信玄が、打倒信長に動き出したのです。
信玄の軍は、三方ヶ原の戦いで、信長・家康連合軍と大激突!!大勝利を治めます。
久秀はこのことを珍重と喜びます。
時を同じくして、将軍・義昭も信長に反旗を翻します。
窮地に陥った信長・・・あとは、信玄の上洛を待つだけでした。
しかし、信玄が都に現れることはありませんでした。
三方ヶ原の戦いの後、病で亡くなっていたのです。
勢いを取り戻した信長は、将軍義昭を追放。
久秀の多門城を取り囲みます。
信長が突き付けた降伏の条件は厳しいものでした。

・多門城の引き渡し
・支配地の没収
・孫を人質に差し出す

1573年12月26日多門城開城。
久秀の14年に及ぶ大和支配は終わったのでした。
その後、信長から大和の支配を任されたのは、宿敵・筒井順慶でした。
順慶は、多門城の破却を久秀の息子に命令!!
大和の支配者・久秀のシンボルは、跡形もなく消されたのです。
多門城を明け渡してから4年・・・久秀に再びチャンスがやってきます。
大坂本願寺・武田・宇喜多・毛利・・・各地の大名が打倒信長に立ち上がったのです。
足利義昭の呼びかけによるものでした。
この時久秀は、織田の一武将として本願寺攻めの最前線にいました。
義昭たちと手を結んで信長に背くか、信長を支え続けるのか・・・??
どうする??

信長に背く??
このまま信長に従っていても、大和が手に入ることはないだろう・・・
筒井順慶に大和を与え、多門城も壊されてしまった。
断じて許すことができない・・・!!
大和を再び我がものとするためには、義昭さまの呼びかけに応じて信長を討つしかない!!
毛利をはじめ、多くの武将が立ち上がっている今、信長に勝ち目はない??
今、手柄を立てておくべきでは・・・??

信長を支える??
自分の力を認めてもらう???
上杉、武田、毛利・・・義昭さまの呼びかけに応じたはいいが・・・いつ裏切るかわからない・・・。
武田信玄は病で亡くなったではないか・・・??
何が起こるかわからない!!

大和を再び支配するためには・・・??
どうする??

安土日記には・・・
大坂本願寺を攻める天王寺の砦に、松永久秀と息子・久通を入れておいたが、
8月17日、松永親子は謀反を企て、砦から退去して大和の信貴の城に立て籠った。
とあります。

信貴山城は、河内と大和の国境にそびえる信貴山にある城・・・。
信長に背いた久秀は、信貴山城に籠りました。
城からは、大阪平野・奈良盆地を見渡すことができました。
平野部で戦いを挑むと、兵力の差から久秀は負けて、殺されてしまうので、兵力差を補うために信貴山城に立て籠り、援軍を待つ方が、戦略的に生き延びられると判断したのです。
しかし、事態は久秀の思惑通りにはいきませんでした。
越後の上杉軍は、一度は織田軍を撃破するもまもなく撤退・・・
武田勢も、徳川家康と国境の城を取り合いを続けて進むことができません。
久秀は孤立・・・信長は使者を派遣し、久秀に謀反の真意を問います。
久秀は使者に会おうともしませんでした。
信長は、大軍で信貴山を包囲して攻撃!!
挙兵から1か月半後の10月10日・・・追いつめられた久秀は、城に火をつけ切腹しました。
こだわり続けた大和を見下ろす地で70年の生涯を閉じたのです。

久秀が亡くなった後、人々の間で噂が・・・
久秀は、死ぬ間際に大切にしていた茶釜平蜘蛛をたたき割ります。
平蜘蛛を欲しがっていた信長に渡るのを嫌ってのことだという。
戦国史に数々の逸話を残した久秀・・・その死にざまも、悪人らしい死にざまでした。


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戦国の世に終止符を打ち、260年あまりの太平の世を築き上げた徳川家康。
その家康に仕え、江戸幕府最大の功労者といわれるのが、家康よりも4歳年上の本多正信です。
家康の傍で、天下取りの戦略を練り続けた参謀。。。
家康の知恵袋でした。
本多正信はどのようにして家康に認められ、どのように支えたのでしょうか?

1538年、本多正信三河国に生まれました。
本多家は、藤原氏を始祖とする名門でしたが、若い頃は家康の臣下として足軽よりも身分の低い鷹匠として仕えていました。
そんな正信に大きな転機がやってきたのは、26歳の時・・・。

1563年三河一向一揆です。
一向宗の門徒と家康が激突します。
今川家から独立したばかりの家康が、領国支配を急ぐあまり、一向宗の特権を侵害したことが原因でした。
この時、一向宗の門徒であった正信は、家康に反旗を翻し、一揆軍に身を投じて、家康の首をとるために戦うこととなったのです。
どうして一向宗側に着いたのでしょうか?

本多家は貧しく一向宗に肩入れしました。
当時はまだ家康との固い絆はありませんでした。
正信だけではなく、かなりの家臣が一向宗に加担しています。
困窮のために、家康よりも一向宗に救いを求めたのです。
そして翌年、一揆が収束すると・・・
家康は、一向宗に加担した家臣たちの罪は問わないとし、多くの家臣が家康のもとに帰りましたが・・・。
正信は家康の元には戻らず、身重の妻を残して出奔。
その後の消息ははっきりとは分かっていませんが、諸国を回り、加賀一向一揆に加わったり、三好家の家臣松永久秀に仕えていたといわれています。
久秀は、戦国時代きっての梟雄と呼ばれた人物です。
松永久秀自身は、主人の三好家を乗っ取ったり、室町幕府13代将軍足利義輝を襲撃して殺害するなど戦国時代きっての戦略家です。
そこで多くの事を学んでいた正信・・・
久秀は正信のことをこういっています。
「剛に非ず 柔に非ず 非常の器である」と。

強いだけでも優しいだけでもない・・・計り知れない器量の持ち主である・・・と。
正信が家康のもとに起算したのは、出奔から20年後の事でした。
”帰り新参”といわれる肩身の狭い立場で、かつ、裏切り者・・・。
槍も剣もあまり使えなかったようで・・・。
家康に仕え、生死を共にしてきた家臣たちにとっては総スカンの存在でした。

広い視野と情報網を持つ本多正信が名参謀となったのは・・・??
1590年豊臣秀吉は、北条氏を倒して天下を統一!!
徳川家康は、家康から北条氏が治めていた関東への転封を命じられ、江戸城に入城。
その頃、家康は、家臣たちを試すためにこんな問いかけをしていました。

「さて・・・力づくでどのあたりまで攻め込むのがよかろう?」

徳川軍が関東から京に攻め上った場合の可能性についてです。
すると・・・ある者は勇ましく「関ケ原」まで。「浜松」まで。
しかし、正信は一言も発しませんでした。

今の徳川は、江戸を出ることはできない・・・。
冷静な状況判断でした。
以心伝心・・・的確な分析能力を読み取った家康は、その通り・・・と、頷いたといいます。
家康を関東に封じ込めたのは、後ろに蒲生氏郷がいたからです。
関東から西に動いた瞬間に、蒲生が攻め込んでくる・・・正信はそれが解っていたのです。
分析や戦略を立てることのできる正信・・・家康の天下取りには必要な人物でした。
また、人を諫めるのも上手でした。

家康の信頼を得た正信は、家康が大きな決断を求められるたびに参謀として意見し、それを家康はことごとく採用していくこととなります。
1592年、朝鮮出兵。
家康は、九州・名護屋城への参陣を命じられます。
しかし、兵を出すのはそこまで・・・というのが正信の主張でした。

「朝鮮出兵は、必ず失敗に終わり、出陣すればただ兵が疲弊するのみ。」

正信は、朝鮮出兵が無謀な戦いであると見抜いていたのです。
幸い、家康は朝鮮半島の出兵は免れ、徳川の軍事力の保持を図ることができました。
正信の読み通り、朝鮮出兵は豊臣政権に多大な打撃を与え、家臣たちに大きな亀裂を与えたのです。

「この戦のあと、殿に天下取りのチャンスがやってくる・・・」

朝鮮出兵のさ中に、豊臣秀吉が62歳で死去。
すると徳川家康の知恵袋・本多正信が動きます。
石田三成ら文治派と、加藤清正・福島正則ら武断派の対立を煽り、秀頼政権の弱体化を図ったのです。
その結果・・・事件が勃発。
朝鮮出兵で身を削って戦った浅野幸長・加藤嘉明・黒田長政・福島正則・加藤清正・池田輝政・細川忠興らが三成を討つべく兵を挙げました。
世に言う”七将襲撃事件”です。

窮地に陥った三成は、屋敷をでると家康の元へ助けを求めます。
家康にとっては、飛んで火にいる夏の虫・・・三成は、反家康勢力の急先鋒で邪魔な存在でした。
そんな三成をどうする??
正信は家康に進言します。
「三成を助けた方が、天下取りには都合がよいと存じます。」
本多正信ならではの考えでした。

三成を殺しても、反家康勢力を一掃することはできない・・・
家康は、三成を隠居させる条件で、七将の怒りを抑えました。
この騒動で、七将を咎めなかったことで、家康は彼らを味方につけることに成功。
そして、三成を生かしておいたことで・・・三成が反家康勢力を集結して挙兵!!
天下取りのために、彼らを討つという大義名分が家康に転がり込んできました。
東西16万の軍勢が関ケ原で激突!!
戦いは、一日で決着がつき、反家康勢力は一掃されたのでした。
まさに、参謀・本多正信の知略が、家康に天下をもたらしたのです。

しかし、家康の命運をかけたこの戦いで、正信は大きな失敗をしていました。
正信は家康の子・秀忠に付き従い、徳川本隊3万8000を引き連れて中山道を・・・。
しかし、真田一族が守る2500の兵・・・上田城を落とせず・・・関ケ原の戦いに後れてしまいました。
正信は武将としての経験は少なく・・・しかし、そんな正信を怒ることはありませんでした。
というのも、、正信の実力は武功ではなく、戦後処理能力にあったからです。
井伊直政らと共に、関ケ原の論功行賞と処罰を行った正信・・・。
石田三成を処刑するなど西軍の武将には厳しく・・・三成の息子の処分については驚くべき進言をします。
「助命するのが徳川の為です。」
西軍を敵に回すのではなく、味方につける・・・恨みを残さない・・・というのが正信の戦略でした。
人の心を知り尽くした知略が、徳川幕府を築いたのです。
恨みの連鎖を断ち切ることによって・・・。

この助言を聞き入れた家康・・・三成の子は、処刑されることなく、生き延びることとなります。
一方、豊臣恩顧の武将たちで東軍に加わったものには・・・加増を行います。
先陣を仰せつかり、戦功第一とされた福島正則は24万石→49万石に。
関ケ原の戦いには参加しなかったものの・・・九州で反家康派を抑えた加藤清正は19万石→52万石。
ところが、石田三成本体と華々しく戦った加藤嘉明には10万石→20万石。
この沙汰を知らされた嘉明は怒り心頭!!
家康が50万石への加増を提案したのに、正信が反対し20万石に留まったのです。
怒りの収まらない嘉明は正信と直談判・・・。

「豊臣家に恩がありながら武功をあげた者が大きく加増されれば、恩賞目当てでまた裏切るのでは?と、人に都に大きな疑念を与え、将来、災いをもたらすことになります。
 それでもよければ、更なる加増を考えます。」

正信は、嘉明の子孫の事も考えていたのです。
正信の言葉通り、大幅に加増された福島家、加藤家はおとり潰しの憂き目にあっています。
しかし、正信の一言で、それを受け入れた加藤嘉明の子孫は明治維新まで13代・・・大名であり続けることができました。

正信の処遇は・・・??
正信が大名に列せられたのは53歳の時でした。
幕府成立以降は、相模国玉縄に2万2000石を拝領していました。
他の武将たちが次々と加増を受けても、正信の所領は変わりませんでした。
幾度となく加増の話が家康からありましたが、受けようとはしなかったのです。
「たとえ家が富まずとも、貧しいわけではなく、一生食べていくことができまする。
 それがしにとお考えの領地は、ぜひ武功があったものにご加増をお願い申し上げます。」
そして跡継ぎ・正純に対しても、「3万石を超える加増を受けてはならん!!」ときつく言い含めていました。
人事権を持つ者が、武功をあげずに加増を受けると、周囲の反感を買うと思ったからです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府を開きます。
この時、家康は62歳、正信66歳になっていました。
家康はその2年後に、秀忠を2代将軍に付けます。
徳川幕府が世襲制だと天下に知らしめるためでした。
家康自身は大御所となって、駿府からの院政を行います。
正信は江戸で新しい将軍秀忠に仕え、正信の子・正純が家康の側近となって支えます。
どうして秀忠の参謀に着いたのでしょうか?

家康からの伝言を聞けば、全てわかっている正信が秀忠に着いたのです。
そして、正純を家康に育ててもらうという側面がありました。
正信は、江戸幕府を盤石にするために、徳川家臣団の再編成に着手します。
幕府重臣から多くの武功派を粛正する一方、実務能力のある官僚にポストを与えていきます。
正信の標的となった武闘派のひとりが、譜代の重臣・大久保忠隣です。
正信は領地を没収し、一族や親しい大名までも処罰します。
その理由は・・・かつて大久保家に仕えていた金山奉行の大久保長安が、金銀を横領、私腹を肥やしていたことに連座するものでした。
忠隣は、長く家康の天下取りを支え、多くの武功をあげていました。
しかも、父・忠世は正信にとって大恩人でした。
かつて正信が身重の妻を残して出奔した際、ずっと家族を援助していてくれていたのです。
そんな恩人の子である忠隣をどうして処罰したのでしょうか?
私利私欲がなく、清廉潔白・・・しかし、政治はきれいごとでは済まない・・・徳川のために、大久保を処罰したのです。
恩人の息子だからといって許してしまえば、法は立ちいかなくなります。
正信は、戒めの為にも厳しい処罰を下し、江戸幕府の体制引き締めを図ったのです。

江戸に幕府が開かれ、長い戦乱の世が終わろうとしていました。
しかし、徳川家の参謀・本多正信には、生きているうちに決着をつけておかなければならない難題がありました。
大坂城にいる豊臣秀頼です。
1611年・・・家康70歳、秀頼19歳の時に、二条城で会見をします。
現れた19歳の秀頼は、想像以上にたくましく聡明に育っていました。
その姿を見た正信は警戒しました。
秀頼が徳川の天下を脅かす存在になるのでは・・・??
「もし戦が起きたとき、秀頼が求めれば、豊臣恩顧の大名の10人のうち、6人が応じるでしょう。
 早めに征伐を・・・!!」
正信の最後の大仕事が始まりました。
秀頼追い落としの謀略とは・・・??
大坂城に蓄えられた軍資金を減らすために、淀殿の信仰心をくすぐります。
神社仏閣への寄進、建物の改修費用として金銀を湯水のように使わせます。
正信の狙いは、豊臣家を無力化し、淀殿を大坂城から移すことでした。
天下は徳川にあり!!豊臣は無力である!!ことを、知らしめたかったのです。

しかし、徳川の思ったようには行かず、淀殿が大坂城を動くことはありませんでした。
そこで正信は、豊臣家に対し、地震によって崩壊していた秀吉ゆかりの方広寺大仏殿の再建を勧めます。
1614年、豊臣家が巨額の費用をかけて大仏殿を完成させると、徳川方は疑惑を突き付けます。
大仏殿の再建のために鋳造した鐘に見過ごせないものが・・・
その問題とは、鐘に刻まれた「国家安康」・・・家康の文字が分断して呪い、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を祈っていると非難したのです。
そう、「方広寺鐘銘事件」です。
方広寺鐘銘事件は、完全な言いがかりで、豊臣方は激怒!!
秀頼は、大坂城におよそ10万の兵を集めて籠城、対決姿勢を鮮明にし、最終決戦へ・・・!!
正信の思うつぼ・・・まんまと豊臣方がはめられたのでした。

1614年、大坂冬の陣!!
徳川軍はおよそ20万の兵で大坂城を取り囲むものの・・・最強の城を落とすことは容易ではありませんでした。
自然の川と、幾重もの堀で難攻不落!!攻め込むことはできません。
そこで、この堀を無力化するべく・・・和議を申し出、秀頼の領地を安堵する代わりに、徳川方が大坂城の外堀を埋めるという条件で和議を結びます。
しかし、徳川はその約束を反古にして、外堀どころか、二の丸の堀まで一気に埋め始めました。
病気を理由にのらりくらりと豊臣方をかわし、正信が大坂城に赴いたときにはもう、城は丸裸同然でした。

ここまで愚弄されるとは!!
豊臣方は、再度挙兵します。
これこそ、正信が待っていた瞬間でした。
こうして堀のない大阪城は、大坂夏の陣(1615年)であっという間に落とされ、豊臣家は滅亡・・・
江戸幕府は名実ともに盤石となったのでした。
凄まじい本多正信の策略・・・。
諸国放浪でいろいろな主人に仕え、鷹匠であったことがこの策略、謀略に長けていた理由なのかもしれません。

1597年4月17日、徳川家康は、豊臣家の滅亡を見届けた翌年この世を去りました。
その2か月後・・・6月7日、家康に仕えた本多正信も後を追うように亡くなります。79歳でした。
所領は2万2000石のまま、生涯、つつましく精錬に生きたのでした。
そんな正信の信念は、息子・正純に厳しく言いつけられていました。

「決して3万石以上を拝領してはならぬぞ。」

ところが、正純はその言葉を守らず、宇都宮藩15万5000石を拝領。
すると、謀略が正純を待ち構えていました。
武功もなく出世した本多親子に対して、不満を持っていた重臣たちからの謀略が・・・

1622年、2代将軍徳川秀忠が家康の7回忌のために日光に赴いたとき・・・
正純は、将軍暗殺の疑いをかけられます。
正純の居城・宇都宮城に宿泊予定の秀忠を釣り天井で殺そうとしていると・・・。
根も葉もない作り話でしたが・・・正純は拝領してしまったことで、周囲の嫉妬を煽って、親の言いつけを守らなかったことで、自ら墓穴を掘ってしまったのです。
正純は、将軍・秀忠への謀反の意志ありとして、領地没収、出羽国・横手へ流罪となってしまいました。

父・本多正信の戒めを守らなかった故に、他の重臣たちの謀略で潰されてしまいました。
正純は失脚してしまったものの、正信が作った徳川幕府は平和な世をもたらしました。
もし、正信が家康の参謀でなかったら・・・天下は家康のものとなったのか・・・??

「およそ主君を諫める者の志
   戦いで先駆けするよりも大いに勝る」by徳川家康

本多正信の功績は、どんな武将よりも徳川家康に評価されていたのでした。



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