山田方谷―河井継之助が学んだ藩政改革の師 (人物文庫)

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備中松山城・・・日本で最も高い標高430メートルに天守閣を構える山城です。
大河ドラマ真田丸のタイトルバックにもなった美しい城として知られています。
この城には秘められた物語がありました。
時は動乱の幕末・・・物語の中心となったのは、備中松山藩重臣・山田方谷です。

備中松山城をいただく岡山県高梁市・・・。
山城の麓には、かつての松山藩の城下町が広がります。
藩校・有終館の校長を務めた儒学者・山田方谷。
隠居を考え始めた45歳の時、方谷の人生を一変させる出来事が・・・。
藩の重職・元締役(財務大臣)兼吟味役(事務次官)に抜擢されたのです。
財政の全権を任されたことを意味していました。

方谷とはどんな人物なのでしょうか?
1805年、山田方谷は農民の息子として生まれます。
幼いころから神童の誉れ高くありました。
農業と菜種油の製造販売の傍ら勉学に励み・・・元来武士ではありませんでした。
彼にとって、松山藩5万石の元締役はあまりに重責でした。
方谷は頑なに辞退しますが・・・方谷から政の手ほどきを受けた藩主・板倉勝静は聞きません。
切望し・・・ついに決意する方谷。。。
方谷が就任した時、松山藩は困窮のどん底にありました。
参勤交代の駕籠かきからも貧乏板倉と敬遠されるほどでした。
詳細な財政調査の結果・・・松山藩の5万石は表向きにすぎず、実際は僅か2万石足らずでした。
藩は、その事実を隠蔽して、大阪の両替商から借金を続けていました。
その結果、負債は10万両を超えていました。
財政破たんしていたにもかかわらず粉飾に粉飾を重ねていたのです。

危機に直面した方谷・・・就任早々厳しい選択を迫られます。
一刻の猶予もない!!
恥を忍んで両替商たちに説明して理解を得る??
代々地位を世襲してきた重臣たちは反対するだろうが・・・

「大信を守らんと欲せば 小信を守る遑なし」

武士の体面ばかり守ろうとしていたら、領民の暮らしや藩の存続さえ危ういのだ。

方谷は、藩内の反対を押し切って大坂へ・・・
金を借りている両替商たちを集め、返済延期を申し入れます。
その上で、思い切った財政再建計画を提示しました。
それは、米を現金化する為に設けられていた大坂の蔵屋敷廃止という大胆なものでした。
松山藩の米は商人に代わり、藩が相場を見て売りさばく・・・方谷は、全く斬新な方法を打ち出しました。
苦しい藩の財政を包み隠さず示した方谷に動かされて、商人たちは再建案を飲みます。
方谷が経済に明るかったこと、地域の実情を知った上での地域振興、流通革命・・・具体的で、実行可能な再建計画を見せたのが、納得の要因でした。

そして、地元の物を使って特産品を開発します。
ベンガラの特産地として知られる高梁市。
ここに江戸時代に開発された銅山が残されています。
この一帯は、豊かな鉱脈がある地として戦国時代から知られていました。
方谷が目をつけたのがその鉱物資源でした。
銅山経営、砂鉄からの備中鍬などの鉄製品の制作、農民たちには換金植物の生産(柚餅子、刻みタバコ)を。
流通も・・・撫育方を作り、藩内の産物を最大市場の江戸に直送・・・
率先して商いに加わったのは、松山藩の藩士たちでした。
これは、士農工商を揺るがしかねないものでした。
撫育方の藩士たちは、特産品を売りさばき、大きな利益を得るのでした。

2018年に方谷の直筆が新しく発見されました。
そこには、特産品の販売を担う部下に向けた心得が書かれていました。

撫育を進めるにあたり・・・武士としての義をわきまえ、私利に走らぬよう・・・藩士たちを戒めています。
高梁川・・・1852年9月5日、一世一代のパフォーマンスを行います。
領民たちが見守る前で、河原に積み上げた藩札を火にくべたのです。
松山藩は、財政難をしのぐために、藩札を濫造したので、その信用は失墜していました。
藩札を燃やす炎は、朝8時から夕方4時まで続いたと言われています。

そして、蓄財に見合った藩札「永銭」を発行します。
財政の健全化を目に見える形で示した「永銭」は、よその藩でも通用するほどの信用を得ました。
領民の家計がよくなれば、藩の財政も好転することを知りぬいていた方谷・・・市民撫育の思想を貫いて、実質的に7年で莫大な借金の大半を返済したといいます。
しかし・・・時代は大きな曲がり角を迎えていました。
方谷が藩札を燃やした翌年1853年6月・・・黒船来航によって、時代の大きなうねりに飲み込まれていきます。

方谷の手腕で財政を立て直した松山藩・・・
その実績を背景に、藩主・板倉勝静は、1862年に老中に就任。
勝静は、寛政の改革を成した老中・松平定信の孫にあたります。
混迷の時代・・・進んで幕政の中心を担う覚悟でした。
一方、松山藩では、方谷が軍制改革に取り組んでいました。
時代の先を読み、方谷自ら他藩に出向いて西洋式の兵法を学んでいました。
その実用化に向け、最新式の銃や大砲の研究を薦め、試作にも取り組んでいました。
しかし、藩士たちはこれに難色を示します。
学者上がりの方谷に、足軽のように扱われることへの反発でした。
方谷はこの反発を逆手にとって、農民たちを砲術部隊に!!
農民たちに銃を持たせ、最新式の西洋式軍隊に鍛え上げたのです。
凄まじい教練を見た久坂玄瑞は、長州の住人は叶わないと漏らしたといいます。
長州で奇兵隊が組織される6年前の事でした。
久坂が方谷の調練を見た年、幕府はアメリカと日米通商条約締結。
これを契機に弱体を露呈した幕府は、安政の大獄と呼ばれる弾圧政策や、孝明天皇の和宮降嫁による公武合体など威信回復に躍起になります。
しかし、これ以前に方谷は幕府に未来はないと断言していました。

「幕府を衣に例えるならば、家康公が材料を整え、秀忠公が織り上げ、家光公が初めて着用した。
 以後、歴代将軍が着用してきた。
 吉宗公が一度洗濯し、楽爺公(松平定信)が二度目の洗濯をした。
 しかし、もう汚れとほころびがひどく、新調しないとように耐えない状態になっている。」

方谷は、度々藩主・勝静に老中辞任を求めます。
先行きが不安な幕府よりも松山藩に目を向けてほしいという思いからでした。
しかし、勝静の意志は固く・・・1865年風雲急を告げる情勢の中・・・

「衰退する幕府を支えるには、微力であることは承知している。
 しかし、幕臣としてこれを座視するわけにはいかない・・・
 むしろ、徳川と共に倒れる道を選ぶのみである。」by勝静

悲壮な決意を語った3年後・・・京都郊外鳥羽伏見で戊辰戦争が勃発・・・ついに幕末動乱の火ぶたが切って落とされました。
この戦いによって、方谷は命を懸けた選択をすることとなります。

鳥羽伏見の敗戦後、徳川慶喜は夜の闇に紛れて大坂城から遁走!!
一路海上を江戸へと向かいます。
方谷の主君・板倉勝静も、老中としてこれに同行。
敗走から時を置かず、1868年1月11日、新政府から岡山藩に松山藩討伐の朝命が下ります。
朝敵となった松山藩・・・天空の城は、緊張に包まれます。
松山藩の藩主たちの資料が残されています。
これによると、旧幕府軍敗戦の知らせを受けて、松山藩はすぐさま戦闘態勢に入ります。
市中から老人や子供、女性を非難させ臨戦態勢に・・・!!
藩主不在の松山藩では、重臣たちによって、新政府への対応が協議されます。
徹底抗戦か教順か・・・議論は沸騰し、そして膠着します。

その間にも、1月14日新政府軍は松山城南12キロに迫ってきました。
遂に方谷は選択を迫られます。

農兵隊の武力を持って戦に出るのか??
藩主も徳川側についているから覚悟の一戦にするのが忠義ではないか??
朝敵の汚名を着せられたまま降伏では、大義が立たない!!
しかし・・・尽きない議論に方谷が終止符を打ちます。

藩士や領民を慈しみ育てる撫育こそ、我が天命である・・・
民あっての国であることを忘れる勿れ!!
方谷は領民の生活を思い、抗戦を訴える藩士たちを説き伏せます。
早速松山藩重臣が、新政府軍の陣へ派遣され、用意されていた謝罪書の文案を受け取ります。
方谷はその文面の四文字・・・「大逆無道」に激しく憤ります。
板倉勝静は、尊王を貫いていました。
それを大逆無道と言われることに対して許せなかったのです。
方谷は、遺書を認め、命を懸けた抗議に出ました。

「甘んじて死に就き 喜んで節を全う候のみに御座候」

方谷の決意を受け、松山藩重臣も死を覚悟して交渉に臨みます。
その結果・・・「大逆無道」の4文字は、「軽挙暴動」に書き換えられました。
その知らせを受けた方谷は、万感に胸を詰まらせました。
1868年1月18日、方谷の究極の選択によって、天空の城・・・備中松山城は戦火を逃れ無血開城されたのでした。

侍であれば死んだかもしれないけれど、農民であったからこそ生きてこその大切さ・・・。
侍として死ぬことよりも、生きるという選択は方谷にとって自然なことでした。
1868年8月、新政府軍が会津若松に侵攻・・・ここに至って朝敵とされた板倉勝静の行方は知れず・・・
方谷は躍起になって探します。
勝静は、戊辰戦争最後の激戦地・箱館に渡っていました。
家臣たちの必死の捜索でわかると、勝静の身柄確保に動きます。
1869年5月、付き合いのあったプロシア商船の船長に大金を掴ませ、新政府軍が迫る箱館勝静を脱出させます。
藩士たちは勝静に、朝廷への謝罪を説得します。
それは、備中松山藩復興のための絶対条件でした。
説得を受け入れ、謝罪し、自ら謹慎する勝静。
その4か月後・・・方谷たちの努力が報われ、松山藩の復興が許されます。
この頃、方谷の手腕を知る新政府の重鎮・岩倉具視や木戸孝允は、方谷に政府への出資を執拗に求めます。
しかし、方谷がその申し出を受け入れることはありませんでした。
方谷は、松山城無血開城後、生まれ故郷に近い長瀬で塾を開いていました。
若者のためにその建物は六棟にまで増築されていました。
松山城下からおよそ15キロ・・・そこは昭和3年に全通した伯備線の駅となり、全国でも珍しい人名の駅として、方谷の名をとどめています。

方谷駅から北へ20キロ・・・新政府からの出仕要請を嫌ったのか、方谷は山里・小阪部に塾を移しました。
そこは、母の故郷でした。
方谷が母方の祖父母を祀るために建てた庵が残っています。
68歳になった方谷は、祖先を弔いながら、瞑想にふけっていたといいます。
奇跡の藩政改革を実行し、波乱の幕末を生きた方谷は、明治10年1877年6月26日、小阪部で静かに息を引き取りました。
73年に及ぶ選択に洗濯の人生でした。
亡骸は、故郷の山田家の墓地に・・・多くの人に見守られながら埋葬されました。
その墓石に刻まれた方谷山田先生の文字は、旧備中松山藩藩主・板倉勝静が筆を執りました。

幕末維新の動乱の中、山田方谷が命を懸けて守り抜いた山間のささやかな暮らし・・・
かつて方谷が学び教鞭をとった藩校の跡地は幼稚園として活用されています。
未来を託す若者へ、健やかなれと祈りを込めて方谷が自ら植えた松の木が、今も子供たちを見守っています。


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