日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:柴田勝家

京都市東山区にある高台寺・・・死者の霊魂を祀ると言われる霊屋には、二体の座像が安置されています。
右が豊臣秀吉、そしてその隣にあるのが、秀吉の正室・・・北政所・おねです。
秀吉の正室・おねがいなければ、秀吉は天下をとれなかった・・・??

おねが生れたのは、一節には1548年といわれています。
父・杉原定利は、母・朝日のところ(木下)に婿養子となっていたために、おねも木下の人間として育てられました。
秀吉と結婚したのは14歳の時、でも、それまでが大変でした。
おねの親族・肥後国日出藩木下家家老が編纂した資料には・・・野合とあります。
野合とは、正式な手続きを経ずに男女が密かに関係を結ぶことです。
当時は、政略結婚など、親が相手を決めるのが常でしたが、その中で、おねと秀吉は恋愛で結ばれた仲でした。
更に問題だったのが、秀吉の身分・・・
おねの家は名字を持つれっきとした家系でしたが、藤吉郎と名乗っていた秀吉は、名字もない農民あがりだったのです。
尾張の織田信長のもと、戦の戦闘で戦う歩兵で足軽衆をしていました。
そんな身分の低い秀吉との結婚に、母・朝日は猛烈に反対します。
それでもあきらめきれないおねに救いの手をさしのべたのは・・・母・朝日の妹・七曲でした。
夫である浅野長勝におねを養女にしてもらい藤吉郎と結婚させました。
二人の結婚式は清州城下にある足軽長屋で行われました。
とても質素なものだったと言われています。
この時、秀吉25歳、おね14歳、親の反対を押し切ってまでの結婚・・・とても仲が良かったといいます。
おねと結婚したので、木下と名乗ることができるようになった秀吉・・・。
名字を持てる身分になった事は、秀吉にとって大きな出来事でした。
それを機に・・・足軽から天下人へと上り詰めます。

内助の功①長浜城を取り仕切る
1573年、浅井長政との小谷城の戦いで勝利に貢献した秀吉は、浅井の領地だった北近江三郡13万石を与えられ、国持ち大名となります。
そし1574年に築いたのが長浜城です。
その翌年・・・結婚して14年、おねも長浜城に入りますが、夫婦の時間などありませんでした。

この頃、木下から羽柴に名前を変えた秀吉は、主君信長から中国方面軍司令官に抜擢され、中国地方を支配する毛利氏の討伐に任命されます。
播磨の姫路城を足掛かりに西に向かうことに・・・!!
不在の間、長浜城をおねに任せた秀吉・・・
「長浜城下に町人を招くため、町人の年貢諸役を免除したところ、近隣の在所から長浜に、続々と人が流入したため、年貢を申し付けた
 しかし、「それ様」が、断りを入れてきたため、今まで通り年貢を免除することにする
 「それ様」が願ってこのようになった事を、よくよく言い聞かせてほしい」

「それ様」=おねです。
尾根の意見を聞き入れて、願いを取り下げたと文書に書かれているのです。
秀吉とおねは共同経営者だったのです。

内助の功②信長との付き合い
秀吉の主君信長がおねにあてた手紙です。
そこには、安土城を建築中だった信長の元に、おねが見事な土産をもっていった事へのお礼が書かれていました。
主君へのこうした気配りも忘れませんでした。
一方で、おねは次々と側室を迎える秀吉のことを、信長に相談していたようで・・・
「はげねずみのような秀吉が、あなた以上の妻を迎えるのは難しいのだから、朗らかな気持ちで堂々としなさい」
そして、この手紙を秀吉に立ちに見せるように言うのでした。
おねが主君信長から厚い信頼を得ていた証拠でした。

1581年、信長が京都御馬揃えを行った年・・・
家臣たちは次々と金銀や唐物をもって信長の元へ挨拶に行きました。
しかし、秀吉は小袖200枚を送ったのです。
動きやすい小袖は、当時、侍女たちの普段着でした。
特に、信長は家臣に褒美として与えるほど愛用していました。
そのため、秀吉からの気の利いた贈り物に大変喜んだといいます。
その小袖・・・おねと長浜の女性たちが力を合わせて縫い上げたものでした。
おねの内助の功もあって、主君信長との深い絆ができた秀吉・・・

1582年6月2日、信長は家臣・明智光秀の謀反に遭い、京都本能寺で自害しました。
秀吉不在の長浜城を守っていたおねにも危険が迫っていました。
長浜城に光秀方が攻め入ってきたのです。
おねはすぐに側室や女中たちを引き連れて城を脱出!!
標高750mほどの高地にある大吉寺に逃げ込み、事なきを得ました。
おねは、夫秀吉の留守をしっかりと守り通したのです。
そして本能寺の変からわずか11日後・・・羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討ち、主君信長の仇を討った秀吉は、天下人へと邁進・・・おねの仕事も増えていきました。

内助の功③妻外交
1583年、秀吉が天下人となることを決定づけた織田家家臣・柴田勝家との賤ケ岳の戦い。
秀吉よりも決め手になったのは前田利家が戦線離脱したことでした。
おねと前田利家の正室・まつが親しく、そこには、妻のホットラインがあった・・・??
おねは、柴田郡の状況を聞いたり、利家の戦線離脱を説得したりしていたようです。
夫たちが表向きには出来ない交渉を、妻外交で担っていました。

結婚から24年がたった1585年7月・・・遂に秀吉は関白に上り詰めます。
史上初の武家関白の誕生です。
その裏にも、おねの妻外交があった・・・??
関白になれるのは、公家の五摂家だけでした。
そこで、秀吉は近衛家の猶氏(家督相続を前提としない養子)となったのですが、そこには、おねが天皇家や公家衆などにお酒やタイなどの献上品を折につけ贈り、立ち働いていました。
この頃から、秀吉は豊臣と名を改め、おねも北政所となりました。

関白となった秀吉は天下統一に向け躍進!!
各地で次々と人質を取っていきます。
家族を人質に取って、動きを制限したり、反発を防ごうと考えていました。
それを大々的にやった最初が、秀吉でした。
長く秀吉と対抗していた伊達政宗もその一人・・・。
配下となるにあたって、その臣従の証として政宗に正室を人質に出すよう命じます。
そんな政宗の元に、尾根の手紙が届きます。

”人質として上洛する政宗殿の奥方の安全を保証する”

おねは、大勢の人質の監督も任されていました。
人質を蔑ろにすれば、恨みを買い、有事の際にはそれが豊臣家に災いをもたらす火種になるかもしれない・・・
そう考えたおねは、人質を丁重に扱い、世話を焼いていました。

秀吉とおねには子供ができなかったと言われています。
しかし、江戸に書かれた「爛柯堂棋話」によると・・・

秀吉とおねは、結婚してすぐに子供を授かった
しかし、秀吉は足軽衆・・・
二人の暮らしは貧しく、子供ができるとさらに苦しくなる・・・
子おろしの灸を据えた
そうしたことが3回もあった・・・

この話の信憑性はわかりませんが・・・。
そこでおねは、忙しい秀吉に代わって、何人もの養子、養女を迎えはじめます。
秀吉はおねにその子供たちのことを任せ、豊臣家の未来を担う人材を育てさせます。
しかし、状況が一変!!
1588年、秀吉の側室・茶々が懐妊。
秀吉は、出産場所として淀城を建設。
そこに住むようになった茶々は淀の方と呼ばれるようになります。
翌年・・・秀吉の待望の嫡男・鶴松が生れます。
跡継ぎとなる男の子を産んだ側室・淀の方と、正室だが子供のいないおね・・・
そんな二人の間には確執があったとされていますが・・・??
二人の間には確執はありませんでした。
淀の方は、鶴松を生んだ時点で二人目の正室となりました。
当時、関白になると正室は一人ではありませんでした。
淀の方は、男児を出産したことで、正室に格上げされたのです。
正室の役割には、子供を産むことと、家を守ることがあります。
おねは家を守ることに長けており、確執なく、正室の役割分担をして二人で秀吉を支えていました。

1590年、関東の北条氏に勝利した秀吉は、遂に天下統一を成し遂げます。
しかし、年が明けると次々と秀吉に不幸が襲います。

1591年1月、実弟秀長が死去
     8月、嫡男鶴松が死去

この時55歳、もう子には恵まれないであろうと思った秀吉とおねは、家督を継ぐ者を選ぶことに・・・。
候補は二人・・・秀吉の姉の子・秀次、おねの兄の子・秀秋でした。
秀吉の数少ない身内の秀次は、四国攻めの副大将として活躍し、重要地である近江八幡43万石の大名に。
秀秋は3歳で秀吉の養子となり、6歳で丹波亀山10万石の大名になるなど、溺愛されて育ちました。
どちらを跡継ぎにする・・・??
秀吉が選んだのは、自分の血縁である秀次でした。

養子に迎えると、自分は太閤に・・・秀次を関白の座につけました。
ところがその2年後・・・淀殿が秀頼を生むのです。
1593年、淀の方が男の子を出産・・・拾・・・後の秀頼です。
子供は無理と思っていた秀吉は大喜び!!
秀頼を正統な後継者として育てたいと考えるようになります。
そこで運命が大きく変わったのが秀次と秀秋・・・
1594年、秀秋を小早川家へ養子に出します。
1595年、秀次は・・・謀反の疑いをかけられ切腹に追い込まれます。
さらに、秀次の正室、側室、子供達・・・総勢39人を殺害!!
この時のおねの心情や行動について書かれた資料は残されていません。

こうして秀頼が名実共に秀吉の後継者となりました。
しかし、秀吉が病に倒れます。
おねは、必死で病気平癒の祈祷を行います。
しかし・・・その願い届かず・・・1598年8月18日、この世を去ります。

秀吉の遺言で、五大老のツートップ、徳川家康と前田利家が豊臣家を任されます。
家康は伏見城で執務を、利家は大坂城で秀頼の補佐をする・・・。
妻たちにも遺言しています。
大坂城のおねは伏見城に・・・伏見城にいた淀の方は江戸城に移るように言い残しました。
遺言通り、淀の方と秀頼は、秀吉が亡くなった翌年、大坂城の本丸に移ります。
ここでは、前田利家が補佐を任されていましたが・・・1599年前田利家死去。
利家が亡くなったことで、家康が天下取りに動き出します。
するとおねが驚きの行動に・・・
自分のいる大坂城西ノ丸に家康を招き入れ、さらに、夫・秀吉の遺言に従わず、伏見城ではなく京都の屋敷に・・・。その理由は・・・??
強大な権力をふるい始めた家康に対抗してきていたのが、秀吉の側近で五奉行のひとり石田三成でした。
ところが三成は、反三成派の武将たちから襲撃を受け、責任を取らされて近江・佐和山城で蟄居させられていました。
すると家康は、三成の兄・石田正澄の屋敷に入り、政務をはじめました。
家康は、前田利家がいなくなった後、秀頼の補佐もしなければならないので、大坂に本拠地を置く必要性があり、石田正澄邸に入りました。
しかしおねは、政務を執る場所は大坂城内だと考えて、豊臣政権の政治は大坂城で行うべきと、家康を大坂城に入れました。
おねが家康を大坂城に入れたのは、豊臣家のことを思っての事・・・。
秀吉の遺言に反して京都の屋敷に移り住んだのにも理由がありました。
秀吉の亡骸が、京都の豊国神社に埋葬されていたからです。
京都の屋敷に移り住んだおねは、秀吉の月命日には欠かさず参っていたと言われています。

亡き夫の弔い・・・後継者の育成・教育・・・後家役割と、当時は言っていました。
菩提を弔うのはおね、秀頼の教育は淀の方だったのでしょう。
しかし、おねが家康を大坂城に入れたことで、家康はますます立場を強くしていき、勢力を拡大させていきます。

1600年9月15日、関ケ原の戦いが始まります。
徳川家康率いる7万の東軍と、石田三成率いる8万の西軍が激突します。
秀吉恩顧の者たちが、東西に分かれて闘いました。
天下分け目の戦いで、東軍の勝利を決定づけさせたのは、秀吉とおねが養子にして可愛がっていた小早川秀秋の裏切りでした。
秀頼の誕生後、小早川家に養子に入った秀秋は、家督を継ぎ、筑前名島を治める大名になっていました。
豊臣家から追われたとはいえ、一族だった秀秋は西軍として参戦!!
戦の途中、東軍に寝返り西軍を攻撃!!
これによって東軍が勢いづいて勝利したのです。
この裏切りは、家康の調略によるものですが・・・
秀秋に裏切りをせかす手紙が残っています。

東軍の浅野幸長・黒田長政から小早川秀秋に宛てたものです。
そこには、
”政所様の世話になってきた二人(浅野・黒田)はおねを手助けする為に東軍についた”と書かれていました。
足軽出身だった秀吉には、代々仕えてきた武将がいませんでした。
そこでおねは、秀吉を支える武将にすべく、加藤清正・福島正則など若い家臣たちの面倒をよく見ていました。
黒田官兵衛の息子・長政も、世話になっていました。
秀吉・おね夫妻に我が子のように育てられました。
おねの親族の浅野も、おねに恩がありました
秀次事件の際に、秀次の弁護をしたことで秀吉の怒りを買ったのをおねが助けていたのです。
そんな二人は、同じくおねに恩のある秀秋に対し、東軍に着くと返事をしてほしいとせっついたというのですが・・・

おねは、本当に東軍に味方していたのでしょうか?
この手紙は、黒田・浅野が小早川秀秋を説得する為に、おねをダシに使ったのでは・・・??と思われます。
おねは、家康方についていたわけではなく、名前を利用されただけでした。
関ケ原の戦いのとき・・・おねはどのような状況だったのでしょうか?
おねは、これといった政治的な動きはしていません。
おねの兄・木下家定は中立、
その長男・勝俊は東軍として参加するも任務放棄
次男利房は西軍、三男延俊は東軍、四男俊定は西軍。
五男秀秋は・・・??西軍から東軍に寝返りました。
おねの親族は、てんでばらばらの動きをしていました。
もし、家康に加担していたならば、東軍につくように諭したはず・・・
おねが家康方に立っていたわけではなかったのです。
動きようがなかったのです。

関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍に任じられます。
おねには高台院の院号が下賜され・・・2年後、家康の援助を受け秀吉の菩提寺となる高台寺を建立。
家康の遺品を底に収め、菩提を弔うことに・・・
静かに暮らそうと思っていました。

しかし、時代がそうはさせてくれませんでした。
京都でなく夫・秀吉の菩提を弔っていたおね・・・しかし、徳川家康が動きます。
豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の釣鐘に物言いがついたのです。
問題となったのは、「国家安康」の四文字です。
家康が分断されて呪っているというのですが・・・
その真の目的は、これを機に豊臣と戦をすること。
秀頼と淀の方はこれに乗せられてしまいます。
全国から浪人と集め、戦の用意を始めたのです。
豊臣と徳川は臨戦態勢に・・・大坂の陣勃発目前!!
そしておねが動きます。
大坂へ向かうことにしたのです。
この時67歳・・・どうしておねは、危険な大坂に向かうことにしたのでしょうか?
淀の方を説得しようとしたのでは・・・??といわれています。
徳川方に屈服するようにと・・・!!
豊臣家の存続を願っていたおねの行動でした。
豊臣家を守りたいという思いがあったのです。
徳川の邪魔が入り、大坂にはたどり着けず・・・京都を出ることさえできませんでした。
1614年11月19日、大坂冬の陣勃発!!
二度にわたる戦いの末、追いつめられた秀頼と淀の方は大坂城で自害。
ここに豊臣家は滅亡しました。
その時おねは・・・守護を命じられていた甥の木下利房と共にいました。
しかし、守護とは名ばかりで、淀の方と連絡を取らないように監視されていたのです。
焼け落ちていく大坂城・・・紅蓮の炎と立ち上る煙は京の町からも見えたといいます。
おねもまた見ていたのかもしれません。
必死に守ってきた豊臣家の最期を。
伊達政宗に送ったおねの手紙には・・・大坂のことは何とも申し上げる言葉もありません。

足軽だった秀吉と築き上げてきた豊臣家、言葉にならないほどつらかったということでしょうか?
最後まで慕われ、暑い信頼を寄せられていたおねは、乱世の中、細やかな気遣いと確かな判断力で夫を支え、深い愛情を家臣たちに注ぎ、育て・・・おねは、戦国一の偉大なる妻であり、母でした。

おね終焉の地とされる圓徳院・・・亡くなるまで19年間をここで過ごしたといいます。
1623年おねは甥木下利房の次男である利次を養子に迎えます。
そしてその翌年、波乱の人生を77歳で閉じるのでした。
亡骸は、圓徳院の近くの高台寺に・・・秀吉と共に祀られています。
死後も秀吉の妻として寄り添うように・・・。

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尾張国・清須城・・・1582年6月27日、ここで本能寺の変で命を落とした信長亡き後の織田家の跡継ぎを決める重要な会議がありました。
清須会議です。
顔をそろえたのは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・・・そして、羽柴秀吉・・・4人の織田家家臣と言われています。
そんな清須会議・・・詳しいことはわかっていません。

1582年6月2日・・・天下統一目前の織田信長が、京都・本能寺で家臣の明智光秀の謀反に遭い自害しました。
その後、同じく信長の長男・織田信忠も明智軍に攻められ命を絶ちます。
強大な影響力を持っていた信長と、家督を譲られ織田家当主となっていた信忠の死・・・。
織田家存亡の危機に一早く駆けつけたのが、備中高松からおよそ200キロの道程を2万もの軍勢を率い、わずか8日間で駆け戻った中国大返しを果たした羽柴秀吉・・・。

6月13日、山城国山崎で光秀と対峙。
見事主君・信長の仇を討ったのです。
それから14日後・・・
1582年6月27日、清須会議が行われます。

その議題は二つ・・・
①織田家の家督相続者を決めること
②織田家の所領の配分を決めること
旧明智領を含む560万石の所領の分配です。

清須城には誰が参加していたのでしょうか?
「川角太閤記」によると・・・参加したのは、
・織田家の古参で家臣の筆頭である柴田勝家
・同じく宿老の丹羽長秀
・信長の仇を討った功労者・羽柴秀吉
・秀吉と同じく山崎の戦いに参加していた池田恒興
この4人が通説となっています。

しかし・・・参加者はもっといた・・・??
「多門院日記」によると・・・4人に堀秀政が加わり5人だったとされています。
秀政は、織田軍の中国方面軍に参陣し、秀吉の配下として活躍した武将です。
本能寺の変の後、秀吉軍と共に中国大返しで信長・信忠の弔い合戦に駆け付け貢献しています。
秀政が会議に参加した可能性は・・・??
清須会議の時点では、秀政は織田軍団でのランクは他の4人よりもかなり下でした。
そのため、織田軍団の重役会議に同席しているとは考えにくいと思われます。
また、「多門院日記」は、尾張の出来事を、奈良の僧が伝え聞いて書いています。
若干史実とは受け止め難いと思われます。

また、7人いたという資料も・・・山鹿素行の「武家事紀」です。
そこには、通説の4人の他に、滝川一益、信長の次男・信雄、三男・信孝が書かれています。
滝川一益は、勝家、長秀、明智光秀と共に織田四天王と呼ばれていました。
織田家の行く末を決める会議に参加していてもおかしくないのですが・・・。
織田軍団の重要メンバーでしたが、滝川一益は会議に参加していません。
どうして・・・??
一益は、会議への参加を自ら辞退したと言われています。
織田軍団の関東方面軍司令官と思われるポジションでしたが、本能寺の変の直後、上野国で起こった神流川の戦いで、北条の大軍に乾杯しています。
そのみじめな敗戦を恥じて、清須会議への参加を辞退したのです。
また、単に北条氏との戦が長引いて、会議に間に合わなかったともいわれています。

信雄と信孝は会議に参加していたのでしょうか?
清須城にいたとは言われていますが、家督継承の当事者であり、会議に参加していないと思われます。
出席を止められていた可能性もあります。

こうしたことから、「川角太閤記」に書かれた柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人が参加者と考えられます。

その中で、清須城での会議開催を呼び掛けたのが柴田勝家でした。
しかし、どうして清須城だったのでしょうか?
勝家が指定した清須城には、信忠の忘れ形見の三法師がいました。
そのために、清須城ですることを決めたのです。

6月27日・・・顔を合わせた4人・・・張り詰めた空気の中、話し合いの口火を切ったのは柴田勝家でした。

「上様親子を突然に失ったのはまことに口惜しいことだが、新しい天下人を定め、上様と仰ぎ奉るがよかろう」

こうして、織田家の後継者選びから話し合うことになりました。
ところが・・・誰一人口を開きません。
相手を伺っているようでした。
そこにはそれぞれの思惑がありました。

この時後継者候補となり得たのは、信長の次男・織田信雄、信長の三男・織田信孝、信長の孫(信忠の嫡男)・三法師でした。

①織田信雄
この時、25歳!!
信長の長男の信忠と同じ母から生まれた嫡流の子でした。
しかし、信長の伊勢攻略に利用されます。
伊勢国・北畠具教を取り込むために.、養子に・・・。
それ以後、信雄は北畠を名乗りながらも信長・信忠と共に戦に参加。
戦歴だけは重ねるものの・・・今一つ。
信長の死後、安土城に入ります。
安土城は五層七重の天主閣を持つ当時最大の城です。
信長が天下取りの夢を馳せた居城でした。
ところがこの城が、信雄が入った直後に炎上し、灰になってしまいました。
ルイス・フロイスの報告やイエズス会日本年報に書かれている「信雄が放火した」という説が現在では有力視されています。
そんなこともあってか、信雄は家臣団からの評判も悪く、清須会議の前には後継者争いから外されていました。
織田家の後継候補は、信長の三男・信孝と、孫・三法師の二人に絞られていました。

②織田信孝
信孝は、信雄とは異母兄弟でこの時25歳。
母親の身分が低く、信長から冷遇されていたせいか、記録は殆どありません。
歴史上、その存在が顕著になるのは信長が伊勢攻略の際、抵抗の大きかった有力豪族・神戸具盛のもとに養子に・・・。
その後、武功をあげるも信長の扱いは変わらず、信孝は不満を募らせていきました。
それを知ってか、信長は信孝を四国派遣軍の総大将に抜擢!!
大坂に入った信孝は、そのチャンスをものにしようと準備に精を出していました。
そこに本能寺の変の報せが・・・。
信孝はすぐに備中高松から戻った秀吉と合流し、山﨑の戦いで明智光秀を破り、見事、父と兄の仇を討つのです。
当時の人々も、父と兄の仇を討った信孝が後継者に相応しいと考えていました。
来日していた宣教師たちも、キリスト教に理解のある信孝を後継者に望んでいました。

③三法師
信長の長男で織田家当主となっていた信忠の嫡男です。
血筋的には最も有力でしたが、この時まだ3歳でした。

信孝か三法師か・・・??

・・・??張り詰める空気の中、遂に勝家が・・・

「信孝様こそお年頃といい、その利発さといい、まことに天下人として適任この上ない人物と存ずる」

信孝を、織田家の後継に挙げたのです。
しかし、それは表向きの理由・・・勝家には思惑がありました。
勝家が清須会議の開催を呼びかけたのは、信長の敵討ちで秀吉に後れを取ってしまった汚名を返上するためです。
会議をリードすることで、織田家家臣筆頭という立場を周囲に示そうと考えたのです。
そしてその立場を盤石にするためには信孝を後継者にする必要がありました。
勝家は、信孝の成人の際の烏帽子親で、信孝とのつながりが強かったのです。
勝家は、信孝を織田家の後継者にし、自分が中心となって織田家を支えていこうと考えていました。

事実上天下を掌握するのは誰・・・??

「勝家殿の意見はごもっともだが、ここは筋目から言ってもご嫡男を擁立するのが道理・・・
 信忠さまにれっきとした若君がおられる以上は三法師様をお取り立てるのが当然かと存ずる」

秀吉は、勝家が信孝の後ろ盾として前面に出てくることを避けようと考えていました。
勝家に対抗する候補を擁立しようといました。
何よりも血筋を重んじる時代だったので、信忠の後継者を決める会議となると、信忠の血をひく三法師がいる限り、家督相続者は三法師以外ありえませんでした。

宿老の勝家に対し、強気の秀吉・・・
秀吉には、明智勢討伐の実績があったからです。
光秀討伐の功績に伴う発言力は大きいものでした。
秀吉の思惑は・・・??
成人した信雄、信孝が織田家を継ぐと、その家臣として仕えなければなりません。
幼少の三法師であれば、自身の傀儡にすることができると考えたのです。

自分よりも各下で足軽からの成り上がり者の秀吉の態度に、勝家は顔に出さないもののはらわたが煮えくり返っていました。
武将として優秀な信孝を推す勝家に対し、筋目を理由に三法師を推す秀吉・・・。
真っ向から対立する二人を前に、会議は膠着状態に・・・
勝頼と同じく織田家古参で秀吉を嫌っていた丹羽長秀が・・・
「そうじゃな・・・秀吉の申すことは正論。
 三歳とはいえ三法師様が後を継がれるのが筋目であろうな。」

どうして長秀は秀吉に味方したのでしょうか?

秀吉の器量を認める長秀・・・。
丹羽家を守るためには、勝家と秀吉のどちらに味方した方が良いかを見極め、秀吉を選んだのです。
長秀の援護射撃で、会議は一気に秀吉に傾きます。
ところがとうの秀吉は・・・席を立ってしまいました。
これも秀吉の作戦で、秀吉が立った間に長秀、恒興も勝家を説得・・・。
「弔い合戦に間に合わなかったお前の出る幕はない」という勝家への直言を秀吉がすると角が立つからです。
わざと退席し、長秀に言わせたのです。
こうして三法師が後を継ぐこととなります。
清須会議の前、秀吉は信長の妹で浅井長政に嫁いでいたお市と勝家の再婚話を進めていました。
高嶺の花であるお市との縁談を持ちかけることで、会議前に勝家に恩を売っていたのです。

また違う見方も・・・
それは、そもそも「川角太閤記」は、秀吉の天下人への台頭を前提とした歴史観によって書かれたものだからです。
三法師が後継者に選ばれたのは、秀吉が擁立鹿からではなく、会議の前から決まっていたという説です。
血筋が重要視されていた当時ならば、三法師がすんなりと跡継ぎになっていたはず・・・。
そのために、会議では後継者はすぐに決着。
別のことが議題に・・・・
信雄・信孝は、織田家当主の座を争っていたのではなく、どちらが三法師の名代になるかを争っていたのです。
議論は紛糾・・・
次男の信雄を名代とすれば、血筋は大事にされるものの・・・
信長と信忠の仇討の功績のある信孝は・・・??
信孝のもとで活躍した家臣たちも不満が・・・。
信孝を名代とすれば、血筋が軽んじられる・・・となると、三法師を血筋で選んだことにも異議が生じます。
どちらを選んでも、不都合が生じることに・・・
そこで4人が出した答えは・・・三法師様に家督は継承させるが、信雄様、信孝様のどちらも名代にはしない・・・でした。
その代わりとして、三法師の世話役の傅役を置くことに・・・。
その傅役は、三法師が治める直轄領の代官に就任した堀秀政でした。
そして三法師は、居城である安土城が修理の間、信長の三男・信孝の居城である岐阜城に・・・信孝が後見人となったのです。

謀反人・明智光秀の所領を含む560万石の遺領分配は・・・??
織田家の血縁者たち・・・光景に決まった三法師は、近江の国一郡と安土城を。
次男・信雄は本領の南伊勢に加え尾張国と清須城を。
信雄は、織田家の父祖の地である尾張国と信長ゆかりの清須城を与えられたことで、あっさり受け入れます。
信孝には、本領の伊勢神戸に加えて、美濃国と岐阜城を分配することに・・・。
信孝はこれを不満に思うも、父信長の天下布武の根拠であった岐阜城を譲り受けること、自身が三法師の後見人となったことで、しぶしぶ承知しました。

会議に参加した織田家家臣4人は・・・??
池田恒興は、摂津国池田・有岡に加え、同じ摂津国の尼崎・兵庫・大坂を。
丹羽長秀には、若狭国に加えて近江国二郡と坂本城を。
羽柴秀吉には、播磨国に加えて丹波国・山城国・河内国を。
ただし、本領だった近江国三郡を手放すことになります。
その近江国三郡を本領の越前国に加えて手に入れたのが柴田勝家です。
これによって、秀吉の居城・長浜城も勝家のものとなりました。
どうして秀吉は、長浜城を勝家に譲ったのでしょうか?
勝家が所望したのか?秀吉から譲ったのかははっきりとはしていません。
しかし、家督問題で主導権を秀吉に握られ、信雄擁立に失敗した勝家にとっては、せめて遺領配分の県は自分の言い分を通したと考えます。
秀吉は、これ以上勝家を刺激しないように、自分の本拠地の割譲と、居城の譲渡という大幅な譲歩をし、プライドの高い勝家のメンツを立てたのです。
長浜城を手放すことになった秀吉の居城は、播磨国の姫路城となりました。
秀吉は、山崎の戦いの戦場にもなった天王山に山崎城を築城することにしていました。

そして、三法師が織田家当主となったこと、山城国を押さえ京都を手中にしたことで、天下を手中に収めるという構想が出来上がっていました。
長浜城を手放すことぐらい、痛くもかゆくもなかったのです。
この時、山城国を押さえて京都を手中にしたことが、後の天下統一への足がかりとなったのは、歴史が証明しています。

ところが・・・半年後、秀吉が長浜城を攻めます。
勝家の養子柴田勝豊が守っていましたが、あっけなく降伏・・・
もともと秀吉の城・・・攻め方はわかっていたでしょう。
そして季節は冬に・・・越前に帰っていた勝家が、すぐには動けないことをわかっていたのです。
1583年、秀吉と勝家は賤ケ岳の戦いで戦います。
敗北した柴田勝家は、その二日後に自害・・・!!
秀吉は1590年、天下を統一します。

清須会議の後織田家はどうなったのでしょうか?
武将として器量なしと言われていた信雄は、秀吉についたり、家康についたりと日和見で・・・。
しかし、最後は幕府をひらいた徳川家から、大和国宇陀松山藩2万8000石を与えられ、大名となり血を繋ぎます。
対照的な信孝・・・
秀吉と敵対し、勝家と共に賤ケ岳の戦いに臨みます。
しかし、敗れて降伏・・・切腹を命じられます。
信孝辞世の句は・・・

昔より
  主をうつみの
      野間なれば

報いを待てや
      羽柴筑前

信孝は秀吉への凄まじい怨念を抱いたまま切腹!!

織田家当主となった三法師は、元服して秀信となります。
その後、美濃国を与えられますが、秀吉の身内の扱いを受け、天下分け目の関ケ原では秀吉の西軍についたことで敗北・・・
家康によって改易となり、高野山に追放されます。
再び歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。
1605年、26歳の時、静かにこの世を去ります。

天下を決めた清須会議の結末でした。

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戦国最強の武将とはだれか??
織田信長・・・??
しかし、江戸時代初期の軍記物「北条五代記」には・・・
最強の武将とは・・・北条氏康・武田信玄・上杉謙信と書かれています。
3人の名称のうち、一人でも長命であったならば、信長は滅亡していたはず・・・??

信長と対峙したことがあるのが上杉謙信・・・軍神毘沙門天の化身と恐れられた武将です。

決戦の場は、石川県を流れる手取川流域・・・
謙信対信長・・・氏康、信玄亡き後、戦国最強を決定づける手取川の戦いです。

謙信の猛攻の前に織田軍はなすすべなく敗れ去った・・・??
闘いの後謙信はこう豪語しました。
「織田軍は案外弱く、この分では今後天下までの道は容易であろう。」と。
しかし、織田側に記録は残っておらず、実像は明らかになっていません。
勝敗を決めたものは・・・??

”国宝 上杉本洛中洛外屏風”・・・戦国時代の京都を描いた屏風です。
これは、信長が謙信に贈ったと言われています。

屏風絵の中でひときわ目立つのは、将軍の御所へ向かう武家の行列・・・
この人物こそ、若き日の謙信だと言われています。
どうしてこのような屏風を贈ったのでしょうか?
謙信と信長・・・二人の関係は古く、最初の交わりは、この屏風を贈った日から10年前です。
この時謙信は35歳、川中島の戦いで武田信玄との争いを繰り返していました。
31歳の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、隣国美濃攻略に力を注いでいました。
謙信に宛てた信長の書状には・・・
”我が息子を養子に迎えても構わないとの由、まことに光栄の至り、今後もご指導を仰ぎたい。”
この養子縁組は実現していません。しかし、謙信に対する信長の低姿勢は何を意味するのでしょうか?

この時、信長は尾張を治めて、謙信は越後を治めていました。
関東管領上杉家の名跡を、謙信はそれ以前に継いでいました。
室町時代の家の格としては、圧倒的に上杉の方が上だったのです。
当時のルールとしては、信長が謙信に対して丁寧に手紙を書くのは当然のことでした。
謙信が就任した関東管領とは、関東諸国の政務長官で、将軍が直接任命する室町幕府の要職でした。
二人の関係は、1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛した後も、変わっていません。
信長は謙信にこう報告しています。

”将軍様ご上洛の件、信長はお供することを請け負っただけです。”

信長の謙信に対する気遣いが伺えます。
しかし、やがて軋轢が生じ始めます。
契機となったのは、戦国時代最強と言われた武田信玄の死でした。
当時信玄は、信長と謙信共通の敵・・・信長の同盟者徳川家康は、三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫していました。
武田軍は、徳川領に侵攻・・・そのさなか、信玄が病没したのです。

英雄信玄の死で、武田の領国は揺らいでいました。
謙信と信長に好機が・・・!!
この機を逃すまいと、謙信は信長に申し入れます。

「畿内のことより、武田に対する軍事行動に精を出すべきである。」

互いに協力して武田領に侵攻することを提案したのです。
1574年武田勝頼が、信長の領国・東美濃へ侵攻。
信長軍は武田軍を迎え討ちます。
その時謙信は、越後から雪の峠を越え、武田領の西上野に侵攻しました。
これによって武田軍は織田領から撤退・・・謙信・信長の共同戦線は成功したかに見えました。
しかし・・・謙信は信長を救援する為に苦労して出兵したにもかかわらず、何の例もないことに腹を立て、これを遺恨としました。
洛中洛外図屏風は、謙信の怒りを収めるために、信長が贈ったものと考えられています。

翌1575年、信長が武田領にへの共同戦線を謙信に持ちかけます。
が、謙信は武田領でなく、越中へ出兵!!
これには信長も黙っていません。

「約束を違えるのは世間体が悪く、無念です。」

謙信に恨み言を述べ、批難しています。
謙信と信長・・・二人の行き違いは、やがて決定的なものとなっていきます。

1575年8月、信長は大軍勢を率いて越前に侵攻。
長年信長と対立していた一向一揆を滅ぼすためです。
一向一揆とは、本願寺門徒宗を中心とした民衆の連合で、その勢力は、戦国大名に匹敵していました。
この時信長は、驚くべき手段に打って出ます。

山林までわけ入り、男女問わずことごとく切り捨てよと命じました。
結果、生け捕られ斬首された人は併せて3、4万にももぼったと言われています。
一方謙信は、それまで敵対関係にあった加賀一向一揆と和睦。
謙信と和睦した加賀一向一揆の拠点だった鳥越城・・・。
鳥越城は、加賀一向一揆が織田軍の侵攻に抵抗する為に築かれたと考えられ、後に壮絶な攻防戦を行うこととなります。
最新鋭の武器・武具を備えていて、戦国大名の軍勢に全く劣らない強い軍事力を持つ加賀一向一揆・・・。
江戸時代の一揆と、戦国時代の一向一揆は全く異なっていました。
越前一向一揆を力で殲滅した信長・・・。
信長と相反するように、手を結んで加賀へ進出した謙信・・・。
両者の勢力のさかいを接したことで、二人の対立は避けられないものとなっていきます。

信長がしかけます。
越前を平定した後、信長は朝廷から権大納言・右近衛大将を授かります。
これは、武官の中で最高位と見なされる官職で、朝廷は信長を武家のTOPと認めたのです。
謙信の関東管領を凌ぐ信長の官位・・・
朝廷権威を背景に信長が謙信より優位に立とうとした現れです。
謙信は外交政策に力を注ぎます。
信長に追放された足利義昭の妖精に応え、毛利や武田、本願寺と組んで信長包囲網を形成します。

対する信長は経済封鎖を行います。
三国湊に謙信の勢力圏から船が入ることを禁じています。
これは、荷留と言われる信長の経済戦略でした。
謙信は3万の兵を率いて能登へ侵攻。
能登を支配していたのは名門畠山氏・・・
謙信は畠山氏が信長と手を組むことで背後が危うくなることを避けようとしたのです。
畠山氏の居城・七尾城・・・いくつもの尾根に郭が築かれた山城です。
標高およそ300mに築かれた七尾城・・・
東西1キロ、南北2.5キロ・・・日本屈指の巨大城郭です。
城内から出土した天目茶碗・・・都の華やかな文化が日本海経由で持ち込まれていました。
城の麓に総構えが・・・。
総構えとは、城下町も含め、城の外郭を囲んだ堀のことです。

謙信には、城攻めに失敗した苦い経験がありました。
1561年小田原城の戦いで、謙信は力攻めするも、落とせなかったのです。
七尾城も、力づくで落とせるような城ではない・・・七尾城の周囲を守る畠山氏の城を攻略!!
能登の港を押さえることで、制海権をとることで、七尾城の孤立を図ります。
七尾城の大きさが、謙信の戦法を変えさせたのです。
謙信にその戦法までも変えさせた七尾城・・・
信長と決戦が近づく中、どうしてもこの城を落とさなくては・・・!!
同じころ、信長は謙信との戦いに向けて、配下の武将たちを集めていました。
柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家・・・
そうそうたる顔ぶれで、兵力は4万8000!!
ここに、戦国最強をかけた戦いが始まろうとしていました。

1577年7月、謙信は3万ともいわれる軍勢で、七尾城へ向けて出陣!!
その頃、七尾城では重臣たちが上杉派・織田派に分かれ、対立していました。
織田派の重臣は信長に援軍を求めます。
出兵の大義名分を得た信長は、謙信討伐を決意!!
謙信VS信長・・・月に直接対決の時が・・・!!
しかし、出陣の直前・・・突然、信長に従っていた松永久秀が大和で挙兵!!
この謀叛には、謙信が関わっていたという資料も・・・!!
こうした不穏な状況により、信長は出陣せず、総大将・柴田勝家のもと織田軍の大軍勢が七尾城に向けて出陣!!
まもなく七尾城を攻めあぐねる謙信のもとへ織田軍侵攻の報せが届きます。
このまま七尾城を落とせないと、織田と畠山に挟み撃ちにされる・・・!!
織田の大軍勢が迫る中、普段することのない謀略を試みています。
七尾城内の上杉派に送られた謙信の書状には・・・

信長派の一族親類を討ち取って城をとれば七尾城主にする・・・!!

一方七尾城に進軍する織田軍にも問題が生じていました。
総大将・柴田勝家といさかいを起こした羽柴秀吉が、勝手に手勢を率いて帰国してしまいました。
一枚岩ではなかったのです。

9月15日、七尾城に内紛が勃発!!
謙信の謀略が功を奏したのです。
これを機に、上杉派の重臣が上杉軍を城内に引き入れ織田派をことごとく討ち果たしました。
ついに謙信は、七尾城を手に入れたのです。
七尾城に進軍を続ける織田軍は、まだそれを知らない・・・。

七尾城を手に入れた謙信・・・織田の大軍勢をどうするのか・・・??
平地決戦をするか??それとも籠城か・・・??

1577年9月10日、加賀に侵攻した柴田勝家から興味深い報告がされています。

今日まで七尾城からの使者が一人も来ない・・・
地元の百姓が、ことごとく謙信に味方するため、七尾への通路がふさがっているようである・・・

謙信は、七尾城周辺の街道を封鎖!!これによって、織田軍には情報が一切入っていなかったのです。
謙信が七尾城を落とした3日後の9月18日、織田軍は加賀・手取川近辺に到着!!
手取川・・・日本の中でも特に急流な川の一つです。

手取川は、歴史上何度も氾濫を起こし、人々に甚大な被害を与えてきました。
島集落は、避難場所の名残です。
9月23日、織田軍に七尾落城の報せが届きました。
総大将・柴田勝家は、謙信の襲来を恐れ全軍に撤退を命じます。
しかし、織田軍は、まだ気づいていませんでした。
謙信は手取川に向かって軍を進めていたのです。
謙信は、平地決戦を選びました。

謙信は織田軍に攻めかけます。そして1000人余りを討ち取ります。
撤退しようとする織田軍を手取川に追い込んで、大雨続きで溢れんばかり川が行く手を阻み、人馬もろとも流されました。
戦いのあった日は11月上旬に当たります。その頃、それほど水量があったとは思えません。
しかし、膝まで水があったとしたら、それだけで足がとられてしまうような流れでした。
その上、大きめの石がごろごろしており、駆け抜けることは不可能でした。
撤退のために川を渡ろうとする織田軍は、急流に足をとられ行軍は進みません。
そこに上杉軍が背後から攻撃を仕掛け、織田軍の多くが討ち取られたのが真相では・・・??
勝利した謙信は、家臣にこう送っています。

「信長は案外弱く、この分では今後天下までの道のりは容易であろう。」

他の資料でも・・・
「謙信が加賀へ攻め入り、一向宗徒もこれに加勢した。
 この時、敵800人ばかり討ち取った。」
戦いの後、両軍は手取川を挟んで睨み合います。
しかし、互いに攻め込むことはありませんでした。

この時、謙信にも誤算が・・・

謙信は手取川の戦いに信長が出陣していると思い込んでいました。
謙信は12月まで七尾城に留まります。
その間3か月・・・謙信にとって手取川の戦いは信長との決戦を意味していました。
しかし、そこに信長の姿はなかったのです。
謙信が七尾城に留まり続けたのは、信長の出陣を待っていたのかもしれません。

しかし、信長は畿内周辺に留まり、謙信が待つ七尾城に向かうことはありませんでした。
12月18日、謙信はようやく越後に帰国。
謙信の家臣が謀反を起こしたためです。
上杉家の内紛を狙った信長の謀略ともいわれています。
謙信は織田軍との戦いを睨んで軍を編制・・・翌年を予定していましたが・・・
1578年3月13日、謙信死去・・・享年49歳でした。
謙信対信長・・・戦国最強の直接対決は実現せず、幻に終わったのです。

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戦国時代、戦いに明け暮れ野望と裏切りが渦巻くイメージですが、天下への野心よりも、家族や親友との絆を大事にし、生き抜いた武将がいました。
前田利家です。
利家とまつは、戦国一のおしどり夫婦と言われ、加賀100万石の礎を築いていきます。
しかし、その道のりは決して平たんなものではありませんでした。

戦国指折りの勇敢さで知られる前田利家・・・
しかし、気が短く、我を忘れる欠点がありました。
怒りのあまり、主人の前で人を切り殺してしまうことも・・・!!
しくじりばかりだった若き利家・・・しかし、周りの人望を集め、大名として加賀100万石の礎を築いていきます。

そんな利家を支えた3人は・・・??
最強の上司・織田信長、風雲児だった信長は、型破りな利家を可愛がりました。
そして一国一城の主となってからは、信長に倣って豊かな国づくりを推し進めていきます。

最愛の妻・まつ、敵の大軍を目の前にしてしり込みする利家を叱ります。
時には夫の代わりに自ら交渉・・・その内助の功とは・・・??

そして親友・豊臣秀吉。
秀吉は、貧しい時代から苦楽を共にした仲間で、家族ぐるみの付き合いでした。
利家は、そんな親友と天下を争うのではなく、あえて家臣の道を選びました。
秀吉も、利家こそが最も大切な家臣と認めていました。
豊臣政権のナンバー2として、加賀100万石の豊かさと華やかな文化の礎を築いた前田利家。
しかし、秀吉の死後、巨大な敵が現れます。

織田信長に仕えた十代の頃、利家は手の付けられない乱暴者でした。
派手な身なりで町を練り歩き、喧嘩となれば喜び勇んで駆けつけます。
利家たちは傾奇者と呼ばれ、周りからはみ出し者として白い目で見られていました。
そんな利家が、天下統一を目指す信長の家臣として活躍、慰霊の大出世を果たしていきます。

1537年、前田利家は尾張国・荒子村の領主の四男として生まれます。
幼名は犬千代。
1551年、14歳の頃、尾張の大名・織田信長に仕えることになります。
暴れ者の利家にとって、戦は格好の場でした。
初めて戦場に出たとき・・・初心者は先輩武者がつきっきりで指導することになっていました。
しかし、利家は先輩の指導を無視し、真っ先に敵陣に斬り込んで首をとってしまいました。
これに驚いた信長は、「肝に毛が生えているようじゃ」と言ったといいます。
以来、利家は戦に出るたびに、武勇伝を作っていきました。
身長182センチで筋骨隆々の利家は、それまでの倍の6メートルを超える槍を自在に操り、”槍の又左”と恐れられました。
そんな利家を信長は、幼名の犬千代から犬、犬!!と、可愛がったといいます。
信長は、部下をよく見ていました。
利家は自分と同じやんちゃなところのあるタイプを見て、面白い男だと思ったのです。
そして利家には「信長様だから、俺を使ってくれる」という強い信念がありました。

1558年、21歳の時に結婚。
相手は、9歳年下のまつでした。
利家とまつは幼なじみで、幼くして父を亡くしたまつは、4歳の頃前田家へ。
乱暴者の利家でしたが、いつもまつのことを気にかけていました。
利発でお転婆なまつと利家は相思相愛だったといいます。
結婚の翌年には長女が生まれ・・・何より利家は家族を大切にしました。

そんな幸せからどん底に落ちたきっかけは、髪をかく道具”笄(こうがい)”でした。
ある時、利家の笄を、信長に仕える茶坊主が盗んだのです。
利家は信長に処分を願い出ます。
しかし、信長は些細なことから茶坊主を処分せず、それどころか仲間からは・・・

「たかが髪かき道具一つ、傾奇者のくせに情けない!!」

と噂され、遂には盗んだ茶坊主にまで馬鹿にされてしまいました。

「なぜ、盗まれた自分が笑い者にされねばならぬのか??理不尽な!!」by利家

遂に利家は、信長の前で茶坊主を斬ってしまいました。

余りの乱暴ぶりに怒った信長は、
「犬を討て!!」
死罪にしようとします。
その後、家臣の懸命の嘆願で死罪は免れたものの、利家は織田家から追放されてしまいました。
浪人となった利家は、家族を残し、一人放浪生活・・・
食べ物を得るのも一苦労・・・この頃の生活が、利家の金銭感覚に大きな影響を与えました。

「ともかく金を持てば、人も世も恐ろしくは思わないものだ。
 金がなければ、世も人も恐ろしくなるものだ。」by利家

なんとか信長の家臣に復帰したい信長・・・しかし、おいそれと許してくれるはずもない・・・
利家は驚くべき行動に出ます。
勝手に戦場に出て、織田軍として戦ったのです。
ここで利家は、敵方の強者の首をいくつもとり、大手柄をあげます。
当時、名誉挽回の近道は、戦で目覚ましい働きをすることでした。
利家は、体を張って信長の信頼を得、家臣に復帰したのです。

この頃利家は、生涯の親友と出会います。
織田家の家臣となっていた後の豊臣秀吉です。
年齢も近い二人はすぐに意気投合!!
秀吉とおねの仲を取り持ったのは、利家とまつだったともいわれています。

1569年、32歳の時、前田家の当主だった兄が隠居、兄が次の当主に義理の息子を指名しましたが、それに信長が”待った”をかけます。
「利家という実弟がおるであろう。
 利家に譲るがよい」by信長
この一言で、当主は利家に決まり、祝の席が設けられました。
この時、利家の武勇を褒めていた客人たちが、そんな利家を蔑ろにするとは・・・と、兄の悪口を言いはじめます。
すると利家は、強い口調で言いました。
「兄を謗れることで称えてくれる心遣いはありがたいが、そのようなお世辞は無用にしていただきたい。」by利家
褒めたつもりの客人たちは、利家に唖然としたといいます。

この頃信長は、破竹の勢いで領地を拡大していました。
天下統一への道をひた走っていました。
1575年、38歳の時、長篠の戦い!!
最強の武田の騎馬隊を封じるには、膨大な鉄砲を用いて絶え間なく攻撃を仕掛けるしかない!!
この戦で利家は、戦術の要・鉄砲隊の指揮隊長を任されました。
信長の思惑は的中し、利家たちは大手柄を立て、戦を勝利に導きました。

1581年、利家44歳の時、これらの功績から能登国を与えられます。
はみ出し者が、信長に取り立てられ、一国一城の主にのし上がったのです。

1582年、45歳の時に利家に大きな転機が・・・主君・信長が、家臣・明智光秀の謀反に斃れたのです。
本能寺の変です。
仇である光秀を討ったのは、親友の秀吉でした。
秀吉はこの功績で、信長の後継者争いに躍り出ます。
裏切りが当たり前の戦場で、器用に立ち回る才能は利家にはありませんでした。
利家は秀吉から絶大な信頼を寄せられ、政権のナンバー2になるのです。
どうして右腕になり得たのでしょうか・・・??
信長の死後、後継者を決める清須会議が開かれます。
幼い跡継ぎを立て実質的な当主の座を狙う秀吉VSあくまでも織田家を守ろうとする柴田勝家・・・
両者は激しく対立します。
その間で板挟みになる利家・・・
勝家は利家の上司であり、かつて信長を怒らせてしまった時に死罪から救ってくれた大恩人、秀吉は親友・・・家族ぐるみの付き合いでした。
11人の子供を授かった利家とまつは、四女・豪を養女に出すほどでした。
恩義をとるか、友情をとるか・・・苦渋の決断でした。

1538年、46歳の時、賤ケ岳の戦い!!
悩んだ末に利家は、恩義をとり勝家側として出陣します。
ところが戦闘が開始すると、利家は戦場から撤退するのです。
自分の城に引きこもってしまいました。
勝家に味方するも、秀吉を攻めることができなかったのです。
利家の撤退により、一気に秀吉軍の優勢に傾きます。
結果、勝家は敗走!!

この時、秀吉は勝家が敗走する途中、利家の城に立ち寄っています。
利家にその本心を聞こうとしたのです。
しかし、利家は部屋に籠って出て来ません。
秀吉に会わせる顔がない・・・??
このままでは本当の敵となってしまう??
危機感を抱いたまつは、秀吉にこう言います。
「このたびのご戦勝、おめでとうございます。」秀吉の価値をたたえることで、利家が敵対したのは本意ではないと伝えたのです。
すると秀吉は、
「豪姫も立派に大きくなっておるぞ。」と、まつの想いに気付き、娘の話に花を咲かせます。
最後に秀吉は言いました。
「勝家を討つため、利家殿のお力添えをといただきたい。」by秀吉
まつはこの申し出を、利家に相談することなく承諾します。
そして、利家に勝家を討ちに出るように促したのです。

まつが、利家に対し、これからは秀吉と一緒に・・・むしろ、秀吉の下で働いた方がいいという・・・
女性の目でそれまでの秀吉の信長から抜擢された動きを見ていて、信念を持っていたのでしょう。
戦は、秀吉軍の圧勝に終わります。

1583年、46歳の時、二国(加賀・能登)を与えられ、居城を金沢城に移します。
最大のライバルを倒した秀吉は、残る敵対勢力と戦い、天下人への道を歩んでいきます。
秀吉に味方する利家にも戦いの火の粉は降り注ぎます。
秀吉の敵・かつての同僚・佐々成政が攻めてきたのです。
成政は利家とは何かにつけて反目していました。そう・・・笄事件の時も・・・!!
成政は、末森城を攻撃してきました。
積年の恨みを晴らすとき!! かと思いきや、利家が向かったのは机でした。
兵の数を計算します。
浪人時代にお金で苦労した利家は、大軍を動かすのにいくらかかるかを計算するのが常でした。
その間にも、成政の勢いで、末森城は落城寸前・・・!!
ところが、成政より兵の数が少ない利家は、ぐずぐずと計算するばかり・・・
遂にまつはこう叫びます。
「この度は、この金銀をお持ちになって槍をお突きになるのが良いでしょう。」byまつ
日頃、兵を蓄えるより蓄財に熱心だった利家・・・そんなに金銀が大事なら、金銀に槍を突かせたらよいでしょう。と、強烈な皮肉で尻を叩いたのです。
この檄で目を覚ました利家は、数で勝る成政軍をなんとか撃退し、城を守ったのです。
やがて、秀吉軍の火星に寄って、成政は降伏!!
夫の影日向となって働いたまつの愛情を、利家は裏切ることはありませんでした。
1585年、48歳の時、越中国を与えられ、三国を領有することとなった利家。
加賀100万石の礎となっていきます。
1590年、53歳の時、秀吉は関東を支配下に・・・天下統一!!
天下人となった秀吉は、益々利家を頼ります。
利家が任されたのは、主に大名間の調整役です。
利家は、裏表のない人物として、暑い信頼を寄せられていました。
秀吉配下の諸大名で、こんな会話がなされたといいます。

「位も石高も、利家は家康より低いけれども、5倍も人望があり、城中でも、道中でも、人々に敬われている。」

己の信じる道を進んできた利家の真っ直ぐな生き様が、秀吉政権の右腕として欠かせない存在となっていたのです。

現在でも名勝・兼六園、加賀友禅、輪島塗・・・見事な工芸品・・・北陸には加賀100万石の文化が息づいています。
その礎を築いた利家は、領国経営で卓越した手腕を発揮します。
加賀100万石の国づくりの秘密とは・・・??
1585年、48歳の時、利家は北陸3か国の強大な領地を得ました。
金沢に入った利家が初めに行ったのは・・・
「まずは、検地をおこなう
 そして、正確な石高を見定める」by利家
性格な検地こそ、領国経営の基礎。
これは織田信長を真似たものです。
前田利家は、経済の重要性をかなり認識していました。
前を走っていた、信長や秀吉を真似ています。
そして細かい検地をおこないました。
それを支えたのは、利家の得意・そろばんでした。
普段から携帯用のそろばんを持ち、米やお金の収支を計算していました。
そして、このそろばんを使う部署を作ります。
御算用場と呼ばれる経理専門の部署です。
最盛期には150人もの武士が、この加賀の経理を取り仕切りました。
年貢や支出を計算し、合理的な領地経営、無駄のない経営を行いました。

利家が経済に関心を持つようになったのは、浪人時代と言われています。
信長から追放され、酒を煽っては喧嘩の日々・・・ある時、熱田神宮の神職の基に身を寄せました。
神職に書庫に閉じ込められた利家は、こう言われます。
「強いばかりが人の道ではない。
 中国や日本の古い書物を読みなさい。」
このことがきっかけで本を読むようになり、国づくりに大いに役立てられました。
利家は後に勉強の大切さを述べています。

「武道ばかりを重んじてはいけない。
 文武二道の侍は まれだか よくわきまえて良いものを探し出しなさい。」by利家

本の重要性を終生持ち続けました。

信長に大きく影響を受けた利家の国づくり・・・しかし、信長を見習わなかったこともあります。
それは、家臣を監視する目付を置かなかったことです。
当時の大名家では、目付を置くことが当たり前でしたが、利家は家臣たちがお互いの監視をすれば疑心暗鬼になると、目付を置かなかったのです。
信長と同じく、家臣たちに強い忠誠心を望んだ利家・・・しかし、その方法は、信長とは真逆で、家臣たちに温かく接することでした。

利家は、自ら家臣たちに手紙の作法を教えます。

「どんな書状でも、筆先で相手を満足させることが大事。」

豪快な見た目からは感じることのできない細やかな心遣いで周囲からの人望を集めていきました。
こうした利家の下で、豊かな文化を花咲かせていったのです。

どうして金沢で和菓子作りが盛んになったのでしょうか?
それは、信長の影響・・・茶の湯です。
茶の湯を嗜んだ利家・・・和菓子作りは茶の湯には欠かせません。

1598年8月、利家61歳の時・・・。
天下人・豊臣秀吉が死去・・・
この時、次の天下を狙える人は二人いました。
徳川家康と前田利家です。
しかし、利家が自ら天下をとろうとすることはありませんでした。
どうして、天下のナンバー2を貫いたのでしょう。
秀吉は死ぬ間際、利家や家康を始め諸大名を枕元に呼び、遺言を託しました。

「どうか、くれぐれも息子・秀頼のことを頼む。
 私が死んだ後は、家康が政治を取り仕切り、利家が秀頼の世話役となって成人するまで面倒を見てやってほしい。」by秀吉

秀吉に後を託されたものの、利家も病に伏せることが多くなってきていました。
1599年元日、京都・伏見城に病をおして赴く利家。
そこで、7歳の秀頼と共に諸大名の新年のあいさつを受けます。
秀頼の世話役という役割を忠実に努めようとしました。
そして、秀頼を大坂城に移すという遺言を実行しようとします。
しかし、それに反対する人物が・・・徳川家康です。
諸大名の中でも家康の官位と石高は群を抜いていました。
天下は実力のある者の持ち回り・・・次の天下人を狙っていました。
秀頼の権威が高くなることを恐れた家康は、

「そう急ぐことでもない
 4月か5月でいいではないか」by家康

しかし、利家はこの意見をはねつけます。

「もう、ご遺言を忘れたのか??」by利家

正月10日、遺言通り、秀頼を大坂城に移す利家。
そこでも、秀吉の意志を忠実に守ろうとしました。
それを無視して、天下人への道を着々と進んでいく家康。
秀吉の遺言で禁じられていた大名同士の婚姻を行い、徳川の勢力拡大を図ります。
家康の行動を受け、豊臣派と徳川派に分かれて対立します。
一触即発!!
家康はいずれ自分に反対する勢力と戦いをも辞さない思いはあったようです。
天下への野望をあらわにする家康に対して、直談判を決意する利家!!
単身、家康の屋敷に乗り込もうとします。
息子が一緒に行くと進言すると・・・

「家康が我らを斬らぬということは、百にひとつもあろうはずはなく、斬るのが必定
 そんな時、そなたは兵を据え置き、出陣して、弔い合戦を行い、勝利を得ようと思わんのか。」

利家は己の命と引き換えに、家康を攻めて豊臣家を守ろうとしたのです。
しかし、言えた巣の態度は・・・利家を盛大にもてなし、ごもっともと受け入れたのです。
当てが外れた利家ですが、家康の口約束を得ただけで帰ることになってしまいます。
その2週間後・・・利家の病状が悪化・・・
利家を慕う大名が大勢見舞いに来る中、意外な人物がやってきます。
徳川家康でした。
昔から一緒に、信長、秀吉の下で苦楽を共にした仲間のひとりとして病気見舞いに出かけたのです。
豊臣政権を守るために、一生努力してきた前田利家に敬意を表すという意識がありました。
家康の訪問から1か月後・・・
1599年閏3月3日、前田利家死去・・・享年62歳でした。

利家の最期を悟ったまつはこう語りかけました。
「あなたは若い頃から多くの戦いに出て、多くの人を殺めてきたから、後生が恐ろしい。
 ですから、この経帷子をお召しになって下さい。」
しかし、利家は断ります。
「これまでに、多くの敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことはないから、地獄に落ちるはずがない。
 もしも地獄に行ったら、閻魔を相手にひと戦してくれよう。
 かえすがえすも秀頼さまのことをお頼み申す。」by利家

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金ヶ崎の四人 信長、秀吉、光秀、家康 (毎日新聞出版)



戦国時代、天下統一を目指し破竹の勢いで快進撃を続ける織田信長が重用した二人の家臣がいました。
明智光秀と羽柴秀吉です。
新参者・・・ライバル二人の熾烈な出世争い・・・より信長に評価されていたのはどちらだったのでしょうか?

天下統一を目指す尾張の織田信長には、譜代の家臣・・・柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛・・・優秀な家臣たちがいました。
そんな古参たちを差し置いて、重用されたのが新参者の外様の家臣、明智光秀と羽柴秀吉でした。

信長との出会い・・・羽柴秀吉の場合。
信長との出会いが早かったのは秀吉の方でした。
秀吉は、尾張国中村の貧しい農家に生まれました。
幼くして父親を亡くして諸国を放浪、職を転々としながら生活していました。
18歳の時、尾張に戻ってきた秀吉は、織田家家臣の推薦で小者として3歳年上の信長に仕えました。

小者は雑用係・・・
秀吉は信長の草履を懐で温めたという逸話があるぐらい忠勤を尽くし、戦の時の歩兵である足軽に・・・
そんな秀吉に出世のチャンスが訪れたのは、1566年。
この時信長は、隣国美濃を攻略する為に、木曽川・長良川・揖斐川の接近している墨俣に城を必要としていました。
柴田勝家や佐久間信盛らが築城に当たるも・・・途中で敵の攻撃を受け失敗!!
その様子を見ていた秀吉は・・・
「私にやらせて下せえ・・・ええ考えがあります。」
こうして築城を任された秀吉は土地のことを良く知る土豪など1000人を集め、川の上流で城を築くための木材を調達し、いかだで運搬、木材は木組みを組んでいたので、墨俣では組み立てるだけ・・・敵の攻撃を受ける前に素早く完成させました。
”墨俣一夜城”ととも言われる秀吉の功績です。
成功したのは、秀吉の人柄も大いに関係していました。
土豪を一流の人懐っこさで動かしたのでは??と言われています。
秀吉のおかげで信長の美濃攻略は成功します。
これ以後、重用されるようになっていく秀吉・・・侍大将まで出世します。
1569年に京都奉行に就任します。
それまでは、譜代門閥主義で、代々使える家柄を重用していました。
能力本位で人材を抜擢する信長・・・中途採用でも能力さえあれば、出世できました。
信長の人材登用術が秀吉を出世させたのです。

信長との出会い・・・明智光秀の場合。

明智光秀の出自ははっきりとはわかっていません。
が・・・1528年土岐氏の支族「土岐明智氏」の家に生まれたともいわれています。
しかし、斎藤道三と義龍の戦いで、道三側についていた光秀の一族は道三が破れると離散・・・
美濃の国を出た光秀は各地を放浪したのち、越前・朝倉義景に仕えます。
秀吉よりも9歳年上の光秀は、信長に会うのは40歳の頃でした。
きっかけは・・・
1565年畿内で力を持っていた松永久秀らが室町幕府13代将軍足利義輝を殺害!!
その弟義昭も奈良に幽閉されますが・・・越前に逃げてきます。
義昭は、上洛の助けを求めてやってきたのですが・・・朝倉氏は動こうとしません。
義昭の世話をし、親密になっていた光秀は、業を煮やして・・・光秀の脳裏に浮かんだのは信長でした。
この時、光秀35歳!!尾張から光秀のふるさと美濃に進出し、治めていました。
信長を味方につけることができれば・・・
1568年、光秀は美濃国に赴いて、義昭を上洛させてくれないか?と、交渉します。
この時、信長は上洛の機会をうかがっていたので・・・交渉はすぐに成立!!
これが、二人の出会いでした。
光秀と濃姫が従兄妹の関係にあったから・・・とも言われています。
信長は義昭を奉じて上洛!!光秀も付き従います。
1568年義昭が15代将軍に就任。
信長は後見人となり、実質的に京を支配していきます。
二人の橋渡しをした光秀は、信長に仕えるようになり・・・出会いから1年で・・・
1569年京都奉行に就任しました。

秀吉と光秀は、同時期に京都奉行となっています。
そして・・・金ヶ崎の退き口で決まる・・・??

外様の良きライバルとして並ぶ二人に、あるミッションが・・・
1570年4月・・・勢力拡大を目論む信長は、越前の朝倉義景討伐の兵を挙げ、光秀と秀吉も参戦・・・!!
手柄をあげる絶好のチャンスです!!
織田軍は若狭方面から越前に進み、朝倉側の天筒山城、金ヶ崎城を難なく落とし、一乗谷城へ・・・!!
しかし、予期せぬ出来事が起こります。
妹のお市を嫁がせ、同盟を組んでいた北近江の戦国大名・浅井長政が裏切り、朝倉側についたのです。
その上、六角氏も挙兵!!
これによって、織田軍は敵中で完全に孤立してしまいました。
金ヶ崎にいた信長は、すぐさま撤退を決め、退路を断たれる前に京都へ退くことに・・・
金ヶ崎の退き口です。
この撤退戦では、最後まで織田軍の陣に残り、敵を足止めする殿を自ら買って出たのが秀吉で、当時の秀吉の名を取って”藤吉郎金ヶ崎の退き口”と言われ、語り継がれていますが・・・
5月4日付の波多野秀治宛の一色藤長の書状によると・・・
金ヶ崎城に
木下=木下藤吉郎(羽柴秀吉)
明十=明智十兵衛尉光秀
池筑=池田筑後守勝正
その他残し置かれ・・・とあります。

つまり、殿を務めたのは、秀吉だけではなく光秀も、池田勝正もいたのです。
この時、殿を務めたのは新参者で、身を挺して敵の追撃を阻む・・・捨て駒なのです。
しかし、上手くいけば、たいそうな手柄になる!!
3人は、金ヶ崎城で殿の順番を決めます。
①池田勝正
②明智光秀
③羽柴秀吉

この順番で食い止めることとなります。

まずは、勝正の軍が、信長の軍を逃がすために戦います。
次に代わって光秀軍が・・・峠で待ち受けて食い止めては逃げるという戦法を・・・
三番手の秀吉軍も奮戦します。
そして、京に戻れた信長・・・。
殿の役目は手柄となる・・・??

最後を務め、帰ってきた秀吉を見て不安に駆られる光秀・・・。
秀吉は、朝倉勢に追いすがられ、落武者狩りにも遭い・・・命からがら逃げかえってきました。
光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れ死んでしまっているので、功績は秀吉のものになってしまった・・・。
後世、秀吉の武功となってしまったのです。
朝倉攻めでは、二人とも貢献したことを認めていた信長です。

先に一国一城の主となったのは・・・??

織田信長は、兵を一度岐阜に戻し、徳川家康の協力を得て北近江に出陣!!
浅井朝倉との戦いに邁進します。
比叡山延暦寺が逃げ出した浅井朝倉の兵を匿っていることを知った信長は・・・
「味方になるか、中立を保ってもらいたい。
 受け入れられなければ、全山ことごとく焼き払う。」
これに対し、延暦寺は拒否!!
比叡山を焼き討ちしようとします。
家臣たちの中にも反対意見のある中、主導したのは比叡山攻略最前線を任されていた明智光秀でした。
1571年9月12日、比叡山の僧侶、信者、老若男女構わず皆殺し・・・焼き討ちします。
誰もやりたがらないことをやった光秀は、1571年信長から近江志賀郡5万石を与えられます。
比叡山の麓、琵琶湖のに面した坂本に自らの城を築きました。
一国一城の主となったのは、家臣団の中で光秀が第一号でした。
信長に出会ってから3年・・・出世争いで秀吉を大きく引き離します。
ちなみに、この時秀吉は、裏切った浅井攻略を任されていましたが、大苦戦!!
浅井氏の居城・小谷城を攻め落とし、浅井氏を滅ぼすのに3年の月日を費やしてしまいます。
その後、1573年信長から落とした小谷城と北近江3郡13万石を与えられます。
一国一城の主に・・・家臣団の中では第2号・・・光秀からおよそ2年遅れてのことでした。

城攻めが上手かったのは・・・??

1573年7月、信長が足利義昭を追放したことで、室町幕府が滅亡!!
信長は、更なる勢力拡大に向け、新しい軍事態勢を構築します。
信長自身が総大将となっていたものを・・・侵攻する地域を6つに分け、それぞれを信頼できる武将に任せます。
北陸方面郡・柴田勝家、関東方面軍・滝川一益、本願寺方面軍・佐久間信盛、四国方面軍・神戸信孝、近畿方面軍・明智光秀、中国方面軍・羽柴秀吉です。
二人もそれぞれ軍司令官に任じられました。
困難な地域を任された光秀と秀吉、その城攻めとは・・・??

明智光秀の場合・・・
1575年9月・・・光秀は丹波平定を開始。
花冠に攻め入るも・・・最初でつまづきます。
狙いを定めた黒井城が要害堅固な山城だったためにてこずってしまいます。
長引く中・・・織田方についていた丹波八上城主・波多野秀治が裏切ったため、光秀は坂本城にいったん退却!!
体制を立て直して攻め込もうとした矢先・・・
・・・光秀は、信長から石山本願寺攻め、紀州雑賀攻めに駆り出され、転戦を余儀なくされます。
結局、光秀が丹波攻めに戻れたのは1577年10月。
まずは丹波亀山城を攻略し、拠点とします。
翌年には、黒井城攻めの時に裏切った波多野秀治の八上城を攻めます。
信長公記によると・・・
「堀をほり塀・柵幾重もつけさせ、堀際に諸卒町家作に小屋をかけさせ、廻番を丈夫に警固をもう質kwられ、誠に獣の通ひもなく、在陣候なり」とあります。
光秀の城攻めは、戦わずして降伏させるというのが大前提・・・丹波の土豪たちに・・・
「味方をすれば本領安堵。忠節次第では増加なある。」
無駄に戦うことなく、交渉によって敵方を味方にしていきます。

その後も、次々と城を攻め落としていった光秀・・・最後に残ったのは、一度攻略に失敗した黒井城でした。
ところが、城主が変わっていたこともあって、光秀にあっさりと白旗を揚げるのです。
1579年、およそ4年をかけて、丹波を平定。
その翌年、信長から新たに近江(一部)と丹波を与えられ、合わせて34万石の大大名に・・・織田家家臣として確固たる地位を築いたのです。

羽柴秀吉の場合・・・
信長から中国法明軍司令官に任じられた秀吉は、中国地方の毛利輝元を攻めようとして味方を増やそうとしていました。
その手始めとなったのが、播磨の中で大きな勢力だった御着城主・小寺政職の家臣・黒田官兵衛でした。
味方につけた官兵衛が、後に秀吉を天下人へと引き上げる名軍師となるのはご存じの通ります。
さらに秀吉は、三木城主・別所長治を味方につけることに成功!!
隣国但馬に攻め入り周囲を固めたことで、中国平定は容易に成し遂げられると思われました。
ところが・・・三木城主別所長治が裏切り、毛利方についたのです。
これによって秀吉は、播磨・三木城攻めを開始します。

城攻めの際は、長期戦となるので、自軍の損害を最小限に抑え、消耗させないというのが基本です。
秀吉は、様々な城攻めの中で、兵糧攻めを好みました。
三木城攻略もその一つ・・・三木の干殺しです。
毛利方が兵糧米を送り込んだことで苦戦し、2年に及ぶ長期戦となるも、1580年1月開城させ播磨と但馬を平定。
秀吉は攻撃目標を因幡に・・・!!
秀吉の中でも残忍な鳥取の渇え殺しです。
1581年6月、秀吉は2万の軍勢を率いて但馬口から因幡に入り、吉川経家の立て籠もる鳥取城を囲みます。
秀吉は三木城攻めの際に、毛利方が兵糧米を送り込んだことで苦戦した苦い経験から、今回は城を包囲する前から計画を練っていました。
城に運び込む兵糧を少しでも少なくするために、因幡中の米を時価の数倍で買い占めたといいます。
また、村々を焼き払い、城の中に村人を逃げ込ませ、籠城する人数を増やし、食料を1日でも早く食いつぶさせようとしたのです。
やがて城の中の食料が底をつくと、飢えに苦しみ、柵に取りつくものが現れました。
秀吉軍はそれを狙い撃ちに・・・!!
その瞬間、城内の者たちは撃たれた者の体に飛びつきむさぼりついたとか・・・
それほどの飢餓状態にあったというのです。
吉川経家は兵たちの助命を条件に切腹。
城を明け渡しました。
この後、備前も攻略した秀吉は、4か国を平定したのです。

数々の城を攻め落としていった光秀と秀吉・・・
どちらが凄かったのでしょうか?
城攻めだけで見ると・・・光秀は当時の常套手段でした。
秀吉は独自の戦法を編み出しています。
なので、独自の戦法を持っていた秀吉の方が凄かったのです。
光秀と秀吉に、難しい地方の攻略を任せた信長は、この時二人をどう評価していたのでしょうか??
1580年8月8日付の佐久間信盛・信栄親子あての手紙によると・・・
「光秀の働き、天下の面目をほどこし候
 次に羽柴藤吉郎数か国比類なし」
としています。
つまり・・・光秀の方が評価が高かったのでは??
この時点での織田家の働き頭は光秀であると信長は考えていました。
光秀の評価が高かった点として・・・京都に近い国ほど、室町幕府ゆかりの勢力が多く、統治が難しかったことが挙げられます。
そして、丹波の地形は、大和盆地が入り組んでいて、統治が難しかったと思われます。
1581年2月、京都で織田軍5万ともいわれる「馬揃え」が行われます。
正親町天皇を始め、公家、女官、町人たちが見物しました。
この時、統括責任者とされたのが、信長から一番の信頼を得ていた明智光秀でした。

この時、あまりに嬉しかったのか、光秀は・・・
「瓦礫のように落ちぶれていた自分を召しだし、その上莫大な人数を預けられた。
 一族家臣は子孫に至るまで、信長様への御奉公を忘れてはならない。」と書いています。
しかし・・・その一年後、光秀が謀反を・・・!!

1582年5月、光秀は織田信長から中国毛利攻めを行っている羽柴秀吉の援軍として出陣するように命じられます。
そして6月1日・・・光秀は信長の命令通りに秀吉軍に加勢する為に、居城である丹波亀山城を後にしました。
ところが・・・老の坂で進路を変えるのです。

「敵は本能寺にあり!!」

向ったのは、信長が宿泊していた京都の本能寺でした。
6月2日未明・・・京都・本能寺。
けたたましい物音に目を覚ました信長・・・
光秀の謀反を知った信長はこう言ったと言われています。

「是非に及ばず」

天下取りを目前に・・・信長自刃。

信長に評価されていたにもかかわらず、どうして謀反に至ったのでしょうか?
怨恨説??これは江戸時代に書かれたものです。
近年有力視されているのは長宗我部問題説です。
信長は、四国に勢力を広がるために、土佐国などを治めていた長曾我部元親を取り込み、手柄を立てたら四国を与えると約束していました。
しかし、元親の力が大きくなると恐れた信長はその約束を反古にし、元親を怒らせたのです。
この元親と信長を取り持ったのが光秀でした。
面目を潰された・・・そう思った光秀。
本能寺の変は、信長が元親放伐を予定した日でした。
それを阻止する為に謀反を起こしたのでは?と考えられています。
最も信頼していた光秀によって命を落とすこととなった信長。

最終的な二人の評価は・・・??
甲乙つけがたいと思っていたようです。
その後、光秀は出世争いをしていた秀吉と戦い最期を遂げるのです。
良きライバル・・・信長にとって欠かせない二人でした。
この二人の存在が、戦国の歴史を大きく変えたことだけは、確かなようです。


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