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タグ:柴田勝家

歴史REAL織田信長 一族と家臣から迫る信長軍団の全貌 (洋泉社MOOK)

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戦国の世、天下を手中にすべく、尾張の国から突き進んだ織田信長。
非道ともいわれる行為を尽くし、自らを魔王と名乗った男が恐れた武将がいました。
越後の龍・・・上杉謙信です。
そんな二人が同盟を結びますが、最初にして最後の戦いを迎えることとなります。
そんな二人の関係とは・・・??

織田信長と上杉謙信・・・対照的な武将です。
自らを魔王と名乗り、天下を取るためなら比叡山焼き討ちなど、手段を選ばなかった織田信長。
片や、毘沙門天の化身と名乗り、関東管領として義の戦いを繰り広げた上杉謙信・・・。
二人が激突するのが1577年手取川の戦いです。
信長軍と謙信軍の最初で最後の戦いとなりました。

1534年尾張の国で生まれた織田信長・・・
1560年桶狭間の戦いで海道一の弓取りと言われた今川義元を討ち取ります。
隣国美濃への侵攻を進め、戦国時代の主役に躍り出ようとしていました。
上杉謙信は、信長よりも4歳年上・・・
1530年越後の守護代の家に生まれた謙信は、下剋上で守護の座を勝ち取り、1560年には大軍を率いて関東に侵攻。
翌年には、小田原城を包囲し、関東管領に任じられます。
1561年の第四次川中島の戦いでは、北に領地拡大を目指す武田信玄の軍に強烈な打撃を与えました。
天下統一・・・その偉業に最も近いものが上杉謙信でもありました。

謙信と信長の交流が生まれたのは、1560年のこと。
信長の方から接近しました。
信長は、息子を養子に差し出し申し出をしています。
それを受け入れてくれた謙信に対して・・・
「大変ありがたい事です。
 これからも御指南をいただきたく、ご相談させてください。」と徹頭徹尾へりくだっています。
どうしてへりくだる必要があったのでしょうか?

信長の狙いは、謙信の強さを恐れていました。
当時、関東管領の謙信と良好な関係を築くことは、武田の甲斐・信濃をけん制するという意味でもありました。
信長は、謙信にへりくだりながら、謙信の宿敵・武田信玄にも度々書状を送り高価な贈り物を届けていました。

一体誰がこの戦国の世に終止符を打ち、天下を治めるのか??
武将たちがしのぎを削る中・・・三好家家臣・松永久秀らが、室町幕府第13代将軍足利義輝を殺害しました。
間一髪で脱出した弟・義昭は、各地を転々とし、将軍の座に就こうと上洛を画策します。
この時義昭が頼ったのが、上杉謙信でした。
義昭は、上洛する為に、力を貸すように求めます。
しかし、当時の謙信は、武田、北条と戦いが続いていて、西に兵力を割くことができません。
義昭の要望に応えることができませんでした。
そんな謙信に代わって、義昭を上洛させたのは、誰あろう織田信長でした。

1568年、信長は義昭と共に上洛を成し遂げようと動きます。
この時、信長は謙信に書状を送り、義昭を奉じての上洛を説明しています。

「公方様御入洛の供奉の儀うけかい申す」

自分は義昭の上洛を請け負っただけとし、天下のために謙信殿も奔走されることを希う・・・と、謙信への配慮をしました。
自分の抜け駆けではなく、謙信に代わって室町幕府のために成したと弁明しています。
しかし、謙信が領地争いに忙殺されている間に、自分が一気に京都を抑えてしまおう・・・
謙信は、心の底では、悔しがっていたのではないか??

信長は、足利義昭を15歳将軍に就任させ、天下取りに向けて謙信に一歩先んじることとなります。
しかし、謙信を警戒・・・そこには理由がありました。
生涯の戦歴を比べると・・・
信長・・・214戦154勝48敗12分・・・負けない確率78%
謙信・・・108戦64勝7敗37分・・・・・負けない確率94%
この驚異的な数字は、信長が謙信を恐れた理由でした。
当時、周囲が敵だらけの信長にとって、謙信は絶対的にしてはならない相手だったのです。

どうして謙信は強かったのでしょうか?
負けない戦をする・・・軍略は自身が最前線で戦い統率力があったこと、兵士がお金で雇われたものではなく越後のために同意を得た民兵であったこと・・・が挙げられます。
信長は、戦に強いイメージがありますが、苦戦、敗戦が多く、信長は戦の人ではなく外交の人でした。
そして、戦う目的が違いました。
信長は自分の領土拡大のために戦いましたが、謙信は助力を乞われて・・・”義”のための戦いだったのです。
そんな欲のない戦いをする謙信に恐れを抱いていたのかもしれません。

足利義昭を奉じて上洛した織田信長・・・強引な手法がアダとなったのか、様々な困難に直面します。
その一つが、将軍・足利義昭との亀裂でした。
京を実質的に支配した信長は、義昭の実権を奪う五か条の要求をします。
その内容は・・・

天下の儀は信長に委任されたし
信長の添え状なしに、諸侯に書状を出してはいけない
今までの義昭殿の命令はすべて無効

などといったもので、義昭を名ばかりの将軍にしようとしたのです。
義昭は・・・将軍としての権力を保とうとして反発し、二人は対立することに・・・
義昭は、信長に対抗する為に、各地の大名に檄を飛ばします。
本願寺・筒井・浅井・朝倉で、信長包囲網を作り上げます。
そこには手ごわい敵も・・・大名以上に力を持っていると言われていた比叡山延暦寺も・・・
比叡山は、浅井・朝倉と連携し、苦戦を強いられた信長は、講和を申し入れますが聞き入れられなかったため、最終的には焼き討ちに・・・僧兵だけでなく、信者たちまで殺戮します。

信長は延暦寺に続いて、一向宗・・・石山本願寺との戦いに挑みます。
ところが本願寺との戦いに大苦戦!!
信長は、全国の一向宗門徒を敵に回すことに・・・。
遂に、友好関係にあったはずの武田信玄が将軍義昭の檄によって、二部長包囲網に参加。

1572年、西に向けて進軍開始!!遠江に侵攻・・・ここは徳川家康の領地・・・家康が負ければ、次は信長の領地です。
この瞬間、信玄は川中島で戦っていた謙信だけではなく、信長の敵となりました。
そこで、11月、遂に信長と謙信は、信玄に対抗すべく同盟を結ぶことに・・・!!
しかし、それでもなお信玄は西に進軍を止めようとはしません。
迎え撃った信長・家康連合軍は、三方ヶ原の戦いで大惨敗!!

信長は絶体絶命の窮地に・・・!!
ところが武田軍は、進軍を中止し甲斐に・・・
信玄が戦いのさ中、死去したのです。
天運によって危機を脱した信長・・・しかし、新しい畏れが・・・謙信の上洛です。

信長は謙信の上洛を恐れていました。
それは、自ら実権を握るというのではなく、室町幕府の復権を望んでいたからです。
武田信玄の宿敵の為、上洛できなかった謙信・・・
しかし、信玄の死によって、上洛のチャンスが・・・!!

もし、謙信が上洛するとなれば、信長との戦いは避けられない・・・。
信長包囲網も勢いづいてしまう・・・。

そこで信長は、謙信へ贈り物・・・「上杉本 洛中洛外図屏風」です。

応仁の乱で荒れ果てていた街並みが復興した京の町を一望する視点で描かれています。
京の夏を彩る祇園祭の山鉾・・・朝廷の貴族・・・武士・・・子供達・・・
描いたのは、当時随一の絵師・狩野永徳。
将軍家の御用絵師だった永徳は、足利義輝の死後、信長が新しい後ろ盾となっていました。
絵を送られた謙信は、喜んだといいます。

洛中洛外図は信長が描かせたものではなく、足利義輝が謙信に贈るために書かせたものだと言われています。
将軍が贈ってくれるはずだったものを、代わりに贈ってくれたことが、嬉しかったのです。

謙信は信長包囲網に加わることなく、越後を動くこともありませんでした。
そして・・・この屏風には、謙信の心を打つメッセージが・・・

義輝は、どうして永徳に絵を描かせたのでしょうか?
室町幕府足利将軍邸に年始の挨拶にやってきた行列・・・
輿に乗って将軍に挨拶にやってきているのは、謙信だといわれています。
江が完成した1656年、謙信は、この時すでに2回目の上洛を果たしていました。
将軍義輝に際し、全面支援を約束していました。
そんな謙信に対して・・・もう一度京の都に来てほしい・・・そして、将軍を中心とした秩序を取り戻そうではないか・・・
義輝から謙信へのメッセージが隠されていました。
この屏風に深い思い入れを感じたことでしょう。

しかし、二人の同盟は長くは続きませんでした。
織田信長は天下統一を目指して、しかけます。
信長包囲網の首謀者である足利義昭を京都から追放!!
越前・朝倉、北近江・浅井を攻め、一気に滅亡へと追い込み領地を拡大!!
越前の上杉謙信の近く・・・加賀まで侵攻して来ようとしていました。
そんな時、同盟を結んでいた謙信が思いもよらない行動にでます。
信長との同盟を破棄!!
この時、二人の緩衝地帯は能登・加賀・越中でした。
どうして謙信は同盟を破棄して信長と戦う決断を・・・??

信長と戦ってきた石山本願寺が、謙信に和解を持ちかけてきたのが大きなきっかけでした。
謙信が越後を離れられない大きな要因に、一向一揆がありました。
越後の隣、越中と加賀に立ちはだかっていたのです。
しかし、対立していた石山本願寺と和解したことで、一向宗が謙信の味方となり安全なルートが確保されました。
謙信にとって、朝倉家を滅ぼして、越前までやってきた信長は、脅威となっていたのです。

1577年閏7月、謙信は畠山家の本拠地である能登・七尾城に進軍!!
この時、畠山家は城主の春日丸が幼かったので、実権を握っていたのは重臣の長綱連と遊佐続光でした。
謙信の侵攻に直面した二人の意見は対立!!
信長に援軍を求めるのか?謙信に下るべきか??
意見がまとまらない中、長綱連は安土城の信長に援軍を求めます。

信長は、今こそ能登を手中に治め、謙信をたたく好機として北陸軍の派遣を・・・柴田勝家を総大将に任命します。
1577年8月、5万の大軍が北庄を出陣します。
信長も後を追う準備を・・・!!
絶対に負けられない・・・総大将・柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、羽柴秀吉!!
しかし、信長はまだ安心できなかったのか、出羽・伊達輝宗に使者を送り、越後の反謙信勢力である本庄繁長と連携!!
背後を脅かすよう申し入れます。
万全の体制!!信長軍の負ける要素なし!!

しかし・・・思わぬ事態が・・・
最強の信長軍団が・・・
秀吉が勝家の指揮に異論を唱え・・・無断で陣を解いて引き上げてしまいました。
秀吉と勝家の間に何が・・・??
この時の二人はライバルで・・・勝家が、秀吉軍が活躍できないように後軍に回しました。
秀吉としても、活躍しても、それは勝家の活躍となってしまう可能性があったので・・・。

悪いことは二人の亀裂だけではなく、進軍が困難を極めます。
その頃、七尾城内では異変が起こっていました。
信長派の長一族が謙信派の遊佐一族に皆殺しにされたのです。
9月15日、七尾城開城。
謙信に開けわたされました。
この事実を知る由もない勝家・・・。
手取川を越えて、松任城まで兵を進めたものの、七尾城との連絡は途絶えたまま・・・。
謙信はさらに能登南端の末森城を攻め落とし、加賀を南下。
七尾城を目指して進軍する織田軍の動きを察知した謙信は動じることなく命じます。

「一騎一卒も活て返す事 有べからず」

そして高らかに次の春には、自らが上洛すると宣言するのでした。

織田軍と上杉軍との戦いで戦局のカギを握っていたのは七尾城・・・
しかし、上杉軍に取り囲まれ、謙信の手に落ちていました。
そうとは知らない織田軍の総大将・柴田勝家は、陣を構えた松任城で、大きな決断を迫られていました。
このままやみくもに進んで勝ち目はあるのか??
百戦錬磨の勝家は、撤退をすることに・・・!!
漆黒の闇の中、5万の織田軍が南へと撤退を始めました。

9月23日夜・・・加賀国・手取川・・・退却する織田軍に突然大軍が襲い掛かります!!
謙信率いる上杉軍でした。
上杉軍が奇襲をかけると追い立てられた織田軍は手取川へ・・・!!
川を渡って逃げようとするも・・・川は連日の雨のために増水し、荒れ狂っていました。
万事休す!!
この機を逃してなるものか・・・!!
猛追する謙信!!
討ち取られた織田軍は1000人余り!!
数えきれないほどの兵が激流に流されて溺死してしまいました。
しかし、これは偶然ではなく、謙信が手取川に来るまで待って増水した川を利用した・・・謙信の作戦勝ちでした。

さらに織田軍の敗退にはもう一つ理由がありました。
上杉軍は一向一揆を味方につけていたので、織田軍の動向が手に取るように解っていたのです。
謙信を手助けしたのが、加賀・一向一揆の門徒たちでした。
上杉軍の動きを悟られないように、織田軍に情報封鎖を行い、織田軍の動きを逐次上杉軍に伝えていたのです。

上杉に 逢ふて織田も 名取川(手取川)
       はねる謙信  逃るとぶ長(信長)

上杉軍とぶつかった信長が、まるで飛ぶように逃げ去ってしまった・・・と。

実際には、信長は手取川にはおらず、到着する前に負けてしまったと考えられています。
しかし、上杉軍はそれ以上織田軍を追うことはなく・・・
春日山城に帰っていきました。
季節はまもなく冬・・・本拠地である越後は雪なので、謙信は、地元に帰って春を待たなければならなかったのです。
もしかしたら・・・これが、謙信最大のミス・・・??雪国の宿命だったのかもしれません。
あまりにあっけない勝利に、謙信はこう書き残しています。

「案外に手弱の様体 この分に候わば
 向後天下までの仕合わせ 心やすく候」

織田軍の弱さを皮肉ったうえで、上洛は難しいものではないと豪語したのです。
謙信の上洛が実現することはありませんでした。
手取川の戦いの半年後・・・1578年3月9日、謙信は、居城春日山城で突然病で倒れ、4日後に49歳という生涯を閉じることとなったのです。

もし、二人が直接対決していたら・・・??

外交戦略では信長の方が上、戦いそのものは謙信の方が上、武将としての力量は、謙信の方が上??

信長軍を破った越後の龍・謙信の突然の死・・・
天は信長を見放してはいませんでした。
実の子がいなかった謙信の死によって、上杉家は後継者争いを招き、能登をわずか3年で信長に明け渡すことに・・・
謙信という最大のライバルがいなくなった信長は、勢力を伸ばし、天下取り目前まで突き進んでいきます。
しかし・・・手取川の戦いから5年後・・・1582年、本能寺の変で明智光秀によって無念の死を遂げ、その夢を絶たれたのです。
その時信長49歳・・・奇しくも謙信の亡くなった年齢と同じでした。

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1582年6月13日、天下分け目の決戦が行われました。
明智光秀VS羽柴秀吉・・・山崎の戦いです。
合戦は僅か数時間・・・圧倒的な秀吉に、光秀は敗北しました。
本能寺の変で天下人・織田信長を討ちながら、10日余りで秀吉に敗北・・・。
後世、三日天下と揶揄されることに・・・
しかし、光秀の動きは緻密な作戦に基づいていた・・・??

戦国史上最大の事件・・・本能寺の変!!
この変は、光秀の緻密な作戦のもとに遂行されました。
1582年5月29日、織田信長は、僅かな供周りと共に安土城から本能寺に宿泊・・・
6月1日午後5時ごろ・・・光秀は1万3000の兵と共に、居城である亀山城を出陣!!
毛利攻めを行う中国方面軍・羽柴秀吉の加勢を命じられたためです。

当時、信長の家臣団は5つの方面軍に分けられており・・・
関東方面軍・・・滝川一益
北陸方面軍・・・柴田勝家
四国討伐軍・・・織田信孝
中国方面軍・・・羽柴秀吉
近畿方面軍・・・明智光秀
信長の傍で大軍を擁しているのは光秀ただ一人でした。

午後9時ごろ・・・光秀は重臣を集め、謀反の決意を語ったと言います。
光秀は信長襲撃に当たり、緻密な作戦を立てていました。
戦国時代の京都攻略は容易なものではなく・・・
というのも、町のあちこちには堀があり、櫓門、木戸門もありました。
応仁の乱以降、戦乱の巷となった京都は、要塞都市と化していたのです。
そのため光秀は、先陣にあらかじめ木戸門を開けさせておいて、軍勢が通りやすいようにしていました。
そして・・・
6月2日・・・午前4時ごろ!!信長に気付かれることなく、本能寺を取り囲んだ光秀は、一斉攻撃をかけます。
ルイス・フロイスによると・・・

”明智の兵たちは、門に達するとすぐに中に突入した。
 こうした裏切りを予想していなかったため、抵抗する者はなかった。
 信長は切腹したと言う者もあれば、邸に火を放ち死んだと言う者もあった”

戦いは僅かな時間で終わったものの・・・光秀の作戦は続きます。
次の標的は・・・本能寺の近くにいた信長の嫡男・信忠です。
織田家の家督は、既に信忠に譲られており、持ぶただが織田家の代表であり、信長の正統な後継者でした。
光秀は僅か1時間ほどの戦闘で、信忠を討ち取ることに成功!!
電光石火の早業でした。
信長が滅び、後継者もいない・・・そんな状態を作り出した光秀とは・・・??

光秀の出自は定かではなく、早くから後に室町幕府15代将軍となる足利義昭に仕えていました。
その後、信長に能力を見出され、比叡山焼き討ちを指揮し、様々な戦場で手柄を上げ、近江の要衝・坂本錠を任されるほどになります。

1575年光秀は、丹波攻めの総指揮官に抜擢されます。
都のある山城と接する国・丹波・・・山と盆地が入り組んだその土地は、統治が極めて難しく・・・
丹波平定は、中国の覇者・毛利攻略の足掛かりでした。

武将・光秀はどんな人・・・??
標高356m、周囲8キロに及ぶ巨大な山城・黒井城は、重臣・斎藤利光に命じて大土木工事を行った城です。
この城は、外枡形が2つ重なっていて、まさに光秀は築城名人です。
ルイス・フロイスも・・・光秀は勇猛な武将で、築城技術に精通していたと書いています。
羽柴秀吉やほかの武将と競い合っていたので、光秀もほかの有力武将に負けないお城を造る・・・そんな思いはありました。
緻密な作戦で成功した本能寺の変・・・光秀にとってそれは、天下をとるための一歩にすぎませんでした。

本能寺の変の後の光秀は素早く・・・
6月2日午後1時ごろ・・・光秀は今日を出立し、近江に向かって進軍します。

光秀の戦略
①近江平定
軍事的な地盤を固めます。
中国方面軍の秀吉に対抗する備えは、中川清秀をはじめとする摂津の武将達。
もともと光秀配下のために、味方に付く可能性が高いのですが、問題は近江。
北には柴田勝家、南には徳川家康が・・・近江を抑えることは光秀にとって生命線でした。
光秀は、居城・坂本城に入るとすぐに攻略を開始・・・
秀吉の長浜城や、美和長秀の佐和山城を攻略し、近江を平定し終えたのが6月4日。
6月5日・・・安土城に入城!!
近江を抑えることは、織田政権の継承者である証拠だったからです。
この光秀の軍事行動は、近江近辺の大名たちの若狭・武田元明や大和・筒井順慶を味方に付けます。

②朝廷工作
6月7日、光秀は朝廷の勅使を、安土城に迎えます。
光秀にとって朝廷を味方につけることは最重要課題でした。
主君・信長を討った光秀には大義名分がありません。
そこで光秀は朝廷に、治罰の綸旨を求めたのです。
朝敵追討という大義名分を得ることによって、光秀は官軍となるのです。

③外交(調略)
さらに光秀は、上杉、北条、毛利、長宗我部などに敵対する大名たちに密使を派遣、連携を依頼しました。

④庶民対策
光秀は今日の人々の税を免除するなど、人心収攬に努めました。
2017年、愛知県で発見された記録には・・・
「信長親子が死亡して、人々はそれに拍手し、天下が定まったと喜んだ」とあります。
光秀は勇士。
光秀は、天下人の地位を盤石にするための期間を50日、100日と見積もり、そのうちに、近国を平定しようとしていたのです。

完ぺきと思われた光秀の戦略・・・しかし、落とし穴が・・・!!
毛利との和睦交渉を成立させた秀吉が、光秀を討つべく進軍開始・・・!!
世に言う中国大返しです。

本能寺の変以降、天下取りに向けて次々と手を打ってきた光秀・・・
そんな光秀にほころびが生じます。
光秀の配下であり姻戚関係でもある丹後の大名・細川藤孝が協力を拒否。
藤孝は信長の死を知ると、髷を切り謹慎を表明していました。
摂津の武将たちも去就を明らかにしておらず、光秀は書状で説得をしています。

6月9日・・・
安土から京に戻った光秀に驚愕の知らせが・・・!!
秀吉軍がすでに姫路まで戻ってきている・・・!!
光秀と同じく、秀吉も諸国の武将に書状を送っています。
中川清秀宛ての手紙によると・・・
「今日から知らせをもたらした者が、確かに言っています。
 信長さま、信忠さまは窮地を脱したとの事・・・」と。
つまり、信長は生きているとニセ情報を流し、味方に付けようとしたのです。
秀吉を迎え討つべくどのように戦略を立てるべきか・・・??

山崎で戦う・・・??
京の玄関口・山崎は、天王山と淀川に挟まれた狭隘な場所・・・
西から来る軍勢は、体勢を崩し細長くならざるを得ない。。。
山崎の周辺の光秀本陣は・・・恵解山古墳。
巨大な前方後円墳でした。
発掘された戦国時代の堀跡は・・・
幅4メートル、深さ2メートルの堀は、長さ400mに及ぶと考えられています。
戦国時代には、古墳は陣になったり、お城に造り替えたりされることが多かったのですが・・・
周辺一帯を陣地として構築し、秀吉軍を迎え撃った様子が伺えます。
こうした堅固な陣地を構築することで、秀吉に一歩先んじることができる・・・。

それとも大坂の織田信孝を討つべきか??
秀吉が信孝を担ぐと、弔い合戦の大義名分となってしまう・・・!!
信孝を討つと、秀吉の大義名分がなくなり、摂津の大名たちも味方になってくれるかも・・・??

信長と信忠を討ち果たした光秀・・・しかし、信長の次男・信雄は伊勢、三男・信孝は大坂に・・・信雄は、四国の長宗我部討伐のために1万5000の兵を率いていました。
しかし、本能寺の変が起きると、各地から集められた兵が逃走、信雄は大坂に取り残されていたのです。
光秀は信雄討伐を考えていた??
秀吉の書状には・・・
「大坂に信孝さまがいるため、光秀は河内へ兵を乱入させ、早くも大坂を取り巻いて、信孝さまを切腹させようという風聞がある・・・」とあります。

信孝討伐のために、大坂に兵を向わせるのなら兵力が分散される・・・
更に、秀吉とそこで野戦となれば、勝敗はどちらに転ぶかわからない・・・
陣地を構築し、山崎で秀吉を迎え討つべきか、大坂に向かい信孝を討つべきか・・・??
光秀に選択の時が近づいていました。

6月9日、光秀、下鳥羽に出陣!!
信孝を討つために、大坂に向かおうとしていました。
しかし、この時光秀の作戦に破たんが生じました。
光秀に加勢したはずの筒井順慶が参陣を拒否・・・すでに、順慶は秀吉と通じていたのです。
一方秀吉は、姫路城を出陣し、東へ・・・!!
秀吉の動きを察知した光秀軍は、急いで山崎に向かいました。
交通の要衝として栄えていた山崎は、街道沿いに栄えた自治都市でした。
しかし・・・ここで不利な情報が光秀を待っていました。
光秀があてにしていた摂津の武将たちが秀吉に味方したというのです。
光秀軍1万余り・・・対して秀吉軍は3万数千となってしまいました。
大軍に対して三成はどういう作戦を立てたのでしょうか??
西は天王山と淀川に挟まれた狭隘地・・・南は3つの川が集まる湿地帯・・・。
秀吉軍より先に山崎に入った光秀軍は、小泉川を防衛ラインとし、大山崎の出口に陣を構えました。
これによって、天王山は無力化されたことになります。
また光秀は、淀城や勝竜寺城を後詰とし、防御を固めます。
秀吉軍は陣形が取れず、細長くならざるを得ない・・・
光秀は、大軍の利を封じたのです。
この時点での光秀の迎撃作戦は、秀吉を上回っていたと考えられます。

一方、秀吉の陣営は、歓喜に包まれています。
大坂の信孝が合流したのです。
秀吉は信孝を迎え、顔を合わせると涙し、いつまでも大声で泣き続けました。
信孝を味方に迎えることで、秀吉は弔い合戦という大義名分を得たのです。

光秀VS秀吉・・・決戦開始は、6月13日午後4時ごろ・・・
光秀の予想通り、大山崎の狭い隘路で秀吉軍は長くならざるを得ません。
光秀軍の猛攻で、秀吉軍の先陣は後退・・・狭い道に兵が溢れ大混乱に・・・!!
光秀軍は攻勢を強め、戦いは光秀の思い通りに展開していました。
このまま戦っていけば、秀吉軍は崩れ、勝利を手にすることができる・・・??
ところが、秀吉軍の別動隊が湿地帯を抜け、光秀軍の側面をついたのです。
子の奇襲によって、光秀軍の左翼が崩れ、勢いに乗った秀吉軍が、光秀本陣に迫ります。
この時、光秀は前線に向かおうとしますが・・・家臣に制せられます。
激闘は数時間で終了・・・。
再起を図るべく、近江の坂本城を目指した光秀。
しかしその途中、落武者狩りに襲われて、命を落としたと伝えられています。
光秀の天下取りは、ここに終わったのです。

京都の北にある慈眼寺には、光秀の木像が伝わっています。
力強い武将の姿は、これまでの光秀のイメージを覆すものでした。
敗者となり、謀反人の烙印を押された光秀・・・その真実は、歴史の深い闇に葬られたのです。



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天下統一を目指して、数々の戦で百戦錬磨だった織田信長。
しかし、信長の最大の宿敵は、武田でも、上杉でもなく・・・顕如・・・武士ではなく、浄土真宗大坂本願寺の第11世宗主です。
各地の門徒を総動員し、一揆で信長に対抗します。
信長と蓮如の10年にわたる戦い・・・石山合戦です。

1560年、今川義元を桶狭間で破った織田信長は、その後も次々と敵を撃破し、近畿を制圧!!
1568年足利義昭を奉じて、悲願の上洛を果たします。
第15代将軍足利義昭の後見人となって、天下統一に名乗りをあげました。
そんな信長の前に立ちはだかったのが、本拠地を大坂とする浄土真宗・本願寺でした。
全国に数十万の門徒を持つ本願寺は、お布施によって戦国武将以上の財力を誇り、僧兵を持っていました。
勢力拡大を狙う信長にとって、本願寺は邪魔な存在・・・。
その財力を弱めるために、畿内平定を理由に本願寺に矢銭(軍資金)を要求しました。
断れば・・・制裁が待っていました。

この厳しい要求を突き付けられたのは、浄土真宗の若き宗主・顕如でした。
本願寺は要求を呑むのか・・・紛糾するものの、顕如は理不尽な信長の求めに応じます。
すると信長は、畿内一円にある浄土真宗の他の寺にも矢銭を要求。
30億円にも及びました。
ところが信長は、浄土真宗が莫大な矢銭を納めたにもかかわらず、本願寺の大坂からの立ち退きを要求したのです。

一方で、信長は天下取りのための策略を巡らせていました。
将軍・義昭に、五か条の条書を突きつけます。
「天下の儀は信長に任せおかれたのだから、上意をうかがわずに信長の考えで処置する」
政治はすべて信長が行う・・・とあったのです。
名ばかりの将軍となってしまった義昭は、武田、浅井、朝倉、三好・・・有力大名に呼びかけ、信長包囲網を築きます。
信長は、辛くも浅井・朝倉連合軍を破り・・・ところが三好一族が阿波から大坂に進出!!
信長も大坂を目指します。
そこで、信長に反旗を翻した顕如!!
信長と顕如、10年にわたる石山合戦の始まりでした。

顕如は全国の門徒に対し、檄を飛ばします。

「信長と戦え!!戦わない者は破門に処す!!」by顕如

「信長は、上洛して以来、たびたび難題を突き付けて来た。
 さらに本願寺が大坂から立ち退かなければ、破却すると通告してきた。。。
 このうえは、身命を投げ打ち、忠節を尽くすように・・・!!」by顕如

浄土真宗門徒にとっては、信長は命に代えても倒さなければならない仏敵となったのです。
顕如が決起した理由は・・・??
矢銭を要求する信長に対し、強い不快感を抱いていました。

本願寺派第11世宗主・顕如・・・
石山合戦開戦当時27歳、大坂本願寺の住職でした。
妻は、甲斐の虎・武田信玄の正室の妹・如春尼。

かたや信長は37歳。
天下統一を目指し京に上り、畿内の制圧に着手しようとしていました。
二人が激突した石山合戦の始まりは、信長による「大坂からの立ち退き命令」でした。
どうして大坂本願寺に立ち退きを命令したのでしょうか??

大坂本願寺は、今の大坂城のあたりにありました。
寺の周りには、自治集落である寺内町を作り、税を免除するなど経済的な特権を付与。
そのため、門徒だけでなく各地から商人たちも集まりたいそうな賑わいを見せていました。
当時の大坂の地形は、今とは異なり、本願寺のあたりは島になっていました。
そのため、都市国家の様相を呈していました。
全国から多くの人が集まる大坂・・・

「本願寺は日本で一番大きい宗派である
 日本の富の大部分は本願寺の僧侶が所有している。」byガスパル・ビレラの報告書

信長の狙いは、この本願寺の富にありました。
京都や大阪に近く、経済の拠点・・・大阪の経済力が欲しかったのです。

もう一つ本願寺から取り上げたかったのが、宗教的な既得権益です。
本願寺のような宗教勢力は、武将の権力構造の外にあります。
お布施を集めたり、僧兵を集めたり・・・信長にとっては脅威でした。
政教分離の確立を徹底しようとしたのです。
大坂から本願寺を追い出すことは、信長の天下統一にとっては必須だったのです。

1570年11月、信長のおひざ元尾張と伊勢の国境・・・長島で、大規模な一揆・・・長島一向一揆が・・・
顕如の命を受けた地元の門徒たちが、信長の弟・信興の治める城を攻撃!!
しかし、信長は、浅井朝倉との戦いで、応援に行くことができません。
一揆衆に囲まれた信興は、なすすべなく自決に追い込まれてしまいました。

「顕如よ、許さん!!」by信長

半年後、信長は長島一向一揆を鎮圧すべく、自ら大軍を率いて出発!!
しかし、一揆衆の反撃にあって、鎮圧どころか苦戦!!
長島は、複数の中洲の集合体で、戦うには自然の要塞・・・地の利がありました。
葦が深く生い茂る河原での戦い・・・進軍もままならないぬかるみ。
一揆衆は、その芦原に身を潜め、織田軍を罠にかけ取り囲みます。
重い甲冑を身に着けている織田軍は思うように身動きできず、次々と倒されていきました。
ゲリラ攻撃で、信長軍を窮地に追い込んでいきます。
織田軍は防戦一方となり、名将・柴田勝家までも負傷・・・織田軍は、退却を余儀なくされたのです。

武士と門徒では価値観が違う・・・
武士達の恩賞は、「知行」「出世」でしたが・・・門徒たちは戦って死ねば「極楽浄土」が約束されていました。
信長の大軍勢をもってしても勝てない理由がそこにはあったのです。

1571年9月、仏教界に衝撃が・・・
信長が、対抗勢力の一つだった比叡山延暦寺を焼き討ちしたのです。
僧侶、女性、子供に至るまで、3,000人を殺戮したのです。
浅井・朝倉との戦いで、中立を申し入れたにもかかわらず、これを拒否したことへの報復でした。
多くの戦国大名は、宗教勢力とは共存共栄でやってきていた中、信長は3つの権門。。。
①公家 ②寺家 ③武家 の公家と寺家とを排除して、武家の世界を作りたかったのです。

比叡山焼き討ちに危機を感じた顕如は、反信長勢力の結集に向けて動きます。
武田信玄を味方にし・・・
本願寺、浅井、朝倉、武田で信長包囲網を構築したのです。
戦国最強の武田軍が、織田軍に向かって進軍し始めました。


1572年三方ヶ原の戦いで、織田に組する徳川を撃破、信長は、絶体絶命の危機に・・・!!
ところが、信玄が進軍途中に死去・・・
信長包囲網にほころびが生じてきました。
これに乗じて、信長は足利義昭を追放!!
ここに室町幕府は滅亡!!
危機を脱した信長は、浅井・朝倉を殲滅!!
残る敵は、本願寺のみとなりました。

1574年7月・・・信長は、再び長島一向一揆の鎮圧に・・・
8万を越える大軍で、長島一帯を完全に包囲!!
前回のゲリラ戦に懲りた信長は、兵糧攻めに・・・!!
3か月で・・・半数が餓死・・・それでも「一揆衆すべて根切せよ!!」by信長
根切とは・・・降伏しても捕虜にせず・・・皆殺し!!
しかも一揆衆だけでなく、家族までも一人残らず殺せと命じました。
逃げられないように柵をし、火を放ち、2万もの人々を焼き殺してしまいました。
負けてもはい出て来る・・・門徒の怖さを信長は熟知していたのです。
遂に、長島一向一揆を鎮圧!!

1575年越前の一向一揆に乗り出します。
顕如は信長によって滅ぼされた朝倉の領地・越前に守護代として側近を派遣。
本願寺による領地の支配を目論んでいました。
しかし、信長がそれを許すはずもなく、ここでも殲滅作戦を実行!!
この時信長に差し出された首は、1万2000ともいわれています。
ここにきて、ようやく顕如は信長に休戦を乞い、和睦がなされました。
そしてこの和睦が、新しい領国支配のシステムを作り出すこととなります。

一向一揆を再び起こさせないために、重臣の柴田勝家を送り込みます。
これが、新しい領国支配の基礎となります。
戦国時代は領地を支配するのは土着の武士でしたが、信長はその土地と関係のない武士に一国を与え、領国支配を任せます。
それは、信長の求心力を高めるためでもありました。
信長を頂点とした統治システムだったのです。

越前一向一揆の後、信長と和睦をした本願寺の顕如・・・
しかし、顕如はまだ打倒信長を諦めてはいませんでした。
上杉謙信、武田勝頼らと新しい包囲網を築き、戦いを挑みます。
これに対し、信長もついに大坂攻めを決行!!
大軍で海と陸から本願寺を包囲!!
しかし、要害堅固の大坂本願寺・・・周囲には深い堀が張り巡らされて・・・
掛かっている橋には鉄砲隊が・・・!!
顕如は信長との全面対決に向けて、紀州の鉄砲隊・雑賀衆を雇っていました。

織田軍苦戦の一報を受けたとき、信長は京都にいました。
いそぎ信長は大坂に駆け付けて自ら指揮を執ることに・・・!!
しかし、足に流れ弾が当たり深手を負ってしまいました。
鉄砲と言う新しい武器で戦を勝ち上がってきた信長が、皮肉にもその鉄砲で負けたのです。
そこで信長は、長島一向一揆と同じく、兵糧攻めに作戦を変更!!
ところが、この作戦を邪魔したのが・・・西国の雄・毛利輝元でした。
信長と友好関係にあったにもかかわらず、瀬戸内海から木津川を通じて船で兵糧を本願寺に送っていたのです。
信長の兵糧攻め、全くの効果なし!!
輝元はどうして本願寺に味方したのでしょうか?
輝元は、信長の西国進出を食い止めようと考えていたようです。
戦況が拮抗している今ならば、信長を倒せるかも・・・??
1576年7月、本願寺の補給路を断つべく、織田水軍300艘を大阪湾に派遣!!
兵糧を積んで入ってきた毛利水軍を迎え討ちます。
これが木津川の戦いで・・・これも、織田軍は大敗!!
毛利水軍の強力な武器・・・焙烙玉(手りゅう弾)に負けたのです。
おかげで顕如は、兵糧と武器を手にすることとなりました。
撤退を余儀なくされてしまった信長・・・このまま手をこまねいているわけにはいかない・・・
顕如を倒さなければ天下統一はなしえない・・・

そこで、志摩国の九鬼水軍の九鬼義隆に命じて、焙烙玉に耐えうる船づくりに乗り出します。
鉄砲の弾も通らない・・・鉄甲船です。
ベースは当時の軍船として使われていた安宅船・・・
焙烙による攻撃を防ぐために、外側に厚い鉄板を貼り付けます。
四方には大砲を・・・!!
船の全長は30mに及び・・・世界初の鉄張り軍艦でした。

最高の攻撃力と防御力を誇る軍船でした!!
信長は、鉄甲船を6艘・・・堺に配備!!
毛利水軍に大敗してから2年後の1578年11月・・・
本願寺に物資を運ぼうと、毛利水軍600艘が大阪湾にやってきました。
鉄砲、焙烙玉で戦う毛利水軍・・・しかし、鉄甲船はびくともせず、鉄板がことごとく跳ね返します。
毛利水軍は・・・砲火を浴びて撃沈・・・完敗してしまうのでした。

信長は、本願寺の補給路を完全に立つことに成功!!
遂に、最終決戦!!
織田軍の完全包囲!!
10年戦ってきた顕如を打ち負かす、チャンスです!!
信長はこれまで一揆鎮圧に向けて大量虐殺を行ってきました。
今回も、非情な殲滅作戦を実行するのでは・・・??
しかし、信長の決断は・・・??

1580年閏3月、信長の起請文が顕如の元へ・・・
本願寺に対して、天皇の仲裁による勅命講和案を提示します。
その内容は・・・
「大坂を明け渡すならば、本願寺の存続を保証する」というものでした。
それに続けて信長は・・・
「これは、本願寺を赦免するようにとの、天皇からの仰せに従ったものである。」
どうして講和を選んだのでしょうか??
この時信長は、天下布武を成し遂げるためには、本願寺をつぶして城を立てることを考えていました。
本願寺の立つ土地と、寺内町を無傷で手に入れたかったのです。

顕如はこの和議を受け入れます。
しかし、それは、顕如の降伏を意味していました。
顕如は大坂本願寺を後にして、紀州の寺へ・・・。
その4か月後・・・主のいなくなった大坂本願寺は、失火とも放火とも区別のつかない火災によって消失してしまいました。
ここに・・・10年に及ぶ石山合戦が幕を下ろしたのでした。

この僅か2年後の1582年・・・信長は、明智光秀の謀反により本能寺の変で波乱の生涯を閉じることに・・・。
顕如との戦いに10年も費やしていなければ・・・天下を取っていたのかもしれません。
その後、豊臣秀吉は、大坂本願寺後に大坂城を築き、天下統一を果たすのです。


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顕如 信長も恐れた「本願寺」宗主の実像

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顕如・教如と一向一揆: 信長・秀吉・本願寺

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英傑の日本史 激闘織田軍団編 浅井長政 (カドカワ・ミニッツブック)


高野山・持明院には戦国一の美女・お市の方の肖像画が伝えられています。

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この絵は、娘の茶々が奉納したと言われています。
お市は、36年という短い生涯の中で、3度の大きな選択に迫られました。


一度目・・・夫・浅井長政が兄・織田信長を裏切った時。
二度目・・・浅井氏が滅びる時。
三度目・・・再婚した柴田勝家が羽柴秀吉によって攻め滅ぼされる時・・・死か生か・・・??


1547年、お市は織田信秀の娘として生まれました。
兄・信長の13歳年下で、母は信長と同じ土田御前とされています。
お市が生れた当時、信秀は着々と勢力を伸ばし、尾張の守護や守護代をしのぐ勢力を持っていました。
1551年に信長が家督を継ぐと、尾張の統一に成功!!
桶狭間の戦いで今川義元を破ると、美濃に勢力を広げていきます。
家督を継いで17年・・・信長に飛躍のチャンスが・・・!!
1568年、第13代将軍足利義輝の弟・義昭が上洛の助けを求めてきました。
義昭を奉じて上洛すれば、天下に号令することができる!!
しかし、その前には六角氏が行く手を阻んでいました。
そこで信長が目を付けたのが、北近江に勢力を持っていた浅井氏。
この長政と同盟を結び六角氏を打倒!!そのまま上洛を目論みました。
そして、その同盟を確固とするために白羽の矢が立ったのが妹・お市の方でした。
当時22歳で絶世の美女!!
この時代に他家に嫁いだ女性の役割は・・・??
嫁ぎ先の情報を掴んで実家に伝える??両家の平和の使者の役割でした。
1568年4月、お市、小谷城へ輿入れ。
お市と長政は、勢力結婚ながら仲睦まじく、結婚の翌年長女・茶々、次の年次女・初をもうけます。
お市の輿入れからわずか5か月後・・・信長は上洛のために岐阜城を出発、長政の参陣もあって六角氏との戦に勝利!!
見事京に入ることに成功!!
お市の結婚が、信長の野望を支えたのです。

しかし・・・2年後の1570年4月・・・長政と信長が敵対!!
その背景には新将軍・足利義昭の策謀がありました。
信長に操られることを嫌った義昭は、秘密裏に各地の大名に信長打倒を命じていたのです。
これに応じたのが、越前の朝倉義景!!
信長はこの動きを知ると3万の兵を率いて京を出発!!
信長は朝倉氏の城を次々と落とし、本拠地・一乗谷を目指します。
しかし、その途中で・・・衝撃的な一報が!!
浅井長政離反!!
同盟者だった長政の裏切り・・・!!
始め信長は、その裏切りを信じようとはしませんでした。
しかしそれは事実!!
長政は、信長よりも、三代にわたって深い結びつきのあった朝倉を選んだのです。
浅井が軍を出せば、朝倉と挟み撃ちにされる・・・!!
信長は這う這うの体で京に帰りました。
この織田家の危機に対し、お市の行動は・・・??

夫の裏切りを知ったお市は、密かに両端を縛った小豆袋を陣中の信長に送り・・・
信長はその小豆袋を見て”袋のネズミ”だということを知ったという有名なエピソード・・・
しかし、これは後世の創作と考えられています。
実際のお市はどう振る舞ったのでしょうか??
お市は長政と一緒に・・・織田家とは縁が切れてもいいと思っていたようです。
実家と嫁ぎ先が敵対関係になった場合、妻は離縁され国元に送り返される習わしでした。
しかし、お市はその後も浅井家に残り続けます。
完全に浅井の人間となっていたのです。

1570年6月、浅井・朝倉連合軍は、織田軍と激突!!姉川の戦いです。
この一大合戦に長政は敗北!!
信長は、そのまま小谷城近くの横山城に秀吉を入れ、長政をけん制。
秀吉は浅井の家臣に裏切りを勧めるなど切り崩しにかかります。

1573年8月、越前の朝倉氏を滅ぼした信長は、その勢いで小谷城を包囲!!
長政だけでなくお市や娘たちまで閉じ込められてしまいました。
落城間際の小谷城・・・長政は死を覚悟し・・・
「生きながらえて自分の菩提を弔ってほしい。」
「自分だけ生き残って、浅井の女房と後ろ指をさされるのも口惜しい事です。
 一緒に死なせてください!!」

一緒に死ぬ??夫の菩提を弔う??

しかし、まだ小さい子供たちのために生きてほしいと長政に説得され・・・
お市と三人の娘たちは信長のもとに戻ったのです。
その直後、小谷城は信長の命を受けた秀吉によって落城されます。
長政は自害しました。

更にその1か月後・・・城から逃がされていた長政の嫡男・万福丸が捉えられ・・・秀吉によって処刑され、10歳という短い生涯を閉じたのです。

実家に戻ったお市と娘たちは信長によって岐阜城に迎えられたと思われます。
ほどなくして信包の城・伊勢上野城に移されます。
ここで娘たちと平穏な日々を送ったとされますが・・・お市の気持ちが晴れることはありませんでした。
というのも、信長がお市の出家を許さなかったのです。
まだ政略結婚の駒として仕えるのではないか??
しかし、お市は首を立てには振りません。
10年間誰とも結婚することはありませんでした。

長政の死からおよそ10年・・・1582年6月2日本能寺の変!!
この事件によって信長の野望は潰えました。
代わって織田家で主導権を握ったのは羽柴秀吉。
ここで36歳になっていたお市に結婚話が持ち上がります。
相手は織田家の重臣・柴田勝家。
当時、秀吉は信長の孫である三法師を織田家の後継者とし、実権を握ろうとしていました。
信長の百箇日法要も自らが中心となって行っています。
これに信長の後継を狙う三男・信孝が反発!!
信孝は、お市を勝家に嫁がせて、秀吉に対抗する勢力にしようとしたのです。
柴田勝家は、信長の若いころから仕えていた家臣・・・
1582年8月、勝家と再婚。越前・北庄城に三人の娘と共に移り住みます。
しかし、安住の地ではなく1年もたたずに危機が・・・
1583年4月、賤ヶ岳の戦い!!
秀吉との決戦に敗れた勝家・・・北庄城は秀吉軍に包囲されてしまいました。
城内には僅か200の兵・・・城が落ちるのも時間の問題でした。
勝家は娘たちを連れて城を出るようにお市に言います。
小谷城の悲劇再び・・・!!

娘たちと城を出る??
しかし、信長が戦国の習わしを変えてしまっていました。
1578年、荒木村重を討伐した際・・・村重は城に女子供を置いて城を脱出!!
これに怒った信長は、その見せしめに城に残った女子供を皆殺しにしていたのです。
その犠牲者は120人余りに上りました。
これは、落城の際に女子供の命は助けるという戦国の習わしを破る前代未聞のことでした。
もはや女性だからと言って命の補償はありません。

勝家と自害する??
しかし娘たちを犠牲にするのは・・・!!

北庄城に籠城した勝家は、僅かの兵で7度も秀吉軍に斬り込みます。
やがて落城を覚悟し・・・宴を催します。
その後お市は勝家と共に命を絶ちました。
勝家は用意していた火薬に火をつけさせ、天守もろとも爆破。
遺体は残らなかったと言われています。
お市は勝家と共に自害する道を選んだのです。

死の直前、お市は秀吉に書状を送っていました。
三人の娘たちの保護を頼んでいました。
三人の娘たちは秀吉の元へ・・・。
お市の死の翌年、秀吉は早速三女・小督を佐治家に嫁がせます。信長の次男・信雄を味方につけるために・・・

次女・初は近江の名門・京極家に嫁がせます。
そして長女の茶々は秀吉の側室に・・・。
茶々は秀吉との間に二人の男子を産んでいますが・・・
最初の子が生まれたときに、お願いをしています。
高野山・持明院・・・ここに茶々は発案したお市の肖像画が伝えられています。
この時もう一つの肖像画が・・・それは亡き父・浅井長政の肖像画です。
ここで供養をしたものです。
茶々が秀吉に望んだのは、父と母の菩提を弔う法要だったのです。
茶々はこの後も、二人目の子を産んだ後、京都に父・長政の菩提寺・養源院を建てています。
ここには一体の仏像が・・・
浅井氏が信仰した弁財天です。
これは、お市が長政と別れる際に持ち出し、茶々に託したものです。

茶々は秀吉の子を産むことで、母の成し得なかった父・長政の菩提を弔うことに成功。
1615年大坂夏の陣で大坂城は落城・・・茶々は豊臣家と運命を共にします。

茶々の死後、初と小督もしたたかに生きます。
家康の後継者・秀忠と再婚していた小督、彼女が産んだ家光が三代将軍となります。彼は浅井家の孫。
京極家に嫁いでいた初・・・菩提寺・常高寺には驚くべきものが残っていました。
初が死の間際に京極家当主に書いた遺言状です。
そこには・・・
”さくあんの事、迷惑かと思いますが、今更捨てるわけにも参りません故・・・
 私の死後も、私にくれてやるのだと思ってさくあんに知行を与え、目をかけてやってほしい”

さくあん・・・作庵は、長政のもう一人の息子です。
小谷城落城の際に、生き残った腹違いの弟だったのです。
初は京極家の中に、作庵を匿い続けていました。
生涯をかけて、浅井の血を絶やさぬように動いていたのです。
乱世の渦に巻き込まれ、三者三様の生涯を送ったお市の娘たち・・・
彼女たちは乱世の女性に課せられた役割を演じつつ、母・お市の想いを果たそうとしたのかもしれません。



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信長軍の合戦史

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戦国おんな城主 お市と浅井三姉妹: 最大の女城主たち

<毛利輝元と戦国時代>歴史シミュレーション 中国大返し 毛利の追撃 (歴史群像デジタルアーカイブス)



1582年6月2日、京都で起きた本能寺の変。
天下統一を目前に控えていた織田信長が、家臣の明智光秀によって非業の死を遂げました。
この時、主君の敵討ちを果たすために、2万もの軍勢を・200キロの道程を僅か7日間で駆け戻った武将・・・それが、羽柴秀吉・・・後の天下人・豊臣秀吉です。
この時のことは中国大返しと言われ、秀吉を天下人へと押し上げた偉業と言われています。

ところが、この偉業には3つの謎があります。

①なぜ秀吉は、毛利の追撃を受けなかったのか。

1582年6月2日、織田信長が天下統一を目前にして無念の死を遂げた本能寺の変。
この時、織田家の主要家臣たちは、全国各地に散らばっていました。
筆頭家老・柴田勝家の目的は北陸制圧!!相手は北国の雄・上杉景勝!!
柴田は上杉の城を落城寸前までに追い込み、戦いを有利にしていました。
関東制圧を任されていた滝川一益は、この時すでに関東の大大名・北条氏政を事実上傘下に治めていました。
大坂にいたのは、信長の息子・織田信孝。織田家重臣の丹羽長秀と共に、四国攻めの準備をしていました。
そして・・・中国地方にいたのが羽柴秀吉!!
中国地方10か国を治める毛利輝元と対峙していました。
岡山県岡山市にある備中高松城・・・当時、秀吉は2万の兵を率いて、毛利の前線基地であったこの城を攻め立てていました。
城に立てこもる毛利勢はおよそ5000!!秀吉の作戦は水攻め!!
山の麓から近くを流れる足守川まで堤を築き、その川の水を溢れさせる・・・そして、城を水没させるというものです。
今も、秀吉が築いた堤の後が残っています。
当時の高さは8メートルに及び、3キロにわたって築いてありました。
この結果・・・もともと周囲に比べて低い所にあった高松城・・・秀吉がその地形を利用して水攻めを実行!!
落城寸前にまで追い込んでいました。
織田軍は、各地で敵と戦いを有利に展開していたのです。
そんな中での6月2日・・・本能寺の変。
絶対的カリスマの織田信長が、この世から姿を消しました。
この衝撃に、各地の状況はひっくり返ります。

北陸担当の柴田勝家・・・信長の死を知ると、自らの城・北の庄城に戻ります。
そして、これまで戦っていた上杉の反撃に備え、自らの城から外に出ることができませんでした。

関東を制圧していた滝川一益はピンチに・・・!!
これまで従っていた関東の大大名・北条氏政が信長の死を知って反撃!!
滝川は北条との戦いに敗れ、関東から命からがら逃げだします。

大坂にいた織田信孝と丹羽長秀の軍も、混乱の極み・・・
信長の死を伝え聞いた兵が、我先にと逃げ出したのです。

主君・信長の敵討ちを討つために、一刻も早く京に向かいたかった家臣たち・・・
しかし、信長の死の衝撃で、自分の身を守ることで精一杯でした。

では、どうして秀吉だけが追撃を受けずに大返しができたのでしょうか?
落城寸前まで備中高松城を追い込んでいた秀吉でしたが、このときすでに城の危機を救うべく、中国地方の覇者・毛利の援軍がやってきていました。
毛利軍は、秀吉軍を取り囲むように、総勢4万もの大軍を動員!!
後方に控えるのは、総大将の毛利輝元!!
しかし、水で囲まれていたこの城を救えずにいたのです。
そのさなかの6月4日・・・秀吉に驚くべき情報が・・・!!
主君・信長の死・・・

秀吉は事態の大きさに驚きながらも、即行動に出ます。
備中高松城城主に残っている記録によると・・・
清水宗治6月4日切腹。
秀吉が信長の死を知ったのと同じ日に切腹・・・すなわち秀吉は、その日のうちに城主の切腹を条件に、早くも毛利との和睦を成立させていたのです。
城主の切腹を見届け、大返しを始めた秀吉。
実はこの時、信長の死を隠したまま毛利と和睦を結んでいました。

和睦から2日後・・・信長の死から4日後の6月6日、毛利輝元が信長の死を知ります。
秀吉との和睦は、信長の存在が前提の和睦。
信長が死ねば、和睦を破棄して秀吉を追撃することもできたはず・・・
しかも、毛利軍は、秀吉軍2万をはるかに凌ぐ4万!!
どうして毛利は追撃しなかったのでしょうか?

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」by輝元

なんと、毛利の援軍は、武器弾薬が底をつき、追撃どころではなかったのです。

これこそが、秀吉の戦略でした。
毛利との決戦の前から、毛利の補給路を断つ作戦を練っていたと考えられます。
実際に、軍勢は来ていたものの、毛利に秀吉との決戦に挑む力はなかったのではないか・・・??

秀吉は毛利と村上水軍の間にくさびを打っていました。
村上水軍のうちの一つ、来島村上氏が毛利氏を裏切ったのです。
その結果、毛利は、備中への補給ができなかったと思われます。

戦いの先を見据えた戦略でした。
秀吉の深謀遠慮・・・それが、衝撃の信長の死を前にしても、対応することができたのです。


②神業ともいえるスピード。

主君・信長の敵を討つために、大返しを始めた秀吉。
その距離は、およそ200キロ。
秀吉はこの距離を軍勢を率いて僅か7日間で走破したと言われています。
伝説と言われているのが出発から姫路城までのスピード。

「6月7日に備中高松から27里離れた姫路まで、1日1夜でたどり着いた。」by秀吉

つまり、秀吉は、110キロをわずか2日で姫路までたどり着いたというのです。
そもそも、2万もの軍勢が僅か一昼夜で110キロの道程を駆け抜けられるものなのでしょうか?
その日付について・・・
秀吉自身の書状には、備中高松城から7キロ離れた野殿から15キロ離れた沼城まで・・・その日付は6月5日・・・通説では、まだ備中高松城にいた日付です。
この書状によれば、5日の時点で、秀吉は既に出発しています。
さらに毛利方にもすぐに秀吉が大返しをしたと思われる書状が残っています。
満願密寺に残っている書状には・・・
「和議が整った
 羽柴は引き退き、我らも途中まで戻っている。」by輝元
とあります。

これまでの通説では、秀吉は毛利が追撃してくるのを恐れて、6日まで滞在して出発したと言われていました。
が、秀吉は、実際には毛利が追撃する能力がないことを知っていたので、6日まで高松場周辺に留まる必要はなかったのです。
6月6日に出発し、一昼夜で110キロ・・・と思われてきた中国大返し伝説・・・
親切では、6月5日に出発していた可能性が高いのです。
僅か和睦から1日で、2万もの軍勢を連れて大返し・・・という、方針の大転換を行ったことになります。

織田信長の死から5日後の6月7日・・・
秀吉は姫路城まで戻り、明智光秀の京都まであと半分の距離まで来ました。
この時秀吉はまたもや、先を見据えた行動に出ます。
身分が低い中間、小者は食料や武器弾薬を運ぶ役を担っていました。
重いものをたくさん運ぶために、速度が遅く・・・
秀吉は大返しが成功するかどうかのカギは、この兵站輸送を担う人が握っていると思っていました。
そこで、中間たちの士気を高めるために、身分にかかわらず、高い報酬を約束したのです。
人ひとり五斗・・・人ひとりが半年食べられるだけの米です。
秀吉は、いろんな場面や場所の状況を常に自分自身が把握して、大返しという大事な時期に、一番力を発揮しなければいけない小者たちこそ大事・・・秀吉の人心掌握術の優れた点です。

6月9日・・・姫路城を出発!!
しかし、その先には大きな問題が・・・。
それは、細川藤孝、高山右近、中川清秀、筒井順慶・・・織田家臣たちの動向です。
京都周辺にいた彼らの多くは、もともと信長を討った明智光秀に近い者たち・・・
つまり、これらの武将たちが光秀に味方して、秀吉に立ちはだかる可能性があったのです。
これらを操ることが、中国大返しのカギに・・・!!

光秀との戦争を考えると、京都と大坂との間で大きな戦争をしなければならない・・・
当然、地元の武将がキーポイントでした。
そこで秀吉は、京都周辺にいる武将たちの動揺を誘うための高度な戦術を始めます。
情報操作・・・
中川清秀に送った書状には・・・
「上様は無事に切り抜けられた・・・」by秀吉
信長が生きているというウソの情報を流して、中川が光秀と合流しないように仕向けたのです。
さらに・・・
「柴田勝家も、急ぎこちらに来るらしい。」by秀吉
動けないはずの勝家がもうすぐ来そうだと伝えているのです。
信長も生きているうえに柴田に来る・・・
この情報コントロールを前に、中川をはじめとする武将たちは、とても光秀に味方することなど出来なかったのです。
普通なら信用しないような情報でも、秀吉の交友関係の広さ・・・情報収集能力のとびぬけていることは信長の家来層には浸透していました。
ありうるのではないか・・・??全面否定のできない情報だったのです。
次々と大返しの生涯を取り除いていく秀吉・・・。

それは、織田家家臣以外にも向けられていました。
明石から家臣に向けた書状には・・・
「洲本城に菅平右衛門が入城した
 彼の城を取り巻いて攻めるべし!!」by秀吉

洲本城とは、淡路島にあった城・・・この城を押さえた菅を攻めろというのです。
菅という海賊衆は、四国の大大名・長曾我部氏の関係勢力でした。
長曾我部元親は、明智光秀と親しい関係にありました。
なので、秀吉は長曾我部と光秀の挟み撃ちを避けるために、淡路島を押さえるように命令を出したのです。
どうして1週間余りで大返しができたか・・・??
それは、すぐに大返しをすると判断したことと、次々と立ちはだかる生涯を取り除いていったからなのです。


その頃光秀は・・・??
6月5日・・・安土城と秀吉の長浜城を占拠
6月7日・・・安土城で勅使の吉田兼見と会見
6月9日上洛して正親町天皇と誠仁天皇に銀子を献上する

この光秀の行動の意図とは・・・??

朝廷は非情に利用価値があったということです。
戦国大名も、新たに支配地域を広げるとき、朝廷から官位を得、自分がそこの支配の正当性を主張したのです。
正当性に疑念を抱かれる場合・・・余計に朝廷は利用価値があったのです。
戦国時代は・・・朝廷の権威よりも「勝てば官軍」の時代でした。
本当に光秀がやらなければならなかったのは、朝廷工作ではなく、秀吉を倒し、自分の強さを天下に示すことだったのですが・・・。
戦国武将にしては・・・文化人・・・??
&やましい心が味方を増やそうと朝廷をバックにしようとしたのかも・・・??


③なぜ秀吉が信長の後継者になれたのか?

信長の死後、信長の跡取り候補は二人・・・信雄と信孝でした。
しかし、秀吉はこの二人を押さえ、信長の後継者になります。
そこには、光秀との決戦を前にした選択が・・・
1582年6月11日(信長の死から9日後)、秀吉は尼崎に到着。
明智光秀のいる京都は目前でした。
そこで、信雄にすぐそこまで来ていることを告げます。
この時秀吉は最後の選択に迫られていました。
信孝との合流です。
信長の息子を総大将に祭りあげれば、秀吉軍の士気は高まります。
が、祭り上げるためには信雄の大坂城に集まらなければ・・・??
そうなると、織田家の権威を前に、秀吉の存在が薄れてしまう。。。

そこで、秀吉はもう一つの選択肢・・・信孝と合流せずに光秀と当たる・・・!?

信長の死後10日の6月12日・・・ついに秀吉が決断!!
信孝と合流せずに、光秀と当たることを決意します。
そしてその日の夕方・・・天王山の麓で、秀吉軍と光秀軍の前哨戦が始まりました。
この日の戦いは、前面衝突する前に、光秀軍が撤退・・・
結果、小競り合いに終わりました。
しかし、主君の敵討ちのために中国大返しを成し遂げた秀吉は人々に大きな衝撃を与えました。
出来るだけ早く、自分が主君の弔い合戦に駆け付けたことを示さなければならない・・・!!
天下を確実に考えていたようです。
信長の死から11日後・・・
1582年6月13日、秀吉、光秀と決戦!!


そこには、秀吉に後れながらも大坂から駆けつけた織田信孝の姿がりました。
だれもが予想しなかった秀吉の中国大返し・・・
もはや、光秀が抵抗できるはずもありませんでした。
戦いは短時間で終わり・・・戦いに敗れた光秀は、逃走のさなか討ち死にしました。

主君織田信長の敵討ちを成した羽柴秀吉・・・その力は、主・織田家さえも凌ぐようになります。

光秀を討った後に、秀吉に宛てた織田信雄の手紙には・・・
「そちらの様子で良きよう決めて連絡してください。
 それで近くへ陣を寄せます。」by信雄

この時、秀吉は光秀軍の残党狩りをしていました。
その秀吉に自分も合流したいので、どうしたらいいのか??指示を仰いでいるのです。
秀吉が光秀を討ち、主体的に行動している・・・軍も大半が秀吉の軍勢・・・。
主人筋の信雄も、秀吉の指示を仰がなければならない関係だったのです。
主君・織田信長の息子たちは、単独で大返しを成し遂げた秀吉に従わざるを得なかったのです。
この後・・・羽柴秀吉は、織田家を飲み込み、天下人への階段を着々と上り詰めていくのです。

これは・・・信長が生きていたとしても、これが一番の正しい行動です。

秀吉はどの段階で天下を意識したのでしょうか??
本能寺の変は起こる前から知っていたのでしょうか??

秀吉が知っていないまでも、畿内でどんなことがあってもすぐに行動できるように・・・
不測の事態・・・あらゆる事態に行動できるように準備していたのではないか・・・??

他の人にはできない、秀吉の情報収集能力の凄さ・・・
信長亡き後の天下取りのビジョンを明確に描けていたこと・・・
秀吉の凄さは速度・・・情報、軍の移動、決断、外交・・・
事は自分一人ではできないということをよく知っている。
秀吉は、四方八方に人脈を・・・秀吉ファンを持っていたこと・・・
普段から気を配っていたこと・・・
人々についてきてもらえる知恵・・・人の気持ちを掴むことが凄さなのです。




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