日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:桂小五郎

江戸時代、幕末動乱の京都・・・町では無差別に人が斬られ、放火や恫喝が横行・・・
そんな京の町の治安を守ろうと結成されたのが、局長・近藤勇が率いた幕末最強の剣客集団とも称される新選組です。
そんな新選組が一躍有名となったのが・・・1864年6月5日、池田屋事件です。
発端は、江戸幕府と対立する長州藩などの尊王攘夷派の志士たちが京都の町を大混乱に陥れ、とんでもない計画を企んでいることが発覚したことでした。
京都の町を震撼させた池田屋事件!!その一日とは・・・??

当時江戸幕府は、欧米列強の開国要求に屈したことで、諸藩からの信頼を失い、急速に弱体化・・・
そこで、朝廷に近づき、共に政治を行うことでなんとか幕藩体制の再強化を図ろうとしていました(公武合体)。
14歳将軍・徳川家茂と、孝明天皇の妹・和宮の婚礼を推し進めたのもその為でした。
この公武合体に激しく反発したのが長州藩を中心とした尊王攘夷派でした。
すぐさま外国勢を打ち払い、時の天皇・孝明天皇を中心に政治を行うべきだと主張します。
そうした尊王攘夷派の一部の志士たちは、天誅と称して対立する幕府側の要人や、その家族を襲撃するなど過激な行動に出ていました。
そこで、悪化の一途をたどる供与の治安を守るために結成されたのが、新選組でした。
京都守護職を務める会津藩主・松平容保の配下におかれ、新選組は市中の警備を任されます。

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池田屋事件当時、新選組の隊士は40名ほど・・・
局長・近藤勇、副長・土方歳三、そして沖田総司、斎藤一、永倉新八、原田左之助、島田魁などがいました。
隊士のほとんどは農民や町民の出身でしたが、剣術道場で研鑚を積んでいました。
腕の立つ強者ぞろいだったのです。
斬捨御免の特権が与えられていたこともあり、尊皇の志士たちからは鬼神のごとく恐れられていたといいます。
対する尊王攘夷派の主なメンバーは、長州藩・桂小五郎・・・後の木戸孝允です。
長州藩から京都留守居役を命じられた桂は、京都にある長州藩の屋敷に滞在し、密かに尊王攘夷派の志士たちと連絡を取り諜報活動を行っていました。

そんな中、事態が動き始めます。
池田屋事件の4日前・・・6月1日。
この頃、新選組はある男の行方を血眼になって探していました。
桂小五郎と並ぶ尊王攘夷派の肥後藩・宮部鼎蔵です。
幕府や新選組は宮部を危険人物としてマークしていたのです。
宮部は、同じ尊皇思想である吉田松陰と親友でした。
処刑された吉田松陰の志を継ぐべく、京都での尊王攘夷運動に参加します。
さらに、宮部には長州藩と共に企んでいる噂が・・・

”御所に火を放ち、会津の容保公と中川宮の首を狙っている”

この時、長州藩は前の年に起こった政変によって朝廷から締め出され、京都の町からも追放されるという憂き目にあっていました。
その政変の首謀者だった会津藩・松平容保と宮家・中川宮二人の命を宮部が狙っているというのです。
当然そのたくらみを阻止したい新選組・・・しかし、なかなか宮部の行方がつかめません・・・。

この日も、手掛かりを求め、宮部がかつて定宿にしていた南禅寺塔頭の前で張り込んでいました。
すると、宮部の下で働く小間使いの忠蔵がやってきたのです。
忠蔵をすぐにとらえた新選組は宮部の行方を厳しく追及しますが、なかなか口を割りません。
そこで、作戦を変更し、忠蔵を利用することに・・・。
南禅寺の山門に忠蔵をくくりつけ晒し者にしたところ・・・仲間が救出に来ました。
新選組は気付かれないように忠蔵の後をつけたのです。
忠蔵の向かった先は、市場にある桝屋という店でした。
新選組はにわかに色めき立ちます。
何故なら、この桝屋、幕府側が尊王攘夷派と関係があるかもしれないと目をつけていたからです。

”表向きは、薪や炭などを扱う店だが、下働きの男2人を召し抱えている以外、家族もなく、町内の付き合いも致さず、不審である”

新選組局長・近藤勇は、すぐに桝屋を調べるように指示・・・
張り込みや聞き込みを続けました。
その結果、桝屋の主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の志士たちの深いつながりがわかってきたのです。
果たして桝屋主人・古高俊太郎と尊王攘夷派の関係は・・・??
近江出身の古高は、儒学者で尊王攘夷派の指導者・梅田雲浜の弟子でした。
しかし・・・1859年、雲浜は安政の大獄で投獄中に病死していました。
古高は、その志を継ぎ、京都での尊王攘夷運動に参加します。
その後、縁あって、桝屋に養子に入り”桝屋喜右衛門”を名乗りました。
古高は、商人という隠れ蓑を利用し、諜報活動に没頭・・・
いつしか桝屋は、尊王攘夷派の活動拠点となっていきます。
実は桝屋、筑前藩御用達であったため、武士である尊王攘夷派の志士たちが出入りしても、目立たなかったので、重用されていました。
そして、新選組が行方を追っていた宮部鼎蔵も桝屋に仮住まいし、活動拠点にしていたのです。
さらに、古高は長州藩からある重要任務を任されていました。
それは、長州藩に朝廷の情報を提供する連絡役だったのです。
当時、朝廷内の重職は、幕府派で占められていましたが、有栖川宮は数少ない長州派でした。
有栖川宮は、幕府の介入によって孝明天皇の妹・和宮との婚約を破棄されていました。
和宮は、結局14代将軍・家茂に嫁いでいます。
長州藩は、有栖川宮熾仁親王を足掛かりに、朝廷での復権を目論んでいました。
しかし、古高と有栖川宮とのつながりは・・・??
古高は、父親の代から山科にある毘沙門堂の門跡に仕えていました。
その門跡が、有栖川宮の叔父であったため、古高は有栖川宮との交流があったのです。
長州藩にとって、古高はまさに好都合な人物だったのです。
古高俊太郎は、長州藩と朝廷を繋ぐ重要な連絡係であり、尊王攘夷派の志士たちの強力な支援者だったのです。

近藤勇は、桝屋の摘発を命じます。
1864年6月5日、池田屋事件当日早朝・・・
緊張の面持ちで、四条にある桝屋へと向かう新選組の隊士たち・・・
この時、尊王攘夷派の志士たちが潜伏しているというとの情報を得ていました。
ところが、いざ桝屋へ乗り込んでみると、中にいたのは主人の古高俊太郎ただ一人・・・!!
実は、京都に残ることを許された長州藩士たちが、忠蔵が捕まったと聞き危険を感じて、宮部鼎蔵ら尊皇攘夷派の志士たちを藩の屋敷に匿っていたのです。
してやられた新選組の面々・・・
しかし、このまま手ぶらで帰るわけにはいきません。

「徹底的に調べ上げろ!!」

すると、奥にあった蔵の中から、刀や鉄砲など大量の武器と甲冑が出てきたのです。
それは、古高が来るべき時に備え、買いそろえていたものでした。
さらに、志士たちが書いた命を懸けて戦うとの血盟書や長州藩との書簡も出てきました。
そこには・・・
”御所に火を放ち、会津藩主・松平容保、宮家の中川宮を襲撃する”
と・・・襲撃をほのめかす内容が書かれていたのです。

尊王攘夷派が企む過激な計画の確かな証拠をつかんだ新選組は、古高を連行し、意気揚々と壬生の屯所に引き上げていきました。
そしてこの日の夜、池田屋事件が起きるのです。

6月5日、池田屋事件当日・午前・・・
古高を三部の屯所に連れ帰った新選組は、さらに厳しい尋問を行いました。
担当したのは、鬼の副長・土方歳三でした。
土方は、古高を逆さづりにし、拷問にかけます。
五寸釘を古高の足の甲に打ち込み、貫通させた上でそのくぎにロウソクを立てました。
火を点け、暫くすると熱いロウが古高の傷口に滴り落ちていきます。
たまらず、大きなうめき声をあげる古高・・・
それでも、もだえ苦しみながら耐え忍んでいましたが、30分ほどで観念・・・
一説には古高はこう白状したといいます。

「6月22日ごろ、風が強ければ御所を焼き打ちし、帝を奪い去り、山口城へと連れ去る謀反を企んでいる
 その為、大勢の長州人が京都に潜伏している」

松平容保や中川宮を襲撃するどころか、孝明天皇を長州藩の山口へと連れ去ろうとしているというのです。
天皇が連れ去られるなど、前代未聞・・・!!
これは一大事です。
当然、市中の取り締まりを任せられていた新選組の面目も丸つぶれに・・・
なんとかしなければ・・・!!

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古高俊太郎の自白によると、御所襲撃計画の実行は6月22日ごろ・・・
この時は6月5日でしたが、近藤勇は焦っていました。

「我々が古高を捕らえたことで、やつらは慌てて事を起こすかもしれん!!
 ・・・!!
 今日は宵々山か・・・!!」by近藤勇

この日は、祇園祭の直前に行われる祭り・宵々山の日でした。
毎年、町には大勢の見物客が訪れます。
近藤はその混乱に乗じ、尊王攘夷派の志士たちが仕掛けてくると、考えたのです。
すぐに、京都守護職で新選組を統括する会津藩主・松平容保に事態を報告!!
そして、潜伏する志士たちを摘発する為に支援を要請しました。
これに対し、会津藩は・・・

”一橋様 桑名様 町奉行と相談の上 人を差し出そう
 夜五つ時 祇園会所前で待つよう”

この時、京都の警備にあたっていたのは容保の会津藩の外、禁裏御守衛総督・一橋慶喜、容保の弟で京都所司代の松平定敬の桑名藩、そして京都町奉行所などでした。
会津藩は、それぞれに根回しして援軍を送るので、夜5つ時・・・9時ごろに八坂神社近くにある祇園会所前で合流しようというのです。

その頃、尊王攘夷派の志士たちは・・・
古高が捕縛されたと聞き、長州藩の屋敷に次々と集まってきていました。
重要な協力社を奪われ、今後どうするのかを激論を交わします。
一説に、その席には尊王攘夷派のリーダー・宮部鼎蔵や、長州藩主の吉田稔麿などもいたといいます。
吉田は、松下村塾出身で、高杉晋作、久坂玄瑞と共に”三秀”に数えられ、将来を嘱望された若者でした。
そして、宮部と吉田の二人は、この夜起こる池田屋事件に巻き込まれることになるのです。

池田屋事件当日昼過ぎ・・・
新選組は、夜の摘発に向けて早くも動き出しました。
局長・近藤勇は、病に伏していた一部の者を屯所に残して34人で出動することにします。
潜伏する尊王の志士たちに気付かれないよう、数人に別れ分散して出動させました。
さらには、武器や甲冑などをまとめて大八車に乗せ隠しながら運びました。
慎重に事を進めたのです。

池田屋事件当日8時ごろ・・・
準備を整えた新選組は、まだ会津藩との約束前でしたが、それを待たずに動き出します。
近藤は、隊を自分が率いる組(10人)と、土方歳三が率いる(24人)二つに分けます。
土方率いる24人に祇園界隈の捜索をはじめませます。
この時近藤は、潜伏先を祇園と三条周辺にある茶屋や旅籠など二十数カ所に絞っていました。
茶屋は、会員制で不審なものが入ってくることはなく、芸妓の口が固かったので、情報が漏れにくかったのです。
旅籠は、様々な場所からいろいろな身分の人が宿泊したので、志士たちは紛れ込みやすかったのです。

そして会津藩との約束の9時・・・
約束の時間になっても、援軍はやってきませんでした。
どうして幕府の援軍は来なかったのでしょうか??

援軍は、来るには来たのですが、かなり遅れてやってきました。
遅刻した理由は、色々説がありますが・・・
①会津藩が根回しに時間がかかってしまった
②新選組とは違う作戦で摘発するつもりだった
夜9時ごろの集合時間はあくまで目安で、会津藩は指示を出すまで配下の新選組は動かないと思っていたのです。
援軍が期待できない中、近藤率いる10人も動き始めました。
しかし、尊王攘夷派の志士たちの潜伏先はいまだ不明・・・目星をつけていた個所を探していくほかありません。
祇園周辺と三条周辺の二手に分かれて捜索する新選組・・・
先に土方歳三率いる24人が祇園周辺を調べていましたが、なかなか見つかりません。
一方、近藤が率いる10人は、四条通から木屋町通りを北上し三条へと向かいます。
この辺りには多くの旅籠は軒を連ねていたからです。

池田屋事件当日夜10時ごろ・・・
そんな中、新選組は三条にある旅籠・池田屋で長州藩と尊王の志士たちが密会をしていることを突き止めます。
尊王攘夷派の志士たちはどうして池田屋にいたのでしょうか?
当時、長州藩京都留守居役だった桂小五郎は、この時のことを後にこう書き残しています。

”かつて古高と同盟していた者を三人選んで古高救出に加わることを許し、他の者が門を出ることを禁じた
 私もこの夜、池田やで会合する約束をしていた“

古高が長州藩と朝廷の一部との窓口になっていたので、新選組に捕縛された古高俊太郎をいかにして奪還するか相談するための会合でした。
”すぐに奪還すべき”という過激派と、”慎重に状況を見極めるべき”という慎重派に分かれていました。
一説に、宮部鼎蔵や吉田稔麿は、過激派を思いとどまらせようと池田屋にやってきたともいわれています。

近藤勇は、近隣の者から池田屋の間取りを聞き出します。
建物には、三条通側にある表口の外に、裏手にも出入り口があることが分かり、近藤はそれぞれに3人の隊士を配置、そして、近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人で中へ踏み込みます。

夜10時30分頃・・・
近藤は、怯むことなく踏み込んでいきました。
すると、奥から旅籠の主人が出てきました。

「今宵、御用改めである」by近藤勇

驚いた主人は、急いでおくに・・・2階に向かって

「御用改めでございます!!
 御用改めでございます!!」by池田屋主人

そう叫びます。
池田屋は、元々長州藩の定宿で、何かと尊王攘夷派の志士たちに融通をきかせていました。
近藤は、主人を殴り飛ばし、奥の階段から沖田と共に二階へ上がります。
するとそこでは・・・十数人の志士たちが、密会していたのです。

「手向かい致せば容赦なく切り捨てる!!」by近藤勇

志士の一人が斬りかかってきました。
沖田はそれをかわし、すかさず切り捨てたのです。
すると、尊王攘夷派の志士たちの大半が、吹き抜けになっていた中庭や裏庭に飛び降りたため、近藤は急いで1階に向かいます。
その直前、沖田総司が突然倒れてしまうのです。
今までは、持病の結核で喀血し倒れたと言われていましたが、喀血なら医学的にそれ以後4年も生きられないのではないのか??と言われています。
最近の説では、暑さにやられて熱中症だったのではないか?と言われています。
いずれにしても、剣の達人の沖田の離脱は、新選組にとっては大きな痛手でした。
近藤、永倉、藤堂のわずか3人で戦うこととなった新選組・・・
そこで近藤は、永倉には表口付近の台所で、藤堂には中庭付近で戦うように指示・・・自分は奥の間で敵を迎え討ちました。
すると・・・まず、永倉が表口に逃げようとする敵を続けざまに後ろから仕留めました。
一方、中庭付近にいた藤堂は、敵に額を切られてしまいます。永倉が助太刀し、命だけは助かりましたが、出血が激しく、藤堂も離脱・・・残るは、近藤と永倉の二人だけ!!
絶体絶命のピンチ!!
しかも、近藤は大勢を相手に苦戦!!
その時のことを、永倉は晩年、こう振り返っています。

「近藤は、2、3度斬られそうになっていた」

その窮地を救ったのが、新選組最強の一人に数えられていた永倉その人だったのです。
永倉の余りの強さにおののき、一部の尊王攘夷派の志士が降伏・・・
丁度その頃・・・一報を聞いた土方歳三率いる一団が、ようやく祇園から駆けつけました。
一気に形勢は逆転、土方や、島田魁などの活躍により、新選組は池田屋にいた尊王の志士たちを見事鎮圧したのです。
踏み込んでから、1時間半ほどが経っていました。

6月6日、深夜0時半ごろ・・・
会津藩や、桑名藩など幕府の援軍が到着しました。
新選組は、援軍と共に潜伏する残党をも一網打尽にしたのです。
近藤勇によると、池田屋とその周辺を含め、新選組は7人を斬殺、4人を手負いにし、23人を召し捕ったといいます。

しかし、この時亡くなった長州藩や尊王攘夷派の志士たちの身元についての詳しい記録は残っていません。
一説に、尊王の志士たちのリーダー格だった宮部鼎蔵は池田屋で自刃、長州藩士の吉田稔麿は、援軍を呼ぼうと長州藩邸に戻る途中に討ち取られたと言われています。

幕末最強の剣客集団・新選組が、京都三条にあった旅籠・池田屋で密会する尊王攘夷派を襲撃した池田屋事件・・・
この池田屋での会合に、長州藩京都留守居役の桂小五郎も出席する約束を交わしていましたが、難を逃れています。
後年、桂はこう記しています。

「約束の刻限に池田屋に行ったが、まだ誰も来ておらず、一度池田屋を後にし、対馬藩の屋敷で待たせてもらっていた
 その後、新選組が池田屋を襲撃した」

なんと、桂は、新選組とニアミスしていました。
そして、すんでのところで難を逃れていたのです。

一方、事前に尊王の志士たちの過激な計画を阻止し、京都を混乱から守った新選組は、幕府から総額600両、の報奨金が与えられ、新選組の名を天下に知らしめたのです。
しかし、この時、多くの同志を殺された長州藩から大きな恨みを買ったことで、やがて新選組の運命は一転・・・
時代の波に飲み込まれていくことになります。

池田屋事件から3年・・・長州藩が、薩摩藩と手を組み倒幕を叫ぶと、15代将軍・徳川慶喜は、あっさりと政権を返上。
しかし、江戸幕府が終わりを告げても、なお、徳川に忠義を尽くし続けた新選組は、逆賊となってしまうのです。
局長・近藤勇や、土方歳三は、旧幕府軍と共に最後まで抵抗を続け、無念の死を遂げていきます。
池田屋事件での新選組の活躍は、長州藩をはじめとする尊王攘夷派に、大きな打撃を与え、明治維新が1年遅れたともいわれています。
しかし、時代の波には逆らうことが出来なかったのです。
そう思うと、池田屋事件は、幕末最強の剣客集団と畏れられた新選組のハイライト・・・最後の花道だったのかもしれません。

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新選組・池田屋事件顛末記

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幕末、・・・日本は未曽有の国難に直面していました。
攘夷か、開国か!!
国論は、真っ二つに別れ、遂には武力による討伐・・・明治維新へと突き進みます。
そんな幕末動乱の時代に、危機に立ち向かった先陣の英知とは・・・??

①老中首座・阿部正弘
200年以上守ってきた鎖国の危機に、阿部は人々の納得を取り付けながらシステムを変えるという最も困難な仕事に取り組みました。
1853年、ペリー浦賀に来航!!
その中には、最新鋭の蒸気軍艦二隻の姿もありました。
逆風をものともせず進む巨大な黒船・・・
これまで目にしたこともない黒船の異形に人々はパニックに陥りました。
当時の瓦版に書かれたペリーの姿は、同じ人間とも思えない風貌・・・黒船打ち払うべしという攘夷の声は、日本全土へと広がっていきます。
しかし、備えはまったくと言っていいほどなされていませんでした。
阿部が老中になる前年・・・1842年イギリスがアヘン戦争に勝利・・・清に領土を割譲させたという知らせは日本にも届いていました。
ところが、当時の幕府財政は火の車・・・海岸を守るための軍艦や砲台に回す資金はありませんでした。
ペリーはさらに、江戸湾内に船を進めます。
そこには驚くべき意図が・・・!!
ペリーが本国に提出した江戸湾の測量図があります。
ペリーは、江戸湾を測量し、どこまで陸地に近づけるかを調べていました。
国土への直接攻撃をにおわせる示威行動でした。
その上でアメリカは、船舶の補給基地として港を開くことと、交易の開始を要求します。
余りにも強引な開国要求でした。
ペリーの圧力に屈して鎖国を捨てれば幕府の威信は地に落ちる・・・
高まる攘夷の中、阿部は前代未聞の方法に踏み切ります。
それまで幕府政治への参加を許されなかった御三家や外様大名・旗本に、国書を開示し、意見を聴収します。
それは、挙国一致で当たるという幕府始まって以来の方針転換でした。

安政維新 阿部正弘の生涯

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挙国一致の課題は、大きな大名との協調政策です。
国の一番重要な政策について意見を聞きます。
有力大名の半数が、鎖国を守るためには戦争も仕方ないと主張!!
その代表が、水戸藩の徳川斉昭!!
御三家として大きな影響力を持っていました。

「刀や槍の戦いでは我が国に分がある
 電光石火のごとく戦えば、かの夷族を鏖にすることは掌のうちにある」by斉昭

圧倒的な攘夷派を前に、選択を迫られた阿部・・・!!

黒船に積まれていた最新式のペキサンス砲・・・その特徴は、爆弾を的に対して水平に発射できること!!
命中率が高く、破壊力も大きい!!
ペリー艦隊の攻撃によって、海岸沿いの下町は完全に火の海になる恐れがありました。
御城下が灰になるほどの事態になれば、幕府の威信は地に落ちてしまう・・・??

「外寇への備えは、交易の利潤をもって当てる」by勝海舟
勝は、通商を行って、利益を得ることが、国防の強化につながると説いていました。
しかし、通商を認めることは鎖国を捨て去ること・・・
国法を曲げては、幕府は弱腰であると、大名からの声が沸き起こるであろう!!

ハッキリとは回答しない・・・??
回答延引策は、薩摩藩主・島津斉彬たちが唱えていました。

「交渉は出来る限り引き延ばす・・・3年ほど待てば、軍備も整うのでその後に打ち払う」by斉彬

攘夷か?開国か?それとも回答延引策?
いずれを選んでも困難な道でした。
先の来航から半年経った1854年1月・・・ペリーは再び江戸湾に現れました。
果たして、阿部の選択は・・・??
それは、”ぶらかす”・・・回答延引策でした。
1853年6月、将軍・家慶死去・・・
阿部はそのことを口実に、交渉延期を申し入れます。
しかし、ペリーはこれを黙殺!!

「将軍の死は公務を遅らせる理由にはならない」byペリー

引き延ばしはもはや通用しない!!
阿部は、諸大名と共に撮るべき方策を協議しました。
実際の交渉にあたる役人は、通商まで譲歩しなければまとまらないと主張!!
しかし、阿部はあくまで慎重でした。
打ち出したのは、「開港容認・通商拒絶」でした。
1854年2月10日・・・
圧倒的な武力を持つアメリカに対する綱渡りのような交渉が始まります。
阿部の意を受けた役人は、頑なに通商を拒みます。
日本海国という名誉を祖国アメリカにもたらすことを重視していたペリーは、次第に焦り始めました。

「このまま通商に固執することは得策なのか・・・??」byペリー

交渉開始から1か月・・・日米和親条約締結。
開港を許したのは、大都会から離れた下田と箱館。
そこでは、航海に必要な物資の補給だけを認めました。
通商に関する要求は、完全に退けたのです。
阿部はいかにしてこの結果を手にしたのでしょうか?
近年、広島県福山でその資料が発見されました。
阿部の腹心である軍学者・江木鰐水の手記によると・・・
交渉のさ中、黒船に乗り込んだ江木は、事細かく書いています。
ペリーが話すときの声は温和・・・
交渉相手のことを事細かく調べたうえでの交渉に臨むことで、阿部は薄氷の勝利を得ました。
しかし、阿部は、自らが用意した日本の未来を見ることはできませんでした。
未曽有の国内に対処してきた重荷が、その肉体を確実にむしばんでいました。
1857年、阿部正弘死去・・・享年39歳でした。

②長州藩・高杉晋作
1864年・・・それは、長州藩が国内外の危機に直面し、がけっぷちに立たされた運命の年でした。
国政の主導権を握ろうとする長州に対し、薩摩藩と会津藩が反撃!!
世に言う禁門の変が勃発します。
7月19日、薩摩・会津の連合軍と衝突した長州軍は、僅か1日で惨敗・・・
御所に向かって発砲した長州藩は、時の帝・孝明天皇によって朝敵の烙印を押されてしまいました。
状況はさらに深刻化・・・
それは、武力によって外国船を打ち払おうとする祖国・長州藩の暴走でした。
8月5日、下関戦争・・・
長州は、関門海峡を航行する外国商船を砲撃!!
激怒した欧米列強によって報復攻撃を受けます。
関門海峡の殆どの砲台が列強連合軍により占領!!
植民地化という最悪の危機が予想されました。
追いつめられた長州は、停戦交渉を要請・・・
そしてその難しい立場での交渉に登場した男こそ、高杉晋作でした。
8月8日・・・交渉の席上、列強側は300万ドルという巨額の賠償金を要求。
晋作は啖呵を切ります。

「もし、戦争を続けるというのなら、長州は最後の一人になるまで戦うつもりだ」by高杉晋作

晋作たちの強硬な姿勢に、列強側は態度を一変・・・
関門海峡の砲台撤去、水・食糧・燃料補給のため下関上陸を求めてきました。
晋作たちは、本来は幕府の権限であるはずの下関の開港を独断で受け入れます。
下関を開港し、貿易を行えば、富国強兵を推し進めることが出来る・・・
晋作たちは、交渉の土壇場で、未来の実利につながる決断をしました。

人生最後の日に ガッツポーズして死ねる たったひとつの生き方

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1864年7月・・・第一次長州征伐・・・幕府は朝敵の長州を攻め滅ぼすべく13万の大軍を大坂に・・・!! 
その一報を受け、長州藩の上層部が真っ二つに分かれます。
抗戦派・・・大義名分のため幕府に抵抗
恭順派・・・藩存続のため幕府に謝罪
この対立です。
11月12日、恭順派によって長州藩の三家老が切腹・・・幕府への徹底恭順の証とされました。
抗戦派に組していた晋作は、身の危険を感じ、九州・筑前藩に亡命!!
再起の時を伺っていました。
この時、晋作にはどのような選択があったのでしょうか?

内乱挙兵の決起策か??
藩士以外の武士や、庶民で編成された奇兵隊を!!
最新式の銃を装備し、西洋式の戦術を学んだ長州の軍です。
それとも冷静に交渉の道を選び、藩の大義名分を取り戻す・・・??
朝敵の汚名をどうしたらいいのか・・・??

晋作の決断は・・・決起策でした。
反乱の兵をあげ、武力によって藩の方針を覆す道を選びました。

11月25日、高杉晋作、長州に帰還!!
奇兵隊をはじめとする諸隊に反乱の決起参加を要求します。
しかし、諸隊幹部は無謀な戦いだと消極的な態度に・・・!!
その姿勢に晋作は叫びます。

「僕は、毛利家300年来の家臣だ
 たとえこの身が討ち倒れようと長州に殉じる!!」by晋作

ここに、反乱軍は挙兵します。
晋作たちは長州藩の経済の要・下関の会所を制圧!!
さらに、藩の軍艦を強奪することに成功!!
最初は消極的だった奇兵隊たちが動き出しました。
反乱軍は、800人の大軍勢に膨れ上がります。

1865年1月7日、大田絵堂の戦い・・・
恭順派率いる軍の正規軍と激突します。
野戦戦術と、最新式のミニエー銃を使うことを学んだ奇兵隊は、藩の正規軍を圧倒!!
そして、晋作決起からおよそ40日後・・・
藩主・毛利敬親によって、徹底恭順は撤回!!
もし攻撃を受ければ、最期の一兵まで戦い抜くこと・・・武備恭順を藩の方針とさだめました。
晋作の決起が導いた奇跡の勝利・・・次なる幕府との戦争が始まる中、晋作はまったく独自の構想を抱いていました。
長州の将来について晋作が記した意見書・・・回復私儀・・・
そこには、晋作が最も力を入れている方策があります。
それが、「大割拠」でした。
徳川一強の時代は終わった・・・

「今こそ、我が長州藩の下関を世界に向けて開こう
 そして、欧米列強の力にも十分に対抗できる国力を身につけるのだ
 世界五大陸にこの長州藩を押し出して、長州の大割拠、独立を成し遂げるのだ」by晋作

しかし、その夢が実現することはありませんでした。
1867年4月14日、高杉晋作病没・・・享年29歳でした。
あまりにも早すぎる突然の死でした。

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③薩摩藩家老・小松帯刀

小松帯刀・・・薩摩で島津家に次ぐ名門の家に生まれ、28歳の若さで家老に就任。
当時、権力の座にあった国父・島津久光の抜擢によるものでした。
帯刀は久光のもと、富国強兵を推し進めました。
綿・・・当時、綿花はアメリカで始まった南北戦争の影響で世界的に品薄となっていました。
帯刀は、西国諸藩から綿花を調達し、ヨーロッパへ輸出・・・
その利益で5隻もの蒸気船を購入、海軍の創設に力を注ぎました。

1863年、帯刀は、久光から京都での政治工作を任されます。
目的は、雄藩連合です。
これまで幕府では、一部の譜代大名が政治や外交を独占・・・
外様藩である薩摩や長州は蚊帳の外に置かれていました。
薩摩は有力大名が手を組んで政治に参加する雄藩連合を構想し、実現に向けて動き出しました。
このことが、幕府側との対立を引き起こすこととなりました。
御所を警護する一橋慶喜、京都守護職・会津藩松平容保、京都所司代・桑名藩松平定敬ら一会桑勢力です。
1964年7月、慶喜は朝敵・長州を討つべく、15万の大軍を大坂に集結させました。
第一次長州征伐の発動です。
ところが、これに対し薩摩は思いもよらない行動に出ます。
10月、小松帯刀、慶喜に征伐中止を進言!!
その要因は、京都政局のパワーバランスでした。
一会桑は、有力な藩を国政運営に加えたくありませんでした。
薩摩としては、長州を敵に回さない方が得・・・恩を売るという考えがありました。
薩摩の行動は素早く・・・長州に対して禁門の変を主導した三家老を処刑し、幕府に謝罪するように打診します。
長州がこの条件を受諾したことで、第一次長州征伐中止・・・!!

薩摩への警戒を強める慶喜・・・
再起へ虎視眈々の長州・・・
幕末の風雲はいよいよ急を告げます。
1865年、幕府側の巻き返しが始まりました。
15万の大軍が、大坂へ・・・第二次長州征伐です。
幕府は諸外国に対し、長州に武器を売らないように要請!!
長州は、絶体絶命の窮地に陥りました。
この時、帯刀は驚くべき決断をします。
薩摩名義で7300丁もの銃を購入、長州へあっせんしたのです。
長州の使者に対し帯刀はこう答えています。

「幕府の嫌疑等意に介してはいない・・・ 如何なることでも尽力する」by帯刀

薩長両藩は、1866年1月・・・長州から木戸孝允が上京します。
帯刀のもとで交渉を担当したのは西郷隆盛!!
幕府側に対する武力行使も辞さない強硬派です。
ところが、西郷が発したのは思いもよらない一言でした。

「ここはまず、幕府の処分をあまんじて受け入れよ」by隆盛

この時点で、幕府は長州に藩主親子の引退、領地10万石削減などを通告する見通しとなっていました。
過酷な処分を受け入れよという西郷・・・実は背景には国父・島津久光の意向がありました。
注目すべき資料は、島津久光に宛てた伊達宗城の書簡です。

「近頃西郷はしきりに暴論を主張している 久光公は依然として持重」

久光にとっては幕府に対する武装蜂起など思いもよらない・・・
急遽京都藩邸に使者を送り、藩士全員に厳しく自重を命じました。
西郷と帯刀は、朝敵の汚名を晴らす政治工作は動けても、幕府への武力行使には協力できない状況に追い込まれていました。
しかし、長州は既に臨戦態勢にありました。
更なる処分を受け入れるはずもありませんでした。
交渉は平行線をたどり、木戸はついに帰国を口にしました。
このままでは薩長提携に向けて動いたことは、すべて水泡に帰す・・・
帯刀は交渉を続けるか否かの決断に迫られました。

交渉は打ち切るしかないのか??
このままいけば、幕朝開戦の可能性が極めて高い・・・久光公の本意は、幕府と事を構えることにないのは明らか・・・家老として、その御意志を越えてまで、長州との提携を進めることが許されるのだろうか??
しかし、久光の方針に従えば、薩長提携の道は閉ざされてしまう・・・!!
それは目指す雄藩連合からの後退を意味していました。

ここで長州を孤立させていいのだろうか・・・??
雄藩連合が頓挫してしまう・・・
久光公を説得して、同盟締結に持っていけないだろうか・・・??

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小松帯刀の選択は、薩長同盟締結でした。
幕府との対決にひた走る長州との同盟を、帯刀は独断で締結したのです。
薩長同盟には、両藩の公式文書は存在しません。
唯一その内容を伝える木戸孝允の書簡・・・そこからは、政治家・小松帯刀の周到な計算が読み取れます。
そこには巧妙なロジックが隠されていました。
戦うとしたら一会桑・・・と書かれています。
つまり、幕府とは言っていないのです。
一会桑との対立は、そう遠くはない・・・久光サイドも理解できていました。
薩摩が生き残るためには、長州を絶対に滅ぼしてはならない・・・帯刀は久光の許容範囲すれすれで同盟を結び、事後承諾を勝ち取ったのです。
新たな時代・・・明治を切り開いた薩長同盟・・・その意義とは・・・??

久光主導から、小松、西郷、大久保による主導に転換していきつつあるきっかけになりました。
両藩の間での正式の合意文書がない・・・第5条の決戦条項を久光には見せられなかったのでしょう。
それは、久光の初期の方針を逸脱したものだったからです。

全て自分が責任を負う・・・それが、歴史の方向を決定づけました。
阿部正弘、高杉晋作、小松帯刀・・・身分は違えど、三人に共通するのは、新たな時代は自分が作るという責任感でした。

老中・阿部正弘は、死の1年前、幕府の路線を大きく変更しました。

「交易互市の利益をもって富国強兵の基本とする」by阿部正弘

開国通商に舵を切ると宣言したのです。

その志は確かに受け継がれます。
鹿児島のとある釜元・・・薩摩焼は帯刀の進言で輸出用に作られたものです。
ヨーロッパで上流階級に珍重され、注文が殺到しました。
小松帯刀は病のため36歳で亡くなりました。
しかし、彼は最後まで来るべき時代の輝かしい日本の未来を夢見ていたのです。


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御無沙汰していました。
プライベートが忙しくなって、なかなか更新できない私ですが、やっぱり魅力的な作品は筆も進むわなあ・・・とも思ってしまいます。
今回は、あの薩長同盟です。

フランス公使ロッシュとの会談で舞うお芳・・・
この大河では、妾ではなく側室ってことになってるんだから、こういう色的な要素失くしませんか??
もっと本当の芸妓を連れてくればいいんだよ・・・。
この大河では、緊張感のある交渉であってほしいと願ってはいけないのだろうか??

京都に迫ってくる軍艦・・・
慌てる京都の人々・・・その要求は、兵庫の港を開港せよということ&長州征伐らしいんですけど・・・
開港と長州征伐は一緒ではないと思うんですけど・・・この大河ではすべてが一色たんになってしまっているし、吉之助はやっぱり戦うのが嫌なようです。
そんなに長州征討が大切なんだろうか・・・こんなに時間を割くのもなあ・・・。

そして浅はかな岩倉具視・・・。

いきなり胃痛になった一蔵・・・
お妾さんの・・・おゆうのもとへ。
またキンチョー感が消えちゃったよ・・・。
女が悪いって言ってんじゃないんだよ。
もっとかっこよく粋に書いてくれないかなあ・・・。

そこで一蔵の書き物に目を通し、感動する吉之助。
そこには、”非義の勅命は勅命にあらず”とありました。
=天子様が許しても、天下万民が納得しなければ勅命じゃないんだと!!

こんな書き方して、”倒幕の密勅”の時どうすんだよ・・・。
倒幕の密勅が全てなのに・・・!!

おまけに、外で盗み聞きして「こんな事は止めて!!」というおゆう・・・。
この展開もサゲサゲ~~!!
盗み聞きなんてはしたない真似みんなしてどうすんだよ・・・。

この写しが広まっていきます。
これは、密書なんじゃないの??
岩倉具視、「やりおったなあ~~!!」なんて言ってますが、この密書だけでなにを「やりおった」んや??
もっと、お上品にしてください。
お・・・慶喜にも知られてしまいました。
「芋侍が・・・!!」と怒っていますが、この時点で薩摩、アウトです!!
西郷切腹、薩摩おとり潰しもんだろ・・・??
どうして野放しにするんだよ・・・慶喜!!
密書にしとけよ~~!!

その密書は、桂小五郎に手にも・・・!!

吉之助から龍馬へ、商い・・・つまり武器の輸入の話になってます。

なんだかなあ・・・戦うのが大嫌いな吉之助なのに、いきなり武器の話??
おまけに桂さんと手を組みたいと言い出しています。
この時点で、長州と手を組むことが、薩摩にどれだけの利があるのか??
私の記憶が正しければ、もうにっちもさっちもいかなくなって、幕府と戦う武器も無くなった長州が、龍馬を頼って薩摩を通して武器を手に入れる・・・ここに、薩摩と長州が手を組むことになると思うんですけど・・・。
この時点で、武器を手に入れてあげる薩摩の方が上なんですけど・・・??
こんなあぶないテロな藩・長州と、平和論者の吉之助がどうして手を組みたいと思っているのか全く理解できません。

吉之助の命で、桂のもとへ向かう龍馬。
商品はミニエー銃でした。
首を縦に振らない小五郎を、写真で説得する龍馬。
もっと世界に目を向けろということなんでしょうが・・・。

年が明けて・・・京都にやってきた桂小五郎。
もちろん、会いに来たのは吉之助でした。

「長州は薩摩のために朝敵にさせられた!!」なんて小五郎が言ってますけど、御所に向けて発砲し、自ら朝敵となったのは長州の方なんじゃないの??
なんでこんなに長州藩が高飛車なんだよ・・・
この時、長州はホントに武器弾薬が欲しかったんだよ・・・??

で・・・この薩長同盟を国父・久光に聞く時間がないと悩んでいる薩摩のみんなですが・・・
小五郎も、恥を忍んで言ってるのだから・・・と、情に訴える吉之助ですが・・・情に訴えたらあかんやろ??
なんてったって、策士なんだから・・・。

毎回言ってますけど、いくら挙国一致で立ち向かうとはいってもそれは国外の相手というだけで、中にはいってしまえば彼らの国は藩なんだから・・・
藩の存続を第一に考えるのが普通でしょう。
そんな中、薩摩は泥船となった長州と手を組むわけだから、どうして手を組んだのか??ってとこをきっちりやってもらわないと何がなんだかわからんわなあ・・・。

御花畑屋敷にやってきたみんな。
??ところで、小松帯刀の屋敷って言ってますけど、こちらは近衛家の別邸です。
近衛家に別荘を借りることができるほど親密な関係だったということです。
この大河では何にもしていない小松帯刀どんですが、本当はこの人が全てを取り仕切っていたんです!!

don















頭を下げるまでは何も言ってはならん!!
時が過ぎるばかり・・・。
反対してバタバタとやってくる薩摩の仲間たちに、長州と手を組むのは日本を守るためだと言い出しました。
??
日本にテロを巻き起こしたのは長州ですよ??吉之助!!
おかしくないかい??

もめてるとこにいきなり伊藤俊輔に写真を出させる吉之助です。

don2















イギリスに行った若者は、薩摩も長州もなく仲良く頑張っているということで、こちらも仲良くしようと一件落着・・・。

もうどうでもええわ・・・な展開でした。
ほんま、緊張感ないわ~~この大河。
幕末のピリピリ肌を刺すようなそんな緊張感が~~!!

don3















で・・・西郷が頭を下げて一件落着なのでした。

薩長同盟成立!!

don4















ほんと、全てにおいて、薩摩が下手に出た薩長同盟でした。

この薩長同盟、”同盟”って言ってますけど、ただの口約束だったと言われています。
なので、正式な文書としては残っていません。
残っているのは、もう後のない長州が、”薩長同盟”がなったことに喜んで・・・
その証拠を残しておこうと”話し合った事”を小五郎か書き付け、その証人として龍馬に裏書してもらっています。

そして、薩長同盟が成ったことをどれだけ小五郎が喜んでいたか・・・それは手紙にも残っています。

薩摩としては日本で幕府を倒そう!!なんて気持ちはなく、そこまで考えずにただのリップサービスだった薩長同盟というのが最近の通説になってるんですけどね・・・。
ま、リップサービスってなってしまうと重みもなにも無くなってしまうので、重厚には書いてほしいですけどね・・・。
挙国一致・・・こんな形になってしまうとは、斉彬もビックリ!!でしょう。

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ああ・・・もう、どうでもよくなってきたと言えばダメでしょうか?
またもや結婚とかの回です。

「たった今、勝ち目が見えもしたで・・・」とかなんとか、何が勝ち目なんだか・・・と思うが、そう思った吉之助。
政治的にどうするのかと思いきや・・・
訳の分からんまま、長州征討を一人で終わらせ、未来の将軍・慶喜にドス突き立てて帰ってきました。
う~ん・・・この時点で、西郷吉之助切腹でなくその場で斬り殺され??薩摩藩おとり潰しだわよ・・・。

その活躍ぶりは、薩摩に広まっていました。
みんな、年上の人も頭を下げて、「よしなに・・・」と、土下座をする始末。
それをしないでくれと頼む吉之助の紳士的な行動がスゴイのかな??
目上の人が・・・それも薩摩隼人が頭を下げるなんてもってのほかなんじゃないの??
と、斜めに見てしまう・・・。

吉之助はすでに次の一手を見ていたというけど・・・。

don















「もう・・・幕府に日本国を任せておくことは出来ん・・・」
なんて、一蔵に言ってます。
幕府に滅ぼされると・・・!!
でも、京都が無残な焼け野原になったのも本当は長州のせいだし、幕府が守りたいのは徳川だけとか言ってるけどそれは違うし・・・。
日本国は俺らが守らねば・・・!!
などと、言い出しています。
う~ん・・・
幕府を潰そうなんて、この時点で誰も考えていませんでした。
当時は、国と言えば、薩摩、長州のことであって、日本国のことではないんです。
つまり、薩摩が寝返ったのはもっと後で、幕府側と長州を天秤にかけ、最後の最後に幕府を裏切った・・・裏切ったのは、薩摩の方なんです。
でも、そこには、薩摩藩の生き残り作戦があって、それを悪とするのもダメですけどね・・・。

で・・・鑑賞にふけりながらまたもやウナギとりをしていたら、義理の姉にこき使われている糸を発見!!
ああ・・・もういいよ・・・朝ドラみたいなこと・・・。

相変らず貧乏な西郷家・・・ボロボロです・・・。
でもね、そんなボロボロな家で恥ずかしくないのかと思う。
こんな立派な兄のところへ嫁に来られてよかったと、弟の嫁が言っていますが・・・。
そんな立派か??
ダメな男のことを「うだつのあがらぬ男」って言うじゃないの?
家を建ててこその一人前じゃないのか??と思っていたら、嫁取りの話になってしまった・・・。
ま、嫁取りも一人前の証拠だからなあ・・・
と思っていたら、吉之助の嫁になりたいという女性が殺到してきました。
ああ・・・そんなこんなもどうでもいいわ・・・

don2















そこへ、雪篷も島からやってきて、ワイワイガヤガヤ楽しそうな、でもどうでもいい一コマでした

参勤交代が再開されたのは、吉之助のせいだと怒る久光
「お前のせいじゃ」×③!!って、バカ以外の何物でもないやろ・・・こんなコント仕立てのエコーな演出・・・。
演者さんの力量をもっと信じてあげればいいのに・・・
この件について、非は自分にあると土下座して久光に謝る→土下座した西郷にあからさまにいい気分になる久光→すんなり久光に謝ったことをご機嫌を取ったと思って怒る一蔵→「いかにも・・・」by吉之助
という、そんなこと・・・”土下座してご機嫌を取る”だけで、凄いのか??吉之助!!
もう既に、長州と手を組むことを考えている吉之助・・・。
そのためなら、国父様の気持ちを動かす、媚も売って謀もして、偽りの涙を流すそうだ・・・。
口で言わずに体で・・・芝居で表現してくれよ・・・。
頼む・・・そうすれば、役も薄っぺらではなく骨太な西郷吉之助になれるのにね・・・。

そんな話をしているところを桂久武にボーイズラブと勘違いされるというバカげた演出も止めてくれ!!
ちょいちょいこんなの入れるの遊びのつもりなのかな??
ボーイズラブ関係入れるなら、もっと京の政治や人間関係をしてくれよ・・・!!
だから嫁を取れと言われているように思う。。。

で・・・この嫁取りの話で1話終わってしまった・・・。
ま、みんなが知っているのでなんの感動もなかったですが・・・糸が嫁に来るんですが・・・違和感大ありでした。
糸は、離縁されて実家に帰ってきていました。
実家に糸の居場所がなかったのは本当かもしれません。
あ・・・史実では、吉之助と糸は再婚同士だったのでは?と言われていますが、16歳違いとなっています。
このドラマでの離縁の理由は「子供ができないから」という理由でした。
嫁をとれ、嫁をとれ!!と、みんなではやし立てた理由は、西郷家の人手不足と跡継ぎを・・・!!ということがメインだったのに、糸が出てきた途端にその「跡継ぎ」の話がどっかに飛んでしまいました。

今でも男の子を・・・!!という家も多い中、”子供のできない出戻り”設定なら嫁には絶対にもらわないでしょう。

「翔ぶが如く」では、吉之助の最初の妻・俊(名前が須賀どんではないんです)が、吉之助の留守を守っているんですが流産してしまいます。
で・・・「旦那様に申しわけない」と、自ら身を引きます。
実家に迎えに行く吉之助ですが・・・実家では親戚に預けていると、帰ってもらいます。
が・・・襖の向こうで泣く俊・・・。
今なら・・・吉之助を追いかけるか??と、家族に聞かれ、偉くなって帰ってきた旦那様に恥をかかすわけにはいかないと、二度と会うことなく別れるシーンがあります。
何が本当かはわかりませんが、これこそがみんなの求めているシーンなんじゃないかと思うんです。

都合よく好きになってもらったり、都合よく引き下がってもらったり、でも、会いたいからって何度も会いに行くとか・・・
西郷どんでは女性があまりにも現代的で訳が分かりません。
もちろん、”好き”って気持ちは大事だけど、それと同じくらい当時は”跡継ぎ”が大事だったと思います。
愛加那の子がいるからもういいと、思っているのかどうか知らないけど、例えば糸の離縁の理由がもっと違っていたらすんなりお祝いできたかもしれません。

don3















もう・・・どうでもいいけど、結婚する二人でした。
この大河ドラマを見ていて思いました。
糸の良いところは今でも足が速い事だそうです。
実際には薩摩藩士・有川矢九郎が、妻のいとこにあたるイト(糸子)をいきなり連れて来て、西郷に了解させたと伝わっています。
当時は恋愛なんてなくて当たり前の時代だったんでしょうが・・・

惚れて結婚する設定なら、足の速い・・・そんなところに惚れたのか??
もっと糸の良いところを好きになってやれよ・・・。

こんなところでも人物の掘り下げが足りないんじゃないか?と、満足できない私なのでした。

この頃になってくると、幕末の志士たちがわんさか出てくるはずなんだけどなあ・・・
それを見ているだけでも面白いのに・・・残念!!

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う~ん・・・かなり挫折しそうです。
私がブツブツ言いながら「西郷どん」を見ていると、旦那がいつも言います。
「だって、これが史実だから~~」
今回も、ブツブツ言っているといいました。
「歴史なんてそんなもんやで。
 普通の人間がやったことを、あとからお前みたいなのが美化するんや。」って。
言っている意味は分かるし、私が美化しているのもわかっています。
でも・・・今回はほんと、歴史がねじ曲がっていると思うので、きっと美化ではないと思うんです。

そう思ってもう一度見ます、「西郷どん」を・・・。

幕末維新史上一番のターニングポイントとなる禁門の変です。

・・・軍賦役・・・”ぐんぷやく”ではなくって、”ぐんふえき”だよ・・・。

コロコロコロ・・・と長州の・・・久坂玄瑞たちの京都火の海作戦の紙くずを吉之助に見せた男・・・
don2















「侍の本懐はの・・・戦をするこっちゃなか・・・」
またもや民を守ることだと、言う吉之助です。
う~ん・・・もういいのよね・・・。
民のために・・・なんて考えてると思う??
それって、今の考え方だと思うのよね・・・。

村田新八も、久光が、戦の先頭に立たせて吉之助を殺そうとしているとか・・・憎んでいるとか・・・
そんな内輪の細かい話はどうでもいいし、そんな汚い考え・・・久光を小さい男にしたいのかなあ・・・
そんな話をすること自体、大義の前には小さい事なんだよ・・・って思ってしまう。
それを、「よか、よか」と言う西郷が、懐の広い大きな男だって言いたいのかなあ・・・。

鍵屋に西郷に合わせろって人物がやってきました。
先日の物乞い・・・
あ・・・長州の桂小五郎って、変装しているのにあっさり自ら名乗ったよ・・・
もう。。。薩長同盟は要らないな・・・
小栗旬、大好きなのに、龍馬さんの出番は無くなりました。
あんなに東奔西走して薩長同盟を成し遂げたのになあ・・・見せ場が無くなってしまったよ・・・残念です。

でもって、話しは”長州を助けてほしい”みたいな感じなんだけど。
長州過激派の秘密をばらしてしまいます。
そして、一橋慶喜に妾を通して会わせてほしいと言っています。
朝廷工作で会わせてもらいなさいよ・・・小五郎・・・。
だから・・・龍馬さん、出番なしね・・・

慶喜は・・・孝明天皇に「頼みはそなただけじゃ・・・」と言ってもらっていますが・・・
そう言ってもらうのは、やっぱり松平容保でしょう。
周りのみんなが嫉妬するぐらい、容保を信頼していた孝明天皇なんです。

一方、吉之助は小五郎を慶喜に会わせてみようと考えます。
・・・ああ・・・小松帯刀が吉之助と久光の伝達係に成り下がっているのも最悪だ・・・

人斬り半次郎も出てきました。
平岡を斬った犯人では??と、問われているのです。
う~ん・・・いい男というか・・・綺麗すぎる・・・。
ハンサムが悪いって言っているんじゃないの・・・

izou













こちらは龍馬伝の岡田以蔵です。
これぐらい眼光鋭く小汚い感じが人斬りにはちょうどいいかなあ・・・って感じなんです。
この以蔵は最期までどろくさかったからなあ・・・.。

慶喜からヒー様になる・・・
とか、そんな場面もホント必要ないよなあ・・・。
「西郷さまと一緒なら安心ですね。」byお芳
「俺のことは信じていない・・・??」byヒー様
「ヒー様には惚れています。」byお芳
これも必要なし!!それに、お芳、慶喜に無礼すぎるだろ・・・??

と、吉之助が会わせた慶喜と小五郎も遊郭でした

don3















って・・・ほうっかむりして鼻を赤くして・・・バカボンのパパかと思っちゃいました。

papa





先日見ちゃったからなあ・・・玉鉄のパパ・・・。

本当の小五郎かどうかもわからずに会わせるのか??って思っちゃいます。






暗殺が流行っている当時、みんな本当に慎重でした。
だから吉之助はいくつも名前を変えているし、写真がないんだよ・・・。
慶喜だって、平岡が暗殺されているんだから、自分の行動にも責任を持ってほしいんだよね・・・。

??幕府と長州が組めば、乱れた世を治すことができる・・・と言い出す慶喜でした。

小五郎は、長州過激派の説得をはじめました。
そこへ半次郎がやってきます。
自分は、長州の桂小五郎だと自ら名乗り、話しをつけるんですが・・・これ、OKですか??
逃げの小五郎が、ガタガタと崩れ落ちていきます
この大河では、正々堂々と話をして片を付けるんだろうか・・・??
天誅、天誅、暗殺、暗殺と殺伐とした時代に、なんだ・・・この生ぬるい感じ・・・。
そこでも、半次郎が、薩摩で西郷先生を知らない者はいないとか、小五郎が西郷のおかげで長州が救われたとか・・・
一体何の話をしているんだ・・・??って話を重厚そうにいう小五郎です。

一月後の祇園祭の日・・・。
慶喜が命令したのか・・・池田屋事件を・・・。
一瞬で終わった池田屋事件でした。
ま、新選組ファンとしては、一瞬で済んで良かったわ・・・

でも、この大河で思うことがあります。
真田丸や直虎で、一瞬で終わる・・・関ケ原とかね?そんな描写が話題となりました。
でも、それは、関ケ原が誰もが知っていて、基本的にわかりやすいからだと思うんです。
当時の地方の大名たちはタイムラグも今より長かったでしょうし・・・
でもね、こんなに混沌としている幕末を、訳も分からずサクッと端折ってしまうと、何が何だか分からなくなると思うんですよね・・・。
違うかな・・・??

池田屋のリベンジに、長州が2000の兵を率いて上洛します。
でも・・・私怨で戦ってはいけないとやっぱり戦争反対の吉之助です。
ま、これに乗り気ではなかったのは確かですが・・・。

薩摩藩邸の訓練に吉之助がやってきました。
昔、江戸に行った西郷を叱った迫田がここにいました。
昔の失礼を土下座して謝る迫田・・・それを「やめてくれ、38番西郷吉之助、ちょっとでてきもす。」と、言う吉之助・・・。
こんなにへこへこしていいのか??迫田!!やめろよ~~こんな演出~~!!
武士が、土下座なんかしないでくれ~~!!
もっと他にいい演出あるだろう・・・??

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半次郎も再会!!
子供の半次郎は、眼光鋭く人斬りらしかったのになあ・・・優し過ぎだろ・・・この眼・・・。

鉢巻を巻いて、陣羽織・・・戦支度をしている慶喜ですが・・・桃ちゃんにしか見えないのは私だけだろうか・・・??
誰が敵で誰が味方かわからん!!と、ヒステリックになる慶喜・・・。
「もう、お前しかおらんのだ・・・」と、またもや吉之助アゲアゲに言うのでした。

don5















この戦いは、長州を討つことに非ずなんだそうです。

長州軍が御所をめがけて進軍してきました。
禁門の変!!です。
あ・・・いきなり会津軍も出てきました。

don4















ラリアットも健在・・・??

が・・・大将の来島又兵衛が死んだことで、長州軍は、みんな刀を落とすのでした。
2000人も引き連れて来て、又兵衛が死んだぐらいで戦意喪失すんの・・・??
って、そこへ会津が鉄砲を打ち込んで・・・斬り込んで・・・またもや戦闘再開!!
吉之助はそれを止めようとして足を討たれ負傷!!
それでも戦いを止めようとする吉之助なのです。
西郷さんは軍人でしょ??
人によったら・・・最終的には国家転覆を謀るわけだからテロリストっていう人もいるんですよ・・・
清濁併せ吞む男だから、得体のしれない・・・カッコいいんじゃないの??

おもんない・・・こんな展開・・・。

悪者は会津だったんだな・・・
戦いの中、吉之助負傷・・・退場するから戦いが再開してもいいんだろうな・・・。

そして・・・望んでいない京都が火の海に・・・!!??

なんだかネットでは八重の桜を懐かしむ声がたくさんあるようで・・・
ま、別にハンサムにしてほしいわけではないけれど・・・私は桂小五郎さんは・・・いやいや、玉山鉄二さんは・・・

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山川大蔵でいて欲しかった。。。


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