日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:桓武天皇

オリンピックで大規模な開発が行われている東京・大手町・・・その一角に防護壁に守られた不思議な場所があります。
ここには史上類を見ない謀反を起こした男の首が祀られています。
平将門・・・939年12月、将門は朝廷に反旗を翻しました。
そして、当時坂東と言われていた関東八か国を制圧・・・新しい天皇・・・新皇を名乗ったのです。
しかし、朝廷が送った討伐軍の前にあえなく戦死、謀反は50日余りで終わり・・・首は都に運ばれ獄門に処されます。
首は無念を叫びながら飛び去り、東京大手町に埋葬されました。
以来、平将門は祟り神として祀られてきました。
関東大震災・・・首塚のあった場所に、大蔵省の官舎を建てようとすると時の大臣や関係者が次々と死亡・・・祟りを恐れた政府は、首塚を復活させたと言います。
さらに第二次世界大戦後、GHQがこの場所に駐車場を作ろうとするとブルドーザーが横転し、作業員が死亡したと言われています。
平将門は、どうしてGHQをも畏れる祟り神となったのでしょうか?
鋼の肉体を持ち、7人もの影武者を従えていたという平安時代最強の兵・・・平将門。
彼が抱えた無念に迫り、反逆者誕生の謎に迫ります。

1000年以上の伝統がある相馬野馬追・・・
将門の母は、相馬氏に繫がる家系の出だと言います。
この祭りの起こりは、幼いころから馬に親しみ、騎馬戦に無類の強さを誇った将門由来と伝えられています。
当時坂東と呼ばれていた坂東八か国・・・将門の本拠地は下総国。
利根川の支流と沼が複雑に入り組んだ湿地帯が広がっていました。
そこにある国王神社・・・その名前は、一時将門が新皇を名乗ったことに由来します。
神社の一角にある宝物蔵には、娘が将門の33回忌に併せて作らせた木像が眠っています。
坂東一の兵らしい威厳のある面構え・・・

将門の父・良持は、桓武天皇の孫にあたる高望王の三男です。
天皇の血をひく父の兄弟たちは、それぞれが坂東に所領を持つ豪族でした。
成長した将門は京都に向かいました。
痴呆の豪族にとって都との関係は欠かせません。
身内の誰かが出世を遂げ、官職を得れば、一族の繁栄につながるのです。
父の期待を背負った将門は、いとこの平貞盛と共に滝口の武士として働き始めました。
しかし、ここで人生初の挫折を経験します。
貞盛は、京都において人間関係をうまく泳げる官僚的資質を持っていました。
しかし、将門はその資質に欠けていたのです。
順調に出世をする貞盛に対し、官職につけない将門・・・
930年、そんな将門に驚きの報せが・・・
父・良持が急死したのです。
無位無官のまま戻った故郷で、難題にぶち当たります。
3人のおじたちが将門の前に立ちはだかったのです。
将門が父から譲り受けた所領を狙って攻撃をしかけてきたのです。

935年2月、おじたちの連合軍が大挙してなだれ込んできました。
しかし、戦は騎馬戦に長けた将門の完勝!!
将門はその争いの中で、おじひとりの命を奪ってしまいます。
それは都で出世を競い合った貞盛の父・国香でした。

「戦の事情を冷静に振り返れば、父の死は将門のせいではなく、叔父たちの欲が招いたものだ
 自分は復讐心を抱いていない
 共に手を携えて、平氏の名を広めていくべしと将門には和睦の手紙を送ろう」by貞盛

しかし、叔父たちのリーダー良兼は、貞盛に激しく迫ります。

「将門と和睦しようとは兵の道に背く行いだ
 我々と力を合わせ、父の仇将門を討つべきではないのか」

貞盛は、結局反将門軍に入ることを承諾しました。

935年6月、貞盛を加えた叔父たちの軍は数千の大軍で攻めてきました。
梅雨時の戦い・・・騎馬戦に自信のない連合軍は、足場の悪い川や湿地帯を回避して将門の陣地に迫ろうとしました。
しかし・・・将門軍はわずか100騎で連合軍の背後を急襲・・・叔父たちは不意を突かれて散り散りに敗走!!
再び将門の前に敗れ去りました。
その後叔父たちのリーダー良兼の死を境に、平氏の内乱は将門の勝利に終わりました。
いつしか将門は、坂東一帯の平和維持を求められる存在となったのです。



平安時代中期・・・都の貴族たちは律令制度のほころびからうまい具合に地方からの税が集まらないことにいら立っていました。
そこで、都から派遣し在地の役人と共に税の徴収に当たる国司の権限を強化。
一定の税を中央に納めさえすれば、あとは国司の蓄財に回せるという仕組みに変えていました。
武蔵国国府・・・この国富に赴任してきた新しい国司・興世王は、自らの蓄財を増やすべく、税の徴収を精力的に行おうとしましたが・・・在地の役人・武芝が抵抗・・・両者の対立が起きていました。
結果興世王は、言うことを聞かない武芝の倉を襲い、無理やり税を徴収していました。
国司と郡司の対立は、激しさを増していきます。
その仲裁に乗り出したのが、隣国の下総に所領を持つ将門でした。

将門は、兵を率いて武蔵国に乗り込みます。
将門は背酒の席を設け、興世王と武芝の間を取り持ち和解に持ち込みます。
相手は国が派遣してきた役人・・・穏便に一件落着を図ったのです。
ところが・・・戦に敗れて以来、復讐を狙っていた貞盛が目をつけます。
上京した貞盛は、京都時代に培った人脈を使って・・・
”将門は他国まで出向いて乱行を働いている”と、朝廷に訴えたのです。
それが功を奏して、将門に都にやってきて弁明するように通達が出されました。
将門の中に、坂東をの現実を直視しない朝廷への怒りが・・・!!

「本来ならお褒めの言葉を頂戴しても良きところ
 逆に貞盛の言葉を鵜呑みにこの将門を召喚するとは・・・
 まさに恥辱であり、面目を失うものです。」

そんな中、新しい問題が・・・!!
常陸国の豪族・藤原玄明が、国司から逃れて将門のもとへ逃げ込んできました。

「国司の息子がひどい奴で、父の権威を嵩に罪のないものを次々に陥れているのです」

武蔵国に続いて常陸国の争い・・・都から遠く、朝廷の権威が届かない坂東では、律令制度の矛盾が様々に噴き出していました。
それを解決するすべはなく・・・何かと将門が頼りにされました。
939年11月21日、事情を確かめようと将門は、兵を引き連れて常陸国に向かいました。
ところが・・・国司の息子が3000もの兵で襲い掛かってきたのです。
それを指揮するのは、将門を陥れようとした宿敵・貞盛でした。
将門の怒りは頂点に達しました。
「徹底的に打ち負かすのだ!!」by将門
貞盛は取り逃がしたものの、将門が奪った印と蔵の鍵・・・
この二つのものは、国司の権力を象徴するものでした。
国司の権力、徴税権、財産運用・・・その権力を手にしたのです。
印と蔵の鍵を奪ったことで、一線を越えてしまった将門・・・
その結果、彼は心の中に大きな葛藤を抱えることとなってしまいました。
興世王がささやきます。
「ここまでやってしまったんです。
 いっそ坂東全土を支配下に治め、朝廷の出方を伺ったらいかがですか?」
坂東を支配するか・・・??
それとも朝廷を和解する・・・??

939年12月11日、将門は兵を率いて下野国に向かい、国府を占領。
その後も、次々と国府を襲い、坂東八か国を支配下に置きました。
将門の実力を知っている各地の国司たちは、ほぼ無抵抗で印と蔵の鍵を差し出しました。
将門が選んだのは・・・坂東を支配するというものでした。

そして12月19日、将門は国司の任命式を行います。坂東は、将門の支配するところとなったのです。
その式典のさ中・・・八幡大菩薩の使いと称する皇子が表れこう告げます。

「我は八幡大菩薩の使いで、朕の位を将門公に授け奉る
 これは、左大臣菅原道真公の霊魂が認めたものである」

菅原道真は、藤原氏から京都を追い出され大宰府で無念の死を遂げた貴族・・・
その後、左遷に関わった貴族たちが雷に打たれるなど宮中では災い事が相次ぎます。
そのため、当時道真の呪いは最も恐れられていました。
その道真の霊魂に朕の位を認められたとして、ここに新しい天皇・・・新皇を宣言したと言われています。
道真を持ち出すことで、自分を正当化し、朝廷に対して妥協を求めたのです。
将門謀反の知らせが届いた都は、大混乱に陥り、翌年の正月行事はすべて中止となりました。
朝廷は各寺社に対し、兵乱調伏の祈祷を命じます。
将門を呪い殺そうとしたのです。

朝廷は現実的な対応も発表しています。
謀反を起こした将門を殺したものは、身分を問わず貴族にすることにしたのです。
まさになりふり構わずの将門討伐命令です。

将門も、弟からもっと慎重になるべきだったと諫められます。

「なぜ、力を持つ者が権力を奪い取って悪いのだ
 山を越えよ、岩をも破ろうとする私の信念は、誰にも負けるものではない」

その後、将門は不思議な決断を下しています。
将門軍の主力である農民たちを故郷に帰したのです。
農民にとって田起こしの時期が迫っていたのです。

その動きを密かにも守っていたのは・・・将門の宿敵・貞盛でした。
今回は単独では動かず、ある坂東の有力豪族を味方に引き入れようとしていました。
下野の豪族で藤原秀郷・・・田原藤太です。
坂東にあって将門と並んで評されていました。
将門を討てば貴族になれる!!と、討伐軍に加わります。

940年2月・・・貞盛、秀郷連合軍は、下総国に向かいます。
そして2月14日、将門の本拠地近くで両軍は向き合います。
討伐軍は2000!!
対する農民のいない将門軍はわずか400!!
圧倒的に不利な中、将門軍の奮闘が始まりました。

2000対400・・・5倍の兵力の座は如何ともしがたく・・・
将門は追いつめられていきます。
馬上の上で亡くなる将門は、矢を頭に受けています。
宿敵・貞盛が放った一本の矢・・・
それを受け、将門は絶命したのです。
秀郷の手で介錯された将門の首は、近くの木に晒されました。
新皇宣言から50日・・・将門の乱はこうして幕を閉じたのです。
その後、将門の首は討伐軍によって都に持ち帰られ、史上初めて獄門に晒された将門の首は、京の人々の前でこう叫び続けたと伝えられたと言われています。

「私の身体はどこへ行った・・・
 また一つになって戦おうぞ!!」

京都の町に晒された将門の首・・・体はどこへ行ったと叫び続けた首は、ある日空に舞い上がり坂東を目指しました。
そして大手町に不時着したと言われて・・・そこに首塚が祀られました。
江戸時代、その首塚に隣接していた小さな寺を、家康が江戸の鬼門に移設しました。
江戸総鎮守・神田明神です。
一説には神田とは・・・将門が叫んだ”身体”がなまったものだと言われています。
武士の先駆け将門に守られた江戸は、その後260年の長きにわたって続きました。
2020年の東京オリンピックに向かって再開発が進められる大手町・・・
その一等地にあるものの、将門の首塚には一切手が触れられていません。
しかも、工事中にビルから物が落ちてはいけないという配慮からか厚い防護壁で守られています。

今も将門の首塚には、多くの人が参っています。
一説には左遷されたサラリーマンも、ここに祈れば再びこの地に帰ることができるとか・・・。
最強の祟り神だった将門は、今は最強の守り神として人々の心のよりどころになっています。


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感想(1件)



平安時代の仏教界に一人の大天才が出現します。
日本における真言密教の開祖・空海です。
中国の人をも驚嘆させた、空海の超人的な能力・・・。
ある時には雨を降らせ、ある時には杖を刺したところから温泉が・・・
さらには5本の筆を同時に使いこなすとか・・・
超人空海はいかにして誕生したのでしょうか。

774年讃岐国の豪族・佐伯家に生まれました。
幼いころから神童とよばれ、将来は都で役人に・・・と思われる逸材でした。
親族の期待を一身に背負って、空海は18歳の時に役人を養成する大学に・・・エリートコースを歩み出したのですが・・・。
しばらくして、大学を止め、山林修行者として山野を放浪するようになります。

若き空海に何があったのでしょうか?
「三教指帰」によると、大学で学業に励む空海の前に一人の僧が現れ・・・
”虚空蔵求聞持法”を教えてくれたと記されています。
修行によって無限大の記憶力を獲得し、全ての経典を暗記できるという秘法です。
しかし、これを会得するためには、虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えるという壮絶な修行が必要でした。
空海が大学を辞めたのは、この修行に専念するためだったと言われています。
徳島県阿南市・・・舎心ヶ嶽・・・実際に空海が修行したと伝えられています。
空海は、一歩間違えば滑落死といわれる高さ600メートルをこえる断崖絶壁によじ登り、自らの命を危険にさらしながら一心不乱に真言を唱え続けます。
日に日に体は痩せおとり、体力の限界に・・・。
ところがある日、不思議な体験をします。
それは、土佐国室戸岬での修行の時・・・
明け方、空海がいつものように真言を唱えていると・・・空の明星が明るさを増したかと思うと空海の口の中に飛び込んできたのです。
この体験が、空海のその後の人生を変えることとなります。

当時の唐は、世界の先進国で、最新の文化や技術を誇っていました。
なにより唐の都・長安では、最新の仏教が隆盛を極めていました。

「唐なら自分の疑問を解く、本物の仏の教えがあるに違いない」

空海は、唐に渡りたいと考えるようになります。
当時、日本から唐に渡る手段は一つ・・・遣唐使の一員に選ばれることでした。
空海には、その可能性がありました。
語学が完璧で、チャンスをつかんだ空海は、804年、遣唐使船に乗船することになります。
空海31歳の時でした。
この時、別の遣唐使船に・・・乗っていたのは、後に天台宗の開祖となる最澄でした。
最澄は当時、仏教界のエリート中のエリートで、朝廷の絶大な信頼を受け、看病禅師として、天皇家の人々の病気治療にあたる特別な僧でした。
そのため、最澄は還学生として乗船・・・これは、国のお墨付きの留学生で、費用は国の負担、通訳付きの期間は短期なもの・・・1年後には、帰国が決まっていました。

一方、空海は、何の肩書もない留学生で、莫大な費用は自費で・・・期間は最低20年というのが義務となっていました。
そんな空海に試練が・・・嵐に巻き込まれました。
空海の乗った遣唐使船は、1か月ほど海上を漂流・・・明州からおよそ700キロ離れた赤岸鎮にたどり着きました。
ところがここで空海が天才的な才能を発揮・・・
上陸しようとしたとき、遣唐使の大使が地元の役人に上陸の許可を得ようとしますが・・・嵐で国書を失くしていたので、遣唐使と認められず上陸させてくれません。
困り果てた大使が空海に・・・
「そなたの名文で、実情を陳述してもらえぬか」と。
空海は、自分たちが正式な遣唐使であること、嵐で国書を失くしてしまったことなどを書き記しました。
この書の、達筆さと文章の巧みさに驚嘆し、すぐさま上陸を許可しました。
空海一行は、陸路と水路を利用して、およそ2000キロを踏破し、長安にたどり着きました。

長安に入った空海は、仏教を学び始めます。
当時、長安では西遊記のモデルと言われる玄奘三蔵が」広めた法相宗や、達磨がインドからもたらした禅宗など、様々な宗派(三論宗・三階教・天台宗・法相宗・華厳宗・律宗・禅宗・浄土宗・・・)がありました。
空海の心を掴んだのが、当時最先端の仏の教えと言われ、日本ではまだほとんど知られていなかった密教でした。
密教を学び始めた空海は・・・
密教を学ぶために、インドのサンスクリット語を猛勉強!!
僅か3か月でマスターしてしまいました。

密教と他の仏教の違いは・・・??
他の仏教は、悟りを開くまでに膨大な時間がかかります。
密教は、即身成仏・・・生きたまま身体で悟りを開き、仏になることができるとされていました。
仏になる・・・仏と同じ力を持つことができる・・・とされていました。
最澄は、密教が盛んであった長安には行かずに帰国したので、本格的な密教を学ぶことができませんでした。
この差を埋めることができずに、運命は大きく分かれていくことに・・・。

唐に渡って密教を極めることとなった空海にとって、会わなければならない人物がいました。
長安にある仏教寺院・青龍寺の高僧・恵果です。
密教の正当な継承者として1000人を超える弟子を持ち、皇帝から国師として仰がれていた人物です。
無謀にも、会いたいと青龍寺の門をたたいた空海・・・。
すると・・・恵果は、面会を許したばかり・・・
「汝がここに来ることは、すでに知っていた。
 長い間待っていたぞ。
 今日、会えたのは、なんと喜ばしい事よ。」と、歓迎したと言います。
さらに恵果は、近いうちに灌頂を授けると言いました。
密教における灌頂とは、頭頂部に水を注ぎ、種々の戒律や資格を授けて正当な継承者とする儀式の事です。
つまり、恵果は、初対面でしかも日本人の空海を自らの後継者として認めたのです。

恵果には、もともと後継者がいましたが、早くに亡くなっていました。
そこに現れたのが、空海だったのです。
さらに、恵果に残された時間もあまりありませんでした。
病に伏せっており、最後のチャンスとして空海を迎え入れたのです。
そして、空海もまた、それにこたえるだけの力を持っていました。

こうして空海は、恵果の弟子となって青龍寺で直接教えを乞うこととなります。
僅か3か月で、密教の最高位・阿闍梨を授かり、密教の後継者のひとりとなったのです。
やっかみや嫉妬までも打ち破る能力が空海にはありました。
恵果は、密教の全てを空海に教え、法具や袈裟などを授けました。
そして、自らの役目を終えるかのように死の床に就くと・・・空海に遺言します。

「汝に伝法し、もはや心残りはない
 汝はすぐに故国に帰り、この密教を転嫁に広めよ。」by恵果

二人の出会いから、僅か半年後の事でした。
空海は、恵果との約束を果たすべく、帰国しようとします。
凄まじい勢いで経典を集め、持ち帰れない経典があれば寝る間を惜しんで写経します。
そして・・・806年、空海、460巻を超える膨大な経典と共に、唐から帰国。

806年10月・・・帰国した空海・・・しかし、20年間留学期間を2年で切り上げてしまったことが重罪と、九州の大宰府に止め置かれ、京に上ることはできませんでした。
それに対し、空海は、帰国報告として自分が唐から持ち帰った経典などを目録として提出し弁明します。

「罪は死んでも償えませんが、得難い真理の教えを生きて持ち帰れたのは、実に良かったと心の中では喜んでおります。」

自分が凄いものを唐から持ち帰ったという絶大な自信がありました。
そして、唐でいかに自分が高い評価を得ていたのかを・・・!!
しかし、朝廷は空海の弁明を黙殺!!
朝廷には、目録に書かれている価値をわかる者はおらず、一介の留学僧が貴重な書物を持ち帰れるはずがないと思っていたのです。
待つこと3年・・・諦めかけていた時、突然京の都に上ることを許されます。

空海が記した目録に驚愕したのが・・・空海と同じ時期に唐に渡り、一足早く帰ってきていた最澄でした。
価値が解っていたのは、最澄だけだと思われます。
空海より先に帰国していた最澄は、806年比叡山延暦寺を精緻に天台宗を開宗。
仏教界の最重鎮として天皇家から益々厚い信頼を得ていました。
そんな最澄が空海に手を差し伸べたのか・・・空海の実力を認めただけではなく・・・もう一つの思惑が・・・。
最澄の後ろ盾であった桓武天皇が、唐の最新の密教の存在を知ると、密教による国家の鎮護を強く望みました。
ところが、その思いを果たせずに崩御・・・
最澄も、唐で密教を学んだとはいえにわか仕込み・・・。
桓武天皇の遺志を継ぐためには、どうしても本格的な密教を修めなければなりませんでした。
そんな時目にしたのが、空海の目録でした。
最澄は驚きました。
学びたかったのに、学べていなかったものがそこにあったからです。
帰国から3年、ようやく今日に上ることができました。
空海が唐から持ち帰ったものは、経典だけではなく・・・
有名なのは、高野豆腐・大和茶・金山寺味噌・・・食や暮らしの向上に大きな貢献を果たした人物でした。

809年7月、京への許可が下りた空海は都の北の高雄山寺に入り、密教の更なる編纂に努めます。
そんな空海の元に、最澄の弟子が手紙を携えてやってきました。
その手紙には、唐から持ち帰った密教の経典を借用したいという申し入れが書かれていました。
空海にとって最澄は、九州に止め置かれたときに京の都に呼び戻してくれた恩人・・・
その言葉に応じ、経典を貸し出します。
こうして、二人の交流が始まったのです。

仏教界のTOPである最澄が・・・
「どうかあなたの弟子にしてほしい」と、空海の弟子になりたいと言いました。
それは、最澄が密教をどうしても教わりたいという決意の表れでもありました。
最澄の想いを受け入れ、弟子のひとりとします。
これによって、空海は密教の日本における第一人者となりました。
二人の立場が逆転したのです。
最澄は確立した地位にありました。
その超エリートが、弟子になるというのは驚くべき事でした。
空海の名は、一気に広まり、次々と空海の元を訪れる人が・・・。
当時は親密な子弟関係を築いていた最澄と空海でしたが、しかし、二人の間に溝が・・・

「密教の最高位である阿闍梨を授けてもらえぬか」by最澄

「そのためには3年の修行が必要ですぞ」by空海

最澄は、比叡山に天台宗を開いた仏教界のTOPとして多忙を極め、3年もの修業はできません。
そして、二人の関係がさらなる悪化を・・・
813年11月、比叡山に戻った最澄は、弟子を通じて空海に書物の貸し出しを求めます。
その書物は、密教経典の注釈書でした。
密教を極めようとする最澄にとって、難解な経典を正しく解釈するためには、どうしても注釈書が必要でした。
そんな最澄からの依頼に対し・・・注釈書の貸し出しを拒否しました。

密教の真理、奥義は、修行を通して心から心へと伝える・・・
文字はがれきのようなもので、それで最高の真理を伝えられると思ったら大間違いだと、空海は言っています。
修行を実践しないとダメということです。
最澄は、かなり悔しかったようです。
最高の審理でも、勉強すれば何とかなると考えていたようです。

「最近売り出し中の某人物は、文字によって仏の真理を伝えるという麗しい伝統を断ち切ってしまった。」

と書いています。

愕然とした最澄・・・
加えて、自分が一番期待していた弟子が、空海の元から帰って来ないという現実が・・・。
それまでも見解の相違があったものの・・・書物の貸し借りや、弟子のトラブルによって決別したようです。

真言宗の寺院では、今でも空海が伝えた護摩祈祷が行われています。
これは、護摩の炎によって、煩悩を焼き払い、清らかな願いへと成就させるよ言う密教の儀式です。
1200年前の密教も、この祈祷が重要視されていました。
平安時代初期の日本は、地震などの天変地異が次々と起こり、干ばつや飢饉が人々を苦しめ、朝廷では平城上皇に重用されていた藤原薬子らが上皇の天皇返り咲きを狙って、嵯峨天皇の失脚を目論んで失敗した薬子の変など権力闘争が勃発・・・それらはすべて、怨霊の仕業とされていました。
怨霊は、非業の死を遂げた人の魂がこの世に残って悪さをする・・・
それは、特定の人に及ぶのではなく、天下国家に祟る・・・その怨霊を何とかしなければ、日本を平和にすることはできない・・・そのための仕事を密教僧が担っていたのです。

空海は、密教界の第一人者として嵯峨天皇に国家を鎮護する為に仏の力によって怨霊を鎮めるべく願い出て行います。
これをきっかけに空海は、嵯峨天皇の信頼を得、交流を深めていきます。
権力と上手く付き合っていかない限り、教えを広めることはできない・・・。
空海は、宗教面だけではなく、文化の面でも唐の最新を伝えるところがありました。
当時の日本は中国を手本としていたので、その中国の文化や文明をもたらしてくれる・・・それは、朝廷の文化を高めるうえでも貴重な存在でした。
嵯峨天皇と空海の関係は、権力者と宗教者だけでなく、文化を通じた友のところもありました。
天皇との関係を深めた空海は、嵯峨天皇に真言密教を開くことを許されると、日本全国に新しい教えを広めていくこととなります。

全国には、空海の伝説が数多く残っています。
空海が杖を突きさすとお湯が出たという・・・空海開湯伝説22湯
様々な言い伝えが残っていますが・・・
空海は唐で、密教だけではなく、科学技術も学んでいました。
土木、鉱山、薬学、医学・・・すべて、マスターして帰ってきました。
全国を行脚することで、水源を発見・・・温泉を発見・・・鉱脈を発見・・・そうなる伝承の素地はあったのです。

嵯峨天皇の絶大な信頼を得、新しい大事業へと進んで行きます。
真言密教をこの日本に・・・!!
恵果との約束・・・

「故国に帰り、この密教を転嫁に広めよ」by恵果

816年、空海は、恵果との約束を守るために、嵯峨天皇に高野山を真言宗教の修行の場としたいと願い出、その地を賜わります。
高野山は、当時何もない山岳地帯でした。
それこそが、空海が求めた場所でした。
多くの弟子を育て、心身の修行を必要とする密教の奥義を、弟子たちに伝えるために、都から離れ俗世間から隔絶したこの地を修行の場に決めたのです。
空海は、多くの弟子たちと共に空海にのぼり、標高900mの山の頂に、東西およそ5キロ、南北2キロにわたる真言密教の聖地を造りました。

金剛峰寺を中心とする幽玄の世界。。。
この聖地に、大宇宙を意味する真言密教の本尊・大日如来を置き、命あるもの全てに無限の慈悲を広げていく密教の世界を出現させました。
ここを拠点に、更なる真言密教の普及に努めました。
高野山に総本山を開いておよそ20年後・・・空海は、自らの役目の終わりを悟り弟子たちを集めてこう述べました。
「私は永遠に高野の山に帰る
 弟子たちよ、悲しんではならない」
その後の布教を弟子たちに任せました。
数日後、空海は、真言密教の究極の修行に入るために、835年・・・奥の院山道の最も奥不覚の御廟に入定しました。
空海はこんな言葉を残しています。

「この宇宙が尽き果て、人々が尽き果て、悟りの境地が尽き果てることがあるのならば、私の願いも尽き果てよう」

空海は、その時まで瞑想し続けるというのです。
空海は、今でも御廟で世の中の平和と幸福を願っていると信仰されています。
1200年の間、1日2回の食事が絶えることなく運ばれています。

高野さんで修業をした僧は、高野聖として空海の教えや空海の奇跡を広めるべく、諸国を行脚します。
それによって空海は、日本で最も有名な僧のひとりとして尊敬を集めています。
空海が入定してから1200年経った今も、人々は空海が修行で廻った道をお遍路として歩いています。
空海は、今も人々の心に生き続けているのです。

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そこに住む貴族たちは、物の怪や怨霊を信じて恐れていました。
そんな貴族たちのために、占いや呪術を行っていたのが陰陽師です。
中でも時の天皇や権力者に重用されたのが、安倍晴明でした。
呪術を巧みに操り、人々を物の怪から助け、超人的な力を持っていたといわれています。

平安時代に活躍した日本屈指の陰陽師・安倍晴明・・・
カラスの言葉がわかったとか、深夜に徘徊する鬼や物の怪・・・百鬼夜行が見えたなど、その伝説は数知れず・・・。
そんな晴明の手となり足となり働いたのが、式神です。
式神とは、普通の人には見えない鬼神のことで、晴明はそれを巧みに使って、様々なものを式神に変えたり、人や動物に憑依させたといわれています。
晴明は時に、式神に、家事や世話をさせたといわれています。
式神が使えるのは、陰陽師として高い能力を持っている証でした。
鎌倉時代の宇治拾遺物語には・・・
晴明が京都・嵯峨野にある寺を訪れたとき、若い僧侶がやってきてぶしつけな質問をしました。

「あなたは、式神を操るのが得意と聞きましたが、それで人や動物も殺せますか。」

「力を入れれば人でも何でも殺せますよ。
 しかし、私は生き返らせる術を知らないため、そんなことをしたら摂政の罪を犯したことになってしまいます。
 ですから致しません。」by晴明

出来るのにしないということを知ってしまった若い僧は、それを見てみたくなり、

「式神を使って、あのカエルを殺してみてください。
 一度だけでいいのです。」

しきりに頼むので、断り切れなくなった晴明は、近くにあった草をつまむと呪文を唱え、勢いよくカエルに投げつけました。
すると、草は式神となり、カエルを押しつぶして殺してしまったのです。
これを見た若い僧は、晴明の恐るべき呪術に腰を抜かし、、自分の安易な言動を反省したといいます。

陰陽師・安倍晴明は、陰陽寮という役所に所属する官僚でした。
陰陽寮とは、天皇の傍で、重要書類を作成する役所でした。
中務省に属する国家機関で、陰陽寮は陰陽道・天文道・漏刻・暦道の四つに分かれていました。
陰陽道とは国や天皇のために占いを行う部署で、天文道は天体を観測し占星術を行い、漏刻は水時計を使って時刻の管理を行い、歴道は毎日の吉凶を書き込んだ暦を造る仕事をしていました。
陰陽寮とは、国に関する様々な占いをする機関で、属するすべての職員が陰陽師でした。

当時、占いはとても大切なもので、天災を事前に知るため、神の言葉を聞くのが占いでした。
国家運営そのものにかかわる仕事で、陰陽寮の役人以外が占うことを大宝律令で禁じていました。
唯一占いを許された重要国家機関・陰陽寮・・・安倍晴明は天文道に属し、毎日星を観測し、異常があればその吉凶を占いで判断し、朝廷に報告していました。
晴明は遅咲きで、40歳を過ぎて、この天文道の得業生となっています。
得業生は、成績優秀者だけに与えられる身分で、後継者を養成するための制度です。
晴明は、その卓越した技量を買われて得業生に抜擢されました。
晴明は非凡な才能を発揮し、瞬く間に出世します。
50歳を過ぎた頃には、天文道の最高位に当たる天文博士にまで上り詰めます。
天文博士は、蔵人に星の異変などを直接報告できる役職です。
この時代、星の異変は神からの警告だといわれ、その役割は重要なものでした。

しかし、陰陽師の仕事はそれだけではなく、呪術で物の怪などを追い払うことも・・・。
呪術師のようなことをすることになったのは・・・
奈良時代の事、新しく即位した桓武天皇は、時代を刷新する為に、平城京から長岡京への遷都を行います。
すると、遷都の有力推進者が何者かによって暗殺されてしまいました。
黒幕として捕らえられたのは、桓武天皇の弟・早良親王でした。
早良親王は無実を訴え断食を行いましたが、受け入れられず・・・淡路島に流される途中に餓死してしまいました。
その遺体は、都に戻すことも許されず淡路島に埋葬しました。
それから間もなく、長岡京で不幸や災難が起こります。

・桓武天皇の妃・旅子が病死
・激しい雷雨が都を襲う
・天然痘が大流行
・桓武天皇の母が病死
・第一皇子安殿親王が病に伏せる

不安になった天皇は、陰陽師に占わせます。
すると。。。”早良親王の祟り”・・・あらぬ疑いをかけられて死んでいった早良親王が物の怪を引き連れて長岡京を襲っているというのです。
桓武天皇は、すぐさま陰陽師を淡路島へ送り込んで「鎮魂の祭り」を行わせます。
早良親王の祟り・・・そのほかにも祟りが・・・陰陽寮の役人が使われることとなり、この出来事以降、陰陽寮の仕事の中で呪術の比重が増えていくのです。

占いや呪術によってさまざまな禍に退所していった陰陽師・・・
そのバイブルは「簠簋内伝(ほきないでん)」です。
正式には・・・「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」です。
この本は、安倍晴明が編纂したといわれていますが・・・安倍晴明を受けて、後の時代の陰陽師や僧侶が編纂したのでは??といわれています。
全5巻からなり、方位の吉凶、暦の吉凶、風水、星占い・・・占いの総合百科事典のような内容になっています。

簠簋内伝には、様々な災いへの対処法が書かれています。
代表的なのが、
①泰山府君祭と呼ばれる安倍晴明も得意の秘法です。
人間の生死を司る神・泰山府君に延命長寿や病気平癒を祈願する陰陽道最高の祭事とされています。
門外不出とされ、陰陽師の中でも選ばれたもののみが行えました。
晴明もその一人です。

医療が発達していないこの時代、誰もが求めていたのは病の原因を知ることでした。

②六三除けの秘法
63
発病した年齢を9で割ってあまりの数をこの図に当てはめて病の原因を知るという方法です。

39歳の場合・・・39÷9=4余り3

なので、女性の場合右足、男性の場合は左足

に病の原因があるというものです。

9で割り切れる場合は、頭部に原因があります。
と、当時は信じられていました。

幼児は幼児の死亡率も高く、幼児の無病息災を願って、額に”犬”という文字を書きました。
犬の子は良く育つ・・・ということです。

病を治す呪術もあります。
晴明の時代から使われていた様々な呪術が記されている「呪詛調法記」には・・・
①原因不明の病を取り除く呪術
豆腐を用います。
豆腐1丁を病人の年の数に賽の目に切り、酒と醤油と共に神前に供えます。
そして、病気平癒祈願をして・・・「五王ある中なる王にはびこられ病はとくに逃げ去りにけり」を10回唱えます。
手を4回打ち、礼を9回します。
備えた酒を3口飲み、豆腐を5切れだけ食べます。
残りの豆腐は白い紙に包み、川か海でこう唱えます。
「千早振る神の祟りを見に受けて六三除けし身こそやすけれ」
そして、豆腐を包んだ紙を流すと病は治るとされていました。

しかし、この呪術を行っても治らないときには・・・
生きるか死ぬかを占う秘法もありました。

物の怪や怨霊を畏れていた平安時代・・・陰陽師たちはこんな呪術も行いました。
②悪霊を祓う呪術
「付くも不肖 付かかるも不肖 一時の夢ぞかし
 生は難の池水つもりて淵となる 
 鬼神に横道なし
 人間に疑いなし
 教化に付かざるに依りて
 時を切ってすゆるなり
 下のふたへも推してする」

と、長い呪文を唱えた後で、足の裏に3つお灸をすえます。
これですぐに悪霊が退散したといいます。

③生業繁栄
商売繁盛・・・毎日朝日を拝み、8回こう呪文を唱えます。
「金伯五金の気を呼び、全家の軸となる・・・」これで金銭に困ることは無くなると信じられていました。

④雷除け
白い紙に墨で・・・
東方 阿迦陀
西方 須多光
南方 刹帝魯
北方 蘇陀摩抳
と書き、それを家の四方の柱に貼るだけ・・・

平安時代の貴族たちが気にしていたのが「夢」です。
夢は、未来の吉凶を示すものと信じられていました。
そのため、夢で見たものが何を意味するのか読み解くのも陰陽師の重要な仕事でした。

安倍晴明が書いたといわれる「神霊感応秘蔵書」には・・・
人の体、食べ物、動物など15種類に分類されていて、何が吉で何が凶なのかを書いています。
雷は大吉・・・人に引き立てられるか官禄を得る
夜明けは大吉・・・寿命が延びる
蝶は凶・・・万事が定まらない前兆 相談事や商売は失敗する
朝顔の花の夢・・・女性で苦労するようになる
当時の人々は、陰陽師に夢を占ってもらうことで、未来を予測し、来る吉凶に備えたのです。

悪夢を見てしまった場合・・・その夢をいい夢に変える夢違えという呪法もありました。
「悪夢着草木吉夢成宝王」!!

陰陽師として確固たる地位を築いてきた安倍晴明・・・
天文博士になった安倍晴明・・・当時、天文博士の位階は正七位下が原則でした。
しかし、晴明はその上のくらいまで上り詰めます。
晴明が陰陽師として異例の出世を成し得たのは・・・
原因不明の頭痛を声明に占ってもらった花山天皇・・・すると・・・
「帝の前世であった者のドクロが岩の間に挟まっております。」
花山天皇が従者に命じて晴明が示した場所へと行かせると・・・そこには本当に古びたドクロが・・・。
すぐにこれを取り出すと、花山天皇の頭痛は無くなり、花山天皇は晴明への信頼を深くしていきます。
さらに晴明は、花山天皇の後に即位した一条天皇にも重用・・・日々の吉凶を占うのはもちろんのこと、帝が病に陥った際には、みそぎを行いたちまち回復させました。

陰陽道会の第一人者は、天皇が代を代わるごとに選ばれるのが常でした。
花山天皇から一条天皇の辺りは、晴明が大活躍をした時期で・・・
993年には正五位上を与えられ、異例の出世をし、天皇の蔵人所陰陽師にまで就任します。

998年、時の天皇・一条天皇の中宮・定子の周りで不幸が続きます。
父が突然亡くなる、兄が花山法皇を襲撃したのです。
一条天皇は、更なる災いを避けるために、数日間外出せず、食事を慎む”物忌み”を行うことに・・・
晴明はその際の祭司を命じられたのですが・・・その祭祀を放棄!!
始末書の提出を求められる大失態を犯します。
この時、晴明80歳近く・・・少しは休みたいというアピールだったのかもしれません。
晴明は忙しく・・・朝廷で絶大な権力を持っていた藤原道長・・・
道長の日記には度々晴明が登場します。
栄華を極めた道長でさえ、祟りを畏れて晴明を頼っていました。

時の権力者・道長に重用されたことで、晴明の位は従四位下に・・・年収は361石・・・4億円となりました。
他の追随を許さない安倍晴明・・・吉平、吉昌という息子がいました。
中でも、長男・吉平は、父の才能を受け継いでいました。
吉平は、陰陽寮を率いる長官にまで出世。
安倍家の行く末も安泰・・・
1005年晴明はこの世を去りました。
晴明に全幅の信頼を寄せていた一条天皇は、その死をいたく悲しみます。
そして、晴明の偉業をたたえるために、屋敷跡に神社を造りました。
平安時代、人を神として祀ったことはほとんどなく、まして、一官僚を神として祀るなど、前代未聞の事でした。
境内の一角には、晴明が呪術で掘り当てた井戸があります。
今も、滾々と湧き出て来るこの水を飲むと、様々なご利益が得られるとか・・・。

安倍晴明の墓は、その力を欲する人々のために、各地に作られています。
しかし、貴族の世が終わり、武士の世が始まると、陰陽師の地位は揺らぎ始めます。
安泰と思われた安倍家にも危機が・・・。

鎌倉時代になると、陰陽師は将軍家に徴用され、多くが関東に下りました。
室町時代には、晴明の子孫である安倍有世が将軍・義満に重用され、晴明を超える従二位の官位を得て、国政を担う最高幹部となりました。
安倍家の地位は確固たるものに・・・その後、陰陽師の需要が広まっていきます。
およそ10年に及んだ川中島の戦い・・・戦国武将武田信玄と上杉謙信は、尾張の見えない戦いに早く終止符を打ちたいと・・・共にある方法に打って出ます。
それは、陰陽師たちを陣に迎えることでした。
陰陽師に勝つために祈祷を行わせたり、戦を始める日時を占ったり、作戦の吉凶まで判断させたとか・・・
占いや呪術を信じなかったといわれる織田信長も、陰陽師に頼ったことがあります。
1575年長篠の戦いで・・・様子が書かれた絵に、陰陽師が写っています。
六芒星を背負っています。

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ところが、戦乱の世が長引き、戦が複雑化していくと、兵法を知り尽くした軍師が占いをするようになり、陰陽師が次第に活躍の場を失っていきます。
そして、天下人が戦乱の世を終わらせる頃には、陰陽師の多くは没落・・・
そこで、生き残りをかけて策を練ったのは、安倍家の子孫たちでした。


安倍家が生き残りをかけて狙いを定めたのが、時の将軍・徳川家康でした。
家康に重用されることでお家の存続を図ろうとしたのです。
しかし、この策には問題がありました。
安倍家は、晴明の時代から朝廷に仕えてきた家柄でした。
その安倍家を陰陽師として徳川が使うことは、将軍・家康でもできないことでした。
そこで安倍家が考えたのは・・・苗字を土御門に変えたのです。
それによって別の家のようにふるまったのです。
安倍家は苗字を変えることで、朝廷に憚ることなく家康の求めに応じて、江戸に足を運び信頼を得ていきます。

そして、5代将軍綱吉の頃には土御門家が陰陽師すべてを統括しても良いという許しを得ます。
土御門家(安倍家)は、陰陽道界の宗家となりました。
しかし、明治維新で陰陽道が禁止され、衰退していきます。
私たちの暮らしの中には、大安や仏滅を気にしたり、鬼門などの包囲方角を気にしたり・・・いまだに陰陽道が深くかかわっています。
これも、安倍晴明をはじめとする陰陽師たちがいかに頼りにされていたのかを示す証なのかもしれません。

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千年の都・・・京都・・・ひときわ目を引くのが東寺の五重塔です。
東寺は平安時代の幕開けに際して建てられた特別な城です。
その役割は、様々な災いから新しい都を護るためにありました。
この寺を、天皇から直々に託された人物こそ、弘法大師・空海です。

空海が生きた奈良~平安は、日本は激しく動いていました。
天皇位を脅かす僧、跋扈する怨霊、天変地異・・・降りかかる禍に・・・
ときの桓武天皇は、10年で2度の遷都を余儀なくされます。

そんな中・・・大陸から最先端の密教を持ち帰った空海・・・
その法力で、都を護ることを託されたのです。
しかし、本来空海は、この時日本にはいない人物でした。
遣唐使として唐に渡った空海・・・
科せられた留学期間は20年・・・しかし、僅か2年で切り上げて帰国!!
死罪にもあたる選択でした。

空海生誕の地として知られる香川県善通寺市・・・
ここで語学にもたけた空海の発見がありました。
佐伯直氏の墓には・・・その石室内に、国内でも僅か数点しか出土していない青銅製の冠帽がありました。
日本でなく、朝鮮半島で製作されたと思われています。
別の古墳からは外洋船の壁画が・・・
この地域には、長らく渡来人が暮らし、彼らを支配下に置いていたのが空海の祖先・佐伯直氏と思われます。
空海は、中国の言葉や文章に秀でていました。
人間・・・空海の姿とは・・・??

奈良時代後期、日本は激動の時代を迎えていました。
桓武天皇は、2度の遷都・・・異例の政治を余儀なくされました。
70年の奈良の都を捨てた桓武天皇・・・
その原因の一つが奈良の仏教界でした。
6世紀半ば・・・朝鮮半島から日本にもたらされた仏教・・・
以来天皇は、仏教によって国家の安寧を願う鎮護国家を政策としてきました。
しかし、8世紀になると、全国の国分寺の建立や、東大寺の廬舎那仏造営など、財政を圧迫するようになってきます。
さらに、天皇の庇護を受けた奈良の仏教僧達が、政治介入を始めていたのです。
その象徴が弓削道教。。。
称徳天皇に仕える僧侶の身でありながら、天皇の政策に大きな影響力を及ぼし、自ら天皇になろうとしました。
こうした奈良の仏教界の僧は、五代にわたって天皇を出していた天武天皇系と緊密に結びついていました。
新たに天武天皇系から出た桓武天皇は、奈良の仏教勢力を政治から切り離したいと考えていました。

784年11月、桓武天皇は平城京から北におよそ40キロ離れた長岡京への遷都を決断します。
この時、桓武天皇は、異例の詔を発していました。
「私的な寺院を移転、新設することを禁ずる」
これによって、奈良の仏教勢力は、寺院を新たな都に移転することを阻まれました。
しかし・・・ほどなく軋轢を生みます。
785年9月、桓武天皇の右腕として長岡京造営を任されていた公暁・藤原種継が暗殺されます。
犯人を捕まえ尋問すると、桓武の退位を企てるクーデターが露見!!
その首謀者の一人として名が挙がったのが、桓武の弟・早良親王でした。
早良親王は11歳の時に東大寺で出家した元僧侶・・・
奈良の仏教勢力と深いかかわりを持ち、桓武天皇に反発し、自分たちを中核中軸とする勢力をもう一度取り戻そうとしていました。
背景に、奈良の仏教勢力がいたことは、まぎれもない事実でした。
桓武天皇は、早良親王を流罪とし・・・しかし、その道中、早良親王は無実を訴えて憤死!!

その後、桓武天皇で次々と異変が・・・
788年~二人の妻と母が次々と亡くなり・・・息子の安殿親王が病に臥し・・・
792年8月・・・大水害・・・
桓武天皇は恐れおののいていました。
全ては早良親王の祟りではないのか・・・??
そして、僅か10年で長岡京を離れ・・・

794年10月平安京遷都。
二度の遷都は、奈良の仏教界と早良親王の怨霊から逃れるため・・・止むに已まれぬ行動でした。
平安ではない歴史的な事実があったから、平安京と名付けたのです。
平安京という新しい都を守護するには、奈良仏教とは違う新しい仏教が必要!!
この頃、20年に一度の遣唐使が計画されていました。
遣唐使に唐から最先端の仏教を期待します。

その頃・・・31歳の空海は、山野で修業に明け暮れていました。
18歳で都の大学に進学、高級官僚への道が約束されていたにもかかわらず僅か1年余りで中退し、仏の道を歩み始めていました。
修行中に触れたのが密教・・・
密教とは、インドで生まれた仏教の一種で、様々な呪文や神秘的な儀式をとり行う最先端の教えでしたが、日本には本格的には伝わっていませんでした。
「理解できないところがあり、質問をしてもわかる人もいなかった。」by空海
日本で密教を学ぶには限界がある・・・と、唐に渡ることを画策します。
一介の無名の僧でありながら、遣唐使に選ばれます。
朝廷から命じられた留学期間は20年・・・
この時、同じ遣唐使として桓武天皇の期待を一身に受けていた僧が最澄でした。
後に、天台宗の開祖となる最澄・・・すでに新しい仏教の担い手として桓武天皇の寵愛を受けていたのです。
朝廷が最澄に定めた留学期間は1年・・・すぐに帰国してほしいと考えていたからです。
日本を出発した空海は、半年後長安へ・・・いかにして密教を学ぶのか・・・??

805年唐の都・長安に滞在していた空海は、密教の師を探していました。
当時、長安の南東にあった青龍寺・・・空海がこの寺で出会ったのが、恵果でした。
恵果は、インドから伝わった密教の正当な流れを受け継ぐただ一人の僧・・・
歴代皇帝から篤い信頼を得、1000人の弟子がいたと言います。
空海と初めて会ったとき・・・
「私はあなたが来るのを長い間待っていました。」と言ったといいます。
恵果は多くの弟子を差し置いて、空海に密教の全てを伝授します。
その証となるのは・・・空海が経過自身から授かった五鈷鈴・五鈷杵・・・ともに、密教儀式で使われる法具の一種です。
他にも、巨大な曼荼羅や、密教経典を授かります。
しかし・・・出会いからわずか半年でこの世を去ってしまった恵果。
恵果は空海に遺言を残していました。

「すぐに帰国し、密教の教えを国家に奉り、国中に広めてほしい。」

しかし、空海に課せられた留学期間は20年・・・未だ1年4か月・・・どうする・・・??

「奈良の仏教の教えは、苦しむ患者を前に、病気の原因や薬の効能をただ論じるようなもの。
 密教の教えは、薬を調合し、服薬させ、病を取り除くことができる。」

古代では、宗教的な力、霊的な力を以ても、安全保障をしなければなりませんでした。
しかし、奈良仏教は、学問仏教的な色彩が濃く、儀式や儀礼、修行という面では未熟だったのです。
その未熟な部分を密教は完全に補完できるというイメージが空海にはありました。
密教は奈良の仏教よりも実行力に勝る!!
新しい都に相応しい!!

しかし、任期は20年・・・天皇の命に背いていいのか・・・??
死罪になれば、今までの教えが水の泡・・・。
唐に留まるべき・・・??恵果阿闍梨亡き今、20年もどうやって過ごす??
天竺に行く・・・??

進むも退くも、いばらの道・・・??

806年、空海は唐の皇帝に向けて手紙を認めます。
「私は20年で売るべき成果を、1年で体得することができました。
 密教こそ、桓武天皇の勅命に対する答えなのです。」by空海

日本に向かう船に乗り込む空海。
恵果の遺言に従って、直ちに日本に戻ったのです。

2年ぶりに祖国へ・・・しかし、処遇に困った朝廷は、3年も都に入ることを許しませんでした。
この頃、日本の政治状況は変わってきていました。
空海が帰国する半年前・・・806年3月、桓武天皇が病に倒れて死去。
そのあおりを受けたのが、空海よりも先に帰国していた最澄でした。
桓武天皇の庇護のもと、天台宗を開いていた最澄でしたが、後ろ盾を失ったことで、奈良の仏教勢力との対立が表面化!!
810年9月、追い打ちをかけるように・・・時の上皇・平城太上天皇の変(薬子の変)・・・再び都を平城京に移すと挙兵したのです。
時の天皇・嵯峨は、すぐにこれを鎮圧!!
桓武の政策を引き継ごうとしていましたが・・・死罪を含む多くの処罰者を出すことになります。
この事件が空海の密教の力を示すこととなります。
天皇の許しを得て、国家安寧を祈願する密教儀式を執り行ったのです。
812年最澄が空海から灌頂を授かります。
空海は、鎮護国家の要として嵯峨天皇の信頼を一身に受けることとなります。
823年、空海は嵯峨天皇の勅命によって、一つの寺を下賜されます。
東寺の平安京の中、天皇の命によって建てられた寺は東寺と西寺。
そのうちの東寺が都を守護する寺として、空海に与えられたのです。
空海は、ここで、唐にもなかった新しい密教世界の表現を試みます。
大日如来を中心に鎮座する21体の仏像・・・それまで平面だった曼荼羅を立体の世界へ・・・!!
桓武天皇が願って止まなかった奈良仏教に代わる新しい仏教の招来・・・。
それを空海は、目に見える形で平安京にもたらしたのです。

ここ東寺から日本の仏教が始まる・・・
空海のオリジナルの仏教が・・・!!

唐から帰国して10年・・・朝廷に願い出て、高野山に密教道場を開きます。
都から遠く離れたこの地で、自分や弟子たちが修行に専念できる場所を作ったのです。

「唐から帰国して多年を経たが、いまだ密教の教えは広く流布していない。
 縁のある方々の力添えによって経典を書写し、教えを広めたい。」

そこで空海は、日本各地の仏教僧たちに経典の書き写しを依頼、その一人が東北地方を中心に活躍していた僧・徳一。
徳一は、奈良の仏教勢力出身でしたが、天台宗・最澄と教えを巡り対立し、論争は5年・・・
しかし、空海は、奈良の僧とも積極的に交流し、関係を深めていました。

更に民衆にも布教・・・しかし、障壁が・・・!!
当時の僧は、生活の全てを国が賄っている公務員!!
その仕事は国家の安寧を祈る事であり、民衆への布教活動は固く禁じられていました。
しかし空海は・・・??
唐で学んだ土木工事などを行い民衆たちに伝えます。
理屈ではない、まず苦しんでいる人を救うのが仏教!!
実践こそがすべて・・・!!
それを体現したのが、弘法大師・空海でした。

最晩年の言葉
「すべての生きとし生けるものが悟りを得るまで私は祈り続ける。」
空海の教えは、今も救いを求め続ける人々に生き続けています。

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京都・清水寺の創建に関わった一人の英雄・・・
その男は、古代の日本で異質とみなされた者たちとの共存を模索し続けました。
坂上田村麻呂です。
朝廷の人々にとって、彼は軍神でした。

時代は平安時代初頭・・・桓武天皇の時代。
平安京とともに桓武天皇が心血を注いだのが、東北の異民族の征東でした。
中央集権化を図るために・・・!!

当時は、宮城にある多賀城が最前線で、都の政庁を摸して作られていました。
その多賀城の役割は・・・??
地域一帯の統治を担う行政の拠点・城柵でした。
そしてもう一つの役割は・・・??
対蝦夷政策のための鎮守府・・・北に攻めていくときの、指揮・統括を担っていました。
8世紀に入ると、朝廷は多賀城を拠点に北上を開始、中央集権を図る朝廷にとって、蝦夷たちの制圧は急務の国家プロジェクトでした。
毛皮をまとい、生き血を飲み、山に登ること禽のごとく、草を行くこと走る獣のごとし・・・
古よりこのかた、いまだ王化に従わず。
未開の野蛮人として・・・!!

しかし、それはあくまで朝廷側の理屈・・・
蝦夷たちにとっては、住み慣れた土地を奪われ、守り続けてきた営みを破壊される。。。
理不尽極まりないものでした。
そして、遂に大反乱がおきます。
780年、伊治公呰麻呂の乱。
城柵の一つ伊治城で、朝廷に服属していた蝦夷・呰麻呂が反乱!!
都から派遣された役人を惨殺する事件が起きます。
これをきっかけに、蝦夷たちの反乱が勃発し、朝廷は大混乱!!
この反乱を鎮めなければ、朝廷の権威は失墜!!
桓武天皇は、都の建設とともに心血を注いだのが、蝦夷の征東でした。

789年桓武天皇は、蝦夷の本拠地・胆沢に5万の軍勢を送ります。
敵の数は多く見積もっても数千!!
そこに立ちはだかったのが、蝦夷軍リーダーの阿弖流為(アテルイ)でした。
名前以外は今でもよくわかっていません。
巧みな戦術で、朝廷軍に挑んだと言われています。
その戦いは・・・。
圧倒的な勢力で向かう朝廷軍に・・・
一旦森に退き・・・誘い込んだ朝廷軍を一斉に攻撃!!
逃げた兵ははさみ打ち!!高名なゲリラ戦で、朝廷軍を北上川に追い込みます。
溺死した兵の数は1000人以上!!
阿弖流為は服属を迫る朝廷に対し、断固拒否を貫いたのです。
桓武天皇にとっては屈辱的敗北でした。
おまけに、現地の将軍が、食料不足を理由に、勝手に軍を解散!!
指揮官の情けない行動に激怒する桓武天皇!!

阿弖流為への復讐に燃える桓武天皇・・・当時34歳の坂上田村麻呂に白羽の矢が・・・!!
武門に秀でた一族として朝廷内で力を増しつつあった坂上氏・・・田村麻呂は出世を期待されていました。

791年田村麻呂を、征東副使に任命!!
田村麻呂はもともと近衛府で出世してきていました。
794年平安遷都の年に田村麻呂は10万の兵士とともに蝦夷たちの元へ攻め込みます。
その戦いの結果は・・・
討ち取った蝦夷の首・457、焼き討ちの村75カ所、坂上田村麻呂は、見事、桓武天皇の期待に応えたのです。
しかし、最大の敵・阿弖流為を倒すまでにはいきません。
田村麻呂と阿弖流為の戦いは、まだ始まったばかりでした。


田村麻呂が東北で繰り広げた意外な作戦・・・それは??
朝廷の施設で、蝦夷をもてなす宴が、盛んにおこなわれていました。
朝廷に服属した蝦夷には、名字を与え、その身分を保証し、課税の免除も行われていました。
征夷大将軍に加え、陸奥守・陸奥出羽按察使などを兼任していた田村麻呂、蝦夷たちの懐柔に動いていたのです。
移民を送り込み土地を開拓、一方、帰順した蝦夷を他国へ移住させる計画も試みます。
互いに利があることを示すため、農業開発を通じた融和策も講じました。
田村麻呂は、どうして武力で圧倒しなかったのでしょうか??

基本的に、武人ではなく武官でした。
戦うのは非効率で不経済・・・国家公務員としていかに効率的に征夷政策をすすめるか??
それが天皇の至上命令でした。
度重なる征夷によって、国の財政はすでにひっ迫、多大な犠牲を払う戦争に、民衆の疲弊も高まってきていました。
いかに戦に頼ることなく、阿弖流為を屈服させるのか??
田村麻呂は、東北の戦後処理まで見据えた難題と向き合っていたのです。
そして最大の作戦が実行に移されます。
802年1月、田村麻呂胆沢に城柵を建設!!
一辺が680m、70万平米の巨大なものでした。

事態は動く・・・
802年4月、阿弖流為、副将・母礼と共に降伏!!
田村麻呂、朝廷の悲願が達成された瞬間でした。
7月・・・田村麻呂は阿弖流為・母礼を連れ、平安京へ凱旋!!
ところがその時、田村麻呂は阿弖流為に・・・
「命を救ってほしい・・・その代わり、後の仲間を説得しよう!」と言われます。
それは、朝廷を恐怖に陥れた男の言葉とは思えない??

阿弖流為の申し出を受け入れる??

大墓公・阿弖流為・・・公は、姓と言い朝廷・・・天皇から授かるものです。
阿弖流為の一族であっても、ある時期に中央政府側の人間だった・・・
上手く説得できれば、中央政府側につくかもしれない・・・??
これ以上の無駄な血を流すわけにはいかない・・・。
しかし、朝廷が阿弖流為を許すだろうか・・・??

阿弖流為の言葉を信じるか否か・・・??
10年以上にわたり、朝廷を恐れさせてきた阿弖流為!!
田村麻呂は・・・??
「この度は、二人の願いに任せて故郷に返し、蝦夷の残党を招き寄せたい。」と、阿弖流為を信じ、助命を嘆願しました。
征夷大将軍の意外な言葉に驚愕した公家たち!!
「野生の獣の心はいつ背くかわからない。
 もし、申し出の通りに奥地に返せば、虎を養って患いを残すようなものだ!!」
そして・・・田村麻呂の助命嘆願から1か月後・・・
802年8月阿弖流為と母礼は処刑されたのでした。
自らの命を差し出し、散った阿弖流為の命・・・!!


7か月後・・・桓武天皇の命により、もう一度東北を訪れた田村麻呂・・・
新しい城柵・志波城を作るためです。
ここを拠点に北に攻め入り、さらなる蝦夷を服属させる・・・それが、託された計画でした。
しかし、志波城周辺には、それまでにない物が・・・蝦夷たちが伝統的に作っていた墓が、それ以後も作られていたのです。
文化を壊さず、既存の勢力を残して間接的に統治する・・・としたようです。
その後、朝廷の蝦夷政策は転換!!
財政と民衆への負担の大きさから、大規模な派兵は打ち切られることとなりました。
阿弖流為処刑の3年後のことです。
朝廷による蝦夷の征討の終息を見届けるように、田村麻呂は54歳でその生涯を閉じます。
その墓は・・・近年有力な説として・・・。
京都・西野山・・・
亡骸とともに埋葬された国宝「金装大刀」・・・
鳳凰が描かれた鏡が発見されました。
勅命により甲冑を付け、立ったままで棺に入れられたと言われています。
都の守り神として東に向けて埋葬された・・・
それは、征夷大将軍としての宿命・・・
田村麻呂は、古代日本の軋轢を象徴する存在でした。

死してなお征東する田村麻呂!!

坂上田村麻呂の伝承は、各地に残っています。



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