明治時代・・・
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵・・・旧大名や公家と共に、維新に功績のあった人たちも華族に加わり、5つの爵位が授けられました。
莫大な資産、国を動かす権力、高貴な家柄・・・新しい上流階級が誕生します。
明治時代、日本がヨーロッパ先進国並みの近代国家に変貌する為に、なくてはならないものとして家族は存在しました。
しかし、大正・昭和と、存亡の苦悩に見舞われます。
その繁栄と流転は・・・??

新春に皇居で行われる歌会始は、天皇・皇后両陛下をはじめ、皇族、一般からの応募で募った歌を詠みあげる儀式です。
その進行を担うのは・・・宮内庁式部職から委託された人たちです。
どんな基準で選ばれているのでしょうか?
共通点は?名前は坊城・園池・櫛笥・近衛・久邇・醍醐・水野・・・やんごとなきお名前です。
遡れば、元伯爵家、子爵家、子爵家、公爵家、侯爵家、子爵家・・・かつての華族でした。
華族とは、明治時代に作られた特権的上流階級・・・
きらびやかなドレス、浮世離れした生活、莫大な資産、黄金の日々・・・
華族は庶民の憧れの的でした。
そして、その遺産は、今も引き継がれています。
しかし、大正から昭和にかけて、没落が始まります。
オークションで家宝を売り始めました。
一体何が起こったのでしょうか??
そしてさらに過酷な運命が待っているのでした。

明治時代に華族の婦人がまとっていた舞踏会用のドレス・・・
今から130年前の彼女が向かったのはかの鹿鳴館でした。
上流階級の男女が集い、夜な夜な饗宴が催されました。
明治16年、政府によって建てられた鹿鳴館は、外国からのお客を接待するための社交場でした。
当時の日本は、欧米の国々と対等に渡り合える近代国家になろうと躍起になっていました。
一刻も早く風俗や習慣を西洋風に・・・
その使命を背負って鹿鳴館で踊っていたのが、華族の紳士淑女でした。
優雅なダンスと美貌で、鹿鳴館の花とうたわれた女たちがいました。
大山捨松・・・侯爵・大山巌夫人・鹿鳴館で結婚式を挙げる
戸田極子・・・伯爵戸田氏共婦人・公家岩倉具視の三女
陸奥亮子・・・伯爵・陸奥宗光婦人・ワシントン社交界の華


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洗練されたマナーと振る舞いで鹿鳴館を彩った貴婦人たち・・・
その中で、ひときわ見事なダンスを披露し、華族に評判となったのが
・鍋島栄子侯爵夫人・・・イタリア全権公使を務めた鍋島直大侯爵夫人です。













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栄子のダンスに色を添えたのが、華麗なバッスルドレスでした。

バッスルドレスは当時、欧米で流行しており、スカートに大きなふくらみがあります。

生地はボタン・菊の花びら・・・伝統的な小袖に用いる生地が使用されています。

和洋折衷、和魂洋才・・・明治の機運を表すような作りになっています。
国内では類を見ない貴重な遺品です。
江戸時代後期の武家の女性が好んだ小袖地に、華やかな色合いで刺繍された花々が咲き乱れています。

栄子は公家の娘で宮中に仕え、明治14年、25歳で嫁入りしました。
夫の鍋島直大は、36万石の大名だった旧佐賀藩主。
明治新政府のもとで、イタリア特命大使に任じられました。
二人が結婚したのは赴任先のローマ・・・
栄子は、公使夫人として2年余りをローマで過ごします。

イタリアに渡る前に・・・
・毎日1時間フランス語を学ぶ
・算術をすること
・習字・・・アルファベットの習得
・西洋服の習得

イタリア公使夫人となった栄子は、ヨーロッパの社交界にデビューします。
2年間のイタリア生活を終えて、明治15年に帰国、翌年鹿鳴館が開館します。
西洋仕込みのダンスと特別にあつらえたダンス・・・栄子は瞬く間に鹿鳴館の華となりました。
しかし、華族と言っても栄子のように脚光を浴びるのはごく一部の人でした。

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フランスの風刺画家ジョルジュ・ビゴーの描いた鹿鳴館の日本人は・・・

洋装に身を包んだ日本人が、鏡の中ではサルに描かれています。

鍋島直大・栄子夫妻は、外国人教師を招いて、ダンスの練習会を開き、社交界の担い手を育てようとします。

しかし、鹿鳴館時代は5年で幕を閉じます。




どうして華族は誕生したのでしょうか?
東京目黒にある邸宅・・・現在国の重要文化財に指定されている旧前田侯爵邸です。
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イギリスチューダー様式の邸宅は、地上3階地下1階、柱にはイタリアから取り寄せた大理石がふんだんに使われています。
外交官や皇族を招いて、度々晩さん会が開かれました。
前田邸は華族たちの社交場となったのです。
華族には生まれながらの特権がありました。
選挙を経ず貴族院議員となり、法律によって世襲財産は代々守られました。
江戸時代、加賀100万石だった前田家も、特権を享受しました。

華族はどのように誕生したのでしょうか?
それは、明治2年に出された一つの通達によるものでした。

”行政官達542号 公卿諸侯之称廃せられ 改めて華族と称すべし”

公卿とは公家、諸侯とは大名・・・江戸時代までの公家と大名をあわせて作られたのが華族でした。
この時、427の家が華族となりました。
どうして華族という階級が必要だったのでしょうか?
幕末までは、公家、諸侯でした。
徳川の代わりに新しい時代を作る時、天皇を持ってきました。
天皇の下に公家・・・しかし、その下に武家を持ってくるというのは出来ない・・・??
公家と武家が平等になるシステムを作らなくては・・・ということで、華族ができたのです。
同一身分にして、天皇中心の新しい華族を作るという考え方です。
明治17年7月7日、華族令が出され、五段階の爵位が作られました。
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵です。
華族制度を作った中心人物は、伊藤博文です。
伊藤は日本が近代国家に生まれ変わるためには、天皇を中心とした国の秩序が必要だと考えたのです。
頂点にいる天皇と、それを下で支える国民・・・
華族は両者をつなぐことを期待されました。
華族は天皇の”上流階級性”を実質化する為に必要だったのです。
頑張れば庶民でも天皇に近づける・・・??
伊藤博文は・・・
明治17年 伯爵
明治28年 侯爵
明治40年 公爵
となっています。

華族の爵位は天皇の名で授けられました。
鍋島直大に与えられたのは、24しかない侯爵家の一つとなりました。
直大・栄子夫妻の生活とは・・・??
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東京永田町にあった鍋島邸・・・三階建ての豪華な洋館でした。
大きなサロンや舞踏場もある大邸宅です。

落成記念の日、鍋島家にとって特別な人がやってきました。
菊の御門の馬車で現れたのは・・・明治天皇です。

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天皇行幸の図は、華族の役割を考えるうえで極めて興味深いものです。
向かって左側に天皇をお迎えする鍋島一族、新政府の要職を務める直大と公家出身の栄子・・・
共に天皇の信望が厚かったために、この行幸が実現しました。
目を引くのは、親戚たちの顔ぶれです。
宇和島藩主・伊達宗城伯爵、将軍家・徳川家達公爵、熊本藩主・細川護久侯爵、加賀藩主・前田利嗣侯爵・・・
錚々たる面々です。
華族は、家同士が姻戚関係のように網の目のように結びつき、閨閥を作っていました。

この時の行幸・・・
席次表・・・上座の中心には明治天皇が・・・随行の大臣、華族たちが脇を固めます。
向かいの席には直大たち・・・
華族には、爵位や特権と引き換えに義務がありました。
皇室の藩屏として皇室を守ることです。
この晩さん会は、明治天皇を華族が支えるという、まさに縮図でした。

・梨本宮伊都子妃殿下(鍋島伊都子)
伊都子は明治15年、鍋島直大侯爵・栄子の次女としてイタリア・ローマで誕生しました。
イタリアにちなんで、”伊太利亜の都の子”で伊都子となりました。
侯爵令嬢として何不自由なく育った伊都子が梨本宮殿下に嫁いだのは、数えで19の時でした。
当時、皇族の結婚には決まりがありました。

旧皇室典範(明治22年2月11日)第39条
皇族の結婚は同族 または 勅旨に由り 特に認許せられたる華族に限る

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皇族の結婚は、同じ皇族か特別な家族に限るとされていました。
戦後に皇室典範が改正されるまで続きます。
戦前の皇室制度は、華族の女たちに支えられ維持されてきたのです。
伊都子は二茅の娘をもうけました。
長女・方子は、大韓帝国の皇太子である李垠の后となります。
その結婚は、明治43年韓国併合をした日本は、朝鮮と一体化を進めるためでした。
波乱の人生を歩んだ方子は、戦後韓国に帰化しました。
鍋島家の栄子、伊都子、方子・・・三代の女性たちの生涯は、日本の近代歴史の写し鑑でした。

華族の流転・・・

・徳川義親侯爵
名古屋にある徳川美術館・・・
御三家筆頭尾張徳川家、第19代当主徳川義親侯爵が作った美術館です。
ここには、尾張徳川家伝来の品々が展示されています。
貯蔵品は、9つの国宝、59の重要文化財を含む1万点以上・・・
なかでも名品と名高いのは、国宝「源氏物語絵巻」です。
日本四大絵巻の一つで、平安時代末期に当時の宮廷で製作されたと伝えられています。
どうして義親は膨大な量の美術品を今に伝えることができたのでしょうか?
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徳川義親は、明治19年、越前松平家の側室の子として生まれました。
江戸時代のしきたりや生活が色濃く残る時代でした。
21歳で尾張徳川家に養子として入ると、直後に当主が死去。
義親は19代目の当主となり、若き侯爵となりました。

東京に義親が暮らした家が残されています。
現在は、美術館の運営管理などを行う財団法人徳川黎明会の事務所となっています。

義親は、北海道で熊狩りをした映像が残っています。
それは道楽ではなく、旧藩士たちの生活を守るためでした。
明治の代になり、職を失った旧藩士たちは、北海道西部に入植・・・開拓に苦心していました。
徳川家はその藩士たちの支援を続けていたのです。

開拓は成功し、村は八雲村と名付けられました。
現在の北海道八雲町です。

義親は変わった支援も行っています。
北海道土産の熊の木彫り・・・このルーツを作ったのが義親でした。
最初、熊の木彫りは、スイスのベルンで買ってきました。
北海道八雲・・・雪深い冬に、家でも出来る仕事を・・・という手段として木彫りの熊を作ってみては??と、見本を買ってきたのです。
木彫りの熊は、出来の如何にかかわらずすべて買い取りました。
義親は華族という特権に甘んじることなく、最後の殿様としての義務を果たしていたのです。
しかし、やがて家族に逆風が・・・。
第1次世界大戦後に起こった恐慌と関東大震災によって、長い不況のトンネルに・・・。

銀行が破たんし、株価は大暴落・・・それまで資産の運用だけで悠々自適に生活していた華族は、苦境に追い込まれます。
数百年にわたり、公家や大名家で守られてきた銘品の流転が始まりました。
華族は自立した仕事を持っていないものが多く、資産の運用では生活できなくなり・・・当時の成金が買っていきます。
次々に売られていく華族のお宝・・・。
大正時代の初めまで、華族の当主の6割が無職・・・資産を頼りに暮らしていました。
特権に胡坐をかいていたつけが回ってきたのです。
生きる道を探してもがく華族たち・・・
徳川義親も危機感を感じていました。
美術品の売り立て会場をたずねた義親・・・

”いずれにせよ、大名華族の没落の兆候がはっきりと出ていた
 ぼくの家でもそうならないという保証はない
 現在よくても時代が変われば持ちこたえられないこともあるはずだ
 時代の変化にともなう大名家の長楽は仕方がないとしても、
 大名家の歴史までが散逸し、消滅することは、淋しいことであった”

義親は行動を起こします。
お宝を手放しました。
売りに出したのではなく、財団法人を設立し、そこに寄付するという決断でした。
個人の財産から切り離すことで、お宝を守り抜く・・・そこには子孫たちへのメッセージがありました。

昭和10年、義親は徳川美術館を作り、伝来の品々を納めました。
さらに、義親の日記を見ると、他の華族の家宝も落札していることがわかります。

かけがえのない文化遺産を散逸させることなく後世に伝えようとした徳川義親侯爵・・・
しかし、その後の時代の流れは、華族に幸いするものとはなりませんでした。

女優・入江たか子・・・本名は、東坊城英子・・・子爵家の娘です。
父が亡くなり、関東大震災で家が半壊し、家計を助けるための女優デビューでした。
華族出身の入江のデビューは、世間を騒然とさせました。
様変わりしていく華族・・・消滅の時が近づいていました。

華族の消滅・・・

華族という身分のない現代では、子孫は皆が仕事を持っています。
宮中の文化を支えてきた近衛家・・・昭和に入り、違った思い務めを追うことになります。
30代当主近衛文麿・・・それは、日本が戦争に突き進む時代でした。
国を挙げて戦争に向かう日本・・・華族には大元帥である天皇に、軍人として尽くし、国民の規範となることが求められました。
しかし、進んで軍人となる華族は決して多くはありませんでした。
その中で、国民から軍部に至るまで幅広い支持を得ていたのが首相の座に就いた近衛文麿です。

・近衛文麿公爵
文麿は、父の死後12歳で近衛家の当主となり公爵となりました。
25歳で貴族院議員・・・若き公爵は政界のPrinceと呼ばれました。
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昭和8年、42歳で貴族院議長に就任。
翌年、アメリカ訪問の際には英語で演説。
日米友好を訴えながら、その姿勢は大国相手も物おじせず、堂々としたものでした。
政局が混迷を深める中、首相就任を待望する声が巻き起こります。
五摂家筆頭、天皇とも姻戚関係にある公爵に庶民は大きな期待を寄せます。

マスコミは連日、文麿を追います。
昭和12年、45歳の若さで首相に就任・・・
その1月後、北京郊外で日中戦争がはじまりました。
戦局は泥沼化し、アメリカは日本を痛烈に非難します。
近衛政権の下で、日米関係は悪化の一途をたどります。
昭和16年10月、第三次近衛内閣は突如総辞職・・・政権を投げだしたと批判を浴びます。
文麿に代わって首相の座に就いたのは、陸軍大臣だった東条英機でした。
その2か月後、日本は太平戦争に突入します。
首相を降りた文麿は、戦争早期終結に奔走するものの実を結びませんでした。
期待を一身に集めた華族政治家は、失意のうちに終戦を迎えます。
昭和20年12月16日、永久戦犯の容疑を受けた近衛文麿は、自ら命を絶ちます。
天皇に一番近い華族であった文麿は、敗戦後の天皇の行く末を案じていました。
しかし、それを見届けることなく55年の生涯を閉じました。

文麿が立てた用明文庫には、近衛家伝来の1000年以上にわたる家宝が納められています。
古文書や古美術品など、その数およそ20万点・・・!!
文麿は首相在任中の昭和13年、これらの永久保存を図るために、用明文庫を財団法人として設立しました。
徳川義親と同じ方法を選択したのです。
現在、国宝8点、重要文化財60点が含まれています。
近衛家の家宝が現代に伝えてくれる当時の日本の文化や暮らし・・・文麿が残したのは日本の歴史そのものでした。

文麿が亡くなったのは、用明文庫を設立して7年後・・・華族の終焉の時が近づいていました。
終戦から2年後の昭和22年・・・新憲法が施行されました。

日本国憲法第14条
華族その他の貴族の制度は、これを認めない

法の下の平等と共に、華族制度を認めないと明記され、明治から78年、華族という特権階級は、日本から姿を消しました。
貧富の差をなくすために財産税をかけ、個人の財産に対して最高税率90%が課税されました。
徳川義親の言葉・・・

「敗戦は華族階級を見事に没落させた。
 当然である。
 華族が皇室のためにも、国民のためにも、何の役に立っただろうか。
 旧大名と公卿の残骸が、ほそぼそと生きてきただけである。
 華族はいま、惨憺たるありさまである。」

戦後、市井の人となった華族の人々はどうやって生きたのでしょうか?
福岡県柳川に戦後をたくましく生きた元伯爵霊教がいます。
町の中心部に立つ洋館・・・立花伯爵家の邸宅です。

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立花家14代当主寛治が明治43年に建設した建物で、迎賓館として使われました。
木と漆喰を使った丁寧な作りで、居心地の良い邸宅です。
橘家は戦国大名として活躍した初代藩主立花宗茂以来、400年続く名家・・・明治17年の華族令で伯爵となりました。
戦前まで伯爵の一かが暮らしていた家もあります。
戦後、違う使われ方をします。
自宅であったものを料亭旅館となりました。

・立花文子伯爵令嬢
立花文子は、明治43年ねんに生れました。
伯爵令嬢として何不自由なく、しかし厳しい躾のもとに育ちました。
昭和10年、24歳で結婚。夫の和雄は婿養子として立花家に入りました。
媒酌人は大叔父の徳川家達公爵夫妻でした。
郷里柳川での披露宴・・・駅から立花家まで8キロの道程が柳川中のお祝いの人々で埋め尽くされました。
文子は柳川の人々のヒロインでした。
結婚後は林野局に勤めていた夫と共に全国を回ります。
お手伝いも置かず、料理、洗濯、掃除・・・すべてをこなしました。

終戦後、一家は柳川に帰郷・・・夫は林野局を退職し、立花家16代当主として家督を継ぎました。
華族制度が廃止になり、立花家は莫大な財産税に苦しめられます。
東京にあった不動産を整理しても借金が残ります。
6人の子を抱え、苦境に立たされた立花家・・・
思いついたのが、大きなお庭の御屋敷の使い道・・・
こうして昭和25年、料亭旅館「御花」がスタートしました。
女将となった文子は座敷にも出ます。
伯爵令嬢から180度の転換です。
文子の口癖は「何とかなるわよ」
明るく戦後を生き抜いたのでした。

奮闘したおかげで残った築106年の家・・・
二階には仏間があります。
立花家代々の先祖と、戦乱の世で命を落とした藩士たちの位牌が置かれています。

戦後、市井の人となった立花伯爵家・・・
その歴史と伝統は、華族の時代を経て脈々と受け継がれています。
華族の子孫の皆さんには、長い長い歴史が繋がっています。
そんな中で華族の歴史はほんの一瞬かもしれません。
しかしその間に、この国はずいぶんと形を変えました。
華族が誕生して150年・・・受け継がれてきたもの、消え去ったもの、その流れの先にある現代・・・そして未来・・・。

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