1989年・・・平成が始まった年、日本各地で大騒動が起きました。
小さな町に突如、1億円が・・・!!
「ふるさと創生1億円」は、全国の3245の市町村に国が一律1億円を分配し、自由に使ってもらおうという前代未聞の大事業でした。
日本中の役場の人たちが、1億円の使い道に頭を悩ませました。

全国の市町村に送られた1億円・・・
ふるさと創生1億円を掲げたときの総理大臣・竹下登・・・目指したのは地方の活性化でした。
当時、既に地方は過疎化が進み、寂れ始めていました。
人口や財政規模に関係なく、一律1億円が支給されました。
しかも、国は使い道に一切口を出さない・・・町や村に委ねられました。
様々なアイデアが飛び出しました。
全国で300市町村にのぼったのが温泉を掘るプロジェクトでした。
観光の目玉にしようと多額の費用をかけて掘り進めますが、明暗はわかれてしまいました。
他には村営のスナック、福井の恐竜博物館・・・歓喜と失意の中、批判も・・・その内幕とは・・・??
1億円事業とは一体何だったのでしょうか?

1988年12月21日・・・ふるさと創生1億円事業が全国に発表されました。
その担当大臣・・・自治大臣・梶山静六
梶山がこだわったのは、大きな町にも小さな村にも一律で1億円を分配することでした。
この前代未聞の事業は、どのようにして実現したのでしょうか?

「日本の40数年来、戦後培われてきたこの民主的な制度
 この根幹をなす地方自治の進展のために、全力を尽くしていかなければならない気持ちでいっぱいです。」by梶山

梶山は、武闘派で軍師の異名を持っていました。
自らの派閥の長・竹下登に総裁選立候補を促したときには・・・

「もし、竹下さんが立たないというんなら、俺は竹さんを刺し殺すよ」by梶山

そんな男がバラマキとの批判にも動じず、ふるさと創生1億円に突き進んだのはどうしてか・・・??
すべての始まりは・・・1987年竹下登内閣発足!!
竹下内閣で地方を管轄する自治大臣に任命されました。
地方を元気にすることは、梶山にとってライフワークのテーマでした。
茨城出身で、県議会議員からのたたき上げでした。
地方出身の田中角栄からも可愛がられました。
その後は、竹下派七奉行の一人として、政界ににらみを利かせます。

時代はバブル経済真っ盛り・・・ダブついた金を地方に回せないかと考えていました。
温めていた大胆不敵なアイデアを実行に移そうとしました。
大きい団体も、小さい団体も、一律の金を手にしたときに、何ができるのか・・・??
最初は10億円でした。
10億といえば、小さな村の年間予算に匹敵する額でした。
そのお金を一律全国の市町村に配るという前代未聞の計画でした。
梶山は、総理官邸で竹下との直談判に臨みます。

「一律10億円で3000市町村、総理の力でなんとか3兆円工面してもらえませんか」by梶山
「ずいぶんたくさん金が要るんだね。でも、その構想はいいなあ」by竹下
好感触を抱く梶山。

数日後、竹下からの返答を聞くために再び総理官邸へ・・・

「100億でどうだ?」by竹下

その意味を梶山は瞬時に判断しかねました。

「それって一市町村ですか?」by梶山
「いや、全部で」by竹下
「総理、それは駄目です。それではできません。
 もうちょっと何とかなりませんか」by梶山
「いやあ・・・大蔵省に話下ろしたら、最大限それくらいだって言うんだよね」by竹下
一律10億円どころか、一律300万円・・・??
この時代、予算の使い道に総理大臣でも大蔵省に逆らえない空気がありました。
特に竹下総理は、大蔵省の人の言うことには耳を傾けていました。

梶山は、どうしてそこまで地方活性化にこだわったのでしょうか?
そこには、原体験がありました。
19歳で戦地から帰ってきた梶山が、故郷で目にしたのは、戦死した兄を想い声を殺してなく母の小さな背中でした。
声をあげられない名もなき人々の支えになりたい・・・!!
しかし、永田町の情勢は風雲急を告げていました。
未公開株をめぐるリクルート贈収賄疑惑が持ち上がり、内閣にも火の手が及び始めていました。
もし、内閣が倒れれば・・・ふるさと創生計画も吹っ飛んでしまう・・・!!
急いだ梶山は、大蔵省から金を引っ張るのではなく、ある財源に目をつけました。
それは、自治省の財政局が管轄する地方交付税・・・地方公共団体の財源として、国から交付されるものでした。
県議会議員出身の梶山らしい目の付け所でした。
梶山は、懲りずに10億円と持ちかけます。
3000の団体に10億円ずつ交付税で出来るのか・・・??
そんなお金はない・・・。
大臣就任以来梶山に仕えてきた片山善博に、移動辞令が・・・その先は財政局でした。
片山は梶山と財政局との板挟みという苦しい立場に身を置くことになります。
片山は地方交付税の実情を踏まえて、落としどころを提案します。
「1億円で勘弁してもらいましょう」
財務局が1億円を受け入れたのです。
しかし、頑として譲らない条件がありました。
それは”一律”・・・。一律は、交付税の制度上、難しいものがありました。

段階補正・・・人口や財政規模に合わせて交付税の金額を決める仕組みのことです。
どの地域でも、一定の行政水準を維持するための算定方法が定められているのです。

「大臣、基本は1億円で行けます
 ですが、規模によって8000万から1億3000万ぐらいのばらつきがどうしてもできます」
「ダメだ
 すべての団体に、ぴっちり1億円やりなさい」by梶山

そこには、梶山の政治家としての思惑がありました。
すべて国任せに甘んじている地方自治の在り方に刺激を与えたかったのです。
地方は、国から言われたことは完璧にする・・・それは世界的に見ても稀な優秀さです。
しかし、自分で考えることに対しては苦手です。
皆考えて、うちの町で、どういうやり方をしたら一番いいのか・・・??
それを考えるきっかけにしたかったのです。
そんな梶山の想いを強くする出来事が起こります。
昭和天皇のご容体が悪化・・・町は自粛ムードに包まれ、笑い声が消えたのです。
世の中が暗い・・・一つぐらい前向きな何かがあってもいいのではないか・・・??

さらに、政界を揺るがすリクルート贈収賄疑惑で、竹下内閣の改造が秒読みに・・・そうなれば、自治大臣が代わることは間違いない・・・。
残された時間はわずかしかない・・・!!

1988年12月21日、ふるさと創生事業が発表されました。
地方交付税という名目で、すべての市町村に一律1億円を・・・!!
梶山の自治大臣退任の6日前のことでした。

会見で梶山はあえてこう言っています。

「200人の村だったら、みんなで相談して酒を飲んじゃってもいい
 50万円ずつ山分けしたっていいんだ」

しかし、最後にこうくぎを刺すことを忘れていませんでした。

「市町村長の見識は問われますぞ」by梶山

かくして、日本中に1億円が配られ、各地で壮大な知恵比べが繰り広げられることとなったのです。

全国の市町村がバラエティーに富んだ模索をします。

・島根県掛合町役場の人々
ここは、時の総理大臣・竹下登の故郷でした。
総理のおひざ元が何を使うのか・・・??
日本中から注目されることとなります。
島根県の山間にある旧掛合町・・・
人口4000余りの小さな村は、このふるさと創生事業にとりわけ頭を悩まされることとなります。

町役場の総務課長は・・・?
1億円をどう使うべきか・・・??
全国からマスコミが押し寄せ、注目の的となり、小さな町がひっくり返ります。

1987年11月、竹下政権が発足。
小さな町からの総理誕生に、掛合町は沸き返ります。
ところが、竹下内閣は国民から人気のない消費税導入を打ち出し、リクルート社の贈収賄疑惑も・・・
支持率は下がるばかり・・・その起死回生の策がふるさと創生一億円事業だったのです。

全国の市町村が、ユニークな使い方をして話題となります。
故郷の知名度を上げるために・・・!!
しかし、掛合町は、妙な使い方をして総理の地元は何をやっているんだと非難されることを畏れました。
慎重に・・・プレッシャーを感じながら、時間をかけて検討します。
重圧の中、彼らが選んだのは愚直なやり方でした。
各小学校区単位でコミュニティー協議会があったので、そこへ100万円ずつを交付して、それぞれが考えるというものでした。
そこから出てきたものをまとめ上げようとなります。

1989年3月、町の7つの地域にまず100万円ずつ配り、町民にアイデアを募ります。
そんな時・・・「好老」という文字が目に留まります。
竹下登が総理になるときに出た本に書かれていたのです。
「老いて尚好し」を意味する言葉です。
総理就任に当たり、自らの抱負を綴った著書の中に繰り返し使っていました。
誰もが向かっていく道・・・好老・・・
当時、掛合町の高齢化率はすでに20%でした。
全国平均の15年先を行く数字を指し示していました。
そして、少子化、若者の流出・・・
重く暗い未来予想図と正面から向き合い、そのために1億円使うことに決めました。
1989年12月、各地区から提案が上がります。
高齢者生活福祉センター、温泉源開発、スポーツ施設の充実・・・まさに老いて尚好しに欠かせないものです。
「好老の郷」づくりと名付けられます。
1億円を足掛かりに、足りない分は財政から補い、一つ一つ実現していこうという長期計画でした。

「安らかに生まれ、健やかに育ち、朗らかに働き、和やかに老いる」それは、人間の誰しもが思うことでした。

総合福祉施設”好老センター”をふるさと創生金から4000万円かけてつくります。
そこには当時まだ珍しかった高齢者デイサービスを導入。
切迫する町の高齢化に即した試みでした。
ただ計画の中には、町にそぐわないとやめたものも・・・屋内プール、モトクロス、テニスコート、アスレチック・・・それでも粘り強く考えます。
100万円で募ったアイデア・・・その中から生まれたもの・・・それは、今は全国に広がる”道の駅”です。
1993年道の駅””掛合の里””開業。
もともと国道沿いにあった特産品の販売所に、町の機能を集約しようと考えました。
地元の人が交流できる、会議ができる、飲食ができるような施設を・・・
子供や国道を通過する人が、立ち寄れるような公園を・・・。
地域の特産品を求めて人が集まる・・・
自分達の町をより楽しくするために考えたことが国に認められ、道の駅の第一号となったのです。
あれから30年・・・現在町の高齢化率が40%以上・・・好老センターは、忙しく動いています。

・福島県双葉郡葛尾村・・・1億円に救われた村
ふるさと創生事業から22年後に起きた東日本大震災・・・福島第一原発の事故で、周辺の住民たちは避難を余儀なくされました。
およそ600人の人々が村外に避難しました。
2011年3月11日、東日本大震災が発生。
地震と津波の影響で、福島第一原発全電源喪失・・・。
3月12日、福島第一原発から放射性物質が拡散。
政府は半径20km県内の避難指示を出します。
いつ、どこに避難すればいいのか・・・??
住民たちは混乱します。
3月15日、3度目の爆発!!
放射性物質がさらに広範囲に拡散することになります。
しかし、その前夜、葛尾村は全村非難を敢行!!
最悪の事態を免れます。
それを可能にしたのが、今も葛尾村の全家庭に置かれている白い機械・・・この機会の声が彼らを救いました。
震災が起こるまでは、人口およそ2000の農業と酪農が盛んな村でした。
30年前、この村も、ふるさと創生一億円事業に湧きかえりました。

過疎化、高齢化が進むのはどこも同じ・・・何に使う・・・??
1991年、中学校にコンピューター導入。
村の中学生に最先端の技術に触れてもらうためです。
およそ1000万円を計上し、1台約60万円の最新機種を16台購入しました。
しかし、当時はまだ東京でも文章を書くだけでのワープロが一般的でした。
パソコンは買ったものの活用できないまま2年が過ぎました。
ところが1993年、中学校の教員として赴任してきた先生が状況を変えます。
まだインターネットという言葉すら浸透していなかった時代、子供たちを巻き込んで自分たちの手で学校にネット回線を引き込みます。
この先生は、1987年~89年までアフリカ・ガーナに海外青年協力隊として勤務、アフリカで理科を教えていました。
田舎だからこそ、テクノロジーが意味を持つ!!
子供たちの学習を発信しようということで、プログラミングコンテストに応募!!
子供達と夜おそくまで頑張って、全国で最優秀賞に輝きます。
インターネット授業は、たちまち全国から注目を浴びるようになります。
都会に対して気後れしていた子供達・・・意識がみるみる変わっていきました。
電線一本で、全国や世界と繋がれる・・・!!
子供たちにとって大きな自信になりました。
中学校のIT教育が成功したことで、村全体のIT化が進んでいきます。
1998年には病院に通うのが困難な高齢者の遠隔医療が進められました。
そして、2009年、葛尾村は更なるIT化に・・・!!
村内のネットワーク・・・前世帯に光ファイバーを施設。
テレビの地デジ化の時期でした。
その工事費用に充てられたのが、ふるさと創生金・・・パソコンを購入した残りだったのです。

そして村全体を光ネットワークでつないだ時に、各家庭に設置されたのが小さな白い箱・・・IP告知端末です。
緊急の報せを受信でき、会話もできる・・・村を繋ぐホットラインです。
2011年3月11日、東日本大震災が発生したのは、ホットラインが完成した翌年でした。
地震発生翌日、政府は半径20キロ圏内に避難指示を発令。
しかし、葛尾村の場合、一部は20キロ圏内に含まれるものの、大部分がその外側に位置する為に役場も判断に迷っていました。
電話回線は途切れ、電気は通っていたものの山に囲まれた村では防災無線の届かない地域もありました。
その窮地を救ったのが、IP告知端末です。
震災直後からこれを使って村民の安否確認が行われました。
地震発生から3日後の3月14日、自主的に非難した村民もいたため、この時村にとどまっていたのは600人余り・・・。
夜9時・・・福島第一原発では内部状況が深刻化し、「事故対策本部が撤退」と伝わります。
ついに村長は、全村非難を決断します。
村長から支持を受けた職員が、全世帯のIP告知端末に向けて避難勧告を発信!!

「22時15分に役場前に集合
 直ちに福島市あづま総合運動公園に避難することを勧告する」

そして、わずか1時間で村に残っていた612人が避難に成功!!
事前に連絡していたので、安否確認ができていたからこその脱出劇でした。
ふるさと創生一億円は、22年後巡り巡って村の危機を救ったのです。

ふるさと創生一億円事業・・・バラマキ、無駄遣いと痛烈に批判され、負の遺産を生み出したこともありました。
しかし、多くの村や町が、1億円を前に故郷の未来を真剣に考えたのは確かなことです。

1989年一億円相当の金塊を展示し、日本の注目を集めた町があります。
現在の兵庫県淡路市・・・旧津名町です。
金塊は、1億円を担保に借りたものでした。
1億円はそのまま貯めてありました。
2010年金塊を返却。
今年、その1億円を使い切ります。
9900万円は図書館に・・・残りの100万円は金塊ラッピングバスに・・・。
2019年10月から運行を開始、市内を走り始めたばかりです。
いつ、どこを走るかは非公開です。
見れば幸運、乗れば金運がアップするんだとか。。。

当時は批判もあった金塊展示、それもまた街の活性化に利用しました。
ふるさと創生から30年、地方はしたたかです。

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