日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:楚

紀元前200年の中国大陸・・・
民に圧制を敷く秦帝国を倒そうと立ち上がった二人の英雄がいました。
ひとりは若きエリート将軍の項羽。
戦の天才と謳われ無類の強さを誇りました。
もう一人は農民出身の劉邦・・・この時すでに40歳を過ぎていました。

地方の小役人だった劉邦は、酒と女が大好きなダメおやじ。。。
項羽と戦っても負け続けた劉邦・・・そのたびに、命からがら逃げ続けました。
ところが、最後に天下を握ったのは劉邦でした。
人生の半ばでセカンドチャンスにかけた劉邦・・・皇帝に上り詰める奇跡の大出世を遂げます。
どうして天下をとれたのでしょうか・・・??

紀元前221年、圧倒的な武力で史上初めて中国を統一した秦の始皇帝・・・しかし、秦は、万里の長城や始皇帝陵などの建設など、民に重い負担を強いて各地に反乱を招きました。
そうした民衆を率いたのが劉邦です。
しかし、彼は40過ぎまで自他楽な生活を送っていました。
そんなダメおやじが、どうしてリーダーになったのでしょうか?
劉邦は、現在の北京と上海の間の農村地帯・沛県に生れました。
紀元前91年ごろに完成した中国の歴史書「史記」によると・・・
農家に生まれた劉邦は、家業を嫌い定職にも就かず、酒と女が大好きな自他楽な生活が好きなダメおやじでした。
そんな劉邦・・・一つだけ長所がありました。
それは人相です。
花が高く、美しい髭を蓄えた竜顔の持ち主でした。
竜顔は天子の顔と言われ、徳の高い証でした。
そのせいか、彼がただ酒を飲んでいるだけで人が集まってきました。
そんな不思議な魅力を持つ男でした。
劉邦はその人望を買われて地方の小役人となり、結婚・・・
しかし、40歳を過ぎた頃、劉邦の運命は大きく変わることとなります。

紀元前210年、秦の始皇帝が死去・・・
これをきっかけに重い税と過酷な労働を強いていた秦に対し、各地で反乱が起きました。
各地で起きた反乱勢力は、やがてかつて秦に滅ぼされた楚に集まりました。
そして国王を擁立して楚を復活させ、反乱軍の中心にしました。
この時、劉邦も反乱に加わり、反乱軍のリーダーの一人となっていました。
軍といっても劉邦のもとに集まったのは、戦の経験もない農民たち・・・寄せ集めの集団でした。
楚に続々と集まってくるリーダーたち・・・楚の国王は宣言します。

「先に関中を平定したものをその地の王とする」と。

関中とは、秦の都を中心とする地域で、その王になるということは秦帝国を滅ぼすことを意味していました。
王の地位を夢見た劉邦は、打倒秦を目指して、早速関中を目指します。
そこに立ちはだかったのが、最大のライバルである項羽でした。
項羽・・・今も絶大な人気を誇る武将です。
項羽はこの時20代の若武者で、祖父はかつての楚の将軍というエリートでした。
身長180cmを超える大男で、頭がよく、力持ちだったといいます。
圧倒的な武力を誇る項羽軍は、まず秦の主力がいた城に向かって北上します。
そして、秦の主力20万人と激突!!
しかし、項羽の兵はわずか2万・・・賭けに打って出ます。
項羽は自分たちの乗ってきた船を川に沈めました。
三日分だけの食料を残して捨てさせます。
もはや・・・負けたら死ぬしかない・・・自軍をわざと窮地に追い込んで、兵士の力を引き出す作戦です。
楚の戦士は、一人で10人の敵を相手にしました。
その雄たけびは、天をも動かすほどでした。
追い込まれた項羽の兵はすさまじく、10倍もの進軍を撃破!!
しかし、項羽のすさまじさはこれにとどまりませんでした。

「秦軍をすべて生き埋めにしろ!!」

戦いで捕らえた20万人の兵を生き埋めにしたのです。
項羽の強さと残虐さは、この戦いで知れ渡ったといいます。

一方、南側から秦の都を目指した劉邦軍の戦いは、項羽の軍とは対照的でした。
劉邦軍が秦の南の拠点に迫った時・・・反乱軍の勢いに押され、秦の終わりを悟った司令官は命を助けてくれるのなら降伏すると和平を持ちかけてきたのです。
それに対し劉邦は一言こう言いました。

「善」

劉邦が秦の民に対して”力で抑えるのではない””人を殺すのではない”という認識を与えました。
劉邦軍は寛大だという噂はすぐに広まり、秦の拠点は次々と劉邦に降伏していきました。
その結果、劉邦は項羽よりも早く秦の都に到着し、王の権利を得ます。
すでに主力軍を失った秦王に抵抗する力はなく、劉邦に降伏・・・
ここに秦は滅亡するのです。
この時、劉邦は秦王の命はとりませんでした。

「楚王が私を派遣したのは、私の寛容さに期待してのこと、それを裏切ることはできない」

敵の命乞いには寛容だった劉邦ですが、聖人君子だったわけではありません。
秦王朝の財宝や美女たちを手あたり次第漁ろうと、喜び勇んで宮殿に入りました。
軍師の張良が劉邦を諫めます。

「天下のために動こうとするならば、目の前の快楽に我を忘れてはなりません
 それは暴君のすることと同じです」by張良

張良は、戦の素人集団を支えた名軍師でした。
劉邦は全幅の信頼を寄せていました。
張良の言葉を聞き、劉邦は略奪はせずに宮殿を出ます。

項羽より先に秦の都に入った劉邦・・・事前の約束では劉邦が王になるはずでしたが、項羽が猛反発!!
武力行使に出ます。
そして迎えた項羽と劉邦の直接対決・・・劉邦は項羽と何度も対決して、何度も負けています。
どうして項羽に負け続けたのでしょうか?
秦の都に一番乗りした劉邦は、
「項羽が都に入れないようにするべき」という部下の意見を聞き入れ、都への入り口を封鎖。
項羽を締め出しました。
これを知った項羽は激怒・・・!!
劉邦に後れを取ったとはいえ、秦の主力を倒した我こそ王になるべきなのに・・・!!

「劉邦を討つべし!!」

項羽は劉邦が封鎖していた都の入り口を突破!!
宮殿の外に、屈強な40万の兵を揃えました。
劉邦軍がわずか10万・・・!!
圧倒的な戦力の差を見せつけられた劉邦は、戦わずして負けを認めます。
みずから項羽の陣へ赴きます。
劉邦は、項羽に臣下の礼をとってこう言いました。

「私は、項羽将軍と力を合わせて秦を攻めました。
 ところが、思いもよらず私が先に都に入ることになってしまったのです。」

自分はあくまで項羽の部下であり、野心がないことを訴えます。
この時、項羽の軍師は、劉邦は危険だと進言します。

「かつて欲が深かった劉邦が、宝物にも女にも手を付けていない・・・
 これは、まさに劉邦の天下取りの志が小さくないということの現れです。
 今のうちに劉邦を亡き者にすべきです。」

項羽の軍師は劉邦を宴に招き、事故に見せかけた暗殺計画を立てます。
宴もたけなわになると余興の演舞始まります。
劉邦に華麗な舞から鋭い切っ先が迫ります。
飛び込んできたのは、危機を察した劉邦の部下でした。
異様に張り詰める空気・・・その時項羽は・・・ 

「壮士なり」

身を挺して守ろうとした部下の勇気を称え、項羽は肉と酒を与えてもてなしました。
劉邦はその隙に厠に行くふりをして逃走・・・!!

その数日後、項羽は清の都に入城!!
項羽のやり方は、劉邦とは真逆でした。
秦の王や王族を殺し、宮城に火を放ったのです。
都を焼く炎は、三か月続いたといいます。
その後、項羽は西楚を本拠地としました。
自らを「西楚覇王」を名乗り、18人の王に領地を分割!!
この時、劉邦も王として土地を与えられました。
しかしそこは、山ばかりで作物の育たないへき地でした。
項羽の横暴な振る舞いはエスカレート・・・楚の帝を殺害します。
あまりに無道な行いに対し、諸侯の怒りが噴出します。
反項羽の機運が高まるのを感じた劉邦は”打倒項羽”を諸侯に呼びかけます。
すると、続々と劉邦のもとに集まってきて・・・その数56万人の連合軍となりました。
西楚を攻撃します。
この時、項羽は遠征に出ていて留守だったために、連合軍が圧勝します。
勝利に意気上がる連合軍・・・占領地では略奪が横行し、酒宴に明け暮れる兵士が続出します。
これは劉邦の主義に反する行為ですが、劉邦に統制をとる力はありませんでした。
そんな中、劉邦が恐れていたことが・・・
項羽が遠征から戻ってきたのです。
項羽は3万の精鋭で連合軍を攻撃!!
勝利に気が緩み連合軍は10数万人が戦死しました。
項羽の追っ手に迫られた劉邦は、馬車から自分の子どもを蹴り落して逃げたといいます。
劉邦は3度も子供を蹴り落しましたが、その都度部下が馬車を止めて子供を拾い馬車に乗せました。
命からがら逃げかえった劉邦・・・自らの領地に戻ることもできずに、味方を求めてさまようことに・・・。

戦に負け続け、決して強くはない劉邦を支えたのが漢の三傑と言われた男たちでした。
優れた政治力で領地を治め劉邦軍を陰で支えた蕭何、的確な策と助言で劉邦軍を勝利へと導いた軍師の張良、劉邦が戦場で全幅の信頼を寄せる代将軍の韓信・・・どうして劉邦は自分よりも優れた者に慕われたのでしょうか?

連合軍が大敗北を喫したのち、劉邦は単独で項羽に向かうも負け続け、ジリジリと戦線を後退させていきました。
このままでは項羽に攻め滅ぼされてしまう・・・
そこで散り散りになった味方を集めるという任務に一人の男を抜擢します。
それが韓信です。
劉邦軍最強と称えられる韓信ですが、実は元項羽の部下でした。
韓信は何度も項羽に献策しますが、聞き入れてもらえません。
項羽に愛想をつかし、劉邦のもとにやってきたのです。
そんな韓信の勇猛ぶりは・・・
ある戦いで、20倍の敵を目にした韓信は、驚くべき行動に出ます。
川を背にしてわざと逃げ場のないところに陣を敷いたのです。
常識では考えられない無謀な行い・・・
後退すれば川に落ちて死ぬ・・・
ならば、攻めて前に出て討死しよう!!
死に物狂いで戦う韓信の軍は、遂に20倍もの敵を蹴散らしました。
韓信の戦いは背水の陣の言葉のもとになったといいます。
部下は、劉邦にこう進言します。

「韓信は、一国に二人といない優れた人物、国士無双です。」と。

劉邦は、韓信が項羽軍の武将であったにもかかわらず、大将軍に抜擢するのです。
劉邦が韓信に与えた使命は・・・
当時、項羽に恐れをなし、劉邦の連合軍から離脱する諸侯がたくさんいました。
韓信は、兵を率いて彼らを攻め、武力で従えて再び劉邦軍に参加させました。
諸国を回り敵を次々と従えていく韓信・・・遂に斉まで制圧・・・しかし、この時劉邦に韓信から意外な手紙が届きます。

「斉は嘘つきでこれまで裏切りを繰り返してきた国です。
 ついては私を仮の王にでもしていただかないと斉を治めることはできません。」

斉を従えるどころか、自ら王になりたいと言い出した韓信・・・
模試や裏切りでは・・・??と、激しく憤る劉邦。。。
しかし、この時、張良が劉邦に助言しました。

「ここは韓信を信じて望み通りになさいませ」

そこで劉邦は、韓信に意外な返事をします。

「有能な韓信が諸侯を平定したのだ
 仮の王とは言わず、真の王になるがよい」

これまでの働きを考えれば、お前が王になる資格は十分にある・・・この劉邦の計らいに、大いに感動する韓信。

「私の策を信じ、採用し、大将軍にもしてくれた
 すべては劉邦様のおかげ」

韓信がこうして国々を巡っていた頃、劉邦は広武山で項羽の進軍を食い止めていました。
広武山は、天然の要害で、さすがの項羽軍の攻めあぐねて膠着状態になっていました。
戦いが長引いたことで、項羽には焦りが生じます。
率いてきた数十万の兵士の食料が尽きかけていたのです。
遂に項羽は広武山の断崖に立ち、劉邦に呼びかけます。

「何年もの間、天下が乱れているのは、私たち2人のせいだ
 これ以上、民を苦しめるべきではない
 1対1で決着をつけようではないか」

しかし、劉邦は笑ってとりあいませんでした。

「力勝負はしない・・・!!」

つづけて劉邦は、項羽を激しく断罪します。

「項羽よ、お前はかつての秦の都に入り、暴虐非道の限りを尽くしこれを焼き払った
 お前はかつて、自分勝手に領地分けを行い、私を辺境の地に追いやった
 おまえはかつて、自らの主君たる楚の帝を殺した
 どれも天下の誰もが許すことのない極悪非道の罪である」

項羽の非道を堂々と断罪した劉邦・・・この言葉に共鳴した諸侯が次々と合流・・・
そして韓信は、30万もの見方を率いて劉邦のもとに向かっていました。

睨み合いを続ける劉邦と項羽・・・食糧は尽きかけ、不安が募ります。
しかし、劉邦軍にはその心配がありませんでした。
それは、三傑の一人・蕭何がいたからです。
領国の土地を豊かにし、民を増やし、前線に食料を送っていました。
当時の戦争で最も大事なことは、戦場の局面ではなく後方からの補給でした。
食糧がなければ戦争はできないのです。
項羽軍の弱点は、補給が不足していたことです。
1年が過ぎるころには、項羽軍は深刻な食糧難でした。
そのため、兵力の体力も士気も下がってしまう・・・。
ついに項羽は劉邦と和平を結びます。
本拠地に戻って立て直そうとしたのです。

撤退を始めた項羽軍・・・ようやく故郷に帰れると、兵士たちはホッとしていました。
しかし、劉邦軍では

「今こそ、項羽軍を討つ好機です」by張良

劉邦は約束を破り、項羽軍に追撃をかけました。
不意を突かれた項羽軍は総崩れ・・・項羽は何とか追撃を逃れ垓下にたどり着きます。
古くからあった城に籠城します。
この垓下城は、詳しい場所がわからず、真偽のほどはわかりませんでした。
が、2007年実際にあったことが確認されています。
項羽が籠城した城は、川と堀に囲まれた小高い丘にあり、東京ドーム4個分の難攻不落の要害でした。

劉邦は、籠城する項羽軍を幾重にも包囲・・・城は簡単には落ちそうにありません。
そこで劉邦は・・・??
何十万もの劉邦軍の兵士に、項羽の故郷・・・楚の国の歌を歌わせたのです。
東西南北・・・四方から聞こえる楚の歌を聞いた項羽は・・・

「なんと楚の人が多いことか・・・
 楚はすべて、劉邦の手に落ちてしまったのか・・・??」

項羽は楚の国が陥落し、楚の民が劉邦軍のものになったのだと思い込んで涙を流したといいます。
四面楚歌という言葉はこれから生まれました。
追いつめられた項羽軍は残りわずか・・・食料も尽きようとしていました。
項羽は800の兵を率いて城を出ると、劉邦に最後の戦いを挑みます。
しかし、やがて力尽き・・・長江のほとりで自害して果てました。
31歳・・・紀元前202年のことです。

何度も負け続け、しかし、最後に勝利した劉邦・・・
後に劉邦は天下をとれた理由についてこう語っています。

「わしは張良のように策を巡らし、戦場の勝敗を決することはできない
 わしは蕭何のように民を愛し、食料の供給を絶やさず安心させることはできない
 わしは韓信のように軍を率いて戦いに勝つことはできない
 だが、わしはこの3人の英傑を使いこなすことができた
 これが、わしか天下を勝ち取った理由だ」

紀元前202年 劉邦が皇帝に即位。
その後400年続く漢の誕生です。

しかし、皇帝となってからの劉邦は、人が変わったかのように冷徹な行いをしました。
劉邦は部下やかつての連合軍の諸侯たちに反乱、逃亡、暗殺などの疑いをかけ、部下たちを粛正していきます。
部下たちのおかげで天下を取ったのに・・・。
その矛先は、打倒項羽の立役者・韓信にも向けられました。
韓信に謀反の疑いをかけて位を奪い斬殺!!
漢王朝をひらいてから7年・・・仲間の粛正を重ねる中、劉邦は戦いでできた傷が元でその生涯を終えます。
62歳でした。

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中国の広大な大地に生きた英雄たち・・・
天下統一の夢、渦巻く謀略・・・その伝説とは・・・??

広大な中国を統一した秦の始皇帝・・・紀元前210年に世を去ります。
再び戦乱の世が訪れました。
天下を手中に治めようと、二人の英雄が熾烈な戦いを繰り広げます。

”項羽と劉邦”です。

項羽はこの時、20代の前半・・・
その後、70以上の戦いに勝利した中国史上屈指の戦の天才でした。
一方、劉邦は50歳間近・・・連戦連敗で、いつも負け続けていました。
戦いに敗れて逃げる時、我が子を見捨てて逃走するという逸話も残っています。
しかし、最後に勝利を掴んだのは劉邦でした。
劉邦は天下を統一し、漢王朝の皇帝に即位します。
その後、2000年にわたり、中国の国家体制の基盤となった漢の開祖となったのです。
どうして劉邦は、勝利したのでしょうか??
戦の天才、項羽はどうして敗れたのでしょうか??
その秘密は、始皇帝の兵馬俑に隠されていました。

長江の下流にある宿遷は、英雄・項羽の生誕の地です。

項羽は真っ直ぐな生き方をした人で、その潔さに共感を覚えます。
劉邦はつかみどころのない、凡庸でつかみどころのない人物に見えますが、その劉邦にどうして項羽が蒔けたのでしょうか??

後に、楚の国の覇王となった項羽・・・
項羽の一族は、代々楚の国の将軍を務める名門でした。
項燕・・・項羽の祖父は、楚の大将で、軍の最高責任者でした。
楚は、かつて長江流域に強大な勢力を誇った大国でした。
しかし、項燕の時代に秦に滅ぼされます。
始皇帝の死後・・・各地で反乱が勃発!!
その反乱をまとめ、打倒秦の中心勢力となったのです。
復興を目指した楚の国・・・その反乱軍の先頭に立ったのが、項羽でした。
項羽は・・・
「楚の人間は、三戸と雖も 秦を滅ぼすは必ず楚なり。」といったと言います。
三人になっても、秦を滅ぼすまで戦う・・・と。

一方劉邦は・・・同じ楚の生まれ・・・金劉村に生まれています。
曽祖父の名は”劉清”・・・戦乱の世、この村に逃げ込んで、農業を始めたと言われています。
劉邦は、その家の4人兄弟の末っ子として生まれました。
そして、劉邦は下級役人を務めていました。

司馬遷の「史記」・・・
そこには、村役人だったころの劉邦について・・・
酒と色を好み、いつも酔いつぶれていたとあります。
ところが、40代後半の頃・・・運命を変える事件が起こります。
村にほど近い芒碭山・・・劉邦は、この山の麓で農民たちを連行していました。
始皇帝墓の建設に向かわせるためでした。
しかし、その道中に農民たちが逃亡・・・劉邦はその責任を問われることを恐れ、山に立て籠ります。
この窮地を救おうと、劉邦を慕う村の農民たちが集まりました。
この事件をきっかけに、心ならずも反乱軍に身を投じることとなってしまった劉邦。
紀元前208年、秦に対する反乱が各地で勃発していました。
斉・魏・趙など、秦に滅ぼされた国々が次々に立ち上がります。
そして、秦軍は、その鎮圧に手を焼いていました。
反乱軍の中で最大勢力となった項羽の軍は、楚を出て秦の都・咸陽を目指します。
黄河の支流・漳河が流れる河北省・鉅鹿・・・項羽はここで反乱鎮圧のために来ていた秦の主力軍と遭遇します。

紀元前207年・・・鉅鹿の戦いです。

項羽の軍と秦の軍の命運をかけた一大決戦・・・項羽の軍は、勢力的に圧倒的に劣勢でした。
秦軍は、軍備を整えた正規軍・・・兵力は20倍でした。
しかし、劣勢だった項羽の軍が勝利を治めます。
「史記」によると・・・項羽は船を沈め、釜を破った・・・
つまり、川を渡って戦いに挑む項羽軍・・・。
全軍が川を渡り終えると船をすべて沈め、兵士たちの退路を断ったのです。
3日分残っていた食料を捨て、釜を壊したのです。
項羽は兵士たちに、生きては帰らないという覚悟を求めたのです。
数にものをいわせて、波状攻撃を繰り返す秦軍をことごとくはねのける項羽の軍・・・。
秦軍は降伏しました。
史記には、楚の兵士たちが10倍の働きをしたと書いています。
項羽は指揮官としても、一人の戦士としても、極めて高い能力を持っていました。
その強さにけん引されて、兵士たちも十二分の力を発揮したのです。
その強さが魅力的なのです。
中国全土に、項羽の強さがひびき渡ります。
同調し、増えた軍は、40万の大軍にもなりました。
山に立て籠っていた劉邦は、農民や流民たちを引き連れて、項羽の配下の軍に入ります。
戦闘経験の乏しい劉邦の軍は、秦軍との正面衝突を避けながら、西へと進んでいました。
そして、ある戦い・・・南陽の戦いをきっかけに、急速に力を伸ばします。
南陽を包囲していた劉邦の軍に、項羽が鉅鹿で勝利を治めたとの知らせが・・・!!
母国の滅亡が近いと悟った秦軍は、戦意を失います。
降伏を願い出た兵士たちを劉邦は許し、戦わずして城を手に入れたのでした。
投降した秦の兵士たちを使い、劉邦は他の秦の城へ投降を呼びかけます。

「史記」によると・・・
西に進む劉邦軍・・・それを前に、降伏しない者はなかった。。。
敵をも許す劉邦の戦略・・・噂は広がり、次々と投降・・・およそ3か月で、劉邦軍は10万の大軍勢に・・・!!

項羽もまた、勝利を重ねるたびに破った秦の兵たちを軍に加えていました。
しかし、項羽の投降兵に対する姿勢は、劉邦のそれとは違っていました。
河南省・義馬二十里村には、項羽の伝説が残っています。
村はずれに、項羽がほらせた穴・・・楚坑があります。
今から10年前・・・大量の人骨が出てきました。
「史記」によると・・・
秦の兵士20万人、生き埋めにしたとあります。
項羽の軍に投降した秦に兵士たちは、危険な任務を強いられていました。
不満を持つ兵士たちの間に不穏な空気が・・・反乱を恐れた項羽は、秦の兵士たちの処刑を命じました。
20万の兵士たちを生き埋めにしたのです。
秦を倒すために、軍の統率を一番に考えた項羽・・・
その目的のために見せた厳しさでした。

紀元前207年・・・秦の兵にはもはや抵抗する力は残っていませんでした。
劉邦が戦わずして秦の都・咸陽に入ります。
項羽も入城しました。
西安・・・かつて秦の都・咸陽があった場所で・・・兵馬俑が発見されました。
兵馬俑は、秦の始皇帝が、自らの墓を守るために作らせたものです。
それぞれは等身大で作られ、始皇帝の軍団を忠実に再現しています。
項羽と劉邦がこの都に入ったのは、兵馬俑が完成してすぐのことでした。

兵馬俑には謎があります。
黒い跡・・・天井を支えていた木材が燃え、崩れた跡だと考えられます。
さらに、一部の兵馬俑に、不自然な赤い色が・・・
兵馬俑が赤く変色している原因は・・・??

何者かが火をつけた・・・??
「史記」には・・・項羽は、秦の王宮に火を放った!!とあります。
その火は、3か月消えることなく燃え続けました。
中国全土を支配した帝国の都が、廃墟と化したのです。
この時、兵馬俑も燃えたと考えられます。
さらに・・・兵馬俑には何かを握りしめているかのような手・・・
手首から先が不自然に失われているものも・・・断面は、鋭い刃物で断ち切られたかのようです。
右手には戟・・・本物を持っていたようです。
8,000体の殆どが武器を持っていたと考えられますが、発見されたのは170しか出土されていません。
武器は、押し入った者たちによって持ち去られた可能性があり・・・項羽が命じたと考えられます。

「史記」には・・・項羽は秦王の墓を暴き、密かに財物を盗んだ・・・と。

かつて、祖国の楚を滅ぼした秦・・・その秦の栄光を徹底的に破壊したのです。

楚の国・・・秦とは違う独自の文化を築いていました。
楚に赴任した秦の行政官の文章が残っています。
”自分の習俗に固執して勝手な振る舞いをする者が後を絶たない・・・”と。
ここには従わないものが多い・・・。

根底にあるのは、秦に対する恨み、つらみ・・・楚の復活のために、秦と徹底的に戦う!!倒す!!という気持ちでした。

一方、咸陽に入城した劉邦は・・・項羽の意向を無視し、独自の方法で咸陽を支配しようとします。
「史記」によると・・・劉邦は王宮から秦の文書を持ち出し、項羽の目につかないように独り占めしました。
劉邦は、支配する規範である人々の実態を正確に掌握しようとしました。
更に劉邦は、どうすれば咸陽の人々の支持が得られるのか・・・計算していました。
部下の略奪行為を厳しく取り締まることで安心感を与え、心を掴もうとしたのです。
あいついで咸陽に入った劉邦と項羽・・・二人は全く違っていたのです。

紀元前207年咸陽陥落で秦は滅亡・・・
項羽は西楚覇王を名乗ります。
楚の復活を天下に告げたのです。
項羽は中国全土を18に分け、秦討伐に活躍した将軍などに分け与えます。
中でも最も功績をあげた劉邦・・・しかし、彼に与えられたのは・・・陝西省の厳しい山間の褒斜道・・・劉邦はこの道を通って与えられた領地に向かいました。
中央から離れた地に遠ざけられた劉邦のエピソードから「左遷」という言葉ができました。

劉邦がたどり着いたのは漢中・・・ここから、劉邦は自らの国を漢と名付けました。
漢は山が多く、農地の少ない貧しい土地でした。
漢の国で、再び進出する機会を狙っていた劉邦・・・

項羽が・・・自らの権力を盤石にするために、楚の王族を長江で殺害したのです。
この事件を巧みに利用する劉邦・・・各地に伝令を走らせます。

「項羽は大逆無道である・・・!!」劉邦は、項羽に戦いを挑むのです。

紀元前205年彭城の戦い・・・二人の初めての対決です。
圧倒的な項羽・・・強さを発揮!!
これに挑んだ劉邦の軍は打ち砕かれます。
十数万の兵を失い敗走する劉邦・・・
「史記」には・・・逃げる馬車から劉邦は実の子供をけり落した。けり落すこと3度に及んだ。。。
劉邦の惨敗でした。

河南省滎陽・・・黄土高原丘陵地帯が続きます。
戦いの4か月後、この地に逃げ込んだ劉邦・・・起伏にとんだ地の利を生かし、項羽の追撃をかわそうとしました。
その後、戦いは膠着状態となり3年・・・
北に黄河を望む渓谷・鴻溝・・・ここを挟んで項羽と劉邦二つの勢力が睨み合っていました。
漢王城村・・・ここに劉邦が陣を構えたといいます。
今は500mほどしか残っていない城壁は、当時は20kmありました。
黄河の激流で山すそが流され、城壁も埋もれてしまったのです。
3年間・・・劉邦の軍は、項羽の軍に圧倒されていました。
項羽がいないすきを狙って攻撃したり、項羽の配下を買収したり・・・
策を練るも歯が立ちません。
「史記」には、劉邦は逃げてばかりだったとあります。
項羽の陣地は、谷を挟んだ山の上にあり、覇王城と呼ばれていました。
この頃の項羽は連戦連勝でした。
しかし・・・項羽の敗戦の目はこの頃にあった・・・??

垓下古戦場址・・・
長い間膠着状態だった二人が雌雄を決する時が来ました。
紀元前202年天下分け目の決戦・・・垓下の戦いです。
勝利を確信して戦場に発った項羽は驚愕、見たこともない劉邦の大軍勢が現れたのです。
それまで歩兵中心だった劉邦の軍に、精鋭の騎馬部隊が加わっていました。
兵力も、項羽の軍の6倍・・・60万を超えていました。
思わぬ苦戦を強いられる項羽・・・初めて劉邦の軍が優勢に・・・!!
どうして劉邦の軍が急に勢力を増したのでしょうか?
劉邦の軍を伝える兵馬俑があります。
その数3,000以上・・・劉邦と共に垓下で戦い、後に漢王朝の将軍となった周勃の墓から出土しました。
この中に、中国中心部・・・中原の兵士とは違う兵馬俑がありました。
頭の後ろに髪を束ねていて・・・中国の西南部の少数民族・苗族独特の風習です。
劉邦軍には、少数民族の兵士も加わっていました。
苗族は勇猛で名高い戦士でした。
騎馬兵も・・・細面の小柄な体格から、今の甘粛省周辺の遊牧民族と思われます。
彼らは、馬上から弓を射る技術に長けていました。
騎兵の存在は、劉邦の軍の戦力を向上させました。
滅ぼされた秦の兵士たちも・・・
劉邦は様々な人々を一つの軍にまとめ上げていたのです。
大きく姿を変えた劉邦の軍・・・
劉邦は彭城の戦いで敗れて3年・・・負け続けた間に信頼する家臣の韓信を戦場から遠く離れた地方に・・・!!
韓信が遠征した地域を平定し、その兵を劉邦の配下としたのです。
この時大きな力を発揮したのは、軍事ではなく行政の仕組みを駆使する劉邦のしたたかな戦略でした。
1984年に出土した竹簡・・・発見されたのは、当時の劉邦の部下だった者の墓でした。
解読の結果、律という法律を隅々まで行きわたらせ、支配の安定を図っていたのです。
劉邦は、戸籍で出自や年齢を把握し、徴兵を課していたのです。
劉邦にあって項羽になかったもの・・・それは、民の実情を把握することで、全ての民の力を戦力とする周到な戦略でした。

垓下の戦いは幕を閉じようとしていました。
項羽の軍は食料も尽き、60万の劉邦の軍に幾重にも包囲されていました。
夜になって・・・項羽の耳に四方から歌声が聞こえてきました。
祖国・楚の国の歌でした。
項羽の反応を史記は・・・
楚の国は、実際には滅びていなかったものの、項羽はすでに楚の国が落ちたと思い込んだ。
そして、劉邦の軍に楚の国の人が多いことに失望し、戦意を喪失した。
項羽の軍の兵士たちも敗北を確信し、逃亡し始めました。
今まで勝利をし続けてきた項羽の最初の敗北でした。
四面楚歌です。

項羽の敗北・・・その理由は、劉邦の部下が残した兵馬俑にも残っています。
兵馬俑の衣装は・・・膝の上までしかない短い衣・・・これは、楚の服です。
稲わらで作った靴は、長江流域出身であることを示しています。
史記によれば劉邦は、項羽のもとにいた武将たちに、領土と引き換えに寝返るように働きかけていました。
兵馬俑の数からは、楚の兵士たちだけで一つの部隊が作れるほどでした。
自らの力で運命を切り開いてきた項羽でしたが、部下の離反を止めることはできませんでした。

四面楚歌の項羽はついに最期を悟ります。

やがて項羽は長江のほとりで自らの命を絶ちました。

項羽が命を懸けて再興を願った楚の国・・・
2006年項羽の一族が仕えた楚の王とみられる墓が発見されました。
「熊家塚遺跡」です。
その車馬坑は・・・縦133m横12m・・・中国最大の車馬坑です。
43台の馬車や戦車、164頭の馬が発掘されています。
これは、馬車や戦車を連ねて領地を視察する楚の王を表していると言われています。
出土した6頭立ての馬車は、王の物と考えられています。
古代中国では、6頭立ての馬車は、天下に君臨する王朝の支配者しか許されないものでした。
死後の世界でその馬車に乗ることを願った楚の王の夢・・・
それは、項羽が追い求めたものでもありました。
楚の国の名門に生まれ、楚の国の復興を託され、そして、楚の国の夢を一身に背負って生きた項羽。
戦乱の時代に産み落とされ、短くも強力な光を放った英雄でした。

西安・・・かつて漢の都・長安が置かれた場所です。
紀元前202年・・・劉邦は、周囲に押される形で皇帝に即位。
漢王朝を開きました。
国づくりにあたって劉邦は、一族や後進に土地を与えて諸侯とし、一定の権力を許すことで王朝の安定を図りました。
漢王朝は400年にわたって続き、その支配体制はその後の中国王朝の基盤となりました。


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