日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:榊原康政

主君 井伊の赤鬼・直政伝

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1600年9月15日関ケ原・・・この時、西軍に相対する東軍は、内部崩壊の危機に面していました。
その危機に立ち向かったのが、徳川四天王のひとり・・・井伊直政・・・おんな城主・次郎法師に育てられた虎松です。

徳川家康に仕え、外交交渉人としての才能を発揮し、戦場では赤鬼と呼ばれた勇ましさ・・・
その直政に徳川の命運が・・・??
徳川主力の遅参、先鋒は豊臣恩顧の福島正則・・・
前線で戦える徳川勢は井伊直政のみ!!
もしここで福島正則が先陣を切れば・・・戦は豊臣のものとなってしまう・・・
徳川のために・・・抜け駆けをして先陣を切るか??
それは同士打ちの危機でもありました。

山深く急峻な岩肌に囲まれた奥三河の地・・・
ここに、1300年の歴史を誇る鳳来寺があります。
井伊直政は、7歳から13歳までの7年間、命を狙われ・・・ここで過ごしていました。
直政は1561年、井伊谷の領主の子に生まれました。
当時の井伊家は、大国今川家に従っていましたが、直政が1歳の時に、父・井伊直親が敵対する徳川家康に内通したとして殺されてしまいます。
直政の後見となったおんな城主・次郎法師は、今川家によって領主の座を追われ、直政は殺生禁断の地である鳳来寺に匿われたのです。
耐えること・・・我慢することを学んだ直政・・・行く末の見えない中、自らの力と才覚で、運命を切り開いていきます。
1574年、今川家の勢力が衰え始めると、直政は、鳳来寺を出て母親の再婚先である浜松家の豪族・松下家に身を寄せます。
この時、浜松を支配していたのが・・・新興勢力の徳川家康でした。
1575年、直政は、鷹狩りに出た家康を路上で待ちます。
若者の面構えの立派さに目を止めた家康、自分のために殺された井伊当主の遺児と不憫に思い、召し抱えます。
急速に勢力を広げ始めた徳川家に仕えたことから、新しい人生が始まります。

この時、家康の軍団を支えていたのは、古くからの三河の武将たち・・・
後に徳川四天王と呼ばれる直政以外の人物(本多忠勝・酒井忠次・榊原康政)は皆、徳川家と縁の深い、三河武士でした。
結束の固さを誇る家臣団に突然ほうり込まれた異質な存在の直政。
常に家康のために、命を顧みない行動に出ます。
如何なるときも、家康の近くに控え、身を挺して主君を守る・・・最大の危機、伊賀越えでも、大きな働きをしたといいます。
そんな直政を、家康は寵愛しました。
しかし、直政は、武勇だけの若者ではなく・・・
1582年甲斐国若神子の戦いで、3か月に及ぶ戦いの徳川軍と北条軍。
和睦の使者として、21歳の直政が抜擢されます。
交渉にあたって直政の覚書には・・・
北条氏政の誓紙を差し出すこと。
徳川方家臣の妻子を返すこと。

若い直政の和睦締結の条書を見ると、細心なところに注意書きがいっています。
相手にいちいち了解をとる・・・
一を聞いて十がわからないと、使者は務まりません。
そんな能力を持っていることを家康は見抜いていたのです。

難しい和平交渉をまとめ上げた直政は、更なる重要任務・武田家の旧臣を徳川の家臣にという役を任されます。
直政は、主を失ったものたちの領土を安堵する取次を務め、たくさんの書状を送ります。
まさに文武両道・・・単なる武闘派ではなく、いかに戦わないで相手を屈服させるか??
その技術、能力・・・交渉役の資質があったようです。
家康は、忠誠を誓った武田旧臣数百人を直政に付け、”赤備え”を井伊が身に着けるようにいいます。
井伊の赤備えの誕生でした。

戦国時代の軍隊の力は、上杉武田がNo,1!!
その中でも、赤備えはとくに有名で、格好のいいブランド・・・責任の重い甲冑でした。
他の家臣たちは、直政に嫉妬します。
徳川四天王のひとり榊原康政は、武田の勇猛な家臣たちが直政に付けられたことを激怒、直政と刺し違えるとまで言ったといいます。
直政は、赤備えに相応しい結果を残さなければなりませんでした。
新しい直政の軍団の活躍の場は・・・1584年小牧長久手の戦いです。
信長亡き後の天下の覇権を家康と秀吉が争った大事な戦いで、23歳の直政は、自ら敵武者と組み合い、首をとるという危険を冒しています。
味方は直政をたしなめます。
「軍に将たるもの みづから手を下すべきにあらず」と。
それでも直政の激しい戦いぶりは収まりませんでした。その武勇は、赤鬼と恐れられたのです。
並みいる徳川家臣の中、際立った存在となっていく直政。。。
1590年天下人となった秀吉に家康が関東に国替えになった時、上野国に与えられた直政の所領は12万石。
四天王の本多忠勝・榊原康政が10万石、酒井忠次は隠居・・・まぎれもなく、徳川家の家臣筆頭となるのです。
時に29歳の若さでした。
やがて直政は、関ケ原の戦いで重大な決断をすることになります。

1600年9月15日早朝・・・
美濃国・関ケ原に東西両陣営15万を越える軍勢が集結しました。
笹尾山の石田三成から天満山の宇喜多秀家、松尾山の小早川秀秋、更に離れた南宮山の毛利勢まで鶴翼の陣の西軍・・・
東軍は桃配山に総大将の徳川家康、その前に軍勢の多い福島正則、藤堂、細川、黒田の陣が並んでいました。
井伊直政はその一角に布陣、近くには、直政の娘婿の松平忠吉がいました。
直政は初陣の忠吉の後見も兼ねていました。
しかし、この時家康は大きな誤算に・・・家康の焦りと怒り・・・それが、直政の選択に決定的な影響を与えます。

東軍は、もともと会津の上杉景勝を成敗する豊臣家による討伐軍だったので、豊臣家臣の大名が大半を占めていました。
その軍勢が下野の小山に向かった頃・・・三成らが挙兵!!
直政は軍をすぐに西に向けるべきだと強く進言!!
「時は既に至れり!!」
直政の固い決意を聞き入れた家康は西に向かう軍勢を二つに分けます。
東海道を進むのは、福島正則ら豊臣恩顧の大名が中心で・・・
秀忠が中心の徳川本隊は中山道を進みます。
家康は一旦、江戸に留まり、直政は家康の名代として東海軍を率います。
家康も江戸を出発しますが・・・上田で真田と戦っていた徳川本隊3万8000は、戦いに間に合いません。
家康の誤算・・・それは、徳川の主力本隊のないまま豊臣恩顧の大名の手を借りて決戦に臨まなければならなかったのです。

本隊は来ないけれど、機は熟している・・・
豊臣の大名たちが暴走してしまう・・・戦うしかない・・・!!
徳川主力軍がないまま戦うことになった徳川軍・・・
先鋒は、豊臣大名の中でも有力な福島正則となります。
もしこのまま福島正則が先陣まで果たせば・・・戦の全ては豊臣の手によってなされたものとなってしまう・・・!!
例え東軍が勝ったとしても、本当の徳川の勝利にはならない・・・
東軍で最前線にいる徳川勢は、井伊直政と松平忠吉の6000の兵のみ・・・
直政と忠吉が福島正則を出し抜いて先陣を切らなければ、徳川のメンツが立たない・・・。
しかし、戦場で先陣を横取りする抜け駆けは、軍法によって厳しく戒められていました。
家康が会津征伐の時の軍令には・・・
”先手を差し越し、軍法を背くの上は成敗すべき事”とあります。

先鋒は福島正則・・・
当時の武将たちは一番槍の高名や、誰が最初に乗り込むのか?大事な評価でした。
先陣争いで、味方同士が戦うケースも沢山ありました。
なので、先陣争いをして意思疎通が乱れてしまえば西軍に乗ぜる隙を与えてしまう・・・。

直政の選択は・・・抜け駆け??軍法を守る・・・??

直政は抜け駆けを決意!!
その日関ケ原は、朝から深い霧に包まれその霧が薄まっても両軍が様子見を続けて膠着状態でした。
直政は家臣に自らの陣を任せ・・・少数の兵を連れて動く!!
娘婿の忠吉の供をし、先陣・福島正則の陣の脇を抜けようとします。
これを福島正則の軍の可児才蔵が見咎めます。

「これは抜け駆けではない!!
 初陣の忠吉殿にお供をしての物見である!!」by直政

才蔵は道をあけます。
直政は忠吉と共に前進!!
偶然西軍に遭遇したという形で、敵陣に一番槍を仕掛けたのです。
1600年9月15日午前8時・・・関ケ原の激戦は、徳川勢の先陣のもと、開始されたのでした。

戦を仕掛けたのは徳川家の者がやったという証拠が残りました。
しかし、徳川氏の公子を一人無駄に殺してしまう可能性もあったのです。

直政たちの抜け駆けを知ると悔しがる福島勢は一斉射撃!!
東西両軍は激しくぶつかり合いました。
そして数時間後・・・西軍・小早川勢の裏切り、毛利勢の戦闘不参加によって東軍勝利の体制が決します。
石田三成ら主だった西軍の武将は退却・・・直政は忠吉と疲れた人馬を休ませていました。
そこへ・・・突如500騎ほどの軍勢が・・・!!
あれは味方か・・・??
敵と見るや、馬を駆り、軍勢を追撃にかかります。
忠吉も後を追います。
敵軍は、正面突破して戦場を離脱しようとする薩摩・島津義弘勢でした。
島津勢は必死の抵抗!!
多くの死傷者を出す井伊!!
敵と与して傷を負ってしまった忠吉。
直政は敵にわき腹と右腕を撃たれ馬から落ちます。
島津勢もほとんどの兵を失って薩摩に帰っていきました。

殆どの東軍の武将たちは、島津に抵抗して命をとられたら無駄死にだと思って道をあける中・・・
それも承知の島津が正面突破の中、徳川の意地を・・・!!という直政の思いが命知らずの行動に出させたのです。
その命知らずの行動が、家康からも認められ、三河武士達からも認めてもらう。。。
関ケ原の時にも、自分が島津を追いかけなければ・・・!!と、追撃したのです。
戦いは終わり、直政は傷を負ったまま家康のもとに参上・・・
家康は自らの作った薬で労い、直政の抜け駆けの罪を問うことはありませんでした。
先陣を奪われた福島正則も、あえてことを荒立てようとはしませんでした。
関ヶ原の戦後、直政は傷がいえる間もなく仕事に忙殺されます。
生き残った西軍大名との外交交渉・・・戦後処理を任されました。
島津、毛利に対しても穏便に処理するように・・・
戦場を離れれば、敵味方共に直政は信頼されていました。
毛利家当主・輝元は、直政の取りなしに深い感謝の状を送っています。
直政は関ケ原の功績で、近江・佐和山城を与えられ、18万石の領主となりました。
しかし、翌年、佐和山で没します。
関ケ原の傷の悪化が原因とされています。
まだ、40歳の若さでした。
家康は、直政を開国の元勲と称え、その後、井伊家は近くの彦根城へと移ります。
譜代一の家格となり、江戸時代の大老10人のうちの5人を輩出。。。
260年にわたる徳川政権を支え続けるのです。

死の2週間前、子供に宛てたものには・・・

「成敗利鈍に至りては 明の能く逆め睹るに非ざるなり」

とあります。

成功と失敗、賢いか愚かかはあらかじめわかることはない。
だからこそ、ひたすら行動するしかないのだ。。。



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戦国乱世に終止符を打ち、英雄・徳川家康が創設した江戸幕府・・・

幕府をいかに存続させるのか・・・??

家康からその難題を突き付けられたのが、二代将軍秀忠です。

しかし、秀忠は、凡庸という有り難くないレッテルを張られた人物でした。


きっかけは真田昌幸との戦い・・・第二次上田合戦にあります。

秀忠率いる3万8000に対し、真田軍2500!!

圧倒的な兵力差で勝って当然のところ・・・秀忠は敗北!!

この合戦に手間取ったことで、関ケ原に間に合わないという前代未聞の大失態を犯してしまうのです。

しかし、関ケ原は流動で、家康も何もわかっていませんでした。


1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉がこの世を去りました。

この時、秀吉の後継者・秀頼はわずか6歳・・・。

豊臣政権は、有力大名の合議制により支えられることとなります。

しかし、大老・徳川家康と奉行・石田三成との対立が・・・!!

治まりかけていた天下が再び乱れ始めます。


秀吉の死から2年・・・

1600年6月、上杉征伐。。。

有力大名・上杉景勝が城を修築、多数の浪人を集めるなど、豊臣政権への謀反の疑いが生じました。

家康は豊臣の名代として会津へ・・・!!

しかし、家康が会津に向かった隙に、三成が挙兵!!

家康に反旗を翻したのです。

この三成挙兵によって・・・東軍と西軍に分かれての戦いが日本全国に広がりました!!


家康は、「上杉征伐」参陣の武将たちの味方にすることに成功!!

さらに家康は江戸にもどって全国の武将に書状を送ります。

家康は時間をかけて東軍勢力拡大を目論んでいました。


そんな中、家康が危惧していたのが真田昌幸でした。

昌幸は、かつて徳川軍を破ったことのある稀代の戦上手!!

さらに昌幸の領国は、東軍と西軍の勢力の中間にあり、両者が連携を図るうえで重要!!

家康にとっては目の上のたんこぶとなっていました。



真田攻め総大将に抜擢されたのが、家康の三男・徳川秀忠でした。

秀忠22歳・・・これが初陣でした。

当時、家康の息子には三人の成人男子がいました。

後継者と目されていたのは秀忠・・・

「秀忠はあまりに律儀である。」by家康


この時家康は江戸の残っていました。

9月6日・・・総大将・秀忠は高台に布陣!!

徳川軍3万8000が2500の真田に迫る・・・!!

これで落ちない城はない・・・!!

秀忠にとって勝利が約束された戦いが始まろうとしていました。


徳川軍3万8000、対する真田軍僅か2500!!

初陣にして圧倒的に有利な戦いに秀忠は、上田城背後の砥石城を攻略!!

秀忠の戦術は堅実でした。


圧倒的に上田勢を包囲した秀忠軍・・・。

秀忠の勝利は誰の目にも明らかでしたが・・・両軍が場外で応戦!!

敗走する真田軍を追い徳川軍が上田城に殺到・・・

しかし、待っていたのは真田の伏兵!!大混乱の徳川軍・・・に、追い打ちをかける!!砥石城周辺に隠れていた別動隊が秀忠軍本体に襲い掛かります。

結果、秀忠軍は小諸まで撤退・・・軍の立て直しを余儀なくされました。


一方中央は、風雲急を告げる!!

家康が派遣した福島正則率いる東軍の先鋒隊が、美濃に進軍!!

8月23日勢いのままに岐阜城を陥落してしまいました。

東西両軍が濃尾平野に続々と集まってきました。

東軍の総大将不在のまま戦いが始まると、その後の発言力が弱まってしまう・・・!!

8月29日家康は秀忠に使者を・・・早馬を・・・!!

9月1日家康は急遽江戸を出陣!!

東軍の先鋒隊長・福島正則への手紙には、秀忠はおよそ9月10日にはその地に参るであろうと記されていました。

しかし、家康には2つの大きな誤算がありました。

①秀忠が真田との緒戦に敗れていたこと

②悪天候の影響で、死者の到着が遅れたこと


9月9日、ようやく秀忠のもとに使者が到着!!

緒戦に敗れた秀忠が戦略を練り直しをしている最中でした。

使者がもたらした書状には・・・

「急ぎ西上(上洛)せよ。」

作戦の変更命令です。

しかし、真田との戦いは始まったばかり・・・真田を放っておくわけにはいかない・・・どうする・・・??


徳川家にとって、秀忠軍は最も重要な軍勢でした。

秀忠軍は徳川四天王の一人・榊原康政や本多正信・・・徳川軍の精鋭部隊が主力となっていました。

一方家康軍は・・・豊臣恩顧の大名・・・福島正則・黒田長政などのいつ西軍に寝返ってもおかしくない者たちが群を構成していました。

東西決戦が行われる場合、家康の頼みの綱は、秀忠率いる徳川軍!!

すぐに西上し、家康と合流しなければ、決戦に敗れる可能性が・・・!!

初戦で敗れた上に西上する・・・??
それとも戦を継続・・・??
緒戦で敗北を喫したとはいえ徳川の兵力は真田を圧倒している・・・徳川方の勝利は揺るがない・・・??

1600年9月9日・・・秀忠の本陣で軍議が行われました。
どうする・・・??
秀忠は、真田との戦を継続することを主張したと言います。
しかし、重臣からの助言に考えを改めます。
三成さえ、滅亡させれば・・・!!

9月11日、家康は西軍勢力に対峙する清須城に・・・!!
秀忠軍の到着を待ったものの・・・秀忠が小諸を出発したのは同じ11日でした。
険しい中山道を大軍を引き連れて行軍する秀忠。。。
先を急ぐ秀忠を悩ませたのは天候でした。
雨が多く、川が氾濫・・・難所ばかりで思うように進めません。
秀忠軍が妻籠に到着したのは9月17日の事でした。
妻籠城に入城した秀忠・・・関ケ原まで130㎞!!
順調にいけば2日の距離でした。

しかし・・・秀忠はここで知らせを受け取ります。
東西決戦が2日前に終わっていたことを・・・!!
秀忠はその知らせに大いにいどろ板と言います。

どうして家康は、秀忠軍の到着を待たずに戦を始めてしまったのでしょうか・・・??
秀忠が中山道を西上していた9月15日、戦況が大きく変わりました。
それまで西軍は、大垣城を拠点に立てこもり、東軍と対峙していました。
突然西軍が大垣城を出て、関ケ原へ・・・!!
それを追って、東軍も関ケ原へ・・・!!
東西合わせて15万!!引くに引けない戦いの舞台が整ってしまったのです。
1600年9月15日関ケ原の戦い・・・
一進一退の攻防も、はじめは西軍が有利でしたが・・・小早川秀秋の裏切りに戦況は一変!!
東軍が勝利を収めることとなるのです。
家康の調略が功を奏しました。
誤算の連続だった関ケ原の戦いは、家康の大勝利に幕を下ろしました。

秀忠が到着したのは、5日後の9月20日。
家康は、面会を拒絶したと言われています。
家康は、重臣一同を集め、問いかけます。

「いずれの子に徳川の家督を譲るべきか??」

この時秀忠以外には、次男・秀康、四男・忠吉。
次男・結城秀康は、他家に養子に入っているとはいえ上杉征伐で抑えを任された武勇な武将、四男・忠吉は、関ケ原に参戦、先陣を切る活躍を見せています。
誰を後継者に指名するべきか・・・??議論は紛糾!!
しかし、家康が指名したのは、関ケ原に遅参した秀忠でした。

「乱世ならば武勇を優先させねばならぬが、天下を治めるには文徳が必要である。

 そうでなければ創業の志を守り保つことはできない。
 秀忠こそ、後継者に最適である。」

翌日、秀忠は家康に面会を許されます。
秀忠は家康に謝罪するものの、言い訳は一切しませんでした。
しかし、この大失態によって汚点を残し、凡庸と言われるようになるのです。

1603年、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開府!!
その2年後、家康は秀忠に征夷大将軍を譲り・・・2代将軍・秀忠が誕生します。

が、家康の影響力が強く、秀忠が権力のすべてを掌握できたわけではありません。
未だ大坂には豊臣家が存続・・・江戸幕府の権力基盤も盤石ではありませんでした。

秀忠が将軍としての地位を確固たるものとしたのは、天下取りの総仕上げ・・・1614年大坂の陣です。
この時の軍議で家康は豊臣家との講和を図ろうとしていました。
ところが秀忠が総攻めをかけ、落城すべしと三度も強硬策を主張したと言われています。

さらに落城間際、秀忠は秀頼の正室である娘・千姫の命乞いを退け、秀頼を自害へと追い込んでいます。
豊臣家を滅ぼした汚れ仕事・・・家康がやりたくなかった部分を秀忠がやって・・・それを家康は評価したのでしょう。

当時、日本に滞在していた外国人の日記にこう記されています。

「秀忠は武人ではなく 大政治家である。」と。

1616年4月17日、徳川家康死去。

父亡きあと、秀忠の政治家としての能力が開花!!
謀反のうわさが絶えない腹違いの弟・松平忠輝を改易、兄・秀康の子・忠直を改易。
危険分子を排除していきます。
また武家諸法度を発布。有力大名の取り潰しを実行・・・その中には、関ケ原の戦いで東軍の先鋒を担った福島正則を筆頭に、蒲生忠郷・田中忠政・最上吉俊・堀尾忠晴・本多正純・・・41家を改易。

取り潰した大名の多くは、家康にとって天下取りを手助けしてくれた恩義のある大名たち・・・
しかし、感情に流されることなく幕藩体制を強化していきます。

禁中並びに公家諸法度も発布・・・朝廷をも幕府の管理下に置いたのです。
朝廷が権威を取り戻すのは、明治維新となります。
1632年1月24日徳川秀忠死去・・・享年54歳。

死の間際・・・神の称号を受けたいか?と問いかけられた秀忠は・・・

「家康公は数百年続いた争乱を打平げ、古今未曽有の大仕事を成し遂げたが、私はただ先代の仕事を守るだけで、何の功績もない。
 神号を受けるなど、思いもよらない事である。」

家康の創業した江戸幕府は、秀忠により礎が築かれ、260年の平和政権へと反映していくのです。


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東京は世界屈指の巨大都市ですが・・・この基礎を築いたのは、徳川家康です。
熟考を重ねて江戸を選んだわけではありません。

当時の江戸は・・・湿地の広がる農地にも適さないさびれた場所でした。
寒村にすぎなかった江戸をどうして選んだのか??

きっかけは小田原攻めでした。
最大の功労者だった家康・・・
秀吉に恩賞として与えられたのは、都からは程遠い関東の地だったのです。
家康の実力を恐れた秀吉の封じ込めによるものだとされています。

天下を狙えるか?全てを失うか・・・??

家康はこれまでに、三河・岡崎・浜松・駿府、武田家旧領の甲斐・信濃も合併・・・
領国経営も慣れてきていた頃の江戸・・・??だったのです。


1582年6月2日本能寺の変で織田信長が自刃。。。
主君信長の仇を討ち・・・家臣の中から一歩抜きん出たのが羽柴秀吉でした。
筆頭家老の柴田利家も負かし、天下人の座を狙っていました。
これに異を唱えたのが、信長の遺児・信雄です。
秀吉の野望を阻止するべく助けを求めたのが徳川家康でした。

織田家を支える・・・大義名分を手にした家康は、全国大名に味方を募ります。
秀吉の勝手な行いは不義であり、人道に反している・・・として反秀吉包囲網を作り・・・大合戦となっていきます。
小牧長久手の戦いで会いまみえ・・・長久手で秀吉軍を撃破して大打撃を与えるものの・・・
秀吉が信勝を籠絡し、和議を結んだのです。
家康は、戦を有利に進めていたにもかかわらず・・・講和せざるを得なかったのです。

この時・・・秀吉は征夷大将軍になりたかったのかもしれませんが・・・東の夷を鎮圧することのできなかった秀吉・・・。
秀吉は、政治的駆け引きで家康を従わせようとします。
1585年秀吉は関白となります。

関白の権威で、家康に上洛を要求します。
しかし、対決姿勢を崩そうとしない家康。。。
秀吉は奇策に・・・妹・朝日姫を家康に嫁がせ・・・人質として母を差し出しました。
折れた家康は・・・1586年10月大坂へ出発し・・・臣従を誓います。
他の大名達にも大きな影響を与えます。
徳川殿さえも、秀吉に従うのだ・・・と。

翌年、九州を治めた秀吉・・・逆らうのは、北条と伊達・・・ぐらいになっていました。
1590年22万の大軍勢で小田原攻めを敢行する秀吉・・・先頭を任されたのは、家康でした。
およそ3か月の籠城戦の末・・・7月6日・・・小田原城開城・・・北条氏は滅亡しました。
7月13日論功行賞を行われ・・・第1等の功労者となった家康。。。
その恩賞は・・・それまでの領地を没収し・・・新領地として北条氏の関東が与えられた・・・理不尽なものだったのです。
先祖伝来の領地領民を捨て、見も知らぬ土地に移住する・・・。
家康の実力を考えて、都から遠くに・・・!!
という秀吉の意図が感じられました。

あまりにも理不尽な要求を・・・家康は受け入れざるを得ませんでした。
ちなみに織田信雄は転封命令には服さず・・・不服を申し立て・・・所領全てを没収されてしまったのです。

関東支配のためにはどこに??
①小田原・・・難攻不落の小田原城を居城とする・・・??
②鎌倉・・・武家の古都は、家康に相応しい。
③江戸・・・秀吉が勧める。

どこが一番いい・・・??

しがらみのない・・・大坂と条件の似ている江戸・・・??

城を築く場所を誤れば・・・天下への道が閉ざされてしまう・・・!!

居城の選定条件・・・
①防御力
②経済
③港湾施設

秀吉の言うとおり、江戸に拠点を置くことにした家康。。。
家康は、家臣団を伴って江戸へ・・・!!
そのことに一番驚いたのは、秀吉だったのかもしれません。

江戸に入国して2年後・・・1592年~文禄・慶長の役が起こります。
天下統一を果たした秀吉は朝鮮へと向かったのですが・・・参加したのは朝鮮にに近い九州から近畿の大名達でした。
関東の家康は派兵を免れ・・・体力をそがれることなく、蓄え・・・江戸城の本格的な工事を始めました。
実践に備えた守り最強の城に仕上げていきます。
政治の拠点としてだけではなく、軍事的拠点へ!!

家臣団を刷新し・・・若くても実力のある者・・・井伊直政、榊原康政、本田忠勝・・・後の徳川四天王がそこにはいました。
新田開発のための利根川東遷事業を行います。
多くが湿地帯で川の流れこむ農地に不向きな土地を・・・
利根川の流れを変え、湿地を肥沃な大地に!!
治水工事を進めました。
工事のもう一つの狙いは・・・
右岸に家康の腹心を配置し、江戸を守る防衛戦を築いたのです。
そして・・・この土木作業によって、家臣団たちは統率力、団結力を磨いていったのです。

1598年8月18日、秀吉死去・・・。
家康に再び天下取りの機会が・・・!!

1600年9月15日・・・関ヶ原の戦い!!
この戦いを見据えて江戸城に入った家康は、西軍の動きを監視!!
戦略を練るために、26日間城に籠もります。
そして、全国各地の大名の100通以上の書状を送り、味方を固め、敵を調略します。
江戸は・・・東北から中国地方まで、敵味方入り乱れる中で・・・情報を収集するのに最もいい場所となりました。

家康の謀議によって、西軍諸将は東軍に寝返り・・・戦いの前に決着はついていた!!とも言われているのです。1603年2月、家康は征夷大将軍となります。
江戸に幕府を開くと、江戸の人口は爆発的に増加!!
全国大名に労力を強いる天下普請によって、豊臣家の大坂城を凌ぎ、世界最大規模の城郭を作るのです。

1615年5月・・・豊臣氏滅亡!!
家康は、名実ともに天下人となったのです。
逆境を乗り越え、いくつものピンチをチャンスに変えてきた家康・・・
75年の生涯を閉じたのは、大坂の陣の翌年でした。

家康の死後も利根川の東遷工事は続き・・・
利根川が太平洋にそそぐようになるのは、家綱の時代・・・60年後でした。
農業に不向きの湿地帯は、日本最大の穀倉地帯へと生まれ変わりました。
荒廃地を食料確保の農地に替えることで・・・江戸は100万を超える世界最大の都市へとなっていくのでした。
そしてこれを見本とし、開拓することで日本は国内の富の拡大・国土の開発を行ったのです。
結果として、現在の河川の99.9%は、江戸時代に作られたものと言えます。
私達は、徳川時代250年間の国土づくりの上に立っているのです。
日本の国土形成の最大の功労者は家康かもしれません。

幾度ものピンチをチャンスに変える能力と・・・その家康に家臣が付いていくという人望・・・
一緒に絶えてきた結束力!!その信頼があったからこその家康なのです。



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