日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:樺太

勝海舟と幕末外交 - イギリス・ロシアの脅威に抗して (中公新書)

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幕末の日本を震撼させたのは黒船来航・・・。
幕府動乱の時代に突入し、徳川幕府は崩壊へと向かいました。
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しかし、その60年前に、異国の脅威に警鐘を鳴らしていたのは松平定信でした。

1792年の根室沖に武装した船がやって来た「北の黒船事件」がきっかけでした。
ロシア使節ラクスマンは、通商要求をしてきました。
ヨーロッパからアジアの大国ロシアの要求・・・
鎖国体制の危機に幕府は大混乱に陥っていたのです。
当時、老中首座の地位にあった松平定信。
どのように立ち向かったのでしょうか?


be-宮城県石巻市網地島には銅像があります。
帝政ロシアの探検家ベーリングです。

この島は・・・江戸時代の日本が初めてロシアと接触した場所でした。

1739年ベーリング配下の船団が網地島に来航したのです。
目的は、日本沿岸の調査でした。

当時の日本は鎖国体制。。。
突然の異国の民の出現に、仙台藩では兵の出陣にまでの騒動となりました。

ロシアが日本に関心を持ったのは・・・??

18世紀・・・ロシアは皇帝による専制政治の元、勢力を強めていました。
当時の皇帝は、エカチェリーナ2世。
領土拡張を掲げ・・・西では露土戦争に勝利、東でもシベリアやアリューシャン列島にまで勢力を拡大し、補給基地として千島列島を南下し始めていたのです。

これに対して危機感を抱いていたのは松平定信でした。
定信は、未曾有の災害・・・天明の大飢饉で、治める白河藩では一人の餓死者も出なかったこを認められ、中央へと進出します。
1787年老中首座に就任し、その翌年には家斉補佐にも任じられます。
幕府の舵取りを任せられた定信は、内外の書物を読み漁ります。
その中で・・・仙台藩の医師の書いた「カムサスカ国風説考」は、定信に衝撃を与えました。
そこには、日本で初めてロシアの姿を描いた地図が描かれてありました。
大国ロシアを目にした瞬間でした。
当時の蝦夷地は、松前藩を通して・・・幕府の間接支配しか及ばない地域でした。
蝦夷地というグレーゾーンを挟んで対峙することとなったロシアと日本。。。
1792年9月北海道根室沖に、一隻の帆船が・・・ロシア船エカチェリーナ号です。
舳には二本の大砲が・・・!!
目的は、日本人漂流民を祖国へ帰還させると同時に、日本との通商関係を・・・開国をせまろうというものでした。
rakusumann
9月5日ロシア使節が根室に上陸。
使節代表は、陸軍中尉アダム・ラクスマンです。

越冬するための住居も構え、日本と対峙します。
9月8日幕府に書状を提出します。

江戸の定信の元へ・・・
①漂流民を江戸の役人に引き渡したい
②返答がなければ我々の船は、直接江戸に向かう

定信にとっては、青天の霹靂でした。
何の防御もない江戸湾に・・・!!
前例のない対外交渉に・・・戦にもなりかねない状況にどうする??定信。

1792年10月・・・どう対処するかの評議が開かれました。
定信が招集したのは寺社奉行・町奉行・勘定奉行の3人。
①強硬策
あくまで江戸への来航を許さず、武力に訴えてでも打ち払う。
しかし負ければ幕府の権威が失われてしまいます。
②長崎回航策
唯一の外交の窓口・長崎への回航を求める。
③通商容認策 
蝦夷地の港を開き通商を認める。

定信自身も海外交易には懐疑的で・・・貿易は、海外の無用の物を輸入して、日本の雄用の銅を失うと考えていました。
大国の武力を背景に開国を求めるラクスマン・・・。

戦を回避し、国内の混乱も押さえたい・・・定信はどう判断するのでしょうか?
漂流民を返しに来たロシアには大義名分がある・・・
こちらも礼と法を持って対応するべきである・・・
と、1793年6月21日松前で日露の外交交渉が行われました。

幕府の者は衣冠し、その篤い対応にラクスマンは感銘を受けたと言います。
定信はロシア使節に礼を尽くしたうえで・・・
国是にのっとった上で・・・”国交無き国の船は、打ち払うのが古よりの国法である”としました。
しかし、それは拒絶ではなく譲歩でした。
「通信通商を望むならば、長崎へ行き現地の沙汰にまかせよ」と。。。
定信は、ラクスマンに長崎への信牌(長崎への入港許可証)を交付したのです。
相手にも活路を残したのです。

7月16日ラクスマンは、皇帝に報告すべく帰国。。。
三つの策を柔軟に活用して、国の危機を乗り切ったのです。

しかしその直後・・・将軍家斉が20歳となり・・・
定信との間で意見が対立するようになります。
1793年7月23日定信老中と将軍補佐を解任。。。
幕政の中心から排除されてしまうのです。

その12年後の1804年・・・定信が公布した入港許可証を持ってロシア使節レザノフがやって来ました。
再び通商の要求をし出しました。
通商の成功を疑わないレザノフ・・・。
しかし、幕府の返答は冷ややかでした。
我が国が国交を結んでいるのは朝鮮と琉球、通商を行っているのは中国・オランダのみなので、貴国の希望には議論の余地はない!!
定信の柔軟な外交は引き継がれることはなく・・・激怒したレザノフは、樺太・択捉を襲撃!!日本兵はなすすべなく敗走・・・露寇事件です。

定信は海防の強化を訴えていましたが・・・その後の幕府外交は、定信の考えとはかけ離れた方向へと進んでいきます。
露西亜は軍規違反を理由にレザノフの部下を処罰・・・事件は終息へと向かいます。
その間に日本は海防の強化を後退させていきます。
1825年異国船打ち払い令を宣言し、異国船は無条件で打ち払うことになっていきます。
幕府は海防強化に努めることなく進んでいきます。。。
それは迫りくる西欧列強には全く無力でした。

1853年ペリー艦隊が浦賀に来航!!
幕府は開国を余儀なくされます。
その後・・・幕府は攘夷の波にのまれ・・・崩壊へと向かっていくのです。

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NHKさかのぼり日本史(6)江戸 “天下泰平”の礎

幕末、日本に開国騒動を巻き起こしたのは、黒船来航です。
しかし、それを遡ること50年・・・もう一つの黒船騒動がありました。
1906年9月12日「露寇事件」です。

ロシアが南下してきた軍事衝突です。
当時、出島で限られた国としか交易していなかった江戸幕府・・・
ロシアは開国と通商を求め武力で迫って来ます。
震撼する日本・・・!!
ここで初めて日本は、国防を意識し、国境を知るのです。
おまけにここに来て初めて鎖国を宣言したのでした。

露寇事件・・・
対外国という意味では、13世紀の蒙古襲来以来の大事件でした。
この頃から太平の眠りから覚めることになる日本。。。
ここに近代日本が出発したのかも知れません。
そして・・・日露関係のスタート地点ともなるのです。

文化年間・・・庶民のための文化が花開くのどかな時代に・・・
衝撃が走りました。
それが露寇事件だったのです。

首謀者はニコライ・レザノフ。
ロシア帝国の外交官でした。
このレザノフの命令を受けた軍人たちが、突然北方の島々に紛争を仕掛けたのです。
文化3年9月樺太・文化4年4、5月択捉島・5、6月利尻島・・・と次々に焼き払われ、食料が略奪されます。
しかし、この事件についての文献はほとんどありません。

鉄砲を撃つことが殆どなくなっていた日本・・・
200年前の・・・戦国時代の武器を使っていた日本・・・
被害は大きくなかったものの・・・その圧倒的な力に日本人は怖れ慄いたのです。

ロシアは毛皮が欲しい!!
毛皮交易は・・・16~19世紀に行われ、ロシア北米で発展しました。
特にラッコの毛は珍重されていたのです。
ロシアで生産し、中国で売る!!

1799年露米会社を設立し、レザノフが総支配人となっていました。
毛皮交易と植民地経営を目的とし。。。
日本近海が、ロシアにとって重要・・・国家の財源としての良質の毛皮が欲しかったのです。

当時のロシアは急速に領土を拡大していました。
西はナポレオン戦争、東はアラスカにまで勢力を伸ばしていました。

日本をその拠点にしたかたレザノフ・・・どうして攻撃したのでしょう??
2年前の長崎・・・

1804年9月6日レザノフ長崎来航。
ロシア皇帝の親書を以て意気揚々とやってきますが・・・幕府は上陸を拒否し、24時間体制の監視下に置きました。
来日して2か月半・・・陸の上でも軟禁状態に置かれます。
レザノフは日本語が話せたようです。
東北からロシアに流れ着いた漁師たちに教わっていたのです。
日本に対する関心の深さが伺えます。
現場の日本人たちも友達のようになっていきます。

そんな中幕府は・・・通商か鎖国かで悩んでいました。
レザノフを怒らせて帰らせる???
1805年3月日露会議。

レザノフに伝えられたのは・・・
「わが国は、唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外とは通交通商しない」
というものでした。
そして・・・
「再び来ることを費やすことなかれ。」
と言ったのでした。
この時初めて、外に向けて鎖国を表明したのです。

半年待たされたレザノフ・・・期待を裏切られたレザノフ。。。
幕府の結論を受け入れることができなくて・・・攻撃を命令してしまったのです。

この事件に幕府が下したのは・・・
1807年4・5月東北諸藩に蝦夷地への出兵を命令!!
当時の蝦夷地は、松前藩があるだけで他の土地はアイヌの土地でした。
1802年東蝦夷地上知。
1807年西・北蝦夷地上知。
段階的に直轄地としていきます。

幕府にとって蝦夷地の重要性が増していきます。
そして・・・津軽藩・秋田藩・南部藩・庄内藩が蝦夷地に向け3000人の軍勢が出陣しました。
箱館・宗谷・斜里などに配備されます。
軍事的緊張がピークに・・・!!

おまけに兵士たちは、食べるものもなく、気候も・・・なれない土地での生活に、病気になったりして弱っていきます。
彼等の病気は”浮腫病”・・・”脚気や壊血病”でした。
この惨状を救ったのは、松前藩。。。幕府に上申書を出します。

”蝦夷地全域を、守ることは難しい・・・
 民命に関わる問題だ・・・”と。。。

整備縮小された東北の軍・・・
1808年6月帰国命令が出されたのでした。
斜里詰津軽藩士105人中74人が死亡・・・この間にロシアの船は一度も現れなかったのです。
未開の・・・地図もない蝦夷地のあまりに悲劇でした。
この後、伊能忠敬や間宮林蔵が活躍していくのです。

露寇事件の後も、北方では緊張状態が続きます。
幕府はロシアと交戦状態にあると考えていたのです。
そんな中起きた事件が・・・
1811年6月4日ゴローニン事件勃発。
ディアナ号を拿捕、船長以下8人を捕縛しました。

露寇事件の報復措置だと思っていた日本。。。
露寇事件は決着したと思っていたロシアには寝耳に水でした。
副艦長のリコルドは報復として1812年8月14日北前船「観世丸」を拿捕。

この時ロシアに連れて行かれたのが、高田屋嘉兵衛でした。
この嘉兵衛がロシアとの緊張を解いていきます。

名字帯刀を許された御用商人の嘉兵衛、幕府の信頼も厚く一目置かれていました。
嘉兵衛は交易船を繰り出し・・・蝦夷地全域で商いをしていました。
なので、アイヌの人からロシアの現状も聞いていました。
民間人でありながら幕府にも内通し、国際感覚も持っていた嘉兵衛。。。
日本とロシアの溝を埋めたいと考えていました。
世の中のためにロシアで一肌脱ごう!!
捕虜ではないので対等でなければならない・・・嘉兵衛はロシアで食い扶持を自分で賄います。
が・・・その結果栄養不足で病に倒れます。
それでも毅然とした態度を貫いた嘉兵衛。。。

ロシアに連行されて4か月・・・リコルドに提案します。

「蝦夷地で行った乱暴は、公式に詫びさえすればゴローニン艦長は許されて自由の身となるだろう。」by嘉兵衛

ロシアは露寇事件は国家としての命令ではなかったと、書簡を発行し、嘉兵衛に持たせて帰らせます。

1813年9月16日リコルド箱館来航。
ロシアとの全面戦争をしたくなかった幕府も、渡りに船と会談をします。
そして・・・ゴローニン達は全員ロシアへ・・・嘉兵衛も日本に・・・。
9月26日、ゴローニン事件は解決したのでした。

ここに・・・ロシアとの緊張関係も終わりを告げたのでした。
露寇事件を通じて、対外関係の難しさを知った日本・・・
50年後のペリー来航にはこれを生かしたといいます。

嘉兵衛に対する幕府からのお礼は小判5枚・・・
現在の価値で20万円だったといいます。

ロシアに限らず外国と紛争を起こしたら大変なことになる・・・

将軍の御威光・メンツをつぶさない様に、しかし、紛争を起こさないような解決をとらなければいけない。
大きく負けないためには小さく負け、プライドを守る!!

露寇事件によってロシアと紛争になってしまった。。。
”発端から考え直そう”という考え方が・・・誤解を解いて再検討が大切なのです。


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