日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:橋本佐内

誰も知らなかった日本史 切紙神示と共に甦る孝明天皇の遺勅(予言) [ 出口恒 ]

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東京目白にある学習院大学・・・敷地内には幼稚園・中等科・高等科が併設され、皇族の子息が通われる学校として知られています。
起源は江戸時代の京都・・・1847年に御所の日御門前に学問所を新設、二年後に時の天皇が学習院と名付けました。
その名付け親が孝明天皇です。
激動の幕末に即位した江戸時代最後の天皇です。

①前代未聞
弘化3年孝明天皇は16歳で天皇の位を受け継ぎます。
5月浦賀にアメリカ艦隊が来航し、通商条約締結を要求してきました。
6月長崎にフランス艦隊が来航。
幕府は鎖国を理由に彼らの要求を拒み、退去させました。
しかし・・・その2か月後、孝明天皇が思わぬ行動に出ます。
時の関白を通じて・・・幕府に勅書を下します。

「近年、異国船が時々渡来するという噂を耳にする
 幕府は異国を侮らず畏れず海防を強化し、日本の恥とならないよう処置し、朕を安心させるようにせよ。」by孝明天皇

その孝明天皇の勅書に江戸幕府12代将軍家慶をはじめとする幕府の人間は驚きます。
幕府の政策に天皇が口を出すなど前代未聞のことでした。
当時の天皇と幕府の関係は・・・
天皇が幕府に政治を任せる・・・ということでしたが、圧倒的に幕府に力があり、天皇は抑えられていました。
なので、天皇・朝廷が幕政に口出しすることなどなかったのです。
その理由の一つが・・・天皇・公家たちは幕府から経済的な支援を受けていたからです。
天皇の所領は、禁裏御料と言われ3万石、朝廷に仕えていた公家たちには合わせて7万石ほど・・・。
幕府は朝廷に対し、10万石も献上していたのです。
幕府からの支援を得、孝明天皇はどんな生活をしていたのでしょうか?

朝起きると、糠を入れた絹袋を石鹸代わりに洗顔。
1日か2日おきにお歯黒。
身支度が終わると、神仏、先祖の御陵の方向に向かって拝みます。
午前中は、手習い、学問、和歌を詠んで過ごします。
昼食・・・一日の食事の中で、最も豪勢で、毎日30センチもある”鯛の尾頭付き”を食べていました。
午後も、手習い、学問、和歌で過ごします。
6時ごろから夕食・・・宮廷内で酒は御献(おっこん)とよばれ、孝明天皇はかなり好きだったようで、夜10時ごろまで飲んでいたので、就寝は12時頃でした。

対して、当時の将軍は、梅干しや煮豆などの一汁二菜で、夕食でもそれに焼き魚が着く程度でした。
幕府の支援を受けながら、優雅な暮らしの孝明天皇でしたが、開国を迫る欧米諸国をひどく恐れていました。
1853年、アメリカからペリーが来航!!
日本は激動の時を迎えます。
1854年、日米和親条約を締結。
箱館と下田の二港を開港し、イギリス・ロシアなどとも条約を結びました。
この時、孝明天皇は、朝廷のある関西地方の警備体制の強化を要請しながらも、条約締結については承認します。
和親条約は、友好をうたったもので、貿易協定などを結ぶものではありませんでした。
京都と離れた箱館と下田の開港だったので、孝明天皇としても恐れるほどではないと思っていました。
しかし、事態は急変・・・
1856年アメリカ在日総領事ハリスが、下田に着任し・・・
①通商条約の締結を要求
②江戸城で直接将軍に謁見し、大統領の親書を渡すと要求
幕府はハリスの要求を受け入れます。
この時、幕府はアメリカと戦う気はありませんでした。
中国・清が、イギリスとのアヘン戦争に敗れ、不平等な条約の締結と、香港の割譲させられたことを知っていたからです。

欧米諸国と戦えば・・・清の二の舞になってしまう・・・!!
開国賛成派と鎖国維持派に諸大名たちは真っ二つ!!
そこで、孝明天皇の勅許をもらうために・・・京都に堀田正睦が向かいました。
しかし!!

幕府が通商条約締結に向かっていると事前情報を手に入れていた朝廷では、その対応が協議されました。
そこで、孝明天皇は自らの意見を表明します。

「アメリカの願い通りになってしまっては、天下の一大事の上、朕の代よりそのようなことになってしまったのでは、後々まで恥となる。」by孝明天皇

だから・・・条約締結は承認できない・・・!!

幕府の提案を承認しないなど、前代未聞のことでした。
幕府と上手くやっていきたい公家たちは、焦ります。
そのまま幕府に伝えれば角が立つ・・・
迷った挙句に、参内した老中・堀田正睦に告げます。
「徳川御三家以下、諸大名の本心を今一度聴取し、その報告を聞いたうえで、改めて帝が判断を下さされる。」
開国を反対する大名を納得させるために、京都まで来たというのに・・・もう一度彼らの意見を聞けというのか・・・??
堀田はこれを拒みます。
「アメリカと戦っても勝ち目はありません。
 世界の情勢を見ても、通商条約締結は、もはや避けられないことなのです。」by堀田
理路整然と涙ながらに説明する堀田・・・。
しかし、孝明天皇の心は変わりませんでした。
最後に堀田は・・・
「アメリカがしびれを切らし切迫した場合は、戦か条約締結か、幕府が判断してもよろしいのでしょうか?」by堀田
「アメリカが武力で訴えるならば、戦も致し方ない!!」by孝明天皇

孝明天皇が望んでいたのは、”鎖国体制の維持”でした。
ハリスの・・・アメリカ人の強引なやり方が、孝明天皇の”外国人に対する嫌悪感”につながったのです。
攘夷に繋がっていくのです。
頑なな天皇を前に、なすすべもなくなった堀田は、勅許を得られないまま江戸へと帰っていきました。

幕府の提案をはねのけた孝明天皇ですが、幕府は強硬手段に!!
指揮を執ったのは、大老・井伊直弼でした。
井伊は、諸藩の意見を聞くことも、孝明天皇の意見を聞くこともなく・・・
1858年幕府の独断で日米修好通商条約に調印してしまいました。
これが、孝明天皇の逆鱗に触れたのです。

天皇はすぐに、幕府に御趣意書を送り付け、猛烈に抗議します。
「このたびの幕府の措置は、厳重に申せば、勅書を無視したものであり、不信感を抱かせるものである。」by孝明天皇
そこで、水戸藩に勅書を下し、他の藩にも伝えるように命じました。
その中で天皇は・・・
”独断で日米修好通商条約を締結した幕府に経緯の説明を求めること”
”攘夷を推進すべく、幕府を改革していくこと”
を強く求めました。
幕府は、天皇と諸大名が直接やり取りをすることを禁じていたので、天皇の越権行為でしたが・・・
それだけ、孝明天皇が幕府に怒っていたともいえるのです。
しかし、幕府の大老・井伊直弼は、攘夷にこだわる孝明天皇を逆なでするかのように・・・尊王攘夷派を大量に処罰。
吉田松陰、橋本佐内らが死罪・・・安政の大獄です。
これを聞いた天皇は激怒!!
あまりに怒ったので、関白の頭を扇子で執拗にたたいたと言われています。
どうして孝明天皇はそこまで攘夷にこだわったのでしょうか?
200年以上鎖国体制が続いていたので、気持ちの切り替えがむつかしかった・・・現状維持が大事なことだったのです。
歴代の天皇が守ってきたものを、自分の代でかえることに抵抗を感じていました。
将軍=征夷大将軍は、”夷”・・・つまり、外国人を制圧するのが職務でした。
アメリカのいうことを聞いて、言うがままになることは、職務を果たしていないということになるのでは・・・??

孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、天皇を支持した尊王攘夷派を処罰した井伊直弼・・・
当然ながら、多くの敵を生みました。
1860年(安政7年)3月3日・・・阿桜田門外の変で暗殺されてしまいます。
主犯は、尊王攘夷派の水戸派の浪士たちでした。
これを機に、諸大名も幕府の強引なやり方に反発します。
幕府の権威は急速に失墜していきます。
そしてこの後、孝明天皇は図らずも維新の渦に巻き込まれていくのです。

②妹・和宮
公武合体を画策する幕府・・・
その象徴として・・・14代将軍徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の婚姻でした。
皇族が・・・武家に嫁ぐなど、前代未聞のことでした。

この時、孝明天皇自身も公武合体を望んでいました。
しかし、和宮にはこの時すでに、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいました。
そして、和宮自身も、江戸で暮らすことを嫌がっていました。
宮中で育った和宮には、外国人がたくさんいる江戸は、恐ろしいものでした。
妹の幸せを願った孝明天皇はこれを却下・・・。
しかし幕府は食い下がります。
信頼する岩倉具視に孝明天皇が相談すると・・・

「幕府が攘夷の実行を約束するならば、降嫁をお許しになればよろしいのでは?」by岩倉具視

そこで、その条件を幕府に突き付けると・・・

「十年以内に鎖国体制に戻します。」by幕府

孝明天皇の望むように攘夷を決行すると約束してきました。
結婚に頑なな和宮・・・生まれたばかりの孝明天皇の娘・寿万宮を嫁がせようとすると、それを知った和宮は、自分が行かなければ誰かが犠牲になる・・・と、決めたのでした。

その代わりに和宮は、大奥に入っても御所の流儀を通すこと、御所の女官を御側付きにすることなどを条件に出します。
孝明天皇は、和宮の要求を守るようにと、江戸へと送りました。
和宮を降嫁させたことで、幕府に対し”貸し”を作ることとなりました。
そして、幕府は、降嫁の交換条件として出した”攘夷”を、いつ決行するのか・・・??
幕府に対し、優位に立った孝明天皇は、人事まで介入してきました。
「老中を決める際、事前に天皇に伺いを立てること」を幕府に認めさせました。
攘夷に反対する人物を、幕府の首脳陣に加えさせないためでした。

和宮は、家茂のやさしさに仲睦まじい・・・これで公武合体も上手くいく・・・??

③尊王攘夷派

孝明天皇のもとで政治を行い、開国を迫る外国を打ち払おう・・・という尊王攘夷運動が出てきました。
当初は容認していた孝明天皇ですが・・・
天皇がいる京都に続々集まってきた尊攘攘夷派の志士!!
その中心は、桂小五郎や久坂玄瑞のいた長州藩でした。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけていきます。
そんな中・・・1853(文久3年)年将軍・徳川家茂が上洛。
将軍の上洛は、徳川家光以来、およそ230年ぶりのことでした。
孝明天皇が、将軍・家茂を呼びつける・・・攘夷をいつするのか??
幕府は、文久3年5月10日に攘夷を決行すると約束してしまいました。
孝明天皇が、将軍家茂に約束させた5月10日・・・
攘夷を掲げる長州藩が動き出しました。
下関沖を航行中のアメリカの商船をいきなり砲撃!!
ついに、攘夷を決行しました。
さらに長州藩は、天皇の行幸を勝手に計画・・・奈良にある神武天皇陵と春日大社を参拝することを決めました。
孝明天皇の指揮で、攘夷を行うべく軍議を開くというのです。
日に日に過激さを増す攘夷派・・・
ところが、文久3年8月18日、京都・御所にて・・・
クーデターが勃発!!
長州藩とそれに味方した公家らが追放されてしまいました。
8月18日の政変です。
クーデターを実行したのは、”公武合体派”の会津藩と薩摩藩でした。
そして、彼らに命じたのは・・・なんと孝明天皇でした。
どうして、味方である尊王攘夷派を追放したのでしょうか。
当初、尊王攘夷派は孝明天皇の意見を代替する存在でしたが、いつしか孝明天皇の意向を無視して事を進めるようになってしまったのです。
孝明天皇が望んだのは、幕府による緩やかな攘夷でした。
しかし、尊王攘夷派はどんどん過激になっていったのです。
尊王攘夷派の中には、幕府を倒し、王政復古を目論む者もいました。
孝明天皇自身は、幕府と共に、国を動かす公武合体を望んでいたのです。
そして、尊王攘夷派を追放したが為に、孝明天皇自身の運命が変わっていくのです。

過激な尊王攘夷派を追放したのち、孝明天皇は再び参内した14代将軍徳川家茂に対し、こう表明します。
「無謀な征夷は実に朕が好む所に非ず」by孝明天皇
なんと、急進的な攘夷は望まないと言ったのです。
幕府に対し、あれほど攘夷せよと言っていたのに・・・軟化させたことに世間は驚きました。
攘夷の態度を軟化させたことで、世間は孝明天皇に対し、不信感を抱くようになります。
天皇の絶対的な権威に対する不信を招いたのです。
当時の世論の大半は、攘夷派でした。

そんな中、孝明天皇は、公武合体を強固にするために、幕府との関係を深めていきます。
まだ十代だった家茂には・・・

「互いに親子のような情愛を持って接することが、天下の安定につながるであろう。」by孝明天皇

そう諭し、幕府から京都に派遣されていた人物と信頼関係を深めていきます。
一人は一橋慶喜・・・後の15代将軍です。
この時、禁裏御守衛総督として、京都に赴任していました。
もう一人は、京都守護職・会津藩主・松平容保です。
そして、その弟で京都所司代・桑名藩主だった松平定敬です。
中でも、孝明天皇が最も信頼していたのが、松平容保でした。
忠義を尽くし、天皇の身辺警護に当たっていました。
配下の新選組を使って、追放後も復権を狙う尊王攘夷派の志士たちを取り締まりました。
そんな容保に、孝明天皇は和歌を送っています。
内容は・・・
「武士と心合わせれば、どんな困難なことにも打ち勝つことができ、そのことは代々伝えられていくことだろう。」となっています。

容保を信頼し、幕府と運命を共にするという孝明天皇の決意の表れでした。
しかし・・・次々と事件が起こります。
1864年・・・禁門の変(蛤御門の変)
このことがきっかけで、京都の町の大半が焼失しました。
さらに翌年には、兵庫沖にイギリス・アメリカ・フランス・オランダ四か国の連合艦隊が来航。
攘夷運動の中心が天皇にあると見た彼らは、孝明天皇に通商条約の勅許を下すよう要求します。
しかし、態度を軟化させても攘夷に変わりない孝明天皇はこれを退けました。
幕府が説得を試みずも応じず・・・幕府との間に緊張が走ります。
これを打破したのが、一橋慶喜でした。
孝明天皇に・・・
「欧米諸国が京都に乗り込んで、孝明天皇が命の危険に晒される事態も起こり得る」と、進言するのです。
命も危うい・・・慶喜の言葉に、初めて諸外国の怖さを味わいました。
幕府が独断で、日米修好通商条約を締結してから7年・・・その勅許を下すのです。
失意の中・・・孝明天皇を悲劇が襲います。
1866年大坂城・・・将軍・徳川家茂が、病に倒れます。
知らせを聞いた孝明天皇は御所から二人の医師を派遣しますが、その甲斐もなく将軍家茂は亡くなってしまいました。
追い打ちをかけるように、孝明天皇への批判が・・・!!

「孝明天皇の勅許と言えども、万人が納得できなければ認めることはできない」by大久保利通
「天皇は絶対的な存在ではない」by岩倉具視

そんななか、1866年孝明天皇崩御・・・36歳でした。
公武合体を共に進めた家茂と孝明天皇の相次ぐ死で、幕府の命運は尽きました。
この後、長州藩、薩摩藩が中心となって討幕へ!!
1年後・・・1867年には大政奉還。
およそ260年続いた江戸幕府は、終わりを告げるのです。

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適塾は・・・適々斎塾という、門弟3000人といわれる幕末最大の私塾です。

開いたのは・・・1838年、主宰者は緒方洪庵28歳でした。

名声は広まり・・・
諸国から若者が続々とやって来ました。
医師の洪庵が主宰者だったので、医家の子弟が多く入塾し、ここを巣立って行ったものの過半数は医者となり、明治の医学界に多大な影響を与えています。

他にも・・・
兵法・砲術・本草・化学・・・多方面にわたって学んでいます。
それは、適塾が医者の学校というだけでなく、蘭書解読の研究を行っていたからです。
塾生は8つの学級に分かれていました。

この中から、橋本左内・大村益次郎・大鳥圭介・福沢諭吉・佐野常民・本野盛享・箕作秋坪らが育っています。

吉田松陰の夢 松下村塾の魂 (タウンムック)

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もう一つは・・・松下村塾。
こちらは吉田松陰と行動する草莽の志士集団です。
吉田松陰、下田で密航を図り失敗、長州藩に送還されることになります。
萩城下の野山獄に・・・。

ここを仮出獄後・・・
叔父・玉木文之進の松下村塾を受け継ぎます。

その教育目的は、改革の断行を身を持って指導し、革命の実現しうる人材を育てることにありました。
そんな中、松陰は、門下生ひとりひとりの才能を見つけ、伸ばす方向を示唆します。
入塾者は300人ほどと思われますは・・・熱心に通ったものは、30名ほどといわれています。

「草莽崛起の人を望む外頼みなし」
吉田松陰は、安政の大獄の前にこのような境地に達していました。
ここにある草莽という言葉は、「孟子」の中にあります。
「草むらに隠れている隠者」という意味ですが・・・
吉田松陰が日本で最初に使ったのではないか?
といわれています。

このような草莽が・・・崛起することによって、時局を打開し、革命を成し遂げようと考えていたのです。
しかし・・・松陰は、安政の大獄によって非業の死を遂げることになります。

その意思は・・・高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一・伊藤俊輔・山県小輔・品川弥二郎・前原一誠・赤根武人・・・・などに受け継がれて・・・革命の原動力となりました。

しかし・・・維新政府の成立を見たのは、半数にすぎません。

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松下村塾と吉田松陰―維新史を走った若者たち

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世の中はGW真っ只中ですが、学校や仕事はあります。
私は万年お休みですが・・・。

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鹿児島の海に身を投げた西郷。。。
入水自殺をして生き残ってしまったことは武士として情けない。。。橋本佐内・吉田松陰などは死んだのに、自分だけが生き残ってしまった。。。

生き延びてしまった自分。。。その中から西郷はリーダーとしての西郷を生み出していきます。

その転機の舞台は沖永良部島。島流しにあって罪人としてやってきます。
この島流しを命じたもは島津久光。兄亡き後実権を握りました。

しかし、西郷は斉彬の家臣です。斉彬に接することがなかったら、歴史は変わっていたかもしれません。。。
斉彬は、開明派大名との広いネットワークを持っていました。そんな斉彬から、西郷隆盛は世界的な視野を学びました。

そんな、出会いの後の久光との確執。久光に反抗した西郷が島流しにあったのです。

そこでは過酷な牢獄生活。やつれながらも座禅を組む生活。もはや生きて牢獄を出ることは出来ないと死を覚悟していました。

しかし、牢獄の番人・土持政照は、衰弱する西郷を看護します。
命を救ってもらったお礼に、西郷は学校を開きます。

この不思議な牢獄生活の中で得たもの。それは、「与人役大体」
「役人の第一の心得は人心を得ることだ。
 そのためには自ら努めて私欲を捨てなければならない。
 万民の心、それはすなわち天の心だ。
 役人は万民の願いを天の願いとして心得ふるまわなければならない。
 それが良い役人というものだ。」

1年半ののち帰還した西郷は大きく成長、深謀遠慮の人となりました。

そしてここから薩長同盟、王政復古、江戸城無血開城という明治維新のリーダーたちが誕生します。


私たちの持っている西郷のイメージは、沖永良部島以後の、寡黙でとらえどころのない西郷です。
山形県鶴岡市に残る「南洲翁遺訓」には、リーダー論の神髄が書かれています。

「命もいらず 名もいらず
  地位も金もいらぬという人は
     始末に負えない
 しかし、この始末に負えぬ人でなければ
  国家の大業は成し遂げられぬなり」

無私の精神を持って・・・一国のリーダーたる人間は命を惜しんではならない。

島流しの旅によって自分自身を見直した結果、私利私欲は捨てるという考えに至ったのです。
公と私を分けて、天命を待つしかない。
国の為に、人の為に生きていく。。。
そんなリーダーは西郷以外、日本には存在しません。

そして、西郷最大の謎と言われる西南戦争。
何故自ら築き上げた新政府に反乱を起こしたのでしょうか?
そして、逆賊の汚名をかぶる最期となったのでしょうか?



明治政府を率いたのは、維新の三傑、大久保・西郷・木戸の三人です。
明治4年、大久保、木戸は岩倉使節団として諸外国を視察、近代化の国づくりを目指してのことでした。

西郷は、留守を預かります。
廃藩置県などの政策を断行します。
明治6年政府に激震が・・・
明治六年政変は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変です。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞しました。
その結果、西郷が政府から脱退します。

47歳で鹿児島に戻った西郷は、私学校を設立、政治の表舞台から身を引きます。
一方、西郷を失った明治政府に対し、士族が反乱を起こします。

幕末、新時代の礎のなった士族は、廃刀令や禄の廃止によって政府に不満を抱くようになります。
その機運は鹿児島にも・・・

その勢いが止まらなくなったとき・・・
「おはんらにやった命、おいの体は差し上げもうそう」
担ぎ出される形で1万3千の兵を挙げます。

明治10年2月、熊本城の戦から始まった西南戦争。東京を目指して北上するも一進一退。
腐敗した政府に立ち上がる西郷の名は鳴り響き、民衆の期待さえも一身に引き受けます。

あらゆる人の想いをのせて。。。

西郷は次第に劣勢に・・・
最後まで戦いを止めない士族。
6か月後、塀の数はわずか300になっていました。

やがて総攻撃が。

「もう、ここらでよか・・・。」

明治10年9月24日西郷自決。享年51歳でした。

藩が無くなる。。。刀が無くなる。。。荘園制度の頃から守ってきたもの、特権階級もなくなり、家禄までも。。。そんな士族の氾濫を抑えられるのは西郷だけでした。

明治維新という時代を切り開いたのは薩長。。。そんな薩摩藩が、西南戦争という一番悲しい想いをしました。そんな薩摩藩を心情的に捨てることの出来なかった西郷。

そして、権力を持った人間が私利私欲に走ることは、西郷の一番嫌いなことでした。

例えそれがいまにも沈没しそうな泥船であったとしても、西郷は船から降りることは出来なかったのです。

幕末・明治の矛盾を自分の命で清算したのが西郷。
そして、それを一番わかっていたのが大久保でした。

そして、大久保は西郷を討った政府の責任をとって暗殺されます。

この時、明治維新の幕は下りたのでした。



で、今の時代に西郷は必要?
う~ん、どうなんでしょうか?
でも、西郷がいたら・・・命がいくつあってもたりない!!というのが、諸先生方の意見でした。

どうなのかなあ。。。

佐幕派の好きな私としては、維新の人にドラマチック性は望んでいないのですが、この人は、ドラマチックに人生を送った人だなあ。。。と、思いました。揺れるハート

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西郷隆盛伝説 [ 佐高信 ]

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