鎌倉時代終焉後のおよそ60年間、二つの朝廷が並び立つという日本史上類を見ない状態が起こりました。
南北朝時代・・・それはまさに動乱の日々でした。
およそ60年続いた南北朝時代は複雑な時代です。

1333年 建武の新政
1339年 後醍醐天皇崩御
1350年 観応の擾乱
1351年 正平の一統
1367年 足利義満三代将軍就任
1392年 南北朝合一

南北朝時代の軍記物「太平記絵巻」には宴で上半身裸で踊っている者、酒を煽りいい感じの者・・・これは、建武の新政のキーパーソン第96代後醍醐天皇が開いた無礼講といわれる宴です。
身分の上下など一切なくして飲み、歌いましょうということですが、真の目的は鎌倉幕府を倒幕する見方を集めることでした。
倒幕した理由は・・・??

「我が子に皇位を継がせることは出来ぬのか・・・??」

後醍醐天皇は、我が子を天皇にしたかったのですが、出来ない理由がりました。
それが両統迭立です。
その始まりは鎌倉時代の事・・・
きっかけは、第88代後嵯峨天皇が皇位継承を誰にするか明確にしないまま崩御したことにありました。
そして皇位継承者の後深草と亀山の相続争いとなりました。
持明院統第89代後深草天皇と大覚寺統第90代亀山天皇・・・から交互に即位する両統迭立となり、以後それが踏襲されていました。
後醍醐天皇は大覚寺統の天皇なので、次は持明院統からの天皇と決まっていたのです。
しかし、自分の子を天皇に即位させたい後醍醐天皇はこの両統迭立を廃止したかったのです。
そのためには、承久の乱以降、皇位継承に介入することになってきた鎌倉幕府を倒すことが必要だったのです。
くわえて、幕府による武士中心の政治ではなく、天皇中心の政治に戻すことを考えていました。
両統迭立を撤廃し、自分の子孫に皇位継承させ、天皇中心の政治に戻すために、後醍醐天皇は倒幕の狼煙を上げたのです。
ところが・・・その計画が二度も幕府にバレ、後醍醐天皇は隠岐へと流されてしまいます(1332年)。

後醍醐天皇の皇子・護良親王が各地に倒幕を命じ、吉野で挙兵したのはその8か月後のことでした。
すると、幕府への反乱勢力が次々と立ち上がるのです。
当時の鎌倉幕府に不満を持っていた人々はたくさんいました。
北条氏が日本の大半の所領を治め、その他の武士の所領が少なかったのです。
隠岐に流された翌年、後醍醐天皇は隠岐を脱出することに成功し、三度目の倒幕の狼煙を上げます。
この時、鎌倉幕府が鎮圧軍として関東から京都の派遣したのが、分裂のもう一人のキーパーソン・足利高氏です。
高氏は、一度は後醍醐天皇側と戦いますが、突如天皇方に寝返り、幕府に反旗を翻します。
自分と共に討伐軍の大将として派遣されていた北条一門の有力大名である名越高家が射殺されたことが、足利高氏が後醍醐に味方した理由の一つでした。
形勢が不利だと幕府を見限り天皇方に・・・そして倒幕の呼びかけに応じた武士たちをまとめ、六波羅探題を攻め落とします。
これによって天皇方が優勢に・・・
さらに、尊氏同様幕府から寝返った新田義貞ら反乱軍が鎌倉に入り、幕府軍を撃破!!
鎌倉幕府は滅亡します。

その年の6月のこと・・・武家から政権を奪還した後醍醐天皇は、京都に帰り元号を建武と改め、再び天皇による政治を始めます。
これが建武の新政です。
こうして、朝廷主導による政治に戻した後醍醐天皇ですが、その3年後、朝廷は南北に分かれてしまいます。

後醍醐天皇の政治は府独裁的でした。
天皇は鎌倉時代から武士が持つ所領を白紙に戻します。
その上で、個別安堵法を発布。
土地の所有権は、天皇が許可しない限り無効とするとしたのです。
すると、所領安堵の許可を求める武士たちが京都に殺到・・・都は大混乱となります。

二条河原落書には・・・
”この頃 都に流行るもの 夜討 強盗 謀綸旨”
綸旨とは天皇が出す命令の事で、後醍醐天皇のせいで治安が悪化し、偽の綸旨が出回るなど、世の中が混乱したことを批判しています。
朝廷ファーストだった後醍醐天皇は・・・
公家には十分に恩賞を与えるものの、武士たちには少ししか与えませんでした。
武士たちは大きな不満を抱きます。
後世、この時代の政治を「物狂いの沙汰」といっています。

武士を蔑ろにした後醍醐天皇の政治・・・不満分子が幕夏したのは1335年のことでした。
天皇中心の政治に不満を抱く旧幕府の残党が鎌倉を占拠します。
これを鎮圧すべく、願い出たのが足利尊氏でした。

「征夷大将軍に任じていただき、鎌倉へ向かわせてはもらえませんでしょうか」by尊氏

しかし後醍醐天皇は許しません。
天皇中心の政治に戻した後醍醐天皇にとって、征夷大将軍という役職など邪魔でした。
高氏は後醍醐天皇の許可なく鎌倉に向かい、反乱軍を鎮圧。
その後も天皇の帰郷命令を無視します。
まだまだ反乱分子が潜伏していたのです。
尊氏は旧幕府の残党を掃討してから京都に戻るつもりだったのです。

そんな尊氏の考えも露知らない後醍醐天皇は、新田義貞に足利尊氏追討命令を出します。
これによって鎌倉幕府を共に倒した後醍醐天皇と袂を分かち朝敵となってしまった尊氏は進撃して来た新田軍を竹之下の戦いで撃破!!
敗走する新田軍を追って京都に入るも、天皇方の北畠顕家の軍に敗北。
九州へと逃れていくのです。
しかし、九州で立て直した足利尊氏は、1336年、多々良浜で天皇方の大軍を破ると京都を目指します。
そして湊川の戦で新田軍と再び相まみえ勝利しました。

京都へと逃げ帰った新田軍は、後醍醐天皇が比叡山に立てこもります。
こうして、後醍醐天皇がいなくなった京都に足利尊氏が入り、持明院統の光明天皇を擁立。
その一方で、次は大覚寺統から天皇を出すことを条件に比叡山に籠っていた後醍醐天皇と和睦します。
これを受け、後醍醐天皇は天皇の正当性を示す三種の神器を新たに即位した光明天皇側に引き渡すのですが・・・
2か月後、御醍醐天皇は京都を脱出。
吉野につくと・・・
「今日の御所に渡した神器は偽物じゃ!!
 真の神器は朕のもとにある・・・!!」と。
自分こそが、正当な天皇であると宣言し、新しい王朝・・・南朝を設立します。
どうして朝廷が南北に分裂してしまったのか・・・??
それは、後醍醐天皇が「建武の新政」に失敗し、足利尊氏と対立したためです。
こうして朝廷は、南朝と北朝に分裂、二人の天皇が並び立つという日本史上類を見ない南北朝時代が幕を開けました。
これ以後、南朝と北朝は違う元号を使うことに・・・南朝は延元、北朝は建武と・・・。

遂に幕を開けた南北朝時代・・・
後醍醐天皇は吉野に追いやられる形で南朝を開くのですが、勢力は吉野周辺と九州、東国の一部にすぎませんでした。
後醍醐天皇は、京の都を取り戻すべく、味方の武士たちに京都に攻め入るように命じます。
しかし、天皇の側近だった北畠顕家が、1338年和泉国で討死していました。
また新田義貞も越前国で雑兵の矢を受け、「最早これまで」と、1338年に自害。
有力な武将を次々と失った南朝は、急速に力を失っていきました。

そこで後醍醐天皇は、自分の王子たちを陸奥や遠江に派遣しますが、これも失敗!!
1339年、我が子護良親王を皇太子とした翌日の8月16日、失意のうちに後醍醐天皇崩御。

「太平記」にはその最後の様子が記されています。
足利方を悉く滅亡させよと命じ、苦しい息を吐きながらも、朕の体は南の吉野で骨になるが、魂は北の京の都奪還の執念を持ち続けるといい残しました。

こうして南朝を立てた後醍醐天皇が崩御したことで、尊氏が後ろ盾となっていた北朝が俄然有利となっていきます。

後醍醐天皇が亡くなる前の年・・・
1338年、足利尊氏が征夷大将軍に就任します。
京都で室町幕府を開きました。
尊氏は弟・直義と政務を分担して、幕政を運営していました。

南北朝の対立は、実質的には南朝と北朝方の室町幕府との対立でした。
そのため、幕府の内紛が南北朝時代をより複雑にしていきます。
1347年、南朝方の運勢が九州で勢力を拡大、九州における幕府の拠点を次々と落としていきます。
これに呼応するかのように、父・後醍醐天皇の遺志を継いで即位した後村上天皇は、北朝方の幕府を倒そうと画策します。
京都に近い摂津国でも南朝方が挙兵しました。
それを鎮圧すべく、尊氏は側近の高師直を討伐軍の大将として出陣させます。
戦を得意とした師直は、見事四条畷の戦いに勝利すると、勢いそのままに南朝に兵を差し向け、皇居や公家の邸宅、寺社にまで火を放つのです。
この時、後村上天皇ら南朝は吉野を脱出し、賀名生へと逃げのびています。

一方、幕府の方でも師直に不満を抱くものがいました。
幕府の政務全般を担っていた弟の直義です。

「見境なく火をつけるとは、なんという狼藉・・・」

そんな直義の不満を余所に、この軍功によって師直の幕府での影響力は強まり、直義を凌ぐほどに・・・
おまけに、直義の養子である直冬が、師直に冷遇されていたのです。
直義の不満はついに爆発!!
「高師直を討つ!!」
これに呼応したのは、師直に不満を抱いていた各地の武士たちで、次々に挙兵します。
世にいう観応の擾乱の始まりでした。
挙兵した直義は、兄・尊氏もびっくりな策を講じます。
突然京都を脱出し、宿敵である南朝に出向きます。
そして、南朝に降伏し、和睦を申し入れます。
南朝勢力を味方につけるためでした。
この時、直義が出した和睦の条件は、南朝と北朝から天皇を交互に出し合う「両統迭立」に戻すというものでした。
しかしこれは、自分の子孫に跡を継がせるという後醍醐天皇の意思に反する事・・・
南朝には受け入れがたい条件でした。
その一方で、これを受け入れれば、直義に味方する武士たちが戦力になり、南朝復活のきっかけになるのでは・・・??
そこで南朝は、和睦の条件をうやむやにしたまま、南朝の戦力回復のために、足利直義の降伏を受け入れるのです。
この直義降伏によって、南朝有利と見た武士たちが南朝側についたことで、南朝の思惑通り、南朝は息を吹き返します。
1月・・・直義は石清水八幡宮を占拠し、大軍で京都に向かうと師直討伐の準備を始めます。
そして2月17日、摂津国・打出浜で直義軍は師直を擁護する兄・尊氏軍と激突。
尊氏軍を完膚なきまでに叩き潰すのです。
その3日後・・・直義は尊氏と和睦・・・高師直に資格を差し向け、斬殺したといいます。
こうして直義は尊氏の嫡男・義詮の補佐役として幕府の要職に復帰。
表面上は平穏をとし戻したかのように見えた幕府ですが、水面化では家臣たちが尊氏派と直義派に分かれて激しく争っていました。
そんな中、直義は義詮との関係がうまくいかず、幕府内で孤立していきます。
すると突如政務からの引退を表明。
北陸へと逃亡してしまいました。
この直義の行動が、再び南北朝に大きな波紋を呼びます。

南北朝時代が始まって15年・・・朝廷が一時的に一つになった時がありました。
1351年正平の一統です。
当時室町幕府は尊氏派と直義派に分裂していました。
孤立を深めた直義は北陸に逃げてしまいました。
九州では南朝方が勢力を拡大、幕府方の城を次々と攻略していました。
尊氏は焦ります。

「九州では我が軍が劣勢・・・ 
 やがて京の都までその手は伸びて来るだろう
 しかし、北へと逃げた弟・直義もなんとかせねばならん」

考えた末に出した答えは、直義を優先させた驚きなものでした。
南朝に降伏して和睦する!!
この時、尊氏が出した和睦の条件の一つが、元号を南朝の「正平」に統一すること。
そして北朝三代崇高天皇と皇太子・直仁親王が廃止され三種の神器も南朝に没収・・・その他北朝が行った叙位・任官も否定され、両朝分裂前に戻されたのです。
幕府が支持する北朝にとって圧倒的不利な条件での和睦・・・
直義のしていた南朝との講和・・・尊氏は南朝と和睦することで、直義を幕府に戻そうとしていました。
尊氏が南朝に降伏したことで、南朝が勝利となり南北朝が統一・・・これが正平の一統です。

しかし・・・再度分裂してしまいます。
南朝の有力武士が加わった尊氏軍が、北陸から鎌倉に向かった直義を捕らえて幽閉・・・。
その直後、直義は謎の死を遂げます。
さらに、尊氏が京都を離れているうちに、南朝が和睦を破って京都に侵攻・・・尊氏の嫡男である義詮を追い出し、三種の神器を奪い取ってしまいます。
天皇中心の世にしたい南朝方にとって、幕府の存在は認めることができなかったのです。
その後、京都はすぐに幕府の手に戻りますが、北朝の三人の上皇(光厳・光明・崇光)と皇太子が南朝に連れ去られます。
そこで、幕府を預かる義詮は、三種の神器のないまま、光厳上皇の第二皇子を後光厳天皇として即位させ北朝を復活。
こうして南朝が尊氏との和睦を破ったため、南北朝は再び分裂したのです。

1358年、足利尊氏死去・・・南北朝の混乱は、尊氏の代では終わりませんでした。

疫病を退散させる目的で、平安時代に始まったとされる祇園祭・・・
その壮麗な祭りの見どころは、山鉾の巡幸です。
今のように山鉾を巡幸しながらお囃子を鳴らしながら京都を練り歩くようになったのは南北朝時代といわれています。
町ごとに工夫を凝らした山鉾は、町衆の経済力を示すももであり、町内の団結を強める役割を果たしていました。
南北朝の分裂によって幾度も焼かれた京の町・・・
戦いは全国に飛び火し、世情は不安定に・・・人々は団結し、自ら身を守るしかありませんでした。
それは農民たちも同じで、惣という農民組織を作り団結、役人相手に年貢の交渉も始めます。
14世紀は、社会経済的にも重要視され、この頃から惣村という現在の農村の原型・村が形成されていきました。
南北朝時代が始まって20年以上が経っていました。
尊氏の死後、二代将軍には息子・義詮が・・・
義詮は南朝討伐を試みるも、混乱は続きます。

1367年、足利義満三代将軍就任。
南朝と幕府の本格的な和睦交渉を受け、後村上天皇は北朝と和睦して争いを収めるために綸旨を出します。
しかし・・・綸旨の中に、”北朝が降参すれば”と書かれていたため、義詮は激怒、和睦は実現しませんでした。
そしてその時、義詮はなくなります。
その後を継いで三代将軍に就任したのが義満・・・この義満こそが、南北朝時代に終止符を打つキーパーソンです。
義詮が亡くなった翌年、幕府との交渉に前向きだった後村上天皇が崩御・・・
和睦に反対していた長慶天皇が即位します。
この長慶天皇は、武力によって南北朝合一を果たそうとしていました。
室町幕府も、義詮が急死し、義満が後を継ぐ者のまだ11歳の少年でした。
義満が推さなかったために幕府は不安定になり、南北朝合一どころではなくなってしまったのです。
将軍義満が成長するまでは幕府も和睦どころではありません。
そして・・・南北朝時代が始まって47年・・・
南朝の長慶天皇が譲位し、後亀山天皇が即位します。
軍事的な体力が残っていなかったこともあり、南朝方の軍事活動は極端に減っていきます。
一方26歳となった足利義満は、各地の有力守護たちを討ち、将軍としての権力を拡大していきます。
南朝は最早脅威ではありませんでしたが、その存在は無視できません。
南朝が幕府に反旗を翻す勢力の受け入れ口になっていたからです。

「余に背く者たちを絶つには、南朝をなんとかせねばならぬな」

そこで義満は、和睦し南朝を取り込むことを考えます。
1391年、北朝方の室町幕府の軍勢が、九州の南朝最後の拠点を攻略。
ここに九州における南北朝の戦いがようやく終わりました。
その翌年の1392年、南北朝の和睦を考えていた義満は、南朝にこう呼びかけます。

「三種の神器を差し出して頂ければ、両統迭立を復活させましょう」

これ以上争いが続くことを望んでいなかった後亀山天皇はこれに応じます。
10月5日・・・天皇は僅かな臣下を連れて京都に向かい、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡・・・
ついに南北朝合一・・・およそ60年に続いた南北朝時代に終止符が打たれたのです。
この時の合一の条件は・・・
①南朝が「三種の神器」を北朝に譲渡
②国衙領は南朝が、長講堂領は北朝が支配
③今後、皇位は南朝と北朝が交互に
でした。

ところがこれに反し、これ以後北朝の系統が続くのです。
どうして南北朝合一の条件は守られなかったのでしょうか?
南朝との和睦交渉に、北朝はほとんど関与していませんでした。
幕府が勝手に行いました。
そのため、北朝が和睦の条件を聞いたのは合一後のことでした。
蚊帳の外におかれていた北朝は、幕府による事後報告を守る必要がないと考えたのです。
また、将軍義満も、もともと守る気がなく南朝をだましていたのでは・・・??とも言われますが・・・
しかし、両統迭立を破った時は、義満は亡くなった(1408年)後です。
南朝は敗北し、子孫が天皇として残ることはありませんでした。
北朝も大幅に弱体化し、足利幕府の強力な保護がなければやっていけなくなりました。
勝者は・・・室町幕府ということになります。
後醍醐天皇が足利尊氏と対立し、吉野に新しい王朝・南朝を設立してから60年・・・多くの人が血を流し、何度も町は焼かれ、人々は不安に駆られ続けました。
今から700年前、日本あった動乱の日々でした。


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