図説坂本龍馬

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黒船来航によって始まった日本の国家動乱。
龍馬は一介の脱藩浪士として日本を奔走し・・・西郷隆盛・木戸孝允らと維新の立役者となりました。
龍馬が最も性欲的に動いたのは1867年。

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幕府や諸藩が対立したこの幕末に・・・
来たるべき新体制は、挙国一致でなければならない!!という龍馬の信念がありました。

諸藩の融和に奔走する龍馬・・・その画策とは・・・??
新政府綱領八策・・・憲法の制定、議会制、近代的軍隊、未来を予言したかのようなプランがそこにはありました。


龍馬、最期の一年・・・その奔走とは・・??



1867年・・・すでに幕府は長州征討に失敗し、弱体化を晒していました。
将軍・徳川慶喜も・・・幕府の権威の低下も防ぐことは出来ず・・・
薩摩と長州・・・武力討幕派は、軍事同盟を結んでいました。
越前・土佐などは、平和裏に物事をすすめようとしていたのです。

混迷する情勢・・・
この打開に立ち上がったのが坂本龍馬でした。

1867年6月22日・・・京都三本木の一角で・・・龍馬の呼びかけに応じたのは、幕府の崩壊を見据えた薩摩藩と、土佐藩・・・土佐藩の代表は後藤象二郎でした。

当時、西郷たちは武力討幕を画策していましたが・・・後藤は、武力討幕は時期尚早とし・・・

「ここは、まずわが土佐藩が幕府に対し、政権を朝廷に返上するよう建白する
 もし、それを幕府が却下したら武力討幕に踏み切る大義名分にすればよいのではないか。」by象二郎

これは、大政奉還の建白です。
西郷たちは、幕府は必ずこれを拒否するとし、いい機会になると承諾します。
この、薩土盟約を誰よりも喜んだのは別室で控えていた龍馬でした。
龍馬の役割は・・・”考える猶予””問いかけるポジション”でした。
この薩土盟約は、海援隊の資料にも残っていて・・・そこには王政復古もありました。

しかし、土佐藩内部には、薩摩の西郷たちに不信感を抱くものもたくさんいました。
極秘会談の翌日に京都にある土佐藩邸に向い、藩の重役と会見し・・・盟約の重要性を説きます。
その結果・・・土佐藩に大政奉還の建白に動いてもらうようとりつけました。

が・・・武力討幕派の西郷たちと組むことに、主君・山内容堂が反対します。
土佐藩は徳川に恩義がある・・・後藤が土佐藩の説得に失敗したのでした。

容堂の同意を得られなかった後藤に対し・・・
”薩摩は早期に挙兵することを決定した。
 よって、土佐藩の大政奉還建白書に協力することはできない。”
もはや・・・土佐を信用することはできない・・・後藤は見切られたのでした。

軍事同盟を結んでいた長州藩と武力討幕に進んでいく薩摩藩。。。
薩土盟約は、ここに決裂したのです。

龍馬は行動に出ます。
長州藩の木戸孝允に対し、方針を伝えます。
武力討幕派の乾を京都に送り、後藤を土佐に帰すというのです。
臨機応変な対応が龍馬の真骨頂でした。

しかし・・・龍馬の奔走をよそに・・・薩長は、京都・大坂・江戸の三都を一挙に攻撃するという未曽有の計画を練り上げていました。
諸藩の連携をとろうとする龍馬に戦いの臭いが・・・!!

薩土盟約が決裂し・・・内乱の危機が迫った・・・しかし、幕府から土佐藩に対して呼び出しがかかりました。

「幕府に対して政権返上を勧める建白書があるとのこと・・・
 慶喜公がその意見を聞きたいと申している」

なんと、土佐の大政奉還を聞いてみたいと、幕府の法から歩み寄ってきたのです。
10月3日・・・後藤たちは、大政奉還の建白書を幕府に提出します。

幕府が建白を受け入れるかどうか・・・??

10月14日・・・時代は大きく動き出します。
将軍慶喜が大政奉還をします。
土佐藩の建白を受け入れたのです。

会議のメンバーには、徳川の面々・・・山内容堂・島津久光・・・国政に影響力を持つ人々が指名されました。
しかし、すでに武力討幕に動いていた西郷・大久保たちは、薩摩本国とは別の行動をして・・・孤立状態でした。
しかも、諸侯会議で慶喜が再び実権を握ることにでもなれば・・・
西郷たちが暴発する可能性もあったのです。

龍馬はどうする・・・??
何としても諸侯会議を進めなければならない・・・!!

大政奉還によって開かれた諸侯会議への道・・・
しかし、政局は緊迫していきます。

その空気を感じていたのは岩倉具視。
大久保利通への手紙には・・・
「このところ、会津藩が狂気の如く激怒して、薩摩の西郷や大久保を討つと息巻いている」
会津藩の過激派たちは、慶喜公が大政奉還したのは、薩摩のせいで追い詰められたからだ・・・と、思っていたのです。

同じころ・・・
ひとりの薩摩藩士が、民家に潜伏する無防備な龍馬に対し、土佐藩邸か薩摩藩邸に移るようにすすめます。
が・・・龍馬は応じませんでした。

「薩摩は自分のところに来いと言ってくれるのですが、それでは土佐への嫌味になるでしょう。
 万が一の時が訪れたなら、わたしはここで一戦交える覚悟です。」

どの藩にも組することなく潜伏し続けた龍馬。。。
しかし、念願の諸侯会議を待ち続けたものの・・・大名たちは一向に上洛してきませんでした。
この時・・・龍馬の国家構想が書きあがります。
「新政府綱領八策」・・・幕末を奔走してきた龍馬の集大成でした。

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第一義 天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ
第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義 外国ノ交際ヲ議定ス
第四義 律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ユ
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス

龍馬は越前藩の財務を担った三岡八郎と会談します。
藩の財政難を見事救った三岡と、新政府の財源について話し合ったのです。
新国家の財政を担うのは・・・三岡を置いて他になし!!と、後藤に推薦しています。

龍馬と三岡は・・・将来政府が紙幣を発行することを見越して、その試作品を作ろうとしていたようです。
近代を具現化していこうとする龍馬・・・。

挙国一致を最後まであきらめていなかったような龍馬。。。
明治時代に編纂された維新の志士たちの手紙を集めた遺墨集には・・・”新政府綱領八策の複製・前文”が載っていました。

後藤象二郎宛てにかかれたと思われるその手紙には・・・

”昨日お会いした際、今日認めると言っていた薩摩へ送る書き付けがもう出来上がっているのではないでしょうか。
 もし出来上がっているのならば、怖れながらその書き付けを一度拝見させて頂きたい。
 これから先々の手順についても認めました。
 その写しをお目にかけたいと思います。”

と。

それは、大政奉還によって焦った薩摩藩をケアするように書かれているようにも感じます。

龍馬が夢見た万機公論。。。
この国の行く末を決めるために・・・。

龍馬は最後まで薩摩とのパイプ役を買って出ようとしていたのかもしれません。

ところが・・・悲劇はその直後・・・
1867年11月15日・・・京都の潜伏先で暗殺されてしまうのです。
新しい日本の姿を見届けることなく、無念の死を遂げたのでした。

1か月後・・・12月9日に西郷たち討幕派は、王政復古のクーデターを決行!!
諸侯会議に実現は幻に終わりました。
戊辰戦争が勃発し・・・戦いに勝った薩長が主軸となって新しい国家・・・明治新政府が誕生しました。

それが龍馬の望む出発点だったのか??
龍馬が残した可能性は今も問われ続けています。
 

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