司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)

新品価格
¥1,134から
(2014/5/12 18:15時点)



中国の広大な大地に生きた英雄たち・・・
古代中国~よみがえる伝説~

敦煌の西に築かれた漢の長城・・・
紀元前2世紀、漢王朝は中央アジアまで勢力を拡大していました。
この時君臨していたのは・・・第7代皇帝武帝。。。
積極的に対外戦争をし、漢をかつてない巨大帝国へと押し上げたのでした。
しかし・・・その行いを批判する人物が現れました。
歴史家・司馬遷です。

sobasenn














紀元前99年、異民族との戦いに敗れた将軍に、武帝は理不尽な厳罰を与えようとしました。
それに対してただ一人将軍を弁護したのが司馬遷でした。
宮廷の人々は、保身を考えたのですが。。。
「私は真の意見を開陳したい。。。」
皇帝を批判したことで、宮刑を受ける司馬遷。。。
屈辱の中で書き上げた歴史書が・・・「史記」だったのです。
中国最古の通史・・・それは、権力者と対峙する中で生み出されたものでした。
近年中国では史記よりも古い古代文書が発見されてきています。
どれのどこを引用して史記を書いたのか???
その研究が行われています。
司馬遷は、どうして史記を書いたのでしょうか?

司馬遷の故郷は・・・陝西省韓城。
およそ2000年前に作られた石畳の道の先には・・・司馬遷の祠があります。
この祠は、司馬遷の死から400年後、秦王朝の時代に建てられました。
中国の「歴史の父」と呼ばれる司馬遷。
今から4000年前に生まれた中国文明の歴史を記したのが司馬遷の史記だからです。
その数130巻。
古代の中国王朝の攻防が克明に記されています。
夏・・・殷・・・考古学という新しい分野の研究がなされるようになり。。。20世紀に入りその評価が高まります。
殷では酒池肉林が行われていると書かれていましたが、その存在は疑わしかったのですが。。。
1920年代黄河の中流で・・・殷墟が発掘されました。
殷の実在が初めて確認されたのです。
膨大な数の青銅器が見つかります。
最も多く出土したのは、爵(酒の器)です。
殷の社会において、酒が重要ポイントだったことが解ってきました。

最近、最古の王朝・夏に繋がる発見もなされました。
河南省・二里頭遺跡です。
司馬遷が史記に書いていたことが、考古学によって裏付けされてきました。

中国古代王朝を書いた史記には、大きな特徴があります。
人物を通して歴史を見ようとしています。
司馬遷が生きた漢も、項羽と劉邦という英雄を通して書かれています。
漢王朝の高祖・劉邦について、その功績だけではなく、欠点も書いています。
そして、項羽の勇猛さも・・・。
司馬遷は、勝者も敗者もありのままに書いていたのです。

後世の人を虜にした・・・そんな「史記」の魅力とは???

西安(長安)は・・・漢の都。
紀元前2世紀、漢はかつてない繁栄の時代を迎えていました。
第7代皇帝武帝・・・武力で広大な帝国を築き上げようとしていましたが・・・
その野望の前に立ちはだかったのが、北方民族の匈奴。
その力は、モンゴル高原を中心に黄河の北にまで及んでいました。

事件が起きたのは・・・紀元前99年。
都を離れ、西域を目指す将軍”李陵”は、武帝の命令により匈奴討伐に向かっていました。
あるとき、匈奴の大軍に遭遇し・・・5000の兵で奮闘します。
しかし、圧倒的な匈奴に敗れて・・・生きて捕虜となってしまいました。

李陵の降伏に対し、烈火のごとく怒った武帝。
家臣たちも李陵を批判し始めます。
しかし、ただ一人李陵を擁護しようとした男・・・それが司馬遷だったのです。

司馬遷は武帝の傍に仕える大史公・・・宮中の暦や儀式を取り仕切る過去の出来事の記録者でした。
この事件について司馬遷は・・・援軍が来ず敗北したと友人に宛てた手紙に書いています。
その援軍を出さなければいけなかったのは・・・武帝の寵愛する側室の兄でした。
李陵の弁護は、その将軍を非難することに繋がるので、人々は口をつぐんだのです。

しかし、司馬遷は親交もなかった李陵を擁護。。。
そのことが武帝の逆鱗に触れます。
司馬遷に与えられたのは、死刑の次に重い宮刑でした。
強制的に去勢を受けさせられるという罰でした。

司馬遷の武帝に反論した真意は???
正しいものは正しい・・・と、伝えたかったのかも知れません。

遡ること10年前・・・山東省泰山で、武帝は自らが皇帝であることを告げる封禅の儀を行います。
その準備をしていたのは、若き日の司馬遷と父・司馬談でした。
この時の出来事が歴史の父になったきっかけを作りました。

長い間準備をしてきたにもかかわらず、武帝は・・・王朝の伝統とは異なる呪術的な方法で儀式を行いました。
さらに・・・本当ならば取り仕切るはずの司馬談の参加も許さなかったのです。
失望した父は病に倒れ・・・死の間際に司馬遷に志を引き継ぎ歴史を記すことを託しました。
「史記」には父・司馬談が書いた部分があります。
秦の始皇帝は、圧倒的な軍事力で天下統一に向かって進んでいました。
滅亡の危機に燕の国は・・・始皇帝の暗殺に踏み切ります。
それはあまりに無謀でしたが・・・暗殺者に選ばれた荊軻・・・
暗殺には失敗しますが、負けたにもかかわらずその行為に対して司馬談は”義”という言葉を用いました。
その生き方を後世に残そうとしたのです。
人のために生きていく生き方・・・義・・・

宮刑を受けた司馬遷は、ひかりの入らない牢獄に入れられます。
刑に服すること3年。。。
「人の死は太山よりも重く、また時には鳥の毛よりも軽い。
 その差はどのような目的のために死ぬかによる。
 宮刑という辱めを受けた私が、どうして死を選ばない理由があろう。
 そうしないのは、歴史を書き残せないまま死ぬことを無念に思うからである。
 私は国中の旧聞を集め、体系づけ、王朝が興亡する歴史の真偽を極めることを目指す。
 この書を世にあらわすことが出来れば死んでも悔いはない。」

「史記」130巻の半分以上を占めるのが、”列伝”です。
司馬遷は、歴史を人間を通して語ろうとしました。
第1巻は”伯夷”。
兄・伯夷(はくい)・弟・叔齋(しゅくせい)・・・古代殷王朝の時代の人物です。
「天道是か非か・・・??」
を・・・人間の運命を語っています。

司馬遷が”史記”執筆に勢力を雪いでいた頃、武帝は軍備の増強に力を注いでいました。
馬を繁殖させます。
武帝は強力な騎馬軍団を作ろうとしていました。
軍馬の数は40万になったとも言われています。
武帝は優秀な馬を求め続けます。
伝説の名馬は・・・”汗血馬”。。。武帝ははるか中央アジアから手に入れたといわれています。

武帝の最大の宿敵は匈奴。
紀元前200年、漢の創始者・劉邦は、匈奴の騎馬軍団に大敗を喫します。
以来、歴代漢の皇帝は、匈奴を兄・自らを弟とし、貢物を送ってきたのです。
この屈辱の関係終止符を打とうとした武帝・・・
紀元前129年から3度にわたり戦争を仕掛け勝利します。
そして・・・遂に匈奴を北方に追いやるのでした。

司馬遷はそんな匈奴も記しています。
「匈奴列伝」には・・・漢の人々の匈奴に対する偏見も、匈奴の実像もありのままに記録しています。

では武帝のことは???
「本記」には、過去の王朝を”夏”から2000年を記録しています。
その最後にあるのが武帝の時代・・・。

そこには大きな謎があります。
本来あるはずの武帝の生涯や業績がありません。
儀式やまじないの記述だけで埋められています。
他人の手によって差し替えられた可能性があるのです。

司馬遷はどんなことを書き記していたのでしょうか???
他の巻には・・・
治水の業績に加え、武帝が20年間以上、治水工事を行わなかったので、実りのない年が何年もあった。。。
現皇帝の批判も書かれていたので、武帝によって焼かれてしまったのでは?
と言われています。
はるか西に・・・勢力を伸ばしていく武帝・・・国家は疲弊していきます。
武帝の墓”茂陵”・・・築造は武帝が17歳の時に始められ、完成後まもなく・・・71歳で武帝はこの世を去ります。
栄華を極めた一生でした。

生涯を歴史に捧げた司馬遷。
いつ、どのような最期を迎えたのかはわかっていません。

sibasenn

















司馬遷の祠の一角にお墓があります。
ゲルのような形をしているのは・・・モンゴル人であった元王朝が建て直してくれたためと言われています。
自分達の先祖・匈奴の歴史もきちんと伝えてくれたっことに対して敬意を払ったのです。

以来中国では王朝の歴史が書き綴られてきました。
そのすべては、人物を中心にするという”史記”を見習って作られています。

史記は・・・平安時代には日本にも伝わっていました。
国宝に指定されている写本は平安貴族から毛利家に伝わり、代々守られてきました。
紫式部が暗誦し、徳川家康の愛読書でした。

日中戦争に参加した兵士が・・・時代と戦いを考え始めます。
昭和を代表する作家・武田泰淳が・・・昭和18年代表作”司馬遷”を世に問うのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村
 

図説 地図とあらすじでわかる!「史記」

新品価格
¥1,350から
(2014/5/12 18:16時点)



史記 (まんがで読破 MD128)

新品価格
¥596から
(2014/5/12 18:18時点)