日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:武田信玄

戦国最強と謳われ数々のライバルを打ち負かした猛将・武田信玄。
しかし、領国・甲斐の統治は一筋縄ではいきませんでした。
四方を山に囲まれた甲斐の国は急流河川が幾重にも流れる日本屈指に洪水多発地帯でした。
独立心の強い豪族が、河川の流域に割拠し、信玄の支配をも脅かしていました。
治水のような広域にわたる協力体制が必要な事業を行うには、国内がバラバラのままでは実現性が高くありません。
信玄が戦国大名として豪族たちを束ねる上に立つ存在として治水工事を行うことで、甲斐国の人々の支持を得ていく・・・自らの求心力を高めていったのです。

治水を通して国をまとめ上げた信玄・・・その原点が、甲府盆地に築いた信玄堤でした。
信玄堤は、南アルプスから流れ来る急流河川から、甲府盆地を守るために作られたおよそ3キロに及ぶ堤防です。
戦国時代に信玄が作った本土手と呼ばれる堤防が、その原型と呼ばれています。
信玄堤は現在、釜無川と御勅使川を受け止める甲府盆地の治水の要です。
しかし、信玄の時代は今と異なり川が縦横無尽に盆地に流れ込み、信玄堤だけでは対処できなかったのでは?と言われています。
江戸時代に書かれた「甲斐国史」には、信玄堤の他にも治水工事が甲府盆地に存在したと記されています。
その一つが、信玄堤から7キロ離れた御勅使川上流に残っていました。
石積出と呼ばれ、高さ7m、幅15m、奥行き80mにも及ぶ城壁のような大きな石垣です。
当時、いくつもの流路を持つ御勅使川が釜無川にぶつかることで、広範囲の洪水が起きていると考えられ・・・洪水が起こりやすい川の合流点を一カ所にまとめるため、この石積出を築いたともいわれています。
暴れる一番根元を押さえるのがポイントでした。
石積出によって向きを変えられた川は、高岩と呼ばれる断崖に激突!!
一旦勢いを弱めた川を、下流の信玄堤が受け止め、甲府盆地への浸水を防いでいたのです。
信玄堤が途切れる釜無川の下流域にも工夫が凝らされます。
ここでは霞堤と呼ばれる隙間の空いた堤防が活躍しました。
今も、霞堤の跡を見ることができます。
洪水時には、隙間からゆっくり水があふれだすことで、水の勢いを逃がし、堤防の決壊を防ぎました。
そして洪水が治まれば自然と水が川へと戻っていく仕組みになっていました。
信玄の時代の人は、治水施設の能力を超える洪水が毎年来て溢れていました。
それに対して人々の生活は、洪水と共存する・・・洪水に勝つのではなく負けないようにする工夫が霞堤の極意でした。
水をもって水を制す・・・ユニークな信玄流治水術・・・川と人々との共存を支えていたのは、建造物だけにとどまりません。
信玄が堤防脇に新たな開拓地を作ろうと人々を集めました。
信玄堤の傍に家を建てれば、税金を一切免除する
その代わり、住民に堤防の修理や洪水への対応を義務付ける・・・治水ニュータウンを作り上げました。
この時出来た地区・竜王河原宿には、今も信玄堤へと続く細長い区画が残されています。
信玄は、平安時代に起源をもつ祭・御幸祭に莫大な費用をそそぎ、甲府盆地を巻き込む一大治水パレードへと発展させます。
水害に対する庶民の力と公の力をミックスさせ、水害を防ごうとしたのです。
川を治めるものが国を治める・・・治水を通して甲斐国を強国へとした信玄が、今も山梨を守っています。


岡山市の中心部に、津田永忠が生涯をかけて作ったものが残されてています。
普段はあまり水が流れていない百間川・・・全長13キロの人工河川が、一昨年、岡山市街を洪水から守りました。
西日本豪雨・・・岡山の平野部を三日間にわたる集中豪雨が襲い、平成最大規模の水害をもたらしました。
市街地を流れる旭川は水位が急激に上昇・・・下流部では氾濫も危ぶまれる事態となりました。
この時、市の中心部から北で、旭川から分流する百間川が放水路として機能しました。
水を海に流すことで、市街地のおよそ3300戸が浸水被害を免れたのです。
江戸時代前期に開削された百間川・・・その築造を指揮した岡山藩士・津田永忠は、城下のインフラを一気に引き受けた土木の名人でした。

1654年の備前洪水・・・局地的な豪雨によって、城下1455軒が家屋流失し、156人が犠牲となりました。
前代未聞の水害に、岡山藩主・池田光政は「我ら一代の大難」と嘆いたといわれています。
甚大な被害を招いた原因は、岡山城の造りにありました。
旭川を堀として利用していたために、激流があふれ出し、大洪水となって藩士や領民の暮らす城下を襲ったのです。
旭川の氾濫から城下を守るために作られたのが、百間川でした。
どのようにして旭川の水を百間川に導いたのでしょうか?
その要となる仕掛けが、分流部にあります。
洪水の取り入れ口として、旭川の堤防を切り下げて作られたのが、百間川の入り口です。
その左右に作られた丸みのある石積みが巻石です。
強度の高い岡山さんの花こう岩が使われ、永忠が作った当時の姿で受け継がれています。
西日本豪雨の時も、改修工事を終えたばかりの巻石が活躍しました。
百間川に流れた最大で毎秒1500トンの濁流に耐え抜き、市街地の浸水被害は軽減されたといいます。
三百数十年前に、永忠がこれを築造してから、岡山の町を守っているのです。

津田永忠は、洪水から人々を守るだけでなく、その先も見据えていました。
洪水によって田畑を失った農民たちは困窮し、飢饉が・・・およそ8万人が飢えに苦しみます。
永忠は、農村を復興し、藩と領民をすくうために大規模な新田開発が必要だと痛感します。
そこで、当時広大な干潟が広がっていた百間川下流域を干拓し、水田に変えるという大胆な計画を打ち立てます。
ところが、そんな大事業は不可能だと藩重臣たちの反対にあいます。
開発に要する工事費用は、半額までしか出せないと突き放しました。
それでも永忠は、残りの資金・銀500貫目(およそ10億円)にもなる大金を、大坂や京都の豪商から自分の名義で借り、工事費用を調達しました。
永忠は、私利私欲のために新田開発を行おうとしている・・・そんな周囲からの誹謗中傷に、こう反論しました。

「名誉が欲しいなら、新田開発には挑まない
 天道天下へのご奉公と思うだけである」

難事業だった新田開発・・・永忠は、巧みな技術を使って成功に導きます。
干拓のため、海水の侵入を防ぐ必要がありました。
そこで築いたのが、干潟を囲むおよそ12キロの堤防でした。
しかし、海より低い干拓地を堤防で囲ってしまうと、百間川から流れてきた水や水田を潤した農業用水を海へ排水することができない・・・
そのため永忠は、巻石でも使われた強固な花崗岩で水門を作り、海と接する百間川の河口一帯に並べました。
木製の板によって開け閉めのできる樋門・・・海の水位が河口より高い満潮には門を閉めて、海水が水田に侵入しないようにし、海の水位が下がる干潮に合わせて門を開き、たまった水を排水しました。
樋門を通して水を管理することで、新田開発が可能となりました。
百間川の治水を、農地の拡大に結びつけたのです。
こうして、江戸時代最大規模の沖新田が生れ、岡山藩と領民を窮地から救いました。
今も、開閉式の門のシステムは継承され、百間川水域の水田地帯を守り続けています。
300年以上岡山の人々を守ってきた百間川・・・その静かなたたずまいの中に、信念を貫いた武士・津田永忠の記憶が刻まれています。


実業家・金原明善・・・
明治から大正にかけ、天竜川の治水に尽力した実業家です。
江戸時代、暴れ天龍と恐れられた天竜川・・・全長213キロ、長野県の諏訪湖から静岡県の浜松平野に流れる急流河川です。
天竜川流域は、江戸後期の100年だけでも50回近くの洪水に見舞われ、その度に多くの命が失われました。
溺死者の魂を弔う慰霊塔が川沿いの至る所にあります。
1832年、浜松の名主の家に金原明善が生れました。
幼いころから村が水に沈むさまを幾度となく目の当たりにしてきました。
明善が洪水から人々をかくまったという屋根裏部屋・・・
洪水から村人たちを救いたいと、明治時代の幕開けと共に明善は動き出しました。

1874年、天竜川の治水を目的に、治河協力社を結成。
そして、自らの財産を元手に大規模な堤防工事を行いたいと明治政府に訴え出ました。
金原家の全財産を売り払い、工事費に充てるという明善に、国内行政を管轄した内務卿・大久保利通も困惑しました。
しかし・・・当時持っていた全財産、ガラスのコップ1個まで全部売って寄付をし・・・その覚悟が大久保を動かします。
明善の熱意に討たれた大久保は、以後、天竜川の治水事業を明善に一任し、政府から支援金を出すとまで約束します。
早速明善は、最新式の測量機器を買いそろえ、欧米の建築技術を取り入れた近代てきな堤防工事を計画します。
ところが・・・明善の治水計画に反発の声が上がり始めます。
公共事業は地域全体で話し合って行うべきだと流域の村々が治河協力社への参加を要求したのです。
しかし、明善は村々の加入を頑なに拒み続け、ついに治河協力社を解散させてしまいます。
天竜川を使って生計を立てている人にとって、漁業権が失われたり、天竜川の水運だったり・・・自分達の仕事を奪ってしまう事業だと考えた人がたくさんいたのです。
そんな人たちが、治河協力社に増えると、思惑が絡み合って合意形成が難しくなる・・・
明善は、多数決の原理を恐れたのです。
村々の協力を拒んだ明善は、地域から孤立・・・
政府からの支援金も絶たれ、近代的な堤防を建設する夢は絶たれてしまいます。
しかし、明善は全く別の角度から治水に迫ることを思い立ちます。
目をつけたのは山!!

森が討伐、青い山がはげ山へと変わっていっている・・・
雨が降れば土砂が流れて川にたまり、堤防が決壊しやすくなってしまう。
治水と植林とは方法は異なるが、その目的な同じではないか・・・??

治水から治山へ・・・
明善は、山の木々や水を貯える力で天竜川を鎮めようとしたのです。
見よう見まねで杉やヒノキなどの植林を始めた明善・・・
しかし、還暦間近のその行動を、初めは多くの人があざ笑いました。

かつては流域の人々との連携を拒んだ明善・・・
今回は、地域が一丸となって治山、治水を実現すると心に決めていました。
明善はまず山間に住む貧しい人々に賃金を支払い植林という新たな仕事を与えました。
さらに、丸太を運ぶ運輸会社、木材を加工する製材所、資金を回すための銀行を設立。
林業を中心に、新たな事業と雇用を生み出していったのです。
こうして流域の人々の心を掴んだ明善は、17年で680万本を植林します。
東京ドーム450倍の森林が生れ、後に天竜美林と呼ばれるようになりました。

明善が植林を始めてから40年近くたった大正11年6月・・・
歩くこともままならなくなった91歳の明善は、最後にもう一度山を見たいと仲間たちに頼みます。
明善が植えた杉やヒノキは、見違えるほど大きく育ち、人々を見下ろしていました。
明善を笑うものなど、もうどこにもいませんでした。

大正から昭和へ・・・山々に緑が戻ると同時に天竜川の洪水も次第に減少していきます。
明善が夢見たダムなどの近代的な治水施設にも支えられ、昭和20年を最後に浜松では天竜川の大規模な氾濫は無くなりました。
明善は、今も天竜川のほとりで人々の暮らしを静かに見守っています。

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土の偉人 金原明善伝 著/御手洗清 現代語訳監修/加藤鎮毅

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かつての甲斐国・・・山梨県甲州市にそびえる天目山・・・
1582年、名将武田信玄の跡を継いだ武田勝頼がこの山の麓で無念の死を遂げました。
ところ変わって・・・かつての紀伊国・・・和歌山県の高野山・・・
1595年、天下人豊臣秀吉の養子である秀次が切腹を命じられ、寺の一室でこと切れました。
この二人には、3つの共通点がります。
①歴史にその名をとどろかせる偉大なる父を持っていたこと
②無念の死を遂げたこと
③死後、数々の汚名を着せられたこと
です。

勝頼が自刃し、20代続いた名門武田家が滅びました。
歴史からその名が消えたことで、勝頼のことを不肖の息子、愚将と揶揄しました。
死の直前、養父・秀吉に対し謀反を企てたという嫌疑をかけられた秀次は、暴君・摂政関白と言う悪名を馳せます。
本当にそうだったのでしょうか??
偉大な父の影に隠れ、今まで注目されてこなかった二人の戦国武将の実在とは・・・??

武田信玄の四男として生まれた武田勝頼・・・26歳の時、信玄の指名で後継者となります。
どうして不肖の息子と呼ばれた勝頼が武田家を継ぐことになったのでしょうか?
信玄は、甲斐の隣国だった相模の北条氏康、駿河の今川義元と同盟を結んでいましたが・・・
1560年桶狭間の戦いで今川義元が尾張の織田信長に討たれると、弱体化した今川の領地をとろうと信玄は信長と同盟関係を結びます。
そしてその証として信長の養女が勝頼の正室として迎えられました。
ところが・・・この同盟に、勝頼の兄で信玄の嫡男の義信が猛反発。
義信は今川義元の娘を妻にしていたので、今川家の立場をとっていたのです。
自分に異を唱えた義信に対し信玄は激怒、義信は幽閉され2年後自刃していまいました。
この時、次男・信親は出家、三男・信之もすでに亡くなっていたため、年功序列によって四男の勝頼を新たな後継者に指名しました。
ところが、信玄の家臣たちが猛反発!!
それほど勝頼は、後継者に相応しくない不肖の息子だったのでしょうか?
信玄の側室だった勝頼の母・諏訪御料人は、信玄が攻め滅ぼした信濃の豪族・諏訪氏頼重の娘でした。
諏訪家との融和を図ろうと考えた信玄は、勝頼が生れると諏訪家の男子が用いていた頼の文字を使った名を与え、諏訪家の跡取りにすることにします。
そして勝頼はやがて武田配下の諏訪家の領主として戦に参加するようになります。
このことが、勝頼が後継者に指名された際、大きな問題になりました。
武田の重臣たちにとって、長らく同僚として戦を戦ってきた勝頼が、館となることに反発があったのです。
もう一つは、勝頼はあくまでも諏訪勝頼・・・諏訪家の男であって、武田の人間ではないという・・・
武田家は代々嫡流が家督を継いできていました。
余所の家に養子になっていた人間が武田の家を継ぐということについては根強い反発があったのです。
家臣が勝頼が跡取りとなることに反対したのは、勝頼が”不肖の息子”だったからではなく武田配下の諏訪家の当主だったからです。

こうして勝頼は、家臣の反対を受けながらも信玄の後継者としてはれて武田勝頼を名乗ることとなります。
ところがその2年後、信玄は病死してしまいました。
すると、父・信玄の遺言が、さらに勝頼を苦しませます。
その内容は・・・
”勝頼の息子・信勝が16歳になり次第、家督を継がせ、勝頼はその後見人になること”
勝頼が正当な武田家の跡取りではなく中継ぎであると・・・真の後継者は勝頼の息子・信勝だといっているようなものです。
どうしてこのような遺言を残したのでしょうか?
ゆくゆくは勝頼の息子・信勝が跡を継ぐから・・・と、家臣と勝頼を配慮したものだったのですが、逆効果だったようです。
武田の家臣は、武田二十四将と言われ、一筋縄ではいかない者も多く、信玄と一緒に領土を大きくしてきたという自信もあるので、そんな人たちを勝頼がコントロールするというのは並大抵のものではありませんでした。
信玄が長生きをして、勝頼と家臣たちの関係をうまくつなげるような関係を作っていればよかったのですが、不運としか言いようがありません。

甲斐の虎と恐れられ、戦国最強の武将・武田信玄・・・
対して息子の勝頼は、後世愚将と蔑まれてきました。
織田信長と同盟を結んでいた武田信玄でしたが、越前の朝倉義景や北近江の浅井長政、さらには大坂の石山本願寺などが決起すると、信長包囲網に参戦します。
1573年三方ヶ原の戦いなどで、信長と同盟を結んでいた徳川家康を相手に戦いを優勢に勧めていましたが・・・
そのさ中、持病が悪化・・・甲斐へ戻る途中に亡くなってしまいました。
そんな父の無念を晴らすために、新生武田軍も織田・徳川連合軍に挑んでいきます。

1574年、勝頼は織田の領地である東美濃へ侵攻。
その勢いはすさまじく、1日で18もの城を落とします。
さらに、家康の領地へ侵攻した勝頼は、遠江にある難攻不落の城・高天神城を陥落させ、三河の足助城、野田城までも落としてみせるのです。
焦る家康をしり目に、勝頼が次に狙いを定めたのは、家康の息子・信康が城主を務める岡崎城でした。
勝頼は、徳川家の家臣・大賀弥四郎らと内通し、岡崎城を内外から攻め落とす作戦を立てます。
結局、済んでのところで情報が洩れ未遂に終わり、大賀弥四郎は処刑されます。
もし、岡崎城を占拠されていれば、信長の援護が絶たれ、浜松城にいた家康は孤立し、武田軍によって壊滅状態に追い込まれるところだったのです。
家康を追いつめた勝頼の見事な戦いを伝え聞いた信長は、同盟を結んでいた越後の上杉謙信にこんな手紙を送ります。

「勝頼はまだ若いが、信玄の軍法を守り、表裏をわきまえた武将 恐るべき敵である」

勝頼が侮れない存在であることを認めたのです。
しかし、その一方、勝頼の家臣たちは・・・

”これで勝頼さまは、益々我らの意見を聞かなくなる”

勝利を重ねていく度に、勝頼は独断で動くようになり、家臣たちとの溝は深まるばかりでした。
そして、1575年・・・ついに勝頼は織田・徳川連合軍との大一番を迎えます。
長篠の戦いです。
織田・徳川連合軍3万8千に対し、武田軍はその半分以下の1万5千。
当然勝頼の家臣たちは撤退を進言しますが・・・勝頼はそれを無視して突撃を指示!!
結果、武田軍は惨敗を喫し、信玄以来の家臣たちの多くが命を落としました。
どうして勝頼は無謀な戦いに挑んだのでしょうか?

あの場に信長、家康の二人がいる・・・信玄の果たせなかったこの戦いに勝てば、父を超えることができる・・・??
相すれば、武田家の中での権威を不動のものにできると考えたのです。
勝頼の家臣たちから武田家の跡継ぎとして認められていないという状況を打開したかったのです。

武田家の兵法書「甲陽軍鑑」には、勝頼は”強すぎたる大将”と記されています。
故に自分は父・信玄を超えているのだと過信してしまったのかもしれません。

一説に、家康は長篠の戦いの直前信長にこう迫ったといいます。

「もし信長殿が援軍を送らず、長篠が陥落したら勝頼と手を組み、織田と戦う所存」

それだけ、家康が勝頼率いる武田軍を恐れていたということ・・・
長篠の戦いで勝利した信長が、追い打ちをかけるべく上杉謙信に武田領に攻め入るように要請しますが・・・
なぜか謙信は動きませんでした。
勝頼は、信長の動きを察知して、既に謙信との和睦を成立させていたのです。
家康を追いつめ、信長の動きの先を読む・・・この時、信長42歳、家康33歳、対して勝頼は30歳・・・そう考えると武田勝頼は善戦し、名将の片りんを見せていたのです。

長篠の戦いで、大敗した武田勝頼は、領内での立て直しを図ります。
まず行ったのが検地・・・各農地からの年貢を厳しく定めることで、それまで不安定になりがちだった家臣たちの知行から得られる収入を確定させました。
そして勝頼は、それに見合う軍役を、家臣たちに課しました。
つまり、収入によって保有しなければならない兵士や武器などの数を厳密に定めたのです。
これにより、短期間で武田軍を再強化することに成功します。
勝頼は、商人と職人を管理します。
武具の安定供給、城づくりの際の資材の調達、人足の動員などを迅速に行えるようにしたのです。
さらに、城の移転を進めます。
祖父・信虎、父・信玄は躑躅ヶ崎館を居城としてきましたが、甲斐・駿河・信濃にまたがる領地を治めるには甲府は東に寄り過ぎていたため、勝頼は領土拡大も見据えて韮崎(新府城)を築城し、そこへ武田氏の本拠地を移しました。
東西を川に挟まれ、城を建てた七里岩台地の周囲は、25キロにわたって断崖が続いていて、新府城はまさに自然の要害でした。
新府城は、躑躅ヶ崎館に比べると、はるかに巨大で武田の築城技術を駆使したとてつもない大きいお城です。
他の戦国大名と比べても大きく、集大成の意味もありました。
ところが、そんな新府城を築城した翌年、勝頼は武田家を滅亡に追い込んでしまいます。

しかし、武田家滅亡は、勝頼のせいだけではなかったのです。
勝頼は、周辺諸国との外交交渉を、積極的に行っていきます。
信玄の時代から長年対立してきていた越後の上杉謙信との和睦が成立すると、そこに信玄時代から同盟を結んでいた相模の北条氏政を加え、甲斐・相模・越後の三国による和睦を画策・・・三国で同盟を結べれば、織田・徳川連合軍に十分対抗できると考えたのです。
しかし、勝頼の期待空しく、謙信が氏政との同盟を拒否したことで、あえなく破談に終わってしまいました。
さらに、暫くして予期せぬ事態が・・・氏政が、甲相同盟を破棄して信長と同盟を結んだのです。
勝頼は、西側から織田・徳川連合軍、東側から北条の攻撃を受ける羽目に陥ってしまったのです。
次第に劣勢になっていく勝頼・・・そんな勝頼に対し、家臣たちも不信感を募らせていきます。
そして・・・この最悪の状況の中、勝頼をさらに追いつめる出来事が・・・
1582年2月14日、奇しくも織田軍が武田領に進軍したその日・・・領内の浅間山が噴火しました。
当時、浅間山の噴火は、「東国に政変が起こる」前兆とされてきました。
さらに、この時信長の朝廷への根回しにより、勝頼が朝敵とされていたことから、家臣たちはこう考えたのです。

「帝が信長の必勝を祈願したことで、神は勝頼さまを見限ったのだ」

家臣たちは武田家はもうおしまいだと、次々に勝頼の元を去っていきました。
天にも家臣にも見放されたことで、勝頼は甲斐にある天目山まで逃げのびるも・・・
結局信長軍に追い込まれ・・・妻と息子と共に自刃したのです。
1582年3月11日、武田勝頼自刃、37歳でした。

「勝頼は紛れもない名将であったが、運が尽きてしまいああいう結果に終わってしまった」by信長


天下人の養子にして関白の座にあった豊臣秀次・・・
秀次は死後、殺生関白などの汚名を着せられてしまいます。
が・・・その人生の殆どは、秀吉の言われるままでした。
1568年、秀次は、百姓であった父・弥助と秀吉の姉であった智との間に・・・尾張の農家に生まれます。
しかし、当時織田信長の家臣であった叔父・秀吉の出世によってその人生が激変していきます。

1573年北近江の浅井長政の居城・小谷城攻めの直前、秀吉は浅井の重臣宮部継潤を織田方へ寝返らせるため、甥の秀次を人質代わりに継潤の養子として差し出します。
5歳だった秀次は、宮部吉継を名乗ることになります。
その後、一度は秀吉の元に戻りますが、13歳の頃、信長の家臣・三好康長との連携を深めるために養子に出されます。
自分の子供を政治に利用することは戦国の常でしたが、秀吉と妻・おねとの間には子供がいなかったため、甥である秀次がその代わりに秀吉の出世の道具として使われたのです。
2回目の養父・三好康長は、茶の湯・連歌を嗜む風流人・・・そんな康永から多大な影響を受け、文学や和歌を嗜み、茶の湯においては千利休の弟子だったともいわれています。
そんな教養ある秀次は、後に関白となる秀吉に、公家や諸大名の接待役として重宝されたといいます。

秀次の武将としての才覚は・・・??
1584年、羽柴秀吉が、徳川家康らと相まみえた小牧長湫の戦い・・・
秀吉軍10万に対し、徳川・織田信雄軍はわずか3万・・・
数の上で劣勢だった徳川軍は、小牧山に陣を構え動かずにいました。
相手の3倍の軍を要しながら、手出しできない状況に秀吉は苛立ち始めます。
そこで、池田恒興が、こんな作戦を提案しました。

「家康の本領である三河を攻めるふりをして、徳川をおびき出し、そこをたたいてはいかがなものか」

すると、秀次がこう申し出ます。

「私をその作戦の大将にしていただきたい」

秀吉は、作戦自体には乗り気ではありませんでしたが、秀次が大将を務めるならばと了承します。
秀次は恒興らと共に、意気揚々と出陣します。
ところが・・・家康がすぐにこの作戦を見破り、秀次軍に気付かれないように二手に分かれて追跡し、挟み撃ちにしたのです。
不意を突かれた秀次軍は、壊滅状態に・・・
大将の秀次は、命からがら逃げだしますが、恒興をはじめ、2500人が討ち死にしてしまいました。
この秀次の失態に、秀吉は激怒したといいます。

1583年の賤ケ岳の戦いで、同年代の福島正則、加藤清正らが大活躍をしていました。
秀次は焦っていたようです。
秀吉は怒り、秀次に責任を問う手紙を書いています。

”一時は殺そうと思った”
”今後行いを改めなければ首を切る”

とまで・・・
しかし、その手紙の最後にこうも書いています。

”ゆくゆくは、自分の名代として考えている”

秀吉から大きな期待を寄せられていた秀次は、秀吉の弟で自分の叔父にあたる羽柴秀長の支援もあり、その後傭兵軍団・雑賀衆・根来衆を討伐する紀州攻め、土佐の長宗我部正親を討つ四国攻めで武功をあげ、愚将の汚名を返上します。
この活躍により、秀次は近江20万石を与えられます。
大坂、京都を拠点にしていた秀吉が、秀次を隣接する近江においたのは、豊臣政権を支える大きな柱の一つとして認めたことの証でした。

豊臣秀吉の甥で秀吉の言いなりの人生を歩んできた秀次・・・一国一城の主になります。
しかし、その後、暴君という汚名を着ることとなります。
秀次は本当路暴君だったのでしょうか?
秀吉から近江20万石を与えられた秀次は、新しい町づくりに挑んでいきます。
その名残が、近江八幡市に残されています。
町を歩いていると真っ直ぐな道が多いことに気付きます。
当時の城下町の殆どが、敵の侵入を防ぐために行き止まりや袋小路を多く設けたのに対し、近江八幡の町は碁盤目状になっています。
秀次は、軍事拠点としてではなく、商業の中心地となるように町づくりを計画。
町にめぐらせた堀を、琵琶湖とつなぐことで舟で直接荷物を運び入れることができました。
さらに、上下水道を整備します。
町家と町家の間に、背割りという溝を作り、生活排水を流せるようにしました。
上水道は、遠方から引いてきた水を、竹の管を通して各緯度に分配し、常時使えるようにしました。
この時代、上下水道を完備した町は他にはなく、秀次の先見性が伺われます。
そして、秀次はインフラを整備したこの町に、信長の死によって活気を失っていた安土から多くの商人と職人を呼び寄せ、楽市楽座のような活気ある商業都市を築き上げたのです。
秀次は、軍事より商業を優先した経済都市を築き上げ、領民から喜ばれる平和な町づくりを実践した名君だったのです。

そんな秀次が、秀吉から跡継ぎとして指名されるのは、それから6年後の1591年のことでした。
この年、秀吉は良き理解者であった弟の秀長と、側室・淀の方との間にもうけた3歳の息子・鶴松を相次いで亡くします。
この時、秀吉55歳・・・自ら築き上げた豊臣政権を守るため、身内である秀次を養子とし、関白の座まで譲ります。
幼いころから秀吉の言いつけを守って生きてきた秀次が、ようやく手にした関白の座・・・喜びもひとしおでした。
ところが・・・その後、摂政関白の汚名を着せられることとなるのです。
そもそも殺生関白といわれるようになったのは、”太閤様軍記のうち”という本の中で、秀次がいろいろ悪事を働いたということが書かれています。
例えば、殺生禁止の比叡山で鹿狩り・・・??しかし、教養のある秀次がそんな大それたことをするのか??
罪もない旅人を千人斬り・・・??秀次は芸術に造詣が深く、秀吉所有の名刀の管理を任されていました。
秀次は、その切れ味を試すために、罪人を使って試し切りをした・・・と考えられます。
悪く、悪く、悪意のある書き方をされています。
”太閤様軍記のうち”は、太閤・秀吉を称賛する書物なので、秀吉に都合の悪いことは捻じ曲げられ、悪事はすべて秀次に押し付けた可能性があります。

秀次の存在は秀吉にとって都合が悪かった・・・??
天下人・豊臣秀吉に対する謀反を企てたとして、養子の秀次が切腹に追い込まれた秀次事件・・・
本当に秀次は謀反を企てたのでしょうか・・・??
1593年、秀吉と側室・淀殿との間に秀頼が生れます。
当然秀吉は、自分の息子・秀頼を跡継ぎにしたいと考えるようになりました。
しかし、すでに養子の秀次に関白の座を譲っていました。
そんな中、1595年、山へ鹿狩りに出かけ戻ってきた秀次に、衝撃の知らせが届きます。

「わしが山で仲間と落ち合い、太閤殿下に謀反を企てていただと・・・??」

秀次は、すぐさま秀吉に事実無根であることを訴えますが・・・弁解する事さえ拒否され、結局秀次は高野山で切腹に追い込まれてしまいます。
本当に謀反を企てていたのでしょうか?
秀次と親交のあった人々の証言によると・・・??

「秀次さまが謀反を企てた?? そんな馬鹿な・・・」by公家・山科言経
「秀次公は、謀反を起こすような方ではない」by前田利家
「秀次は、万人から愛され、野心家ではなかった」byルイス・フロイス

秀次は、謀反を企てるような人物ではないというのです。
では、どうして切腹に追い込まれたのでしょうか??
唯一の手掛かりは、秀吉が自分の養女の婿・吉川広家に宛てた手紙です。
そこには・・・
「自分の思い通りにならなかったから・・・」
秀次の何が思い通りにならなかったからなのでしょうか??
秀吉が、秀次に自分の息子に関白の座を譲れといった事を拒絶したのか??と思われます。

秀次は、謀反ではなく関白の座を譲れという秀吉の言葉を聞かなかったことによる切腹だと考えられます。
それでも怒りが収まらない秀吉は、秀次の正室、側室、子供、侍女など30人を処刑しました。
二度と跡継ぎ問題が起きないように・・・。


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長篠の戦い 300体セット 1575年5月 織田信長・徳川家康・武田勝頼 戦国合戦ジオラマ完成品 戦国 武将 長篠 フィギュア プラモデル 天下布武 風林火山 武田騎馬 鉄砲隊 時代 模型 1/72サイズ

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感想(1件)

疾きこと風の如く 
   徐かなること林の如く 
侵掠すること火の如く
   動かざること山の如し

風林火山の旗を掲げ、戦国最強ともいわれる武将・武田信玄
生涯60戦以上してわずか2敗。
圧倒的な強さの裏に、人知れぬ苦しみが隠されていました。
人呼んで”甲斐の虎!!”
騎馬軍団を率いて、颯爽と戦場を駆け巡った信玄。
織田信長も畏れたといわれるお馴染みの信玄の姿・・・
singen

しかし、近年の研究によると、きゃしゃな体つきにほっそりとした顔、この肖像画が本物の信玄とされています。
豪胆なイメージと違い、常にストレスを抱えていたという信玄。
そんな悩み多き人生を思わせる姿です。

信玄は名門・武田家の嫡男として誕生。
しかし、跡目をめぐり実の父と対立。
父を追放してしまいます。
武田家の当主となっても年上の重臣たちは言うことを聞かず、信玄は酒に溺れる日々・・・。

ようやく家臣をまとめ上げ、領地獲得に奮闘するも、上杉謙信を始め強力なライバルが立ちふさがります。
激闘を繰り返し、家臣や家族を失います。
それでも信玄は、己の野望に向かって突き進みます。

「都に武田の旗を立てる」

不治の病に侵される中、最後の遠征へ・・・!!

甲斐の虎と恐れられた武将、武田信玄。
その生涯が記された甲陽軍鑑にはこう書かれています。
20歳で実父を追放、そして武田家当主となります。
どうして父を追放したのでしょうか?
1521年、武田晴信(信玄)誕生。
父の信虎は、この地を治める大名、母は大井夫人と呼ばれる武家の娘でした。
母は竹だけの嫡男である晴信の教育に熱心でした。
幼い晴信のために僧侶を招き、和歌、兵法を学ばせたといいます。
その甲斐あって、晴信は賢い子に成長しました。

ある時、晴信は大量の蛤の貝殻を持ってこさせました。
家臣に貝殻がいくつあるか当てさせます。
家臣たちは1万とも、2万とも・・・実際は、4000個でした。
意外そうな顔をする家臣たちに晴信は言います。

「5000ほど兵がいれば、どんなことでもできる」

実際は、5000ほどしかいなくても、1万や2万に思うこともある・・・
少数の兵でもうまく使えば勝てるという意味でした。
しかし、晴信の聡明さを父は嫌ったといいます。
信虎は、一代で甲斐を平定した猛将です。
戦いに長け、家臣たちを力で従わせていました。
己の力を信じ、戦で力を発揮してきた信虎にとって、晴信は屁理屈ばかりのこしぬけに見えたのかもしれません。

ある時晴信は、信虎の持つ名馬が欲しいと願い出ました。
すると信虎は、
「若いお前があの馬に乗るのはまだ早い
 来年14歳になったら元服させる
その時に、武田家の宝物と一緒に譲るつもりだ」
しかし、晴信は、
「宝物は家督相続の時にもちろん頂戴します
 しかし馬は、今から練習しておけば父上が御出陣の際にお供をして役に立つことができます」
自分が家督を継ぐことがすでに決まっているかのようなこの物言いに、信虎は激怒!!
「そんな生意気をいうなら、武田の家督は弟の次郎に相続させる」

1536年、晴信は16歳で初陣を飾ります。
隣国・信濃での領地争いでした。
その時晴信は一計を案じました。
直ちに攻め入ろうとはせず、有利になる時を待ったのです。
晴信の狙いは、正月でした。
正月を迎えると、兵士の多くは家に帰ってしまい城は手薄になりました。
晴信は楽々と城攻めに成功!!
意気揚々と引き上げ、戦果を報告した晴信・・・しかし、父は、
「から城を落としただけだ!!」
晴信の手柄を、断固として認めませんでした。

そしてある日、親子の対立を決定的にさせる出来事が起こります。
父・信虎は、杯を弟に与えたのです。
兄の晴信を差し置いて、家臣たちの前で弟を武田家の跡取りとして扱ったのです。
重臣の居並ぶ前で、信玄ではなく弟の信繁に杯を渡すというのは、家督相続予定者を信玄から信繁に変えるという意思表示・・・大変重い意味がありました。
不安に苛まれる晴信・・・しかし、武田の家臣の空気は微妙に変わり始めていました。

この頃甲斐では台風や洪水などの災害が続き、人々は飢餓に苦しんでいました。
しかし、信虎は領民の救済には目もくれず、領土拡大を図って隣国との戦に明け暮れていたのです。
そのため表立って逆らえないものの大勢が不満を募らせていました。

信虎は悪逆非道であり 人民も牛馬も ともに悲しみ悩んでいる

信虎への不満が充満する中、ある人物が晴信を訪れます。
重臣・板垣信方です。
板垣は、晴信を幼いころから教育した武田家の重臣で晴信を誰よりも知る人物です。
板垣は晴信に進言します。

「信虎様には、速やかにご隠居いただき、あなた様に跡を継いでいただくことが、一番の得策にございます」

この自分が父を隠居させるとは・・・親への忠義に反する行為・・・迷った挙句に晴信は、

「困窮する民を救いたい」

と、自分のためではなくあくまでも甲斐のために動こう・・・晴信は密かにクーデターを決意しました。

1541年、20歳の時、絶好の機会が訪れます。
父・信虎が、駿河の今川義元をたずね、甲斐を留守にしたのです。
もともと武田家と今川家は、領地を争う敵同士でした。
しかし、今川と戦うのは不利と考えた信虎は、関係改善を図ります。
今川義元の紹介した娘を晴信の正妻とします。
これが功を奏し、武田と今川は後に同盟を結ぶこととなりました。
信虎は駿河を訪問したのは今川との親睦を深めるためでした。
この機を逃さず、晴信は甲斐と駿河の国境を封鎖!!
信虎が帰って来られないようにしました。
僅かな兵しか従えていなかった信虎は、成す術もありませんでした。
さらに晴信は今川と密約・・・信虎を隠居させて今川に置いておくというものでした。
晴信が信虎の追放に成功します。
家督を継ぎ、晴れて武田家の当主となりました。
20歳の時でした。

20歳で甲斐武田家の当主となった晴信は、それから10年、領土を2倍以上に広げます。
しかし、そこに至るまでには様々な壁、そしてそれを乗り越えるための工夫がありました。
父を追放した当初、晴信に従わない家臣が多くいました。
それは、甲斐が山国で盆地が多いことも原因でした。
当時は盆地ごとに有力な家臣が地域を治めていました。
山で遮られて、他の地域との交流が少ないため、独立心が強かったのです。
武力で従わせてきた信虎がいなくなったので、家臣たちは好き勝手に行動を始めます。

通行税を巻き上げたり、所領を配下の者に分配したり・・・

”全てのことが思うようにいかず迷惑している”
 
そんな家臣たちに嫌気がさした晴信は、責任を投げ出してしまいます。
昼夜を問わず、若い家臣や侍女を集めて酒盛りや歌会を・・・
この晴信の行いに心を痛めたのは、晴信に信虎の追放を勧めた板垣信方でした。

”信虎さまは、非道の行いが過ぎた故追放されました
 今のお館様は、あまりにも我儘勝手で信虎様よりも悪しき大将にございます
 今の言葉に腹が立ったなら、自分を斬ってください” 

当時交代したばかりの信玄政権の初期を全面的に支えていたのは板垣でした。
板垣に対する信頼感は、たいへん高かったのです。
板垣の言葉に心を打たれた晴信は、家臣たちに自分をリーダーと認めさせるには、行動しかない・・・
戦場にその身を投じていきます。

晴信は諏訪の攻略に・・・この地を守る諏訪大社の庇護が欲しかったのだといわれています。
諏訪大社は、諸国に知られた戦神・・・武将たちは、この諏訪大社に対する信仰を持っている人が多くいました。
諏訪大社を保護し、盛り立てていく・・・そういう権力なんだと内外に示すことで、影響力を強めようとしたのです。

自らの正当性を強調する一方、晴信は家臣の意見に耳を傾けることにも熱心でした。
領内の政策や戦の方針など、独断をやめて合議制にします。
家臣の働きをつぶさに観察し、功績をあげたものには即座に褒美を与えました。
晴信は、戦の最中でも様々な褒美を与えていたといいます。
中でも大きな役割を果たしていたのが金・・・甲州金です。
戦功をあげたものには、金の粒を三すくい与えたという記録が残っています。
これは、金山開発が盛んだった甲斐ならではの恩賞でした。
山が多く、平地の少ない甲斐では、土地以外の褒美が必要だったので、信玄が編み出した工夫でした。

さらに、領国経営でも画期的な工夫を・・・
「甲州法度之次第」と呼ばれる法律を制定します。
法度では、年貢のルールを正確にし、役人などの横暴を取り締まります。
そして身分を問わず、法の下の平等を打ち出しました。

”この晴信自身が法度に背くことがあれば、責賎を選ばず、誰でも届け出てよい
 その時は責任をとる”

自分の制定した戦国法が、自分自身にも適用される・・・
そういった法は他にはありません。
信玄が制定した甲州法度が唯一無二のものです。

武田二十四将図・・・
二十四将と言うからには24人家臣がいるはずですが、23人・・・
つまり、晴信自身も24将の一人に数えられています。
トップダウンだけではなく、時には家臣と対等に・・・若きリーダーの姿がそこにはありました。
こうして家臣たちの信頼を築きながら、晴信は北へ領地を拡大を目指します。
目標は信濃国の完全掌握でした。
信濃侵攻を開始した武田軍は、破竹の勢いで敵を打ち破ります。

1548年、27歳の時信濃の1/4を配下に治めます。
しかし、行く手に強敵が・・・!!
北信濃の武将・村上義清です。
連勝を重ねてきた武田軍は、迷わず城を攻撃!!
ところが、城の守りは固く激しい反撃にあいます。
さらに別動隊に後ろに回り込まれ挟み撃ちに・・・!!
この戦で、幼いころから晴信を支えた重臣・板垣信方が討ち死に・・・!!
5000人ともいわれる戦死者を出し、武田軍は惨敗しました。
敗戦から2か月後、体勢を立て直した武田軍は3度の戦いの末、村上を破ります。
板垣信方亡き後、晴信はその恩を忘れず板垣家を重用。
板垣家は主を変えて江戸時代も続き、明治維新を迎えたといわれています。
こうして晴信は、甲斐と信濃をほぼ手中に治めました。
32歳でした。

武田晴信は40歳を前に出家し、武田信玄となります。
その頃、信玄のもとには、一騎当千の兵どもが揃っていました。
高坂昌信、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀・・・武田四天王といわれる武将を従えて、信玄は戦場を駆け巡りました。
若き日に信玄と戦った三河の徳川家康・・・後にこう語っています。

「今の世に信玄ほどの武将は他にいない」

どうして武田軍は最強と呼ばれたのでしょうか?

「人は城 人は石垣 情けは味方 仇は敵なり」

武田の強さの秘密は、その人材活用術にありました。
武田四天王の一人、高坂昌信は16歳の時に信玄の世話係として登用されました。
しかし、農民の出身だったため読み書きが不得意で周りの者にバカにされることも多かったのですが・・・
そんなある時信玄は家臣を集めてこう言いました。

「何より大事なのは、武功・忠孝の者から話を聞くことだ 
 一日に一つ聞けば一月で三十、一年で三百六十も聞いたことになる
 去年の自分より、はるかに優れた人となる」

この教えを聞いた高坂は、以後周りの人の話をよく聞き、覚えることに愚直に取り組みました。

武田家の歴史や信玄の教えを記した第一級の資料「甲陽軍鑑」
この本は、高坂の口述筆記を元にしています。
高坂は、武田家で見聞きしたことや、信玄が行いを年下の者に伝えることで、慢心を戒め戦に役立てたといいます。
読み書きが不得意な高坂は、信玄の教えを守ることでどんな武将も及ばない立派な書物を作ることができたのです。

四天王の二人目は山県昌景。
信玄は山県をこう評しています。

「赴くところ敵なし」と。

山県が率いたのは騎馬部隊・・・
その具足の色から赤備えと呼ばれ、他国の武将から畏れられました。
元々甲斐は、馬の産地であったことから騎馬の扱いに長けた者が多かったのです。
そこで武田軍は、他国より優れた騎馬隊を組織!!
山県はその騎馬部隊を操り、敵と味方の足軽がせめぎ合うところに突入し、勝利に導いたといわれています。

武田四天王残る二人は、内藤昌秀・馬場晴信。
内藤晴信は勇猛で知られた武将でしたが欠点もありました。
戦闘に夢中になると周りが見えなくなるのです。
そこで信玄は馬場晴信と一緒に行動するように言いつけます。
馬場は冷静で状況判断に優れていたからです。
ある戦で内藤が勝ちに乗じて単独で敵を深追いしたことがありました。
それに一早く気付いた馬場は、内藤に使者を出します。
使者は馬場からの言葉を内藤に伝えました。

「このままだと危ないぞ」

内藤は、己の悪い癖である深追いに気付き、即座に兵を引いたといいます。
信玄は家臣の長所短所を見極めて、組み合わせ力を最大限に発揮させたのです。

さらに、戦の役に立たない家臣でも、貴重な戦力にしました。
岩間大蔵左衛門は、武田軍団一の臆病者と言われていました。
戦に行きたくないと嫌がり、合戦では目を回して卒倒・・・
味方からも不満が絶えませんでした。
そんな不満を耳にした信玄は一計を案じ、岩間にこう言います。

「これからは家中のどんな些細なことでも知らせよ
 もし報告を怠ったら、斬る」

家臣たちの動向を知らせる目付けに任命しました。
岩間は殺されてはたまらないと、家中で少しでも不穏な動きがあれば逐一信玄に報告しました。
おかげで信玄は、家臣の活躍や評価を正確に行うことができ、家臣たちの不満は減っていきます。

そんな武田軍団でも苦戦した敵がいました。
越後の龍として恐れられた上杉謙信です。
謙信と信玄が相対した川中島の合戦・・・
信濃と越後の国境で、信玄が32歳の時から足掛け12年、実に5回も繰り広げられました。
しかしこの戦、信玄は地理的に不利でした。
戦場の川中島まで謙信の城からはおよそ50キロ、対して信玄の城からは100キロも離れた甲府から出陣します。
そこで、戦いの拠点として新たに築いたのが川中島に近い海津城です。
四天王の一人・高坂昌信を配して合戦に備えます。
さらに、領内に狼煙台を数多く配置、見張りが敵を発見すると狼煙をリレーして連絡し、信玄が素早く出陣できるようにしました。

1561年、信玄40歳の時、謙信と最も激しい戦いの第4次川中島の戦いを繰り広げます。
この時謙信は、信玄の先手を取って武田の陣地の目の前にある妻女山に陣取ります。
知らせを受けた信玄は海津城に急行。
武田軍は家臣全員が出陣し、総力戦の構えをとりました。
霧が立ち込める中、信玄は武田軍を二つに分け、妻女山の上杉軍を挟み撃ちにする作戦をとりました。
ところが上杉軍はこの作戦を見抜いて、密かに下山・・・。
濃い霧に紛れて布陣・・・そして霧が晴れた瞬間、準備万端の上杉軍が信玄に襲い掛かってきました。
不意を突かれた武田軍は大混乱・・・
上杉軍は武田の本陣にまで迫ってきました。
危うし・・・信玄・・・
その時、武田の別動隊がようやく現場に駆け付けます。
形勢逆転、信玄は何とか上杉の猛攻を退けました。
その後も川を挟んで二人はにらみ合いを続けましたが、とうとう決着はつきませんでした。

川中島の戦いの後、信玄には新たな野望が芽生えます。
近年見つかった資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と書かれています。
どうして都を目指したのでしょうか??

1554年、33歳の時信玄は北方の上杉謙信との戦いに備えてある策を講じていました。
南の駿河国・今川氏、東の相模国・北条氏と三国同盟を組んだのです。
同盟の保証としてそれぞれの当主の嫡男にそれぞれの姫を嫁がせるという政略結婚が行われ、三国は血縁関係となりました。
しかし6年後の1569年、39歳の時にこの同盟に亀裂が入る大事件が起こります。
桶狭間の戦いです。
尾張の小大名だった織田信長が、今川義元を奇襲し破りました。
当主が亡くなったことで今川の力が弱まっていくことは明らかでした。
これを好機と見た信玄は、同盟を無視して今川攻めの準備を始めます。
駿河には港と京につながる東海道がある・・・
どうしても欲しかったのです。

しかし、武田の家中で今川攻めに反対する者がいました。
信玄の長男・義信です。
義信の妻は、三国同盟の時に今川から迎えた義元の娘でした。
妻の実家だったのです。
今川攻めを巡って、親子は激しく対立します。
義信は信玄の暗殺を企てます。
しかし、企てはすぐに発覚し、信玄は慶喜を幽閉、その後、義信は非業の死を遂げました。

信玄は義信をかわいがり、後継者として期待をして育てていました。
しかし、義信事件となったのは、政治家としての信玄は家庭人としての顔を捨てざるを得ない・・・信玄の深い悲しみと苦悩がありました。

1568年、47歳で駿河に侵攻。
武田軍は順調に進み、翌年には駿河国を制圧します。
しかし、密かに病魔が忍び寄っていました。
駿河侵攻を始めて3年・・・50歳を超えた頃には体調が悪化し、床にふせることが多くなってきていました。

「膈という病気だと言われた」

膈とは、胃がんと考えられています。
信玄は死期が近づいてきていることを悟りました。
それでも信玄は野望を抱いていました。
2018年に発見された新資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と。
余命があまりないかもしれないという状況の中で、足利義昭と一緒に室町幕府体制を支えながら上洛を遂げて、天下の運営に携わりたいという気持ちがあったのです。

1572年12月、52歳で信玄挙兵。
病を押して京へ・・・。
隣国の遠江に攻め入った信玄・・・行く手を遮ろうとした徳川家康を三方ヶ原の戦いで一蹴、さらに西へ急ぎました。
翌月には三河の野田城を攻略、いよいよ最大の難敵・・・尾張の織田信長との対決が迫っていました。
しかし・・・口の中にできものができ、歯が5,6本抜けて次第に衰弱していきます。
もはや、死脈を打つ状態となったので覚悟をします。
信玄は遂に甲斐への帰路につきました。
その道中、遺言を残しています。

「自分の死を3年の間秘すこと」

信玄は自分の死を敵に悟られないように入念な準備をしました。
その一つが白紙の手紙・・・
信玄は、自分の花押だけの手紙を800枚余り用意しました。
信玄の手紙を出すことで、生きているように見せかけようとしたのです。

1573年4月12日、ふるさと甲斐への道半ばで信玄は息を引き取りました。
52歳の生涯でした。

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戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち

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1573年9月・・・戦国最強と謳われた巨大山城が落城しました。
城の名は小谷城・・・城主・浅井長政は、織田信長の妹・お市を妻にして、信長と同盟関係を結んでいました。
小谷城を落としたのは、身内のはずの信長でした。
長政の裏切りをきっかけに、血で血を洗う戦いが始まったのです。
しかし、城の守りは固く、落城までは3年の月日が必要でした。
小谷城を信長はこう評しています。

”高く険しい要害の地、攻め上がること困難なり”

小谷城とはどのような山城だったのでしょうか?
織田信長が、天下統一への第一歩となった小谷城落城・・・この攻防が現代に残す教訓とは・・・??

滋賀県北東部の長浜市・・・琵琶湖を見下ろす山に、巨大な山城・小谷城がありました。
標高495m・・・今は木々に覆われた山は、かつて巨大な山城として近江国にそびえたっていました。
自然の地形を生かしながら、巨大な要塞として構築された小谷城です。

曲輪には兵を配置し、尾根筋を進んでくる敵を鉄砲や弓矢で攻撃する拠点となります。
曲輪の外側には、敵の攻撃を防ぐ工夫があります。
切岸です。
急斜面を作り、下からの敵の侵入を防いでいるのです。

尾根沿いの道は、曲輪に横を過ぎると曲がっています。
これも側面から敵を倒す工夫です。
何の変哲もない山道も、綿密に設計された敵を倒す防御システムだったのです。

尾根沿いの道を避け、斜面から攻めようとすると・・・竪堀があります。
竪堀を掘っておくことで、敵が山の斜面を横移動して城内の中心部に入ることを防ぐ防御施設です。
竪堀の先は、数多くの曲輪があり、敵を皆殺しにするためのワナです。
竪堀に足止めされたところを曲輪から攻撃されます。
斜面からは攻め込めません。

本丸を目指す・・・その先には、今まで以上に強力な曲輪が待ち構えていました。
防御のための土塁を全周回していています。
鉄砲を撃ちかけることもできます。
仮に銃撃をかいくぐることができても、その先に侵入することも難しい・・・
見事な守りの城です。

本丸の出入り口・・・
石段の上には見事な黒鉄門という鉄ばりの城門がありました。
門の中には、小谷城最大の曲輪がありました。
大広間といい、幅35m、奥行き85mあります。
政治の中心地でした。
城主・長政が暮らしたこの空間からは、壺や皿などの日常生活や宴会に使用されたとみられる遺物が3万点以上発見されています。
大広間と本丸の背後には、尾根を断ち切った深さ9mの大堀切が作られています。

大堀切の奥には、城主・浅井長政の大切な人が暮らす曲輪が連なっています。
地元北近江の守護だった京極氏を住まわせる京極丸、長政の父・久正が入る小丸、本丸よりも高いところに置かれています。
しかし、小谷城はまだまだあります。
そこから急な坂道を登る事50分・・・
標高495mの山頂に、巨大な防衛陣地が作られていました。
大嶽城です。

たどり着くことさえ困難な山頂に、三重の土塁が張り巡らされています。
小谷城を背後から攻撃しようとする敵に備えたものだと考えられます。
さらに、大嶽城から南にのびる尾根筋にも、砦がいくつも配置され、西側からの攻撃に備えていました。
小谷城は、あらゆる方向からの敵に備えた難攻不落の要塞でした。
南国屈指の巨大山城・小谷城・・・
木々の下に隠れていたのは、戦国乱世が行きついた究極の城の姿でした。

浅井長政の居城・・・北近江の巨大山城・小谷城・・・。
長政は、小谷城の他にも、領内各地にいくつもの小さな城を配置していました。
こうした城は、どのような役割を持っていたのでしょうか?

横山城には、重要な意味がありました。
横山城は、小谷城の南にある軍事拠点で、街道が三角形に集まってくる真ん中にある城でした。
主要な街道を監視し、南、東の動きを把握することができ、即座に対応することができました。
浅井氏の支城は、色々な役割を担っていました。
小谷城の西の山本山城・・・琵琶湖の脇を日本海側に抜ける街道は、この山本山城と小谷城の間を通っていました。
二つの城で街道を囲んでいる・・・経済のポイントを山本山城が押さえていました。
私情を築くことで、地域を守るだけでなく、街道・・・流通そのものを把握していくことにつながりました。

小谷城の麓を通る街道・・・浅井氏は、この街道を小谷城の城下町まで引き込んでいました。
小谷城自体が、流通を支配する!!
重要な幹線道路を浅井氏が遮断している・・・きちんと管理していました。
小谷城の城下町は、川で琵琶湖ともつながっていました。
川を下ると姉川に合流し、姉川からすぐに琵琶湖で下。
琵琶湖の湖上交通という大きな物流の大動脈につながったのです。

浅井氏は、城下に川湊を作り、琵琶湖の物流と直接つなげていたのです。
北陸の米などを京都に運ぶ琵琶湖の大規模の水運は、物流の幹線ルートとして重要な意味を持っていました。
このルートを掌握する役割を持たせていたのが佐和山城です。
佐和山城は湖の入り江に接していました。
浅井氏は、湖に接する城を通じて、琵琶湖の水運にもにらみを利かせていました。
北陸から朝井領を通る琵琶湖の物流ルートには、隣国の大名も注目していました。
越前の朝倉氏は、早くから朝井氏と同盟を結んでいます。
天下統一に向かう織田信長も、妹・お市を長政に嫁がせ、緊密な関係を築いていました。

1570年4月、信長は、浅井氏と同盟関係にあった朝倉氏を攻撃!!
これを機に、長政は信長から離反します。
長政の裏切りを知った信長は、朝倉攻めを断念し、命からがら京に逃げ帰るのです。

長政の裏切りから2か月後・・・
1579年6月、信長は浅井領に侵攻します。
兵を向けたのは、小谷城ではなくその南の支城・横山城でした。
横山城を包囲した信長に、長政も出陣!!
姉川の戦いです。
戦は信長の勝利に終わり、長政は横山城を失います。
その頃、浅井長政、朝倉義景、武田信玄、石山本願寺、三好三人衆・・・信長包囲網が築かれようとしていました。
信長は大ピンチだったのです。
それでも信長は、浅井への攻撃を続けます。
狙ったのは、南の橋の佐和山城!!
佐和山城は、全体の戦局を左右する要の場所でした。
佐和山城は8か月にわたる籠城戦の末、信長の手に落ちました。
要となる城を奪われた長政・・・厳しい選択を強いられます。

佐和山城、横山城を落とされ、小谷城に来るのは時間の問題・・・和睦を願い出る・・・??
信長が、裏切ったものを許すはずがない・・・鉄壁の小谷城で戦いに打って出る・・・??

1571年5月、長政は、奪われた支城の奪還に打って出ました。
あくまで信長と戦う道を選んだのです。
しかし、強力な信長軍を前に敗戦が続きます。
勢いづく信長は、小谷城に近づき・・・小谷城から500mのところに虎御前山城を築きます。
目の前に大規模な陣を構え、長政を物理的にも精神的にも追いつめていきます。
信長は、新しい戦略をとっていきます。
信長は、幅6mの軍用道を5km作ったとされています。
高い塀で目隠しをし、浅井側に見えない徹底ぶりでした。

じわじわと小谷城を締め上げる織田軍・・・
一方の長政は、味方を次々と失っていきます。
比叡山延暦寺は焼き打ち、武田信玄は病死・・・

1573年8月、小谷城のすぐそばの支城・山本山城が信長に降伏・・・。
羽柴秀吉の巧みな調略によるものでした。
山本山城が陥落することによって、小谷城の裏に回れる・・・!!
山本山城降伏からわずか4日後・・・信長は勝負に出ます。
振りしきる雨をものともせずに、自ら手勢を率いて小谷城背後の要・大嶽城に攻め上ります。

8月27日、信長は総攻撃を命じます。
羽柴秀吉率いる軍勢は城下町を突破、谷から急斜面を駆け上がります。
京極丸の辺りに乱入!!
長政の父・久正の籠る小丸を攻めたて自刃に追い込みます。
滅亡を悟った長政は、妻・おとに三人の娘たちを信長の元へ送り出します。
そして自らは、最後まで残った家臣たちと共に本丸で打って出ます。
総攻撃開始から3日後・・・
1573年9月1日、小谷城城主・浅井長政は自決・・・28年の生涯を閉じました。
落城した小谷城は、秀吉に預けられましたが、琵琶湖湖畔にある長浜に新たな城が築かれると廃城が決まります。
この後、再び巨大山城が築かれることはありませんでした。
山城に立て籠れば守り切れるという戦国の常識が崩れた瞬間でした。
中世的な山城から近世の平城に・・・この転換を武将に決断させた大きなきっかけが小谷城の戦いでした。

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津軽10万石の城下町だった青森県弘前市・・・2016年ある発見が話題を呼びました。
町中にある一軒の古民家が、忍者屋敷であることがわかったのです。
弘前藩の忍者集団”早道之者”が諜報活動のために使ったとされています。
忍者屋敷がそのまま残されているのは、全国でも極めて珍しい。
藩主、家老から命令を受けて、作戦会議をする場所だったと思われています。

忍者・・・影のヒーロー??そのほとんどは、創作の産物です。
しかし、実在の忍者が一度だけ歴史の表舞台で活躍した戦いがありました。
敵は、織田信長!!天正伊賀の乱です。

戦国時代最強を誇った織田軍が、忍びの郷・伊賀に向けて出兵しました。
ところが・・・攻め込んだ先で、兵士たちは次々とうち取られていきます。
織田軍大敗北!!ついには撤退!!
果たして伊賀の忍び達はどんな手段で織田軍を撃退したのでしょうか?

群雄割拠の戦国時代、歴戦の武将の影には不思議な呼び名を持つ者たちがいました。
上杉謙信に伏齅・北条氏康に乱波・武田信玄に透波・・・彼らは戦国時代に活躍した忍び達です。
ある時は敵地に潜入し諜報活動、ある時は敵の不意を突き夜襲攻撃、凡人には出来ない危険な任務を行う特殊部隊でした。
そんな忍びを数多く輩出したのが伊賀・・・忍びの里と呼ばれたこの地には、どんな秘密があったのでしょうか?

伊賀には屋敷を取り囲む不自然なほど高い土塁がたくさんあります。
防御を備えた館城があり、土塁だけではなく堀もあったようです。
確認された城跡はおよそ650以上・・・全国有数の密度です。
どうしてこれほどまでに多く築かれたのでしょうか?
伊賀は中世以来、限られた土地をめぐり争いの絶えない地域でした。
各地で自ら館城を築いた地侍たちは、大名の直接支配を受けることなく自治独立の国だったのです。
戦国時代の伊賀衆について・・・
毎日夜明け前から昼頃までは士農工商それぞれの仕事に励み、それから日暮れまでは武芸を磨く・・・
そして密謀の通力を伝える風習があった・・・と記述されています。
密謀の通力がいわゆる忍びの術なのです。

常に危険と背中合わせだった伊賀では、武芸だけでなく敵を陥れる技も鍛える必要があったのです。
そんな伊賀を疎ましく思っていた男がいました。
織田信長です。
当時、信長は近畿一帯に勢力を伸ばしていましたが、伊賀には手を出せずにいました。
そして隣国にはもう一つの忍者の里・甲賀があり、同じく自治独立を守っていました。
伊賀と甲賀が連携して信長の進出を阻んでいたのです。
険しい山々に囲まれ、進入路さえ分かりにくい土地・・・信長は現地の情報を集めながら、じっくり攻め入る予定でした。
しかし・・・その意図を汲まずに伊賀を狙っていたのが信長の次男・信雄でした。
1579年伊勢にいた信雄は、信長に無断で伊賀へ出兵。
1万を超える大軍勢でした。
山を越え、伊賀領内に侵入しようとしたその時・・・突然山道に地侍たちが現れ、一斉に襲い掛かってきました。
山の中で待ち伏せしていた伊賀衆でした。
その奮闘ぶりは・・・
地の利はよく心得ている
ところどころに砦を築いて弓矢や鉄砲を放ち、槍を併せ、息つく間もなく攻撃し、山の崖へ追いつめていきました。
総崩れとなった織田軍の戦死者は、数千人に及んだといいます。
そして、織田方重臣・柘植三郎右衛門が討死!!
信雄は、命からがら伊勢に逃げていきました。
伊賀の完全勝利でした。

織田軍敗北の報せは、すぐさま信長に知らされました。
言語道断!!
息子・信勝が安易に出兵したことに激怒したといいます。
見事な結束で独立を守った伊賀衆・・・
しかし、彼らにとって本当の試練はこれからでした。

1581年、織田信長は伊賀討伐を命じます。
その軍勢なんと、4万以上・・・汚名返上に燃える信雄を総大将に、織田の名だたる武将・・・筒井順慶、蒲生氏郷、丹羽長秀が先陣に加わります。
しかも、今回は多方面からの一斉攻撃!!
迎え討つ伊賀は、それぞれ敵の情報を正確につかんで連携する必要がありました。
そのために使ったとされるのが、狼煙による情報伝達です。
伊賀ではのろし台の跡がいくつか確認されています。
いずれも集落から見えやすい位置にあり、南北15キロ以上に警報を伝えることができたと言われています。
さらに・・・忍びの狼煙には、特殊能力がありました。

江戸時代の忍術書「万川集海」・・・そこに狼煙の材料が記されていました。
最初に掲げられているのがオオカミの糞・・・手に入りにくいものの代表的な材料でした。
すぐに煙が立ち上がり、煙から強烈なにおいが発せられます。
狼煙が嗅覚にうったえていた可能性があるのです。
その悪臭は、1~2キロ位は伝わる可能性がありました。
悪天候で煙が目視できないときでも使えた可能性があるのです。



織田軍に対してあらゆる防御を備えていた伊賀衆・・・
しかし、4万という大軍勢を前に、彼らの心は揺れていました。
信長に内通するもの(福地伊与)まで現れます。
福地は険しい進入路の道案内を行い、織田軍を伊賀領内に導いたといいます。
どうして仲間を裏切ったのか??
伊賀北東部にある福地城・・・ここは、織田軍が最大の軍をおいた地域でした。
福地の集落は、真っ先に攻撃を受ける場所だったのです。
福地は福地で、集落を守ろうとしたのです。

内通者を得た織田軍は、伊賀領内に侵入!!
その攻撃は苛烈を極めます。
一軒残らず焼き払い、男女問わずに殺害した・・・
伊賀衆は、わずか数週間で、最後の拠点柏原城まで追いつめられます。
籠城したのは1600人・・・城には女子供達も逃げ込んだといいます。
各方面から侵入した織田軍は終結し、およそ4万で柏原城を取り囲みました。
絶体絶命の中、協議に望んだ伊賀衆・・・
徹底抗戦する??それとも降伏・・・??
補給路も援軍もない・・・今更降伏しても命の保証はない・・・どれだけの仲間が殺されたのか??
信長は伊賀を殲滅したいのか??
袋小路に陥った伊賀衆・・・意外な意見も・・・
敵を欺いて、せめて女子供だけでも城から脱出する??
城からの脱出路・・・すでに柏原城を包囲される前に、この作戦を実行した者たちがいました。
西部の比自山城に籠城した伊賀衆です。
織田軍が城に突入すると、そこは一夜にしてもぬけの殻になっていたといいます。
伊賀衆は、城中に松明を炊き、城にいるかのように見せて織田軍を欺き、密かに脱出に成功していたのです。
しかし、すでに小田野全軍が、城の周りに・・・本当に脱出することなどできるのか??
宿敵・信長に対し徹底抗戦か??それとも降伏か??それとも脱出か??

伊賀衆が出した結論は”脱出”でした。
およそ4万で包囲する織田軍から、どのように逃れるのか??
籠城から10日以上たった夜、柏原城から数人の伊賀衆が抜け出しました。
彼等は周辺に隠れていた百姓たちを動員して、織田軍の背後の山に、可能な限り多くの松明を灯させます。
それを見た織田軍は、数千に及ぶ伊賀の援軍あらわる!!そう思い込み、大混乱となりました。
これこそ、伊賀衆の狙いでした。
この隙に、柏原城から女子供を逃がす手はずだったのです。
ところが・・・この計略を見破った男がいました。
織田の名将・丹羽長秀・・・10代のころから信長に仕えた重臣でした。
比自山城での伊賀衆の計略を見ていた長秀は、援軍を偽物と見抜き、混乱を速やかに収束させてしまいました。
脱出作戦・・・失敗!!

もはやこれまで・・・1581年10月28日柏原城開城・・・
伊賀の自治独立は、ここに消滅しました。
信長の容赦ない処分が・・・
各地の城は焼き払われ、神社仏閣は破壊されました。
そして男女の差別なく、多くが処刑されました。
運よく他国に逃げ延びたものの・・・半数の伊賀衆が犠牲になったといいます。
それから数日後、見聞のために織田信長が伊賀に入りました。
山の上から伊賀の国を見下ろしていた・・・その時、事件は起こりました。
数発の銃弾が信長に向けて放たれたのです。
伊賀の忍の残党でした。
しかし、弾はいずれも外れ、忍びは姿を消したといいます。
伊賀の執念は、最後まで信長を脅かしたのです。

その後も伊賀への警戒を緩めなかった信長・・・
その城が、信長が伊賀支配のために築いた滝川氏城・・・。
巨大な本丸跡は、伊賀のそれまでにはないものでした。
その一方、形は伊賀の館城と同じ・・・そこに信長の心境が表れています。
当時の織田のお城の作り方とは全く離れていますが・・・伊賀の城に織田の城が合わせにいっています。
伊賀の人に分かりやすい館城のお化けのような巨大なお城が作られたのです。
自らの力を誇示しつつ、慎重に支配を進めた信長・・・
伊賀を織田の直轄地とし、地侍たちが再び力をつけないように統制を図ります。

しかし・・・1582年6月2日、本能寺の変・・・信長は、突然この世を去ります。
天正伊賀の乱から8か月後のことでした。

信長の死後、天下人は秀吉から家康へと移り、戦国乱世の終焉を迎えます。
他国へ落ち延びていた伊賀衆の中には故郷に帰る者もいました。
しかし、伊賀がかつての自治独立を取り戻すことはありませんでした。
そんな伊賀の忍び達に目をつけたのが、徳川家康でした。
服部半蔵のもとにまとめられた伊賀者たちは、江戸時代、将軍家の隠密や江戸城の警備などを務めます。
伊賀者たちの評判は、全国に知れ渡り、諸藩の大名達にも雇われるようになります。
ある者は諜報活動を行い、ある者は藩主の身辺警護を務めたりしました。

伊勢の関宿にある江戸時代から370年続く老舗の和菓子屋・・・
そこには、忍者の末裔が住んでいました。
服部家には、まだ世に出ていない資料がたくさん眠っています。
関宿は、東海道五十三次の宿場町です。
多くの人が行き交い、各地の情報を得るにはうってつけでした。
店のその目の前には、将軍家の宿泊所である御茶屋御殿がありました。
家康はじめ、将軍が上洛する際に、宿泊した場所だったのです。

服部家の資料は、多くのご先祖が忍びの経歴があったことを伝えています。
もしかしたらこの和菓子屋で、代々徳川家を支えるために、忍者の仕事をしていたのかもしれません。

戦国から江戸時代へ・・・幾多の試練を生き抜いた忍者たち・・・故郷で培った忍びの術は、形を変えてその暮らしを支え続けたのです。

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