日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:武田信虎

疾きこと風の如く 
   徐かなること林の如く 
侵掠すること火の如く
   動かざること山の如し

風林火山の旗を掲げ、戦国最強ともいわれる武将・武田信玄
生涯60戦以上してわずか2敗。
圧倒的な強さの裏に、人知れぬ苦しみが隠されていました。
人呼んで”甲斐の虎!!”
騎馬軍団を率いて、颯爽と戦場を駆け巡った信玄。
織田信長も畏れたといわれるお馴染みの信玄の姿・・・
singen

しかし、近年の研究によると、きゃしゃな体つきにほっそりとした顔、この肖像画が本物の信玄とされています。
豪胆なイメージと違い、常にストレスを抱えていたという信玄。
そんな悩み多き人生を思わせる姿です。

信玄は名門・武田家の嫡男として誕生。
しかし、跡目をめぐり実の父と対立。
父を追放してしまいます。
武田家の当主となっても年上の重臣たちは言うことを聞かず、信玄は酒に溺れる日々・・・。

ようやく家臣をまとめ上げ、領地獲得に奮闘するも、上杉謙信を始め強力なライバルが立ちふさがります。
激闘を繰り返し、家臣や家族を失います。
それでも信玄は、己の野望に向かって突き進みます。

「都に武田の旗を立てる」

不治の病に侵される中、最後の遠征へ・・・!!

甲斐の虎と恐れられた武将、武田信玄。
その生涯が記された甲陽軍鑑にはこう書かれています。
20歳で実父を追放、そして武田家当主となります。
どうして父を追放したのでしょうか?
1521年、武田晴信(信玄)誕生。
父の信虎は、この地を治める大名、母は大井夫人と呼ばれる武家の娘でした。
母は竹だけの嫡男である晴信の教育に熱心でした。
幼い晴信のために僧侶を招き、和歌、兵法を学ばせたといいます。
その甲斐あって、晴信は賢い子に成長しました。

ある時、晴信は大量の蛤の貝殻を持ってこさせました。
家臣に貝殻がいくつあるか当てさせます。
家臣たちは1万とも、2万とも・・・実際は、4000個でした。
意外そうな顔をする家臣たちに晴信は言います。

「5000ほど兵がいれば、どんなことでもできる」

実際は、5000ほどしかいなくても、1万や2万に思うこともある・・・
少数の兵でもうまく使えば勝てるという意味でした。
しかし、晴信の聡明さを父は嫌ったといいます。
信虎は、一代で甲斐を平定した猛将です。
戦いに長け、家臣たちを力で従わせていました。
己の力を信じ、戦で力を発揮してきた信虎にとって、晴信は屁理屈ばかりのこしぬけに見えたのかもしれません。

ある時晴信は、信虎の持つ名馬が欲しいと願い出ました。
すると信虎は、
「若いお前があの馬に乗るのはまだ早い
 来年14歳になったら元服させる
その時に、武田家の宝物と一緒に譲るつもりだ」
しかし、晴信は、
「宝物は家督相続の時にもちろん頂戴します
 しかし馬は、今から練習しておけば父上が御出陣の際にお供をして役に立つことができます」
自分が家督を継ぐことがすでに決まっているかのようなこの物言いに、信虎は激怒!!
「そんな生意気をいうなら、武田の家督は弟の次郎に相続させる」

1536年、晴信は16歳で初陣を飾ります。
隣国・信濃での領地争いでした。
その時晴信は一計を案じました。
直ちに攻め入ろうとはせず、有利になる時を待ったのです。
晴信の狙いは、正月でした。
正月を迎えると、兵士の多くは家に帰ってしまい城は手薄になりました。
晴信は楽々と城攻めに成功!!
意気揚々と引き上げ、戦果を報告した晴信・・・しかし、父は、
「から城を落としただけだ!!」
晴信の手柄を、断固として認めませんでした。

そしてある日、親子の対立を決定的にさせる出来事が起こります。
父・信虎は、杯を弟に与えたのです。
兄の晴信を差し置いて、家臣たちの前で弟を武田家の跡取りとして扱ったのです。
重臣の居並ぶ前で、信玄ではなく弟の信繁に杯を渡すというのは、家督相続予定者を信玄から信繁に変えるという意思表示・・・大変重い意味がありました。
不安に苛まれる晴信・・・しかし、武田の家臣の空気は微妙に変わり始めていました。

この頃甲斐では台風や洪水などの災害が続き、人々は飢餓に苦しんでいました。
しかし、信虎は領民の救済には目もくれず、領土拡大を図って隣国との戦に明け暮れていたのです。
そのため表立って逆らえないものの大勢が不満を募らせていました。

信虎は悪逆非道であり 人民も牛馬も ともに悲しみ悩んでいる

信虎への不満が充満する中、ある人物が晴信を訪れます。
重臣・板垣信方です。
板垣は、晴信を幼いころから教育した武田家の重臣で晴信を誰よりも知る人物です。
板垣は晴信に進言します。

「信虎様には、速やかにご隠居いただき、あなた様に跡を継いでいただくことが、一番の得策にございます」

この自分が父を隠居させるとは・・・親への忠義に反する行為・・・迷った挙句に晴信は、

「困窮する民を救いたい」

と、自分のためではなくあくまでも甲斐のために動こう・・・晴信は密かにクーデターを決意しました。

1541年、20歳の時、絶好の機会が訪れます。
父・信虎が、駿河の今川義元をたずね、甲斐を留守にしたのです。
もともと武田家と今川家は、領地を争う敵同士でした。
しかし、今川と戦うのは不利と考えた信虎は、関係改善を図ります。
今川義元の紹介した娘を晴信の正妻とします。
これが功を奏し、武田と今川は後に同盟を結ぶこととなりました。
信虎は駿河を訪問したのは今川との親睦を深めるためでした。
この機を逃さず、晴信は甲斐と駿河の国境を封鎖!!
信虎が帰って来られないようにしました。
僅かな兵しか従えていなかった信虎は、成す術もありませんでした。
さらに晴信は今川と密約・・・信虎を隠居させて今川に置いておくというものでした。
晴信が信虎の追放に成功します。
家督を継ぎ、晴れて武田家の当主となりました。
20歳の時でした。

20歳で甲斐武田家の当主となった晴信は、それから10年、領土を2倍以上に広げます。
しかし、そこに至るまでには様々な壁、そしてそれを乗り越えるための工夫がありました。
父を追放した当初、晴信に従わない家臣が多くいました。
それは、甲斐が山国で盆地が多いことも原因でした。
当時は盆地ごとに有力な家臣が地域を治めていました。
山で遮られて、他の地域との交流が少ないため、独立心が強かったのです。
武力で従わせてきた信虎がいなくなったので、家臣たちは好き勝手に行動を始めます。

通行税を巻き上げたり、所領を配下の者に分配したり・・・

”全てのことが思うようにいかず迷惑している”
 
そんな家臣たちに嫌気がさした晴信は、責任を投げ出してしまいます。
昼夜を問わず、若い家臣や侍女を集めて酒盛りや歌会を・・・
この晴信の行いに心を痛めたのは、晴信に信虎の追放を勧めた板垣信方でした。

”信虎さまは、非道の行いが過ぎた故追放されました
 今のお館様は、あまりにも我儘勝手で信虎様よりも悪しき大将にございます
 今の言葉に腹が立ったなら、自分を斬ってください” 

当時交代したばかりの信玄政権の初期を全面的に支えていたのは板垣でした。
板垣に対する信頼感は、たいへん高かったのです。
板垣の言葉に心を打たれた晴信は、家臣たちに自分をリーダーと認めさせるには、行動しかない・・・
戦場にその身を投じていきます。

晴信は諏訪の攻略に・・・この地を守る諏訪大社の庇護が欲しかったのだといわれています。
諏訪大社は、諸国に知られた戦神・・・武将たちは、この諏訪大社に対する信仰を持っている人が多くいました。
諏訪大社を保護し、盛り立てていく・・・そういう権力なんだと内外に示すことで、影響力を強めようとしたのです。

自らの正当性を強調する一方、晴信は家臣の意見に耳を傾けることにも熱心でした。
領内の政策や戦の方針など、独断をやめて合議制にします。
家臣の働きをつぶさに観察し、功績をあげたものには即座に褒美を与えました。
晴信は、戦の最中でも様々な褒美を与えていたといいます。
中でも大きな役割を果たしていたのが金・・・甲州金です。
戦功をあげたものには、金の粒を三すくい与えたという記録が残っています。
これは、金山開発が盛んだった甲斐ならではの恩賞でした。
山が多く、平地の少ない甲斐では、土地以外の褒美が必要だったので、信玄が編み出した工夫でした。

さらに、領国経営でも画期的な工夫を・・・
「甲州法度之次第」と呼ばれる法律を制定します。
法度では、年貢のルールを正確にし、役人などの横暴を取り締まります。
そして身分を問わず、法の下の平等を打ち出しました。

”この晴信自身が法度に背くことがあれば、責賎を選ばず、誰でも届け出てよい
 その時は責任をとる”

自分の制定した戦国法が、自分自身にも適用される・・・
そういった法は他にはありません。
信玄が制定した甲州法度が唯一無二のものです。

武田二十四将図・・・
二十四将と言うからには24人家臣がいるはずですが、23人・・・
つまり、晴信自身も24将の一人に数えられています。
トップダウンだけではなく、時には家臣と対等に・・・若きリーダーの姿がそこにはありました。
こうして家臣たちの信頼を築きながら、晴信は北へ領地を拡大を目指します。
目標は信濃国の完全掌握でした。
信濃侵攻を開始した武田軍は、破竹の勢いで敵を打ち破ります。

1548年、27歳の時信濃の1/4を配下に治めます。
しかし、行く手に強敵が・・・!!
北信濃の武将・村上義清です。
連勝を重ねてきた武田軍は、迷わず城を攻撃!!
ところが、城の守りは固く激しい反撃にあいます。
さらに別動隊に後ろに回り込まれ挟み撃ちに・・・!!
この戦で、幼いころから晴信を支えた重臣・板垣信方が討ち死に・・・!!
5000人ともいわれる戦死者を出し、武田軍は惨敗しました。
敗戦から2か月後、体勢を立て直した武田軍は3度の戦いの末、村上を破ります。
板垣信方亡き後、晴信はその恩を忘れず板垣家を重用。
板垣家は主を変えて江戸時代も続き、明治維新を迎えたといわれています。
こうして晴信は、甲斐と信濃をほぼ手中に治めました。
32歳でした。

武田晴信は40歳を前に出家し、武田信玄となります。
その頃、信玄のもとには、一騎当千の兵どもが揃っていました。
高坂昌信、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀・・・武田四天王といわれる武将を従えて、信玄は戦場を駆け巡りました。
若き日に信玄と戦った三河の徳川家康・・・後にこう語っています。

「今の世に信玄ほどの武将は他にいない」

どうして武田軍は最強と呼ばれたのでしょうか?

「人は城 人は石垣 情けは味方 仇は敵なり」

武田の強さの秘密は、その人材活用術にありました。
武田四天王の一人、高坂昌信は16歳の時に信玄の世話係として登用されました。
しかし、農民の出身だったため読み書きが不得意で周りの者にバカにされることも多かったのですが・・・
そんなある時信玄は家臣を集めてこう言いました。

「何より大事なのは、武功・忠孝の者から話を聞くことだ 
 一日に一つ聞けば一月で三十、一年で三百六十も聞いたことになる
 去年の自分より、はるかに優れた人となる」

この教えを聞いた高坂は、以後周りの人の話をよく聞き、覚えることに愚直に取り組みました。

武田家の歴史や信玄の教えを記した第一級の資料「甲陽軍鑑」
この本は、高坂の口述筆記を元にしています。
高坂は、武田家で見聞きしたことや、信玄が行いを年下の者に伝えることで、慢心を戒め戦に役立てたといいます。
読み書きが不得意な高坂は、信玄の教えを守ることでどんな武将も及ばない立派な書物を作ることができたのです。

四天王の二人目は山県昌景。
信玄は山県をこう評しています。

「赴くところ敵なし」と。

山県が率いたのは騎馬部隊・・・
その具足の色から赤備えと呼ばれ、他国の武将から畏れられました。
元々甲斐は、馬の産地であったことから騎馬の扱いに長けた者が多かったのです。
そこで武田軍は、他国より優れた騎馬隊を組織!!
山県はその騎馬部隊を操り、敵と味方の足軽がせめぎ合うところに突入し、勝利に導いたといわれています。

武田四天王残る二人は、内藤昌秀・馬場晴信。
内藤晴信は勇猛で知られた武将でしたが欠点もありました。
戦闘に夢中になると周りが見えなくなるのです。
そこで信玄は馬場晴信と一緒に行動するように言いつけます。
馬場は冷静で状況判断に優れていたからです。
ある戦で内藤が勝ちに乗じて単独で敵を深追いしたことがありました。
それに一早く気付いた馬場は、内藤に使者を出します。
使者は馬場からの言葉を内藤に伝えました。

「このままだと危ないぞ」

内藤は、己の悪い癖である深追いに気付き、即座に兵を引いたといいます。
信玄は家臣の長所短所を見極めて、組み合わせ力を最大限に発揮させたのです。

さらに、戦の役に立たない家臣でも、貴重な戦力にしました。
岩間大蔵左衛門は、武田軍団一の臆病者と言われていました。
戦に行きたくないと嫌がり、合戦では目を回して卒倒・・・
味方からも不満が絶えませんでした。
そんな不満を耳にした信玄は一計を案じ、岩間にこう言います。

「これからは家中のどんな些細なことでも知らせよ
 もし報告を怠ったら、斬る」

家臣たちの動向を知らせる目付けに任命しました。
岩間は殺されてはたまらないと、家中で少しでも不穏な動きがあれば逐一信玄に報告しました。
おかげで信玄は、家臣の活躍や評価を正確に行うことができ、家臣たちの不満は減っていきます。

そんな武田軍団でも苦戦した敵がいました。
越後の龍として恐れられた上杉謙信です。
謙信と信玄が相対した川中島の合戦・・・
信濃と越後の国境で、信玄が32歳の時から足掛け12年、実に5回も繰り広げられました。
しかしこの戦、信玄は地理的に不利でした。
戦場の川中島まで謙信の城からはおよそ50キロ、対して信玄の城からは100キロも離れた甲府から出陣します。
そこで、戦いの拠点として新たに築いたのが川中島に近い海津城です。
四天王の一人・高坂昌信を配して合戦に備えます。
さらに、領内に狼煙台を数多く配置、見張りが敵を発見すると狼煙をリレーして連絡し、信玄が素早く出陣できるようにしました。

1561年、信玄40歳の時、謙信と最も激しい戦いの第4次川中島の戦いを繰り広げます。
この時謙信は、信玄の先手を取って武田の陣地の目の前にある妻女山に陣取ります。
知らせを受けた信玄は海津城に急行。
武田軍は家臣全員が出陣し、総力戦の構えをとりました。
霧が立ち込める中、信玄は武田軍を二つに分け、妻女山の上杉軍を挟み撃ちにする作戦をとりました。
ところが上杉軍はこの作戦を見抜いて、密かに下山・・・。
濃い霧に紛れて布陣・・・そして霧が晴れた瞬間、準備万端の上杉軍が信玄に襲い掛かってきました。
不意を突かれた武田軍は大混乱・・・
上杉軍は武田の本陣にまで迫ってきました。
危うし・・・信玄・・・
その時、武田の別動隊がようやく現場に駆け付けます。
形勢逆転、信玄は何とか上杉の猛攻を退けました。
その後も川を挟んで二人はにらみ合いを続けましたが、とうとう決着はつきませんでした。

川中島の戦いの後、信玄には新たな野望が芽生えます。
近年見つかった資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と書かれています。
どうして都を目指したのでしょうか??

1554年、33歳の時信玄は北方の上杉謙信との戦いに備えてある策を講じていました。
南の駿河国・今川氏、東の相模国・北条氏と三国同盟を組んだのです。
同盟の保証としてそれぞれの当主の嫡男にそれぞれの姫を嫁がせるという政略結婚が行われ、三国は血縁関係となりました。
しかし6年後の1569年、39歳の時にこの同盟に亀裂が入る大事件が起こります。
桶狭間の戦いです。
尾張の小大名だった織田信長が、今川義元を奇襲し破りました。
当主が亡くなったことで今川の力が弱まっていくことは明らかでした。
これを好機と見た信玄は、同盟を無視して今川攻めの準備を始めます。
駿河には港と京につながる東海道がある・・・
どうしても欲しかったのです。

しかし、武田の家中で今川攻めに反対する者がいました。
信玄の長男・義信です。
義信の妻は、三国同盟の時に今川から迎えた義元の娘でした。
妻の実家だったのです。
今川攻めを巡って、親子は激しく対立します。
義信は信玄の暗殺を企てます。
しかし、企てはすぐに発覚し、信玄は慶喜を幽閉、その後、義信は非業の死を遂げました。

信玄は義信をかわいがり、後継者として期待をして育てていました。
しかし、義信事件となったのは、政治家としての信玄は家庭人としての顔を捨てざるを得ない・・・信玄の深い悲しみと苦悩がありました。

1568年、47歳で駿河に侵攻。
武田軍は順調に進み、翌年には駿河国を制圧します。
しかし、密かに病魔が忍び寄っていました。
駿河侵攻を始めて3年・・・50歳を超えた頃には体調が悪化し、床にふせることが多くなってきていました。

「膈という病気だと言われた」

膈とは、胃がんと考えられています。
信玄は死期が近づいてきていることを悟りました。
それでも信玄は野望を抱いていました。
2018年に発見された新資料には・・・
「日本国を残らず攻め取って治めたい
 都に武田の旗を立てる」と。
余命があまりないかもしれないという状況の中で、足利義昭と一緒に室町幕府体制を支えながら上洛を遂げて、天下の運営に携わりたいという気持ちがあったのです。

1572年12月、52歳で信玄挙兵。
病を押して京へ・・・。
隣国の遠江に攻め入った信玄・・・行く手を遮ろうとした徳川家康を三方ヶ原の戦いで一蹴、さらに西へ急ぎました。
翌月には三河の野田城を攻略、いよいよ最大の難敵・・・尾張の織田信長との対決が迫っていました。
しかし・・・口の中にできものができ、歯が5,6本抜けて次第に衰弱していきます。
もはや、死脈を打つ状態となったので覚悟をします。
信玄は遂に甲斐への帰路につきました。
その道中、遺言を残しています。

「自分の死を3年の間秘すこと」

信玄は自分の死を敵に悟られないように入念な準備をしました。
その一つが白紙の手紙・・・
信玄は、自分の花押だけの手紙を800枚余り用意しました。
信玄の手紙を出すことで、生きているように見せかけようとしたのです。

1573年4月12日、ふるさと甲斐への道半ばで信玄は息を引き取りました。
52歳の生涯でした。

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長野県北部に位置する盆地・善光寺平・・・
今から450年ほど前、戦国最強と謳われた二人が刃を交えました。
甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信です。

12年間、5回にわたり激突した川中島の戦いです。
どうしてこの場所で5回も戦わなければならなかったのでしょうか?

武田信玄は、1521年武田守護・武田信虎の嫡男として生まれました。
21歳の時に、悪政をしいていた父を追放し権力を握ると・・・隣国信濃に割拠していた国衆を攻略し、信濃のほぼ全域を手中に納めました。

信玄から遅れること9年・・・春日山城で・・・
1530年越後守護代・長尾為景の末子として生まれます。
19歳で家督を相続すると、混乱していた越後を瞬く間に混乱していた越後を瞬く間に統一。
そんな中、信玄と謙信の運命を変える川中島の戦いが・・・!!

きっかけは・・・
1553年4月春日山城に、北信濃の国衆・村上義清がやってきて・・・
「信玄に我が居城を落とされたので、援軍をお願いしたい。」と言ってきたのです。
当時の信玄・謙信の唯一の緩衝地帯・北信濃は、勢力の小さい国衆・・・村上家・島津家・高梨家・・・が治めていました。
代々上杉との結びつきが強く、反武田としていました。
信玄の侵攻に、上杉を頼ってきたのでした。
義の男・謙信はこれに応じます。
しかし、この時、謙信にも信玄の侵攻を食い止める必要がありました。
越後、春日山を守るために!!
春日山城から川中島までは、直線距離で僅か50km。
北信濃を信玄に取られてしまうと、春日山城も危機に・・・!!
もう一つ互いが争う原因は、善光寺にありました。
善光寺は、川中島の戦いの場となった盆地の中にあって、この寺を支配することが戦のもう一つの目的でした。
善光寺は無宗派なので、一生に一度は善光寺参りと言われるように、全国から人々がやってくる経済の一大拠点だったのです。
善光寺を支配するということは、庶民に対して大きなアピールとなり、また、経済的にも大いに潤うという事なのです。
1553年8月、上杉謙信出陣!!
迎撃するために信玄も出陣!!そこが犀川と千曲川の間にある川中島だったのです。
12年間、5度にわたる戦いが幕を開けました。
この時信玄33歳、信玄24歳でした。

第1次川中島の戦い
両軍は、川中島で小競り合いを演じますが、上杉軍が優勢となると信玄は、塩田城に撤退し、籠城してしまいます。
川中島一帯を支配下におさめた謙信は、ひと月ほどで兵を引き上げていきました。
最初の戦いは、謙信の勝ちのような形となりました。

第1次の戦いで、川中島一帯の支配権を取られてしまった信玄は、侵攻を諦めたわけではありませんでした。
1554年駿河・今川義元、相模・北条氏康と三国同盟を結び、南の安全を万全に確保すると、北に!!
危機を感じた北信濃の国衆・高梨政頼、村上義清が謙信に助けを求めます。

1555年7月、謙信と信玄は、犀川を挟んで対峙することに・・・!!
第2次川中島の戦いです。
しかし、この2度目の戦いも小規模でした。
半年間にらみ合いを続け・・・この朝廷に乗り出したのが、今川義元でした。
義元は、境界を犀川と定め、武田がすでに攻略していた土地を返還するという信玄にとっては不利な条件で和睦させます。
武田軍の補給がこれ以上続かず、戦をすることが出来なくなっていたのです。

1557年、第3次川中島の戦い
信玄がこの講和を破ります。
信玄の動きを知った謙信は、北信濃に出てきます。
川中島で戦いますが・・・この時も、信玄は積極的ではありません。
謙信にけしかけられるも応じず。。。しびれを切らした謙信は、4か月後越後に帰っていきました。

どうして3度対峙するも小規模だったのでしょうか??
それは、戦の発端です。
謙信は、あくまでも助けを求めてきた国衆たちのために出陣!!
「義」の武将と言われるように、領土的野心はありませんでした。
謙信は、越後防衛のため・・・それ以上は戦う必要がなかったのです。

信玄が守りに徹したのは・・・
謙信の兵力があまりにも強い事を知っていたので、出来るだけ損害を出さずに個別に戦っていました。
つまり、謙信の方が、決着を付けたがっていたのです。
信玄はその意図を見抜いていました。
なので、専守防衛、籠城・・・な作戦をとっていました。
つまり、第3時までの戦いが小規模だったのは、武田信玄が積極的に攻めなかったからなのです。

さらに、戦のもう一つの理由だった、善光寺・・・
第3時の戦いの間に、それぞれが、「越後善光寺如来堂」「甲斐善光寺」と移したとし、ある程度の経済的安定を達していました。
激しい戦を繰り広げる必要性がなかったのです。
周辺の村々で受けた人々の被害は甚大で、農地は荒れ果て、農民の1/3が巻き込まれ亡くなったり離散したと言います。

第4次の戦いの直前、川中島西部の6つの村は、戦で家や農地が荒らされては困ると、武田上杉両軍に、村を戦場にしないように願い出ます。
すると村にあった杉に幕が張られ、これが停戦ラインとなり村は守られました。
そして、この幕の向こうで行われたのが、激戦!!第4次川中島の戦いです。
ついに両雄が激突!!


長野県長野市八幡原史跡公園は、最も激戦となった4度目の戦いの舞台となった場所です。
1560年、信玄が上杉軍に備えるために、軍師・山本勘助に命じて川中島の近くに海津城を築城したことでした。
1561年8月14日、北信濃から1万8千の兵が・・・北信濃から武田を追い出すべく春日山城を出陣!!
善光寺に5千の後詰を残し、川中島の妻女山に1万3千の兵が!!
狼煙によってこれを知った信玄は、8月18日に1万7千の兵を出し、甲府を出発!!
29日には3千の兵が籠る海津城へ!!
これまでの戦いに比べ、両軍ともに圧倒的な数です!!
雌雄を決する時が・・・!!

どうして第4次川中島の戦いは大規模なものとなったのでしょうか??
お互いに、相手を戦い潰そうと覚悟を決めての戦いでした。
それは、第3次の戦いの後、お互いの立場が大きく変わったことが関係しています。
武田信玄は、1558年に第13代将軍・足利義輝に信濃守に補任されています。
名実ともに、信濃の支配者となり、信濃の平定は、信玄にとっての大義名分となったのです。
謙信は、1561年に関東管領・上杉家を継いでいます。
この関東管領は、鎌倉公方の補佐役ということで、関東支配を任されたという正当性があり、関東の北条を攻めるためには、北条の同盟国であった武田が邪魔だったのです。

両者に大義名分が出来たので、決着をつける必要があったのです。

1561年第4次川中島の戦い
先手を打つ信玄!!
1561年9月9日深夜・・・
海津城から別動隊1万2千が出発します。
謙信の布陣する妻女山の裏手に回るためです。
信玄自らは、本体8千を率いて八幡原へ!!
夜明けとともに別動隊が、裏から奇襲をかけ、攻めて謙信たちを妻女山から追い落とし、待ち伏せしていた本体と挟み撃ちにしようと考えていました。
啄木鳥戦法で、軍師・山本勘助が授けたと言われています。

しかし、これは謙信に見破られました。
海津城からの夕飯の支度の煙がいつもより多いことに気付いた謙信は、武田軍がその夜に動くことを察知!!
別動隊が来る前に、ひそかに妻女山を降りると、武田本体が向かっていた八幡原に先に布陣!!
作戦が見破られてしまった武田軍は、序盤で劣勢になってしまいました。

もう一つの理由が・・・気象。
9月10日早朝、武田・上杉両軍は、八幡原の至近距離に布陣していました。
戦いがあったこの日、今の暦に直すと10月中旬。
この時期は、盆地である川中島は、特に寒暖差が激しく、さらにこの場所は川が多く流れていて・・・
川中島では秋から冬にかけて、先が10mも見えない濃い霧(蒸気霧)が発生するのです。

決戦前日の放射冷却、9月10日は冷え込みました。
濃い放射霧が起こり、武田軍本体と上杉軍本体は、お互いの距離感がつかめないまま布陣することとなりました。
そして夜が明け霧が晴れると・・・目の前に敵が・・・!!
啄木鳥戦法を見破っていた上杉軍は、敵が近くにいることを想定していましたが、武田軍は、よもや目の前にいるとは思わず、劣勢となります。
上杉軍は、「車がかり」の陣形で襲い掛かります。
その激戦の中・・・信玄の弟・信繁が討ち死にします。
信繁は武田家のNo,2で、軍略・見識共に優れていた、戦国屈指の武将でした。
真田信繁の名は、父・昌幸が、武田信繁のような名将になってほしいと付けたと言われています。
この戦で啄木鳥戦法を提案した山本勘助も、責任を感じ、敵陣に突っ込んで壮絶な最期を遂げます。

戦の中盤・・・有名な信玄と謙信の一騎打ちが・・・!!
謙信は、武田軍の陣中深く白馬を走らせ、信玄の本陣に突撃!!
信玄に真っ向から斬りつけました。
信玄は手にした軍配でこれを受け止めます。
三度振り下ろされた刀によって、信玄の軍配はズタズタになったと言われていますが・・・
信玄の部下の助太刀で、謙信はその場を去り、決着はつかなかった。。。
これは本当にあったのでしょうか・・・??

しかし・・・これが語られたのは江戸時代の事。
「甲陽軍鑑」で書かれています。
伝承はあったようです。が、断定はできていません。
謙信が刀を抜いて戦ったということは間違いありません。
が、相手が信玄だったということはわからないのです。

啄木鳥戦法を見破られているとも知らず、上杉軍の背後に回ろうとしていた別動隊は・・・??
1万2千が妻女山につくも、もぬけの殻・・・
作戦失敗に気付くも、時すでに遅し!!
本体の危機に山を駆け下ります。
そして、別動隊によって挟み撃ちにされてしまった上杉軍。。。
形勢逆転!!
謙信は、即座に撤退し、命からがら引き揚げて行ったのでした。
激闘の4時間!!

武田軍  死者4,600余人   負傷者13,000余人
上杉軍  死者3,400余人   負傷者  6,000余人

こうして日本の合戦史上最大の激戦は、終わりを告げたのでした。

3年後・・・最後の戦い・・・第5次川中島の戦いとなりますが・・・激戦とはなりませんでした。
にらみ合いが60日間続き、撤退します。

川中島の戦いは、12年間で5回にわたって繰り広げられた理由は・・・
謙信が北信濃の国衆を助けるためだったことと、信州善光寺がもたらす利権をめぐってのことでした。
もう一つ目的があったと言われています。
それは・・・戦が行われた季節の秋・・・!!
どうして5回の川中島の戦いは秋に行われたのでしょうか?

信濃国は、武田信玄と上杉謙信の取り合いの場となっていました。
信玄は信濃の土地を自らの領地とし勢力を拡大していきましたが・・・
謙信は領土的野心はありませんでした。もちろん信濃も奪っていません。
領土の取り合いでなければ、二人の目的は・・・??

ルイス・フロイスは、日本の戦についてこう書いています。
「われわれヨーロッパでは、土地や都市や村およびその富を奪い合うために戦う。
 日本では、戦争はほとんどいつも、小麦や大麦、米を奪うために行われる。」と。

日本の戦争は、領土を奪うためではなく食料を奪うためでした。
謙信も例外ではなく、今でこそ米所の新潟は、当時の米は寒い所では育ちにくく、よそから奪う必要がありました。
謙信は生涯を通じて10回以上関東に出兵していますが、食料確保のためだったと言われています。
1566年謙信が小田城を攻め落とした時は・・・謙信の指図で捕虜たちの人身売買が行われていました。
しかし、これは当時の戦国大名が皆やっていたことです。
東日本は激しいもので、武田信玄もやっていたことです。

川中島の戦いが、秋にやっていた・・・収穫期にやっていたのは、収穫期に合わせて農作物を略奪するためだったのです。

5回の戦いの勝者は・・・??
川中島一帯は武田の領土となり、謙信は高梨、島津、村上を本領に返すことはできませんでした。
武田の優位となったのです。
が・・・謙信は、この時、自分を頼ってきた国衆を家臣として組み込むことが出来るようになり・・・謙信も大いに利得があったようです。
川中島の戦いで、お互いをライバルと認め合うようになった信玄と謙信。
しかし、お互いの戦いに時間を費やしている間に、周りはすっかり変わっていました。
信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ・・・
これを契機に、信長が一気に躍進し、天下取りに進んでいきます。

川中島があったために、謙信と信玄は西に向かうことが出来ません。
早期に決着がついていたら、お互いがもっと西に進出していた可能性があります。
12年にわたる川中島の戦いが、信長の勢力拡大につながってしまったのです。

戦国の龍虎と称えられた信玄と謙信。
川中島の戦いが、こんなに長く続かなければ・・・戦国の勢力図が変わっていたかもしれません。




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