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タグ:武田勝頼

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戦国最強の武将とはだれか??
織田信長・・・??
しかし、江戸時代初期の軍記物「北条五代記」には・・・
最強の武将とは・・・北条氏康・武田信玄・上杉謙信と書かれています。
3人の名称のうち、一人でも長命であったならば、信長は滅亡していたはず・・・??

信長と対峙したことがあるのが上杉謙信・・・軍神毘沙門天の化身と恐れられた武将です。

決戦の場は、石川県を流れる手取川流域・・・
謙信対信長・・・氏康、信玄亡き後、戦国最強を決定づける手取川の戦いです。

謙信の猛攻の前に織田軍はなすすべなく敗れ去った・・・??
闘いの後謙信はこう豪語しました。
「織田軍は案外弱く、この分では今後天下までの道は容易であろう。」と。
しかし、織田側に記録は残っておらず、実像は明らかになっていません。
勝敗を決めたものは・・・??

”国宝 上杉本洛中洛外屏風”・・・戦国時代の京都を描いた屏風です。
これは、信長が謙信に贈ったと言われています。

屏風絵の中でひときわ目立つのは、将軍の御所へ向かう武家の行列・・・
この人物こそ、若き日の謙信だと言われています。
どうしてこのような屏風を贈ったのでしょうか?
謙信と信長・・・二人の関係は古く、最初の交わりは、この屏風を贈った日から10年前です。
この時謙信は35歳、川中島の戦いで武田信玄との争いを繰り返していました。
31歳の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、隣国美濃攻略に力を注いでいました。
謙信に宛てた信長の書状には・・・
”我が息子を養子に迎えても構わないとの由、まことに光栄の至り、今後もご指導を仰ぎたい。”
この養子縁組は実現していません。しかし、謙信に対する信長の低姿勢は何を意味するのでしょうか?

この時、信長は尾張を治めて、謙信は越後を治めていました。
関東管領上杉家の名跡を、謙信はそれ以前に継いでいました。
室町時代の家の格としては、圧倒的に上杉の方が上だったのです。
当時のルールとしては、信長が謙信に対して丁寧に手紙を書くのは当然のことでした。
謙信が就任した関東管領とは、関東諸国の政務長官で、将軍が直接任命する室町幕府の要職でした。
二人の関係は、1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛した後も、変わっていません。
信長は謙信にこう報告しています。

”将軍様ご上洛の件、信長はお供することを請け負っただけです。”

信長の謙信に対する気遣いが伺えます。
しかし、やがて軋轢が生じ始めます。
契機となったのは、戦国時代最強と言われた武田信玄の死でした。
当時信玄は、信長と謙信共通の敵・・・信長の同盟者徳川家康は、三方ヶ原の戦いで信玄に大敗を喫していました。
武田軍は、徳川領に侵攻・・・そのさなか、信玄が病没したのです。

英雄信玄の死で、武田の領国は揺らいでいました。
謙信と信長に好機が・・・!!
この機を逃すまいと、謙信は信長に申し入れます。

「畿内のことより、武田に対する軍事行動に精を出すべきである。」

互いに協力して武田領に侵攻することを提案したのです。
1574年武田勝頼が、信長の領国・東美濃へ侵攻。
信長軍は武田軍を迎え討ちます。
その時謙信は、越後から雪の峠を越え、武田領の西上野に侵攻しました。
これによって武田軍は織田領から撤退・・・謙信・信長の共同戦線は成功したかに見えました。
しかし・・・謙信は信長を救援する為に苦労して出兵したにもかかわらず、何の例もないことに腹を立て、これを遺恨としました。
洛中洛外図屏風は、謙信の怒りを収めるために、信長が贈ったものと考えられています。

翌1575年、信長が武田領にへの共同戦線を謙信に持ちかけます。
が、謙信は武田領でなく、越中へ出兵!!
これには信長も黙っていません。

「約束を違えるのは世間体が悪く、無念です。」

謙信に恨み言を述べ、批難しています。
謙信と信長・・・二人の行き違いは、やがて決定的なものとなっていきます。

1575年8月、信長は大軍勢を率いて越前に侵攻。
長年信長と対立していた一向一揆を滅ぼすためです。
一向一揆とは、本願寺門徒宗を中心とした民衆の連合で、その勢力は、戦国大名に匹敵していました。
この時信長は、驚くべき手段に打って出ます。

山林までわけ入り、男女問わずことごとく切り捨てよと命じました。
結果、生け捕られ斬首された人は併せて3、4万にももぼったと言われています。
一方謙信は、それまで敵対関係にあった加賀一向一揆と和睦。
謙信と和睦した加賀一向一揆の拠点だった鳥越城・・・。
鳥越城は、加賀一向一揆が織田軍の侵攻に抵抗する為に築かれたと考えられ、後に壮絶な攻防戦を行うこととなります。
最新鋭の武器・武具を備えていて、戦国大名の軍勢に全く劣らない強い軍事力を持つ加賀一向一揆・・・。
江戸時代の一揆と、戦国時代の一向一揆は全く異なっていました。
越前一向一揆を力で殲滅した信長・・・。
信長と相反するように、手を結んで加賀へ進出した謙信・・・。
両者の勢力のさかいを接したことで、二人の対立は避けられないものとなっていきます。

信長がしかけます。
越前を平定した後、信長は朝廷から権大納言・右近衛大将を授かります。
これは、武官の中で最高位と見なされる官職で、朝廷は信長を武家のTOPと認めたのです。
謙信の関東管領を凌ぐ信長の官位・・・
朝廷権威を背景に信長が謙信より優位に立とうとした現れです。
謙信は外交政策に力を注ぎます。
信長に追放された足利義昭の妖精に応え、毛利や武田、本願寺と組んで信長包囲網を形成します。

対する信長は経済封鎖を行います。
三国湊に謙信の勢力圏から船が入ることを禁じています。
これは、荷留と言われる信長の経済戦略でした。
謙信は3万の兵を率いて能登へ侵攻。
能登を支配していたのは名門畠山氏・・・
謙信は畠山氏が信長と手を組むことで背後が危うくなることを避けようとしたのです。
畠山氏の居城・七尾城・・・いくつもの尾根に郭が築かれた山城です。
標高およそ300mに築かれた七尾城・・・
東西1キロ、南北2.5キロ・・・日本屈指の巨大城郭です。
城内から出土した天目茶碗・・・都の華やかな文化が日本海経由で持ち込まれていました。
城の麓に総構えが・・・。
総構えとは、城下町も含め、城の外郭を囲んだ堀のことです。

謙信には、城攻めに失敗した苦い経験がありました。
1561年小田原城の戦いで、謙信は力攻めするも、落とせなかったのです。
七尾城も、力づくで落とせるような城ではない・・・七尾城の周囲を守る畠山氏の城を攻略!!
能登の港を押さえることで、制海権をとることで、七尾城の孤立を図ります。
七尾城の大きさが、謙信の戦法を変えさせたのです。
謙信にその戦法までも変えさせた七尾城・・・
信長と決戦が近づく中、どうしてもこの城を落とさなくては・・・!!
同じころ、信長は謙信との戦いに向けて、配下の武将たちを集めていました。
柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家・・・
そうそうたる顔ぶれで、兵力は4万8000!!
ここに、戦国最強をかけた戦いが始まろうとしていました。

1577年7月、謙信は3万ともいわれる軍勢で、七尾城へ向けて出陣!!
その頃、七尾城では重臣たちが上杉派・織田派に分かれ、対立していました。
織田派の重臣は信長に援軍を求めます。
出兵の大義名分を得た信長は、謙信討伐を決意!!
謙信VS信長・・・月に直接対決の時が・・・!!
しかし、出陣の直前・・・突然、信長に従っていた松永久秀が大和で挙兵!!
この謀叛には、謙信が関わっていたという資料も・・・!!
こうした不穏な状況により、信長は出陣せず、総大将・柴田勝家のもと織田軍の大軍勢が七尾城に向けて出陣!!
まもなく七尾城を攻めあぐねる謙信のもとへ織田軍侵攻の報せが届きます。
このまま七尾城を落とせないと、織田と畠山に挟み撃ちにされる・・・!!
織田の大軍勢が迫る中、普段することのない謀略を試みています。
七尾城内の上杉派に送られた謙信の書状には・・・

信長派の一族親類を討ち取って城をとれば七尾城主にする・・・!!

一方七尾城に進軍する織田軍にも問題が生じていました。
総大将・柴田勝家といさかいを起こした羽柴秀吉が、勝手に手勢を率いて帰国してしまいました。
一枚岩ではなかったのです。

9月15日、七尾城に内紛が勃発!!
謙信の謀略が功を奏したのです。
これを機に、上杉派の重臣が上杉軍を城内に引き入れ織田派をことごとく討ち果たしました。
ついに謙信は、七尾城を手に入れたのです。
七尾城に進軍を続ける織田軍は、まだそれを知らない・・・。

七尾城を手に入れた謙信・・・織田の大軍勢をどうするのか・・・??
平地決戦をするか??それとも籠城か・・・??

1577年9月10日、加賀に侵攻した柴田勝家から興味深い報告がされています。

今日まで七尾城からの使者が一人も来ない・・・
地元の百姓が、ことごとく謙信に味方するため、七尾への通路がふさがっているようである・・・

謙信は、七尾城周辺の街道を封鎖!!これによって、織田軍には情報が一切入っていなかったのです。
謙信が七尾城を落とした3日後の9月18日、織田軍は加賀・手取川近辺に到着!!
手取川・・・日本の中でも特に急流な川の一つです。

手取川は、歴史上何度も氾濫を起こし、人々に甚大な被害を与えてきました。
島集落は、避難場所の名残です。
9月23日、織田軍に七尾落城の報せが届きました。
総大将・柴田勝家は、謙信の襲来を恐れ全軍に撤退を命じます。
しかし、織田軍は、まだ気づいていませんでした。
謙信は手取川に向かって軍を進めていたのです。
謙信は、平地決戦を選びました。

謙信は織田軍に攻めかけます。そして1000人余りを討ち取ります。
撤退しようとする織田軍を手取川に追い込んで、大雨続きで溢れんばかり川が行く手を阻み、人馬もろとも流されました。
戦いのあった日は11月上旬に当たります。その頃、それほど水量があったとは思えません。
しかし、膝まで水があったとしたら、それだけで足がとられてしまうような流れでした。
その上、大きめの石がごろごろしており、駆け抜けることは不可能でした。
撤退のために川を渡ろうとする織田軍は、急流に足をとられ行軍は進みません。
そこに上杉軍が背後から攻撃を仕掛け、織田軍の多くが討ち取られたのが真相では・・・??
勝利した謙信は、家臣にこう送っています。

「信長は案外弱く、この分では今後天下までの道のりは容易であろう。」

他の資料でも・・・
「謙信が加賀へ攻め入り、一向宗徒もこれに加勢した。
 この時、敵800人ばかり討ち取った。」
戦いの後、両軍は手取川を挟んで睨み合います。
しかし、互いに攻め込むことはありませんでした。

この時、謙信にも誤算が・・・

謙信は手取川の戦いに信長が出陣していると思い込んでいました。
謙信は12月まで七尾城に留まります。
その間3か月・・・謙信にとって手取川の戦いは信長との決戦を意味していました。
しかし、そこに信長の姿はなかったのです。
謙信が七尾城に留まり続けたのは、信長の出陣を待っていたのかもしれません。

しかし、信長は畿内周辺に留まり、謙信が待つ七尾城に向かうことはありませんでした。
12月18日、謙信はようやく越後に帰国。
謙信の家臣が謀反を起こしたためです。
上杉家の内紛を狙った信長の謀略ともいわれています。
謙信は織田軍との戦いを睨んで軍を編制・・・翌年を予定していましたが・・・
1578年3月13日、謙信死去・・・享年49歳でした。
謙信対信長・・・戦国最強の直接対決は実現せず、幻に終わったのです。

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<上杉謙信と戦国時代>蜜月の終わり 織田軍を圧倒!手取川の戦い (歴史群像デジタルアーカイブス)

<上杉謙信と戦国時代>上杉謙信と上洛の夢 (歴史群像デジタルアーカイブス)

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群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


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信玄亡き後、この軍団を率いたのは武田勝頼!!

”暗愚の凡将”と呼ばれているものの、7年もの間武田家を支え、信玄時代を超える最大の版図を獲得しています。

これには信長も・・・
「勝頼は若輩と言えど、信玄の掟を守り、表も裏もある。
 油断ならぬ敵である」

彼の人並外れた優秀さを示すのが、新府城です。

その評価は・・・??

英雄信玄亡き後、家督を相続した勝頼・・・
勝頼とはいったい何者なのでしょうか?
長野県にある諏訪大社・・・諏訪明神の総本社です。
信玄の四男として生まれた勝頼・・・勝頼の母は、諏訪明神の大祝を司る諏訪家の娘でした。
勝頼は諏訪家を継ぎ、諏訪勝頼と名乗っていました。
信玄の男子の中で、代々の信の字が使われていたいのは、勝頼のみでそのためです。
1573年4月、武田信玄死去。
武田軍が織田・徳川領内に進攻するさ中のことでした。
諏訪家を継いだ勝頼には、武田家を相続する権利はありません。
しかし、嫡男・義信は謀反のために自刃、次男・信親は体が弱く、三男・信之は夭折していました。
信玄の実質的な後継者は、勝頼の他になかったのです。
亡くなる直前・・・信玄はこう遺言したと言われています。

後継者については、勝頼の子・信勝が16歳になれば家督を譲り、それまでは勝頼が陣代を申し付ける・・・と。
陣代とは、幼い当主に代わり、軍務や政務を統轄する者のことを言います。
勝頼は、武田家を継いだとはいえ、中継ぎに過ぎないというのです。

信玄と勝頼・・・親子の関係を示す兜が残っています。

諏訪法性の兜は、勝頼が着用することとする。
その後、これを信勝に譲るべし!!

諏訪家を継いでいる男子が、武田家の当主になる・・・
名門の武田家としては、物凄い抵抗感が・・・譜代・一門衆の中にありました。
信玄は、それを承知したうえで、その立場から早く自由にしてやるために、信勝に生まれながらの嫡男・・・家督を渡すようにしたのです。
勝頼のために、信玄が考えたことでした。

竹だけを相続したとはいえ、勝頼を取り巻く状況は厳しく・・・
西には織田・徳川、北には上杉・・・と、敵勢力に囲まれていました。
信玄の死から2年後・・・
1575年5月21日、勝頼は、信玄の弔い合戦を挑みます。
長篠の戦いです。
戦国最強の武田軍の猛攻に、3000丁という鉄砲を駆使した織田・徳川連合軍・・・敵の圧倒的火力の前に、武田軍は半日で敗退!!

この戦いで、信玄以来の多くの重臣たちが討死しました。
大敗北を喫した勝頼・・・最悪の状況から巻き返しを図ります。

長篠の戦いで武田軍に快勝した織田・徳川連合軍・・・しかし、それ以上兵を進めることはできませんでした。
織田も徳川も、武田軍を強敵と見なし、深追いを警戒したのです。
その間、勝頼は着々と武田家の立て直しに奔走!!

家臣団の再編成
信玄に仕えた武田二十四将・・・長篠の戦いでは、信玄以来の多くの者が戦死しました。
赤備えで知られる山県昌景、武田四天王のひとり馬場信春、猛将・原昌胤など、描かれた重臣のうち8人が討死し、最強軍団を支えていた屋台骨は揺らいでいました。
勝頼は戦死した家臣たちの後継者選びに奔走します。
甲斐、信濃、上野・・・名のある武将の跡継ぎとして、子や孫、出家した弟を還俗させ、町人となったものも集めて2万の兵を作ります。
その成果は着実に・・・長篠の戦いの3か月後、家康が武田寮に侵入した時、勝頼は一早く1万3000を率いて出兵し、徳川を撤退させています。
これには家康も驚きを隠せません。

勝頼の巻き返し策は、外交交渉にも及びます。
当時の武田は、織田、徳川、上杉と敵対関係にありました。
勝頼は、信長と家康に対抗する為に、長年の宿敵・上杉謙信と和睦します。
どうして勝頼は、剣心と和睦したのでしょうか??
信玄の遺言には・・・
「勝頼は謙信と和議を結ぶように
 謙信は猛き武将なれば、若い勝頼を苦しめることはない
 和議を結び、謙信を頼るとさえいえば、決して約束を破ることはないであろう」
また、勝頼は、信長に追放された足利義昭の仲立ちで、毛利、北条とも手を結びます。
新たな信長包囲網を作ろうとしたのです。

更に勝頼は、本拠地を移転することで巻き返しを図っています。
信玄時代の本拠地・躑躅ヶ崎館から20キロ・・・領国の中心となる韮崎に新府城の築城を決意します。
信長、家康の大軍勢を迎え討つためには、手狭な甲府では足りないと感じたのです。
高さ100メートル以上の崖が連なる大地の上に築城された新府城・・・
東京ドーム5.5個分の巨大な土の城です。
新府城の大手門には、巨大な馬出がありました。
敵の攻撃を食い止めるばかりか、武者溜から出撃して敵に打撃を与える、守りと攻めの機能を持ち合わせた武田流築城術の代表です。

城の北側には突起物が・・・
堀の中に突き出た構造物は、出構と呼ばれています。
「横矢」という敵が迫ってくるのに対し、側面の防射(防衛射撃)をするをする場所です。
鉄砲と組み合わせて、もっとも効果的に仕える守りの工夫です。
従来の武田氏の城では、これほど発達したものはありません。
勝頼が、最後に到達した武田の城づくりの一つの到達点でした。
長篠の戦いで、鉄砲隊という火力兵器に大敗を喫した勝頼・・・
新府城に残された対鉄砲戦を意識した防御し捨て身は、勝頼の先進的な考えを今に伝えています。

勝頼にとって思わぬ事態が・・・
1578年3月13日、上杉謙信死去。
謙信亡き後、上杉家では二人の養子による家督争いが激化・・・御館の乱です。
武田の同盟者北条氏政は景虎を推し、しかし、勝頼はそれに敵対する景勝支持を表明しました。
上杉の家督相続は、景勝の勝利!!
その見返りとして、上杉領国の一部を獲得します。
武田の版図はついに日本海にまで・・・信玄時代を超える武田家最大の版図を得たのです。
しかし、上杉の家督相続により、北条との関係は悪化の一途をたどり・・・遂には破たん!!
北条は家康と同盟を締結・・・結果、勝頼は三方に敵を抱えるようになってしまいます。
1582年2月・・・北信濃の武将・木曽義政が織田方と内通・・・勝頼に反旗を翻しました。
それに呼応するように穴山梅雪も徳川方に寝返ります。
梅雪は、信玄の姉を母に、娘を正室にもつ一門衆筆頭・・・武田二十四将に数えられた重臣でした。
木曽義政の防衛していた北信濃口、穴山梅雪の駿河口に風穴があきました。
織田と徳川は、二方面から攻め入ることができる・・・!!
危機が迫っていました。
勝頼は新府城内で軍議を開きます。
この時、勝頼の嫡男・武田信勝は新府城での籠城を強く主張します。
一方、譜代衆家老の小山田信茂は岩殿城での決戦を進言!!
そして真田正幸は自ら城代を務める岩櫃城で敵を迎え討つことを進言します。
ここに、三つの山城候補が・・・!!

岩殿城・・・圧倒的な岩の壁で、強さを実感できます。
武田領の東にある岩殿城。
岩山に覆われた山城は、北条の抑えの位置にあります。
標高600メートルを超える岩殿城・・・籠城戦を戦い抜く条件を満たしているのでしょうか??

岩櫃城・・・圧倒的な断崖絶壁で、要害堅固な城であったことが分かります。
武田領の北東を守る岩櫃城・・・天然の崖に囲まれた真田正幸の居城です。
山の中腹にある本丸跡・・・独特の防御の工夫がありました。
本丸に入ってくるところに竪堀が屈曲しながら山麓に向かい長く伸びています。
少人数でも敵を攻撃できる工夫がなされています。
敵を中に引き寄せて、徹底的にたたく!!城の作り方の発想が他とは違います。

新府城、岩殿城、岩櫃城・・・特徴的な堅固な山城です。
どの城で織田・徳川軍を迎え討つべき・・・??

1582年2月14日、勝頼の運命をさゆうする大事件がおこりました。
浅間山の噴火です。天変地異は、人心を惑わします。

「神の力は人力の及ぶところに非ず。
 噴火はこれからの世が信長に従う前触れであろう。」

武田討伐の総大将は、信長の後継者・織田信忠です。
信忠率いる織田軍は、怒涛のように侵攻・・・。
武田の城を次々と陥落させていきました。
中でも勝頼を追いつめたのが、高遠城陥落の知らせでした。
高遠城は、諏訪勝頼時代、城主を務めた品の支配の拠点です。
壮絶な籠城戦の果てに高遠城は落城・・・僅か2日の出来事でした。
勝頼のみを案じ、上杉景勝は援軍を申し出ています。
これに対し勝頼は、
「2000でも3000でも、早々に兵を派兵してくれるとありがたい・・・」
武田家存続のために、なりふり構わない勝頼の切羽詰まった状況がわかります。

どの城に向かうべきか・・・??

ついに勝頼は、譜代衆家老・小山田信茂が薦めた岩殿城へ・・・!!
自ら新府城に火を放ち、不退転の決意でした。
城を後にした勝頼一行・・・新府城を出立した時5、600人いた兵士たちは、次々と逃亡。
僅か41人となってしまいました。
更に勝頼を悲劇が襲います。
岩殿城を勧めた小山田信茂が、織田方に寝返ったのです。
行き場を失った勝頼一行・・・遂には、織田軍に囲まれてしまいました。
1582年3月11日、勝頼、自刃!!享年37歳でした。

鎌倉以来続いた名門・・・武田家はここに滅亡・・・。
戦国最強とうたわれた武田軍団の終焉となりました。
勝頼の首と対面した信長は、勝頼を
「日の本に隠れなき弓取り」と、勝頼を称賛しました。
運がつき、こうなっただけのことであると・・・。

しかし、運が尽きたのは、武田だけではありませんでした。
勝頼の死からわずか3か月・・・
6月2日本能寺の変!!
信長と共に武田討伐の総大将・信忠も討死しました。

奇しくも戦国の世は、ここから新しい局面を迎えることとなります。

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あああ・・・
この副題のなんと緊張感のない事かっ!!
「桐島、部活やめるってよ」と、なんか通じるものがあるのかっ!!
ま、神木隆之介君は、私のお気に入りですが・・・。
これから天下統一に向けて盛り上がろうってときに、テンション下るわ~~~!!

織田に従い、無実の妻と息子の首を差し出した家康・・・
武田攻めでも織田に計略を潰され・・・
それでも耐えに耐え、武田の滅亡とともに、駿河を手にしました。

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お祝いムードの徳川家臣たち

そこへ、織田からの火急の使者が・・・!!

ご用命とは・・・??
「織田様は、まだ甲斐におられ、これから終わりに戻られるそうです。
 その折に富士を拝みたい。」らしい。
ついでに、遠江・三河の名所も楽しんで戻りたいと・・・。

つまり・・・
「ご遊山の旅じゃ」
粗相をすることなく、織田様をもてなさなければ!!

道を広げたり、陣屋を設けたり・・・

naotora









六左は大忙しですね

万千代も奮闘中です

織田が浜松にやってくる・・・
氏真は・・・「われもいよいよ取り入らねば!!」
ほんと、最近の私のお気に入り、食えない氏真大爆発です。

naotora4
















やってきましたよ、信長!!
ひれ伏す家康&家臣たち。

「此度は、駿河・遠江までわざわざのお出ましいただき、まことに恐れ入ったる次第でございます。」by家康

そこへ、祝賀のためとやってきた氏真。。。
祝い事には楽しい男であろう・・・と、家康との挨拶中にもかかわらず、氏真を引き入れるのでした。
ま、必死に接待する家康にとっては助け船になったかな・・・??

やってきた氏真・・・
よくよく考えたら、氏真は父を殺されお家は無くなり、お家は残ったものの家康は正室と嫡男を殺されている・・・
凄いメンバー

「上様、徳川様、此度の武田との戦の事、おめでとう存じます。
 当今川家にとっても、武田は積年の仇敵・・・上様、また徳川様のお骨折りには、ただただ感謝しかございません。
 よろしければと、一つ、お祝いの座興を用意いたしてまいりました。
 ここのところ、上様に置かれましては、こと、相撲をお好みと伺いまして・・・
 三河の美丈夫どもを集めて参りました。」by氏真

と、相撲が始まりました。
そこには、直之も・・・相撲に出さされたことに納得のいかない直之ですが・・・。

小さいのに頑張る直之を見て、桶狭間の頃の私と被るという信長。

naotora3















「徳川殿・・・
 道中のもてなし、実に見事であった。
 そなたの真心、信長、いたく感じ入った。
 徳川殿の働きにて、武田攻めのために備えた兵糧八千俵も使わずに済んだ。
 あれを汗をかいた皆に遣わそう。
 これからも頼むぞ、弟よ。」by信長

何を考えているのか??信長!!
そして氏真は何を思う??

naotora2











井伊谷に迷い込んできたのか??
この少年は誰・・・??
村の子供でもないらしい・・・。
というか、百姓の子にしては、作法もしっかりしている・・・武家の子ではないか??
その名前は自然!!

何事もなく帰っていった信長・・・。

たくさんお金がかかってしまったと怒る万千代ですが。

そしてまた・・・信長からの手紙が・・・。
せんだっての徳川のもてなしに対し、織田ももてなしを持って返礼としたい。
安土、京や堺などを案内したい。との事でした。
しかも、家臣たちも・・・。
何か怪しい??

城ががら空きになってしまう・・・。
罠なのか・・・??
しかし、断りたくても断れない??

そこへやってきたのは、氏真でした。
その理由は・・・??

「今日、安土から招きが来たようじゃの。
 何故知っていると思う?
 わしは、招きに応じた方が良いと思うぞ。」by氏真

と、家康に耳打ちしました。
その内容は・・・??

いきなり場面は変わって井伊谷??っていうかおとわ。
太守様に子供のことを白状するように迫ります。

「彼は・・・織田の家臣・明智の子供じゃ・・・」by氏真

苦虫をかみつぶしたような顔で、白状しました。
祝と称して徳川にやってきたのは、光秀との密談の為でした。

「太守様・・・共に信長を殺しましょうぞ・・・!!」by光秀

ということで、光秀によると、徳川のもてなしに感動したふりをして、京へ招いて家臣もろとも暗殺しようとしているらしい・・・!!と、おとわに密談?するのでした。 
その饗応と暗殺を任されているのが光秀で・・・それを反対に信長を殺す機会にしようと氏真に相談したのでした。
そして、その証に息子を人質に出したのだそうだ・・・。

「井伊殿・・・桶狭間で死んだ井伊の者たちの仇・・・ 
 瀬名の仇・・・討ちとうは無いか?
 わしは討ちたいぞ・・・!!
 フッ・・・そうか・・・そなたからすれば、わしも仇か・・・」by氏真

「故に、仇は誰かと考えぬようにしております。
 それで、その話に徳川殿は乗ると・・・??」byおとわ

このままでは、徳川は織田に消される・・・家康もそうなる前に、風向きを変えたい・・・とは、思うのでは??
自分が家臣たちに裏切られた経験から・・・そうして、家康の経験からそうするのでは??
と、おとわに投げかける氏真。。。

実のところ家康は、迷っていました。
そして・・・おとわと対談する家康。

「私は、徳川様に、織田にとって代わってほしいと望んでおります。
 私は、徳川様に、いつかこの日の本をまとめる扇の要となっていただきたいと・・・!!
 心ひそかに望んでおります。」byおとわ

「わしなどに何故・・・」by家康

「さようなことをお考えになったことはございませぬか。
 世を動かしたいと・・・!!」byおとわ 

「わしは此の世が嫌いじゃ・・・
 戦や、謀や、首や・・・さようなことばかりで物事を決する・・・昨日までの味方が、今日よりは敵になるような・・・
 一年かけて育てた稲が一日で焼かれるような・・・
 一体誰が望んでかようなことになっておるのかの。
 変えられるものならば、変えたいに決まっておる・・・」by家康

「戦を無くされたいと・・・」byおとわ

「戦という手立てがこの世にある限り、武勇が自慢の者たちは、そこに訴える!!
 ならば、あらかじめ、戦を起こせぬような仕組みを敷いてしまうがよい。
 そんなことを考えたりはする・・・

 出来ると思うたことは・・・ないの・・・ない!!」by家康

「なれど、やってみねばわかりますまい!!
 おやりになっては下さいませぬかの。
 私はさような世が見てみとうございます。
 子は預かっておきます。
 お心がお決まりになりましたら、お知らせくださいませ。
 ささやかながら、お力になれる事はあるかと・・・。」byおとわ
 
自然の味方であると自然を安心させるおとわ・・・。
自然を預かることは運命・・・直親も、虎松も、よその寺で守ってもらっていた・・・
此度は、私たちが守る番では・・・??
と、思うおとわなのでした。

そして・・・迷っている家康の背中を押したのは、瀬名の「出るときはでる!!」という言葉でした。

う~ん・・・戦うにあたって、家康のテンションが低すぎるのがなんだかなあ・・・盛り上がりに欠けるような気もします。
瀬名と信康の弔い合戦のような感じで主だった面々は、京都へ旅立つことに・・・!!
その裏では・・・万千代がおとわのもとへ・・・。
理由は・・・徳川を日の本一にするために・・・!!

とりあえず、創作な感じですね。
ま、ドラマなのでいいんですが・・・信長を討ちに行くのなら、あんなに少人数で上洛しないだろうし、逃げ方も考えていたろうから必死に伊賀越えする必要ないなあ・・・と、去年の真田丸を思い出していました。

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この家康もビックリしましたが、”命からがら感”が出ていてとってもいいと思うんですよね。
だからこその神君伊賀越えですし、だいたいから伊賀者が活躍して半蔵門を守るまでになるのになあ・・・??

あんなこんなはどうなるのか?
ま、戦うシーンへの期待は皆無なので、どうなるのか?
楽しみにしています


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感想(14件)



戦国最強・武田信玄の不思議をめぐる甲府の城下町です。
人口・190,456人、面積212.47㎢、特産はブドウ・イチゴ・ワイン。
山梨県甲府市は、四方を2000m級の山に囲まれた甲府盆地にあります。
その中央に武田神社が・・・その昔、ここに信玄の本拠地があり、ここから家臣たちと共に大きく甲府の町を発展させました。
その後、豊臣秀吉によって、新たに甲府城が建てられました。
しかし、庶民にとって、甲府はやはり信玄の町です。
そんな民に愛された信玄の町にはどんな不思議があるのでしょうか?

武田通り・・・武田信玄公にあやかってつけられています。
甲府市は、信玄公・・・武田家の町です。

疾きこと風の如く
徐かなること林の如く
侵掠すること火の如く
動かざること山の如し

ご存じ信玄の代名詞、”風林火山”の旗印の内容は・・・
戦における兵たちの心得を旗に記したといわれています。

風林火山は、孫氏の兵法を引用したものです。
孫氏とは、紀元前500年頃・・・中国春秋時代の思想家・孫武の作とされる兵法書です。
信玄は、そこに書かれていた戦に対する心得を徹底的に学んだといわれています。

武田神社は、1919年に創建されています。
武田信玄が御祭神として祀られています。
戦において、連戦連勝の信玄にあやかって、勝負事のご利益があるとされています。
武田神社に隠された謎とは・・・??
ここは、武田信玄の館でした。
難攻不落の信玄屋敷です。
甲府駅から北に二キロ・・・町全体を見守るように鎮座する武田神社。
戦国時代、この時代には、信玄が本拠地として活動した武田氏館がありました。
現在も、堀や土塁、古井戸などの信玄時代の遺構がそのまま残されています。
信玄はこの地に城を建てず、生涯屋敷住まいでした。

どうして戦上手の信玄が、平屋の屋敷に住んでいたのでしょうか?
館の周りは、三方を山に囲まれ両側には左に相川、東に藤川が流れていました。
つまり、南側以外は、天然の要害で、敵が容易に侵入できないようになっていました。
武田氏館を攻めるためには、南側だけしかありません。
その南側も橋もなく、堀で囲まれて入り口は東側にありました。
正面を塞ぎ、東側へ敵を迂回させるようにしたのです。
しかもその手前には、家臣たちの屋敷があるために、容易に近づくことができません。
万一東側・追手門にたどり着いても、門の前に三日月堀と土塁があり、その内側に味方が忍び、弓や投石で狙い撃ちできるようになっていました。
この防壁は、丸馬出とよばれ武田氏考案の鉄壁の防御システムです。
安心して外へ攻めていけたのです。

信玄が残したといわれる言葉があります。

人は城
  人は石垣
     人は堀
 情けは味方
    仇は敵なり

当時、戦国大名たちは、己の権力を見せつけるために、巨大な天守や石垣を作りました。
しかし、信玄は、堅牢な城を造ることより、町の整備にお金と労力をかけたといわれています。
400年以上たった今も、その姿を残す”信玄堤”。
川の氾濫を防ぎ、広大な新田開発に大いに役立ちました。
信玄は、家臣や民との信頼関係を築くことができれば、城などなくても強固な国づくりができると考えていたのです。

戦国最強といわれた武田騎馬隊。
最大で5万人以上いたといわれる中で、最も優れた武将24人を武田二十四将といいます。
信玄の右腕ともいわれた軍師・山本勘助を始め、武勇に優れたものが集まり、彼らの手によって、武田最強伝説が作られたのです。

最近、武田の騎馬隊にある疑問が出てきました。
それは、大きな馬に乗ってかっこよかったのではないのでは??
ポニーに乗っていたようです。
颯爽と戦場を駆け抜け、百戦錬磨といわれた武田騎馬隊がポニー集団??
今でこそ馬といえばサラブレッド・・・彼らが日本に伝わったのは明治時代です。
信玄の時代にサラブレッドは存在しません。
当時の馬は、長野の木曽馬などが一般的でした。
この木曽馬、ポニーと呼ばれることもあり、サラブレッドに比べて小柄で足も短くスピードも出ません。
そして平成元年7月・・・武田氏館から一頭の馬の骨が発見されました。
馬でありながら人のように埋葬されていたことから、武田家の中でも重要人物・・・大将クラスの馬の可能性があるといわれています。
125センチとかなり小柄で、この小柄な馬が、武田騎馬隊の馬の可能性を秘めているのです。

1575年長篠の戦いでは、信長と家康の連合軍が、当時最も恐れられていた武田の騎馬隊と激突!!
3日前、家康は武田軍を警戒して家臣に命じます。

「武田の騎馬隊がまっしぐらに突入してくるので、柵など念入りに作るように。」by家康

「関東衆(武田軍)は馬の扱いがうまい。」by信長

騎馬専用の防護柵を築いて警戒したといいます。
果たしてポニーの武田騎馬隊は、信長&家康が警戒するほど強かったのでしょうか?
孫氏の兵法は、「戦わずして勝つ!!」です。
「百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり」・・・つまり、百戦百勝は、最善に見えるが、勝った方も被害が出るため、戦わずに敵を屈するのが最善ということなのです。

これこそ、信玄が生涯実践しようとしていた「戦わずして勝つ」なのです。
諜報活動、調略を重んじ、「武田軍団は強い、騎馬軍団も強い!!」と、イメージ戦略していたのです。
それはもちろん本当の強さがあってのこと。
信玄の生涯戦績は。72戦3敗です。
それだけの強さがありながら、戦わないようにしていたのは、戦いによる被害の大きさを知っていたからなのかもしれません。


北杜市には・・・味噌なめ地蔵があります。
全身味噌まみれです。
お地蔵さんに味噌を塗る部分は、自分の身体の悪い部分です。
武田信玄が信濃の国で初陣(海ノ口城の戦い)を飾った信玄が、帰り道に光り輝く地蔵菩薩を見つけ、持ち帰ったものです。
っしかし、正覚寺の前で、急にお地蔵さんが動かなくなり、仕方なくこの場所において行ったとされています。
背中には信玄が括りつけて持ち帰った二筋の縄の跡が残っています。
どうしてお地蔵さんに味噌を塗るようになったのか??
味噌は、塩分のきいた保存食で腐らない=悪くならない=これ以上悪くならなように塗っているのです。
その理由には諸説あり、コメの不作が関係しているといいます。
甲府は、山に囲まれた盆地で、味噌の原料となる米の栽培が難しかったといいます。
貴重な味噌を塗ってご利益を願ったのです。
信玄は400年後、この地蔵が味噌まみれになっているとは思いもよらなかったでしょう。

山梨には甲斐九筋があり、領地拡大を図り軍用道路として当時の武田軍にとって重要な道でした。
街道筋には狼煙が置かれました。
戦国時代は、馬での伝達が主でしたが、山で道が入り組んでいた甲州では、狼煙を重宝しました。
信玄ほど、狼煙をたくさん置いた人はいないといわれています。
記録によれば、4,5キロ置きに狼煙が置かれました。

狼煙は”狼の煙”と書きます。
それは、狼煙は、古来中国で連絡手段として生まれました。
狼の糞を燃やしたところから、狼煙といわれるようになりました。
情報を確実に伝達するためには、煙が風に流されないことが重要でした。
そのために、強い火力で、濃い煙を出すことが重要でした。
肉食動物である狼には、たんぱく質が豊富に含まれ、草木だけで燃やすより高温となり、蒸気機関車のように真っ直ぐな煙が上がったといわれています。
どのくらいの速さで届けられたのでしょうか??
新幹線と狼煙とどちらが早いのか??実験した過去があります。
新尾道駅から新大阪駅までの全長250km・・・新幹線と僅か10分ほどの差だったといわれています。


信玄が死ぬと跡を継いだのは勝頼です。
2年後には武田家の行く末を左右する長篠の戦いへ・・・
大量のてっぽうを用いた織田・徳川軍に武田軍は完敗!!
二十四将の多くはこの戦いで命を落とし、武田家を滅亡させた戦といわれています。
武田家にとって、歴史的な敗戦となった長篠の戦い・・・
二十四将の中で、四天王のひとりとして活躍した内藤修理亮は、勝頼を安全に逃がすために戦場に残る選択をします。
その時、勝頼に頼みごとをします。
形見の旗を家族に・・・!!
無事に甲斐国に戻った勝頼は、自ら内藤家に足を運び、内藤の旗を家族に渡し、気にかけたといいます。

山梨県内では、ほうとうを食べられる店がたくさんあり、家庭料理で花嫁修業の一つといわれています。
ほうとうのルーツは、武田信玄です。
ほうとうは、小麦粉を平たく練って作られています。
即席に造ることができるので、陣中の非常食でした。
戦場に運ぶ兵糧には限りがあり、携帯性や保存性が重視されていました。
ほうとうは、味噌と小麦粉さえあれば、どこでも作ることができるので信玄が広めたといわれています。
信玄が自ら刀で細く切ったことから「伝家の宝刀」=ほうとうとなったといわれています。
戦場でしっかりとした食事ができるかどうかは、戦いを左右する大事なことでした。

天目山栖雲寺は、信玄の先祖が眠っている寺です。
信玄の祖先にあたる武田信満が眠る栖雲寺には、信玄ゆかりの貴重な品がたくさんあります。
経に軍配を持っている武田信玄・・・川中島の戦いは伝説として受け継がれていますが、その時、謙信の刀を受けたのも軍配だったといわれています。
どうして右手に軍配なのか??
相撲で使われる軍配ですが、元々は、戦において武将が軍を采配する道具のことです。
多くの武将の中でもひときわ軍配のイメージが強い信玄。
この栖雲寺にはたくさんのお宝が眠っていますが・・・その中に、信玄が使っていたといわれる本物の軍配があります。
普通は木や紙でつくられますが、鉄製の軍配で、鍛冶屋に武器として作らせた一点物です。
信玄が本当に鉄製の軍配を使っていたなら、伝説の川中島の一騎打ちで謙信の刀を軍配で受け止めたのも頷けます。
軍配には傷が入っており・・・謙信と交えたときの刀傷かも知れません。
信玄は38歳の時に、戦国大名でありながら出家の道を歩みます。
その時、晴信から信玄に改名。
さらに、恵林寺住職の快川紹喜を招きます。
そこで、信玄の人生を変えてしまう出来事が!!
ある日信玄は和尚がどれほどの人物なのかお経を読んでいる時に刀を突き付けます。
和尚はびくともせずに、
「一国の主たる者、そうやすやすと刀を抜いてはいけません。
 刀を抜かないということが、家臣を信頼している証で、采配をしっかりしておけばそれでよいのです。」と進言を諭しました。
己をたいそう恥じた信玄は、以来刀を抜くことなく、軍配を持つようになったのです。

武田信玄と徳川家康が変えてしまった日本の伝統文化とは??
それは「門松」です。
門松を飾る習慣は、平安時代からで、家内安全や豊作をもたらす神様が訪れる目印として松を飾ったものです。
武田流門松は、竹を削ぎ切りではなく、寸胴に切ってあります。
寸胴型門松が日本のスタンダードでした。
しかし、戦を機に新しい門松が誕生しました。
1572年三方が原の戦いで、浜松城で待ち構えていた徳川家康と上洛の途上にあった信玄との戦いで、信玄が家康を手玉に取った戦いとしても知られています。
武田軍に完膚なきまでに叩かれた家康・・・家康は無様な姿を一生忘れないようにしかみ像を書かせたことで有名です。
そんな家康に勝った信玄から手紙が・・・その手紙の内容は??

松枯れて 竹類なき 明日かな

松は松平のことで、竹は武田のことです。
松平は終わって、武田の将来は類まれなく良くなる明日である。
これを怒った家康は、返歌を送ります。

松枯れで 武田首なき あしたかな

子供じみたようにもなりますが・・・家康の返歌は、ひらがなにするとすべて同じ字で書かれています。
濁点だけで全く違う意味になります。
そして、武田の首を斬ってしまえ!!ということで、削ぎ切りの門松を送ったといわれています。
これをきっかけに、江戸幕府以降、削ぎの門松が主流になりました。

甲斐・善光寺・・・長野の善光寺と深いかかわりがります。
創建664年国宝・信州善光寺。江戸時代は、伊勢神宮と並んで、庶民の観光スポットNo,1で、一生に一度は善光寺参りといわれるほどでした。
6世紀半ばごろ、百済から持ち込まれた日本最古の阿弥陀如来像が安置されています。
そんな信州善光寺と同じ名を持つ甲斐善光寺・・・甲斐善光寺は、武田信玄が長野の善光寺を移した時からあります。
お寺には川中島の陣太鼓があります。
川中島の戦いの舞台となった川中島から信州善光寺は近く、戦いによって消失してしまう可能性がありました。
消失を恐れて、こちらに移したともいわれています。
信玄は、信州善光寺の全てを持ってきたのは、親切心だけではなく・・・
信州善光寺にある日本最古の如来像・・・それを手にすることは権力を手にすることになる。
以後、信長→家康→秀吉の手から、善光寺に戻されたといいます。
手にした彼らは、大きな権力を手に入れていきます。

山梨県甲府には、人と人とのつながりを大切にする信玄の想いが息づいていました。

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