大政事家 大久保利通 近代日本の設計者 (角川ソフィア文庫)

新品価格
¥950から
(2015/5/24 11:27時点)




1877年、東京・上野公園で・・・日本の近代化を象徴する大イベントは行われました。
「第一回内国勧業博覧会」です。
1万4千点が出品され、入場者数は45万人・・・明治日本の殖産興業を内外に示しました。
この博覧会を成功に導いたのは、維新の三傑・大久保利通でした。

1868年1月鳥羽伏見の戦いで幕府軍を倒した薩長・・・その薩摩藩士だったのが大久保でした。
大久保が抱いていたのは、万国対峙。。。迫りくる西欧列強に対し、日本を新たな国にしなければ・・・!!
そして、明治新政府を樹立しましたが、国造りは混乱します。

そして・・・盟友・木戸孝允との確執、各地で起こった農民一揆、薩摩との内乱・・・
そんな大久保の一大転機は・・・欧米視察でした。
日本の進むべき道は、殖産興業による富国策を考えます。
明治維新の大義とは一体なんだったのでしょうか?


1868年3月・・・討幕を果たし、新政府を誕生させた大久保たちは、新しい国造りの理念を宣言します。
「五箇条の誓文」です。
天皇を頂点とし・・・
”広く会議を興し、万機公論に決すべし!
議論を重視した国家を目指しています。

しかし、高い理想を掲げたものの・・・実際に新政府を支えていたのは藩や藩主、旧勢力が残っていました。
総裁は有栖川宮熾仁親王、議定は・・・藩主・島津忠義(薩摩)、山内豊信(土佐)、浅野長勲(安芸)、松平慶永(越前)、徳川慶勝(尾張)・・・と、参与として藩士・大久保利通、西郷隆盛、後藤象二郎・・・だったのです。


財源と軍事力をどうする??
財源は・・・全国の総石高は3000万石で、そのうち新政府の財源は徳川家の直轄地だった800万石でした。
軍事力は・・・薩摩、長州などの雄藩からの軍隊のみ。
統一した軍事行動などできませんでした。
どうやって西欧列強に立ち向かう・・・??

木戸孝允が抜本的な改革案を打ち出します。大名から土地と人民を天皇に帰し中央集権化をはかる”版籍奉還”です。

1869年6月版籍奉還を布告。
ところが・・・藩主は知藩事として藩の統治を認められ、版籍奉還は骨抜きに・・・
そこには・・・大久保の逡巡がありました。

「領土領民は”奉還”することが”至当”
 しかし、”時勢”がまだ熟していないので、”一部返上”にとどめるべき」by利通

いきなり既得権益を奪ったら、反乱になるかも知れなかったからです。
薩摩のことを危惧していたのかもしれません。

政府を維持していくためには、藩主たちの協力が必要だったのです。
改革は少しずつ進めなければ・・・
しかし、財政はひっ迫・・・1869年7月直轄地で農民一揆が起こります。
版籍奉還が骨抜きになったので、直轄地に重税をかけたせいでした。

さらに大凶作・・・一揆は全国各地に拡大します。その数11件!!

「民衆の多くが、新政府に不審を抱き、うらみの声をあげている」by利通

状況を打開しなければ・・・!!
助けを求めたのは、島津久光でした。
説得するために、1870年大久保利通鹿児島に帰郷。
ところが・・・結果は燦々たるものでした。
藩の解体に関わることをしていると大久保を痛烈に批判します。

説得にも耳を貸さず・・・皇居の護衛をしていた薩摩兵1000名を撤退させると対決姿勢を鮮明にします。
一触即発でした。
薩摩藩のクーデター・・・??内乱の危機・・・??
1871年7月・・・秘密裏に解決策が・・・??
山県有朋と野村靖が作成した方策は・・・藩そのものを解体するほか道はないのでは・・・??
大久保も同意せざるを得なく・・・廃藩クーデターを画策します。

西郷と山県は、新兵の協力を取り付け、藩への抑止力とします。
そして・・・この命令を出来る唯一の人は・・・明治天皇でした。

「篤と熟考 今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ、大英断に出て瓦解いたしたらん」by利通

1871年7月14日天皇が廃藩置県を命じます。
各藩からの抵抗は思ったほどではなく・・・戊辰戦争の戦費拠出、藩財政が破たんしていたのです。
大久保たちが藩主に出した提案は・・・借金について、政府がそれを保証するというものでした。
士族に家禄(給料)を給付することにしたのです。
こうして、旧藩主・知藩事たちは、東京に集められます。
全国に261藩ありましたが、3府72藩と再編され、各地へ府知事・県令が派遣されたのです。
新政府の支配は地方にまでおよび、中央集権化が成されます。
地租改正・国民皆兵制とつながります。

1871年11月岩倉使節団として派遣されます。
不平等条約の改正と近代化の調査を目的としたものでした。

産業革命で経済発展をし、超大国となって繁栄していたイギリス。。。
4か月で10都市を訪問し、産業の仕組みを視察します。
徹底的な機械化に・・・鉄鋼・紡績に・・・鉄道網に・・・世界の工場として発展していたイギリス。。。
西欧列強に勝つためには、殖産興業で国力を高めなければ・・・!!と思うようになります。

国家主導で産業を保護育成しようとします。
1873年5月26日帰国・・・しかし、新政府が内部分裂・・・。
事の発端は、西郷隆盛ら留守政府が進めていた征韓論でした。
大久保たちが不在の間、朝鮮との国交樹立を要求していたのです。
受け入れられなければ戦争も辞さない・・・!!

そんな西郷に、大久保は異を唱えます。
経済発展をすすめる・・・内地優先だ!!と、
閣議決定されたのは、西郷の挑戦派遣が閣議決定??
しかし、岩倉具視と画策し、水面下で説得します。
1873年10月24日、明治天皇の裁断によって西郷の朝鮮派遣が延期となります。
破れた西郷は辞職し・・・下野しました。
板垣退助、江藤新平も新政府を去っていきました。

1873年11月大久保は巨大組織・内務省を作ります。
大久保利通は、初代内務卿に就任し、権力を手にしました。
大蔵卿には大隈重信、工部卿には伊藤博文。。。
大久保に賛同する面々・・・大久保専制体制を樹立させます。
それは、強烈は批判の的となっていきます。
1874年1月17日板垣退助らが意見書を提出しました。
厳しい批判にさらされる大久保。。。

絶対的な内務省の力で殖産興業する??
国民の意識も変えなければ・・・!!

”産業力とは、人民の工業を政治が育成し、怠惰な者は一人も生まず、
 国家の富強に邁進させることである。 
 列強と肩を並べることは可能なのだ”


板垣や江藤は、議会創設を求めます。
「今、政府の実態は”天皇”にも”人民”にもない
 ただ”有司”すなわち官僚の手中にあるのみだ
 言論は抑圧され、国家はまさに崩壊必至のただ中にある
 これを救うには、民撰議員”議会”を創設し、天下の公議を広く起こし、官僚の手から政治を奪い返すほかない」

木戸孝允も、明治維新の理念「万機公論」を唱え、議論と議会による国政を!!と、大久保に対抗してきました。
その声に応えるべきなのだろうか・・・??

殖産興業か・・・?議会創設か・・・??
大久保利通は、日本の未来の大きな分岐点に立たされていました。
新政府の分裂の危機にどう対峙するのでしょうか??

内務省による殖産興業に舵を切った大久保は、国際競争力のある生糸に・・・
内務省の管轄となった富岡製糸工場を拠点とし、イギリスのような貿易立国を目指します。
貿易のために海運業を発達させます。
国家予算の6%を、岩崎弥太郎の三菱汽船会社に投資、岩崎は外国の汽船会社を一蹴しました。
貿易商・三井物産の開業を支援、生糸の製造、運搬、販売・・・と、ルートを作っていきます。
その結果、1909年には、生糸の輸出量が世界一となります。

しかし・・・大久保の内務省による殖産興業には、問題もありました。
民が育ってきたなら払い下げる・・・つまり、政と民の癒着問題です。
さらに大久保は、銀行の設立!!
しかし、銀行設立には莫大な資本が・・・!!
そこで目を付けたのは、士族や華族の給料・家禄でした。
当時、家禄は政府歳出の26%を占めていました。

そこで、大久保と当時の大蔵卿・大隈重信は、現金での家禄の支払いをやめ、金禄公債による5年据え置き30年償還の債権での支払いとし、その資本が銀行設立の資本となったのです。
明治11年には、銀行は153行を数えるまでになりました。

しかし、この公債での支払いは、華士族の家計を直撃します。
元本がいつ支払われるかはわからない・・・
大部分の士族が困窮していったのです。
たとえ維新の功績のあった士族であったとしても・・・!!

1876年3月廃刀令施行。。。
財産も誇りも失った士族たちの不満はピークに達していました。
1876年10月、神風連の乱を皮切りに、秋月の乱、萩の乱・・・
そして・・・1877年2月・・・大事件・・・西南戦争勃発です。
共に幕末に命を懸けた盟友・西郷隆盛率いる薩摩士族たちの一斉武装蜂起・・・。
戊辰戦争にも匹敵する内乱となってしまいました。

しかし、その最中でも、殖産興業の手は緩めませんでした。
8月第一回内国勧業博覧会開催。
会場となった上野には、6つのパビリオンが・・・
その成果が発表されました。

ここで発表された臥雲辰致が発明した”紡績機・ガラ棒”は、この展示をきっかけに各地に普及することになります。
博覧会には、各地の産業を競わせるという意味もありました。
出品された作品は、1万4000点、入場者数45万人・・・。
大成功を博したのです。

9月24日・・・西郷の自刃によって西南戦争終結。。。
それは、この博覧会の会期中の事でした。

そして・・・突然の悲劇が・・・!!
1878年5月14日紀尾井町の清水谷で大久保利通は不平士族に襲われ暗殺・・・志半ばの死でした。
翌年・・・満20歳以上の男子に選挙権を与える地方会議が・・・。
これは、大久保の死の2か月前に提出された上申書に基づいていました。
殖産興業のためにも、民の自治を考えていた大久保。。。
地域の代表者が政治に参加できるように・・・。

明治維新の理念「万機公論」・・・大久保は、地方から実現させようとしていたのかもしれません。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

幕末・明治時代(日本史) ブログランキングへ

大久保利通の肖像―その生と死をめぐって

新品価格
¥2,376から
(2015/5/24 11:28時点)

大久保利通―明治維新と志の政治家 (日本史リブレット 人)

新品価格
¥864から
(2015/5/24 11:28時点)