日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:毛利元就

室町時代後期・・・11年もの長きにわたって続いた内乱・応仁の乱によって、室町幕府の権威も、朝廷の権威も失墜・・・
そんな荒廃した京の都に天下布武を掲げた男がやってきました。
戦国の革命児・織田信長です。
そして、この信長に、朝廷の復権を託したのが、第106代正親町天皇でした。

正親町天皇が、践祚・・・天皇の地位を受け継いだのは、1557年・・・41歳でした。
しかし、即位の礼が行われたのは、それから3年後の1560年でした。
どうして即位の礼はすぐに執り行われなかったのでしょうか?
即位の礼には、莫大な費用が必要でした。


室町時代、朝廷はそうした行事の資金調達を幕府に頼っていたのですが、応仁の乱が1467年から1477年も続いたことで、幕府の権威が失墜。
財政も逼迫し、その力を頼ることもできなくなっていたのです。
しかも、幕府の力が弱まったことで、御料地(皇室所有の土地)からの収入である年貢が朝廷に入って来なくなりました。
力をつけた諸国の大名たちが後領地を支配し、横領していたからです。
こうして朝廷自体の財政も困窮していたため、正親町天皇の祖父に当たる後柏原天皇は、践祚から即位の礼まで21年、父である後奈良天皇は即位の礼まで9年執り行えませんでした。
後奈良天皇に至っては、直筆の書を売って、生活の足しにしていたと伝えられています。
そして、応仁の乱の終結からおよそ80年・・・正親町天皇の世となっても御所の崩れた塀が直せずに、二条の橋の上から御所の中のあかりがみえたといわれるほど経済的に困っていました。
応仁の乱によって、朝廷及びスポンサーである幕府が税制難に陥っていたため、正親町天皇の即位の礼を執り行うことができなかったのです。
践祚から3年後の1560年・・・安芸国の戦国大名・毛利元就から、銭2千貫(約3億円)の献金を受け、即位の礼を執り行います。

幕府の権威が回復すれば、おのずと朝廷が持ち直す・・・
それを好機とみたのが大名達でした。
大義名分を得て、京の都に自らの力を示すことで、乱世を優位に勝ち抜こうと考えました。
その一人が、天下を狙う織田信長でした。
桶狭間の戦いで、今川義元を討ち、その名を天下にとどろかせた尾張の戦国大名・織田信長は、虎視眈々と上洛の機会を伺っていたのです。

1565年5月19日、前代未聞の事件が起こります。
畿内を支配していた三好長慶の養子・義継ら三好勢が、将軍御所を襲撃・・・!!
室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害してしまったのです。
これによって、次期将軍候補となったのが、当時、興福寺・一条院門主で義輝の弟・覚慶(足利義昭)でした。
しかし、暗殺事件から3年後、14代将軍についたのは、三好勢が擁立した義昭の従兄弟・義栄でした。
そんな中、義昭に味方する者が現れます。
織田信長です。
天下取りの為、上洛したい信長は、義昭に付き従っていくという大義名分を得て、京の都に登ろうとします。
この時、信長は、朝廷の権威回復を命じる綸旨を正親町天皇から直接賜わることで、大義名分を得ていたのです。
その綸旨は特別なものでした。
臨時のあて先は、幕府の管領か、大名縁故の公家に限られていました。
当事者の大名に、直接充てられることは、異例のことだったのです。
この信長に宛てた綸旨が、個別大名あての綸旨の最初の事例となったのです。
信長は、帝に頼りにされていたのです。

足利義昭につき従い、朝廷の権威を回復するためという大義名分を掲げた信長は、6万の兵を率いて京の都へ・・・!!
義昭と信長が、都に近い摂津国の芥川城に陣を構えたことを知った正親町天皇は、”めでたき”として、勅使を派遣、義昭には太刀を、信長には酒などを贈りました。
こうして、1568年9月、信長はついに上洛を果たします。
すると、間もなくして、将軍・義栄が病死・・・
これによって、義昭が15代将軍に就任するのです。
将軍宣下を下したのは、正親町天皇でした。
その後、信長は御所を修繕、さらに、正親町天皇の皇子・誠人親王の元服費用も差し出します。
その金額・銀1万疋(1200万円)・・・これは、信長が天皇から賜った綸旨の中で命じられていたことでした。

正親町天皇は、美濃を平定した信長を、”古今無双の名将”と褒め称えたうえで、宮廷費用の献上を求めています。
具体的には、禁裏御料(美濃・尾張)の回復と、嫡男の元服費用の献上でした。
大義名分を得、上洛を果たした信長は、正親町天皇の望みを叶えることで、礼をつくしたのです。
この時、正親町天皇52歳、信長35歳、自らの目的のために、互いを必要としている二人でした。

信長は、正親町天皇の望み通り、各地の大名に支配されていた御料地や公家の領地を取り戻しました。
さらに、公家が借金を返さなくていい徳政令を発布するなど、朝廷の財政回復に貢献していきます。
1570年には、21カ国に及ぶ大名に、禁裏御修理・武家御用を理由に、上洛して朝廷と幕府に三礼すべきという旨の書状を送ります。
この要請に、多くの大名が応じるも、中には拒む者もいました。
越前国の戦国大名・朝倉義景です。
そこで、信長は、朝倉攻めの為、京の都を出発・・・
すると、この信長の出陣に当たり、正親町天皇は
”内侍所に祈祷を命じる”
など、信長の為の戦勝祈願を行います。
具体的には、御所の内侍所だけではなく、石清水八幡宮でも大規模に戦勝祈願を行っています。
戦国時代、朝廷は中立を保っていたので、天皇が戦勝祈願をすることは久しくありませんでした。
このことから、正親町天皇が信長を信頼し、天下を取る人物と見込んでいたことがわかります。



ところが、朝倉攻めの途中、信長は同盟関係にあった北近江の戦国大名・浅井長政の裏切りに遭い、いったん京の都に逃げ帰ります。
そして、軍勢を立て直し、今度は裏切った浅井攻めに向かいます。
その信長に、正親町天皇は使者遣わしこう述べます。

”今日 出陣の由 聞こし召され やがて本位に属し 上洛待ち思し召しの由”

この天皇の言葉に対し、信長は

「たとえ近江に滞在しようと、また、美濃に帰ったとしても、今進めている禁裏修造については、奉公たちに堅く申し付けるのでご安心ください
 やがて上洛いたしましょう」

そう天皇に伝えるよう頼んだといいます。

信長が危機に瀕した際に、正親町天皇は見限らなかったのです。
このやり取りから、2人の関係は揺るがないものだったと思われます。
信長はこののち、正親町天皇に何度も救われることになります。

1573年8月・・・信長が浅井攻めを行ったその年の8月・・・
勢力回復を目指す三好勢が摂津国で挙兵。
信長は、将軍・足利義昭と共に出陣!!
6万の軍勢で三好勢を圧倒するも、浄土真宗の大坂本願寺が突如挙兵したことで形勢が逆転!!
本願寺に呼応して、浅井・朝倉が出陣!!
さらに、甲斐の虎・武田信玄も信長打倒に乗り出しました。
これによって、義昭・信長連合軍は、三好・本願寺・浅井・朝倉・武田などに包囲されてしまいました。
窮地に立たされた信長・・・
そんな信長の様子を知った正親町天皇は、勅書を出します。

”天下静謐のために 公方(将軍)の義昭が出陣している
 また 信長も同然である
 それなのに、一揆をおこし 敵対しているとのこと まことに不相応のことである
 早々に戦いをやめるように”

天皇から本願寺に停戦命令がでたのです。
しかし、この勅書が本願寺に届くことはありませんでした。
というのも、信長が大坂本願寺を相手にしていたことで、近江の守りが手薄に・・・
そのすきを突き、浅井軍が南近江を攻め、山城国に入り、山科・醍醐の集落に放火・・・
勅使が大坂に向かうことができなかったのです。

その後、戦は長期化・・・京の都を守るために、正親町天皇は再び勅書を出します。
これによって、信長は、浅井・朝倉と和議を結ぶことに成功するのです。
信長が天皇に頼ることで、天皇を和平の調停役にしました。
以降、信長は、危機に陥るたびに正親町天皇の力を借りて立ち直るのです。
これに対して天皇は、信長から何を得ようとしていたのでしょうか??
それは、”天下静謐”でした。

1573年、将軍・義昭が信長を見限ります。
反対勢力についたことで、またもや信長は窮地に立たされます。
和議を申し出るも、義昭は二度も拒否。
結局、この時も正親町天皇の勅命で和議が成立します。

窮地を脱した信長は、最大の脅威だった武田信玄が病で死去すると反撃に出ます。
京の都から義昭を追放、室町幕府を滅亡へと追い込みます。
さらに信長は、長く続いていた大坂本願寺の戦いでも正親町天皇の勅命を利用し、和議が成立。
こうして正親町天皇は、信長を信任し、後ろ盾となることで戦国時代を終わらせようとしたのです。
正親町天皇は、まさに信長の保護者だったのです。

正親町天皇、信長と対立!!
権威を失墜し、財政も逼迫していた朝廷を、なんとか立て直したいと考えていた正親町天皇・・・
朝廷の威光を利用して、天下をその手に治めたい信長・・・
互いの望みを叶えるため、蜜月の関係を築いていました。
しかし、そんな2人の関係に水を差す行動を信長がとります。
1569年、正親町天皇は、日本に伝来したキリスト教を排除する綸旨を出していました。
それにもかかわらず、信長はポルトガルの宣教師ルイス・フロイスと面会。

「帝や公方の意向を心配する必要なし
 すべてはこの信長の権限の中にある」

信長は、キリスト教布教の自由を保障しました。



さらに、信長は、東大寺・正倉院に収蔵されている天下第一の名香・蘭奢待を切り取ってしまいます。
蘭奢待は、奈良時代に唐から聖武天皇の手に渡ったと伝わっています。
その文字の中に、東・大・寺の名を隠した雅な呼び名がつけられた蘭奢待は、権威の象徴とされ、時に権力者が求めてきました。
しかし、正倉院は、勅封・・・天皇の命により封印されていると天皇の許可なく開けることはできないとしていました。
信長が、正倉院の蘭奢待を切り取ったことに関し、天皇は前関白への手紙で
”今度 不慮に勅封を開かれ候て・・・”
そう記したことから、蘭奢待切り取りは天皇の本意ではなく、信長が強引に正倉院を開けさせ行ったことと言われてきました。

しかし、手紙には続きがありました。

”聖代の余薫をおこされ候 この一炷にて、老懐をのへられ候はゝ祝着たるべく候”

切り取った蘭奢待を楽しんでほしいと書かれてあったのです。
もし天皇が、信長による蘭奢待切り取りを忌々しく思っていたならば・・・こんなふうには思っていないでしょう。
信長は、事前に正親町天皇の許可を受け取っており、朝廷が勅使を派遣し、勅封を開けています。
そして、東大寺の大仏師によって、一辺3センチ四方に2個切り取られたものを、信長は待っていた多門山城で受け取っています。

武力で強引に開けておらず、威圧することなく、謙虚に振る舞い、慣例に従って勅封を開けたのです。
この時、信長は切り取った蘭奢待の一つを正親町天皇に献上しています。
そして、天皇はこれを受け取っているのです。

正親町天皇、信長に譲位を迫られる!!
1573年、織田信長は、正親町天皇に進言をします。

「譲位されてはいかがでしょうか?
 勘定はこの信長が献上いたしますゆえ」

これについても、正親町天皇が邪魔になった信長が強く譲位を迫り、天皇と激しく対立したと言われてきました。
ところが、近年、天皇から信長への宸筆の返書が発見され、事実と異なることがわかってきました。
正親町天皇宸筆による信長への返書には、こう書かれていました。

”譲位は後土御門天皇以来の望み”

正親町天皇も譲位を望んでいたというのです。
”譲位は、後土御門天皇以来の望みであり 久しく叶わずにいたところ この度の申し入れは奇特であり 「朝家再興」の時である”

実は、1464年、後花園天皇が後土御門天皇に譲位して以来、正親町天皇の世になるまで100年以上もの間譲位は行われていませんでした。
応仁の乱以降、財政がひっ迫し、即位の礼や大喪の礼でさえ行えずにいた朝廷において、譲位などもってのほかだったからです。
まず、譲位の儀式に多額のお金がかかります。
そして、譲位して上皇が成立すると。上皇の住まいとなる仙洞御所を整えなければならなくなります。
そして、上皇と天皇、二重の行政組織を敷く必要があったのです。
戦国時代はそんな余裕はありませんでした。
莫大な費用が掛かるため、長年できなかった譲位が再び行えるならば、朝廷の権威が回復すると考えたのです。

しかし、この後、伊勢国に一向一揆、武田氏との長篠の戦いが起きるなど、信長が各地に出陣しなければならなくなったため、攘夷は実現しませんでした。
譲位の話が再び持ち上がったのは、9年後のことです。
1581年、安土城下で厄除けのお祭りである左義長(信長の当時は爆竹をならし馬を走らせた)を行った信長は、これを京の都でも実施しようとします。
すると、朝廷から観覧したいという陽性が来たため、京都御馬揃え・・・軍事パレードを行うことにします。
この馬揃えの準備を任されたのが、明智光秀でした。
織田一門総勢6万の面々が行列を作って本能寺から正親町天皇が待つ内裏まで、6時間もかけてパレードを行いました。
観客はおよそ20万・・・天下統一目前の信長の力、その勢いに京の民衆や武将たちも改めて驚かされました。
この時、正親町天皇は、信長を左大臣に任じようとします。
朝廷は高い位を信長に与え、朝廷の権威回復にもっと尽力してもらおうと考えていました。
ところが、信長はこれを断わります。

「譲位と即位の礼が済んだのちにお受けいたします」

こうして再び、譲位の実行が検討されることとなります。
譲位について朝廷が陰陽師に占わせたところ、

”御譲位のこと 当年は金神によりご延引きの由”

陰陽道で金神は、包囲の神とされ、金神のいる方角への移動や移転は凶でたたられると言われていました。
譲位をすれば、誠仁親王の二条御所から禁裏御所への移動は金神のいる方角に当たっていました。
朝廷は今回の譲位を断念・・・また、先送りとなりました。



1582年、織田信長は正親町天皇が望む譲位をいまだ実現できずにいました。
しかし、朝廷の権威回復の為尽力し続けていました。
応仁の乱以降、久しく途絶えていた伊勢神宮の神事・式年遷宮(新しい社殿を作りご神体を遷す神事)復興もその一つです。
銭3千貫という大金を寄進します。
その後も、必要に応じて寄進すると正親町天皇に申し出ます。
この時、伊勢神宮の内宮の遷宮が120年ぶりに復興されました。
信長が寄付をするときには気前が良く、多めに寄付しています。
石清水八幡宮、熱田神宮にも多額の金銭を寄進して保護しています。
そんな信長に、正親町天皇と朝廷も応えます。

1582年武田氏滅亡・・・
すると、凱旋した信長に、朝廷が官職を与える三職推任の話が持ち上がります。
三職とは・・・関白、太政大臣、征夷大将軍のこと・・・。
それらのいずれかに信長を任じようというのです。
朝廷側の公暁・勧修寺晴豊、京都所司代・村井貞勝との間で非公式の会談が行われました。
結果は・・・晴豊の日記には・・・

”関東を討ち果たされて珍重なので将軍に任じたいと申し入れるための使者である”

このことから、朝廷は信長を将軍に推認することを決定しました。
武田氏を滅ぼし、北条氏も信長に従属していたため、関東を平定したことになり、将軍宣下の条件が整ったのです。
信長が、征夷大将軍に任じられれば織田幕府が誕生することになったのですが・・・
実現しませんでした。

この年・・・1582年6月2日、信長の家臣である明智光秀が、謀反を起こしたからです。
本能寺の変です。
これによって、信長は命を落とします。
49歳でした。

この時、信長が無くなってしまったため、官職の推任に対する信長の考えや、政権構想についてもわかっていません。
ただ、正親町天皇と信長の関係は、最後まで極めて良好だったのです。
信長は破壊者の側面が強調されてきましたが、実は勤王家で、伝統と格式を重んじる保守主義者でした。
天皇の後ろ盾による武家政権を打ち立てることを目指していたのではないか??と思われます。



10月・・・正親町天皇は、信長に太政大臣従一位を送っています。
朝廷の財政・権威回復に力を尽くしてくれた信長への最大のねぎらいと敬意の証だったのかもしれません。
そして、正親町天皇は、信長の仇である光秀を討った羽柴秀吉に太刀を贈っています。
秀吉は、信長の後継者としての地位を確立・・・
天下統一に邁進します。
そして、信長が実現できなかった正親町天皇の譲位の準備もまた引き継ぐのです。

織田信長が実現できなかった正親町天皇譲位の準備は、羽柴秀吉に引き継がれ、着々と進められていきます。
1584年、秀吉は「仙洞御所」の造営を開始、その建築費用や即位費用など(銭1万貫・15億円)の拠出を約束します。
こうして、朝廷は、政治的にも経済的にも安定。。。
譲位の準備も進み、悲願だったその日を正親町天皇は心待ちにしていました。
しかし・・・度重なる不幸が襲います。
1585年11月29日深夜・・・M8ともいわれる大地震が発生・・・近畿・東海・北陸を襲います。
正親町天皇のいた京の都は御所を含め大きな被害はありませんでしたが、被災地の被害は甚大で、多くの犠牲者が出たことを知ると、天皇は大井にうれいたといいます。
さらに・・・1586年7月24日、正親町天皇のあと即位するはずだった誠仁親王が35歳の若さで薨御。
誠仁親王が亡くなった理由は、”わらわやみ”と言われる間欠熱の一種でした。
あまりに突然亡くなったので、はしか説、自殺説が飛び交いました。

我が子を無くした正親町天皇は、食事が喉を通らなくなるほど深い悲しみに触れました。
譲位はそんな中、行われました。
正親町天皇は、誠仁親王の皇子で孫にあたる和仁親王に譲位・・・こうして・・・
1586年、第107代後陽成天皇が践祚。
11月25日、即位の礼が執り行われました。
正親町上皇この時69歳・・・後陽成天皇は15歳。
実に120年ぶりの譲位でした。

正親町天皇は、30年という在位期間の中で、逼迫していた朝廷の財政と権威を見事に回復させます。
そこに、織田信長という存在は欠かせませんでした。
互いの距離をうまく保ちながら、それぞれの主張を曲げることなく心砕く・・・二人だからこそできたのかもしれません。
江戸時代に入り、朝廷は江戸幕府の統制下におかれます。
しかし、その権威が脅かされることはありませんでした。
それは、朝廷の立て直しに力を注いだ戦国のミカド・正親町天皇の功績だったのでしょう。
1593年、正親町上皇崩御・・・77歳でした。

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織田信長が、豊臣秀吉が、徳川家康が・・・天下統一を目指して熾烈な戦いを繰り広げた戦国時代・・・彼らの戦場は陸だけではありませんでした。
その一つは・・・海!!
軍船対軍船の戦い・・・その数多ある水軍の戦を勝ち抜き、遂には天下人に恐れられた海の侍たち・・・それが村上海賊です。
当時日本にいたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、村上海賊のことを日本最大の海賊と評しました。
天下取り目前の信長を、海の戦で完膚なきまでに打ちのめすほどの力を持っていたからです。

近畿、中国、四国、九州に囲まれた瀬戸内海・・・この海は、古くから西国と大坂・京都を結び、年貢や交易のための物資が行き交う大動脈でした。
戦国時代はその沿岸に、周防・長門の大内氏、伊予の河野氏、安芸の毛利氏、それぞれが領土の拡大を目指す戦いの場でもありました。
そんな瀬戸内海を拠点としていた村上水軍・・・その名を一躍とどろかせたのが、海の桶狭間でした。

広島県廿日市市にある厳島神社・・・
海に立つ鳥居で知られ、国保であり、世界遺産です。
この宮島と呼ばれる静かな島が、かつて戦の舞台となりました。
1555年厳島の戦いです。

領国の拡大を狙う毛利元就と、大内氏の重臣で、実質的に権力者だった陶晴賢が厳島で激突したのです。
晴賢は前年に元就によって奪われたこの島を取り戻すために、毛利軍の拠点宮ノ尾城に襲い掛かります。
大軍の敵に囲まれ窮地に追いやられた毛利軍・・・もはやこれまでか!!と思われたその時、数百艘の水軍が現れ陶の水軍を急襲したのです。
これこそが、村上海賊・・・!!
つながりの深かった毛利の援軍として参加したのです。
村上海賊は、瞬く間に陶の海軍を撃退!!
形勢は逆転し、毛利軍の逆転勝利となりました。
奇襲によって形勢が逆転したことによって勝利したことで、織田信長が今川義元に奇襲作戦で勝ったことになぞらえて、後に海の桶狭間ともよばれるようになりました。
陶の水軍を一気に破った村上水軍・・・
その強さの秘密とは・・・??

①船乗りとして優れていた
島が入り組んで、狭い水路、複雑な潮の流れなど難所の多い瀬戸内海で、船を自在に操る高い航海技術を持っていました。
さらに、彼らの使う軍船の強さ!!
当時、大名らが使用する軍船の主力となったのが、全長20mを超える安宅船と呼ばれる大型船で、兵士が乗り、弓矢や槍などで戦いました。
もちろん、村上水軍も安宅船を使っていましたが、違ったタイプの船を駆使していました。
その一つが小早船です。
安宅船は大型船だったので、小回りが利かず、容易に方向転換ができないという弱点がありました。
村上水軍は、全長5mの小早船を操り、スピードと縦横無尽の動きで敵船を攻めました。
もう一つが中型船の関船です。
その鋭い船首で体当たりし、敵船を破壊、時には敵を沈没させました。
こうして海を知り尽くして多様な船を使いこなしていた村上水軍は、瀬戸内海で無敵の存在となっていきました。

村上氏の始まり
・平安時代の村上天皇が祖
・南北朝時代に北畠氏の一族が村上と名乗った
しかし、その出自は定かではありません。

村上家は三家に分かれていました。
因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏です。
この三家は連携しながら沿岸の諸大名と手を組んで拡大していきます。
中でも、海の戦国大名と呼ばれ、大きな力を持っていたのが能島村上氏当主・村上武吉です。

今に伝わる陣羽織があります。
架空の動物で赤面赤毛で猿に似た猩猩の血の色と言われる真赤な生地に、背に記された丸に上の文字は村上家の家紋・・・
これを身にまとい、瀬戸内海をわがものにしていた人物こそ、村上武吉です。
1533年に生れました。
若くして沼島村上家の当主となり、後に能島殿と呼ばれ畏れられる存在になっていきました。
人々は、武吉の何を畏れたのでしょうか?

それは、拠点とした能島にありました。
能島の周囲は850mほど・・・小さな島で今は無人島となっています。
潮の流れが早く、海は渦を巻き、船を近づけることができません。
能島は敵が攻められない天然の要塞だったのです。
能島と鯛崎島が城となっていて、築城は14世紀半ばと考えられています。
能島城は、小さな島全体を城としていますが、上から本丸、二の丸、三の丸、ハナには曲輪・・・
周りが急斜面で切岸となっています。
基本的なお城の構造を島全体で作っていました。

残っている岩礁部分に空いた穴は、船を停めておく杭を刺した穴で、島にはこのような穴が400ほど残っています。
能島村上海賊が大規模だったことがわかります。

敵から攻められにくい天然要塞である能島を拠点に、多様な船を駆使して瀬戸内海に君臨した村上海賊の棟梁・村上武吉・・・
武吉が周囲から恐れられたもう一つの要員は・・・経済力でした。
武吉が能島村上氏の当主となる前は・・・その名の通り、航行する船を襲っては抵抗すれば殺害してでも積み荷を奪う海賊行為を行っていました。
しかし、武吉が当主となると、配下の海賊たちに言い放ちます。

「これからは船を襲うことは許さん!!」

武吉は、略奪行為を一切やめさせました。
その代わりに航行する船から通行料である帆別線を徴収します。
金を支払えば、村上海賊の勢力圏での安全を保証・・・通行料は船の帆の大きさで決められたといいます。
さらに武吉は、上乗りという警護も担当します。
村上海賊が依頼のあった船に乗船するというもので、上乗りが言えば顔パスで、襲われることも通行料を撮られることもありませんでした。
その見返りとして警護料を支払わせたのです。
それらの収入を合わせると、一説には戦国大名の石高に匹敵するといわれています。
武吉は、無敵の水軍と、戦国大名に匹敵する財力を持っていたのです。
それで、周囲から畏れられたのです。
武吉は、瀬戸内海の船の航行を牛耳ることとなり、瀬戸内海の支配者となりました。

1576年、瀬戸内海を支配する村上海賊の頭領・村上武吉に大大名となっていた毛利輝元が、要請します。
「大坂に行ってもらえぬか・・・??」
「大坂・・・??」
輝元が、どうして大坂行きを武吉に要請したかというと、そこには織田信長の存在がありました。

天下布武を掲げる織田信長にとって、長年の障害となっていたのが浄土真宗の総本山・石山本願寺でした。
宗主の顕如率いる本願寺が、10万人の門徒を従え、畿内を中心に一大勢力を築いていたからです。
何としてでも畿内をわがものにしたい信長は、石山本願寺を攻め、遂に寺を包囲して兵糧攻めにします。
それによって、本願寺は兵糧が無くなり風前の灯火に・・・。
この本願寺の危機を知った輝元は、援軍を送ることに・・・!!
本願寺に送る大量の武器や食料を積んだ輸送船の警護を村上水軍に依頼したのです。
要請を受けた武吉は、嫡男・元吉を大将にして村上海賊を大坂に向かわせました。
その数、毛利水軍と合わせておよそ800艘・・・!!
そして、遂に大阪湾から石山本願寺の脇を流れる木津川の河口にやってきたところで200艘の織田水軍と当たります。
世にいう第一次木津川口の合戦です。
その結果は・・・村上水軍を任された元吉が、毛利輝元に報告しています。

”織田の船をことごとく焼き崩しました
 敵方を数百人は討ち取りましたので、首実検のために揃えてお持ちします”

村上海賊との連合軍が、織田水軍に圧勝したのです。
どうして村上海賊は圧勝することができたのでしょうか?
「信長公記」にはこう書かれています。

”海上はほうろく、火矢などと云う物をこしらえ、お味方の船を取籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し、多勢に敵わず”

ほうろくが、織田水軍に有効だったのです。
村上海賊の特色は、ほうろくという小型爆弾のようなものを用いていました。
それ以外にも、村上水軍は
熊手・・・敵や物をひっかけて自分の方に引き寄せる
袖がらみ・・・棘がついていて、相手の衣服に絡めて相手の動きを封じる
村上海賊の勝因は、多様な武器に加え、様々な船による組織的な攻撃力でした。

その戦法は・・・
①射手船・・・火矢や銃弾で混乱させて相手の反撃能力を奪う
②ほうろく船・・・ほうろく玉を投げ入れて、敵船を炎上させる=船は瞬く間に炎上
③武者船・・・兵たちが敵船に乗り込み、敵兵を海に追い落とす
これで織田水軍を壊滅的に追い込んだのです。
海での戦術に優れ、ほうろく玉などの秘密兵器を駆使して圧勝していたのです。
こうして食料や武器などを石山本願寺に届けた村上海賊と毛利水軍の連合軍は、意気揚々と西に帰っていきました。

木津川口の合戦で、織田水軍に勝利した村上海賊の村上武吉・元吉親子は、毛利氏から令嬢が贈られるなど、信頼が厚くなっていきます。
そんな中、木津川口の合戦から2年後の1578年・・・
石山本願寺攻略に執念を燃やす織田信長が、またもや本願寺の兵糧攻めを開始しました。
そして毛利氏は、本願寺に援軍を送ります。
再び村上海賊の出番となりました。
この時は、当主である武吉自らが600艘を率いて、毛利水軍と共に大坂へ・・・!!

ところが、木津川の河口についた武吉は愕然とします。
武吉が目にしたのは、今までに見たこともない異様な船でした。
第一次木津川口の戦いで村上海賊に完膚なきまでに叩かれた信長は、ほうろく玉の攻撃に耐えうる船の建造を志摩の領主であり海賊の頭領・九鬼嘉隆に命じていました。
そこで完成したのが鉄甲船でした。

「多門院日記」によると・・・
”人数五千程乗る横に七間、縦へ十二、三間もこれあり 鉄の船なり”

それは、横幅13m、全長23m、5000人もが乗船できる鉄の船でした。
これを6艘も作らせていました。
銃弾が通らないように、部分的に鉄で船を装甲していたのです。
こうして第二次木津川口の合戦が始まりました。
村上海賊は、ほうろく玉攻撃を繰り出しますが・・・
厚い鉄板で跳ね返され、織田水軍の鉄甲船に全く歯が立ちませんでした。
さらに、信長にはもう一つの秘密兵器が・・・
近づいてくる村上海賊を引き付けて・・・鉄甲船には大砲が装備されていたのです。
その一斉砲撃を受けると、村上海賊は撤退を余儀なくされました。
海戦では無敵だった村上海賊が、最新鋭の武器の前に敗れ去ったのです。
この敗戦を機に、毛利氏の瀬戸内海での影響力が弱まり、2年後の1580年に石山本願寺は織田信長に明け渡されることになります。

当然村上海賊にも、信長による懲罰が待ち受けているはずでした。
武吉と元吉の元に信長から書状が届きます。

”望む事これ有るにおいては いささかも異議なく候 その意を成すべく候”

なんと信長は、希望があれば何でも聞くという寛大な姿勢を示したのです。
どうしてでしょう・・・??
信長は、軍事力に関して陸上は毛利氏に勝っていると考えていましたが、海上の水軍力については毛利氏に劣っていると認識していました。
そこで、武吉の軍事力は織田に欠かせないと考えていました。
そして毛利攻めを任せていた秀吉に対し、村上武吉への調略を命じます。
それを受け秀吉のにこう伝えます。

”能島殿が信長公に味方するなら、所領は伊予十四郡はもちろんの事、四国全土を与えてもよい”

それは、秀吉の常套手段でした。
過大な条件を出して誘いをかけたのです。
一族のごたごたも利用・・・
当時、武吉と元吉の間に隙間風が吹き始めていました。
元吉を揺さぶります。
秀吉は、村上三家の団結を崩そうとも考えていました。
同じように、因島村上氏・来島村上氏にも仕掛けていました。
すると来島村上氏が織田側に寝返ります。
それでも武吉は、信長、秀吉の誘いに首を縦に振りませんでした。
あくまで毛利氏に追従する道を選んだのです。
その理由とは・・・??
毛利氏の必死の引き留め工作がありました。
武吉は、毛利氏と強い絆で結ばれていたため、裏切れなかったのです。

信長・秀吉の誘いを蹴った能島村上氏の武吉ですが、来島村上氏が織田方に寝返ったため、村上家は結束を欠くことに・・・
これで織田軍の毛利攻めが易くなる・・・!!
そんな矢先、1582年6月、家臣明智光秀の裏切りによる本能寺の変で信長が自害!!

これで村上海賊の宿敵が無くなった・・・??新たな敵が現れました。
羽柴から豊臣となった秀吉です。
信長亡き後、天下人を狙う秀吉は、中国、四国、九州を支配下に置き、残すは東北となっていました。
そんな中、ある法令を発布します。
1588年7月8日、秀吉は「海賊停止令」を発布します。
そこには、諸国の海上において速やかに海賊行為をやめよ・・・とありました。
各地の領主に対し、船に関わる全ての人物から誓約書をとって提出するように求めたのです。
船頭や漁師までも・・・!!
もし、海賊行為を行った場合、その海域の領主も罰せられるという「海の刀狩り」とも取れる厳しい令でした。
これによって、武吉は海での警護や通行料の徴収などができなくなってしまいました。
まさに、秀吉の海賊取り締まりは、村上海賊を狙い撃ちしたもの・・・
もはや懐柔ではなく目の敵にし、弾圧したのです。
海賊停止令は、秀吉の天下統一の理念を海にまで及ぼそうとしたものです。
海の世界まで統一する為に、海上交通路も秀吉が支配しなければならないと考えたのでした。
村上海賊は、その障害になると考えたのです。

1588年9月・・・秀吉から毛利方に書状が届きます。

”能島が海賊行為をしているという知らせがあったが言語道断”

禁令を破ったとして武吉を処罰するという者でした。
秀吉は、”赤間関より上国には居ることまかりならざる様に”と、武吉追放を命じます。
赤間関とは今の下関のことで、瀬戸内海から出て行けということ・・・
武吉は、一族配下のものを守るため、従うほかありませんでした。
村上三家のうち、武吉だけが筑前・糸島に移り住むこととなったのです。

1598年、武吉を瀬戸内海から追放した秀吉が亡くなります。
これによって、武吉に再びの活躍の場が・・・!!
再び毛利氏に仕え、所領2万石を得ていた武吉・・・
その際、新たな本拠地としたのが伊予制圧の要衝・竹原鎮海山城でした。
それは、あわよくば天下を狙う毛利輝元の指示によるものでした。

秀吉の死後、実権を握った徳川家康と豊臣政権を守ろうとする石田三成の対立が激しくなります。
そして遂に三成を中心とした西軍が挙兵したことで、家康の東軍と激突することとなります。
その際、西軍の総大将に担ぎ上げられたのが武吉の仕える毛利輝元でした。

勝てば毛利の天下も・・・!!
この時、武吉68歳、嫡男元吉48歳!!
村上海賊復活のチャンスが。。。!!

1600年7月、西軍の総大将毛利輝元は、秀吉の嫡男・秀頼を守るために大坂城に入ります。
その輝元から武吉が任されたのは、西国にある徳川方の城を攻め落とすことでした。
村上海賊は、阿波・蜂須賀氏を攻略すると、加藤氏の伊予に乗り込むことに・・・!!
9月14日、武吉親子が向かったのは、興居島・・・加藤氏の拠点である松前城に攻め入るためでした。
翌15日、村上海賊は三津浜に上がり布陣します。
まさにその同じ日・・・美濃の関ケ原で天下分け目の戦いが始まりました。
しかし、わずか6時間で東軍が勝利し、毛利輝元は敗軍の将となってしまいました。
16日、敗戦を知らない武吉は、松前城に三千の兵を差し向け、開場を要求・・・
松前城の留守役に開場を受け入れさせます。
あっけない勝利に見えました。
もはや攻め入る必要もない・・・武吉は猶予を与え、一旦引き上げることに・・・。
武吉たちは近くの民家に陣を張り、宴会を開き勝利を祝ったのです。
西軍本体が負けたとも知らずに・・・!!
そしてその日の夜中・・・
兵を整えた加藤氏の軍が、武吉の陣を夜襲・・・間一髪で難を逃れましたが、この戦いで嫡男元吉を失ってしまいました。
村上海賊の完敗でした。
村上氏が持っていた優れた船や熟練した乗組員が力を発揮する余地がなかったのです。
瀬戸内海で百戦錬磨の海の支配者も、陸の上では並の武将に過ぎなかったのです。
その後、関ケ原で西軍が敗戦したことを知ると、武吉は撤退・・・屋代島へと追いやられていきました。
その所領は2万石からわずか1,500石へ・・・付き従っていた者たちも、その財力を失った武吉の元を次々と去っていきました。
そして、1604年8月22日、村上武吉は72歳で波乱の生涯を閉じたのでした。
村上武吉の死と共に、水軍としての村上海賊も終わりを告げました。
しかし、能島の村上一族は、その後船手衆として生き残ります。
江戸時代には、参勤交代の際の藩主の送迎や、朝鮮通信使などの船の護衛を担いました。

南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海に君臨し、そして消えて行った村上海賊・・・
その海の侍たちの勇壮な姿とロマンは、これからも語り継がれていくでしょう。

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山城・・・それは、時として戦国武将の命運を左右する悲劇の城でした。
山陰地方の要となった巨大山城・月山富田城・・・
戦国時代、月山富田城に、三人の名将たちが挑みました。
名門守護大名・大内義隆、中国地方の覇者となる毛利元就、悲劇の忠臣・山中鹿之助・・・
しかし、如何に名だたる戦国武将と言えど、力でこの山城を落とすことができませんでした。
その攻略方法とは・・・??

室町時代に勃発した応仁の乱、京都を中心に11年間続いた権力闘争は、やがて全国に拡大・・・
群雄割拠の戦国時代に・・・!!
戦乱の火種は、山陰地方にも飛び火しました。
そこで急速に版図を広げたのは、守護代から台頭した尼子氏です。
出雲を拠点に最盛期には近隣諸国8か国の守護に任ぜられた尼子氏・・・
その隆盛を支えたのが、海の道です。
古来、朝鮮半島や中国に近い出雲は、日本海海運の要所でした。
さらに、山陰地方には石見銀山があり、尼子氏の経済基盤となっていました。
当時、世界の1/3の産出量をしめたといわれる日本の銀・・・中でも石見銀山は、ポルトガル人が書いた日本地図にも明記されているほどです。
こうした莫大な富を背景に領土を拡大した尼子氏・・・その拠点となったのが、月山富田城でした。

一見すると木々に覆われたただの山・・・

todajyou
















山全体が城になっています。
全国でも、屈指の大きさを持っていた山城でした。
総面積およそ70万平方キロメートル、東京ドーム15個分・・・日本代々級の城郭です。
山間部に至るまで500もの曲輪が築かれ、兵を配置し、守りを固めています。
軍事的な拠点でもあり、年の一部であり、政治の中心でした。

城の麓には城下町が形成され、商業施設もあったといわれます。
城下町を守る川は、軍事的な利用だけでなく、日本海海運の航路としても利用されていました。
いろいろな陶磁器・・・日本のものから海外のモノ(中国・タイ・ベトナム)まで、高級な青磁がたくさん出てきて、財力的にも強大でした。

1543年、第一次月山富田城の戦い!!
月山富田城に挑んだのは、中国地方を含め7か国の名門守護大名・大内義隆・・・!!
山陰の中心・月山富田城の攻略は、中国地方の覇者となり、天下への足掛かりとなる大事な戦いでした。
大内義隆は、1万5000の大軍勢で、月山富田城に迫りました。
尼子と決戦を挑もうとしたのです。
それに異を唱えたのが、当時大内の配下にいた毛利元就でした。
元就は・・・
「力攻めなど無理である
 たとえ日本全土の軍勢をもってしても、この城を容易く落とすことなど出来ぬであろう」
しかし、義隆は、元就の意見など聞かずに総攻撃をかけます。
大内軍は、城下町を焼き払うと、手勢を菅谷口・御子守口・塩谷口に分け城を攻撃!!
敵の猛攻を待ち受けていたのが、月山富田城に作られていた防御システムの土塁でした。
その一部が月山富田城内に今も残されています。
高さ6m、長さ130mの巨大な土塁・・・このような土塁が、城のあちこちに作られていたと思われます。
土塁の外側には深さ6m、幅10mの堀がありました。
外側に堀をセットにすることで、より高さを増して、敵を突破できないようにしていました。
戦国時代の土塁としては、最大級のものです。

このような土塁を突破したとしても、城内にはいろいろな仕掛けがあります。
花の壇と呼ばれる曲輪には・・・尾根筋を断ち、敵の接近を阻止する堀切りがあります。
本丸に向かおうとする敵は、屈曲した道に翻弄され、行ったり来たりを繰り返さざるを得ません。
花の壇を突破しても・・・上から攻撃されるようになっています。
月山富田城の進入路は三つ・・・その行き着く先は、山中御殿と呼ばれる膨大な曲輪です。
どの道を通っても、この曲輪に来るように仕掛けられています。
一気に撃退される・・・恐るべき守りの工夫です。
ここを突破しても、絶壁、七曲りを突破しなければなりません。
実際の戦いでは、城の堅い守りを前に、大内軍は城内に入る事すらできませんでした。
力攻めを諦めた義隆は、月山富田城を包囲!!

しかし・・・籠城側に降伏する気配はありません・・・
籠城に耐えうる月山富田城の秘密とは・・・??
月山富田城の周りには、いくつも味方の城がありました。
月山富田城を守るため、尼子は城郭ネットワークを築いていました。
これを、尼子十旗と言います。
月山富田城が攻められても、他の山城軍によって兵站線が確保され、援軍としての後詰を担ったのです。
そして開戦から数か月後・・・事態は急転・・・!!
1543年4月30日、大内配下の武将たちが、次々と尼子に寝返ります。
5月7日、味方が動揺する中、大内軍全軍撤退!!
撤退する大内軍は、それを追撃する尼子軍に多くを失いました。
尼子軍の圧倒的勝利でした。

大内軍の猛攻を、完全にはねのけた月山富田城・・・次にこの城に挑んだのが、後に中国地方の覇者となる毛利元就でした。
第二次月山富田城の戦いが迫っていました。
大内の大軍勢をはねのけた名城・月山富田城・・・月山富田城の戦いに敗れた大内義隆は、勢力がおとろえ8年後、家臣の謀反に遭い自害することになります。(1551年)
大内に代わって台頭したのが毛利元就です。
1555年10月1日、大内を滅亡に追い込んだ陶春賢を奇襲攻撃で撃破!!・・・厳島合戦です。
主君の弔い合戦で勝利した元就は、大内の領地を継承・・・一気に戦国大名に変貌を遂げました。
これによって領国を接した尼子と毛利・・・中国地方の覇権争いはもはや避けられませんでした。

両者の戦いを決定づける事件が・・・1561年12月、尼子晴久死去。
家督を継いだのは、わずか21歳の尼子義久・・・元就にとって好機の到来でした。
しかし、大内軍の配下として参陣した前回の轍を踏めば月山富田城は攻略できません。
難攻不落の城を攻めるために元就が狙たのが、当時尼子の支配下にあった石見銀山でした。
1562年、元就は石見銀山を奪取。
尼子の経済基盤を奪取することに成功します。
続いて・・・月山富田城の防衛網・尼子十旗を崩壊させること・・・!!
尼子十旗が無くなれば、月山富田城は孤立・・・!!
籠城戦の援軍は望めなくなります。
出雲の南を守る赤穴城を皮切りに、1年がかりで次々と撃破・・・!!
残るは白鹿城のみ・・・!!
その矢先、元就を不測の事態が襲います。
1562年8月、元就の嫡男・毛利隆元死去・・・!!
この時、隆元は毛利家の当主でした。
この時元就、67歳・・・当時の平均寿命を大きく超える高齢でした。
跡継ぎとなる孫・輝元はわずか11歳・・・他の子どもたちは養子に出してしまっていました。
すぐ領国へ引き返し、内政を固めなければ毛利家が崩壊する危険性もありました。
ところが・・・元就は、諸将を集め、こう宣言します。

「隆元の供養は、尼子を退治する外にない・・・!!」

弔い合戦を大義名分として尼子との戦いを優先したのです。
最大の敵・尼子を倒してこそ毛利家は安泰となる・・・
1563年10月、白鹿城陥落

1565年4月、元就、3万5000の兵を率いて、月山富田城へ迫ります。
難攻不落の大要塞・・・いかに攻略すべきか・・・??

力攻め・・・??
しかし、守りに秀でた月山富田城には、山中鹿之助などの武勇に秀でた猛将たちがいます。
元就にとっても手ごわい相手・・・!!
力攻めで負け戦が重なれば、従軍していた家臣たちに離反者が出る可能性も高い・・・
前回の戦いのときも元就はこう言っていました。

「力攻めなどは無理である
 日本全土の軍勢をもってしても、この城を容易く落とすことなどできぬ・・・!!」と。

兵糧攻め・・・??
敵の兵站線をたたき、直接の戦闘を避け、自滅するのを待つ・・・!!
しかし、月山富田城には、長期戦に耐えられる工夫がなされていました。
井戸に水が湧き出ています。
山城を作る場所で、水が得られるというのは、大変重要な要素でした。
兵糧攻めに耐え、長期の籠城戦に耐えうる月山富田城・・・!!
戦が長引き、高齢の元就が亡くなれば、毛利は崩壊必至・・・!!

力攻めか、兵糧攻めか・・・??

1565年4月17日、元就、3万の大軍勢で月山富田城の総攻めを開始!!
力攻めで城を陥落させようとしました。
籠城している尼子軍は1万!!
城の三法の登城口で激戦が繰り広げられること10日以上・・・
しかし、終始尼子軍は3倍の敵に対して勝利を得、さしたる大敗もなかったといいます。
毛利軍には犠牲者が続出し、大損害を被ります。

総攻めの愚を悟った元就は、城を包囲し徹底した兵糧攻めに転じます。
月山富田城を包囲する為に川を挟んだ山頂に布陣した毛利軍・・・
勝山城にはこの時の元就の覚悟の痕跡が残っています。
畝状空堀群・・・侵入する敵の動きを限定し、上から攻撃をしやすくする防御の工夫です。
勝山城を築いた元就の狙いとは・・・??
月山富田城を見下ろす本格的な陣城・・・これほどまで備えなければ、毛利元就であっても月山富田城を攻めることができなかったのです。
尼子氏の月山富田城がいかに強い城であったのかがわかります。
周囲に要塞を築き、完全に月山富田城を包囲した元就・・・
城内では、次第に兵糧の不足が深刻化していました。
その隙を浮いて、城内の離反を狙い調略します。
それが功を奏したのか、事件が起こります。
1566年、当主・義久が、謀反の疑いで重臣・宇山久兼を斬殺!!
これを機に、尼子の家臣たちは、次々と毛利方にくだりります。

そして1566年11月・・・尼子義久降伏・・・!!

毛利の総攻めから1年7か月・・・戦国時代まれにみる籠城戦でした。
この時、毛利の重臣たちは禍根を残さぬように義久の命を絶つことを主張しました。
しかし、元就は助けてやるのが武士たるものの法として義久を許したのです。
尼子滅亡・・・
しかし、戦国一の知将・毛利元就ですら月山富田城を武力で落とすことは、遂にできませんでした。

山陰の雄・尼子氏を滅ぼし、中国地方の覇者となった毛利元就。。。
毛利の城となった月山富田城・・・しかし、ここで三度の合戦が起こります。
尼子との死闘から3年後・・・
1569年6月・・・沖から軍船に乗り込んだ尼子再興軍、毛利領内に上陸・・・!!
尼子家の再興に燃える山中鹿之助・・・武勇誉れ高い尼子の武将です。
鹿之助の元には、尼子の旧臣たちが続々とやって来て6000人に及んだといいます。
この時、毛利本体は、九州・大伴氏との戦いに駆り出されていました。
月山富田城に残された毛利軍はわずか300・・・!!
対する鹿之助の尼子再興軍は6000・・・月山富田城に精通した尼子の旧臣たちでした。
毛利軍は、軍勢のはるかに勝る尼子方に降伏を申し入れました。
それを受け、尼子の旧臣を月山富田城に迎え入れます。
その時・・・入城した尼子軍に、毛利勢は一斉射撃を加え、だまし討ちで撃退したのです。
以来、月山富田城は、鹿之助たちの猛撃を寄せ付けず、戦いは翌年までもつれ込みます。
やがて毛利の援軍が到着・・・
1570年、山中鹿之助ら毛利領から撤退・・・!!
月山富田城の奪還に失敗した鹿之助はその後も毛利との死闘を繰り広げます。
しかし、尼子家の再興叶わず・・・1578年7月、山中鹿之助死去。
月山富田城の一角には、悲願を果たせなかった山中鹿之助の銅像がひっそりとたたずんでいます。
名門守護大名・大内義隆、中国知能の覇者・毛利元就、そして忠義の武士・山中鹿之助・・・
名だたる武将の前に立ちはだかり、彼らの夢を打ち砕いた月山富田城・・・そこは兵どもの悲劇の舞台となったのです。


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忍者の歴史はいまから600年前の南北朝時代。
激しい争いの中、情報収集・潜入活動などの技術が発達し、「忍び」という職業として成立しました。
以降、徳川家康、武田信玄、毛利元就・・・忍びを使わない武将はいませんでした。

しかし、本当の忍者は、私たちの想像とはかけ離れています。
戦闘のプロのイメージが強いですが・・・戦いません。
今でいうスパイのような存在で、敵と対峙することよりも、生きて情報を持ち帰るのが任務でした。
戦うのは最後の手段だったのです。

さらに手裏剣はウソ・・・十字型の手裏剣は欠点だらけです。
鉄製なので重すぎる・・・軽快な動きを必要とされる忍者には不向き!!
さらに、鉄は高価なものなので、勿体ない!!投げるのを躊躇。


kunai


普段携帯していたのはクナイ!!

穴を掘る、壁を上る際の足場、武器!!
汎用性があり、武器として携帯するには最適でした。



忍者の真実其の一
忍者は黒装束を着なかった
忍者と言えば、黒装束に身を包み、華麗に潜入!!というイメージが強いですが・・・
敵地で隠密行動するのに・・・忍者とわかる黒装束は目立ちすぎる!!
どうして忍者と言えば黒装束というイメージがついたのか・・・??
それは、歌舞伎!!
江戸時代、観客が一目で忍者と認識できるように衣装を黒装束にしたのが始まりです。
その名残から、忍者=黒装束というイメージがついたのです。
では、本当の忍者は・・・??
状況によって使い分けていました。
潜入先の住民や、風景になじむように変装していたのです。
町人から情報を聞き出すときは、町人・商人・お坊さん・山伏・・・。
潜入先の方言を話せるように訓練していました。

城や屋敷の中を覗きたいときには虚無僧・・・顔を見られることなく、偵察に適していました。
城や屋敷に潜入する時は、放下師、猿楽師に・・・大名に気に入られれば、屋敷に呼んでもらえ、重要な情報を集めることができました。
これらは、七方田とよばれ、忍者の基本の変装術でした。

忍者の真実其の二
忍者は将棋が強かった。
当時の庶民の娯楽は将棋でした。
知らない土地の人と仲良くなるためには、最高のコミュニケーションツールでした。
忍者は誰とでも相手ができるように、人並み以上の腕前を持っていたといいます。

忍者の真実其の三
そして・・・将棋には勝ってはいけません。
相手のことを操り、秘密を聞き出すうえで重要なことは・・・うつけ者を演じることでした。
かしこく振る舞うと、相手は気分を害して口を閉ざしてしまう・・・。
相手を気持ちよくさせることが大切なので、将棋でわざと負けることも多かったといいます。
情報を聞き出すために、忍者はプライドを捨てていたのです。

忍者の真実其の四
潜入には穴を掘る。
鍵縄を使って城や屋敷に潜入することは、見張りに見つかる危険性があります。
なので、潜入のためには、穴を掘ってトンネルを通す・・・完成までに数か月かかることもありました。
また、壁が木造ならば、塩水を吹きかけ少しづつ木を腐らせ穴をあけていました。

忍者の真実其の五
忍術は科学だ。
実在の忍者は、超能力を使えたわkではありません。
忍術とは科学の応用なのです。
忍者は、今でも専門家しか知らないような科学的知識を豊富に持っていました。
夜の山奥で道に迷ったら・・・方角を知るために、火を起こし・・・縫い針を使って方位磁石をつくりました。
熱残留磁化という仕組みで、縫い針と水だけで方角を特定していました。

火の扱いにもなれており、忍び松明は雨にぬれても消えにくい特殊な松明でした。
独自に火薬を調合します。それに利用するのは・・・糞尿と灰汁を煮込み、冷却して火薬(硝石)を作り出していました。

忍者の真実其の六
忍者はサバイバルの達人。
時に山中に身を隠すことの多かった忍者は、サバイバル術にも長けていて、自生する植物の種類を見極め、飢えをしのいでいました。
兵糧丸というもち米や砂糖を練って作った高カロリーの非常食も持っていました。
それだけでなく、梅干しと砂糖を元に作った非常食・水渇丸で・・・酸味と唾液を分泌させ、のどの渇きを癒したといいます。

忍者の真実其の七
くのいちは存在しなかった。
女性がいたという書物は残っていません。

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深い山々に覆われた中国山地・・・
ここは、産地面積が7割を超える日本有数の山岳地域です。
備中松山城をはじめ、山城が点在する全国でも有数の山城地帯です。
鎌倉時代以来、山間の小さな領地を支配した毛利一族・・・
元就は、毛利家の次男として生を受けました。
当初、家督は長男が継ぎ、元就は支えるために分家を相続しました。
しかし、当主が僅か9歳で亡くなったために、1523年元就は27歳で毛利家の家督を継ぐことに・・・
元就は、若い頃から文学を好み、軍術奇計を嗜んでいたようです。

毛利の居城・郡山城・・・元就は、この小さな山城を拠点にした国人領主でした。
室町幕府の元、領国支配を担ったのが、守護大名で、その代理で現地に向かったのが守護代でした。
守護代の元、土地を治めていたのが、多くの国人領主でした。
この体制が大きく揺らいだのが戦国時代で、室町幕府の権威に頼らず、実力で領国経営の実権を勝ち取っていくのが戦国大名です。
一般的に戦国大名になるコースは3つあります。
①守護、守護大名が戦国大名にスライドする
②守護代が下剋上でのし上がる
③国人領主の国人一揆による戦国大名化です。
毛利元就は、典型的な③でした。
国人領主は、その他大勢のひとりでそこからのし上がっていくのは大変でした。
当時の中国地方は、守護大名から戦国大名となり北九州まで支配した大内、さらに守護代から下剋上を為した尼子、この二つが覇権を争っていました。
国人領主の毛利は、大国の狭間にある弱小勢力にすぎませんでした。
どちらかの勢力に組していなければ生き残れませんでした。
大内と尼子の争いが・・・狭間の国人領主たちは昨日は大内に人質を差し出し、今日は尼子に礼を尽くして心休まる暇がありませんでした。
それは、力を持たない国人領主たちの乱世を生きる術でもありました。
この頃、大内の宿敵・尼子は、備中美作を制圧、播磨や備後にもその勢力を拡大していました。
当時の当主は、尼子詮久。
詮久の隆盛ぶりは・・・”向かうところ敵はなし”と記されています。
元就は、尼子に従属しました。
かつて詮久とは、義兄弟の契りを交わした仲でした。
しかし、その後、尼子を見限り大内の傘下に・・・。
大内方から有利な条件を提示されたようです。
1539年、尼子詮久、毛利討伐を決定!!
裏切り者の元就に対する詮久の報復ともいえます。
しかし、この時叔父の久幸はこう諭しました。
「元就は名将である。
 尼子が攻めかかれば負けとなり、後代までの名折れとなる。
 思いとどまるべし。」と。
それに対し、血気に逸る詮久は臆病者とののしり、その意見を退けました。

1540年9月、尼子の大軍勢3万が国境を越え、元就の郡山城へ・・・!!
大軍の襲来に窮地に陥った国人領主の元就・・・いかに立ち向かう・・・??
合戦後の本人による詳細の記録「毛利元就郡山籠城日記」
その目的は元就自身の活躍を室町幕府に報告するものですが・・・によると・・・
元就が尼子の軍勢を3万としたのは誇張と考えられてきていましたが・・・誇張ではない??
謎の解明の手掛かりとなるのが、航空レーザー測量です。
結果から読み取れるのは・・・??
郡山城の尾根筋には、兵を収容するための曲輪があります。
尼子の城跡の近くにも同じような平たん地・切岸が・・・。
土橋、竪堀・・・尼子軍の城跡は、郡山城の西側に全長6キロに及ぶ山城群を築いていたことが分かりました。
尼子は、圧倒的な大軍で毛利の郡山城を攻めてきていたのです。

尼子の圧倒的な大軍勢に囲まれた元就・・・
この時、収穫時期で、元就は事前に収穫を終わらせ、新米を一粒残らず郡山城内に搬入させていました。
元就はどこに活路を見出すのでしょうか?
尼子につく??
それとも大内につく??
苦悩する元就・・・どうする??

1540年9月5日、尼子の軍勢は無数の山城を築き、郡山城を包囲しました。
この時、籠城する毛利方の兵数は2400と伝わっています。
ポルトガルの宣教師によると・・・
敵の包囲が始まると、貴人も賤民も、権力のある者もない者も、その妻子を連れてすべての人たちが城に身を寄せることになっている。
城下の領民たちも加わり、毛利軍は総勢8000になったといいます。

元就の籠城日記によると尼子勢は城下の村々を焼き払い・・・しかし領民はそれに怯むことなく・・・
言葉戦いを合図に開戦!!
領民と共に籠城した元就は、尼子勢との全面対決を明らかにしました。

おおよそ戦は、軍勢の数によるものではない。
皆が心を一にし、行動を一にすれば大軍勢と言えども畏れることはない。

開戦から7日後・・・再び尼子軍が郡山城下にせまります。
尼子軍は城下に火を放ちます。
それに対し、元就は出撃を命じましたが、多勢に無勢毛利軍は敗走・・・。
追撃に入った尼子軍は途中の多治比川を渡りました。
その時、尼子を毛利の伏兵が襲ったのです。
大混乱の尼子勢・・・毛利勢はこの時、敵の大将を討ち取る金星を挙げました。
どうして作戦が功を奏したのでしょうか?
一つは気象条件。
秋から冬にかけて、朝霧が多く、昼近くまで霧に覆われていることがあります。
郡山合戦にの際に、視界が悪いことが影響していたのではないか?と言われています。
この敗戦によって、尼子詮久が動きます。
本陣を郡山城の本陣の正面に移したのです。
元就と雌雄を決しようとする決意表明でした。

しかし、本陣を移した尼子は、総攻撃をする気配がりません。
毛利を撃退するという強い意志を持っていたのは、詮久の旗本衆や一部の軍勢で、尼子に付き従ってきた多くの国人領主たちは積極的に戦う気がなかったようです。
元就は、城に籠城することなく出撃を繰り返します。
籠城する領民たちの士気を下げさせないためのものでした。
合戦が始まって一月後・・・大内の援軍は来る気配がありません。
この状況を打破する為に、元就は賭けに出ます。
自ら兵を率いて出陣!!
敵本陣めがけて突撃します。
そこにはどんな思いが・・・??
大内に対して、自分たちはこんなに戦っている!!と、見せること。
この戦いの後、大内が動きます。
1540年12月3日、大内の援軍1万が、郡山城の南に・・・!!
元就は、大内の援軍と共に尼子を急襲、敵の軍勢を撃破!!
大打撃を受けた尼子は、この合戦以降凋落の一途をたどります。
4か月以上の戦いは、元就に勝利をもたらしただけでなく、大内の絶大な信頼を受けることに・・・!!
一介の国人領主・毛利元就が、戦国の世に大きな一歩を踏み出した瞬間でした。

郡山合戦の後、領内で大きな問題が・・・
戦いは、あくまでも防衛を目的としていたので、領地が書く出しいたわけではありませんでした。
十分な恩賞を与えることのできなかった毛利元就・・・
家臣からの信頼を失おうとしていました。
その打開策として・・・1546年嫡男隆元に家督を譲ります。
体制を刷新することで、毛利家の信頼を回復させようとします。
元就が三人の我が子に向けた教訓状には・・・
三人の間に少しでもかけ隔てが出来るようであれば、必ず三人とも滅亡すると思った方が良いとあります。
一族間の繋がりこそが肝心だという国人領主だった元就の知恵でした。

1551年9月、大内義隆、謀反により討ち滅ぼされます。
もとなりは、155年10月厳島合戦で、陶晴賢を討ち、大内の領国を奪取することに成功!!

1566年11月、70歳で尼子の居城・月山富田城の戦い!!開城させ、遂に、中国10か国の大大名となりました。
ところが、隆元に向けた元就の書状には・・・
「当家を良かれと思っている者は、他国は無論のこと、当国にも一人もあるまじく候」
誰からも信頼されていないことを自覚していなければ、人の真の信頼を得ることはできない!!
元就がこの世を去ったのは、1571年6月14日、享年75。
それは、国人領主を振り出しに、見事中国山地の覇者となった生涯でした。

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