日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:毛利輝元

水郷の町として知られる福岡県柳川市・・・
江戸時代、柳川藩10万9000石の城下町として栄えました。
城跡には、明治時代に旧藩主が立てた洋館や、江戸時代の壮麗な大名庭園があります。
ここの旅館を経営しているのは・・・柳川藩主・立花家の子孫です。
戦国大名に連なる家が、今も城内の屋敷を守り続けているのは全国でも珍しい・・・。

柳川藩の礎を築いたのは、立花宗茂・・・当今無双の勇士と秀吉に称えられ、西国一の猛将と言われていました。
宗茂の戦歴はすさまじく・・・秀吉の天下統一戦争にことごとく参陣、江戸時代には大坂の陣、島原の乱で活躍し、その武勇を轟かせました。
そんな宗茂の生涯で最大の試練となったのは、関ケ原の戦いでした。
東西両軍の決戦は、わずか半日で終了・・・
宗茂のいる西軍の大敗北に終わりました。
決戦に参加することもできず、宗茂は敗者となりました。
しかし・・・宗茂には秘策が・・・??

福岡県柳川市・・・その中心に水堀に囲まれた広大な敷地に柳川城址があります。
資料館には・・・関ケ原合戦時の立花宗茂愛用の甲冑が残されていました。
その甲冑は、戦いの神・摩利支天を模し、鉄の地金が厚く、実践向きです。
体格は非常に大きく・・・身長175cmから180cmの間ではないかと言われています。
天下無双と呼ばれた武将・・・立花宗茂・・・その武勇は、二人の父親から譲り受けたものでした。
宗茂は、1567年、九州筑前の武将・高橋紹運の長男として生まれました。
宗茂が紹運から譲り受けた刀・・・鎌倉時代の名工長光の剣・・・宗茂が15歳で養子に出されるとき、敵味方に分かれたらこの剣で父を討ち取るようにと言われたという・・・
紹運からは、武将としての覚悟をたたき込まれました。
もう一人の父・養父・立花道雪。
道雪は勇猛果敢で知られているが、彼が与えた刀は、道雪が雷神を一刀両断にしたという名刀・雷切丸。
切っ先が変色しているのは、雷神を切り裂いた証だといいます。
道雪の猛々しさをよく伝えています。
二振りの刀を常に戦場に持ち、武勇に長けた宗茂・・・
道雪から家督を譲り受け立花家を継ぎます。
主は、紹運や道雪が仕えた大友宗麟。
九州北部・6か国を治める大名でした。
海外の文化をいち早く取り入れたキリシタン大名としても知られています。

九州は動乱の時期を迎えていました。
島津が急速に版図を拡大し、大友に迫ってきていました。
同じころ、中央では豊臣秀吉が台頭し、瞬く間に畿内や中国地方を制圧し、四国まで勢力圏を広げていました。
島津の圧迫に・・・1586年4月、大友宗麟、秀吉に救援を求めます。
大友が服属したことで、宗茂も秀吉の配下となりました。
5万の大軍勢を率いて大友領に侵攻した島津軍は、九州の要・筑前に狙いを定めました。
この時、宗茂に任されたのは、北の玄関口・博多湾を押さえる立花山城。
実父・紹運はその先の要衝・岩屋城で南から迫る島津の大軍勢を待ち構えました。
島津軍の猛攻に、紹運はわずか70余りの兵と共に徹底抗戦!!
しかし・・・兵力の差は大きく、7月27日岩屋城は陥落、紹運は自刃し、籠城兵はことごとく討死という非業の死を遂げました。
島津の次の狙いは立花山城・・・大小7つの峰に砦が築かれた山城です。
若干20歳の宗茂は、兵1700と共に籠城しました。
8月、立花山城を囲んだ島津軍は、宗茂に降伏を呼びかけました。
宗茂はこう答えます。
「関白秀吉公のご命令を守るのみ!!
 関白殿を捨ておき、島津に降伏するなど武士のすることではない!!
 実父・紹運はこの義を固く守り、見事に切腹して果てたというのに、自分だけ生き長らえて汚名を天下に伝えるなど、思いもよらぬことである。」と。
宗茂も戦死した父と同じく徹底抗戦を宣言したのです。

大軍勢の島津にどう立ち向かうべきか・・・!!

宗茂には勝算がありました。
籠城から1か月後、総勢20万に及ぶ秀吉の第一陣が九州に迫りました。
秀吉の九州征伐です。
この時を宗茂は待っていたのです。
秀吉軍の到来を聞いた島津軍は、8月25日撤退を開始!!
宗茂はこの機を逃しませんでした。
兵力わずか1500で場外へ出陣!!
撤退するしまずの大軍勢を果敢に追撃!!
宗茂の逆襲は、島津軍には思いもよらないことで、散々に蹴散らされたと言われています。
この時、父の守っていた岩屋城の奪還にも成功しています。
後の秀吉は、宗茂を「真に九州の一物」と、称え、大友の家臣から10万石の大名に取り立てました。
領地は築後の柳川・・・ここに、戦国大名・立花宗茂が誕生したのです。

しかし・・・1588年8月18日、豊臣秀吉死去。
豊臣政権を受け継いだのは、政務を司る五大老と実務を行う五奉行でした。
やがて五大老の筆頭・徳川家康と五奉行の筆頭石田三成の対立があらわに・・・
家康につくのか??三成につくのか・・・??

宗茂に宛てた三成の書状が残っています。
朝鮮出兵での宗茂の功績をたたえたものです。
三成は、宗茂を頼りにしていました。
1600年、家康は謀反の疑いありと五大老のひとり・上杉景勝討伐に動きます。
3万の軍勢を率いて会津に向かいました。
その隙をつき、石田三成は同じ五大老の毛利輝元を総大将に担ぎ出し、反家康の兵を挙げます。
宗茂は迷うことなく三成に味方しました。
「戦いの勝敗如何を問わず。
 ただ、秀吉公の恩義に報いるのみ!!」
宗茂は三成に求められた兵を越える4000の兵を率いて8月に上洛。
8月22日、宗茂達西軍は、美濃大垣に進出。
上杉討伐から取って返してくる東軍の大軍勢を待ち受けるためでした。
ところが西軍の大津城主・京極高次の裏切りが発覚!!
宗茂は三成の要請に従い、大津城攻略に矛先を変えることとなります。
琵琶湖の南に位置し、古くから交通の要所として栄えた大津・・・平地に築かれた大津城は、琵琶湖に突き出た湖上の城・・・。
攻め手の攻撃を阻む三十の堀に囲まれた守りの固い要塞でした。
9月7日、宗茂たちの大津城攻めが始まりました。
これに対し、籠城する京極勢は、夜討ちで対抗しようとしました。
しかし・・・
「立花は西国第一の猛将・・・
 世に知られた武勇の達人
 夜討ちの油断をするわけがない」
京極勢は、宗茂を恐れ、守りに徹したのです。

大津城をいかに攻略するか・・・
宗茂たちが注目したのは城の背後の長等山でした。
日本史上大筒を使用した攻城戦は、大津城の戦いが初めてです。
西軍は、長等山から大津城を攻撃!! 
前代未聞の攻撃に、城内は阿鼻叫喚となりました。
9月15日、大津城は陥落・・・京極高次は降伏し、城を明け渡しました。
宗茂達西軍の完勝でした。
同じ日・・・美濃では東西両軍が関ケ原へ転進。
東軍7万5000、西軍8万が激突!!
天下分け目の合戦・・・関ケ原の戦いの始まりでした。
緒戦は一進一退の攻防が続きます。

しかし・・・西軍に組しながら戦いを傍観していた小早川軍・1万5000が突然西軍に襲い掛かりました。
小早川秀秋の裏切りでした。
結果、西軍は総崩れ・・・戦いはわずか半日で東軍の勝利となりました。
大津城にいた宗茂は、まだこの事実を知りませんでした。

1600年9月15日、関ケ原の戦いに敗れた西軍の武将たちは、戦死する者、敗走する者が後を絶ちませんでした。
宗茂の一代記「立斎旧聞記」には、その後の宗茂の動向が記されています。
翌16日、大津城にいた宗茂に西軍敗北の報せが届きます。
東軍が石田三成の居城・佐和山城を攻めているという情報が入ります。

関ケ原のこと・・・事実であるに違いない・・・
ここは覚悟を決めなければならない・・・

17日早朝、宗茂は大津城を引き払い西へと向かいます。
当時、大坂城には秀吉の遺児・豊臣秀頼と西軍総大将・毛利輝元が対陣していました。
西軍が破れた今、どう行動すべきか・・・??
難攻不落の大坂城に籠城して迎え討つ・・・??
大坂城は北と東に川に守られ、南を低湿地が守る天然の要害・・・
秀吉はここに三重の堀を構え、当時最大の城を築きました。

2003年、現在の追手門近くで巨大な堀跡が発見されました。
幅22m、深さ6mの障子堀です。
障子堀は、秀吉を悩ませた関東の雄・北条氏の築城術です。
侵入してきた敵は、細かく仕切られた堀に手間取り、矢や鉄砲の攻撃にさらされます。
堀に落ちた者には逆茂木が待っていました。
大阪城の主要な出入り口3カ所にこのような堀が作られていたとされています。
秀吉が無くなる寸前に作っていました。
秀頼のことが心配で、城をより強固なものにするために掘られたのです。



大坂城を守る??それとも九州へ帰還??
関ケ原の戦いで毛利は動かず、小早川が裏切ったため、西軍は敗北した。
いくら難攻不落の大坂城とはいえ・・・心が一つでなければ籠城戦は出来ない・・・。
九州に帰還しても、宗茂には勝機がありました。
同じ西軍で、武勇の誉れ高い薩摩の島津義弘と手を組むという方法です。
前年、宗茂と義弘は起請文を交わしていました。

「この度の談合について、心の底から残らず互いに語り合ったことは、一切他言しないこと」

島津家は、そもそも立花宗茂にとっては実父・高橋紹運の敵でした。
しかし、秀吉の九州平定後は、親密な間柄になってきていました。

大坂城に籠城する??
それとも、九州に帰還する・・・??

1600年9月17日、宗茂は大坂城に向かいます。
籠城戦に打って出ることを選択したのです。
早速総大将・毛利輝元のもとに使者を派遣。
しかし、輝元は決断できませんでした。

「これから評議を尽くしてご返答申し上げる」

宗茂はあきれ返りました。

「今から評議するなどとは、ことのほか浅き知恵である
 総大将がそうであれば、とても籠城などできまい」

宗茂は軍勢を連れて九州へ帰還することに・・・!!
これにより、大坂城での決戦は幻に終わりました。

10月、急ぎ領国・柳川に戻った宗茂・・・しかし、新たな苦難に直面・・・
東軍の軍勢・4万に、柳川を包囲されたのです。
東軍の武将・加藤清正が降伏を勧めます。

「兵たちの命は、城主が切腹して助けるというのが武将の大法である」

宗茂は自らの命で城兵を守ろうとしたのです。
しかし、清正は宗茂を生かし、全ての兵を助けることを約束。
宗茂はこれに応じ、城を明け渡しました。

1601年3月、立花家改易。

宗茂は一介の牢人となりました。
しかし、宗茂は諦めません。
自ら上洛し、家康との接触を図り、旧領柳川の復活を目指したのです。
何が宗茂を突き動かしたのか・・・??

宗茂は、養子として立花家(戸次家)に入ってきたのでアウェーでした。
なので、家臣に対して心配りができる武将になっていたのです。
家臣の大半は、その後清正に召し抱えられましたが、二十数人は牢人の宗茂に付き従いました。
この家臣たちを路頭に迷わせないためにも、旧領の回復が必要だったのです。
そんな宗茂を乞うっておかなかったのが家康でした。
敵でありながら、宗茂の武勇と人徳を認めていたのです。

1606年、家康の計らいによって陸奥棚倉・3万石を拝領します。
宗茂は大名への復帰を果たしたのです。
その後、大坂の陣で活躍、1617年将軍・秀忠の御咄衆となります。
徳川家の絶大な信頼を勝ち取っていきます。

1620年11月、宗茂、旧領・柳川に復帰。
関ケ原の戦いから20年の歳月が経っていました。
関ケ原で西軍に属して改易された大名は88家。
立花宗茂だけは、旧領に戻れたのです。

敗軍の将から奇跡の復活を遂げた宗茂は、1643年11月25日、76歳の生涯を閉じました。
江戸から明治、そして現代・・・激動の時代を乗り越え、立花家は今も柳川城の中に生き続けています。

立花家に代々受け継がれてきた宗茂の言葉があります。

「領民の幸せこそ 第一の義とせよ」

その思いは、今も受け継がれています。

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天下人豊臣秀吉の居城・大坂城!!
三国無双と称えられたこの城で、400年前悲劇のプリンスが自害し果てました。
秀吉の息子で後継者の秀頼です。
追いつめたのは、江戸幕府を開いた徳川家康。
どうして家康は豊臣家を潰さなければならなかったのか・・・??

太閤豊臣秀吉には、心配事がありました。
秀頼のことです。
溺愛する息子はまだ6歳。。。
秀頼のために遺書を書きます。

「返々 秀よりこと たのみ申候 
 五人のしゆ たのみ申候

 此ほか にわおもひのこす事なく候」

ここで秀吉の補佐を頼んだ5人とは・・・
徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・・・
豊臣政権を支えていた五大老です。
彼らに遺言を託した秀吉は、1598年8月18日にこの世を去ります。
その後、前田利家は秀吉の言う通り補佐につき、家康は伏見城に於いて豊臣政権の政務を行います。
しかし、最古参の前田利家が亡くなると状況が一変しました。
家康が天下取りに動き出したのです。
当時、大名同士の婚姻は、秀吉によって法律で禁止されていました。
しかし、家康は、自らの勢力を強めるために・・・蜂須賀家、福島家、伊達家・・・婚姻を結びます。
反家康派の家臣たちは激怒し、関ケ原の戦いが起こるのです。
徳川家の東軍と、豊臣家家臣の石田三成の西軍との戦いで、およそ20万が・・・!!
家康側には反石田派の豊臣恩顧の大名も加わり、豊臣家家臣団の内部分裂の側面でもありました。
しかし、秀頼をはじめとする豊臣家は参戦せずに中立の立場を取ります。
戦は半日で決着!!
徳川家の勝利により、家康の天下が近づきました。

徳川家康は大坂城へやってきました。
秀頼に対面してから西の丸に入ります。
これに先立って、家康は、秀頼と淀殿に・・・
「豊臣家は今回の戦には全く関係ないから安心してください。」と伝えていました。
しかし、豊臣家に気付かぬように・・・戦後処理として豊臣家の所領を勝手に分配・・・
秀頼の領地は、摂津・河内・和泉の三か国・・・65万7400石あまりとなってしまいました。
秀吉時代の1/3でした。
その家康が、秀頼の何を恐れていたのでしょうか??

①豊臣ブランド
関ケ原の戦いから4か月後の1601年1月29日、大坂城は賑わっていました。
9歳になった秀頼のもとに、公家や僧侶の中でも地位の高い豪華なメンバーが新年のあいさつに来ていました。
徳川の力が強まっても、彼らは変わらず豊臣家に敬意を払っていました。
庶民たちはもっと豊臣贔屓・・・。
家康が将軍のなる際には・・・
「内府様、将軍になれせられ
 秀頼様 関白に御成之由候
 目出度御事にて候」
と、家康が将軍になるのなら、秀頼はもちろん関白になると考えていたのです。

上方の豊臣人気の理由は・・・。
秀吉が天下人となってから、豪華になり、京都は再び活気を取り戻します。
秀吉が死んだ後も、秀吉に贈り物などして関係を築いていました。
当時日本に来ていたオランダ人も・・・
「大坂の城にいる秀頼さまは、前皇帝の子であり、日本の正当な皇帝である。」
そして、経済都市大坂を領地としている秀頼には豊かな経済力がり、諸大名や庶民から絶大な信頼を得ていました。
秀吉が作った城下町は、商人たちにとっては住みやすい町でした。
再び豊臣の世が戻ってくることを誰もが期待していました。
いまだに人気の豊臣ブランドなのです。
それを、家康は恐れていました。
豊臣家の象徴である秀頼をどう扱うのか・・・??
細心の注意を払う家康です。
なので、年始の挨拶も忘れず、素直に代わらぬ振る舞いをしていました。

その一方で暗躍します。
1600年に公家の九条兼孝が関白になります。
家康が、秀頼を関白にさせないために、仕組んだのです。
関白を武家から返すはじめということ・・・
これは秀吉の意志であったと・・・!!
関白を摂関家に返して、新しい武家関白の誕生を阻止したのです。
征夷大将軍は官位五位相当の役職で、関白は官位一位相当の太政大臣の上位に置かれる役職です。
家康は関白になれるのか・・・??
関白は摂関家でなければなれません。
秀吉は、摂関家になっているので、秀頼には関白になれるチャンスがあるからです。

家康が征夷大将軍になった年、秀頼は関白には慣れませんでしたが、正二位内大臣となりました。
一説には豊臣方をなだめるために家康の計らいだったとか・・・。
そして、この年、秀頼は結婚。相手は、家康の孫であり、淀殿の妹・お江の娘・千姫でした。
この婚姻は、もともと秀吉の遺言でした。
しかし、家康はこの婚姻に協力的ではありませんでした。
薩摩の島津家には、結婚祝いの上洛は無用と伝え、細川家には使者は無用としています。
それでも秀頼の元には多くの祝いの品が届きました。
太閤殿下の御威光はまだ残っている!!
衰えない豊臣人気!!


②豊臣家の財産
豊臣家の居城・大坂城には莫大な金銀が蓄えられていました。
金の量は、国全体の2/3もあったと言われています。
この莫大な財産こそ、家康が恐れていました。
打倒徳川の軍資金となるからです。
そこで家康は豊臣家の財産を減らす策に出ます。
寺社造営です。
家康は秀吉の菩提を弔うと称して自社の造営や修復を勧めます。
秀頼と淀の方は、秀吉が寺社造営を進めていたこともあって、家康の言葉を素直に受け入れます。
積極的に出雲大社をはじめ、名だたる神社仏閣の修復や造営を始めます。
その数およそ100!!
かなりの財産をつぎ込んでいきます。
その一方で、それは、改めて豊臣家の権威を見せつけることとなったのです。

この頃から家康の態度が変わってきます。
毎年行っていた年始の挨拶を止めます。
秀頼に来るように・・・と。
1605年、将軍職を秀忠に譲ります。
これは、将軍家は徳川家が世襲することを示していました。
政権を戻すつもりはない!!と言っているようなもの。
そして、秀忠の将軍就任に際して、秀頼に上洛するようにと言ってきました。
淀殿は、上洛せよというなら秀頼を殺して自分も死ぬと断固拒否!!
我が子秀頼を命がけで守ろうとしました。

まだ13歳の秀頼はどう思っていたのでしょうか??
幼いころから武芸、和歌、漢詩、兵学、儒学・・・あらゆる学問を当第一の学者に学んでいた秀頼は、14歳の時に明王朝の帝王学の教科書「定鑑図説」の和睦本を出版します。
優秀なブレーンアが要ることを示しています。
ひ弱でマザコンと言われる秀頼ですが、聡明で、強い自我と行動力を持っていました。

「自分こそが秀吉の後継者である!!」という強い思いが・・・!!

そして、その意志は住吉大社の造替工事にも見受けられます。
ここはかつて秀吉の母の大政所の病気平癒と延命祈願をした場所です。
住吉大社を建て替えることで、秀頼は豊臣家再興を願ったのです。
そんな秀頼に、牙を剥き出す家康・・・
駿府城三の丸の工事を始め、他の外様大名と同じように、秀頼にも労働力を差し出すように命じてきます。
しかし、秀頼は冷静で・・・年始や七夕には人を遣わして挨拶をします。
人々はそんな秀頼を”年長ずるに従い知勇加わる”と言いました。
豊臣家当主として年々頼もしくなっていく秀頼・・・!!

ある日・・・京の町に落首が・・・
”御所柿は 一人熟して 落ちにけり
          木の下にいて 拾ふ 秀頼”
御所柿とは、駿府城に隠居し大御所となった家康の事。
老いていく家康が自然と地に落ち、その政権を秀頼が拾うと・・・
二人の年齢差を皮肉り、豊臣家の復活を望んでいるのです。


③秀頼の若さ
1611年、家康は後陽成天皇の譲位の儀式のために、今日に上ります。
そして、秀頼を二条城に呼び出すのです。
秀頼は、それに応じ3月28日午前8時、二条城に到着。
一説には庭まで出迎えたという家康。
最後にあったのは11歳の時でしたが・・・19歳の秀頼は、身長197センチの大男に成長していました。
家康に続いて城内に入った秀頼に対し・・・
「ささ・・・お先に。」家康は秀頼を先に会見の場所に通し、対等の立場で話そうというのですが・・・。
秀頼はそれを頑なに断り、家康に上席を譲りました。

家康の二条城に秀頼が赴くということは、既に秀頼は家康より下の立場から・・・なのに、家康も対等に・・・と思うのですが、この時点では、家康の方が位が上でした。
秀頼の方が下に座るべきであろうと秀頼は家康に正しい礼を取ったと言えます。
先に秀頼を家に通そうとした家康の罠で・・・先に秀頼が入っていれば、礼節をわきまえない無礼な男として非難されるところでした。
そんな家康の策にはまらず、冷静に、自分の立場をわきまえて対応します。
2時間に及んだ会見で、合間には食事も・・・。
家康は、豪華なものでは遠慮がちになると吸い物だけを振る舞います。
ここでも秀頼に気を遣っているようで・・・会見の最後に家康は言い放ちます。

「太閤殿下の遺言では、秀頼殿が15歳になったら天下を治めていただく約束だったが、先の関ケ原の戦いで我を退治せんとし、起請を破ったのは秀頼殿であるから、約束を反古にされても仕方が無かろう」by家康

関ケ原の原因は秀頼側にあると難癖をつけ、成人した秀頼に天下を渡さないことを宣言。
自らの行為を正当化したのです。
改憲の後、家康は秀頼のことを・・・

「大変かしこい人なり。
 他人の臣下となって、その命令に従う人物にあらず。」by家康

19歳の賢く頼もしい男・・・それに引き換え自分は70歳・・・。

二条城会見の数日後・・・大阪の秀頼の元へ、家康の子供たちが進物を携えてやってきました。
二人に対し秀頼は心のこもった返礼をし、家康にお礼の手紙を送ります。
この手紙は・・・家康に宛てた秀頼の挑戦状・・・??

「次にお会いしたときにお礼をします」と書いています。
その品を直接会って・・・つまり、返礼品が欲しければ、家康が直接会いに来るように・・・との事なのです。

二条城会見を外から見れば、家康に対して礼節を尽くした・・・ですが、家康に対して自分の方が上位であるという手紙の書き方をしているのです。
それは、秀頼と家康の間にしかわからない失礼な手紙でした。
秀頼はかしこい人だ・・・そう思う家康でした。

再建中だった方広寺の鐘・・・。
「国家安康」・・・家康という名が分断され、呪っていると難癖をつける家康。
これが、戦のきっかけになってしまいます。
徳川と豊臣の対立・・・もはや戦は避けられない・・・と、戦の準備が始まりました。
1614年10月、秀頼は莫大な資金を投じ、大坂周辺の米を購入。
武具などを城内に配備するだけではなく、大坂周辺にも壁を築き、籠城の準備をします。
さらに、秀頼は豊臣方について戦ってくれるように早い時点で諸大名に手紙を送っています。
それは、秀吉恩顧・・・毛利、島津、伊達にまで及んでいました。
結局誰一人、秀頼の求めには応じませんでしたが・・・どうして大名は、秀頼方につかなかったのでしょうか?
 
熊野権現の起請文・・・
家康は方広寺の事件以前に起請文を諸大名から取っていました。
徳川家に忠誠を誓う・・・なので、大坂の陣で豊臣方に協力しなかったのです。
結局、秀頼に着いたのは、関ケ原で戦って敗れた浪人たちだけ。
その中には、真田信繁、長宗我部盛親、後藤又兵衛、木村重成、毛利勝永・・・といった名高る武将もいました。
11月19日、戦いの火ぶたが切られます。
徳川方20万に対し、豊臣方10万!!22歳にして初陣の秀頼!!
しかし、それは荒々しい面構えで、総大将として堂々たる立た住まいずまいでした。
かつての秀頼の姿を見て涙する者も・・・。
秀頼は広大な城の各陣を馬で回って兵士たちを激励!!
また戦果を挙げた者には即座に褒美を与え、士気を上げます。
豊臣方は、兵の数では劣りながら善戦!!
巨大な大坂城を前に攻めあぐねる家康。
真田丸らの戦いで、甚大な被害が!!
しかし、徳川方が放った砲弾が大坂城の天守に命中。
その被害を目の当たりにした淀の方が、弱気になり・・・
12月19日和睦成立。
この時、家康が出した条件は、大坂城にいる浪人たちの追放のほか、城の堀の埋め立てでした。
和睦の際の取り決めでは、三の丸の堀と外堀は徳川が埋め、二の丸は豊臣が埋めることになっていました。
しかし、家康はその取り決めを破り、全ての堀を埋めてしまったのです。
本丸だけを残し丸裸となってしまった大坂城!!
徳川軍が退去した後、秀頼はすぐに堀の復旧と戦の準備を始めますが・・・
家康はそれを理由にまたもや出陣!!
行く当てのなかった農民たちが大坂城にいました。
まだ戦うのか・・・??
今度は、秀頼の到着を待ちます。
秀頼は、兵糧や材木を大阪城内に集めます。
火薬を作る準備も!!
豊臣対徳川・・・最後の暑い夏が始まります。

豊臣方5万5000VS徳川方15万!!
圧倒的な兵力差がありました。
それでも秀頼は総大将として本丸正門に陣を構えます。
その姿は、大いに豊臣方の士気を高めましたが、秀頼が出陣することはありませんでした。
この時、秀頼の元へ知らせが来ていました。
戦っていた豊臣の者たちが寝返って、秀頼が出撃すればそれを討つと・・・!!
秀頼は動くに動けなくなって、出陣の機会を失ってしまいました。
しかし、これは、家康のデマで・・・家康の策略にまんまとはまってしまったのです。
豊臣方の形勢は悪化・・・。
真田信繁らの有力武将などが次々と討ち取られていきます。
もはやこれまで!!
秀頼は、出撃し、戦場で討ち死にしようとしますが、周囲に止められ城に留まります。

そして、炎に包まれる大坂城で、母・淀の方と共に自害するのです。
1615年5月8日・・・家康が恐れた男・豊臣秀頼・・・このときまだ、23歳でした。 

焼け落ちた大坂城に秀頼の首はありませんでした。
あったのは、金2万8000枚と、銀2万4000枚・・・。
豊臣の財力を削ごうと暗躍した家康でしたが、その財力は、家康の想像をはるかに超えていました。
そして、この戦の後、京や大坂でこんなわらべ歌がはやりました。

花のよふなる秀頼さまを
鬼のよふなる真田が連れて
退きも退いたよ加護嶋へ

真田信繁が、秀頼を鹿児島へ連れていったというのです。
大坂の地を経済都市として栄えさせてくれた秀吉に恩を感じていた町人たちは、彼の愛した息子にはどうか生きていてもらいたい・・・と願っていました。
豊臣人気も、家康の想像をはるかに超えていたのかもしれません。


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敗者の日本史(13) 大坂の陣と豊臣秀頼 [ 関幸彦 ]

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CGで大解剖!激突関ケ原の戦い 徳川家康はいかにして史上最大の戦いに勝利することが [ 成瀬京司 ]

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武将たちがしのぎを削った戦国時代、およそ100年続いた下剋上に終止符を打ったのは関ケ原の戦いでした。
石田三成の西軍8万4000の軍勢と、徳川家康の東軍7万4000の軍勢があい見えた天下分け目の合戦です。
勝ったのは東軍!!
その勝因は、西軍の4人の武将たちによる裏切りがありました。

その中で誰が一番痛手を与えて得をしたのでしょうか?

①小早川秀秋 
②島津義弘
③毛利輝元
④吉川広家

明治時代、日本政府の招聘により来日していたドイツ人将校に関ケ原の布陣を見せたところ・・・
「勝ったのは西軍であろう。」と言いました。
西軍は、石田三成が笹尾山に、他の武将たちはその周りに・・・鶴翼の陣で、重要な山をすべて押さえていました。
迫りくる東軍を山の上からけん制し、平地に追い込んで一網打尽にしようと考えていました。
一方東軍は、家康以外はほとんどが平地に布陣。。。
両軍の配置は・・・西軍の方が圧倒的に世おりな状態で始まったのです。
圧倒的に不利な東軍・・・しかし、それがひっくり返るのですが・・・
松尾山に布陣したのは小早川秀秋1万5000。
三成の傍にいたのは闘将・島津義弘。
家康のすぐそばにいたのは、吉川広家。
さらにその後ろにいたのは毛利軍でしたが・・・ここに、西軍の大将である毛利輝元はいませんでした。
この時、輝元は大坂城にいたのです。

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①小早川秀秋
1600年9月15日午前6時・・・
雨もやみ、深い霧が立ち込める中・・・15万の軍勢が睨み合っていました。
そして午前8時・・・天下分け目の戦いの火ぶたが切って落とされます。
一進一退の攻防が続くこと2時間・・・早く膠着状態を打開したい石田三成は、松尾山に布陣している小早川秀秋に攻撃を仕掛けるように合図します。
しかし・・・小早川は動きません。
再三の出撃命令にも攻撃しない小早川にいら立ちが募る三成・・・。
この時、小早川に苛立っていたのは・・・東軍の大将・徳川家康でした。
小早川は、戦の前から家康と内通し、東軍に寝返るように説得されていたのです。
開戦から4時間後の正午・・・業を煮やした家康は、小早川軍に向かって鉄砲を打ち込ませます。
世に言う家康の問鉄砲です。
小早川はこれにひるみ、寝返りを決断、味方である西軍に襲い掛かったと言われていますが・・・
関ケ原の平地から松尾山までは1.5キロ・・・火縄銃の有効射程はたかだか100m。
弾は届きそうにありませんが・・・小早川は銃声に怯んだのでしょうか??
戦の時は、怒号や銃声が飛び交っています。
大筒の音さえも聞こえにくかったようですが・・・
家康の問鉄砲が後世の創作だったとすると、どうして寝返るまでに4時間もかかったのでしょうか??

三成からは、勝った暁には関白の地位と、上方に2ヵ国を加増すると褒賞を約束されていました。
悩む小早川は、戦局をうかがっていたので4時間もの間動かなかったのです。

そもそも小早川はどうして家康と内通したのでしょうか?
豊臣秀吉の正室ねねの甥である小早川秀秋・・・
3歳の時に跡継ぎのいなかった秀吉の養子となり、ねねの手で大切に育てられましたが・・・
秀吉の側室淀の方が秀頼を産むと、状況は一変!!
13歳で有力大名・小早川隆景のもとに養子に出されてしまいます。
さらに秀吉から・・・もう一人の養子であった秀次と、謀反を企てた嫌疑をかけられます。
秀秋も、丹波亀山10万石を没収されてしまうのです。
謀反は秀吉のでっち上げ・・・??
自分を疎んじた秀吉を恨んでいたのかもしれません。

丹波亀山を没収された秀秋ですが、その後、養父・小早川隆景から領地の一部の筑前などを受け継ぎます。
そして、15歳で秀吉の命で朝鮮出兵!!
ところが帰国すると、いきなり筑前30万石から越前北ノ庄15万石への減俸・転封を命じられたのです。
一説には石田三成が、朝鮮における秀秋の失敗を大げさに報告したと言われています。
秀吉と三成を恨んでいた・・・??

小早川が寝返ると、近くにいた脇坂・朽木・小川・赤座も寝返ります。
大混乱の西軍・・・2時間後、東軍の勝利が確定します。
家康は、この機を逃さず総攻撃!!
これに焦った石田三成は、なぜか、開戦から傍観している薩摩・島津義弘に出陣を命じます。
ところが、島津も動かなかったのです。

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②島津義弘
朝鮮出兵では、7000の兵で20万の明と朝鮮の兵を破った島津軍・・・
しかし、関ケ原の戦いに参加したのは、僅か1500の兵でした。
それは、この時義弘が、兄・義久と対立し、島津家が二分していたからです。
義久は、中央勢力とは距離を置いた方がいいと考えていました。
なので、義弘に対して、国元の軍勢を送ることはなかったのです。
鬼の島津こと、島津義弘66歳・・・。
百戦錬磨の武将ですが・・・1500の兵で戦っても勝ち目はないと動かなかったのです。

そして三成との確執・・・
合戦前日の出来事です。
西軍は大垣城に・・・東軍は美濃赤坂宿付近に陣取り、杭瀬川を挟んで前哨戦が行われました。
結果は西軍の大将・・・兵たちの士気は大いに上がります。
そこで島津義弘は三成に進言します。
「勢いをそのままに、夜襲をかけてはどうか?」
これに対し三成は・・・
「夜襲はかけぬ!!」でした。
この時三成は、家康の軍は大坂城へ向かうのでは??という情報を掴んでいました。
それを阻止する為に、先回りをしたかった・・・関ケ原で東軍を待ち構えることになったのです。
1500の兵の島津軍を頼りにできないと考えていました。
前回、墨俣の戦いでも置き去りにされてしまった義弘・・・軽んじられた義弘・・・。
三成に対して不信感を持っていたのです。

午後二時・・・西軍は総崩れ・・・
主力が次々と敗走し、多くの武将たちが討死・・・。
これを見た島津義弘は、
「さて・・・われらも如何にここから脱出するか・・・」
その大脱出劇が島津の退き口です。

関ケ原は6つの街道が交わる交通の要所です。
西への逃走ルートは三つ・・・
❶北国街道へ向かう北西ルート
この道は、敗走していく西軍と、追いかける黒田長政の軍、細川忠興の軍で溢れていました。
❷中山道の南西ルート
東軍に寝返った小早川秀秋の軍が占拠。
❸伊勢街道の南東ルート
ここには前線まで来ていた徳川本隊が待ち構えていました。
井伊直政、本多忠勝・・・猛者たち相手に1500の兵では討死しに行くようなもの・・・
しかし、鬼の島津は・・・敵中突破!!
島津軍は笹尾山あたりから南東方向へ進み、徳川本隊の脇を通って伊勢街道へと出ます。
穿ち抜けという戦法で、敵の一点を集中攻撃し、対象の義弘を通した後で捨てがまり戦法へ・・・!!
部隊が残って敵と戦い、その間に本隊は先へ・・・これを何度も繰り返して、距離を稼ぎます。
島津義弘は、こうして井伊直政、本多忠勝らを振り切って、関ケ原を脱出します。
関ケ原から脱出した際には、100人も残っていなかったといいます。

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③毛利輝元
中国地方の半分120万石を治めていた毛利輝元は、九州征伐で大きな成果をあげるなど、秀吉の天下統一に貢献。
秀吉亡き後の政権で、家康と共に五大老を務めるなどしていました。
関ケ原の戦いで、西軍の大将に就任したのは・・・
反家康の三成の要請を受けたからでした。
7月半ば・・・輝元は大坂城に入ります。
三成はこの時、まだ8歳だった秀頼の補佐を輝元に任せ、合戦の際は供に出陣させようとしていました。
関ケ原の合戦は、秀吉の家臣同士の戦いでした。
恩顧の意識が強いうちに、秀頼が出てくることで、こちらの方に大義名分があるということを示したかったのです。
合戦間近、三成は輝元に出陣を要請。
しかし、大坂城に留まる輝元。
代わりにやってきたのは、養子・秀元と1万5000のの軍勢でした。
輝元はどうして関ケ原に来なかったのでしょうか??
色々あります。
淀の方が、幼い我が子の参戦を好まなかったので、補佐役の輝元も出陣できなかった。とか、
大阪城内に、家康と内通していると噂の増田長盛の軍勢がおり、その動向をうかがっていたから。とか・・・

輝元は、秀頼を守るために、大坂城に留まった??

しかし、実のところ、家康を気にして戦う気などなかった??
輝元から家康への手紙には・・・
「三成殿の謀と当方とは関係ない」とあります。
今回の戦いには自分は関係ないと言っているのです。
その真意は・・・どちらが勝ったとしても、毛利家が生き残れるように・・・という思惑はあったようです。
東軍西軍を両てんびんにかけていたのでは・・・??

毛利輝元は、当時、自国の領土拡大に動いていました。
関ケ原に出陣していた蜂須賀家など四国の大名たちに攻め入っていたのです。
東西の面目を保ちながら、自らの野望も叶える・・・そんな戦略家だったのです。

桃配山・・・東軍の大将・徳川家康が最初に陣を置いた場所です。
家康はその周辺に3万の軍勢を配置しました。
その背後にそびえるのは・・・南宮山。
西軍の多くの武将がここに陣を置いていました。
長曾我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家、毛利秀元・・・
兵の数を合わせるとおよそ3万・・・西軍の主力ともいえる軍勢です。
その中で、先陣を任されたのが、毛利家家臣・吉川広家でした。
家康に最も近い場所に布陣していました。

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④吉川広家
毛利秀元をはじめ、安国寺、長束、長曾我部の軍勢は、開戦と共に南宮山を下って家康軍に襲い掛かろうとしていました。
ところが・・・肝心の吉川広家の軍が動きません。
後ろにいた武将が問いただすと・・・
「霧が立ち込めて、敵の姿がみえぬ・・・」
確かに、周囲は深い霧に包まれていました。
しかし・・・数時間後の霧が晴れた後も、吉川は相変らず陣にとどまったままでした。
これに激怒したのが、長曾我部盛親です。
苛立つのも当然・・・吉川が動かないのは大問題でした。
一番槍は、決められていました。
そして、それに従うのが、当時の習わしだったのです。
つまり、吉川が動かなければ、皆、動くことができなかったのです。
吉川に代わって長宗我部に応えたのが毛利秀元でした。
「今、丁度兵に、弁当を食べさせようとしているところじゃ・・・!!」と。
宰相殿の空弁当と言われるエピソードです。

吉川広家は、毛利輝元と同じ毛利元就の孫でした。
二人はいとこ同士だったのです。
吉川家は、父・元春の頃から献身的に毛利家を支えてきていました。
その一方で、吉川は黒田長政とも通じており・・・
早々に東軍有利と見た広家は、輝元に東軍に着くべきだと進言ようとした矢先、輝元は三成らによって、西軍の大将に担ぎ上げられてしまったのです。
仕方なく西軍に着いた吉川でしたが・・・黒田長政の父・官兵衛から書状が届きます。
「上方の大名もみな、家康公に味方します。
 あなたの判断が第一。」
東軍の勝利を確信した吉川は、寝返ることを決断し、家康に約束します。
この密約が、既に戦の前になされていたことは、家康の陣の位置からもわかります。
吉川が陣取っていたのは南宮山の頂上・・・家康の桃配山とは峯続きなので、三万の軍で攻めればひとたまりもなく・・・そんな無謀な布陣ができたのも、吉川が後ろで留めてくれると安心していたからでしょう。

吉川の寝返りの真意は・・・??
家康との間に、毛利輝元の寛大な処遇を内々で求めていました。
毛利本家のことを思っていたのです。
輝元に、大坂城に残ることを強く進言したのもまた、広家なのです。
さらに吉川の裏切りは・・・小早川秀秋にも関係しています。
小早川は吉川が足止めしている情報を手に入れていたので、寝返ることにしたのです。

毛利輝元を大坂城に留まらせ、
西軍3万の軍勢を足止めし、小早川秀秋に寝返りの決断をさせた・・・
もっとも西軍にダメージを与えたのは、吉川広家でした。
真の裏切り者は・・・吉川広家だったのです。
こうして関ケ原の戦いは、僅か半日で東軍の勝利に終わりました。

西軍を裏切った武将のその後は・・・??
関ケ原の戦いを制し、大坂城に入った徳川家康が、東軍の武将たちに褒賞を与えるとともに、西軍方の処遇を決定します。
筑前30万石の小早川秀秋は岡山55万石に加増・・・
しかし、その2年後、小早川は21歳の若さでこの世を去ります。
戦場で切腹した西軍武将の呪いと言われました。

戦は傍観していたものの家康軍に突っ込んだ島津義弘に対しては討伐を考えます。
しかし、周囲の取りなしによって中止。
義弘の隠居を持って領土を安堵します。

西軍の大将・毛利輝元は、吉川広家の根回しもありお咎めなしと思われましたが、身分所領をすべて没収する改易でした。
家康はその領地の一部を吉川広家に与えようとしていました。
これを聞いた吉川は・・・家康に毛利家の存続を直談判し、自分の報奨を辞退します。
その甲斐あって、毛利家は120万石から30万石に減俸されましたが、改易は免れたのです。
毛利家のために尽力した吉川には、毛利家から岩国3万石が与えられました。

数の上でも、陣形でも、最初は勝っていた西軍でしたが、多くの裏切りによって負けてしまいます。
天下分け目の戦いでどちらにつくのか・・・??
それは、大名たちにとって裁量が試される時でした。
日本の歴史を大きく変える関ケ原の戦い・・・
一人一人の心のうちを覗くと、それもまた面白いものです。

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<毛利輝元と戦国時代>歴史シミュレーション 中国大返し 毛利の追撃 (歴史群像デジタルアーカイブス)



1582年6月2日、京都で起きた本能寺の変。
天下統一を目前に控えていた織田信長が、家臣の明智光秀によって非業の死を遂げました。
この時、主君の敵討ちを果たすために、2万もの軍勢を・200キロの道程を僅か7日間で駆け戻った武将・・・それが、羽柴秀吉・・・後の天下人・豊臣秀吉です。
この時のことは中国大返しと言われ、秀吉を天下人へと押し上げた偉業と言われています。

ところが、この偉業には3つの謎があります。

①なぜ秀吉は、毛利の追撃を受けなかったのか。

1582年6月2日、織田信長が天下統一を目前にして無念の死を遂げた本能寺の変。
この時、織田家の主要家臣たちは、全国各地に散らばっていました。
筆頭家老・柴田勝家の目的は北陸制圧!!相手は北国の雄・上杉景勝!!
柴田は上杉の城を落城寸前までに追い込み、戦いを有利にしていました。
関東制圧を任されていた滝川一益は、この時すでに関東の大大名・北条氏政を事実上傘下に治めていました。
大坂にいたのは、信長の息子・織田信孝。織田家重臣の丹羽長秀と共に、四国攻めの準備をしていました。
そして・・・中国地方にいたのが羽柴秀吉!!
中国地方10か国を治める毛利輝元と対峙していました。
岡山県岡山市にある備中高松城・・・当時、秀吉は2万の兵を率いて、毛利の前線基地であったこの城を攻め立てていました。
城に立てこもる毛利勢はおよそ5000!!秀吉の作戦は水攻め!!
山の麓から近くを流れる足守川まで堤を築き、その川の水を溢れさせる・・・そして、城を水没させるというものです。
今も、秀吉が築いた堤の後が残っています。
当時の高さは8メートルに及び、3キロにわたって築いてありました。
この結果・・・もともと周囲に比べて低い所にあった高松城・・・秀吉がその地形を利用して水攻めを実行!!
落城寸前にまで追い込んでいました。
織田軍は、各地で敵と戦いを有利に展開していたのです。
そんな中での6月2日・・・本能寺の変。
絶対的カリスマの織田信長が、この世から姿を消しました。
この衝撃に、各地の状況はひっくり返ります。

北陸担当の柴田勝家・・・信長の死を知ると、自らの城・北の庄城に戻ります。
そして、これまで戦っていた上杉の反撃に備え、自らの城から外に出ることができませんでした。

関東を制圧していた滝川一益はピンチに・・・!!
これまで従っていた関東の大大名・北条氏政が信長の死を知って反撃!!
滝川は北条との戦いに敗れ、関東から命からがら逃げだします。

大坂にいた織田信孝と丹羽長秀の軍も、混乱の極み・・・
信長の死を伝え聞いた兵が、我先にと逃げ出したのです。

主君・信長の敵討ちを討つために、一刻も早く京に向かいたかった家臣たち・・・
しかし、信長の死の衝撃で、自分の身を守ることで精一杯でした。

では、どうして秀吉だけが追撃を受けずに大返しができたのでしょうか?
落城寸前まで備中高松城を追い込んでいた秀吉でしたが、このときすでに城の危機を救うべく、中国地方の覇者・毛利の援軍がやってきていました。
毛利軍は、秀吉軍を取り囲むように、総勢4万もの大軍を動員!!
後方に控えるのは、総大将の毛利輝元!!
しかし、水で囲まれていたこの城を救えずにいたのです。
そのさなかの6月4日・・・秀吉に驚くべき情報が・・・!!
主君・信長の死・・・

秀吉は事態の大きさに驚きながらも、即行動に出ます。
備中高松城城主に残っている記録によると・・・
清水宗治6月4日切腹。
秀吉が信長の死を知ったのと同じ日に切腹・・・すなわち秀吉は、その日のうちに城主の切腹を条件に、早くも毛利との和睦を成立させていたのです。
城主の切腹を見届け、大返しを始めた秀吉。
実はこの時、信長の死を隠したまま毛利と和睦を結んでいました。

和睦から2日後・・・信長の死から4日後の6月6日、毛利輝元が信長の死を知ります。
秀吉との和睦は、信長の存在が前提の和睦。
信長が死ねば、和睦を破棄して秀吉を追撃することもできたはず・・・
しかも、毛利軍は、秀吉軍2万をはるかに凌ぐ4万!!
どうして毛利は追撃しなかったのでしょうか?

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」by輝元

なんと、毛利の援軍は、武器弾薬が底をつき、追撃どころではなかったのです。

これこそが、秀吉の戦略でした。
毛利との決戦の前から、毛利の補給路を断つ作戦を練っていたと考えられます。
実際に、軍勢は来ていたものの、毛利に秀吉との決戦に挑む力はなかったのではないか・・・??

秀吉は毛利と村上水軍の間にくさびを打っていました。
村上水軍のうちの一つ、来島村上氏が毛利氏を裏切ったのです。
その結果、毛利は、備中への補給ができなかったと思われます。

戦いの先を見据えた戦略でした。
秀吉の深謀遠慮・・・それが、衝撃の信長の死を前にしても、対応することができたのです。


②神業ともいえるスピード。

主君・信長の敵を討つために、大返しを始めた秀吉。
その距離は、およそ200キロ。
秀吉はこの距離を軍勢を率いて僅か7日間で走破したと言われています。
伝説と言われているのが出発から姫路城までのスピード。

「6月7日に備中高松から27里離れた姫路まで、1日1夜でたどり着いた。」by秀吉

つまり、秀吉は、110キロをわずか2日で姫路までたどり着いたというのです。
そもそも、2万もの軍勢が僅か一昼夜で110キロの道程を駆け抜けられるものなのでしょうか?
その日付について・・・
秀吉自身の書状には、備中高松城から7キロ離れた野殿から15キロ離れた沼城まで・・・その日付は6月5日・・・通説では、まだ備中高松城にいた日付です。
この書状によれば、5日の時点で、秀吉は既に出発しています。
さらに毛利方にもすぐに秀吉が大返しをしたと思われる書状が残っています。
満願密寺に残っている書状には・・・
「和議が整った
 羽柴は引き退き、我らも途中まで戻っている。」by輝元
とあります。

これまでの通説では、秀吉は毛利が追撃してくるのを恐れて、6日まで滞在して出発したと言われていました。
が、秀吉は、実際には毛利が追撃する能力がないことを知っていたので、6日まで高松場周辺に留まる必要はなかったのです。
6月6日に出発し、一昼夜で110キロ・・・と思われてきた中国大返し伝説・・・
親切では、6月5日に出発していた可能性が高いのです。
僅か和睦から1日で、2万もの軍勢を連れて大返し・・・という、方針の大転換を行ったことになります。

織田信長の死から5日後の6月7日・・・
秀吉は姫路城まで戻り、明智光秀の京都まであと半分の距離まで来ました。
この時秀吉はまたもや、先を見据えた行動に出ます。
身分が低い中間、小者は食料や武器弾薬を運ぶ役を担っていました。
重いものをたくさん運ぶために、速度が遅く・・・
秀吉は大返しが成功するかどうかのカギは、この兵站輸送を担う人が握っていると思っていました。
そこで、中間たちの士気を高めるために、身分にかかわらず、高い報酬を約束したのです。
人ひとり五斗・・・人ひとりが半年食べられるだけの米です。
秀吉は、いろんな場面や場所の状況を常に自分自身が把握して、大返しという大事な時期に、一番力を発揮しなければいけない小者たちこそ大事・・・秀吉の人心掌握術の優れた点です。

6月9日・・・姫路城を出発!!
しかし、その先には大きな問題が・・・。
それは、細川藤孝、高山右近、中川清秀、筒井順慶・・・織田家臣たちの動向です。
京都周辺にいた彼らの多くは、もともと信長を討った明智光秀に近い者たち・・・
つまり、これらの武将たちが光秀に味方して、秀吉に立ちはだかる可能性があったのです。
これらを操ることが、中国大返しのカギに・・・!!

光秀との戦争を考えると、京都と大坂との間で大きな戦争をしなければならない・・・
当然、地元の武将がキーポイントでした。
そこで秀吉は、京都周辺にいる武将たちの動揺を誘うための高度な戦術を始めます。
情報操作・・・
中川清秀に送った書状には・・・
「上様は無事に切り抜けられた・・・」by秀吉
信長が生きているというウソの情報を流して、中川が光秀と合流しないように仕向けたのです。
さらに・・・
「柴田勝家も、急ぎこちらに来るらしい。」by秀吉
動けないはずの勝家がもうすぐ来そうだと伝えているのです。
信長も生きているうえに柴田に来る・・・
この情報コントロールを前に、中川をはじめとする武将たちは、とても光秀に味方することなど出来なかったのです。
普通なら信用しないような情報でも、秀吉の交友関係の広さ・・・情報収集能力のとびぬけていることは信長の家来層には浸透していました。
ありうるのではないか・・・??全面否定のできない情報だったのです。
次々と大返しの生涯を取り除いていく秀吉・・・。

それは、織田家家臣以外にも向けられていました。
明石から家臣に向けた書状には・・・
「洲本城に菅平右衛門が入城した
 彼の城を取り巻いて攻めるべし!!」by秀吉

洲本城とは、淡路島にあった城・・・この城を押さえた菅を攻めろというのです。
菅という海賊衆は、四国の大大名・長曾我部氏の関係勢力でした。
長曾我部元親は、明智光秀と親しい関係にありました。
なので、秀吉は長曾我部と光秀の挟み撃ちを避けるために、淡路島を押さえるように命令を出したのです。
どうして1週間余りで大返しができたか・・・??
それは、すぐに大返しをすると判断したことと、次々と立ちはだかる生涯を取り除いていったからなのです。


その頃光秀は・・・??
6月5日・・・安土城と秀吉の長浜城を占拠
6月7日・・・安土城で勅使の吉田兼見と会見
6月9日上洛して正親町天皇と誠仁天皇に銀子を献上する

この光秀の行動の意図とは・・・??

朝廷は非情に利用価値があったということです。
戦国大名も、新たに支配地域を広げるとき、朝廷から官位を得、自分がそこの支配の正当性を主張したのです。
正当性に疑念を抱かれる場合・・・余計に朝廷は利用価値があったのです。
戦国時代は・・・朝廷の権威よりも「勝てば官軍」の時代でした。
本当に光秀がやらなければならなかったのは、朝廷工作ではなく、秀吉を倒し、自分の強さを天下に示すことだったのですが・・・。
戦国武将にしては・・・文化人・・・??
&やましい心が味方を増やそうと朝廷をバックにしようとしたのかも・・・??


③なぜ秀吉が信長の後継者になれたのか?

信長の死後、信長の跡取り候補は二人・・・信雄と信孝でした。
しかし、秀吉はこの二人を押さえ、信長の後継者になります。
そこには、光秀との決戦を前にした選択が・・・
1582年6月11日(信長の死から9日後)、秀吉は尼崎に到着。
明智光秀のいる京都は目前でした。
そこで、信雄にすぐそこまで来ていることを告げます。
この時秀吉は最後の選択に迫られていました。
信孝との合流です。
信長の息子を総大将に祭りあげれば、秀吉軍の士気は高まります。
が、祭り上げるためには信雄の大坂城に集まらなければ・・・??
そうなると、織田家の権威を前に、秀吉の存在が薄れてしまう。。。

そこで、秀吉はもう一つの選択肢・・・信孝と合流せずに光秀と当たる・・・!?

信長の死後10日の6月12日・・・ついに秀吉が決断!!
信孝と合流せずに、光秀と当たることを決意します。
そしてその日の夕方・・・天王山の麓で、秀吉軍と光秀軍の前哨戦が始まりました。
この日の戦いは、前面衝突する前に、光秀軍が撤退・・・
結果、小競り合いに終わりました。
しかし、主君の敵討ちのために中国大返しを成し遂げた秀吉は人々に大きな衝撃を与えました。
出来るだけ早く、自分が主君の弔い合戦に駆け付けたことを示さなければならない・・・!!
天下を確実に考えていたようです。
信長の死から11日後・・・
1582年6月13日、秀吉、光秀と決戦!!


そこには、秀吉に後れながらも大坂から駆けつけた織田信孝の姿がりました。
だれもが予想しなかった秀吉の中国大返し・・・
もはや、光秀が抵抗できるはずもありませんでした。
戦いは短時間で終わり・・・戦いに敗れた光秀は、逃走のさなか討ち死にしました。

主君織田信長の敵討ちを成した羽柴秀吉・・・その力は、主・織田家さえも凌ぐようになります。

光秀を討った後に、秀吉に宛てた織田信雄の手紙には・・・
「そちらの様子で良きよう決めて連絡してください。
 それで近くへ陣を寄せます。」by信雄

この時、秀吉は光秀軍の残党狩りをしていました。
その秀吉に自分も合流したいので、どうしたらいいのか??指示を仰いでいるのです。
秀吉が光秀を討ち、主体的に行動している・・・軍も大半が秀吉の軍勢・・・。
主人筋の信雄も、秀吉の指示を仰がなければならない関係だったのです。
主君・織田信長の息子たちは、単独で大返しを成し遂げた秀吉に従わざるを得なかったのです。
この後・・・羽柴秀吉は、織田家を飲み込み、天下人への階段を着々と上り詰めていくのです。

これは・・・信長が生きていたとしても、これが一番の正しい行動です。

秀吉はどの段階で天下を意識したのでしょうか??
本能寺の変は起こる前から知っていたのでしょうか??

秀吉が知っていないまでも、畿内でどんなことがあってもすぐに行動できるように・・・
不測の事態・・・あらゆる事態に行動できるように準備していたのではないか・・・??

他の人にはできない、秀吉の情報収集能力の凄さ・・・
信長亡き後の天下取りのビジョンを明確に描けていたこと・・・
秀吉の凄さは速度・・・情報、軍の移動、決断、外交・・・
事は自分一人ではできないということをよく知っている。
秀吉は、四方八方に人脈を・・・秀吉ファンを持っていたこと・・・
普段から気を配っていたこと・・・
人々についてきてもらえる知恵・・・人の気持ちを掴むことが凄さなのです。




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<戦国時代・賤ヶ岳の戦い>大垣大返しから探る秀吉の軍略 (歴史群像デジタルアーカイブス)

<織田信長と本能寺の変>本能寺の変勃発! 織田家臣団が下した決断 (歴史群像デジタルアーカイブス)

義に生きたもう一人の武将 石田三成

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大河ドラマ「真田丸」で、戦国一の頭脳派でした。
関ケ原の戦いで徳川家康に敗北した三成には、悪役のイメージが・・・!!
しかし、近年、人物像が見直されつつあります。
太閤検地、刀狩りは三成の発案だと言われています。

太閤秀吉曰く・・・
「天下にその名をとどろかす 知恵者である」と。

三成が旗印にした”大一大万大吉”は、戦乱の世を終わらせ、誰もが幸せに暮らせる社会を・・・という三成の思いが込められていました。
そんな三成の前に立ちはだかったのが、秀吉と家康です。

天下を統一した秀吉は、三成の思いとは裏腹に、さらなる戦いへ・・・!!
朝鮮出兵!!三成は、従うしかありませんでした。

徳川家康・・・秀吉の死後、天下取りの野望を露にします。
その家康を食い止めようとして敗れた三成・・・!!
理想と現実のはざまで敗れ去った人生とは・・・??

1600年10月21日天下分け目の関ケ原の戦い。
それから16日・・・処刑場に一人の男がいました。
「水をくれ。。。」by三成
「ここに柿がある。これを食え。」by役人
「柿は食わない・・・ 腹を壊すと困る。」by三成
「首を斬られる寸前というのに、あきれたやつめ・・・」by役人

この男が石田三成。
秀吉の右腕として天下にその名を知られた三成・・・。
しかし、秀吉と会った時は、寺の小僧にすぎませんでした。
そんな彼が、秀吉から厚い信頼を得るようになったのでしょうか??


戦国時代真っただ中の1560年。
三成は、近江国で武士の子として生まれました。
長男が家を継ぐ時代・・・次男だった三成は、幼くして寺に預けられました。
三成は、ここで、算術を身に着けます。
当時、近江は、京都と江戸とを結び、京都と北陸を結ぶ交通の要衝で、商業が盛ん。。。寺でも、算術を教えたのです。

1573年14歳の時に、領主・浅井長政が信長に滅ぼされます。
新たな領主となったのが信長の家臣・秀吉でした。
その秀吉と三成の出会いのエピソードは”三杯の茶”。
鷹狩りをしていた秀吉が、たまたま三成のいる寺を訪れました。

お茶を持ってくるようにいう秀吉。
のどか乾いているに違いない・・・と思った三成は、
一杯目・・・大きな茶碗でぬるい茶を。
二杯目・・・中くらいの茶碗で少し熱い茶を。
三杯目・・・小さな茶碗でアツアツの茶。
秀吉の気持ちを考えた三成の心遣いでした。
小姓として召し抱えられることとなった三成。

三成23歳の時・・・本能寺の変!!
信長が討たれ、秀吉が後継者となりました。
ある時秀吉が石高を「500石増やしてやろう。」というと、三成は・・・
「淀川の岸辺に生えている葦をいただきとうございます。
 葦は、付近の住民が刈り取っておりますが、力の強いものが独占して自分のものにしております。
 これを公平に刈り取らせるためには、年貢をかけるのfがよろしいかと存じます。」
当時葦は、すだれやかやぶきなど、生活に欠かせないものでした。
しかし、力の強いものが独り占めしていたのです。
住民が税を払うことで、そこそこ刈り取ることができる=500石を上回る税収が入ってくるということです。

1583年賤ヶ岳の戦い・・・
柴田勝家との戦いで、両軍が睨み合います。
この時秀吉は、柴田軍に追い詰められます。
助けに行かなければ・・・!!
しかし、道のりは50キロ以上!!そのうえ、日が暮れようとしていました。
そこで、軍が向かう村々に先回りし、村人に兵たちの食料を用意させ、夜道を松明を焚かせたのです。
さらに、到着地点に武器を用意します。
兵士たちは、武器をもって移動することなく、サッと行動できました。
三成の活躍によって、秀吉軍は丸二日の道程を5時間で走破したのです。
柴田軍を打ち破ることができました。
美濃の大返しです。
合戦の表舞台で華々しく戦うよりも、こういう仕事に向いているのではないか??と、感じていたようです。
戦いののち、三成は4万石を賜わり、大名となります。

秀吉は晩年、三成を評価し、北近江19万石から筑前筑後33万石へ引き上げ、重要地点の九州へ国替えを・・・破格の待遇・・・大出世を・・・としましたが三成は断ります。

大一大万大吉・・・三成の旗印ですが・・・
「一人が万民のため  万人が一人のために尽くせば この世は大吉になる。」
という意味です。
今のように、ただ戦っているだけでは、農民たちが安心して農業に精を出せない・・・
早く戦のない世の中にしたい・・・そのためには、秀吉さまに早く天下を取ってほしい。。。
そのために、自分は身を粉にして働きたい。と思っていたようです。

理想の実現に向けて一歩踏み出した町・・・堺。。。
1586年27歳で、堺の町奉行に任命されます。
当時この町は、一部の商人たちが牛耳っていました。
町を堀で囲み、傭兵を雇って自営していたのです。
町奉行となった三成は、一部の商人たちの既得権益を奪い、堀を埋め・・・自由な市場を作り上げました。
そして、堺を九州征伐の兵站の拠点としたのです。

1590年秀吉が天下を統一!!
三成は、31歳で北近江の領主に・・・佐和山城の城主となります。
三成が領民に宛てた置手紙が残っています。

・米が多く取れて余った場合は農民のものとする
・不満があれば、三成に直接申し出よ

農民に配慮する一方で・・・

・百姓が村を離れて町人や奉公人になることを禁じる

農民を増やし、生産を挙げようとしたのです。

太閤検地や刀狩りも、三成の考えだったと言います。
農民から武器を取り上げた刀狩り・・・一揆を防止させるとともに、武士や農民と・・・身分を固定させました。
太閤検地では単位を統一し、正確なコメの収穫量を調査します。
米の収穫量を正確に把握することで、税収の安定を図り、大名の不正を防止しようとしたのです。
当時大名は、石高に応じて兵を出していました。
これを嫌って、過少申告するものが後をたたかなったからです。
三成は、自ら全国各地を回り、太閤検地の現場に立ち会ったと言います。

こうした功績が認められ、1598年39歳の時に九州への栄転話がもちあがっていたのです。

「名誉なことですが、お断りさせていただきとうございます。
 私が九州の大名になってしまったら・・・」

家臣宛ての手紙には・・・
九州の大名になってしまったら、これまでのように秀吉さまの下で政務を司る人間が無くなるので断りました。
石田家の人々や、家臣たちの領地が増えないことになるので、後悔もありますが・・、
と書かれています。
 
三成は、どうして仲間の武将から嫌われていたのでしょうか??
天下統一によって、平和な日が・・・三成は、秀吉の右腕として、理想の世界の実現に邁進しますが・・・周囲の目は違いました。
杓子定規で融通が利かない三成に不満を抱く人が多かったのです。

そんな中・・・1591年秀吉が朝鮮出兵を計画!!
日本国内に分け与える領地が無くなってしまったので、海外に領地を求めたのです。
三成は反対でしたが、秀吉に反対することはできませんでした。

武功派の大名達が朝鮮へ出兵!!
戦地からは続々と吉報が・・・!!
しかし・・・敵は一向に降伏しません。
いらだつ秀吉は、三成に現地視察を命じます。
三成が目にしたのは・・・報告とは全く逆の現実でした。
この戦いには勝てない・・・撤退するしかない・・・と考えた三成は、ありのままを秀吉に伝えます。
報告を受けた秀吉は激怒!!
加藤清正らを呼び戻し、謹慎処分としました。
こうして、清正ら武功派の面々は、三成に深い恨みを抱くようになっていきます。

「立てた手柄を全く無視し、苦戦を誇大に報告し、いかにも自分(清正)が怠け者であり、作戦下手であったと報告した。」

中間管理職のジレンマ・・・いじめ・・・

1598年秀吉がこの世を去りました。
三成は、朝鮮で戦っていた大名たちをいち早く帰国させます。
深手を負わず、迅速に帰ってこれたのは、三成の迅速な指示によるものです。
三成は、帰国した加藤清正に・・・
「茶会を開いて戦の疲れをねぎらいたいのだが・・・」
しかし清正は・・・
「俺は7年も朝鮮にいて、食い物も飲み物もお返しするものが何もない。
 せめで稗の粥なら炊いてやるわ。」

茶会には誰も来ませんでした。
武功派には恨みのみが残っていたのです。

秀吉が亡くなった時、秀頼はまだ6歳でした。
三成は、秀頼を守りながら、戦のない世界を目指しますが・・・そこに立ちはだかったのが、天下取りを狙っていた徳川家康でした。
家康は、秀吉が禁止していた政略結婚を次々と進めます。
おまけに、豊臣家の領地を独断で分配。
これに対し三成は、他の有力大名たちと手を組んで、家康を抑え込もうとします。
そんな時事件が・・・
加藤清正ら武功派が三成を襲撃!!
三成を亡き者にしようとしたのです。
この時、仲裁に入ったのが家康でした。
清正らを鎮めた家康は三成に・・・
「今回の騒動は三成殿にも非がある。
 自国に戻って、一、二ねん謹慎されよ。」by家康
襲われた三成の方を処罰してしまいました。
天下は家康のものになろうとしている・・・??

三成は1年をかけ、綿密な作戦を立てます。
まずは全国の大名たちに書状を送ります。
「家康は豊臣政権の決まり事を少しも守ろうとしません。
 太閤様のお決めに背き、何を信頼すればよいのでしょうか?」
家康を見過ごすことは、太閤・秀吉・・・大義に反すると訴えます。
毛利輝元を大将に、その威光の元大軍を組織していきます。

三成の動きを知った家康も、全国の武将に書状を・・・!!
三成が大義を訴えたのに対し、家康は領地を約束します。

そして遂に・・・
家康は大坂城を目指します。
自分たちが反乱軍にならないように、秀頼を支配下に置こうとしたのです。
一方の三成もそれを食い止めようとします。
上杉景勝を味方に付けた三成・・・家康は、背後を上杉に攻められないように2万の軍を関東に置かざるを得なくなります。
家康は、東海道・中山道と二手に分かれて西へ・・・
しかし、中山道の3万8000の軍は、上田城の真田昌幸に行く手を阻まれます。
結局家康は、東海道の7万4000の兵で、関ケ原に臨むこととなります。

三成は真田昌幸に送った手紙には・・・
「家康がたとえ十人登ってきても安心願いたい。
 討ち果たすほかない・・・!!」と、書かれていました。

石田三成の勝敗に関しては・・・徳川軍を追い払ったら勝ち、近畿地方に入れたら負けというものでした。
石田三成の元々の布陣から行けば、家康は①大垣城②南宮山③松尾山の三カ所を突破しないとダメだったのですが・・・

前日、味方の軍を押しのけて、小早川秀秋が勝手に松尾山に布陣。
小早川は味方のはずでしたが、裏切りは予想済み!!
大谷吉継らを近くに布陣させます。
自らも、大垣城を出て、関ケ原に布陣!!
西軍は、西と南宮山(毛利)で、東軍を挟み撃ちにする体制が完成!!
家康は完全に囲まれてしまいました。

1600年10月21日、三成率いる西軍8万4000VS家康府¥率いる東軍7万4000が関ケ原に集結!!
午前8時・・・関ケ原の戦いが始まりました。
一進一退の攻防・・・西軍が東軍を追いつめている・・・??
ここで南宮山に布陣していた毛利が一気に攻め込んで東軍の背後を・・・勝利確実!!
しかし、毛利勢は動かない・・・!!

家康は、毛利勢の先鋒を務める者たちと内通していました。
戦いに参加しないという約束をしていたので・・・本体が足止めを食らってしまいました。
三成のシナリオが狂い始めた瞬間でした。
そこへ、松尾山に陣取っていた小早川秀秋が、攻め込んできました。
さらに・・・小早川に呼応するかのように、味方が寝返って攻撃を仕掛けてきたのです。
西軍は総崩れとなりました。
合戦開始からわずか6時間・・・雌雄は決し、三成軍壊滅・・・。
三成は戦場から姿を消したのでした。
山中をさまよった三成・・・ようやく自分の領地に帰ると、洞窟で再起を図ります。
世話をしたのは地元の農民たち・・・掟書の恩返しをしてくれたのです。
しかし、三成を匿えば、一族郎党皆殺しというお触れが・・・
それでも世話をし続ける農民に対し、
「徳川に差し出せ・・・。」
三成は、かたくなに拒む農民を説得し、居場所を伝えさせたのです。

そして・・・処刑場へ向かうとき・・・

「水をくれ」by三成
「ここに柿がある。これを食え。」by役人
「柿は食わない・・・腹を壊すと困る。」by三成
死ぬ間際に、腹の心配をすることを周囲はあざ笑います。

「大志を持つ者は、最後まで体をいたわる」by三成

関ケ原の戦いから16日・・・1600年11月6日、三成は、京都の六条河原で首を刎ねられました。
40年の生涯でした。

誰もが幸せに暮らせる社会を目指しつつ、志半ばで命を落とした石田三成。。。

「人の心は はかりがたし・・・」by三成


三成の死後の佐和山城・・・関ケ原の戦いの後、徳川方の武将たちは財宝目当てに城に踏み込みました。しかし、そこには何もなかった・・・。
財を成すことに興味のなかった三成。。。

地元の寺に佐和山城で使われていた板戸が残っています。
客人を喜ばせるために表は綺麗に華やかな絵が・・・
しかし、裏側は、墨で書かれた簡素な絵が・・・。
秀吉の右腕でありながら、私利私欲に走ることのなかった三成。。。
その生涯は、ひたすらに人々の幸せを願ったものでした。
 


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