日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:毛利輝元

戦国乱世を収束させ、天下統一を成し遂げた英雄・豊臣秀吉。
秀吉がまだ羽柴と名乗っていた時代、秀吉を評した言葉が西国の雄・毛利氏の書状に残されています。

”秀吉は、合戦はむろんのこと城攻めを得意とした武略に秀でた名人である”

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1580年8月、11年の長きに及んだ織田信長VS.大坂本願寺の戦いがようやく幕を閉じました。
これにより、畿内統一を果たした信長の敵は、東の武田、北の上杉、そして、西の毛利に絞り込まれました。
毛利に対抗する中国方面を担ったのが、織田家の武将・羽柴秀吉・・・後の豊臣秀吉です。
秀吉は、反旗を翻した別所氏の三木城を下し、姫路城を拠点に播磨や但馬の敵を次々に攻略。
そして、毛利との国境・因幡国・・・現在の鳥取県に矛先を向けました。
毛利氏の山陰地方の要となった鳥取城・・・
2021年、復元されたばかりの大手門・・・江戸時代、鳥取藩32万石の格式を誇る重厚な門構えです。
門をくぐると、そこには鉄壁の防御の工夫がなされていました。
江戸時代の鳥取城は、石垣に覆われた山のふもとに築かれた近世城郭で、城郭の博物館と呼ばれています。

戦国時代の鳥取城は・・・??
それは、城の背後を守る久松山の上にあります。
1580年5月、秀吉は1万騎を率いて因幡へ向け進軍を開始しました。
秀吉VS.毛利・・・戦いの前哨戦となる、第1次鳥取城の戦いの幕開けです。
秀吉の進軍と同じ頃、但馬方面を制圧した秀吉の弟・秀長軍は、海から上陸し、織田方に味方した南条氏も西から進軍を開始します。
秀吉軍は、三方から鳥取城に進軍します。
秀吉軍は、怒涛の快進撃で国内の七つの城を陥落させ鳥取城を包囲しました。

当時、鳥取城の城主は、毛利方に与した山名豊国。
かつて山陰地方を治めた名門大名の末裔です。
しかし、秀吉の大軍勢を目の前にして山名氏は、家臣たちの反対を押し切り秀吉に降伏を申し出ました。
秀吉は、わずかな期間で鳥取城を手に入れたのです。
ところが、秀吉が居城・姫路城に帰陣した後、事件が起きました。
同じ年の8月、鳥取城攻めに参加した南条氏に対し、毛利軍が攻撃を開始。
これによって、南城氏は孤立します。
さらに因幡各地で反織田一揆が勃発。

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そして、1580年9月、秀吉に降伏した山名氏が、毛利を支持する家臣たちによって城から追放され、鳥取城は再び毛利方の手に渡ってしまいました。
追放された城主に代わり、毛利本国から新しく鳥取城主が派遣されました。
毛利を支える武将・吉川経家です。
鳥取城をめぐる新たな戦いが、再び始まろうとしていました。

1581年6月下旬、秀吉は総勢2万の大軍勢で再び鳥取城へと進軍しました。
一方、鳥取城に籠城したのは周辺の避難民を含めて4000人ほど。
鳥取城を完全包囲する織田方の付城群・・・その要となったのが、鳥取城の背後に築かれた秀吉の本陣・・・後世、太閤ヶ平と呼ばれた場所です。

1581年7月上旬・・・鳥取城を包囲した秀吉は、それぞれの付城群を土塁と堀でつなぎました。
その防衛線は、なんと総延長12キロ以上に及んだといいます。
どうして秀吉は鳥取城を包囲するための陣城にもかかわらず、大規模な工事を行ったのでしょうか?
太閤ヶ平には不思議なところがあります。
秀吉の本陣には、それぞれ櫓が設けられていたことが分かっています。
ところが、東側の広大な突出した部分には、櫓とは異なる建造物がありました。
天主台があったのでは??と推測されます。
秀吉がここに天主を築いたその理由とは・・・??
この戦いが、毛利VS.織田の決戦になる!!と、計画を立てていました。
太閤ヶ平は、毛利と織田との決戦が実現した時に、織田信長が鳥取にやってくる・・・
そして、織田信長が鳥取で入場する「御座所」として信長のために建てていた特別な陣城出会ったのです。
信長の格式にあう城を造ろうとしていました。
こうした推測を裏付ける資料が残されています。
信長が織田方の武将に宛てた手紙には・・・??
”信長公が御出馬を急いでおられる
 御座所の普請については、日夜油断なく申し付けている”
御座所とは、高貴な人の拠出のことを言います。
秀吉にとってのその人とは、信長に他なりません。

秀吉自身も、信長を迎える準備をした後は自分自身は西の方・・・伯耆の方に兵を進めると言っている資料が残っています。
単なる兵糧攻めと捉えるのではなく、東伯耆まで含めた広い視野・いろんな角度でとらえ直していく必要があります。
つまり、秀吉の目的は、鳥取城を包囲するだけにとどまらず、さらに西へ向かい、国境を越え、伯耆へと侵攻するものでした。
さらに西へ向かって進軍して、どんどんと西に進み、毛利の本隊・主力軍を鳥取に引きずり出してくるという情勢が整えば、すぐさま信長が畿内の軍勢・広域の軍勢を率いて本体が鳥取にやってくる・・・
毛利輝元の軍勢と信長の軍勢が、鳥取で雌雄を決する!!毛利対織田の決戦を、秀吉が主導して行っていく・・・これが描いていた戦略でした。

信長の書状には・・・
”万一、毛利輝元・小早川隆景の毛利本隊が鳥取城へ出陣し、後詰めするようであれば、すぐに我々も出陣し、毛利を討ち果たす予定だ”とあります。
毛利輝元とは毛利家の当主であり、小早川隆景は毛利宗家を支える知将と知られた人物です。

秀吉は、鳥取城を完全に包囲したのち、毛利領である西への侵攻を開始、秀吉は鳥取城救援のため進出している吉川元春と激突、秀吉のこの陽動作戦により毛利本隊は後詰めのために鳥取城に向かいます。
毛利本隊が進出すると、信長本体も鳥取に侵攻。
信長は御座所となる秀吉の本陣に布陣。
両軍が鳥取城を間に対峙し、やがて織田対毛利の一大決戦となる・・・という作戦です。
秀吉が計画した織田対毛利の一大決戦・・・勝利を手にするのは一体どちらでしょうか??

1581年7月、秀吉軍は鳥取城の西に向かい侵攻を開始。
第2次鳥取城の戦いの始まりです。
ところが、毛利方の資料には・・・
”秀吉が攻め寄せたが、毛利方の吉岡氏が無二の覚悟で合戦に及び、羽柴軍50余りを討ち取った”
とあります。
秀吉軍の当初の目的であった西への侵攻は、毛利方の反撃にあって進軍を阻まれてしまいました。
秀吉が西へ進軍して初めて毛利本隊は鳥取城に進出します。
そしてそれに応じて信長本体も進軍し、僚友の一大決戦が行われるという秀吉の作戦計画です。
ところが、秀吉は毛利方の国衆に阻まれ、西への進軍さえままなりません。
これからどうすればいいのか・・・??

一大決戦の計画を進める??
大崎城は、秀吉軍の侵攻を阻止する要となった毛利方の山城です。
毛利方の最前線の守りを固めた城を、攻め落とすのは難しいものがありました。

計画を諦め、城攻めに専念する・・・??
鳥取城さえ陥落すれば、毛利方の武将達も我が方へ与するかもしれない・・・
そうなれば、西への道も自ずから開けるのではないか??

あくまでも計画通りことを進めるべきか??
それとも計画を諦め、鳥取城包囲に力を注ぐべきか・・・??

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1581年7月下旬・・・
西へ向かった秀吉は、毛利方の思わぬ反撃にあい、なんと三度も敗北を喫したと言われています。
秀吉の西への進出は果たされず、その為毛利本隊は動かず、信長の進出も頓挫しました。
秀吉の、織田対毛利の全面戦争の目論見は崩れ去りました。

秀吉は、やむなく鳥取城の包囲に専念し、兵糧攻めを選択しました。
毛利軍は、流通路を確保することが一番のポイントであると見抜いていて、確保する出城を作って守りを固めていました。
それに対して秀吉は、その丸山城の先にある川と海の接点に砦を作り、丸山城に物資が運び込まれるというのを防いでいました。
8月、秀吉軍の鉄壁の包囲戦によって、丸山城では餓死者が続出。
悲惨な状況に追い込まれていました。
一方、鳥取城包囲戦に計画を変更した秀吉軍も、毛利軍と同じく兵糧不足に悩まされていました。
こうした秀吉の窮状を知った信長は、味方の城へ兵糧を確実に入れておけと、船で兵糧を届けさせたといいます。

両軍の我慢比べの決着がついたのが10月下旬・・・
兵糧が先に尽きた鳥取城主・吉川経家は降伏を決断。
自らの切腹と引き換えに、城兵の命を助けました。
鳥取城は、ついに陥落したのです。

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最終的には、本陣山の太閤ヶ平に秀吉はずっといて、鳥取城を兵糧攻めにして落城させました。
それはあくまで最小限の戦果でした。
鳥取城が開城すると、毛利方の国衆も降伏。
秀吉は、なんとか因幡平定を成し遂げたのです。
その5か月後、秀吉は、織田方の大名・宇喜多氏と共に山陽方面の毛利方の城を攻略しました。
三木城・鳥取城に次ぐ、秀吉の三大城攻めのひとつ、備中高松城の水攻めです。
鳥取城の戦いを進化させたこの包囲戦は、水を利用した兵糧攻めでした。
秀吉はこの作戦で、ついに毛利本隊を戦場に引きずり出すことに成功します。
それに応じた信長は自ら兵を率いて出陣することを決定!!
ところが・・・山陽方面に向かうため京に滞在していた信長を悲劇が襲います。
本能寺の変!!
秀吉の企てた織田対毛利の一大決戦は、ついに幻と化したのです。

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今まで大河ドラマに登場した戦国武将の登場回数ベスト3は・・・??

①徳川家康・・・21回
②織田信長・・・17回
③前田利家・・・17回

4位の豊臣秀吉を抑えてランクインしたのが前田利家です。

下剋上はびこる乱世に終止符を打つべく、天下統一を目指した織田信長と豊臣秀吉・・・
前田利家は、その二人に仕え、彼らの偉業を陰で支えた人物とされています。
そんな利家の人生には、4つの転機がありました。




①信長に仕えていた23歳の時

信長か、他の大名か??
尾張国の豪族・前田家の4男として生まれた利家は、15歳で織田信長のそばに仕える近習として召し抱えられます。
その信長の家臣時代の同僚には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)がいて、同い年の2人は終生の友となります。
前田利家の身長は、180センチ以上もあったといわれ、かなりの大男でした。
端正な顔立ちをした若き日の利家は美男子でしたが、派手な拵えの槍をひっさげ闊歩する傾奇者で、けんかっ早い事で有名でした。
気性の粗さと腕っぷしで、戦で数々の武功を上げていきましたが・・・
23歳の時、窮地に陥ります。
発端は、信長が寵愛する茶坊主・拾阿弥が、利家の笄を盗んだことでした。
けんかっ早い利家は、怒りのあまり信長にこう願い出ます。

「拾阿弥は盗人でございます
 あ奴をたたっ斬ることをお許しください」by利家

当然信長は許可しませんでしたが・・・
利家はあろうことか信長が見ている前で、拾阿弥を斬り捨ててしまいました。
これに信長は大激怒!!
利家は、織田家からの追放を言い渡されます。
妻・まつとの間に子供が生まれたばかり・・・
それなのに、利家は、牢人の身となってしまいました。

利家は、食い扶持を稼がなければならず、信長とは別の主君に仕える道もありました。
利家が選んだのは、信長に再び仕えることでした。
利家が追放された翌年・1560年5月・・・
織田信長は、駿河の今川義元と激突!!
桶狭間の戦いです。
織田家がのし上がっていくために、重要な一戦でしたが、利家はその戦に、信長に断りもなく、単独で参戦しました。
武功さえ上げれば処分が解かれると考えた利家は、決死の覚悟で戦い、敵将の首を3つも討ち取りました。
恐る恐る信長にその首を差し出しましたが・・・信長は見向きもせずに利家を無視しました。

それでもあきらめきれない利家は、粘り強く機会を伺い、1年後、美濃の斎藤龍興との戦いに、またも無断で参戦しました。
この戦でも、首とり足立と恐れられた敵将・足立六兵衛などの首2つを討ち取ります。
すると、信長はようやく利家の帰参を許しました。
牢人の身となって、2年の歳月がたっていました。



②本能寺の変で信長が非業の死を遂げた翌年47歳の時

勝家か?秀吉か??
1582年、京都・・・織田信長は、家臣の明智光秀の謀反により、本能寺で自害に追い込まれました。
光秀は、織田家の他の家臣が出払っている隙に蜂起したと言われています。
この時、羽柴秀吉は毛利方が立てこもる備中高松城を、そして前田利家は柴田勝家らと共に上杉方の越中魚津城を攻略中でした。
その為、利家が信長自害の報せを聞いたのは、しばらくたってからのことでした。
本能寺の変の4日後のことでした。

利家は、勝家や佐々成政らと相談の上、自らの領地である能登に帰ることになります。
かつて能登国を支配していた畠山家の旧臣達が、利家が支配する能登国を奪い返そうと動き出していたのです。
京都の光秀を討つための軍勢を差し向けるのは、難しい状況でした。
身動きの取れない利家らに代わり、秀吉は電光石火の早業で備中から京都に戻ると山崎の戦いで光秀の軍勢を打ち破り、信長の無念を晴らしたのです。

本能寺の変からほどなくして、尾張の清州城に織田家の家臣たちが集まります。
そこで、織田家の跡目を誰にするかなどが話し合われましたが・・・
秀吉らが信長の孫である三法師を跡目に推したのに対し、勝家らは信長の三男・信孝が相応しいと主張。
両者譲らない中、結局秀吉が強引に押し切ります。
その後も、秀吉が信長の葬儀を取り仕切るなど、まるで自分が信長の後継者であるかのように振る舞ったため、織田家の重鎮である柴田勝家は秀吉に対し不満を募らせていきました。

勝家と秀吉の対立によって、どちらにつくのか・・・利家は選択を迫られます。
この時、利家は、与力大名として柴田陣営にいました。
しかし、秀吉は、家族ぐるみで付き合う無二の親友でした。
さらに、利家の四女・豪が、秀吉の養女となっていました。
どちらにも近しい利家は、和睦させようと上洛し、秀吉と交渉します。
しかし・・・徒労に終わりました。

信長の仇を討った秀吉と、織田家の重鎮の勝家・・・。

こうして、1583年、近江国・・・勝家と秀吉は、賤ケ岳で相まみえることになります。
利家が選んだのは・・・柴田軍として戦う・・・!!
勝家の与力であった利家が、武士として勝家方につくのは当然のことでした。
しかし・・・羽柴軍の勢いに押され、やがて柴田軍が総崩れとなると、利家は近江から撤退し、息子・利長の領地・越前府中へ逃げ延びます。
そして、翌日、羽柴軍の追手がやってくると、利家は降伏し、そのまま羽柴軍と共に勝家のいる越前・北ノ庄へと進軍します。
秀吉と共に、勝家を自害へと追い込みます。

下剋上の世、戦国時代にあって、大出世を遂げていった前田利家・・・
その裏には、妻・まつの尽力があったと言われています。
能登の末森城が、佐々成政によって攻められた時、利家は戦費がかさむことを懸念し、援軍を送ることを渋っていました。

「家臣ではなく、金銀を召し連れて槍をつかせたら??」byまつ

自分の家臣の命よりお金に執着する利家を痛烈に皮肉ります。
ようやく利家は援軍の派遣を決断します。
この戦での勝利が、秀吉の北陸制覇の大きな一歩になったと言われています。

こうしてまつの内助の功を受けながら、盟友・秀吉を支えていく存在となっていきます。

1585年、羽柴秀吉は関白に任ぜられ、豊臣姓を賜り、ここに豊臣政権が誕生します。
秀吉は、京都に豊臣政権の本拠地・聚楽第を造営。
その周辺には、諸だぢみょうの屋敷が置かれ、利家は1年の大半をここで過ごし、秀吉のために働いていきます。
秀吉も、そんな利家を信頼していました。

1587年、秀吉自ら九州平定へ出陣。
留守居として京都を守ったのは利家でした。
実直な働きぶりと、気心の知れた安心感・・・諸大名の中にあって、利家の存在は秀吉にとって特別なものでした。
しかし、2人の関係を脅かすことが一度だけありました。

1590年小田原攻め・・・
上洛の求めに応じない、北条氏政・氏直親子を討つため、秀吉は諸大名を動員し、自らも小田原へと攻め込みます。
利家は、越後の上杉景勝と共に別動隊を編制。
北陸から南下し、北関東に陣取る北条勢力を討ち取るよう秀吉に命じられました。
利家らは、上野国の松井田城、武蔵国の鉢形城などを落としていきました。
しかし・・・利家が、秀吉の怒りを買ったのは、この頃のことでした。

従来の説によると、降伏した北条方の武将を助命するなど、利家の戦い方の甘さに秀吉が不満を持ったからだと言われています。
しかし・・・一緒に戦っていた上杉景勝や息子の利長も連座しているはず・・・
しかし、そんな形跡はありません。
そして、秀吉からとがめられた後も、軍事行動を行っています。
利家に政治的な落ち度があったのではなく、感情的なもつれ、意思疎通の問題など、小さな揉め事の可能性があります。
一説に、ある大名が、利家に関してありもしないことを秀吉に告げ口したことで、秀吉が真に受け怒ったと言われています。
それは、秀吉と利家の仲の良さを妬んでのことだったのかもしれません。
結局、秀吉の側近である浅野長政のとりなしもあって、秀吉の利家への怒りは収まります。

小田原攻めで、北条氏を攻め滅ぼしたことで、秀吉は関東を平定し、東北の諸大名らも臣従させ、天下統一を成し遂げます。
すると、甥の秀次に関白の座をあっさりと譲り、太閤となった秀吉は次なる野望・朝鮮出兵に向けて行動を起こします。
そして、この頃から、秀吉と利家の関係に再び変化がみられることになります。



③信長に代わり天下統一を進めていく秀吉に仕えていた56歳の時
秀吉の朝鮮行き・・・認めるか?止めるか?
1592年、豊臣秀吉は、中国・明を平定するため、朝鮮半島への出兵を命じます。
朝鮮出兵です。
丁度その頃、前田利家は、新しい役目を仰せつかります。
秀吉のそばに付き、雑談の相手などをして秀吉の心を癒すというものです。

隠居した大名や、話術・学問に秀でた者がその任につくのが通例でしたが、利家のように現役の大名が務めるのは異例のことでした。
この頃、秀吉は、親族の死・・・弟・秀長、嫡男・鶴松が相次いで病死。
特に、秀吉の右腕として働いた秀長の死は、豊臣政権にとって大きな痛手でした。
そこで、利家に白羽の矢が立ったのです。
この時、利家の三女が秀吉の側室になっていたため、もはや利家は、秀吉にとって親族のような存在でした。
秀吉は、親族のように信頼できる利家をそばに置くことで、弟・秀長のような相談役になってもらおうと考えたのです。
これによって、利家は、秀長が担ってきた秀吉の暴走を止めるという役目も背負うことになります。

もう一人の有力大名・徳川家康と共に、秀吉について朝鮮出兵の拠点である肥前・名護屋城で・・・
豊臣軍が、朝鮮半島で善戦していることを聞いた秀吉が、なんと自分も海を渡って戦場へ行くと言い出しました。

秀吉の朝鮮行きを容認するのか、止めるのか・・・
利家が選んだのは、止める!!
利家は、家康と共に秀吉を必死で説得し、なんとか思いとどまらせたといいます。
結局、日本側が撤退する形で終わった朝鮮出兵・・・
もし、利家が秀吉を止めていなければ・・・戦は長引き、日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。




④利家が亡くなる直前63歳の時
1593年8月、豊臣秀吉と淀の方との間に秀頼が生まれます。
諦めかけていた跡継ぎの誕生に、もろ手を挙げて喜ぶ秀吉。
しかし、その裏で、秀吉に仕えていた前田利家は複雑な思いでした。
遡ること2年前、秀吉が甥の秀次に関白の座を譲ったことで、誰もが秀吉の跡継ぎは秀次だと考えていました。
しかし、秀頼が生まれたことで、跡継ぎが誰になるか不透明な状況に・・・!!
秀次とも親しい関係にあった利家は、秀次の立場が危うくなることを案じていました。
そんな中、1595年、突如、秀次に謀反を企てたという嫌疑をかけ、関白の職を剥奪、高野山へ追放しました。
秀次は、失意の中自害してしまうのです。
秀次の死によって、跡継ぎが秀頼に決まったことで、秀吉は新しい組織づくりに着手します。
五大老五奉行せいです。
五大老・・・徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝
五奉行・・・石田三成・浅野長政・増田長盛・長束正家・前田玄以
の合議制により、自分が無き後も豊臣政権を維持しようと考えたのです。
さらに秀吉は、一番信頼していた利家を秀頼の後見人・・・傅役に指名しました。
それで安心したのは、やがて秀吉はこの世を去ってしまうのです。

主君であり、無二の友である秀吉の死に、悲しみに暮れる利家でしたが、この時、すでに利家も病魔に侵されていました。
それでも利家は、最期の力を振り絞り、跡継ぎ・秀頼の後見人よしての役割を務めます。
ところが・・・不穏の動きを見せる者が・・・五大老のひとり、徳川家康です。
秀吉の生前から、許可なく大名家同士が結婚することを禁じられていたにもかかわらず、家康は味方を増やそうと自分の親族と、伊達家や蜂須賀家との結婚話を進めていました。

これに怒ったのが、四大老と石田三成ら五奉行でした。
家康のもとにも支持する諸大名が集まり、利家らと家康との間に一触即発の様相が漂い始めます。

家康と戦うのか、それとも和解するのか??
最後の選択を迫られます。
利家が選んだのは、家康と和解するでした。
利家が、病を押して家康の屋敷を訪ね、その後、家康が利家の屋敷を訪問。
双方が和解したのです。
しかし、家康が訪れた際、利家はすでに死の床にありました。
一説に、その際利家は家康に、こう頼んだといいます。

「これが暇乞いでござる
 わしは間もなく死ぬ
 利長のことを頼み申す」

さすがの家康も、この利家の申し出を涙ながらに受け入れたといいます。
その翌月・・・1599年3月3日・・・利家死去。
63歳の生涯でした。

徳川家康が、天下分け目の関ケ原で勝利したのは、前田利家が亡くなった翌年のことでした。
利長は、関ケ原の戦い直前、母親で利家の正室である”まつ”を家康に人質に差し出すことで、家康方につくことを表明。
関ケ原の戦いののち、家康から加賀国の南半分を加増され、併せて120万石を領することになります。
前田家と徳川家は、婚姻関係を結び、両家は良好な関係にあったといいます。

利家と家康の和解は、前田家にとって大きなターニングポイントだったのかもしれません。

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戦国の世に革命をもたらし、天下統一を目指した武将・織田信長・・・

その冷酷な言動ゆえに、魔王と呼ばれて畏れられた信長に、刃向かった男たちがいました。
ひとりは、本能寺の変を起こした明智光秀。
信長が光秀の謀反により命を落としたのは有名です。
しかし、信長が信頼する重臣に裏切られたのはこれが初めてではありませんでした。
本能寺の4年前・・・光秀より先に信長に反旗を翻したのが、摂津国を治めていた荒木村重でした。

荒木村重史料研究 信長公記が村重をおとしめた

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大阪市北西部に位置する池田市・・・ここにはかつて摂津国の有力国人であった池田氏の城がありました。
1535年、池田氏に仕える荒木家に生まれた村重は、優れた武将に成長し、当主になると主君である池田勝正に信頼され、重臣の一人となりました。
村重が仕えていた池田氏は、摂津国北部を支配、畿内や四国で力を有し、室町幕府足利将軍家と対立していた三好勢の傘下にありました。
そんな池田氏や村重たちの運命は、ある男の登場で翻弄されることになります。
尾張の織田信長です。

1568年、天下を狙う信長は、室町幕府再興を目指す足利義昭と手を組み上洛・・・
信長が、三好勢を京都から追い出したことで、義昭が15代将軍に就任します。
この時、池田氏当主の勝正は、京都を追われた三好勢を見限り、将軍となった義昭に寝返りました。
これに、池田氏内の三好派の重臣たちが猛反発!!
謀反を起こし勝正を追放、新たな当主として勝正の弟・知正を据えたのです。
村重は・・・??
三好派側にいたため、池田氏の重臣として残りました。
しかし、義昭が将軍となったことで、摂津国の情勢は大きく変わります。
将軍義昭が、側近だった和田惟政に摂津北東部の支配を任せたことで、北東部の和田氏、北部の池田氏、西部の伊丹氏らが鎬を削る状況となったのです。

1571年、池田知正と和田惟政が、領地争いにより激突!!
この時、敵将の惟政を討ち取ったのが、村重でした。
フロイスの”日本史”によると、発端は和田惟政が荒木村重の領地の境に城を築いていきました。
これによって、村重が激怒、惟政を討ち取って武功をあげることになります。
この戦いで、池田家臣団のその他大勢ではなく、池田家臣団を率いていく代表の地位を固めていきます。
しかし、惟雅の息子惟長が党首を継いだことで、池田氏と和田氏の対立が続くこととなります。

一方、信長もまた敵対する勢力に苦しんでいました。
1573年、三方ヶ原の戦い・・・信長は、徳川家康と手を組み、武田信玄と戦うも完敗・・・
これを知った将軍義昭が、信長を見限り、反信長勢力と手を組んだのです。
信長は、足利将軍家、三好勢、大坂本願寺、浅井長政、朝倉義景、武田信玄にまで包囲される形となり、窮地に追い込まれました。
そこで、将軍義昭に人質を差し出し、和睦を申し出るも、義昭はこれを拒否。
これで戦となれば、信長の敗北は決定的であろうと畿内の武将たちの誰もが思っていました。
そんな中、村重は敗色濃厚な信長方につくことを決意します。

この時、池田氏内で村重と対立関係にあった重臣たちが、反信長勢力となった将軍・義昭方につきました。
そこで、村重は、対立する重臣たちに対抗するため、信長に味方することにしたのです。
池田氏内の勢力争いに勝つため、信長にかけた村重・・・
同じく、将軍・義昭の家臣から織田方についた細川藤孝を通じ織田家に忠節を誓う旨を伝えました。
そんな中、村重は、池田氏と対立していた摂津北東部を支配していた和田惟長を追放。
北摂津最大の実力者となったのです。

荒木村重研究序説?戦国の将村重の軌跡とその時代

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そして1573年3月29日・・・村重は、近江で初めて信長に対面します。

”村重が信長の前に進み出ると、信長は自らの刀を引き抜き、そこにあった大きなまんじゅうを突き刺し、村重の前に差し出した
 すると、村重はひるむことなく、大口を開けてそのまんじゅうを口にくわえた
 これを見た信長は大喜びしたといい、名刀を与え、摂津方面は任せたと、村重が摂津国を支配下に置くことを許した”by陰徳太平記

信長は、将軍・義昭と和睦するため、その交渉役に荒木村重と細川藤孝を起用。
そこには、将軍・義昭に圧力をかけるという狙いがありました。
その思惑通り、将軍・義昭は、疑念を抱きます。
京都に近い摂津の実力者である村重や、それまで自分に仕えていた細川藤孝まで信長についたことで、このまま信長と対立を深めると、都の周りの他の武将たちも寝返るのではないか・・・
そんな、好戦意識の薄れた将軍・義昭を、信長はすかさず攻め、京都から追い出しました。
こうして、室町幕府が滅亡へと追い詰められていきました。
村重の決断は、信長の危機を救っただけでなく、室町幕府滅亡という日本の大きな歴史を変えるきっかけとなったのです。

そうした功績から、村重は、信長の厚い信頼を得て、柴田勝家や丹羽長秀らとならび織田家の奉行を任されます。
さらに、摂津一国を支配する権限を与えられたのです。
これによって、池田氏との立場は逆転!!
池田知正が村重の臣下となりました。
摂津を治める権限を与えられたとはいえ、摂津には、まだ西部を支配する伊丹氏などの武将がいました。
切り取り次第・・・自力で支配領域を広げていかなくてはなりませんでした。

1574年、村重は、西摂津への侵攻を開始。
物流の要所だった尼崎を押さえたことで力を増し、伊丹氏などを滅ぼすことに成功!!
摂津国の統一を成し遂げました。
そんな中、村重は、明智光秀の娘を嫡男・村次の正室に迎えていました。
信長のもとでともに活躍していた外様の光秀との関係を強化することで、新参者である自らを守り、その地位を確かなものにしようとしました。
さらに、村重は織田軍の主力として各地を転戦!!
常に最前線で戦い続けることで、自らの存在を信長にアピールしていきました。

1575年、活躍目覚ましい村重に、信長は播磨国の浦上宗景の救援を命じます。
信長は、備前国の実力者だった宗景を味方にするため、備前・美作・播磨三国の支配権を与えたのですが、宗景には三カ国を治める実力がなく、毛利方の武将・宇喜多直家に次々と城を奪われていました。
信長が宗景の実力を見誤った尻拭いをすることになりましたが・・・
播磨に向かうと、信長の期待に見事にこたえ、小寺氏、別所氏など、播磨の武将たちを説得し、信長への忠誠を誓わせます。
その村重の能力を、信長は高く評価、ますます信頼を置くようになります。
こうして村重は、播磨方面の武将と信長を仲介する取次役として、信長の西国政策に欠かせない存在となりました。

ところが・・・1578年10月21日。
安土城にいた織田信長のもとに、荒木村重が背いたという知らせが届きます。
信長は信じませんでした。
というのも、村重は、織田家代々の家臣ではないものの信長に忠誠を誓い、何度のも窮地を救った功労者だったからです。

謀反のきっかけ①大坂本願寺攻め
1576年、信長と敵対していた仏教勢力・本願寺が、法主の顕如を中心に大坂で挙兵!!
村重は、信長から明智光秀らと共に大坂本願寺攻めを命ぜられます。
村重ら信長軍は本願寺を包囲、何度も攻撃するも落とすことができず、とうとう信長自ら援軍に駆けつけました。
どこまでも力攻めにこだわった信長は、次に行う総攻撃で村重に先鋒を命じます。

「それは、お受けできませぬ!!」

この時、本願寺は、信長と敵対している毛利輝元に援軍を要請しています。
これにたいして、輝元は、兵糧や弾薬を、水軍を使って大坂本願寺に届けようとしていました。
これを見越していた村重は、海からの補給を断つために木津川口を遮断、無益な力攻めではなく、兵糧攻めを行う準備をしていました。
村重が先鋒を断ったのは、もはや力攻めではできないと考え、兵糧攻めの準備をしていたからでした。
しかし、村重が兵糧攻めに変えるよう進言するも、信長は総攻撃を決行したのです。

結果は、またしても失敗!!
結局、兵糧攻めに戦法を変えることになります。

村重の意見を無視し、いたずらに力攻めを行って失敗・・・
兵糧攻めの際も、村重ではなく尾張出身の佐久間信盛を本願寺攻めの司令官に登用。
こうしたことから、信長の人材登用の不公平さを村重は不満に思い始めていました。
おまけに、佐久間信盛は、結局、本願寺を攻め落とすことができませんでした。

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謀反のきっかけ②羽柴秀吉の行動

1577年、信長は、毛利輝元の勢力圏内である山陰、山陽道の侵攻を決断。
その中国方面軍総司令官・総大将に羽柴秀吉を指名します。
これを聞いた村重は・・・怒ります。
播磨方面の武将と、信長の取次役として、信長の西国政策に欠かせない存在となっていた村重が、総司令官になってもおかしくはなかったからです。
さらに、秀吉の行動が村重を怒らせます。
中国方面軍の総司令官として播磨に入った秀吉は、播磨の実力者小寺政職の家臣・黒田官兵衛を参謀役に起用、官兵衛の居城・姫路城を毛利攻めの拠点にしたのです。

これが、信長を見限る決め手となりました。
もともと小寺などを味方につけたのは村重でした。
その功績を無視して、秀吉が小寺氏の家臣である黒田官兵衛と繋がっていく・・・
これは、村重の権益を侵すものでした。
そうして、村重の取次役としての面目をつぶすことになりました。
本来ならば、播磨方面の取次役である村重が、小寺政職に話がいき、その小寺から黒田官兵衛に話がいくのが筋でした。
それを、秀吉は無視して、直接官兵衛を起用してしまったのです。
権益を侵され、メンツをつぶされることは、当時の武将にとってその地域の支配力を失うのと同じことでした。
周囲の武将たちからも、見限られかねません。
そして、なにより村重は、自分を無視した秀吉の行動を、信長が容認したことに腹を立てたのです。
つまり、村重が信長に叛いたのは、尾張出身の家臣を優遇し、功労者の村重を蔑ろにした信長への不信感によるものでした。

村重の謀反が事実だと知った信長は、すぐに説得に乗り出します。

「不満があるなら聞くとつたえよ!!」

そう言って、明智光秀や羽柴秀吉など、錚々たるメンバーを説得に当たらせますが・・・村重は応じませんでした。
すると、信長自ら筆を執り、こう認めたのです。

「天下の面目を失った
 早く出頭せよ
 待っている」

それまで自分に歯向かう者は、実の弟でも殺害してきた信長が、村重を許し、説得して呼び戻そうとします。
それだけ、村重を評価し、天下取りに欠かせない存在と思っていたからです。
しかし、信長の書状にも村重の気持ちは揺るがず・・・
秀吉の参謀役となっていた黒田官兵衛が説得に有岡城にやってくると、村重は官兵衛を有岡城内に幽閉してしまいました。

当時の常識では、外交官・使者は、敵に捕まったら殺されてもおかしくない時代でした。
しかし、官兵衛を殺してしまうと、官兵衛の主君である小寺政職が離反しかねない・・・
そこで、村重は、あえて官兵衛を殺さず、軟禁することで小寺に対し恩を売りつけたのです。

村重は、信長に反するにあたり、味方を増やすための様々な工作を行っていました。
事前に安芸・毛利輝元に同盟を要請、その証として人質を送っています。
さらに、本願寺の顕如とは、同盟を結ぶ際の細かい条件を決めた起請文を作成。
村重は、反信長勢力と結ぶなどして、謀反の準備を進めていました。

1578年10月、織田信長に反旗を翻した荒木村重は、軍勢を有岡城・尼崎城・花熊城などに分け、籠城戦に打って出ます。
対する織田軍は、村重が籠城する有岡城に攻撃を仕掛けると苦戦!!
有岡城が難攻不落!!
村重は、もともと伊丹氏の本拠地であった有岡城を奪った後、大改修を行っていました。
城下町を土塁と堀で囲い込んだ惣構の城とし、周囲に3つの砦を配置するなど、防御機能を最大限に強化していました。
その為、織田軍は城攻めにてこずり、逆に反撃にあって2000もの死傷者を出してしまいました。
力攻めが通用しないと悟った信長は、兵糧攻めに変更します。
しかし、荒木軍は、2年近くも織田軍に抵抗します。
それは、有岡城が難攻不落の城だっただけでなく、援軍があったからでした。
安芸・毛利輝元は、軍勢を摂津に派遣、本願寺も紀伊の傭兵集団である雑賀衆などを送ってきました。
援軍が、海路を通り、尼崎などから上陸、兵糧はもちろん、武器や兵力の補充がなされたことで、荒木軍は長期の籠城戦に耐えることができました。

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そして、もうひとつ、村重の籠城を支えたものは・・・
地元・摂津の領民たちでした。
花熊城には近隣の村々から1000人余りが加勢して立てこもり、六甲山地周辺の農民たちは、海から有岡城への補給路を守るため立ち上がります。
全ては、領主である村重の為・・・
村重は、有事の際、周辺の領民が逃げ込める場所を作るなど、領民思いの領主でした。
その為、領民は信長が主になることを断固阻止したかったのです。

信長は、戦の際に領民たちを総動員させる体制を作らせました。
このような体制が、摂津の領民たちに不信感を抱かせていました。
信長に駒として扱われることを避けたい領民たちは、自分たちを守ってくれる村重に協力することを選びます。
村重と共に戦う・・・となっていったのです。
領民たちが協力したことで、長期の籠城戦に耐えることができたのです。

織田信長に反旗を翻した荒木村重は、居城である有岡城で籠城・・・
対する信長は、織田信忠・羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益など織田軍の精鋭たちを送り込みます。
しかし、そんな織田軍に対し、村重は果敢に猛攻を跳ね返していきます。
ところが、1579年9月2日、村重は突如有岡城を出て、嫡男が守っていた尼崎城へと移ってしまいます。
信長公記によれば、村重は夜陰に乗じて数人の家臣を連れて城を出ます。
妻子や家臣を見捨てて逃亡したと言われています。
この時、備前に宇喜多直家が毛利方から織田方に寝返ったことで、毛利軍は尼崎城、花熊城から撤退し始めていました。
おまけに、拠点の尼崎城が落城することがあれば、村重の有岡城だけではなく、大坂本願寺への補給もたたれてしまう・・・!!
村重は、危機的状況にあった尼崎を守ろうとしたのです。
有岡城を見捨てたわけではありませんでした。

村重は、尼崎城に移ってからも毛利や雑賀に援軍を・・・戦線を立て直そうとしていました。
ところが、村重が家臣・荒木久左衛門や妻のだしに任せた有岡城で誤算が生じます。
村重不在の有岡城で、城兵たちの士気が低下・・・
結束力が弱まったとみた織田軍の武将・滝川一益が、内通社を通じ、有岡城の足軽大将たちを寝返らせます。
そして、惣構えの中に侵入すると、城下町に放火して、本丸だけの裸城にしてしまいました。
もはや、落城寸前・・・!!
すると、村重と姻戚関係にあった織田方の明智光秀がやってきて説得します。

「村重殿、有岡城は間もなく落ちる・・・
 潔く、この尼崎城も明け渡しなされ
 そうすれば、上様は城内の女子供や家臣たちの命を助けると仰せですぞ!!」by光秀

有岡城内の女子供や家臣の命と引き換えに、尼崎城の開城を要求します。

「白を開け渡すことは、出来ぬ!!」by村重

これを聞いた信長は、
「己ひとりの命を惜しみ、開城を拒むとは前代未聞!!」
そう言って、有岡城を落城させると、見せしめのために尼崎城の近くで有岡城にいた家臣やその妻子ら500人余りを処刑!!

”女たちの悲しみ泣き叫ぶ声が天まで響いていた”by信長公記

さらに、信長は村重の妻・だしをはじめとする荒木一族ら30人を京都の六条河原で処刑したのです。
その為、村重は妻子を見殺しにした卑怯者と言われますが・・・
本当に村重は卑怯者だったのでしょうか??

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信長公記によると、開城を拒否したのは荒木村重一人だけの責任のようにしていますが、尼崎城と花熊城には荒木村重の軍勢だけではなく、毛利氏からの援軍や本願寺からの援軍(雑賀衆)がいました。
彼等も籠城していたため、ひとりでは決断できなかったのです。
ひとりの決断で城を明け渡せる状態ではありませんでした。
開城すれば女子供は殺さない・・・というのは、信長の方便だったと思われ、それを知っていた村重は、信長を信用して城を明け渡すことはできなかったのです。

結局、有岡城の女子供は処刑された後、8か月も村重は籠城戦を続けます。

信長公記では、村重のことを恩知らず、卑怯者と書かれました。
わざと村重を悪く書いています。
これは、作者の太田牛一が、信長の家臣であったこと、主君の信長を美化した結果なのです。

1579年11月、有岡城落城。
しかし、荒木村重がこもる尼崎城や花熊城での籠城戦は依然続いていました。
ところが、1580年4月、本願寺・顕如が織田信長と和睦して大坂を退去・・・。
村重が同盟する顕如は、大坂城を開城したことで、織田軍は大坂に張り付けていた軍勢を、尼崎城と花熊城に集中させることができました。
つまり、荒木軍の敗北は決定的となっていきます。
7月2日、花熊城落城・・・すると、村重は、「もはや・・・これまで・・・!!」
村重は、嫡男・村次らと共に尼崎城を出ると、信長の追撃を避けるため、毛利氏の領国へと逃れ生き延びます。
荒木家再興のために・・・!!
こうして2年近くに及んだ籠城戦・・・信長に反旗を翻した村重の戦いは、終わりを告げました。
この時、46歳・・・!!
その後の村重は、表立った行動ははっきりとわかっていません。
しかし、道薫と名乗り、茶人として堺での茶会に参加したことが記録に残っていることから、堺に移り住み、毛利方の交渉役として活動していたと考えられています。

信長に果敢に刃向かった荒木村重は生き延び、1586年5月4日、52歳で死去・・・
荒木家の再興を息子たちに託して・・・!!
しぶとく戦い抜き、生き残ることで再起をかけた荒木村重・・・民を思う優しさと、先を読む鋭さを兼ね備えた武将でした。

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群雄割拠する戦国時代、城攻めの達人と呼ばれたのは、農民から天下人になったといわれる戦国三英傑の一人・・・豊臣秀吉です。
秀吉は、武力よりも知力を重視し、様々な策によって多くの城を攻略・・・中でも、奇策中の奇策といわれるのが、現在の岡山県・・・備中高松城を攻め落とした際の水攻めでした。

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備中高松城攻め~毛利攻略~

ひとつの城を丸ごと水没させたという秘策中の秘策・備中高松城の水攻め!!
まだ、羽柴と名乗っていた頃の秀吉は、どうしてそこまでしなければならなかったのでしょうか?
事の発端は、秀吉の主君・織田信長と中国地方をしはいする毛利輝元との激しい覇権争いでした。
当時の毛利氏は、中国地方を制圧した毛利元就の孫・輝元が当主、叔父である吉川元春・小早川隆景が支えて盤石の態勢を取っていました。
信長と輝元は、互いの出方を見ながらも・・・1575年までは、緩衝地帯である播磨と但馬を挟んで友好関係を保持していました。
しかし、1576年6月・・・信長と敵対していた石山本願寺に輝元が救いの手を差し伸べたことで、その関係は破たんします。
本願寺に兵糧を届けようとする毛利水軍と、それを阻止しようとする織田水軍が激突!!
激戦の末、毛利水軍が勝利します。
どうして毛利輝元は、石山本願寺と結び、信長と敵対することにしたのでしょうか?

信長は、かつての中国地方の支配者・尼子氏を支援して、毛利軍の中国支配をかく乱させようとしていました。
また、信長と対立して京を追われた室町幕府の15代将軍足利義昭が、毛利氏の領国である備後国・鞆に居を構えたことで、織田・毛利の関係は緊張状態にありました。
その為輝元は、信長と争いになる要因があり、対立は避けられないと判断し、先手を打ったのです。

一方、輝元と敵対することになった信長は、毛利征圧の為の中国方面軍を新設。
その司令官に抜擢されたのが、それまで毛利との交渉役を務めていた羽柴秀吉でした。
そして、秀吉は勝つためには手段を択ばず、冷酷なまでの策を講じて毛利方の城を次々と攻略していきます。
同じ年の7月、居城である長浜城から京都に入った秀吉は、手始めに中国攻めの下工作を開始。
毛利氏との緩衝地帯だった播磨の武将を得意の調略で織田方に引き込もうとしました。
この時、秀吉が調略の相手として目をつけたのが、播磨の武士・姫路城城主だった黒田官兵衛でした。
後に、秀吉の軍師となり、天下取りに大きく貢献する官兵衛です。
官兵衛は、長篠・設楽原の戦いでの信長の戦略を高く評価していたため、秀吉に調略されるとすぐに信長方につき、以後は自分が説得役となって、近隣の武将たちを信長方につかせました。

そして翌年・・・1577年10月、秀吉が播磨国に出陣してくると、官兵衛は居城である姫路城を中国方面軍の司令本部として提供、自らは参謀として秀吉に付き従うことにしたのです。
黒田官兵衛の尽力もあり、平定されつつあった播磨でしたが、織田方につくことを頑なに拒み続けた武将もいました。
美作との国境に立つ上月城の城主・赤松政範でした。
赤松は、毛利方についていた備前・宇喜多直家と手を結んでいたのです。
すると秀吉は、大軍をもって上月城に攻め込み、救援に駆けつけた宇喜多軍もろとも完膚なきまでに打ちのめしました。
敗北を認めた赤松が首を差し出しても、秀吉は攻撃の手を緩めず、城兵たちも皆殺しに・・・そして、その子供や妻まで殺害し、亡骸をさらしました。

「刃向かえば上月城のようになる!!」

という毛利方への見せしめでした。

1578年2月、播磨を制圧した秀吉は、毛利氏の勢力圏に突入します。
先鋒を任せたのは、三木城の城主・別所長治でした。
別所は、20万石を誇る播磨最大の大名で、織田と毛利が敵対する以前から信長の従属していました。
ところが・・・出陣直前に反旗を翻し、毛利方に寝返ったのです。
別所長治は、自分こそが中国方面軍の司令官に相応しいと考えていました。
成りあがりものの秀吉を中国方面軍の司令官に抜擢した信長に不満を抱いていました。
また、上月城での虐殺など、秀吉の非情なやり方を快く思っていませんでした。
それらが重なって、毛利方に寝返ったと考えられます。
周辺の武将たちも、次々と信長から離反・・・!!

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中国攻めの中断を余儀なくされた信長は激しく怒り、秀吉に別所を討つように命じます。
そこで、秀吉のとった行動が・・・後に”三木の干殺し”といわれる兵糧攻めでした。
別所が立てこもった三木城の周囲に、40を超えるともいわれる付城を配置、その間に土塁まで設けて三木城の食料補給路を遮断したのです。
それでも、2年近くは耐えた別所勢ですが、1580年1月、兵糧が尽き、餓死者が出るようになると、別所長治はついに降伏・・・三木城を開城し、一族もろとも切腹して果てました。

秀吉が三木城を攻略し、再び播磨を平定したころ、もうひとつの緩衝地帯だった播磨を秀吉の弟だった秀長が平定。
喜んだ信長は、播磨と但馬を秀吉に与えました。

そして、1581年6月、中国征圧に燃える秀吉は、因幡に侵攻・・・鳥取城攻略に臨みます。
ここでも秀吉は、後に”飢殺し”と呼ばれる壮絶な兵糧攻めを行うのです。
その下工作は、実に周到でした。
兵糧攻めを行う前に因幡中の米を買い占めます。
さらに、鳥取周辺の村を焼き払い、領民たちを城内に逃げ込ませます。
その上で、大軍をもって城を取り囲んだのです。
籠城する人数が多ければ当然兵糧のヘリは大きく、しかも、補給する米がどこにもないため鳥取城の兵糧は2か月ほどで枯渇・・・飢餓状態に陥った城内の人々は、草木はおろか、馬まで殺して食べ、それも尽きると死人の肉を貪り食ったといいます。
開戦からおよそ3か月で、鳥取城の城主・吉川経家は降伏・・・
秀吉に、城兵たちの助命を嘆願したのち、切腹しました。

信長の期待に応えるべく、獅子奮迅の活躍を見せる羽柴秀吉・・・
次なる攻撃対象は、備中高松城でした。
1582年3月15日、織田信長から中国方面軍の司令官に抜擢されていた羽柴秀吉は、播磨・但馬・因幡の軍勢およそ2万を率いて姫路城を出陣!!
毛利方についていた備前・宇喜多直家がすでに織田方に寝返っていたため、次なる攻撃目標は備中でした。
対する毛利氏は、備前と備中の国境に立つ七つの城・境目七城(宮路山城・冠山城・高松城・賀茂城・日幡城・松島城・庭瀬城)を整備して、防衛ラインを強化。
その核となる城が、高松城でした。
城主は毛利輝元の叔父・小早川隆景に仕えた清水宗治!!
そして、4月4日、宇喜多氏の本拠である岡山城に立ち寄った秀吉は、清水宗治に降伏を促すよう黒田官兵衛らに命じます。

「戦わずして勝てるなら、それが一番良い」

これ以上、血を流さずに済むならば・・・と、秀吉は考えていました。
その為、官兵衛が宗治に送った密書には、織田方に味方すれば備中と備後を与えると好条件が書かれていました。
清水宗治は、毛利氏譜代の家臣ではありませんでした。
30を過ぎた頃から小早川隆景に臣従しました。
新参者だったのです。
与えられた領地は、備中の東半分・・・秀吉の条件は破格でした。
しかし、密書を読んだ宗治は・・・

「毛利を裏切ることはできぬ・・・!!」by宗治

その理由は・・・4年前の毛利軍による上月城奪還戦に宗治が参陣した時の事。
高松城の留守を預かっていた家老が、織田方に寝返り、まだ幼かった宗治の次男・景春を人質にとるという事件が起こりました。
家老の要求は、上月城攻めからの清水軍の撤退でした。
そんなことはできない・・・宗治は、息子の命を諦めようとしました。
事情を知った小早川隆景が、高松城への帰還を許しました。
宗治は、無事息子を救出することができました。
この一件以来、宗治は、毛利氏・・・特に小早川隆景に対し、ゆるぎない忠誠を誓っていました。
諦めた秀吉は、宇喜多隊1万を加えた3万の大軍と共に岡山城を出陣!!
備前備中の国境を越えると、すぐさま境目七城の攻略に・・・!!
毛利勢の必死の抵抗も、秀吉の強大な戦力には歯が立たず、次々と攻め落とされてしまいました。
4月27日、最後の高松城を秀吉軍が包囲・・・!!
この時、高松城には5000人が籠城していました。
城兵だけではなく、領民も多数いました。
秀吉は、城内にいた城兵や領民たちに、

「今降伏すれば罰することはない」

と、働きかけます。
しかし、誰一人、城を離れませんでした。
清水宗治は、人々から慕われる城主だったのです。
5000対3万!!時間の問題か??
しかし、苦戦を強いられたのは秀吉軍でした。

4月27日、羽柴秀吉は、備中高松城を見下ろす小山の上に本陣を置き、3万の軍勢で城を包囲!!
対する清水宗治は、高松城に籠城・・・!!
毛利氏の援軍が到着するまで城を守り抜き、援軍と共に秀吉軍を討つ!!もしくは撤退させる!!
のが狙いでした。
しかし、清水軍の兵力は5000・・・戦力の差は明らかでした。
午前8時に戦いが始まりました。
劣勢に立たされたのは秀吉軍でした。
小山を駆け下り高松城に突撃したものの、城の周りに広がる沼地に足を取られて思うように動けなかったのです。
高松城は、水に守られた城でした。
すり鉢状の沼地の中に、2mほどの土台を作り、その上に本丸・二の丸・三の丸を並べて建てた難攻不落の沼城・・・
沼地が外堀の役割をはたして、敵の侵入を防いでいました。
ぬかるみにはまって動けない秀吉軍は、籠城する清水軍の格好の的でした。
鉄砲隊が一斉に打ちかけられ、多くの兵が命を失ったのです。
思わぬ惨敗を喫した秀吉は、翌日も果敢に高松城に攻め込みましたが、結果は同じ・・・。
どうしても沼地を攻略できません。
秀吉おそるるに足らずと清水軍の士気を高めてしまうだけでした。
窮地に追い込まれた秀吉は、軍議を開き、そこで黒田官兵衛からこう進言されたといいます。

「水攻めというのはいかがでしょう」

こうして秀吉は、武力による攻略を諦め、沼地に立つという高松城の地の利を逆手に取り、沼に水を注いで水没させるという作戦に出たといわれています。
しかし・・・確かな資料はありません。
黒田官兵衛ではなく、蜂須賀小六が発案者かもしれません。
攻め手を欠いていた秀吉は、この作戦に勝機を見ました。



どうやって水没させるのか??
高松城は、すり鉢状の沼地にあり、三方を山に囲まれていました。
唯一開けている部分に堤防を築けば完全に城を包囲することができるのです。
そして、近くを流れている足守川の水を流しこもうとしたのです。
堤防の築造工事が始まったのは、5月8日でした。
その全長は、3キロに及んだといわれています。
秀吉は、わずか12日間で堤防を完成させました。

岡山県岡山市にある秀吉が築いた水攻めの築堤跡・・・
現在は2mほどの高さですが、完成当時は7mほどもありました。地面に杭を打ち、土嚢を積んで堤防を築く・・・
しかし、重機などない時代、全て手作業で大堤防を築くのには12日間では短すぎる・・・??
毛利の援軍が高松城に迫る中、一刻も早く堤防を完成させたい秀吉は、驚きの方法を取ります。
土嚢を運ぶ農民たちに、やる気を出させるために、土嚢を一つ運ぶごとに米一升と銭百文を支払いました。
これは、当時の農作業の労賃の1日分以上でした。
破格の報酬に喜んだ農民たちが、我先にと土嚢を運んだのは言うまでもありません。
その数はおよそ635万個に及んだといわれています。
さらに・・・もともとあった自然堤防も利用したと考えられます。

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この時、堤防づくりと並行して行われたのが、堤防の内側に足守川の水を入れるための堰の築造です。
大量の石を積んだ船を足守川に並べて浮かべ、その船ごと川底に沈めて川を堰き止めたのです。
そして、5月19日、秀吉は堰を切って足守川の水を一気に堤防の内側に流し込みました。
すると・・・高松城の周囲は見る見るうちに水没・・・
湖面に浮城のようになってしまったのです。
5月19日は、梅雨時でした。
毎日雨が続いて、足守川の水流も増していたのです。

川の水は、高松城内にまで入り、満足に体を休めることもできなくなってしまいました。
しかも、梅雨時・・・水につかった食糧はすぐに腐り、食べられなくなってしまいました。
援軍が来てもなすすべ無し・・・秀吉の勝利は決定的・・・??
しかし、堤防が完成する前に、秀吉は信長に援軍を要請する書状を送っています。
秀吉が水攻めを行ったのは、この時が初めてでした。
今後の戦の展開が読めなかった事・・・
さらに、毛利方の援軍の数がわからなかった事もあって、信長を頼りました。

もうひとつは、信長の性格をよく知っている秀吉は、信長に気を遣った・・・。
信長は、自分以外の功績を妬むところがありました。
秀吉は水攻めの手筈が整ったところで最終的な功績を信長に立てさせようとしたのです。
安土城で、秀吉からの手紙を受け取った信長は、これを了承。
6月上旬に出陣することを決め、その先発隊に選んだのは、重臣の一人であるあの明智光秀でした。

5月19日、羽柴秀吉軍の水攻めによって備中高松城は水没し、完全に孤立しました。
兵糧が尽きて落城するのは時間の問題でしたが、手を焼いた沼地が無くなったことで、秀吉は高松城の周りに船を受かべ更なる攻撃を仕掛けます。
高松城の城主・清水宗治は、屋根の上から応戦するも、全く太刀打ちできません。
そんな中、5月21日、毛利の援軍4万が高松城近くに到着。
高松城を挟んで、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らは陣を敷きます。
しかし、思いもよらない高松城の惨状を目の当たりにして言葉を失いました。
さらに、信長が援軍として備中にやってくることを知った輝元は、もはや打つ手はないと判断・・・
高松城で籠城する清水宗治らを救うため、和睦を求めて僧侶の安国寺恵瓊を秀吉の元に送りました。
多くの戦国大名が、外交役として僧侶を抱えていました。
恵瓊を迎えた秀吉は、和睦を承諾。
しかし・・・その条件として提示したのは、毛利氏にとって厳しいものでした。

①毛利氏が有する8か国のうち備中・備後・美作・伯耆・出雲の譲渡。
②高松城城主・清水宗治の切腹

でした。

恵瓊からこれを伝え聞いた輝元たちは絶句・・・
中でも宗治の主君である小早川隆景は、
「毛利に忠誠を尽くす宗治を見殺しにしては面目が立たぬ」と、宗治の切腹を拒否したため、和睦交渉は暗礁に乗り上げてしまいました。

5月29日、信長は僅かな手勢と共に京都・本能寺に入りました。
ここで数日すごしたのち、中国地方に向かうはずでした。
一方、先発隊を任されていた明智光秀は、6月1日の夕方、丹波亀山城から備中に向けて出陣したのですが・・・

「敵は本能寺にあり」

突如、進路を変えて本能寺に向かったのです。
6月2日、明智光秀・謀反!!
本能寺を襲ったのが、光秀だと知った信長は、「是非に及ばず」といって応戦!!
深手を追うと、燃え盛る炎の中で自害しました。

備中にいた秀吉が、信長の死を知ったのは6月3日夜。
毛利輝元に信長の死を知らせようとした光秀の密使が、誤って秀吉の本陣に迷い込み、秀吉の知ることとなったといわれていますが・・・
密使は、信長の家臣が秀吉に送った飛脚ではないか??と思われます。
信長の突然の死に秀吉は激しく動揺し、しばらくは何も手につかなかったといいます。
そんな秀吉を我に返らせたのが・・・軍師として常に傍らにいた官兵衛でした。

「今こそ好機ですぞ!!」by官兵衛

官兵衛の言葉の意味を理解した秀吉は、すぐに動き出しました。
信長の死が毛利方に知られないように箝口令を敷き、高松城の戦いを終わらせるべく安国寺恵瓊を呼びます。
そして、信長の死をおくびにも出さずに

「信長様の着陣後では和睦は難しく、毛利の存続も危うい」と脅し、その上で

・領地の譲渡は備中・伯耆の折半のみでよい
・清水宗治が切腹すれば城内5000人の命は助ける

という譲歩案を提案しました。
すると恵瓊は、独断で小舟を仕立てて高松城に渡り、秀吉から提示された譲歩案を清水宗治に伝えました。
自らの切腹が求められていると聞いても、宗治は少しも動揺せず、

「毛利の安泰と、家臣や領民の命がこの首ひとつで贖えるのであれば容易いこと」

と、すぐにこれを受諾したといいます。

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秀吉は、安国寺恵瓊に前から金品を送り、意のままに動かしていたといわれています。
その為に、小早川隆景にも知らせずに、独断で清水宗治に会いに行って切腹を決意させたのかもしれません。
この決意を聞いた小早川は困惑したものの、清水宗治の意を尊重し、秀吉の出した和睦条件をのんで血判の誓詞をかわしました。
秀吉の清水宗治の切腹にこだわった理由とは・・・??

当時は切腹が武士にとって名誉の死という認識はなく、制裁という意味合いが強くありました。
自分に逆らったらこうなる・・・ということを、秀吉は知らしめたかったのではないか??と思われます。
秀吉は、清水宗治の切腹で、毛利との和睦を強固なものにしたかったのです。
和睦後、もし、毛利輝元が信長の死を知れば、和睦を放棄して秀吉に牙をむく可能性が高かったのです。
しかし、宗治の命によって結ばれた和睦ならば、毛利方も簡単には破棄できない・・・!!
と、秀吉は考えたのです。
毛利方の追撃を受けることなく畿内まで戻るための布石だったのです。

6月3日夜半・・・
5000人の命を救うため、切腹を決意した清水宗治は、羽柴秀吉に使者を送りこう申し入れます。

「あくる日に切腹いたす故、小舟を一艘いただきたい」

すると秀吉は、

「無二の忠士で比類なき者の願い 何事でも叶える」

そう言って、小舟一艘に加え、酒・肴を宗治に送りました。
その夜、宗治は、浸水していない本丸の上階に家臣たちを集め、秀吉から贈られた酒と肴で宴を開きます。
この時、宗治は、ひげを綺麗に整えていました。
その理由を家臣が訪ねると・・・

「届けられたわしの首を信長が見たとき、無精な男と侮られるのは口惜しいからのう」

そう笑って別れの酒を酌み交わしました。

6月4日、午前10時ごろ・・・
小雨が降る中、宗治は秀吉から贈られた小舟に乗って水面に漕ぎ出でました。
そして、秀吉の本陣近くまで進むと、船上で一さし舞を披露し、辞世の句を読んだといいます。

浮世をば 今こそ渡れ 武士の
         名を高松の  苔に残して
 
武士としてその名を高松の苔のようにしっかりと残してあの世に行こう・・・

介錯人によって落とされた宗治の首は、桶に納められ、同乗していた宗治の兄と弟・介錯人も後を追って自害します。
一部始終を見届けた秀吉は、宗治を
”古今武士の明鑑なり”・・・これ以上ない武士の手本・・・と称賛し、最大限の礼を尽くして埋葬しました。

切腹が、武士の名誉の死になったのは、清水宗治の切腹がきっかけといわれています。
宗治の切腹は、秀吉の心にも強く残り、天下人となった後に宗治の嫡男である景治を1万石で譲ってほしいと小早川隆景に頼んでいます。
景治の方がこれを拒んだため、実現しませんでした。

峯治の切腹を見届けた秀吉は、腹心の武将に高松城を任せ、即座に2万の大軍を率いて京への進軍を開始!!
中国大返しです。

毛利軍が織田信長の死を知ったのは、それから間もなくだったといいます。
秀吉に騙されたことに気付いた毛利軍は、和睦の誓詞を破り捨て、
「秀吉を追撃せよ!!」と、いきりたちました。
しかし、小早川隆景が、「誓詞の血判が乾かないうちにこれを破るのは武士の恥」と、諌め、追撃が見送られたといいます。
清水宗治の切腹にこだわった秀吉の狙い通りだったのです。

こうして秀吉は、毛利軍の追撃に遭うこともなく、岡山=京都間200キロを驚異的な速さで駆け抜け、山崎の戦で明智光秀に勝利。
戦国史に残る奇策・備中高松城の水攻め・・・それは、織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人が入れ替わる歴史のターニングポイントでもあったのです。

岡山県岡山市にある備中高松城址公園・・・
園内には、広々とした蓮沼があり、毎年7月ごろになると可憐な蓮の花が咲き誇ります。
1982年に、干上がっていた沼を復元しようと水を注いだところ、地下で眠っていた400年前の蓮の種が一斉に芽吹いたといいます。
地元では、それを宗治蓮と名付け、かつての主君を今も忍んでいます。

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天下分け目、関ケ原の合戦・・・わずか半日で決着がついたといわれていますが、戦いが行われていたのは関ケ原だけではありませんでした。
この時、遠く九州を舞台にもう一つの関ケ原の戦いが繰り広げられていました。
その主人公が黒田官兵衛・・・秀吉の天下統一を軍師として支えた人物です。
秀吉の死後、全国の武将が東軍と西軍に分かれ、決戦の時が近づいていました。
この時、九州の領主だった官兵衛は、大胆な行動に打って出ます。
蓄えていた金銀によって、9000もの兵を集め、九州各地への侵攻を開始したのです。
領主も兵も関ケ原に赴き、守りが手薄になっていた城を次々と落としていきます。
その勢いはすさまじく、九州に残る敵は、薩摩の雄・島津氏のみとなりました。

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江戸時代の逸話集に、官兵衛がこういったと書かれています。

「家康を攻め滅ぼし 天下を取らんと思わんには いと易きことなり」

果たして官兵衛には、天下取りの野心はあったのでしょうか?
大分県中津市にある中津城・・・豊臣秀吉の九州平定後、この地の領主となった黒田官兵衛が築いた城です。
中津城は、山城ではなく平地に城を築いています。
側には川が流れており、船を通じて色んな物資をそして情報をダイレクトで把握することができます。
物流の大動脈を、城が直接おさえていました。

川と海に面して築かれた中津城。
官兵衛は、大坂との間に早船のルートを作り、上方の情報をわずか3日ほどで手に入れていました。
秀吉死後の権力争いや、石田三成の挙兵についてもいち早く情報を掴んでいたといわれています。
今も残る官兵衛時代の石垣からは、海のそばに強固な城を作るため、官兵衛が施した工夫がみられます。
官兵衛は、長細い石を横に使うのではなく奥に縦に使う・・・川のそばで地盤としては強力でないということに配慮していました。
400年の時を越えて、石垣が今も立派に残っているのです。

もともと播磨国の小領主に過ぎなかった黒田官兵衛。
しかし、豊臣秀吉に仕えて以降、天下統一の参謀役としてその才能を如何なく発揮します。
中国地方の雄・毛利氏との戦いでは、川を堰き止める大胆な作戦で、備中高松城を水没させます。
さらに、本能寺の変が起こるや驚異的な速度での行軍で、中国を大返しを成功させました。
近年発見された賤ケ岳の戦いで秀吉が送った書状・・・
ここでも、官兵衛が戦に加わっていたことが見て取れます。
その後も、四国平定や、九州平定で功をあげ、1587年、豊前6郡(12万石)を与えられます。
しかし、それは、官兵衛の功績からすると少なすぎるとの見方もあります。
その理由については、黒田家が編纂した「黒田家譜」にはこう記されています。

”官兵衛の大志あるを忌給ひ
 其功は大なるといえども
 終に大国を賜わらず”

官兵衛に野心があると秀吉が考えたため、領地を多く与えなかったというのです。
秀吉の官兵衛に対する警戒・・・
それを示す事実がもう一つあります。
領地を与えられた九州は、治めるのが非常に難しい土地でもありました。
秀吉は、九州平定に当たって、国衆や地侍に領地の安堵を約束。
しかし、実際には、検地を強行して隠していた田畑を明らかにし、領地替えを命じるなど、それまでの権益を奪い、支配を強めていきました。
その為、秀吉が送り込んだ領主への反感が高まり、九州各地で大規模な反乱が勃発!!
肥後を与えられた佐々成政は、度重なる反乱によって領地支配に失敗し、秀吉から切腹を命じられます。
官兵衛が領主となった豊前でも、各地で国衆の反乱が起きていました。

中津城の東・20キロの場所にある高森城・・・官兵衛が、豊前を統治するために築いた城です。
城の本丸は、二重の堀によって守られ、迫りくる敵に矢や鉄砲を撃つ櫓台まで設置されていました。
官兵衛は、この高森城のような軍事要塞を各地に設置、それを拠点に反抗する国衆たちを次々と打ち破っていきました。
官兵衛の居城・中津城にある城井神社・・・これは、官兵衛に滅ぼされた武将を祭ったものです。
祭られている祭神は、宇都宮鎮房という戦国武将です。
宇都宮氏は、鎌倉時代から約400年間豊前の地を拠点にして支配をしていました。
新たにやってきた黒田家・・・黒田官兵衛に対して反抗します。
秀吉は、豊臣政権に反抗する国衆への厳しい処分を命令。
官兵衛の、宇都宮鎮房への対応も凄惨なものとなりました。
鎮房と一旦和睦し、中津城に招き入れて、家臣もろとも暗殺したのです。
さらに家族も捕縛し、磔にしてしまいます。

官兵衛は調略を得意として、だまし討ちを好むタイプの武将ではありませんでした。
自分としてはやりたくはなかった・・・
しかし、秀吉の命令で、ジレンマに陥り、その犠牲になったのが鎮房
でした。
秀吉の命令を実行するときには、それに抵抗する者は討たざるを得ない・・・!!
苦しい立場に置かれていました。
秀吉の命令に納得できない思いを持ちつつも、従わざるを得なかった官兵衛・・・
豊前入国から2年後の1589年、領内の抵抗勢力を一掃します。
しかし、この豊前支配での苦悩は、官兵衛にある思いを抱かせました。
九州は、島津氏をはじめとして、古くからの大名と新たにやってきた大名が入り混じった土地でした。
秀吉が、しっかりしていれば統治体制は揺るがないものになる!!
しかし、秀吉に何かあったら・・・豊臣政権の権威が揺らぐようなことがあれば、九州は一波乱ある!!
そのチャンスは絶対来ると、準備をしていたのが官兵衛でした。
稀代の軍師・黒田官兵衛・・・彼は、この九州・豊前の地で、関ケ原の戦いへと向かう時代を眺めていました。

1598年、天下人・豊臣秀吉が死去。
その後、主導権を握ろうとする徳川家康と、豊臣体制を守ろうとする石田三成の間で激しい権力闘争が起こります。
全国の大名は、家康につくか三成につくか、選択を迫られました。
官兵衛が領地を持つ九州では、薩摩の島津、筑後の立花宗茂、肥後の小西行長といった有力大名が西軍につきました。
東軍に与したのは、肥後の加藤清正など少数でした。
そんな中、官兵衛の動きは奇妙でした。
嫡男・黒田長政が正妻を離縁して家康の養女と結婚。
家康につく立場を鮮明にします。
その一方で、西軍の総大将となった毛利輝元の家老に官兵衛は書状を送っています。

”輝元様が大坂城に移ったことは、めでたく存じます
 豊臣秀頼様に別心(二心)ある者は存在すべきではなく、やがてめでたく鎮まることでしょう”

毛利輝元の大阪城入城を讃え、西軍に心を寄せているような言葉を伝えているのです。
歴史の結果を知っている立場からすると、東軍・家康方が勝って当然と思いますが、この時点で現場に置かれていた武将たちにしてみれば、まだ西軍の勝つ見込みがあったのです。
官兵衛にしても、どちらが勝つか見えていない時点では、西軍にもすり寄る必要があったのです。

東軍か、西軍か、立場をはっきりさせない官兵衛・・・

しかし、関ケ原の戦いに向け、着々と準備を整えていました。
家康の元に送った長政率いる黒田軍本隊とは別に、兵を集めました。
蓄えていた金銀によって、新たに召し抱えた浪人は、およそ3600人!!
さらに、領内の百姓からも希望者を募り、総勢9000もの軍を組織しました。
そこに、九州の情勢を変化させる新たな動きが生じます。
かつて豊後国を治めていたながら秀吉に領地を没収されていた大友義統が、毛利輝元の後押しで西軍として九州に戻ってきたのです。
官兵衛は、即座に東軍として動き始めます。
新たに組織した黒田軍を率いて、大友軍に向けて出陣!!
1600年9月13日、現在の大分県別府市で、大友軍と石垣原の戦いと呼ばれる激闘を繰り広げます。
官兵衛は、寄せ集めの兵を指揮しながら、大友の名だたる武将を討ち取っていきます。
9月15日、大友義統降伏・・・
奇しくも関ケ原の戦いと同じ日でした。
その後、官兵衛は、領主と兵が上方の戦いに赴いて守りが手薄になっていた西軍の城を立て続けに攻略。
毛利氏の香春岳城と小倉城も攻め落とし、豊前と豊後、二か国を占領しました。
西軍の多い九州で、東軍となったからこその離れ業でした。

官兵衛は、戦の直前に家康の右腕だった井伊直政から書状を送られていました。

””家康はどこに出兵しても構わないとのこと
 また手に入れた国は与えると仰せになっています”

あらかじめ、家康から手に入れた領地を自分のものにする約束を得ていたのです。
この時の官兵衛は、戦国の論理そのものでした。
戦いに買って、敵地を奪っていく・・・自分の領地を増やしていく・・・
九州各地を荒らしまわって、自分の土地を増やしていこうというものでした。

次に官兵衛の標的となったのは、筑後・柳川の立花宗茂でした。
西軍についていましたが、関ケ原の戦いののち、領地に逃げ帰っていました。
猛将と名高い宗茂が相手でしたが、この頃には、2人の大名が官兵衛に加担するようになっていました。
関ケ原の戦いの前から官兵衛と連絡を取り合っていた肥後・熊本の加藤清正、西軍につきながら関ケ原のたあ他界に参戦せず東軍に寝返った肥前の鍋島直茂です。
三方から責め立てられた立花宗茂は、降伏せざるを得ませんでした。

立花宗茂 戦国「最強」の武将 (中公新書ラクレ 712) [ 加来 耕三 ]
立花宗茂 戦国「最強」の武将 (中公新書ラクレ 712) [ 加来 耕三 ]

関ケ原の戦いからおよそ1か月・・・
九州の大半を傘下に治めた官兵衛・・・残る西軍勢力は、薩摩・大隅を治める島津氏のみとなりました。
関ケ原の戦いに乗じて九州の西軍勢力を次々と撃破していった官兵衛・・・
最後まで残った西軍・島津氏を攻めるため、薩摩へと軍を進めました。
先鋒に選んだのは、降伏させたばかりの名将・立花宗茂でした。
さらに、加藤清正と鍋島直茂、九州の雄の二人の兵も加わり、軍勢は4万を越えました。
しかし、薩摩との国境・水俣まで進軍したところ、家康から思わぬ書状が届きます。

”立花宗茂を召し連れて薩摩へ出陣し、加藤清正・鍋島直茂と相談して戦うとのこと、まず年内は中止することがもっともなことです”

家康は、島津への攻撃中止を求めてきたのです。
島津攻めを前に、大きな選択を迫られた官兵衛・・・どうする??
家康に従う??それとも従わない・・・??

加藤清正と自分が力をあわせれば、島津を押さえ込める自身は持っていました。
どうしてここで停戦をしなければならないのか・・・??
官兵衛が、薩摩侵攻の先鋒にしたのは、立花宗茂でした。
この立花宗茂は、薩摩とも懇意でした。
官兵衛自身も、島津義弘と親しくしていたことが分かっています。
島津と敢えて戦わず、和睦して傘下におさめることもできる状況でした。
もし、島津を引き入れることができれば、九州一円が官兵衛の配下となり、家康と対等に向き合える可能性もありました。
どうする・・・官兵衛・・・??

家康から薩摩攻め中止命令が出てから10日後、官兵衛は、島津の元へ使者を出します。
薩摩への攻撃中止を正式に伝えたのです。
こうして官兵衛の九州での戦いは終わりを告げました。
黒田家は、関ケ原の戦いでの黒田長政の功績により、筑前52万石に加増。
しかし、戦で切り取った土地は与えるという家康の約束が果たされることはありませんでした。

筑前国を与えられた黒田家が築いた福岡城・・・
黒田官兵衛集大成の城です。
その城づくりからは、徳川の世になってなお、官兵衛が実践を強く意識していたかが伺えます。
さらに、福岡城の守りを堅固なものにしていたのが、今も官兵衛の時代から同じ位置に立つ多門櫓です。
櫓の内部には、16もの部屋が作られ、守りの兵を多数配置できるようになっています。
そして国境には、筑前六端城と呼ばれる6つの城が置かれ、強固なネットワークが築かれました。
福岡城の三の丸に置かれた御鷹屋敷で晩年を過ごした官兵衛・・・
関ケ原の戦いから4年後の1604年、59歳にしてその人生を終えました。

官兵衛は、島津攻め中止という家康の命令に従うことを選びました。
しかし、黒田家の記録の中に、彼の本心が隠されていました。
官兵衛の嫡男・黒田長政の遺言状・・・
そこには、長政が聞いた父・官兵衛の壮大な計画が書かれていました。

”官兵衛が大坂方と通じれば、加藤清正は喜んで味方になるはずだ
 その外の九州大名である島津・鍋島・立花らが大坂方なので、九州の大名が結束して京へ向かえば、中国地方の軍勢も加わって十万騎になる
 これだけの大軍が家康一人と戦うことは、卵の中に大きな石を投げ入れるようなものだ”

壮大な野望を胸に秘めていた黒田官兵衛・・・彼がもし、違った選択をしていれば、再び天下分け目の決戦が起こっていたかもしれません。

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