日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:毛利隆元

山城・・・それは、時として戦国武将の命運を左右する悲劇の城でした。
山陰地方の要となった巨大山城・月山富田城・・・
戦国時代、月山富田城に、三人の名将たちが挑みました。
名門守護大名・大内義隆、中国地方の覇者となる毛利元就、悲劇の忠臣・山中鹿之助・・・
しかし、如何に名だたる戦国武将と言えど、力でこの山城を落とすことができませんでした。
その攻略方法とは・・・??

室町時代に勃発した応仁の乱、京都を中心に11年間続いた権力闘争は、やがて全国に拡大・・・
群雄割拠の戦国時代に・・・!!
戦乱の火種は、山陰地方にも飛び火しました。
そこで急速に版図を広げたのは、守護代から台頭した尼子氏です。
出雲を拠点に最盛期には近隣諸国8か国の守護に任ぜられた尼子氏・・・
その隆盛を支えたのが、海の道です。
古来、朝鮮半島や中国に近い出雲は、日本海海運の要所でした。
さらに、山陰地方には石見銀山があり、尼子氏の経済基盤となっていました。
当時、世界の1/3の産出量をしめたといわれる日本の銀・・・中でも石見銀山は、ポルトガル人が書いた日本地図にも明記されているほどです。
こうした莫大な富を背景に領土を拡大した尼子氏・・・その拠点となったのが、月山富田城でした。

一見すると木々に覆われたただの山・・・

todajyou
















山全体が城になっています。
全国でも、屈指の大きさを持っていた山城でした。
総面積およそ70万平方キロメートル、東京ドーム15個分・・・日本代々級の城郭です。
山間部に至るまで500もの曲輪が築かれ、兵を配置し、守りを固めています。
軍事的な拠点でもあり、年の一部であり、政治の中心でした。

城の麓には城下町が形成され、商業施設もあったといわれます。
城下町を守る川は、軍事的な利用だけでなく、日本海海運の航路としても利用されていました。
いろいろな陶磁器・・・日本のものから海外のモノ(中国・タイ・ベトナム)まで、高級な青磁がたくさん出てきて、財力的にも強大でした。

1543年、第一次月山富田城の戦い!!
月山富田城に挑んだのは、中国地方を含め7か国の名門守護大名・大内義隆・・・!!
山陰の中心・月山富田城の攻略は、中国地方の覇者となり、天下への足掛かりとなる大事な戦いでした。
大内義隆は、1万5000の大軍勢で、月山富田城に迫りました。
尼子と決戦を挑もうとしたのです。
それに異を唱えたのが、当時大内の配下にいた毛利元就でした。
元就は・・・
「力攻めなど無理である
 たとえ日本全土の軍勢をもってしても、この城を容易く落とすことなど出来ぬであろう」
しかし、義隆は、元就の意見など聞かずに総攻撃をかけます。
大内軍は、城下町を焼き払うと、手勢を菅谷口・御子守口・塩谷口に分け城を攻撃!!
敵の猛攻を待ち受けていたのが、月山富田城に作られていた防御システムの土塁でした。
その一部が月山富田城内に今も残されています。
高さ6m、長さ130mの巨大な土塁・・・このような土塁が、城のあちこちに作られていたと思われます。
土塁の外側には深さ6m、幅10mの堀がありました。
外側に堀をセットにすることで、より高さを増して、敵を突破できないようにしていました。
戦国時代の土塁としては、最大級のものです。

このような土塁を突破したとしても、城内にはいろいろな仕掛けがあります。
花の壇と呼ばれる曲輪には・・・尾根筋を断ち、敵の接近を阻止する堀切りがあります。
本丸に向かおうとする敵は、屈曲した道に翻弄され、行ったり来たりを繰り返さざるを得ません。
花の壇を突破しても・・・上から攻撃されるようになっています。
月山富田城の進入路は三つ・・・その行き着く先は、山中御殿と呼ばれる膨大な曲輪です。
どの道を通っても、この曲輪に来るように仕掛けられています。
一気に撃退される・・・恐るべき守りの工夫です。
ここを突破しても、絶壁、七曲りを突破しなければなりません。
実際の戦いでは、城の堅い守りを前に、大内軍は城内に入る事すらできませんでした。
力攻めを諦めた義隆は、月山富田城を包囲!!

しかし・・・籠城側に降伏する気配はありません・・・
籠城に耐えうる月山富田城の秘密とは・・・??
月山富田城の周りには、いくつも味方の城がありました。
月山富田城を守るため、尼子は城郭ネットワークを築いていました。
これを、尼子十旗と言います。
月山富田城が攻められても、他の山城軍によって兵站線が確保され、援軍としての後詰を担ったのです。
そして開戦から数か月後・・・事態は急転・・・!!
1543年4月30日、大内配下の武将たちが、次々と尼子に寝返ります。
5月7日、味方が動揺する中、大内軍全軍撤退!!
撤退する大内軍は、それを追撃する尼子軍に多くを失いました。
尼子軍の圧倒的勝利でした。

大内軍の猛攻を、完全にはねのけた月山富田城・・・次にこの城に挑んだのが、後に中国地方の覇者となる毛利元就でした。
第二次月山富田城の戦いが迫っていました。
大内の大軍勢をはねのけた名城・月山富田城・・・月山富田城の戦いに敗れた大内義隆は、勢力がおとろえ8年後、家臣の謀反に遭い自害することになります。(1551年)
大内に代わって台頭したのが毛利元就です。
1555年10月1日、大内を滅亡に追い込んだ陶春賢を奇襲攻撃で撃破!!・・・厳島合戦です。
主君の弔い合戦で勝利した元就は、大内の領地を継承・・・一気に戦国大名に変貌を遂げました。
これによって領国を接した尼子と毛利・・・中国地方の覇権争いはもはや避けられませんでした。

両者の戦いを決定づける事件が・・・1561年12月、尼子晴久死去。
家督を継いだのは、わずか21歳の尼子義久・・・元就にとって好機の到来でした。
しかし、大内軍の配下として参陣した前回の轍を踏めば月山富田城は攻略できません。
難攻不落の城を攻めるために元就が狙たのが、当時尼子の支配下にあった石見銀山でした。
1562年、元就は石見銀山を奪取。
尼子の経済基盤を奪取することに成功します。
続いて・・・月山富田城の防衛網・尼子十旗を崩壊させること・・・!!
尼子十旗が無くなれば、月山富田城は孤立・・・!!
籠城戦の援軍は望めなくなります。
出雲の南を守る赤穴城を皮切りに、1年がかりで次々と撃破・・・!!
残るは白鹿城のみ・・・!!
その矢先、元就を不測の事態が襲います。
1562年8月、元就の嫡男・毛利隆元死去・・・!!
この時、隆元は毛利家の当主でした。
この時元就、67歳・・・当時の平均寿命を大きく超える高齢でした。
跡継ぎとなる孫・輝元はわずか11歳・・・他の子どもたちは養子に出してしまっていました。
すぐ領国へ引き返し、内政を固めなければ毛利家が崩壊する危険性もありました。
ところが・・・元就は、諸将を集め、こう宣言します。

「隆元の供養は、尼子を退治する外にない・・・!!」

弔い合戦を大義名分として尼子との戦いを優先したのです。
最大の敵・尼子を倒してこそ毛利家は安泰となる・・・
1563年10月、白鹿城陥落

1565年4月、元就、3万5000の兵を率いて、月山富田城へ迫ります。
難攻不落の大要塞・・・いかに攻略すべきか・・・??

力攻め・・・??
しかし、守りに秀でた月山富田城には、山中鹿之助などの武勇に秀でた猛将たちがいます。
元就にとっても手ごわい相手・・・!!
力攻めで負け戦が重なれば、従軍していた家臣たちに離反者が出る可能性も高い・・・
前回の戦いのときも元就はこう言っていました。

「力攻めなどは無理である
 日本全土の軍勢をもってしても、この城を容易く落とすことなどできぬ・・・!!」と。

兵糧攻め・・・??
敵の兵站線をたたき、直接の戦闘を避け、自滅するのを待つ・・・!!
しかし、月山富田城には、長期戦に耐えられる工夫がなされていました。
井戸に水が湧き出ています。
山城を作る場所で、水が得られるというのは、大変重要な要素でした。
兵糧攻めに耐え、長期の籠城戦に耐えうる月山富田城・・・!!
戦が長引き、高齢の元就が亡くなれば、毛利は崩壊必至・・・!!

力攻めか、兵糧攻めか・・・??

1565年4月17日、元就、3万の大軍勢で月山富田城の総攻めを開始!!
力攻めで城を陥落させようとしました。
籠城している尼子軍は1万!!
城の三法の登城口で激戦が繰り広げられること10日以上・・・
しかし、終始尼子軍は3倍の敵に対して勝利を得、さしたる大敗もなかったといいます。
毛利軍には犠牲者が続出し、大損害を被ります。

総攻めの愚を悟った元就は、城を包囲し徹底した兵糧攻めに転じます。
月山富田城を包囲する為に川を挟んだ山頂に布陣した毛利軍・・・
勝山城にはこの時の元就の覚悟の痕跡が残っています。
畝状空堀群・・・侵入する敵の動きを限定し、上から攻撃をしやすくする防御の工夫です。
勝山城を築いた元就の狙いとは・・・??
月山富田城を見下ろす本格的な陣城・・・これほどまで備えなければ、毛利元就であっても月山富田城を攻めることができなかったのです。
尼子氏の月山富田城がいかに強い城であったのかがわかります。
周囲に要塞を築き、完全に月山富田城を包囲した元就・・・
城内では、次第に兵糧の不足が深刻化していました。
その隙を浮いて、城内の離反を狙い調略します。
それが功を奏したのか、事件が起こります。
1566年、当主・義久が、謀反の疑いで重臣・宇山久兼を斬殺!!
これを機に、尼子の家臣たちは、次々と毛利方にくだりります。

そして1566年11月・・・尼子義久降伏・・・!!

毛利の総攻めから1年7か月・・・戦国時代まれにみる籠城戦でした。
この時、毛利の重臣たちは禍根を残さぬように義久の命を絶つことを主張しました。
しかし、元就は助けてやるのが武士たるものの法として義久を許したのです。
尼子滅亡・・・
しかし、戦国一の知将・毛利元就ですら月山富田城を武力で落とすことは、遂にできませんでした。

山陰の雄・尼子氏を滅ぼし、中国地方の覇者となった毛利元就。。。
毛利の城となった月山富田城・・・しかし、ここで三度の合戦が起こります。
尼子との死闘から3年後・・・
1569年6月・・・沖から軍船に乗り込んだ尼子再興軍、毛利領内に上陸・・・!!
尼子家の再興に燃える山中鹿之助・・・武勇誉れ高い尼子の武将です。
鹿之助の元には、尼子の旧臣たちが続々とやって来て6000人に及んだといいます。
この時、毛利本体は、九州・大伴氏との戦いに駆り出されていました。
月山富田城に残された毛利軍はわずか300・・・!!
対する鹿之助の尼子再興軍は6000・・・月山富田城に精通した尼子の旧臣たちでした。
毛利軍は、軍勢のはるかに勝る尼子方に降伏を申し入れました。
それを受け、尼子の旧臣を月山富田城に迎え入れます。
その時・・・入城した尼子軍に、毛利勢は一斉射撃を加え、だまし討ちで撃退したのです。
以来、月山富田城は、鹿之助たちの猛撃を寄せ付けず、戦いは翌年までもつれ込みます。
やがて毛利の援軍が到着・・・
1570年、山中鹿之助ら毛利領から撤退・・・!!
月山富田城の奪還に失敗した鹿之助はその後も毛利との死闘を繰り広げます。
しかし、尼子家の再興叶わず・・・1578年7月、山中鹿之助死去。
月山富田城の一角には、悲願を果たせなかった山中鹿之助の銅像がひっそりとたたずんでいます。
名門守護大名・大内義隆、中国知能の覇者・毛利元就、そして忠義の武士・山中鹿之助・・・
名だたる武将の前に立ちはだかり、彼らの夢を打ち砕いた月山富田城・・・そこは兵どもの悲劇の舞台となったのです。


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深い山々に覆われた中国山地・・・
ここは、産地面積が7割を超える日本有数の山岳地域です。
備中松山城をはじめ、山城が点在する全国でも有数の山城地帯です。
鎌倉時代以来、山間の小さな領地を支配した毛利一族・・・
元就は、毛利家の次男として生を受けました。
当初、家督は長男が継ぎ、元就は支えるために分家を相続しました。
しかし、当主が僅か9歳で亡くなったために、1523年元就は27歳で毛利家の家督を継ぐことに・・・
元就は、若い頃から文学を好み、軍術奇計を嗜んでいたようです。

毛利の居城・郡山城・・・元就は、この小さな山城を拠点にした国人領主でした。
室町幕府の元、領国支配を担ったのが、守護大名で、その代理で現地に向かったのが守護代でした。
守護代の元、土地を治めていたのが、多くの国人領主でした。
この体制が大きく揺らいだのが戦国時代で、室町幕府の権威に頼らず、実力で領国経営の実権を勝ち取っていくのが戦国大名です。
一般的に戦国大名になるコースは3つあります。
①守護、守護大名が戦国大名にスライドする
②守護代が下剋上でのし上がる
③国人領主の国人一揆による戦国大名化です。
毛利元就は、典型的な③でした。
国人領主は、その他大勢のひとりでそこからのし上がっていくのは大変でした。
当時の中国地方は、守護大名から戦国大名となり北九州まで支配した大内、さらに守護代から下剋上を為した尼子、この二つが覇権を争っていました。
国人領主の毛利は、大国の狭間にある弱小勢力にすぎませんでした。
どちらかの勢力に組していなければ生き残れませんでした。
大内と尼子の争いが・・・狭間の国人領主たちは昨日は大内に人質を差し出し、今日は尼子に礼を尽くして心休まる暇がありませんでした。
それは、力を持たない国人領主たちの乱世を生きる術でもありました。
この頃、大内の宿敵・尼子は、備中美作を制圧、播磨や備後にもその勢力を拡大していました。
当時の当主は、尼子詮久。
詮久の隆盛ぶりは・・・”向かうところ敵はなし”と記されています。
元就は、尼子に従属しました。
かつて詮久とは、義兄弟の契りを交わした仲でした。
しかし、その後、尼子を見限り大内の傘下に・・・。
大内方から有利な条件を提示されたようです。
1539年、尼子詮久、毛利討伐を決定!!
裏切り者の元就に対する詮久の報復ともいえます。
しかし、この時叔父の久幸はこう諭しました。
「元就は名将である。
 尼子が攻めかかれば負けとなり、後代までの名折れとなる。
 思いとどまるべし。」と。
それに対し、血気に逸る詮久は臆病者とののしり、その意見を退けました。

1540年9月、尼子の大軍勢3万が国境を越え、元就の郡山城へ・・・!!
大軍の襲来に窮地に陥った国人領主の元就・・・いかに立ち向かう・・・??
合戦後の本人による詳細の記録「毛利元就郡山籠城日記」
その目的は元就自身の活躍を室町幕府に報告するものですが・・・によると・・・
元就が尼子の軍勢を3万としたのは誇張と考えられてきていましたが・・・誇張ではない??
謎の解明の手掛かりとなるのが、航空レーザー測量です。
結果から読み取れるのは・・・??
郡山城の尾根筋には、兵を収容するための曲輪があります。
尼子の城跡の近くにも同じような平たん地・切岸が・・・。
土橋、竪堀・・・尼子軍の城跡は、郡山城の西側に全長6キロに及ぶ山城群を築いていたことが分かりました。
尼子は、圧倒的な大軍で毛利の郡山城を攻めてきていたのです。

尼子の圧倒的な大軍勢に囲まれた元就・・・
この時、収穫時期で、元就は事前に収穫を終わらせ、新米を一粒残らず郡山城内に搬入させていました。
元就はどこに活路を見出すのでしょうか?
尼子につく??
それとも大内につく??
苦悩する元就・・・どうする??

1540年9月5日、尼子の軍勢は無数の山城を築き、郡山城を包囲しました。
この時、籠城する毛利方の兵数は2400と伝わっています。
ポルトガルの宣教師によると・・・
敵の包囲が始まると、貴人も賤民も、権力のある者もない者も、その妻子を連れてすべての人たちが城に身を寄せることになっている。
城下の領民たちも加わり、毛利軍は総勢8000になったといいます。

元就の籠城日記によると尼子勢は城下の村々を焼き払い・・・しかし領民はそれに怯むことなく・・・
言葉戦いを合図に開戦!!
領民と共に籠城した元就は、尼子勢との全面対決を明らかにしました。

おおよそ戦は、軍勢の数によるものではない。
皆が心を一にし、行動を一にすれば大軍勢と言えども畏れることはない。

開戦から7日後・・・再び尼子軍が郡山城下にせまります。
尼子軍は城下に火を放ちます。
それに対し、元就は出撃を命じましたが、多勢に無勢毛利軍は敗走・・・。
追撃に入った尼子軍は途中の多治比川を渡りました。
その時、尼子を毛利の伏兵が襲ったのです。
大混乱の尼子勢・・・毛利勢はこの時、敵の大将を討ち取る金星を挙げました。
どうして作戦が功を奏したのでしょうか?
一つは気象条件。
秋から冬にかけて、朝霧が多く、昼近くまで霧に覆われていることがあります。
郡山合戦にの際に、視界が悪いことが影響していたのではないか?と言われています。
この敗戦によって、尼子詮久が動きます。
本陣を郡山城の本陣の正面に移したのです。
元就と雌雄を決しようとする決意表明でした。

しかし、本陣を移した尼子は、総攻撃をする気配がりません。
毛利を撃退するという強い意志を持っていたのは、詮久の旗本衆や一部の軍勢で、尼子に付き従ってきた多くの国人領主たちは積極的に戦う気がなかったようです。
元就は、城に籠城することなく出撃を繰り返します。
籠城する領民たちの士気を下げさせないためのものでした。
合戦が始まって一月後・・・大内の援軍は来る気配がありません。
この状況を打破する為に、元就は賭けに出ます。
自ら兵を率いて出陣!!
敵本陣めがけて突撃します。
そこにはどんな思いが・・・??
大内に対して、自分たちはこんなに戦っている!!と、見せること。
この戦いの後、大内が動きます。
1540年12月3日、大内の援軍1万が、郡山城の南に・・・!!
元就は、大内の援軍と共に尼子を急襲、敵の軍勢を撃破!!
大打撃を受けた尼子は、この合戦以降凋落の一途をたどります。
4か月以上の戦いは、元就に勝利をもたらしただけでなく、大内の絶大な信頼を受けることに・・・!!
一介の国人領主・毛利元就が、戦国の世に大きな一歩を踏み出した瞬間でした。

郡山合戦の後、領内で大きな問題が・・・
戦いは、あくまでも防衛を目的としていたので、領地が書く出しいたわけではありませんでした。
十分な恩賞を与えることのできなかった毛利元就・・・
家臣からの信頼を失おうとしていました。
その打開策として・・・1546年嫡男隆元に家督を譲ります。
体制を刷新することで、毛利家の信頼を回復させようとします。
元就が三人の我が子に向けた教訓状には・・・
三人の間に少しでもかけ隔てが出来るようであれば、必ず三人とも滅亡すると思った方が良いとあります。
一族間の繋がりこそが肝心だという国人領主だった元就の知恵でした。

1551年9月、大内義隆、謀反により討ち滅ぼされます。
もとなりは、155年10月厳島合戦で、陶晴賢を討ち、大内の領国を奪取することに成功!!

1566年11月、70歳で尼子の居城・月山富田城の戦い!!開城させ、遂に、中国10か国の大大名となりました。
ところが、隆元に向けた元就の書状には・・・
「当家を良かれと思っている者は、他国は無論のこと、当国にも一人もあるまじく候」
誰からも信頼されていないことを自覚していなければ、人の真の信頼を得ることはできない!!
元就がこの世を去ったのは、1571年6月14日、享年75。
それは、国人領主を振り出しに、見事中国山地の覇者となった生涯でした。

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広島県にある世界遺産、厳島神社。
満潮時にはまるで海に浮かんでいるかのような社殿。。。
年間400万人が訪れる日本屈指の観光スポットです。

この厳島神社があるのが宮島。。。
神の島とも言われるこの島が、歴史のターニングポイントなりました。
時は血で血を洗う戦国。
一族の存亡をかけて、この地で厳島合戦を行ったのは、毛利元就。
この宮島での勝利から毛利家は大躍進、遂には天下屈指の大大名となりました。
信長・秀吉と真っ向から対立し、関ケ原では家康を最後まで苦しめた毛利家。。。

そして、明治維新の原動力となった長州を率いたのも毛利家でした。
元就以降日本を左右する存在となった毛利家。

安芸と備後しか持っていなかった毛利家が、大内家の最高実力者・陶晴賢に戦いを挑んだのが厳島の合戦でした。

”小よく大を制す”

元就は奇襲を仕掛けます。
それを支えたのは、三本の矢で知られる3人の息子・隆元・元春・隆景でした。

1497年元就は、毛利家の次男として安芸高田市に生まれます。
元就が生まれたころは、毛利家は広島県北部を支配するだけの小さな家でした。
当時中国地方は、大内氏と尼子氏が覇権争いをしていました。
大国のはざまで、毛利家は明日をもしれない状況でした。
家族運にも恵まれなかった元就は、5歳の時には母が、10歳の時には父が死去。
おまけに父が残してくれた土地を家臣に奪われてしまいました。
20歳の時には兄・興元、兄の子・・・毛利家の家督を継いだものが次々と亡くなります。
そして・・・生き残るために大内氏に頼るのでした。
元就は、長男・隆元を人質に出します。
隆元は5年にわたり、大内義隆に仕え、関係を深めていきます。

隆元の妻は、大内の養女を迎えることができました。
隆元を通じて大内家と縁続きとなった元就・・・
しかし、この行為は尼子の反発を招きます。
1540年尼子が毛利の郡山城を3万の兵で攻めるのです。
毛利軍わずか3000。。。
どうする??

普通、これだけ数が違えば籠城戦ですが・・・
城の外へ・・・!!
攻める尼子軍!!
そこに左右から毛利の別働隊が攻めます。
人数の多さに奢った尼子軍の隙をついたのです。

元就は、その後も互角に!!
大内にも援軍を依頼します。
そして3か月後・・・援軍がやって来ます。
やってきたのは、陶晴賢。
陶は、後のライバルとなる元就の戦い方を目の当たりにします。
陶の協力で尼子を退けた毛利・・・
ここから強い毛利作りが始まります。

養子作戦を展開します。
元春は、山陰の有力者、武門で有名なであった吉川に。。。
隆景は瀬戸内海の有力者小早川家へ・・・毛利家にはない水軍を持っていました。
山陰の勢力、瀬戸内海の勢力・・・強固な関係が作られていきます。
弱小だった毛利家・・・戦国の荒波を越えて行く用意が出来てきました。

息子たちと一緒に勢力を拡大していった元就・・・
頼みの綱の大内に陰りが見え始めます。
大内義隆が、京都との交流ばかりをし、政治を顧みなくなったのです。
山口は西の京都と言われるほど華やいでいました。
文化ばかりに力を入れ、領民を顧みない義隆・・・。
家中には不安が高まっていきます。
その中心に陶晴賢がいました。

このままでは大内が立ちいかなくなる。。。
1551年陶晴賢が主君・大内義隆に謀反を起こし、切腹させます。
クーデターを成功させた陶・・・自分の息のかかった大内義長を主人とします。
元就は、この時、陶に味方をしています。
大内がしっかりしてくれないと、毛利も巻き込まれてしまうことが解っていたのです。
毛利家のためにも、大内にしっかりしてもらわなければならなかったのです。

味方をしたことで、新たに領地をもらった元就。。。
その矢先に・・・
元就は・・・厳島神社の神官・棚守房顕から・・・陶の本心を聞きます。
陶の態度には裏があり、毛利を滅亡させたい・・・というものでした。
30年間大内に仕え、やっとのことでの勢力拡大・・・
しかし、存在感を増してきた毛利に対して陶が刃を向けてきたのです。


陶に対して不信感を持つ中・・・陶が行動を起こしました。
吉見氏を攻めだしたのです。
吉見氏は、毛利と同じく大内に従ってきていた者でした。
元就のもとには、陶から吉見攻めに参加するように命令が来ます。
その命令には陶からの申し出がつけられていました。
もし来てくれたなら、人質を4人だそう・・・と。

どうして人質を出すのか???
そんな態度に出るべきか???

①妥協案・・・戦力差のある陶に従う
三男の小早川家は、吉見攻めに参加しています。

②強硬策
当時の毛利家の当主は隆元でした。
反対する隆元の意見に対して元就も尊重しなければならない側面があったのです。
しかし、陶と戦うということは、後ろから尼子が隙をついて攻めてくるということ。。。

③大胆策・・・大内の当主を味方につける
義長を味方につければ、唯一陶を黙らせることができる。。。
しかし、陶が擁立した主君を味方につけられる???

陶に従うか?立ち上がるか??

一向に腰をあげない元就に、陶が動きます。
陶は、元就配下の亜紀の武将たちに吉見攻めに参加するように檄文を飛ばします。
このままでは毛利は孤立してしまう!!

1554年5月12日、元就は陶方の4つの城をわずか一日で攻め落としました。
陶が吉見攻めをしていた隙をついたとはいえ・・・どうしてこんなにうまくいったのでしょう?

陶に知られない様に細心の注意を払っていました。
仲間にさえ、前夜にしか教えなかったのです。
宮島も占領します。
驚いた陶は、宮島に兵を送ります。
そう、宮島は・・・陶にとっても手に入れなければならない場所だったのです。
宮島は、瀬戸内海の交通を考えるうえで、極めて重要な場所でした。
経済的な重要性と、厳島神社・・・
安芸国の一の宮がある政治的な重要性を考えると、軍事的にも政治的にも経済的にも、安芸国で覇権を確立する勢力は宮島に注目するのは当然のことでした。
そして・・・戦国時代の勢力図を塗り替えることになる厳島合戦が行われるのです。

1万の陶に対して数百の毛利・・・。
でも、城が落ちることはありませんでした。
元就は陶との戦いに備え、いろいろ策を練っていたのです。
陶方きっての武将・弘中隆兼の手紙によると・・・
毛利が船で城に援軍を入れて・・・陶は船がないのでそれを防ぐことができない。
どうしようもない!!
陶にとって水軍の不足は致命的でした。

元就は、陶に味方していた水軍に寝返りを薦めた可能性があります。
水軍の寝返った見返りの手紙に、元就は了承しています。

そして決定打は・・・
深夜、元就は、城攻めに夢中になっている陶をついて、自ら別働隊を島の裏側に上陸させます。
博打尾と呼ばれる険しい尾根を越えて、陶を奇襲したのです。

しかし、原生林を知っていた???
これを提案したのは、宮島のことを熟知している厳島神社の棚守房顕と思われます。
棚守房顕の覚書には・・・厳島合戦の数十年前に、博打尾から宮島を襲った瀬戸内の水軍のことが書かれているのです。
つまり、博打尾の情報を手に入れていた節がありのです。
遂に、陶本陣を眼下に・・・!!

1555年10月1日、元就は、陶の陣を奇襲します。
一緒に攻撃したのは、毛利軍・吉川軍、海からは小早川軍。。。
一斉攻撃です。
挟み撃ちにあった陶は大混乱!!
おまけに、水軍もないので逃げることもできません。
遂に陶は切腹して果てるのです。

その後、強大となった毛利は日本の転換期に重要な役割を果たしていくことになるのです。

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“三本の矢”で有名な毛利元就、その長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景・・・この逸話は有名な三本の矢の教え。

しかし、三本の矢の教えは作り話・・・
長男の隆元は、元就より先に死んでいるので、元就の死の床に三人の息子が・・・というくだりはありえないのです。
もともと三本の矢とは。。。シルクロードから来たお話のようで。

それが毛利家に当てはめられたのは・・・三人に一致団結せよ!!と、元就が言っていたからです。
毛利家を守るために、養子に出された隆景・・・
養子と言っても、戦国時代。相手の家をのっとって、毛利の為に!!!

その話に出てくる小早川隆景とは???
3人兄弟の中でも非凡な才能をもって生まれてきたようです。
小早川家の菩提寺米山寺は、広島県三原市にあります。
小早川隆景の命日には、法要が行われています。
毎年奉納されているのは“やっさ踊り”。
小早川隆景の築城時のお祝いに踊り出し、400年にわたって続いています。

隆景は、子供のころに元春と雪合戦をした際・・・
一回戦・・・勇猛な兄に家来と立ち向かいますが、全くかないません。
二回戦・・・半分で元春にかかります。今度も歯が立たず、追いかけてきた兄・元春を、待ち伏せていた残りの半分に左右から挟まれ・・・隆景の勝利となりました。

勇猛で正面から戦った兄・元春、幼いながらも兵法で勝利した弟・隆景、その戦いぶりを見た父は、後にこの二人の性格を見据えた戦略を立てることとなります。
この時、長男・隆元は、周防の国に人質にされていました。
当時、中国の2大勢力は、大内氏と尼子氏。元就は、二つの勢力に挟まれた安芸・郡山城・4000石の小さな土豪で、尼子氏の庇護を受けていました。

ところが・・・大内氏への寝返りを・・・その証が、毛利隆元の人質でした。
それに怒った尼子氏は、3万の兵を率いて郡山城に押し寄せました。
守る毛利軍は3000・・・元就の戦法は、かつて雪合戦で隆景が行ったもの・・・敵をおびき寄せての殲滅でした。

この作戦は見事にはまり、尼子軍を苦しめます。
そして、陶隆房率いる大内軍1万が援軍に来ると、尼子軍を安芸から追い出すことに成功します。
元就の勝利が広まると・・・瀬戸内に面した木村城・小早川氏から元就の次男・元春を養子に欲しいという話が持ち込まれます。
元就にとって、戦うことなく瀬戸内に出ることが出来る!!こんなおいしい話はありませんが・・・熟慮の末、元春ではなく隆景を養子にしました。
その理由は・・・海賊行為をする者が多い手練れをまとめられるのは、まっすぐな元春よりも、策をめぐらす隆景の方が良いと思ったからです。
そして元就は、尼子氏と国境を接する小倉山城の吉川に元春を養子に出すことにしました。

隆景と元春・・・どちらも養子に行くとき、元就が念を押したのは、三本の矢の教えを忘れてはならぬというものでした。
これが後に毛利の両川と呼ばれることになります。

そして、さらに息子たちを使って勢力を広めていきます。
1551年毛利元就安芸国統一。
翌年・・・陶隆房が謀反を起こし、主君・大内義隆を自害させてしまいました。
陶につくか、大内につくか・・・

陶軍2万人、毛利3000人・・・

悪人・陶隆房を討つ!!

そして元就は、広島湾に浮かぶ宮島・・・厳島神社があります。。。そこを占領させ、要害山に城を築き守らせました。
対岸に陣を構えた元就は・・・3人の息子と作戦会議を始めました。
そこで・・・元就の作戦を非難し始めた隆景!!

「父上の作戦、全く理解できません。
 負けが決まったようなこの戦に、小早川の兵士を参加させることは出来ません!!
落とされるような城を築くとは・・・!!
毛利家だけのことを考えることは出来ん!!」

ところが評定のもようは、内通者によって陶側にもたらされます。
そして、厳島に上陸した陶軍2万は、後方の山間に陣を構えて攻撃をかけようとします。

しかしそれは、元就と隆景の芝居でした。
兵力の劣る毛利軍が勝つためには、小さいところに固めて動きを取りにくくすること・・・そこに勝機を懸ける以外になかったのです。
そして、隆景もう一つの仕事は・・・村上水軍を味方につけること。
当時300隻の船をもち、瀬戸内海の制海権をもっていたのですが、陶隆房も味方につけようとしていました。
普通ならば勝つ見込みのある陶軍につくのですが・・・
隆景は使者に・・・
「軍船300隻、1日だけお貸しいただきたい。
 それも、厳島へ着いたらすぐにお返しする。」
村上武吉
「1日だけとはどういうことだ!!」
「島につけば、勝てば島に残るし、負ければ討ち死にする覚悟、帰りの船はいらん!!」

この言葉を意気に感じ、村上水軍は毛利側に。
1555年10月1日厳島の戦い
東側からは、毛利元就、毛利輝元、吉川元春、西側からは、小早川隆景が上陸、挟み込むように陶軍に奇襲をかけて壊滅させました。

厳島の戦いに勝利し、大内氏の所領と瀬戸内海の制海権を得た元就は、吉川元春を主力に、尼子に対峙します。
そのさなか、毛利に不幸が・・・
1563年8月4日毛利隆元が亡くなります。享年41歳の若さでした。

あとは、隆元の息子・輝元が継ぎます。
隆景と元春を後見人・・・No,2としたのでした。
そして、初陣は・・・月山戸田城への総攻撃でした。
尼子氏をその軍門に下し、新しい当主・輝元の名を世に知らしめました。
この時、中国地方10か国を治める大大名となったのです。

病床に伏した元就・・・枕元に元春らを呼び・・・自分が死んだあとはこの中国10か国を守り、天下を争う戦いに参加してはならない・・・と言ったのです。
1571年6月14日没・享年75歳でした。

元就の遺言を守ろうとしていたのに・・・それを許さなかったのは、織田信長でした。
信長は、足利義昭を奉じて上洛すると、天下統一に向けて動き始めます。
姉川の戦いで浅井・朝倉を破り、長篠の合戦で武田勝頼に勝利、その勢力は中国地方へ・・・

司令官としてやってきたのは豊臣秀吉。
別所長春の守る三木城をおとし、播磨国を平定すると、備前・岡山城・宇喜多を籠絡、備中・高松城に侵攻を開始します。

高松城を落とされれば、織田に寝返る大名が続出し、中国地方においての覇権を失ってしまう!!そう思った隆景は、輝元・元春と共に、備中・高松城の救援に・・・
それは、父・元就の遺言を破ることになる・・・その最初の一歩でした。

秀吉の侵攻に対して、毛利は7つの城を造りました。

mo-ri.png

その最大が備中高松城・城主は清水宗治。
高松城は、沼地に囲まれ・・・城への入り口は一つ・・・守るにたやすく攻めるに難しい城として知られていました。

宗治は最後まで毛利に殉じる・・・と、3000の兵と立て籠もります。
秀吉の兵は3万。味方の兵を失わないために・・・秀吉は、近くを流れる川を使って城ごと水没させることにしました。水攻めです。
高さ7mの3kmに及ぶ堤をわずか12日間で完成させます。
雨が降り・・・堤の中に水が溜まり・・・湖が出来上がりました。
沼地であったために・・・

mo-ri2.png

2万の軍勢で応援にやってきた隆景は、この光景を前になすすべがありませんでした。
元春も・・・戦うことをせず、溺死させようとする秀吉を卑怯者と罵りますが・・・後のまつり・・・

さらに悪い知らせが・・・信長が、毛利と雌雄を決するために安土城を出発!!京都へ向かったというものでした。

三本の矢が集まって、軍議が開かれます。
隆景は・・・
「もはや・・・領地の半分を差し出して、宗治と兵を助けましょう」
しかし、輝元と宗治は反対しますが・・・説得され、和睦を申し入れますが・・・
秀吉は、ほとんど手中に入れているので、和睦の必要もなく・・・興味を示さなかったのですが・・・

しかし、突然秀吉は、清水宗治の切腹を条件に、和睦を申し入れてきました。
隆景は違和感を覚えながらも条件を飲み、宗治も自分の命と引き換えに兵が助かるならばと承服します。
小舟を浮かべ、毛利軍と秀吉軍の見守る中・・・
1582年6月4日清水宗治自刃。

隆景たちがその死を悼む中・・・織田信長が明智光秀に殺されたことに驚きます。
秀吉に騙されたことを知った元春は激怒、明智光秀と戦うために引き返す秀吉軍に追っ手をかけると言い出します。
この時、元春をいさめたのは隆景。

秀吉に、幟だけを届けます。
秀吉は、隆景の意図を理解します。
隆景は自分の勝利にかけている!!と。

父の遺言を破った瞬間でした。
その後、山崎の合戦で光秀を討った秀吉は天下人へと上り詰めていきます。
そして、後々まで隆景に感謝をし、毛利家の安泰を認めたのでした。

秀吉に認められた隆景は、朝鮮の役でも大きな手柄を立て、帰国後は、毛利輝元と共に五大老のひとりになりました。
そして、1597年6月12日65歳で亡くなります。
隆景の死から3年後、関ヶ原の戦いがおきます。

隆景の養子・小早川秀秋は、西軍から東軍へ寝返り徳川家康が勝利に貢献したとして、岡山藩55万石をもらいましたが・・・その2年後に病死。

秀秋は、秀吉の甥・・・養子先を探していた秀吉は毛利に目をつけます。しかし、それは困る・・・と思い、我が家に・・・と小早川家に招いていたのです。
そして・・・天下の戦に関わった小早川家は滅んだのでした。


三本の矢のもう一つ、吉川家・・・元春は病死、その息子・広家は、毛利輝元が西軍の総大将となることに反対します。
そして関ヶ原の際に、東軍につきます。その為家臣からは裏切り者と呼ばれます。
しかし、広家は裏切ったのではなく、家康が勝った時に毛利家が潰されないように着いたのです。
その証拠に、戦後の交渉で、家康が毛利家の改易を考えていると知ると、自分に与えられることになっていた周防・長門の2か国37万石を毛利家に譲り、自らは岩国3万石の領主となりました。

三本の矢の教えは、息子にも伝わっていたのでした。


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