【新品】【書籍・コミック 人文・思想・社会】人間東郷平八郎と乃木希典

価格:750円
(2014/1/30 11:34時点)
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1905年、明治38年5月27日・・・
対馬沖で・・・日本連合艦隊は圧倒的なロシアのバルチック艦隊を撃破!!
日露戦争の勝敗を喫した日本海海戦。
小国日本が大国ロシアを破ったニュースは、世界をびっくりさせます。
連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、TIME紙の表紙を飾った最初の日本人となりました。
世界が認めた英雄の誕生でした。

heihati
日本海海戦の勝利は、東郷の信念にあると思われていました。
が・・・やはり悩んでいたようです。
そこには、国の存亡がかかっていました。

大勝利の裏で隠された真実とは・・・???

東郷平八郎は無口で・・・
母親でさえもよく分からない・・・とらえどころのない子供でした。

帝政ロシア時代の首都・サンクトペテルブルク・・・
無敵と恐れられたバルチック艦隊の一隻が・・・残っていました。

20世紀初め、ロシア帝国は強大な軍事力を以て満州を占領・・・
中国の旅順を拠点に南下政策を進めていました。
それを阻もうとする日本・・・
明治37年日露戦争勃発。

日本軍は、半年に及ぶ攻防で・・・莫大な犠牲を払って旅順を攻略します。
さらに・・・満州を北にあがる日本軍。。。しかし、兵力は消耗し、限界に達していました。

その頃・・・バルト海を出発したバルチック艦隊は、ウラジオストクを目指していました。
戦艦8隻を擁するバルチック艦隊がウラジオストクに配備されれば、日本の制海権が脅かされ・・・
大陸への補給路が絶たれることになり、陸軍は孤立してしまう・・・!!
おまけにロシアは開通したシベリア鉄道で、兵力を増強します。
戦争が長引けば、日本の負けは見えていました。
バルチック艦隊をウラジオストクに入れてはならない!!
東郷が背負ったのは・・・がけっぷちの戦いだったのです。

海軍との連絡がスムースにとれる場所・・・朝鮮半島南岸の鎮海湾でした。
ここは50隻を隠せるという内海は・・・韓国では今でも軍港となっています。
鎮海湾から対馬までおよそ50㎞。。。
対馬海峡でバルチック艦隊を迎撃する!!と決めて、作戦を練るのでした。

島を標的に・・・島の形が変わるまで大砲を撃ちこみます。
当時の倉庫や兵舎の跡も残されていました。

日露戦争には、最新式の通信技術が使われていました。
海底ケーブルが活躍しています。
日本海海戦に先立ち・・・本土から対馬に、対馬から鎮海湾に・・・ケーブルが引かれました。

戦艦三笠の停泊する入江の奥には電信局が置かれ、海底ケーブルが陸揚げされました。
東郷の元へ・・・!!
情報が次々と上がるようになっていたのです。

情報網を張り巡らし、練習を積んでいきます。
東郷の選んだ作戦参謀は・・・秋山真之。
この開戦の為に、手の込んだ作戦を立案しています。

その作戦の使命は・・・???

七段構えの2日間にわたる作戦でした。
水雷艇による奇襲に始まり、日中は戦艦戦、夜は駆逐艦!!
これを繰り返す七段構えの作戦です。
最後には・・・ウラジオストク近くの水雷艇に追い込む!!というものでした。

ウラジオストク入港は・・・ロシアの反撃を生む!!
この時、東郷平八郎の使命は、バルチック艦隊の殲滅でした。
日本は戦艦の数も少なく・・・1回の戦いで全てが終わるように・・・!!
そんな作戦、撃滅だったのです。

万全の態勢で待つ東郷・・・
しかし、敵の艦隊が消えてしまいました。
5月14日、インドシナ半島を出航して・・・消えてしまったのです。
バルチック艦隊は、戦艦18ノット、駆逐艦26ノット、運送船10ノットでした。

参謀・秋山は、10ノットと計算し、七日余りで対馬にやってくると計算しました。
5月22日には来るはずでした。。。23日になっても来ない。。。
東郷と参謀たちとの焦りと迷走が始まったのです。

「坂の上の雲」では、鎮海湾から動く気はなかった・・・ということになっていますが。。。
しかし・・・悩みぬいていた資料が出て来ました。
「極秘 明治三十七年海戦史」・・・日露戦争の膨大な記録です。
明治天皇献上されたひとつのみが残っています。

そこには・・・
鎮海湾以外の場所として・・・隠岐・能登・津軽海峡・・・本拠地候補として挙げられていました。
何処をとるか・・・!!国を挙げての大問題でした。

5月23日・・・三笠に電報が打電されました。
4日前・・・フィリピン沖で、ノルウェーの商船がバルチック艦隊に遭遇・・・対馬海峡に向かうと言っていたという。。。

①秋山はこれを敵の策略と考え・・・バルチック艦隊は太平洋を北上している!!
即刻北へ向かうべきだ!!!
これは、移動策。幕僚のほとんどがこれに賛成しました。
津軽海峡を通ることを見越して・・・連繋機雷が用意されます。
当時極秘の新兵器でした。
最大の難点は、津軽海峡とウラジオストクの近さでした。
ダメージを与えても・・・殲滅できないかもしれない!!

5月24日
東郷の命令は・・・北への移動と配置・・・密封命令を下しました。
この方針にびっくりし、異を唱えたのは・・・参謀長・藤井較一と司令官・島村速雄。

5月25日
②緊急に三笠に召集・・・!!
ふたりはこのまま対馬にとどまるべきだ・・・待機策を薦めます。
しかし、待機策では・・・津軽海峡に現れたバルチック艦隊に追いつくことは出来ない・・・!!!
待機策は理想的だが・・・敵に遭えるかどうかは賭けでした。

③もう一人の参謀・佐藤鉄太郎の意見は・・・隠岐・能登の両にらみ策。。。
敵の位置が不明な場合は、どこから来られても大丈夫な・・・柔軟な作戦でした。
しかし・・・日本海の全体を補足するので、散らばられると戦いにくい・・・。

決めるのは東郷平八郎・・・!!

津軽か・対馬か・中間か・・・
日本の将来を左右する決断に迫られたのでした。

5月25日午後・・・東郷の決断が行われました。
「明日正午まで当方面に敵影を見ざれば、夕刻より北海方面に移動す」
北へ向かう密封命令は、翌日まで延ばされたのでした。

現時点では待機策、待った後は移動策をとったのでした。
この、たった1日が、運命の1日となるのでした。

26日夜明け・・・
バルチック艦隊の燃料船が、上海に入港したという電報が・・・!!
敵はまだ東シナ海にいる!!
ここで運搬船を手放すということは、最短距離の対馬海峡に違いない!!
密封命令は廃棄されました。

27日午前4時45分。
五島列島にいた哨戒船から、待ちに待った一文が・・・!!

”敵艦見ゆ”・・・北に向かう石炭をすべて海に捨て・・・
身軽となって鎮海湾を出ます!!

三笠に乗る東郷は・・・敵艦隊をついに捕えました。
日本海海戦の始まりです。
直前まで訓練を積んでいた連合艦隊の砲弾は・・・敵艦に次々と命中・・・
通信システムを駆使し、ロシアを圧倒しました。

バルチック艦隊戦艦8隻のうち、6隻を撃沈!!2隻を捕獲し、1隻もウラジオストクに向かわせんでした。
東郷によって殲滅がなされたのです。
我慢の東郷の勝利でした。

既に国力の限界を超えていた日本は、アメリカに講和の斡旋を願います。
ロシアはこれに応じ、日露戦争は幕を閉じたのでした。

日本の命運を決めたのは・・・東郷のたった1日だったのです。

作戦に置いて・・・すべてに取り掛かれるようにしていたと思われます。
しかし、みんなを納得させるために1日待った・・・これが東郷の勝因だったのです。

東郷はこれを”奇跡”と語っています。

その後の日本にもたらしたものは・・・
メディアは勝利を神話に引き上げていきます。
英雄談に、民衆は熱狂していきます。

勝った戦いは反省しない。。。
脈々と日本海軍の伝統として残っていきます。

第1次世界大戦後のワシントン軍縮会議で・・・
日本は戦艦西欧の6割という条約に甘んじます。
これに不満を募らせた海軍は、大鑑巨砲主義を掲げ、やがて機運を高めていきます。
昭和10年・・・日露戦争30周年に当たり、多くの戦記本が出版され、神話に拍車がかかっていきます。

昭和11年以降・・・急速に国内も軍部も臨戦態勢に入っていきます。
昭和12年世界最大の戦艦大和寄港。
日露戦争の勝利をきっかけに、大国と肩を並べた日本は、リアリズムを失い・・・太平洋戦争への道を突き進んでいくのでした。

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