日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:江戸

世界でも有数の大都市東京・・・この都市の礎を築いたのが江戸幕府初代将軍・徳川家康です。
今から400年ほど前、葦が生い茂る寒村を大都市へと変貌させたのが家康です。

1590年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、2万もの大軍勢を率いて北条氏を攻めるべく小田原城を包囲します。いわゆる小田原攻めです。
3か月に及ぶ籠城戦で、北条氏を攻め滅ぼします。
この時、豊臣軍の主力として戦い、勝利した徳川家康は恩賞を期待していました。
が・・・「徳川殿には、北条の領地であった関八州を与えよう。」
それまで治めていた駿河・遠江から関東への国替え・・・恩賞とは名ばかりの左遷でした。

秀吉はどうして家康を関東に追いやったのでしょうか?
全く新しいところに行くということは、政治的力を弱めるため・・・
秀吉は東北も完全に手に入れようとも考えていて、その場合に前線基地に家康を配置して働いてもらおうとも考えていました。
家康にとっては面白くない国替えだったのです。
関東を治めることを承諾した家康・・・本拠をどこに置くのか・・・??
候補に挙がったのは、小田原・鎌倉・江戸でした。
小田原にはすでに難攻不落の城がある・・・鎌倉は武士の都に相応しい・・・江戸は・・・辺鄙な田舎・・・!!
思案する家康に秀吉は・・・
「城は江戸に置いたらどうじゃ?」
家康は意外にもその提案を受け入れます。
もちろんそこには勝算がありました。

人間関係をリセットできる!!
家康が主導権を握れるということです。
1590年7月、49歳の家康は8000の家臣で江戸に向かいます。
余りの物々しさから「江戸御討入」と呼ばれました。
そして8月1日、遂に江戸に到着!!

当時の江戸について「岩淵夜話別集」には・・・
”いかにも粗相で 茅葺の家 百ばかり
 ここもかしこも 海に浸かった葦の茂る野原“と書かれています。
いくつもの川が流れる湿地帯で、平地が少なく、今の大手町辺りまで海でした。
そんなところで、町をつくるためにしなければならないことがたくさんありました。

江戸城修築・飲み水確保・土地拡張・運河開削・住民誘致・治水工事・・・

家康と共に江戸にやってきた家臣たちは口々に言います。
「殿・・・何よりもまずあの朽ち果てた江戸城を修復しましょう」と。
しかし家康は、「城など後でよい。まずは町じゃ!!」
と、町を作るにあたっての大量の物資を船で運び入れることになりましたが・・・日比谷入江は浅すぎて大きな船が入れません。
そこで、家康は運河を作ることに・・・!!

①運河開削
目をつけたのは、江戸湊に半島状に突き出した江戸前島です。
その根元に運河を開削しようと考えました。
名付けて道三堀です。
船がここを通れるようになれば、江戸湊との行き来が楽になります。
しかし、道三堀の開削は、秀吉の命に背く行為でした。
江戸入府に当たって家康は秀吉から言われていました。
「鎌倉の円覚寺の領地である江戸前島には、手を付けなてはならぬ!!」と。
江戸前島は、鎌倉時代から円覚寺の物で、家康の領地には含まれていませんでした。
しかし、家康は秀吉の命令を無視して道三堀を開削します。

道三堀を作り小名木川と新川を繋げば江戸と行徳を結ぶことができる!!
行徳は塩の産地でした。
戦国時代には塩の調達が一国の政策を左右したほど・・・家康も塩は軍用第一の品、領内いちばんの宝と考えていました。
つまり、行徳の塩を確保するためのルートだったのです。
道三堀の開拓作業は、少数の家臣たちで行いました。
同じ時期、秀吉が行っていた上方での普請に、多くのものを割いていたからです。
家康の知恵袋で工事の責任者だった本多正信は、指揮を上げるために毎朝4時に視察に来ました。
そのため、家臣たちは雨や雪の日でも休めず、慣れない土木工事に泣かされながら、道三堀を完成させていったのです。

家康が描く江戸の大都市構想・・・しかし、開発はなかなか進みませんでした。
当時関東平野では、利根川をはじめとする関東平野の川が度々氾濫!!
これが計画の妨げとなっていました。
江戸の町づくりには、関東平野の治水工事も必須でした。

②治水工事

関東平野の治水という大事業を任されたのは、家臣の中でも位の低い伊奈忠次でした。
もともと家康の家臣ではなく、はるか昔に徳川家に楯突いたことがあって諸国を放浪していました。
伊奈忠次は甲斐の国にいたことがあり・・・ここは当時の治水先進国でした。
ここでつぶさに見ていた伊奈・・・豊富な知識に抜擢する家康でした。
伊奈は関東八州の地方行政を統括する代官頭に任命されると、さっそく工事に取り掛かります。

最大の目標は、江戸を洪水から守ること!!

採用したのが中条堤と控堤と呼ばれる堤防でした。
現在の埼玉県熊谷市付近に作った中条堤で利根川の氾濫をせき止めます。
万が一水があふれだした場合にも、下流にいくつも作った控堤で勢いをおとし、江戸に流れ込まないようにしました。
伊奈はその工事に利根川流域の住人を使いました。
控堤の中に領という区割りを作って彼らを住まわせます。
土地のことをよく知る人々が自分たちを守るために堤を築く・・・工事はスムーズに進み、江戸の町づくりは本格化していきます。

1603年、家康は江戸幕府初代将軍に就任します。
江戸に幕府が開かれると、工事はより大規模なもの・・・天下普請となっていきます。
国家プロジェクトとなった江戸の開発・・・
家康が大名たちに普請を命じると、3万~4万の人が集まります。
様々な事業をスタートさせます。

③土地拡張
天下人として全国を統治することとなった家康・・・
諸国の大名たちを江戸に集め、監視下に置こうとします。
そのためには大名屋敷を作らなければ・・・!!
しかし、当時の江戸は、城のすぐ近くまで入り江で城下に屋敷を作る場所はありませんでした。
そこで、家康は入り江の埋め立てという前代未聞の大工事を行うことに・・・!!
埋め立てには神田山を切り崩した土が使われたと言われています。
神田山は千代田区神田駿河台にあった小高い丘で、その痕跡はほとんど残っていません。
が、地形図を見ると切り崩した後が残っています。

「慶長見聞集」によれば、この時埋められたのは三十余町・・・
北は大手町、南は新橋あたりまででした。
それほど大きな埋め立てをどのようにして行ったのでしょうか?
発掘調査によると・・・
地層は五層・・・何度も埋め立てられてきたことがわかります。
入江の底には溝があり・・・埋め立ての際に重要な役割を担っていました。
入江は干潮で潮が引いたとしてもところどころに水たまりができます。
溝はこの水を残らず出してしまうものでした。
潮が引くとき溝に海水を集めることで完全に排水・・・土を入れて埋め立てて行ったと思われます。
そこには予定通りに大名屋敷が建てられます。
後に大名小路と呼ばれ名所となります。

そんな架設された最初の橋は日本橋です。
町人地にすべく開拓を始めます。
町割りは京都に倣い碁盤目状・・・1町60間とし、中心には空地を設け共有スペースとしました。
通り沿いに建てられたのは町屋敷・・・主に店舗として利用されました。
そして奥には職人などが暮らす長屋が・・・しかし、困ったことに肝心な入居者がやってきません。

④住民誘致
当時の商業の中心は大坂でした。
西国で生まれ育った人々は、江戸は東の彼方の田舎町・・・移住したがりませんでした。
そこで家康は、まず三河や駿河など、身近な人々を江戸に移住させます。
そして、代償や特権を付与します。
家康恩顧の商人たちは、草創名主と呼ばれ名字帯刀を認められます。
年賀の大礼には登城し、将軍に拝謁されることも許されました。
地代や労役の免除も与えられ・・・この施策によって徐々に人が集まり始めます。
江戸は新たなビジネスチャンスの町だと魅力的にアピールすることができました。

家康が招いたのは商人たちだけではありません。
隅田川の河口に位置する佃島・・・その昔、砂が堆積してできた砂洲でした。
佃という地名は、家康が招いた上方佃島の漁師に基づきます。
以前家康が摂津・佃村の神社に参詣した際に、漁師たちが手厚くもてなしてくれました。
その礼にと褒美を与えると、漁師たちはお返しに白魚を献上。
家康はその美味しさが忘れられず、家康は漁師たちを佃島に住まわせたといいます。
江戸前海での漁業権を与え、漁民たちも御恩としてとった魚を献上する・・・残った魚は自由に販売することができました。
漁師たちの漁をしている姿を実際に見るという”将軍上覧”も行われました。
その背景には、従来の北条氏側の漁師たちを排除しよう・・・という狙いもありました。

江戸の町に人びとが集まるようになると、深刻な問題が・・・飲み水です。
入江を埋め立ててできた江戸の町では、井戸を掘っても海水の混ざった水しか出てこず、飲み水の確保が難しかったのです。

⑤飲み水確保
家康は家臣の大久保藤五郎に、飲み水の確保のために水源の探索を命じます。
大久保は自ら作った菓子を献上して家康をうならせていました。
菓子作りにはうまい水が必要・・・と考えた家康は菓子作りに長けた大久保なら水源の確保ができるに違いないとしたのです。

水源探しをし始めた大久保・・・
方々で味見をした結果、ついに満足する味を見つけます。
それが赤坂のため池と、神田明神山岸の小川でした。
大久保は家康に報告すると、すぐさま工事に取り掛かります。
そして、わずか3か月で水路を完成させます。
この水路は、当時の江戸市中を網羅し、人々の喉を潤しました。
喜んだ家康は、大久保に主水という名を授与。
古代のみ水を管理していた役所のことです。
この時、水が濁ってはいけないと”もんど”を”もんと”と読むようにと言ったといいます。

しかし、江戸の開発が進むと人口が増加、再び水不足に・・・。
そこで新しく探したのが井の頭池・・・ここには清水が滾々とわいていました。
江戸にひく工事は寛永に完成・・・神田上水です。
発掘調査によると、上水の仕組みは、地中の石樋や木樋を通り、井戸の下まで流れるようになっていました。
人びとはその水をくみ上げて生活用水に利用していました。
上水の管理費は利用者もちで、代金は水銀と呼ばれ、武士は俸禄の額を、町人は家の広さを基準にされました。

家康が入府したころの江戸城は、粗末な建物でした。
しかも、十数年間大きな修復工事は行われませんでした。
1604年将軍に就任してから1年4か月後、家康は諸大名に江戸城修築の計画を発表します。

⑥江戸城修築
修築に際して最も重要視されたのは、石垣や堀に使う石材です。
しかし、江戸周辺にはいい石の産地がありませんでした。
家康は、30ほどの西国の大名たちに石を運ぶ船を造るように命じます。
その数3000艘・・・船が全て出来上がったのは2年8か月後のことでした。
家康の最後の大プロジェクトです!!
所領10万石につき百人持之石(約4トン)を1120個を差し出すように大名に命じます。
つまり、10万石の大名は、およそ4500トンを江戸に運ぶこととなります。
しかし、それだけ大量の石をどのようにして切り出したのでしょうか?
石の調達を命じられた大名たちは、出来るだけ海岸近くに石を切り出すための石丁場を作ります。
その数およそ130カ所・・・。
切り出された石は、大名たちの作った船で江戸に運ばれます。
しかし、1艘に乗る石は4トンが2つが限界でした。
100万個以上の石を運ぶには、3000艘の船が月2回往復しても30年かかったのです。
輸送中には多くの命が失われました。
1606年5月、大風のために200余りの船が沈没・・・
たくさんの人々が命がけで運んだ石で、江戸城の修築は行われたのです。

設計に当たったのは、宇和島城や今治城を手掛けた築城の名手・藤堂高虎です。
家康は高虎の設計に細かく意見し、修正を加えていきました。
しかし、残っている資料が少なく、謎のままでした。
ところが、2017年2月、初期の江戸城を描いた絵図が見つかったのです。
江戸城を描いた最も古い絵図のひとつ・・・「江戸始図」です。
1607年頃のものとされます。

家康の築いた江戸城は、当時としては最大で、最強の実践的な城であったことがわかりました。
最も注目すべき点は、戦の際、最後の砦となる天守の構造です。
大天守ひとつではなく・・・大天守、小天守×2が連立し、もっとも発達した天守でした。
これを連立式天守と呼びます。
家康の江戸城は、軍事的要素の強い城であったことがわかります。
同じく連立式で有名なのが姫路城ですが、比較にならないほどでした。
あの立派な姫路城の大天守が、江戸城の小天守ぐらいだったのです。
圧倒的な江戸城でした。

さらに・・・本丸の南側に外枡形が5つも連続して設けられていました。
外枡形とは、門の外を塀などで囲んだもので、門を突破した敵をここで攻撃します。
こうした外枡形が5つも存在し、鉄壁を誇っていました。
安土城、大坂城にもあり、西日本のお城の作り方でした。
天守の北側に3連続の馬出があり、この馬出は甲斐の武田、関東の北条の東日本で発達したものです。
西と東の融合が、家康の江戸城だったのです。
まさに戦国以来の城づくりの集大成でした。

家康がここまで実践的な城にこだわったのが、豊臣方が大坂で依然として強大な力を持っていたからです。
家康としては、豊臣の最後の戦いで江戸城が攻められるのではないか?と、万が一のことを考えていたのです。
鉄壁の城・・・江戸城!!
最強の城塞だっただけでなく、5層6階で高さは大坂城(36m)を凌ぐ55mでした。
しかも、漆喰が塗られ純白でした。
白亜の大天守は、徳川の時代を知らせるものでした。
葦の生い茂る湿地に理想の町を作った家康には類まれな先見の名と知恵がありました。

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1590年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、22万の大軍勢で小田原城を包囲・・・
3か月に及ぶ籠城戦で、北条氏を滅ぼしました。

この時、豊臣軍の主力として戦い、勝利をもたらした徳川家康は、恩賞を期待していました。
ところが秀吉は・・・
「徳川殿には、北条氏の領地だった関八州を与えよう。」
それまで治めていた駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の代わりに、関東への国替え・・・恩賞とは名ばかりの左遷でした。

秀吉はどうして家康を関東に追いやったのでしょうか?
全く新しい土地は、政治的に力が弱まる・・・家康の力を削ぐため。。。
そして、ゆくゆくは東北も完全に手に入れる・・・そのためには、前線基地に家康を置く必要があったのです。
家康に大いに働いてもらおう・・・
家康にとっては、面白くない国替え・・・
関東を治めることを承諾した家康は、本拠をどこに置くか・・・??
候補に挙がったのは、小田原・鎌倉・江戸でした。

小田原にはすでに難攻不落の城がある・・・
鎌倉は、武家の都にはふさわしい・・・
江戸は辺鄙な田舎・・・。

家康に秀吉は・・・
「城は、江戸に置いたらどうじゃ?」と言いました。
家康は、その提案を受け入れます。
それは勝算があったから・・・。
それは、人間関係をリセットできること!!
家康自身が主導権を握れるということです。

1590年7月、49歳の家康は、8,000人の家臣を率いて、江戸へ向かいます。
その物々しさから、「江戸御討入」と呼ばれました。
そして8月1日、江戸に到着!!

当時の江戸は・・・
”いかにも粗相で、茅葺の家百ばかり
 ここかしこも海に浸かった 葦の茂る野原”でした。
いくつもの川が流れ込む湿地帯で、平地が少なく、大手町あたりまで海でした。
町を造るためにやることはたくさんありました。
江戸城修築・運河開削・飲み水確保・住民誘致・土地格調・治水工事・・・。
家康は何から始めたのでしょうか・・・??

家康と共に江戸にやってきた家臣たちは・・・朽ち果てた江戸城を立て直そうとしますが・・・町づくりを優先。
船で物資を運び込むことに・・・
江戸城に面した日比谷入江は浅すぎて、大きな船が入れません。
そこで、運河を作ることに・・・。

①運河開削
目を付けたのは、江戸前島・・・その付け根に運河を通そうとします。
船が通れるようになれば、江戸港との行き来が楽になります。
しかし、道三堀の開削は、天下人秀吉の命に背く行為でした。
家康は、江戸入府に当たり、秀吉から・・・
「鎌倉の円覚寺の領地である前島には手をつけてはならない」と言われていました。
つまり、家康の領地ではなかったのです。

しかし家康は命令を無視して道三堀を作ります。
江戸時代、江戸に塩を運んだ商人たち・・・その産地が行徳で、行徳を運河で結びたい。。。
塩の調達は一刻をも左右する時代、軍用第一の品、領内一の宝とし、行徳塩を確保するためのルートが必要だったのです。
この開削工事は、少数の家臣たちで行われました。
秀吉が行っていた上方での普請に多くの者が使われていたからです。
本多正信は士気を上げるために毎朝4時に視察に来ました。

そのため、家臣たちは雨の日でも雪の日でも休めず、慣れない土木工事に泣かされながら、道三堀を完成させていきます。


②治水工事
家康が描く大都市構想・・・しかし、開発はなかなか進みません。
利根川をはじめとする川が度々氾濫するからです。
関東平野の治水工事を・・・!!

関東平野の治水を任されたのは、伊奈忠次でした。
治水先進国・甲斐で過ごしていた伊奈を抜擢!!
伊奈は関東八州の代官頭に任ぜられると、工事に取り掛かります。
最大の目標は、江戸を洪水から守ること!!
そこで、中条堤と控堤を作ります。
まずは埼玉県熊谷市附近に作った中条堤で、利根川の氾濫を堰き止めます。
万が一中条堤から水があふれ出した場合は、いくつも作った控堤で勢いを弱め、江戸に入らないようにしました。
伊奈はその工事に利根川流域の人々を使いました。
そして、控堤に領を作り、彼らを住まわせます。
土地のことを良く知る人々が自分たちを守るために堤を築く・・・この治水システムによって、江戸の町づくりが本格化していきます。

1603年、家康が江戸幕府初代征夷大将軍に就任。
江戸に幕府が開かれると工事は大規模なものに・・・!!
天下普請・・・国家プロジェクトとなった江戸の開発・・・大名たちに普請を命じると、3万~4万人が集まります。
そこで・・・

③土地拡張

天下人として全国を統治することとなった家康・・・
諸国の大名たちを江戸に置いて監視しようとします。
そのためには、大名屋敷が必要でした。
しかし、当時の江戸は、城のすぐ近くまで入り江が迫っていて、屋敷を作る場所はほとんどありませんでした。
そこで、入り江の埋め立てという前代未聞の工事に・・・!!
埋め立てには、神田山を切り崩した土で作ったと言われています。
神田山は、千代田区神田駿河台にあった小高い丘で、現在その痕跡はほとんど残っていません。
が・・・地形図には切り取られた跡がはっきりと残っています。
この時埋め立てられたのは、三十余町・・・北は追手町、南は新橋まで広がりました。
どうやって・・・??
発掘された地層は五層で、何度も埋め立てられてきたようです。
埋立地には、大名屋敷が建てられました。
後に大名小路と呼ばれ、江戸の名所になりました。
その運河に、最初に架けられたのが日本橋です。
近くを町割りを開始し、町人たちも住むようにしましたが・・・人が来ません。

④住民誘致
商業の中心地は大坂・・・西国で埋まった人々になっては江戸は東の彼方・・・田舎町なので、誰も移住したがりませんでした。
家康は、三河や駿河の身近な人々を移住させます。
そして、代償や特権を用意します。
伝馬役の馬込勘解由には、大伝馬町に土地を与えます。
家康恩顧の商人たちは、草分名主として名字帯刀が許されました。
年賀の大礼の際などには、将軍に拝謁することも許されました。
地代や労役を免除などの特権も与えられました。
これによって人々が集まってきたのです。
大いににぎわうようになっていく江戸・・・
佃島に来たのは、上方の佃村の漁師です。
彼らは、家康に、江戸前海での漁業権を与えられていました。

人々が集まるようになると・・・深刻な問題が・・・飲み水です。
埋め立てた土地では、井戸を掘っても海水しか出ません。
飲み水の確保が難しいのですが・・・

⑤飲み水確保
家康は、家臣の大久保藤五郎に、飲み水の確保を命じます。
水源を探し・・・満足する味の水は・・・??
赤坂溜池と、神田明神山岸の小川です。
すぐさま工事に取り掛かり、3か月で水路を完成!!
この水路は、当時の江戸市中を網羅し、人々ののどを潤しました。

人口はさらに増加・・・水不足が・・・新しい水源は、井之頭池でした。
ここには、清水が滾々湧いていました。
神田上水を作り、江戸市中にひきこみます。
上水の維持管理費用は利用者持ちで、代金は水銀と呼ばれ、武士は俸禄の額を、町人は家の広さを元に徴収されていました。

家康が入府したころの江戸城は、粗末なものでした。
しかも、十数年間、修築工事は行われませんでした。
1604年、将軍に就任してから1年4か月後・・・諸大名に江戸城修築計画を発表します。

⑥江戸城修築
修築に際して最も重要とされたのが、石材です。
江戸周辺には、良質な石の産地はありませんでした。
家康は、島津家や浅野家など・・・西国の大名たちに石を運ぶ船を作るように命じます。
その数3,000艘!!すべて出来上がったのは、2年8か月後だったと言われています。
家康は、所領10万石につき100人持之石(約4トン)・1,120個を差し出すように、大名たちに命じました。
100万石なら4,500トン、採掘場所の伊豆から江戸に運ぶことになりました。
大量の石をどうやって切り出したのでしょうか?
大名達は、出来るだけ対岸近くに石丁場を設けました。
その数、およそ130カ所!!
一艘の船に乗せるのは、4トン×2が限界・・・100万個以上の石を運ぶには、3000艘の船が月2回往復しても30年かかりました。
輸送中には多くの命が失われます。
たくさんの人々が命を懸けた石で、江戸城は修復されました。
設計したのは築城の名手・藤堂高虎。
そこへ自ら修正を加えます。

初期の江戸城は・・・
当時としては最大、最強の実践的な城でした。
天守は、大天守と小天守が連立(連立式天守)し、最も発達した天守・・・軍事的要素の強いものでした。
外枡形(西国)が5つもあり、鉄壁の江戸城でした。
天守の北側に、3つの馬出(東国)・・・東と西が融合した城だったのです。
まさに、戦国以来の城の集大成・・・。
豊臣方がいまだに強大な力を持っている中、万が一、江戸城が攻められたことを考えた鉄壁の城だったのです。

天守は五層六階建てで、大坂城をしのぐ55m、漆喰で塗られた純白の城・・・
高さは富士山と並ぶようだ・・・白く雪山のように見える・・・白亜の大天守は、徳川の世を知らせるものでした。
葦の生い茂る湿地に理想の町を造った家康は、たぐいまれなる先見の明と知恵がありました。


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東京は世界屈指の巨大都市ですが・・・この基礎を築いたのは、徳川家康です。
熟考を重ねて江戸を選んだわけではありません。

当時の江戸は・・・湿地の広がる農地にも適さないさびれた場所でした。
寒村にすぎなかった江戸をどうして選んだのか??

きっかけは小田原攻めでした。
最大の功労者だった家康・・・
秀吉に恩賞として与えられたのは、都からは程遠い関東の地だったのです。
家康の実力を恐れた秀吉の封じ込めによるものだとされています。

天下を狙えるか?全てを失うか・・・??

家康はこれまでに、三河・岡崎・浜松・駿府、武田家旧領の甲斐・信濃も合併・・・
領国経営も慣れてきていた頃の江戸・・・??だったのです。


1582年6月2日本能寺の変で織田信長が自刃。。。
主君信長の仇を討ち・・・家臣の中から一歩抜きん出たのが羽柴秀吉でした。
筆頭家老の柴田利家も負かし、天下人の座を狙っていました。
これに異を唱えたのが、信長の遺児・信雄です。
秀吉の野望を阻止するべく助けを求めたのが徳川家康でした。

織田家を支える・・・大義名分を手にした家康は、全国大名に味方を募ります。
秀吉の勝手な行いは不義であり、人道に反している・・・として反秀吉包囲網を作り・・・大合戦となっていきます。
小牧長久手の戦いで会いまみえ・・・長久手で秀吉軍を撃破して大打撃を与えるものの・・・
秀吉が信勝を籠絡し、和議を結んだのです。
家康は、戦を有利に進めていたにもかかわらず・・・講和せざるを得なかったのです。

この時・・・秀吉は征夷大将軍になりたかったのかもしれませんが・・・東の夷を鎮圧することのできなかった秀吉・・・。
秀吉は、政治的駆け引きで家康を従わせようとします。
1585年秀吉は関白となります。

関白の権威で、家康に上洛を要求します。
しかし、対決姿勢を崩そうとしない家康。。。
秀吉は奇策に・・・妹・朝日姫を家康に嫁がせ・・・人質として母を差し出しました。
折れた家康は・・・1586年10月大坂へ出発し・・・臣従を誓います。
他の大名達にも大きな影響を与えます。
徳川殿さえも、秀吉に従うのだ・・・と。

翌年、九州を治めた秀吉・・・逆らうのは、北条と伊達・・・ぐらいになっていました。
1590年22万の大軍勢で小田原攻めを敢行する秀吉・・・先頭を任されたのは、家康でした。
およそ3か月の籠城戦の末・・・7月6日・・・小田原城開城・・・北条氏は滅亡しました。
7月13日論功行賞を行われ・・・第1等の功労者となった家康。。。
その恩賞は・・・それまでの領地を没収し・・・新領地として北条氏の関東が与えられた・・・理不尽なものだったのです。
先祖伝来の領地領民を捨て、見も知らぬ土地に移住する・・・。
家康の実力を考えて、都から遠くに・・・!!
という秀吉の意図が感じられました。

あまりにも理不尽な要求を・・・家康は受け入れざるを得ませんでした。
ちなみに織田信雄は転封命令には服さず・・・不服を申し立て・・・所領全てを没収されてしまったのです。

関東支配のためにはどこに??
①小田原・・・難攻不落の小田原城を居城とする・・・??
②鎌倉・・・武家の古都は、家康に相応しい。
③江戸・・・秀吉が勧める。

どこが一番いい・・・??

しがらみのない・・・大坂と条件の似ている江戸・・・??

城を築く場所を誤れば・・・天下への道が閉ざされてしまう・・・!!

居城の選定条件・・・
①防御力
②経済
③港湾施設

秀吉の言うとおり、江戸に拠点を置くことにした家康。。。
家康は、家臣団を伴って江戸へ・・・!!
そのことに一番驚いたのは、秀吉だったのかもしれません。

江戸に入国して2年後・・・1592年~文禄・慶長の役が起こります。
天下統一を果たした秀吉は朝鮮へと向かったのですが・・・参加したのは朝鮮にに近い九州から近畿の大名達でした。
関東の家康は派兵を免れ・・・体力をそがれることなく、蓄え・・・江戸城の本格的な工事を始めました。
実践に備えた守り最強の城に仕上げていきます。
政治の拠点としてだけではなく、軍事的拠点へ!!

家臣団を刷新し・・・若くても実力のある者・・・井伊直政、榊原康政、本田忠勝・・・後の徳川四天王がそこにはいました。
新田開発のための利根川東遷事業を行います。
多くが湿地帯で川の流れこむ農地に不向きな土地を・・・
利根川の流れを変え、湿地を肥沃な大地に!!
治水工事を進めました。
工事のもう一つの狙いは・・・
右岸に家康の腹心を配置し、江戸を守る防衛戦を築いたのです。
そして・・・この土木作業によって、家臣団たちは統率力、団結力を磨いていったのです。

1598年8月18日、秀吉死去・・・。
家康に再び天下取りの機会が・・・!!

1600年9月15日・・・関ヶ原の戦い!!
この戦いを見据えて江戸城に入った家康は、西軍の動きを監視!!
戦略を練るために、26日間城に籠もります。
そして、全国各地の大名の100通以上の書状を送り、味方を固め、敵を調略します。
江戸は・・・東北から中国地方まで、敵味方入り乱れる中で・・・情報を収集するのに最もいい場所となりました。

家康の謀議によって、西軍諸将は東軍に寝返り・・・戦いの前に決着はついていた!!とも言われているのです。1603年2月、家康は征夷大将軍となります。
江戸に幕府を開くと、江戸の人口は爆発的に増加!!
全国大名に労力を強いる天下普請によって、豊臣家の大坂城を凌ぎ、世界最大規模の城郭を作るのです。

1615年5月・・・豊臣氏滅亡!!
家康は、名実ともに天下人となったのです。
逆境を乗り越え、いくつものピンチをチャンスに変えてきた家康・・・
75年の生涯を閉じたのは、大坂の陣の翌年でした。

家康の死後も利根川の東遷工事は続き・・・
利根川が太平洋にそそぐようになるのは、家綱の時代・・・60年後でした。
農業に不向きの湿地帯は、日本最大の穀倉地帯へと生まれ変わりました。
荒廃地を食料確保の農地に替えることで・・・江戸は100万を超える世界最大の都市へとなっていくのでした。
そしてこれを見本とし、開拓することで日本は国内の富の拡大・国土の開発を行ったのです。
結果として、現在の河川の99.9%は、江戸時代に作られたものと言えます。
私達は、徳川時代250年間の国土づくりの上に立っているのです。
日本の国土形成の最大の功労者は家康かもしれません。

幾度ものピンチをチャンスに変える能力と・・・その家康に家臣が付いていくという人望・・・
一緒に絶えてきた結束力!!その信頼があったからこその家康なのです。



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江戸時代、大工の親方になるにはどうすれば???

先ずは12歳ぐらいで親方に仕え始めます。
請書が作られ・・・手付金を納めます。
そして、徒弟として工房に入り、3~10年の年季奉公を住み込みでするのでした。
衣食住は面倒見てもらえますが、基本的に無給。。。たまに小遣いをもらう程度でした。
休みも盆と正月だけ。。。
親方は、技術を教えてやっているので・・・家の用事も言い付け放題です。

でも・・・辛抱できなくて・・・逃げてしまう徒弟もあって・・・
そんな時は、請書に署名した保証人が、それまでの衣食住その他の費用を支払わなければなりません。

年季を終えると、独立⇒鑑札⇒住み込みの平職人or通い職人です。
しかし・・・親方になるためには、仲間株を取得する必要がありました。
難関を突破した職人は、気位も高く・・・
「細工は流々、仕上げをご覧じろ」というような自負心・責任感・・・職人気質を持つようになるのです。

江戸の”三職”と呼ばれたのは。。。
大工・左官・鳶職は、結構恵まれていました。

大工は江戸で1日銀三匁~五匁。
1855年の江戸大地震直後では1日銀三匁に弁当代銀一匁二分とあります。
小粒に換算して・・・1日420文程度の収入となりました。
100文で米が7合買えた時代。。。
しかし、大火、大地震直後には2~3倍・・・下手をすると5~6倍になることもありました。

おまけに大工は・・・朝四ツの小休止、昼食、昼八ツ(おやつ)を引くと、労働時間は短い時で1日4時間程度でした。
早出や残業には割増料金がついたので・・・十分すぎる生活ができたのでした。

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