日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:江戸城

今回の先生は、橋場日月先生です~~!!

今なお現代人を魅了してやまない戦国武将・・・。
血で血を洗う戦乱の世を勝ち抜くために、彼らが求めていたものは・・・お金でした。
戦国武将は、お金集めに必死でした。

織田信長・・・
当時、京都・大坂にまで勢力を伸ばしていた信長は、京都・大坂から多額の税金を徴収。
裕福な寺院、栄えていた堺・・・など。
この時集めていたお金は、ある金額と一致します。
それは、足利義昭を将軍に擁立する為に京都に攻め入った戦の費用でした。
戦をする・・・それは莫大な費用が掛かるという事。
優秀な武将や兵士を集める給料、費用、食費や刀、鎧、鉄砲・・・攻め落とした城の補修費・・・
何をするにもお金が必要でした。

戦国武将の力とは・・・すなわち資金力!!
腕っぷしの強さや大義だけでは勝てないのです。
天下を取る野望はあるが、お財布事情はギリギリ・・・
信長も資金繰りに悩む若手経営者だったのです。


豊臣秀吉が、信長の時代に大きな力を発揮したのが経費削減で下。
1581年、鳥取城を落とす際に・・・手っ取り早いのは兵糧攻め・・・
お金と時間がかかる・・・三木城の時は2年もかかってしまった・・・。
そこで・・・!!
秀吉は秘策で兵糧攻めを4か月に短縮しました。
その秘策とは・・・??
いつもの3倍の値段で米を買い占めたのです。
秀吉が潜り込ませた商人が、城の倉庫の米も買い占め・・・
この時の経費は2000万円。
しかし、米がない鳥取城はすぐに陥落。
これにより秀吉は、戦の時間を1年8か月短縮し、300億円もの経費削減をしました。

江戸幕府初代将軍・徳川家康・・・

戦国時代の家康は、250万石の大大名でありながら、戦国一のドケチでした。
食事は麦飯、服も質素で、下着も買い換えない・・・
そんな家康が天下人になれたのは・・・??

1595年秀吉の甥・豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ、切腹させられる事件がありました。
そんな中、細川忠興の家臣が家康の元へ・・・
「実は我が殿は、秀次様より黄金100枚を借りておりました。
 一刻も早く借金を返し、関係を絶たねば、殿は秀次様の仲間と見なされ、切腹となります。
 どうか・・・お助け下さりませ。
 殿を救うと思うて、金子数枚だけでも貸していただけませぬか?」

戦国一のドケチの行動は・・・??
「・・・では、これを持っていかれよ」

なんと黄金100枚!!
現在の二億円、さらには、「返済は無用じゃ」と・・・
「その代わり、わかっておられますな・・・」
この時の恩を忘れていなかった細川忠興は、関ケ原の戦いで先陣を切って徳川方につきました。
普段ケチケチしてためたお金を、恩を着せるために使った家康・・・この買収戦略があったからこそ天下をとれたのです。

1605年、天下を統一した後も、決して贅沢をすることのなかった家康・・・
しかし、息子に将軍職を譲って大御所となった家康が、不思議な行動に・・・??
家康が金に糸目をつけずに買い始めたものは・・・石でした。
ある日突然大名を招集した家康・・・
「これより江戸城の石垣工事を行う!!
 皆も、協力せい」
庭の石を指し・・・
「大石は一つ白銀20枚(400万円)、小石はひと箱小判3枚(60万円)じゃ」
と、ただの意思を買い占め、高値で売りさばきました。
自作自演の恐ろしいマネー術でした。
当時のスペイン商人の手記によると、城の床がきんぎんの重みで抜けたほど潤っていました。


もう一人の達人は・・・伊達政宗!!
独眼竜で知られ、最盛期には114万石の大大名でした。
そんな政宗は、剛腕なマネー術が目立ちます。
領地でとれる砂金のパワーで、東北を席巻していた政宗は、秀吉にも莫大な賄賂を贈り可愛がられていました。

「ところでお前、会津に攻め入ったようじゃの?
 わしの許しを得ず、勝手に戦を仕掛けるなど、言語道断じゃ。
 仕置に会津は蒲生氏郷に与える!!」by秀吉

会津には欧州に匹敵する金山がある・・・政宗はそれを奪おうと会津を責め取っていました。
しかし、その行動に目をつけられ、よりによって会津はライバル蒲生氏郷の手に・・・!!

「いまに見ておれ!!」

と、政宗は常識外れの行動に出ます。
会津を引き渡す前に、事故に見せかけて金鉱を水没させました。
会津ではその後一切金が採れなくなり、奥州の金が高騰したとか・・・。

さらに江戸時代、政宗は会津への執着を捨ててはいませんでした。

「どうか、会津をお返しいただけませんでしょうか?」by政宗

「お前は素行が悪いから駄目じゃ」by家康

政宗の夢は再び潰えた・・・しかし、そんな中、あるニュースが舞い込んできました。

「いま、江戸は人が急に増えて、米が足りていないそうです。」by家臣
「何・・・??という事は?
 農民たちから余った米を買い占めるのじゃ」by政宗

安く買い占めた米を江戸で高く売るビジネスを始めます。
これにより年間10万石、約45億円の収入を得ました。

江戸っ子の胃袋を掴んだ政宗は、後に天下の副将軍と呼ばれるほどお金の力で幕府の実権を握りました。
しかし、病魔にむしばまれ死を悟ると、お金の力を誰よりも知っていた政宗は、市の3か月前、幕府の閣僚に頼みごとをしました。

「すまぬが少々金を貸してもらえないだろうか」
「して・・・いかほどに・・・」
「銀子1000貫・・・!!」
その額およそ30億円!!
お金がたくさんあるのにどうしてそんな大金を・・・??

「これで仙台藩は安泰じゃ
 わしの死後、仙台藩が無くなれば貸し倒れとなる・・・
 借金があれば、取り潰しになることはない」by政宗

仙台藩は、政宗の死後15代にわたり栄えたのでした。

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世界でも有数の大都市東京・・・この都市の礎を築いたのが江戸幕府初代将軍・徳川家康です。
今から400年ほど前、葦が生い茂る寒村を大都市へと変貌させたのが家康です。

1590年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、2万もの大軍勢を率いて北条氏を攻めるべく小田原城を包囲します。いわゆる小田原攻めです。
3か月に及ぶ籠城戦で、北条氏を攻め滅ぼします。
この時、豊臣軍の主力として戦い、勝利した徳川家康は恩賞を期待していました。
が・・・「徳川殿には、北条の領地であった関八州を与えよう。」
それまで治めていた駿河・遠江から関東への国替え・・・恩賞とは名ばかりの左遷でした。

秀吉はどうして家康を関東に追いやったのでしょうか?
全く新しいところに行くということは、政治的力を弱めるため・・・
秀吉は東北も完全に手に入れようとも考えていて、その場合に前線基地に家康を配置して働いてもらおうとも考えていました。
家康にとっては面白くない国替えだったのです。
関東を治めることを承諾した家康・・・本拠をどこに置くのか・・・??
候補に挙がったのは、小田原・鎌倉・江戸でした。
小田原にはすでに難攻不落の城がある・・・鎌倉は武士の都に相応しい・・・江戸は・・・辺鄙な田舎・・・!!
思案する家康に秀吉は・・・
「城は江戸に置いたらどうじゃ?」
家康は意外にもその提案を受け入れます。
もちろんそこには勝算がありました。

人間関係をリセットできる!!
家康が主導権を握れるということです。
1590年7月、49歳の家康は8000の家臣で江戸に向かいます。
余りの物々しさから「江戸御討入」と呼ばれました。
そして8月1日、遂に江戸に到着!!

当時の江戸について「岩淵夜話別集」には・・・
”いかにも粗相で 茅葺の家 百ばかり
 ここもかしこも 海に浸かった葦の茂る野原“と書かれています。
いくつもの川が流れる湿地帯で、平地が少なく、今の大手町辺りまで海でした。
そんなところで、町をつくるためにしなければならないことがたくさんありました。

江戸城修築・飲み水確保・土地拡張・運河開削・住民誘致・治水工事・・・

家康と共に江戸にやってきた家臣たちは口々に言います。
「殿・・・何よりもまずあの朽ち果てた江戸城を修復しましょう」と。
しかし家康は、「城など後でよい。まずは町じゃ!!」
と、町を作るにあたっての大量の物資を船で運び入れることになりましたが・・・日比谷入江は浅すぎて大きな船が入れません。
そこで、家康は運河を作ることに・・・!!

①運河開削
目をつけたのは、江戸湊に半島状に突き出した江戸前島です。
その根元に運河を開削しようと考えました。
名付けて道三堀です。
船がここを通れるようになれば、江戸湊との行き来が楽になります。
しかし、道三堀の開削は、秀吉の命に背く行為でした。
江戸入府に当たって家康は秀吉から言われていました。
「鎌倉の円覚寺の領地である江戸前島には、手を付けなてはならぬ!!」と。
江戸前島は、鎌倉時代から円覚寺の物で、家康の領地には含まれていませんでした。
しかし、家康は秀吉の命令を無視して道三堀を開削します。

道三堀を作り小名木川と新川を繋げば江戸と行徳を結ぶことができる!!
行徳は塩の産地でした。
戦国時代には塩の調達が一国の政策を左右したほど・・・家康も塩は軍用第一の品、領内いちばんの宝と考えていました。
つまり、行徳の塩を確保するためのルートだったのです。
道三堀の開拓作業は、少数の家臣たちで行いました。
同じ時期、秀吉が行っていた上方での普請に、多くのものを割いていたからです。
家康の知恵袋で工事の責任者だった本多正信は、指揮を上げるために毎朝4時に視察に来ました。
そのため、家臣たちは雨や雪の日でも休めず、慣れない土木工事に泣かされながら、道三堀を完成させていったのです。

家康が描く江戸の大都市構想・・・しかし、開発はなかなか進みませんでした。
当時関東平野では、利根川をはじめとする関東平野の川が度々氾濫!!
これが計画の妨げとなっていました。
江戸の町づくりには、関東平野の治水工事も必須でした。

②治水工事

関東平野の治水という大事業を任されたのは、家臣の中でも位の低い伊奈忠次でした。
もともと家康の家臣ではなく、はるか昔に徳川家に楯突いたことがあって諸国を放浪していました。
伊奈忠次は甲斐の国にいたことがあり・・・ここは当時の治水先進国でした。
ここでつぶさに見ていた伊奈・・・豊富な知識に抜擢する家康でした。
伊奈は関東八州の地方行政を統括する代官頭に任命されると、さっそく工事に取り掛かります。

最大の目標は、江戸を洪水から守ること!!

採用したのが中条堤と控堤と呼ばれる堤防でした。
現在の埼玉県熊谷市付近に作った中条堤で利根川の氾濫をせき止めます。
万が一水があふれだした場合にも、下流にいくつも作った控堤で勢いをおとし、江戸に流れ込まないようにしました。
伊奈はその工事に利根川流域の住人を使いました。
控堤の中に領という区割りを作って彼らを住まわせます。
土地のことをよく知る人々が自分たちを守るために堤を築く・・・工事はスムーズに進み、江戸の町づくりは本格化していきます。

1603年、家康は江戸幕府初代将軍に就任します。
江戸に幕府が開かれると、工事はより大規模なもの・・・天下普請となっていきます。
国家プロジェクトとなった江戸の開発・・・
家康が大名たちに普請を命じると、3万~4万の人が集まります。
様々な事業をスタートさせます。

③土地拡張
天下人として全国を統治することとなった家康・・・
諸国の大名たちを江戸に集め、監視下に置こうとします。
そのためには大名屋敷を作らなければ・・・!!
しかし、当時の江戸は、城のすぐ近くまで入り江で城下に屋敷を作る場所はありませんでした。
そこで、家康は入り江の埋め立てという前代未聞の大工事を行うことに・・・!!
埋め立てには神田山を切り崩した土が使われたと言われています。
神田山は千代田区神田駿河台にあった小高い丘で、その痕跡はほとんど残っていません。
が、地形図を見ると切り崩した後が残っています。

「慶長見聞集」によれば、この時埋められたのは三十余町・・・
北は大手町、南は新橋あたりまででした。
それほど大きな埋め立てをどのようにして行ったのでしょうか?
発掘調査によると・・・
地層は五層・・・何度も埋め立てられてきたことがわかります。
入江の底には溝があり・・・埋め立ての際に重要な役割を担っていました。
入江は干潮で潮が引いたとしてもところどころに水たまりができます。
溝はこの水を残らず出してしまうものでした。
潮が引くとき溝に海水を集めることで完全に排水・・・土を入れて埋め立てて行ったと思われます。
そこには予定通りに大名屋敷が建てられます。
後に大名小路と呼ばれ名所となります。

そんな架設された最初の橋は日本橋です。
町人地にすべく開拓を始めます。
町割りは京都に倣い碁盤目状・・・1町60間とし、中心には空地を設け共有スペースとしました。
通り沿いに建てられたのは町屋敷・・・主に店舗として利用されました。
そして奥には職人などが暮らす長屋が・・・しかし、困ったことに肝心な入居者がやってきません。

④住民誘致
当時の商業の中心は大坂でした。
西国で生まれ育った人々は、江戸は東の彼方の田舎町・・・移住したがりませんでした。
そこで家康は、まず三河や駿河など、身近な人々を江戸に移住させます。
そして、代償や特権を付与します。
家康恩顧の商人たちは、草創名主と呼ばれ名字帯刀を認められます。
年賀の大礼には登城し、将軍に拝謁されることも許されました。
地代や労役の免除も与えられ・・・この施策によって徐々に人が集まり始めます。
江戸は新たなビジネスチャンスの町だと魅力的にアピールすることができました。

家康が招いたのは商人たちだけではありません。
隅田川の河口に位置する佃島・・・その昔、砂が堆積してできた砂洲でした。
佃という地名は、家康が招いた上方佃島の漁師に基づきます。
以前家康が摂津・佃村の神社に参詣した際に、漁師たちが手厚くもてなしてくれました。
その礼にと褒美を与えると、漁師たちはお返しに白魚を献上。
家康はその美味しさが忘れられず、家康は漁師たちを佃島に住まわせたといいます。
江戸前海での漁業権を与え、漁民たちも御恩としてとった魚を献上する・・・残った魚は自由に販売することができました。
漁師たちの漁をしている姿を実際に見るという”将軍上覧”も行われました。
その背景には、従来の北条氏側の漁師たちを排除しよう・・・という狙いもありました。

江戸の町に人びとが集まるようになると、深刻な問題が・・・飲み水です。
入江を埋め立ててできた江戸の町では、井戸を掘っても海水の混ざった水しか出てこず、飲み水の確保が難しかったのです。

⑤飲み水確保
家康は家臣の大久保藤五郎に、飲み水の確保のために水源の探索を命じます。
大久保は自ら作った菓子を献上して家康をうならせていました。
菓子作りにはうまい水が必要・・・と考えた家康は菓子作りに長けた大久保なら水源の確保ができるに違いないとしたのです。

水源探しをし始めた大久保・・・
方々で味見をした結果、ついに満足する味を見つけます。
それが赤坂のため池と、神田明神山岸の小川でした。
大久保は家康に報告すると、すぐさま工事に取り掛かります。
そして、わずか3か月で水路を完成させます。
この水路は、当時の江戸市中を網羅し、人々の喉を潤しました。
喜んだ家康は、大久保に主水という名を授与。
古代のみ水を管理していた役所のことです。
この時、水が濁ってはいけないと”もんど”を”もんと”と読むようにと言ったといいます。

しかし、江戸の開発が進むと人口が増加、再び水不足に・・・。
そこで新しく探したのが井の頭池・・・ここには清水が滾々とわいていました。
江戸にひく工事は寛永に完成・・・神田上水です。
発掘調査によると、上水の仕組みは、地中の石樋や木樋を通り、井戸の下まで流れるようになっていました。
人びとはその水をくみ上げて生活用水に利用していました。
上水の管理費は利用者もちで、代金は水銀と呼ばれ、武士は俸禄の額を、町人は家の広さを基準にされました。

家康が入府したころの江戸城は、粗末な建物でした。
しかも、十数年間大きな修復工事は行われませんでした。
1604年将軍に就任してから1年4か月後、家康は諸大名に江戸城修築の計画を発表します。

⑥江戸城修築
修築に際して最も重要視されたのは、石垣や堀に使う石材です。
しかし、江戸周辺にはいい石の産地がありませんでした。
家康は、30ほどの西国の大名たちに石を運ぶ船を造るように命じます。
その数3000艘・・・船が全て出来上がったのは2年8か月後のことでした。
家康の最後の大プロジェクトです!!
所領10万石につき百人持之石(約4トン)を1120個を差し出すように大名に命じます。
つまり、10万石の大名は、およそ4500トンを江戸に運ぶこととなります。
しかし、それだけ大量の石をどのようにして切り出したのでしょうか?
石の調達を命じられた大名たちは、出来るだけ海岸近くに石を切り出すための石丁場を作ります。
その数およそ130カ所・・・。
切り出された石は、大名たちの作った船で江戸に運ばれます。
しかし、1艘に乗る石は4トンが2つが限界でした。
100万個以上の石を運ぶには、3000艘の船が月2回往復しても30年かかったのです。
輸送中には多くの命が失われました。
1606年5月、大風のために200余りの船が沈没・・・
たくさんの人々が命がけで運んだ石で、江戸城の修築は行われたのです。

設計に当たったのは、宇和島城や今治城を手掛けた築城の名手・藤堂高虎です。
家康は高虎の設計に細かく意見し、修正を加えていきました。
しかし、残っている資料が少なく、謎のままでした。
ところが、2017年2月、初期の江戸城を描いた絵図が見つかったのです。
江戸城を描いた最も古い絵図のひとつ・・・「江戸始図」です。
1607年頃のものとされます。

家康の築いた江戸城は、当時としては最大で、最強の実践的な城であったことがわかりました。
最も注目すべき点は、戦の際、最後の砦となる天守の構造です。
大天守ひとつではなく・・・大天守、小天守×2が連立し、もっとも発達した天守でした。
これを連立式天守と呼びます。
家康の江戸城は、軍事的要素の強い城であったことがわかります。
同じく連立式で有名なのが姫路城ですが、比較にならないほどでした。
あの立派な姫路城の大天守が、江戸城の小天守ぐらいだったのです。
圧倒的な江戸城でした。

さらに・・・本丸の南側に外枡形が5つも連続して設けられていました。
外枡形とは、門の外を塀などで囲んだもので、門を突破した敵をここで攻撃します。
こうした外枡形が5つも存在し、鉄壁を誇っていました。
安土城、大坂城にもあり、西日本のお城の作り方でした。
天守の北側に3連続の馬出があり、この馬出は甲斐の武田、関東の北条の東日本で発達したものです。
西と東の融合が、家康の江戸城だったのです。
まさに戦国以来の城づくりの集大成でした。

家康がここまで実践的な城にこだわったのが、豊臣方が大坂で依然として強大な力を持っていたからです。
家康としては、豊臣の最後の戦いで江戸城が攻められるのではないか?と、万が一のことを考えていたのです。
鉄壁の城・・・江戸城!!
最強の城塞だっただけでなく、5層6階で高さは大坂城(36m)を凌ぐ55mでした。
しかも、漆喰が塗られ純白でした。
白亜の大天守は、徳川の時代を知らせるものでした。
葦の生い茂る湿地に理想の町を作った家康には類まれな先見の名と知恵がありました。

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勝海舟は、咸臨丸の艦長として日本人初の太平洋横断に成功した人です。
後に陸軍総裁となって、官軍総参謀の西郷隆盛に直談判、江戸城無血開城を実現しました。

katu
江戸市中を戦火から救った立役者なのですが。。。

そう、彼がいなければ、明治維新の世明けは間違いなく遅れていました。
そんな海舟の明治はどんな時代だったのでしょうか???

江戸城無血開城の時、海舟は46歳。
明治元年の10月に、徳川家は駿府に移住となります。
そして海舟も、旧幕臣たちと共に静岡に移り住みます。
そして東京に戻ったのが明治5年のことでした。

新政府軍から海軍大輔として迎えられた海舟、赤坂氷川町の旗本屋敷を買い取ってそこに住みます。
妻妾と子供たち・・・4男5女で賑やかな家庭でした。

海舟は6年に、参議兼海軍卿となります。
7年には元老院議官に命ぜられますが・・・これを辞し、以後政局に関わることはありませんでした。
薩長の人材で占められた新政府に嫌気がさしたのでは???といわれています。
海舟は自宅で時局を論じたり、執筆活動に明け暮れます。

そして・・・旧幕臣の救済へと進んでいくのでした。

幕府の解体によって、生計の道を断たれてしまった幕臣たちは・・・
家財道具を売り払い、その日暮らしをしていました。
もっとひどいものは、娘を遊廓に売ったり、一家離散したりもしていました。
海舟は、同じ幕臣としてこの状況を憂慮していました。
生活に困った人達の物品を預かり、骨董品売買の仲介のようなことをしていたのです。

しかし・・・この骨董品の売買も、明治20年伯爵となってからは止めています。
この頃になると、旧幕臣たちの生活も安定してきたからです。

海舟は、翌21年に枢密顧問官、23年に貴族院議員となりましたが、政治家として活躍することはありませんでした。
第2時伊藤内閣による日清戦争でも終始批判しています。
伊藤ら政府高官が、今や欧州と並ぶ文明国であるとして、ほかのアジア諸国を一段低く見ていたことに我慢できなかったようです。
日本だけが優越意識を持ち、アジア諸国を蔑視し、戦争を進めようとするのは愚の骨頂であると。。。

その後海舟は、西南戦争で逆賊となった西郷隆盛の名誉回復とその功績を称える運動をし、西郷の子供たちの面倒も見ています。

嫡男で海軍少佐の小鹿が41歳で病死し、落胆する海舟。
しかし、慶喜のとりなしによって、慶喜の十男・精を娘・伊代の養子に迎え、勝家を相続させます。
慶喜の子供をむかえることで、徳川からもらった禄、これまでに受けた恩を返すという海舟独特の論理がそこにはありました。

明治31年海舟は、軍事大国へと突き進む日本の未来を憂いながら77年の生涯を閉じることとなります。

望めば新政府でどんな要職にでもつけたのでは???
しかし海舟は、幕臣・勝海舟に徹しようとしていたのでしょう。。。


勝海舟の秘密 江戸城無血開城への道はこちら

幕末維新SP「勝海舟VS坂本龍馬」はこちら

徳川慶喜将軍のナンバー2~勝海舟~はこちら

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江戸を救った副将軍
THEナンバー2です。

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今回は、保科正之~江戸を救った副将軍~です。

何故、江戸城に天守閣がないのか?そんなこんなを決めた人です。
4代将軍家綱を陰で支え、有事の時にこそ(今回の場合は明暦の大火)必要な、強力なリーダーシップで江戸幕府を支えた人です。


保科正之とは?父は徳川秀忠、母はいまをときめく江(お江与)ではなく、側室の子、つまり、上様の御落胤です。秀忠は、江が怖かったため、正之とは親子の名乗りは出来なかったそうです。

三代将軍家光と弟・忠長は、仲が悪かったことは有名ですよね。家光・春日局VS忠長・江(秀忠も)の構図です。当時は、長男が家を継ぐ、という風習は確固たるものではなく、賢い忠長につく人も多かったため、家光は気が気ではなかったようです。

そんな中、家光は保科正之にも疑念を抱きます。腹違いの弟ということで、興味があり、正之をマークしていました。が、その態度が、余りにも誠実で聡明、自分をわきまえている正之に信頼を寄せ、自分の腹心とするのです。

1651年、家光は病に倒れます。その時の心配事は只ひとつ、幼い息子家綱でした。それは、江戸幕府を開いて以来、秀忠・家光で800万石をお取り潰しにした為、諸大名から恨まれていたからです。

秀吉もそうですよね。権力があってもなのか、権力があるからなのか・・・。とにもかくにも、親は子供のことが心配です。(T△T)

息子の家綱と、徳川幕府の将来を託されたのです。

1651年「慶安の変」が起こります。今は「由比正雪の乱」とは言わないのかしら・・・。いわゆる、由比正雪が、浪人たちを集め、幕府の転覆をねらった騒動です。が、これは、正雪の仲間の密告により捕まり、事なきを得るのですが、これから正之の改革が始まるのです。

有名なのが、1657年の明暦の大火。振袖火事とも言われています。

この火事は、江戸が紅蓮の炎に包まれ、三分の二を焼き尽くし、10万人の死者が出た。という大惨事でした。この時に、江戸城の天守閣が焼け落ちたのです。

天守閣を造るお金があるのら庶民に、と、反対する幕閣を押し切って政策を進めるのです。それは世界に先駆けたヒューマリティ溢れる政治で、災害に対しては、人命尊重に一点集中して努力をしています。

例えば・・・。当時、浅草にあった蔵前の米蔵を、大火から守るために「火を消したら米の持ち出し勝手放題」としたのです。
当時は町火消しはなく(八代将軍の吉宗時、大岡越前が作りました。)大名火消しでは足りなかったから。
この時に助かった米を救助米として、炊き出しをし、当時にして16万両を支出しました。

そうして、住民の食料を確保するため、大名行列で江戸に詰めていた大名には帰国を促し、江戸入り無用にしました。

また、亡くなった人には万人塚(後の回向院)を作り、弔ったのです。

この大火の調査の結果、隅田川の被害が大きかったことがわかります。当時は橋をかけたり、運河を作ると、「敵に攻め込まれる」といった戦国時代の考えが残っていました。火事が迫ってきているのに、橋がないため対岸に逃げられなかったのです。それを知った正之は武蔵の国と下総の国の間に橋を架けます。これが両国橋です。
また、当時江戸では火事が絶えなかったので、道幅を広げて火の粉を飛ばないように工夫をしました。

正之の政策としては、三大美事が有名です。これは、家綱がおこなったとされていますが、実は正之・・・。

殉死の禁止
大名証人制度の廃止(人質の廃止)
末期養子の禁の緩和(主君死後の養子縁組の緩和)

です。

正之は役職にはつかず、表に出ないフリーな立場で家綱を支えるのです。

また、水不足を補うために玉川上水の改革に臨みます。これも、古い考え方の人々は、敵が入ってくるため運河はだめだと反対します。が、「一国一城の小城なら堅固を主とするが、天下万民の江戸城は、民の便利安居固祖が第一なり」と跳ね除け、この玉川上水は、江戸庶民の飲み水をまかなうばかりか、大穀倉地帯を生み出すことになるのです。

また、会津藩主としても、農民に対する負わせ(農民が飢饉のときに払えなかった年貢は積み重なって、重税となっていた)を棒引きにし、廃止します。

また、社倉を作り、余った米を入れておき、飢饉の時に米を安価で放出しました。それは、隣の藩に貸すこともあったとの事。
このことで、飢えが無くなります。

また、年金制度のようなものを作り、90歳以上の人は終生1人扶持を与えられたそうです。初年度の申し込みは155人もいたらしいです。

でも、有名でないのは・・・。やはり。松平容保が子孫のため、明治政府には敵とされました。特に、会津はコテンパンにやられていて、死者を埋葬することさえ許してくれなかったといいます。やはり、勝てば官軍なのです。・゚・(ノД`;)・゚・

今の時代は、一応、明治政府が続いているのかなあ・・・。

とにもかくにも、そんな風にあまり知られていない保科正之、家康を除けば、14人の将軍の誰よりもNO,1だそうです。

本当に、すごい手腕ですね。今の政治家のみなさんに見習ってほしいものです。(´Д`) =3 ハゥー


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