日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:江戸城無血開城

江戸無血開城: 本当の功労者は誰か? (歴史文化ライブラリー)

新品価格
¥1,836から
(2018/9/23 17:20時点)



1868年3月・・・江戸の町はえもいわれぬ緊張感の中にありました。
二人の男の話し合い如何によっては、江戸八百八丁が火の海に包まれる可能性があったからです。
その二人とは・・・清背OFF軍・東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧江戸幕府陸軍総裁・勝海舟です。
15代将軍だった徳川慶喜の首をとるべく京都から江戸へと乗り込んできた西郷、江戸での戦いだけは阻止したかった勝!!
勝はこの絶体絶命の危機を数々の知略で脱していきます。
いかにして江戸漂無血開城は行われたのでしょうか?

1867年10月、15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上し、260年に及ぶ江戸幕府が幕を閉じます。
すると、藩幕府派の長州藩と薩摩藩がクーデターを起こし、12月9日明治天皇隣席のもと、王政復古の大号令を発布。
新政府樹立を宣言します。
1868年1月、慶喜を擁する旧幕府軍が反撃すべく新政府軍と京都で激突!!鳥羽伏見の戦いの戦いです。
結果は、新政府軍の圧勝に終わり、慶喜は朝敵となって大坂から江戸へと逃げ帰ります。
2月15日、新政府は慶喜を追討すべく、軍を派遣!!
京都を出発した軍勢は、北陸道、東海道、中山道を通って、進軍します。
その実質的な指揮を任されたのが、薩摩藩東征大総督府下参謀・西郷隆盛でした。

徳川を新政権から排除するのが目的でした。
というのも、700万石を有する旧幕府は、国内最大勢力だったのです。
西郷はこの時、慶喜を切腹させるつもりだったのです。
新政府軍が江戸へ攻め込んでくる・・・!!
慶喜に残されていた選択肢は二つ!!
①再び戦いを挑む
②恭順の意を表す
でした。
陸軍奉行並の小栗忠順らは主戦論・・・徹底抗戦を主張しました。
しかし、慶喜は恭順することを選びます。
そして、歓待する小栗を罷免!!人事を刷新する中、勝海舟を陸軍総裁に抜擢します。
さらに、その勝に新政府軍との交渉をさせることになります。

勝海舟は、慶喜との関係はいまひとつ悪かったといいます。
鳥羽伏見の後、江戸城に帰ってきた慶喜と幕臣たちに対し・・・
「こんな事態を招いて、あなた方はどうするおつもりか!!」と。
世が世なら、勝はその場で切られてもおかしくなかったのです。
そんな勝がどうして交渉役に・・・??

1823年勝海舟は、江戸本所で、禄高僅か41石の旗本の家に生まれます。
若き日に打ち込んだのは蘭学でしたが、家が貧しくオランダ語の辞書を買うことができません。
借りてきて、まず、それを写し二部作成、その一部を売り辞書の借り賃に宛てたといいます。
蛍雪の功を積み、会得した語学力でオランダの兵学所を読み漁り、28歳の時に西洋式兵学の私塾を開校。
諸藩の藩士たちが通ってくるようになると、勝の名が知れるようになっていきます。
そんな勝の大きな転機となったのが、1853年ペリー来航です。
アメリカから開国を迫られた幕府は、大名だけでなく旗本にも広く意見を求めました。
勝も意見書を提出。
その提案は・・・
江戸湾に台場の建設、軍艦を購入したうえで軍隊を西洋式に変えるべきである。
この具体的な意見が幕府の目に留まり、長崎に開設された海軍伝習所の候補生に・・・。
そして、3年以上にわたり、オランダ人仕官から指導を受けます。

1858年日米修好通商条約が締結されると、遣米使節団として咸臨丸で渡米。
アメリカ西海岸に滞在した勝は、見聞を広め西洋の脅威を実感。
日本の海防の強化の必要性を確信するのです。
勝は、”幕藩体制に代わる政治形態”を模索し始めました。
帰国後、勝は軍艦奉行並を命じられます。
大阪湾の防衛のために、神戸海軍操練所を作ることを提案します。
その準備として開港した私塾には、最新式の海軍技術を学ぼうと、全国各地から多くの若者がやってきました。
その中には、坂本龍馬の姿もありました。
弟子入りを志願する龍馬・・・。

1864年・・・薩摩藩士・西郷隆盛も勝のもとを訪れていました。
西郷は、勝に質問します。
「もし、大阪湾に外国船が攻めてきたらどうするのか??」by西郷
「私は最早、幕府の力を見限っている。
 これからは、いくつかの諸大名が連合して、強力な軍事力を保持したうえで、諸外国との談判に当たらなければ、対等な交渉は行えない!!」by勝
幕府の人間とは思えない発言に驚く西郷。

そして、同じ薩摩藩士の大久保利通への手紙にこう書きます。
”勝海舟という人は、どれだけ知略のある人かわからない
 ひどく惚れ申した”
勝は、様々な藩の藩士と交流!!
中には、長州藩の木戸孝允など、明治維新の中心人物となるものも沢山いました。
その人脈の広さをかわれ、江戸幕府滅亡後の旧幕府側の代表者として新政府との交渉を任されたのです。

1868年2月12日、勝海舟に新政府との交渉を任せた徳川慶喜は、上野・寛永寺に蟄居。
自らが謹慎することで恭順の意を示そうとしました。
実は慶喜は、松平春嶽、山内容堂など新政府に顔が利く人物に仲介を頼みましたが、どこからもいい返事をもらうことができずにいました。
そこで、何とかことを収めようと謹慎した慶喜でしたが・・・
新政府側の気持ちは収まりのつかないところまで来ていました。
慶喜の頼みの綱は、勝海舟のみでした。
交渉役を任された勝は、大役を引き受けるにあたって慶喜に言います。
「わが軍の武器をもってすれば、新政府軍に勝てる可能性もまだございます。
 それでも上様は、恭順の道を・・・??」by勝

新政府軍と戦うにあたって、勝つ可能性もあったのにどうして恭順の道を選んだのか??
それは、新政府軍との戦いが長期化すれば、欧米列強に侵略される可能性があったからです。
日本を守るためにとも考えられます。
そして、勝も同じ気持ちでした。

「最早、内乱などしている暇はない!!」by勝

慶喜の覚悟を聞いた勝は、動き出しました。
まず、御内である旧幕府側の人間に、新政府への恭順を徹底させることでした。
まだ・・・一部で主戦論が燻っていたからです。
そこで勝は、幕府が築いて来ていたフランスとの良好な関係を解消。
フランスは、幕府が倒れる前から軍事顧問団を派遣、幕府軍の西洋化に協力していましたが、その一方で親密になっていた陸軍奉行並の小栗忠正らに新政府軍と戦うことを焚きつけていました。
勝は、自らフランス公使のもとへ・・・軍事顧問の解雇を申し渡します。
しかし、この行動が、旧幕府軍で反感を買うこととなり、勝は孤立・・・命を狙われる羽目に・・・。

この時勝は、新政府軍に対し、無条件降伏するつもりではありませんでした。
そこには、一歩も譲れない条件がありました。
この時、勝が望んでいたのは・・・
①徳川慶喜の命の保証
②徳川家家臣団の生活の保障
でした。

もし守られない場合は、新政府軍と戦う覚悟があったともいわれています。
和平交渉がまとまったとしても、新政府への恨みが後々まで残ってしまうからです。
勝はそう考えていました。
この後勝は、徳川のため、日本のために邁進していくことになります。

しかし、この時、その交渉の足掛かりさえありませんでした。
そこで目をつけたのが、西郷隆盛でした。
西郷はこの時、新政府軍を率いて東へと向かっていました。
そして、2月28日、駿府に到着!!
勝は、ここに手紙を届けるのです。

その内容は驚くべきものでした。
”徳川の軍艦を東海道筋の要所に配置すれば、新政府軍を撃退することができる
 それをしないのは、朝廷に恭順の姿勢を貫いているからだ。
 然るに、慶喜追討の姿勢を崩さないのはいかがなものか。
 箱根の西に軍をとどめておいていただきたい。”
と、強気なものでした。

これを読んだ西郷は、当然激怒!!
軍艦からの方が優勢・・・この作戦は、新政府軍の最大の弱点でした。
新政府軍の弱点を指摘し、西郷を怒らせた勝・・・。
勝は、一刻も早く江戸には行ってほしかったのかもしれません。
新政府軍の力を借りて、江戸の町を統治しようとしていた可能性もあります。
勝自身が江戸で西郷に時期談判しなければ、新政府軍は止められない!!
そして、新政府軍を江戸の町へ入れることで、政権が交代したことを民衆に実感させたのです。
大政奉還、王政復古の大号令は京都で行われ、江戸の人々は政権交代を実感していなかったのです。

1868年3月6日駿府・・・
新政府軍司令部は、3月15日に江戸総攻撃を決定!!
新政府軍の実質的な指揮官にあった西郷は、京都にいた薩摩藩士に手紙を送っています。
”徳川方には、軍略に優れた勝海舟らがいる
 この知勇に優れた男を相手に、雌雄を決するのは男子としては快事”
西郷は、勝海舟との戦いを待ち望んでいました。
同じころ、勝海舟の元を一つ里の男が訪れます。
旗本・山岡鉄舟です。
山岡はこの時、剣の腕を買われ、寛永寺で謹慎生活を送っていた慶喜の護衛をしていました。
慶喜が恭順の意を示しても、新政府軍に伝わらないことに歯がゆさを感じ、自分が新政府軍と交渉するとやってきたのです。
そんな山岡に勝は尋ねます。
「どうやって新政府軍の陣営に乗り込むつもりか?」by勝
「新政府軍の陣営に入ったら、まず自分の刀を差し出し、敵が縄で縛るというなら、言われるがままになりましょう。
 敵とて、私を斬り殺すなどという不条理なことはしてこないでしょうから・・・」by山岡
勝は、この覚悟に感服し、西郷のもとへ送ります。
3月6日、3日後には駿府に到着。
3月9日・10日、西郷との会談を取り付けます。
そこで、西郷から慶喜助命の条件を引き出すことに成功!!
しかし、提示された内容は・・・
①慶喜の身柄を備前藩に預ける
②江戸城を明け渡す
③旧幕府軍すべての軍艦・武器を没収する
という・・・事実上、無条件降伏のようでした。

山岡はひとまず預かり、勝のもとへ急ぎます。

山岡鉄舟が江戸に戻る前に、続々と新政府軍が江戸に入ってきました。
3月11日、板垣退助率いる部隊が八王子に布陣!!
12日には別部隊が板橋到着!!そして、この日、ようやく山岡鉄舟が江戸に戻ってきました。
この条件を勝が聞いたのは、江戸城総攻撃の僅か3日前でした。
その翌日、13日には東海道を進軍してきた西郷隆盛率いる部隊が池上に布陣。
江戸の町は包囲されました。
様々な手を打ってきた勝・・・実際のところ、この交渉がまとまるかどうかの保証はありません。
最悪の事態も想定していました。

対抗策は・・・江戸焦土作戦でした。
交渉が決裂し、新政府軍との戦いとなった場合、新政府軍もろとも江戸の町を焼き払おうと考え、密かに進めていました。
自ら町火消やとび職の親分のもとを訪ね、もし新政府軍が攻撃しだしたら合図をするので、そこかしこに火を放ってもらいたいと説きました。
どうして徳川軍で真っ向から戦おうとしなかったのでしょうか?
徳川軍の中には、新政府への抵抗を唱え、江戸から離れるものが多くいました。
勝は、庶民の力を借りて、新政府軍を迎え撃とうとしたのです。
近隣の漁師たちに江戸の民衆を船で救出してくれるようにも要請!!
しかし、勝とて江戸を焦土にしたくはありません。
新政府軍との交渉に・・・!!

3月13日、京都から進軍してきた新政府軍が江戸を包囲!!
異様なまでの緊張感に包まれます。
そんな非常事態を収拾すべく、勝海舟は西郷隆盛のもとを訪れます。
4年ぶりの再会でした。
会談は13日と14日に行われたといいます。が、場所は・・・??
池上本門寺説、薩摩藩蔵屋敷説、愛宕山の山頂説・・・
会談は勝が待ち望んだものでしたが、初日は慶喜助命の条件に付いての質問だけでした。
会談前日に江戸に戻ってきた山岡の持ち帰った条件を西郷に確かめたかったのです。
会談を終えた勝は、江戸城に戻り、嘆願書をまとめ上げます。
そして、14日会談に臨みます。
勝は、嘆願書を提出・・・!!
それは、新政府軍の条件をほとんど無視したものでした。

慶喜を備前藩に預ける→兄の水戸藩での謹慎
軍艦・武器をすべて新政府軍に差し出す→処分が下った後、徳川家に必要な分以外を差し出す

条件を認めたのは、江戸城を明け渡すことぐらいでした。
当然西郷は激怒し、突き返すと思いきや・・・
即決できないと預かり・・・結論が出るまでは江戸城総攻撃は延期するとし、朝廷のある京都へと戻っていきました。
どうして西郷は嘆願書を拒否しなかったのでしょうか?
それは、13日に、西郷にとって不測の事態が起きていました。
この日、横浜で・・・新政府軍の木梨精一郎は、ハリー・パークスに会いに行っていました。
薩英戦争後、薩摩藩は最新の武器を擁してもらうなどイギリスと親密な関係にありました。
イギリスに新政府の後ろ盾になってももらっていました。
そこで、江戸城総攻撃をかけるとパークスに報告すると・・・
「恭順の意を表している慶喜公を攻撃する必要などないのでは・・・」と、江戸総攻撃に反対したのです。
その裏には、勝の根回しがありました。
4日前の3月9日江戸で・・・
勝はパークスの通訳であるアーネスト・サトウと会っていました。
勝はサトウに訴えます。
「慶喜の命と、家臣たちの生活の保障があれば、どんな条件にも応じる用意があります。
 さもなければ、戦いも辞さない!!
 そのような事態を、貴国の力で未然に防いでもらえないだろうか??」と。

新政府が江戸を攻めると、イギリス人にも犠牲・損害が出る恐れがありました。
戦争を避けたいイギリスを利用して、新政府軍の西郷に圧力をかけていたのです。
イギリスの意向を無視できない西郷は、旧幕府軍の嘆願書を受け取らざるを得なかったのです。
イギリスという薩摩藩と新政府が逆らえない相手を利用した勝海舟渾身の一手でした。

篤姫は、旧知の西郷に、長さ3メートルの手紙を認めます。
徳川家のことを願って・・・!!
”私の一命にかけて何卒お頼み申し上げます”
徳川家を必死に守ろうとした篤姫の手紙に、西郷は涙を流したといいます。
一説には、勝が篤姫にこの手紙を書かせたともいわれていますが、真相はやぶの中・・・。

朝廷の判断如何では危険になる可能性が残っていたので・・・
勝は、イギリス公使パークスのもとへ出向き・・・
「イギリスに帰国するであろう貴国の軍艦を、もう一月だけ停泊しておいてもらいたい・・・!!」と。
勝はその理由を、山岡鉄舟に明かしています。
”慶喜公の命が危なくなったら、イギリスの軍艦にお乗せする計画がある。”と・・・!!

イギリスに亡命させることまで考えていたのでは??
あらゆる可能性を考え、リスクを抑え、次の新しい時代に、命、文明、すべてを譲ろうとしていました。
しかし、勝の心配は杞憂に終わりました。
おおむね、朝廷が承諾してくれたのです。

そこには西郷隆盛の尽力があったといいます。
西郷は、勝の想いに応えてくれようとしたのかもしれません。
共に新しい時代を作ろう!!と。
そして・・・4月11日、江戸城が新政府に明け渡されました。
血を流すことなく・・・!!

その後、西郷隆盛、勝海舟も、高い能力を買われ新政府で要職を任されました。
しかし、西郷は征韓論で新政府と対立し下野!!
そして西南戦争で反乱軍を指揮したとして、朝敵の汚名を着せられ亡くなります。
そんな西郷の汚名を回復しようと誰よりも動いたのは、勝でした。
上野の銅像を建てる運動にも積極的に参加したといいます。

勝は解っていたのです。
西郷無くして江戸無血開城は果たせなかったと・・・!!
そして、西郷無くして、明治という新しい時代は迎えられなかったと・・・!!


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

西郷隆盛とは何者か1 西郷は実像以上に美化されている

松方弘樹主演 大河ドラマ 勝海舟 総集編【NHKスクエア限定商品】

新品価格
¥8,424から
(2018/9/23 17:21時点)

最後の幕臣 小栗上野介【電子書籍】[ 星亮一 ]

価格:702円
(2018/5/8 21:12時点)
感想(0件)



1868年4月4日、江戸城無血開城・・・
およそ260年続いた江戸幕府が終わりをつげ、江戸城が新政府軍に明け渡されました。
この時、江戸城の金蔵を開けた新政府軍は驚愕!!
金蔵にあるはずの幕府の御用金360万両が無くなっていたのです。
その金を盗み埋めたのでは?と疑われたのが、小栗上野介忠順でした。
本当に隠したのでしょうか?そして、その目的とは・・・??

東京神田駿河台・・・小栗上野介は、1827年に生まれます。
小栗家は、代々徳川家に仕える旗本で、譜代の中でも高い2500石。
小栗は生まれたときから出世の道が約束されたエリートでした。
9歳で、名門と言われた私塾「見山楼」に入門します。
TOPの成績を修めるなど、才覚を発揮!!
武術にも長けて、将軍のまえで弓を披露したときにはすべて大的に的中させ、褒美を賜わったといいます。
文武両道で勤勉だった小栗は、17歳で江戸城に初登城。
21歳で御書院番、27歳で進物番出役、13代将軍徳川家定に仕えます。
スピード出世を遂げていく上野介。。。

ペリー来航によって開国した日本は、
1858年6月日米修好通商条約締結。
その条約批准のために、遣米使節団が結成されます。
小栗は、大老井伊直弼からこの使節団の目付け役を任されました。
そして、1560年、小栗はアメリカ軍官ポーハタン号で出航。
この時、護衛艦として随行したのが咸臨丸です。
その館長を務めていたのは、勝海舟でした。
出航からおよそ2か月後、アメリカに到着!!
この時小栗は、条約の批准の他に、金と銀の交換比率の見直しという重責を担っていました。
小栗はその手腕を発揮!!
日米修好通商条約で定められた交換比率は、アメリカに有利なものでした。
当時はアメリカ国内では金1枚に対し銀15枚!!
日本に銀15枚を持って行くと金3枚と交換できるようになっていたのです。
少ない銀で金が手に入ると、海外に日本の金が流出し、経済の混乱が生じていました。
その状況を打開する為に・・・
小栗はアメリカに日米の銀貨などの分析を要求します。
が・・・時間を要するので、と拒否されます。
それでも説得する小栗!!
小栗の粘りの結果、分析することを約束してくれました。
そんな小栗は、明らかにシャープな男として、アメリカの新聞で取り上げられました。
さらに小栗は、アメリカで様々な場所を視察し、見識を深めていきます。
ワシントンで海軍の造船所、そして鉄製の螺子を持ち帰りました。

日本近代化実現のために奔走することとなります。
帰国後、小栗は200石加増され、2700石となり、外国奉行に就任します。
幕府の軍事力強化のために、小栗はフランスから銀600万ドルと軍艦の借り受けを検討!!
そして、同士と信じていた男・・・勝海舟に相談します。
しかし、その話を聞いた勝は・・・
「小栗は、日本の国土を担保にフランスから借金をしようとしている。
 国を売るようなこの計画、許し難し。」
と、幕閣たちに報告し、小栗を批判します。

小栗が国を担保にしようとしたというのは事実無根。
反対する為の勝のハッタリでした。
アメリカに渡航以来、勝は小栗に強いライバル心を燃やしていました。
というのも、小栗が任務を終えた後、4か月かけて日本人初の世界一周をして、見聞をひろめていたのに対し、勝はアメリカ西海岸までの護衛を果たすとその周辺を視察しただけで帰国を命じられていたのです。
小栗との待遇の差に憤っていました。

家柄のせい??

二人の間では、日本の近代化に対する考え方も違っていました。
小栗は幕府を評価して近代化を進める。
勝は諸藩にも近代化の強力を要請したい。
ことごとく対立する二人・・・。
後に小栗について勝は、
「勢力がひとに優れて計略に冨み、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の徳川武士」と言っています。
内心、高く評価していたのです。
小栗は、幕府の要職を歴任・・・中でも勘定奉行は4回も・・・!!
そして1863年、37歳になった小栗は、アメリカで抱いた夢の実現に向かいます。
それは日本の近代化でした。

①造船所建設
当時幕府は軍事力強化のために、大金を出して諸外国から軍艦を購入していました。
しかし、その軍艦が故障すれば・・・外国まで持って行って修理しなければなりません。
そこで、勘定奉行だった小栗は、横須賀に造船所を作りたいと幕府に提案!!
しかし、幕閣から猛反対にあいます。

「今のままでは時間も経費も掛かります。
 どうしても、国内に製造修理の場所が必要です。
 資金は勘定奉行の私の責任で何とか工面します。」

その甲斐あって、翌年造船所建設が幕府に承認されます。
敷地面積・・・24万6000㎡、建設費総額・・・240万ドル(120億円)
世界を見てきた小栗は、これまでの慣例にとらわれることなく近代化を推し進めていきます。

②日本初の「株式会社」設立
1867年日本初の株式会社「兵庫商社」を設立。
資本の少ない日本の商人たちが、海外貿易で非利益を被っている解決策として作った商社でした。
他にも日本初のホテル「築地ホテル館」・・・郵便、電信、ガス、鉄道・・・の設立を、提唱していきました。

小栗は、幕府の近代化の最先端を走る人でした。
小栗は、幕府を中心とした日本の近代化を邁進していました。
しかし、その矢先、大政奉還・・・幕府の終焉と共に、小栗の運命も大きく変わっていきます。

1968年4月・・・新政府軍と旧幕府軍との間で合意されていた江戸城引き渡しがあり、新政府軍が江戸城に入りました。
江戸城無血開城です。
この時、新政府軍には、江戸城引き渡し以外にもう一つ目的がありました。
それは、江戸幕府の御用金でした。
まだ新しい政府ができたばかりで資金不足・・・そこで、江戸幕府の莫大な御用金を軍資金に・・・と考えていたのです。
ところが・・・向かった金蔵の中は・・・もぬけの殻でした。

「おそらく、旧幕府軍の何者かが、白を出る時密かに運び出したのだろう。」

この時、幕府が全国に保有していた御用金は総額360万両・・・。
今の3600億円と言われていました。
その大金を盗み、隠したと思われたのが小栗上野介だったのです。
小栗は何度も勘定奉行となっていたので、御用金に一番近い存在で、その状況を把握していたのでうたぐぁれたのです。

しかし、この時、小栗はもう、幕府の役人ではありませんでした。
江戸城無血開城が決まる前に、江戸を離れていたのです。
どうして・・・??
1968年1月・・・鳥羽・伏見の戦いで・・・。
新政府軍に敗れた徳川慶喜は、多くの家臣を残して江戸に逃げ帰ってしまいました。
朝敵となってしまった旧幕府側は、新政府軍と戦いを続けるのか、恭順するのか?江戸城で話し合います。
恭順するという慶喜に対し、小栗は徹底抗戦を主張・・・
奥へ下ろうとする慶喜に取りすがってしまいました。
「無礼者!!」
それから二日後の事・・・小栗は慶喜に勘定奉行などを罷免されてしまいました。

幕府要職を歴任してきた小栗・・・将軍から絶大な信頼を寄せられていたであろうに・・・罷免??
徹底抗戦を主張するのは、幕臣として当然だったでしょう。
あくまで意見を言っただけなのに・・・??
慶喜は、そもそも朝敵になりたくはありませんでした。
徹底抗戦を主張している小栗をそばに置いておくのは危険だ・・・と考えたのでしょう。

罷免されて2か月ほどたった3月・・・小栗は、江戸を引き払い、家族と数人の家臣たちと共に領地である上州権田村に移ります。
この時、大量の荷物を運ぶのを村人たちに見られています。
村にこんなうわさが・・・
「小栗さまが幕府の金を持ち出し隠したそうだ。」
「そういや、権田村にやってくるとき、千両箱や長持ちを山ほど運んで来たって聞いたぞ。」
「そりゃあほんとか?
 そんじゃあ、小栗さまのとこに小判がザックザックってことか?」
こうした噂は、権田村だけではなく近隣の村々に・・・
小栗がもっているという噂の金を狙い、村人たちが襲ってきたのです。

小栗は・・・日記「小栗日記」に記しています。
「暴徒は三方からおよそ二千人も押し寄せ、ついに宿場に放火。
 その上、発砲も始めたので、直ちに歩兵ども進めの号令を発して、暴徒を追討したところ、逃げ始めたので追い討って、ついに三人を討ち、一人は槍で村内の者が突きとめた。
 その他、歩兵たち十人も方々で打ち倒したので、とうとう暴徒は散々に逃げ始めた。」

撃退した小栗ですが、幕府の埋蔵金はあったのか??
いまだに発見されていませんが、お金を埋めたと言われる場所は、全国に数十カ所あると言われています。

徳川埋蔵金の真相とは??

①銚子沖沈没船説

徳川埋蔵金と言われる御用金は360万両・・・千両箱にして3600箱あったことになります。
幕末の混乱期・・・陸路ではなく水路で運んだのでは?というのがこの説です。
そもそも銚子は、江戸幕府ができた頃、徳川家とゆかりのある紀州の漁師が移住して作ったと言われる港でした。
銚子へは、江戸城から隅田川を経て利根川を経由するルートがあったことから、船で運んだのでは?と考えられました。
しかし、波の荒い銚子沖・・・船が沈没してしまったのでは?というものです。
未だ見つかっていません。

②群馬県赤城山説

御用金が埋められたとされる有力な説が、群馬県にある赤城山です。
その山の所有者である水野家が、代々埋蔵金の発掘調査を行ってきました。
初めて赤城山での発掘調査をしたのは明治19年1886年ですが、きっかけは江戸時代にさかのぼります。
小栗が江戸から権田村に移ることとなった小栗・・・

「実はな、公儀在職中、徳川家の再興を図るために、甲府の御用蔵より24万両を運び出し、赤城山の山中に埋めたのだ。
 徳川再興のない今となっては、山中に埋もれたままでは何とも無念。
 埋蔵金の発掘をお前に託したい・・・。」

この話が元となって、水野家はいまも発掘を行っています。

赤城山に御用金を全額隠したのではなく、全国各地に少額ずつ隠したという説もあります。

どうして小栗が・・・??
幕府には、御用金を隠そうという計画があったと言われています。

江戸時代末期・・・幕府は度重なる財政危機に陥り、破たん寸前でした。
おまけに日米修好通商条約締結後、通商が盛んになると、国内の金が安いレートで海外に流出・・・。
日本経済は混乱していました。
これに危機感を覚えたのが、大老・井伊直弼でした。

幕府再興の資金として、また、金が海外に流出するのを防ぐ手立てとして、蓄えていた御用金360万両を隠そうと画策・・・
しかし、1860年桜田門外の変で井伊直弼は暗殺・・・。
これで計画は流れた・・・??
しかし、その前に、信頼を置いている小栗に埋蔵金計画を託していた・・・。
すべて幕府の為だった・・・??

この時、御用金は360万両もなかったのでは??
生麦事件でのイギリスへの賠償金などで、幕府は財政難でした。
どのくらい残っていたのか??は詳しくはわからないのです。
その真相は、藪の中・・・。

当時、大金を持ってきたと思われていた小栗・・・。
暴徒を出した近隣の村から謝罪を受けるとこれを許し、村を良くすることに尽力していきます。

①人材育成
これからは、誰もが教育を受けられるように・・・と、私学校の構想を練ります。
「この村から、太政大臣を出す!!」と言って、自分の元で、新しい時代に対応できる若者を・・・人材育成を考えていました。
小栗についてきた優秀な若者がいたのです。

観音山で屋敷の建設を開始・・・
その家は、襖を外せば60畳の教室となり多くの人を呼べるようになっていました。
小栗は、毎日のように建設現場に・・・私学校を心待ちにしていました。

②用水路建設
観音山付近の村々は、常に水不足に悩んでいました。
雨が降らないと田植えができず、僅かな作物しか作れませんでした。
そこで小栗は、東の稲瀬沢から用水路を作ろうと測量を開始。
その用水路は、今も小高用水として大切に使われています。
しかし、小栗自身は、屋敷も用水路も完成を見ずにこの世を去ることに・・・。

幕府の重臣だった小栗が権田村にやってきて2か月たった頃・・・
小栗は村の改革を行いながら、平穏な日々を送っていました。
しかし・・・突如”小栗上野介追討令”が出されました。

「小栗上野介
 近日その領地権田村に陣屋敷など厳重に総構え しかのみならず砲台を築き
 容易ならざる企てこれあるの趣・・・
 上は天朝に対し奉り 下は主人慶喜教順の意にも相もとり候に付き・・・」

戦を企てている逆賊だと言われたのです。

4月29日、地方の治安を守るために新政府軍が任命した東山道総督府が小栗討伐に向かいます。
その舞台は、軍官の豊永貫一郎や、原保太郎らが率いる高崎藩、安中藩、吉井藩の三藩。。。
使者は小栗の元にやってきて追討令を差し出すと、

「嫌疑を正すことはできるが・・・」

すると小栗は、

「陣屋とありますが、全く尼つゆを凌ぐだけの屋敷を作るつもりです。
 決して要害になるほどの普請工事をしているわけではなく、よくご覧いただければ事情はすぐにお分かりいただけるでしょう。
 砲台を築いているという件も、その大砲皆様にお預けいたしますからそれを根拠として下され。」

そして、小栗は使者たちを建設現場に連れて行って調べさせ、大砲と小銃5丁を引き渡しました。
この時、養子・又一が人質として連れて行かれてしまいました。

この大砲は、駿河台の小栗邸にあった飾り物で・・・
新政府軍は調査の結果、小栗を「お咎めなし」と報告していました。
しかし、この報告に総督府の原らは激怒!!

「天地の間に容るべかららざる罪人でもある 
 早々に捕らえよ」

しかも、刃向かえばそのまま斬首しても良いと言い出しました。
「無実ゆえ・・・」と、小栗の助命を嘆願しますが・・・
逆らえばとり潰すと言われ、言葉を飲みます。
一方、成り行きが思わしくないと情報を得た小栗は、家臣たちの勧めもあって家族と共に村から避難します。
そこへ権田村の名主・佐藤藤七が来て涙ながらに懇願します。

「どうか殿にはお戻りいただきたい。
 もし、殿を逃がしたとなれば、権田の村民が処罰されてしまいますゆえ・・・
 お戻りになって、官軍に申し開きなされますようお願い申し上げます。」

「そうか・・・すまなかった。
 村人に迷惑をかけるつもりはない。
 覚悟はできている。」

小栗は村にに引き返しました。

閏4月5日・・・小栗は寺の本堂にいたところを捕らえられ・・・
なんの取り調べもなく刑が確定します。

慶応4年閏4月6日午前11時・・・小栗上野介・・・斬首刑。 
処刑場となった権田村の烏川の河原では、多くの村人がかたずをのんで見守っていました。
そんな中、共に処刑されることとなった家臣がたまらずこう叫びます。

「一言の取り調べもなく、殿がこんなところで最期を遂げるとは残念です。」

「この期に及んで未練がましい事を申すでない。
 おのおの未練なきように・・・。」

そうたしなめると、小栗は一粒の涙を流したといいます。
何か言い残すことはないかと問われると・・・

「何事もない・・・ただすでに母と妻は避難させたので、どうか婦女子は寛大な処分を望む。」by上野介

権田村に移り住んでからわずか2か月・・・この時42歳でした。

小栗はどうして処刑されなければならなかったのでしょうか?
慶喜に一番近い存在であったにもかかわらず、徹底抗戦を主張した後すぐに罷免され、権田村に隠居したので、怪しいと疑われたのです。
当時、関東は治安が悪く、小栗が自分の身の安全や領地を守るために武器を持ってくるのは当然のことでしたが・・・。
新政府軍にとって小栗は、切れ者であり、野放しにしておくのは危険だと思ったのです。  

無実の小栗に続いて、三人の家臣と養子で跡継ぎの又一も、悉く斬首・・・。

小栗上野介を処刑した新政府軍は、家臣たちの家財道具をすべて没収し、高崎から呼び寄せた商人に売却し、その資金を新政府軍の軍資金としました。
そして、小栗上野介は歴史の闇に葬られてしまうのです。
唯一の救いは、面識のあった会津藩士を頼って会津に逃げた母や妻がお咎めを受けなかったことでした。
この時、妻・道子は身重でした。
道子は会津で無事に娘を出産・・・クニ子と名付けました。
その後、クニ子は養子をもらい、小栗家は続いていくこととなります。

優秀過ぎたため、あらぬ噂、あらぬ嫌疑をかけられたまま罪なく処刑され、歴史の闇に葬られた小栗上野介・・・
小栗は一言にして国を亡ぼす言葉あると言っていました。

それは「なんとかなるだろう・・・」
精一杯の努力をしない生き方を嫌った小栗・・・。
日本の近代化に勤め、最後まで幕府のために力を尽くした男でした。

1915年9月・・・
小栗が建設し、海軍の工場となっていた横須賀造船所で創立50周年の祝典が行われました。
そこで総理大臣大隈重信の言葉が伝えられます。

「この造船所は、幕末に小栗上野介の尽力によってフランスが創設の業を援助することに決した」

そして、その7年後・・・1922年、小栗の胸像の除幕式が行われました。

小栗上野介の偉業が再び日の目を見たのです。



↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

覚悟の人 小栗上野介忠順伝【電子書籍】[ 佐藤 雅美 ]

価格:713円
(2018/5/8 21:12時点)
感想(0件)

おもしろTシャツ 漢字Tシャツ 私、知ってます、とっておきの秘密を、、徳川埋蔵金の場所知ってますTシャツです 全3色 男女各サイズ 綿100%の高品質Tシャツ使用 送料無料 プレゼント

価格:1,980円
(2018/5/8 21:13時点)
感想(0件)

土方歳三 - 新選組を組織した男 (中公文庫)

新品価格
¥780から
(2013/10/25 12:12時点)


ザ・プロファイラー初の日本人が、歳さんです。

幕末きってのイケメン土方歳三。
甘いマスクの本性は、戦いの鬼!!
刃向う者・・・逃げる者の許さない鬼の副長!!
その圧倒的な姿に京は震えあがりました。
剣から銃へ!!
さらに強く!!
連戦連勝!!まさに幕末最強の戦士です。
そこにあったのは、究極の負けず嫌いでした。

tosi4




























”誠”の旗には真実の武士でありたいという想い。
だんだら羽織・・・このだんだら模様は忠臣蔵にヒントを得ました。
浅黄色は・・・武士が切腹するときの衣装の色でした。

tosi2


















このデザインは、土方がデザインしたと言われています。

①夢を切り開いた木刀

1835年多摩・石田村に誕生します。
実家は豪農で裕福な家庭・・・
10人兄弟の末っ子、やんちゃな悪がきでした。
少年時代は・・・
「負ける、逃げる、叶わぬなどの言葉は、誰よりも外へ出すことを恥とし、人の言うことさえ忌み嫌った。」
と言われています。
弱音は絶対に吐かない・・・負けず嫌いな子でした。
10代前半で、有名呉服商に丁稚奉公に出ます。
立派な商人になるために・・・。
しかし、負けず嫌いが仇となり・・・番頭に食って掛かり・・・店を飛び出して、30キロ先にある実家に帰ってしまいました。他にも奉公するも・・・全部クビ!!

問題を起こしても頭のさげない歳三。。。

日野宿本陣は、土方家の親戚の持家で、剣術道場でした。
多摩では・・・裕福な豪農を狙って盗賊が!!!
その対策に、農家でも剣術を習う必要がありました。

17歳の時、運命の出会いが!!
近藤勇です。

近藤の生まれは、多摩の農家の末っ子・・・歳三と同じ境遇でした。
剣術の腕を買われて武士の家の養子となっていました。
武士になった近藤と農家の歳三。。。

人生の目標が見つからない歳三・・・。
近藤との出会いで変わっていきます。
”我・・・武士となり、名を天下にあげん”

当時歳三は、家の副業を手伝っていました。
打ち身薬”石田散薬”を売り歩く・・・行商の仕事です。
武士になるという歳三・・・この仕事だけは熱心でした。
それは・・・行商先が多摩周辺の剣術仲間の家がたくさんありました。
得意先で、剣術の稽古をしていたのです。
薬箱と共に持って行っていったのは木刀。。。
武士への夢に向けて走り出しました。

しかし、現実は厳しく・・・。
基本的に農民が武士になるということはほとんどない時代。。。
幕府も大名家も新しく武士を一人雇うということは、人件費がかかってしまいます。
余裕もないので、めったにないことでした。

近藤のように武家の養子にもなれない・・・
農民と武士の高い壁がそこにはありました。
しかし、25歳の時に近藤勇の道場「天然理心流試衛館」に正式入門しました。

1853年黒船来航。
外国に対し、国を開くべきか否か???
京都では暗殺事件が頻繁に起こるようになりました。

将軍が京へ向かうことが決まり・・・
1863年幕府は護衛役を募集しました。
剣の腕に自信のある者を!!
土方歳三28歳・・・ようやく巡ってきたチャンスでした。
試衛館の仲間と共にこれに応募。。。

②故郷へ送った手紙 
1863年京都・・・。
幕府に敵対する武士の取り締まりを始めます。
将軍を護衛した後、自警団のような仕事を始めたのです。
後に新選組となり・・・近藤が局長、それを支える副長に土方がなるのでした。

故郷に送った手紙には・・・
「私の帰国がいつになるかわかりませんが、大いに喜ばしいことだと思ってください」

しかし・・・土方たちは、会津藩の下についているものの・・・臨時雇用のような関係でした。
正規の藩士よりも軽んじられていました。

そこへ、手柄のチャンスが!!
1863年8月18日の政変で、御所の警護を任されます。
天皇や公家を守る大仕事!!
意気揚々で出陣します。
が・・・すでに警備に当たっていた者たちに不審者扱いされました。
おまけに、それは仲間だと思っていた会津藩の武士でした。
屈辱!!!

所詮は寄せ集めの浪人集団!!
横暴な行いをするもの、脱走をするもの・・・。
武士よりも武士らしく!!
と、作られたのが、新選組の掟。

士道に背くものは即切腹。
土方の指示によって多くの者が命を失いました。
鬼の副長と呼ばれるようになる土方!!

思う存分戦い!!
1864年・・・京都に来て1年が経っていました。
30歳になった歳三・・・。
この時起こったのが、池田屋事件でした。

捕まえた古高俊太郎から秘密を暴かねば!!!
幕府によって禁止されていた拷問を使って・・・
鬼と化す土方!!
秘密は・・・長州方が、風邪の強い日に御所に放火し、天皇を奪取するというものでした。
恐るべき計画!!
阻止しなければ!!

会津藩を出しぬき捜索を開始し、その集会場所を池田屋と確認し・・・

「御用改めでござる!!」

と、新選組だけで制圧してしまいました。

この事件で新選組の名は轟きます。
まさに、土方の執念が呼び込んだ勝利でした。

この功績により、近藤・土方には幕臣の内示が出されます。
故郷への手紙には・・・
「新選組は、今月5日の戦功によって、将軍様より褒美があるそうです。」
と、送っています。
そして3年後、正式に幕臣となるのでした。

③決意を表す洋装写真

tosi































池田屋事件以降、新選組の入隊者が増えていきます。
中には、土方のように農民や商人の出の者まで。。。
順風満帆に見えた土方と近藤・・・しかし、足元から崩れ始めます。
1867年徳川幕府崩壊
薩摩・長州が・・・朝廷を中心とした新政府が樹立します。
徳川VS新政府軍・・・1868年鳥羽伏見の戦いが始まりました。


新選組は、旧幕府軍側・・・伏見を守ります。
剣と槍で戦う戦士たち・・・しかし、敵は最新の武器を持ち、鉄砲でやって来ます。
圧倒的な力で・・・無残な惨敗を喫したのでした。
「自分たちは、剣を帯び槍をとったが、何の役にも立たなかった。。。
 これからの戦いは、銃や大砲でなければだめだ。」

鳥羽伏見で惨敗した旧幕府軍は、江戸へ撤退、3か月後には江戸城無血開城が!!
徳川幕府は、息の根を止められてしまったのです。
賊軍となった土方。。。でも、負けは認めません。

この写真。。。
髷を落とし、羽織はかまを捨て、マフラーに拳銃、ブーツをはき、それはまさに西洋軍人のスタイルでした。
仲間たちの死を無駄にしないためにも、負けられない!!

西洋式戦術を学び!!
しかし、時代の流れは早すぎました。
銃を手に入れ千葉・流山に潜伏した近藤と土方。
反撃の機会をうかがっていたのですが、新政府軍に包囲され・・・

近藤は捕まるぐらいなら潔く切腹しよう!!
しかし土方は、ここで腹を切っても犬死にしかならん!!
と反対。
命さえ助かれば、最後に勝つ可能性はある!!

近藤は偽名を名乗り出頭。
しかし正体が発覚し、斬首。。。
武士の誇りを奪うかのように。。。晒されたのでした。

戦い抜く土方。。。
奮戦むなしく、新政府軍に敗北していきます。
土方は、最後の望みを託して蝦夷へと向かいます。

どうして戦い続ける道を選んだのか???
リアリストの土方、引くに引けない・・・
近藤に切腹させてあげればよかった。。。と、近藤に対する責任を思っていたのかもしれません。

蝦夷・函館・・・北の大地で最後の決戦が始まります。
旧幕府軍をまとめていたのは榎本武揚。
蝦夷共和国を樹立していました。
五稜郭を拠点とし、近代的な国づくりを目指していました。
土方は、陸軍奉行並に選出されます。
元幕府高官やエリートたちの中、ひとり農民出身でした。

1869年4月明治政府軍が蝦夷に上陸。
函館へと進撃していきます。
土方は、強大な敵に向かって出陣します。
「我が兵の数は限りあるが、敵軍は限りない。
 一旦勝ったとしても、最後には負けることは誰にでもわかる。
 だが、私に任された以上、負けたならば軍人として恥だ。
 わが身をもって殉ずるのみだ。」

土方隊300対VS明治政府500。
どう迎え撃つ??
土方が選んだのは山の峠にある二股口。
この地形を生かした戦術を見事に使って戦います。
作戦は成功。

土方は、共に戦う兵士たちに自ら酒をふるまい、ユーモアを交えながら部下たちをねぎらいます。

どうして???
幕府の歩兵は、江戸の市中から雇い入れた元々は武家奉公人。荒くれ者を統率するにはカリスマ性が必要でした。
修羅場を潜り抜けた土方と酒を酌み交わす・・・
最大限に彼らの力を発揮させる方法だったのです。
それが土方に求められていたものでした。

しかし・・・負け知らずだった土方隊も撤退を余儀なくされていきます。。。
5月11日完全に包囲した新政府軍は総攻撃!!
弁天台場が孤立!!奪還は難しい???
そこで、土方出陣!!
弁天台場で戦っていたのは、新選組の仲間でした。
”負ける 逃げる かなわぬなどの言葉は 歯よりも外へ出すを恥とす”
一発の銃弾が土方の腹部を貫き・・・

土方歳三・・・戦死、享年35歳。

7日後・・・函館政府軍は敗北・・・戦争は終結したのでした。

鳥羽伏見の戦い以降負け続けている土方・・・
しかし、「昨日より今日、今日より明日はよくなるはず」という信念を捨てていませんでした。
動乱の時代、一か八か・・・かっこよくて美しい・・・
仲間たちの人生を背負い生き抜いた人生でした。

逆賊となった土方・・・明治維新後、その遺品を持つことさえ罪とされていました。
しかし、土方の故郷日野には、遺品が残されています。
土方の天然理心流の中極位目録・・・
名前には本名の義豊ではなく”土方義昌”となっています。
故郷の人たちは、名前を改ざんして・・・偽名を使ってまで残したもの。
義昌・・・土方の本名”義豊”と、近藤の本名”昌宜”からとったものです。

ヒーロー伝説 「土方歳三~奔走するラスト・サムライ」はこちら
近藤勇~新たなる真実~はこちら
色んな土方さんはこちら

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。


にほんブログ村

幕末・明治(日本史) ブログランキングへ


新選組!! 土方歳三最期の一日 [DVD]

新品価格
¥4,011から
(2013/10/25 12:12時点)

土方歳三と新選組10人の組長 (新人物往来社文庫)

新品価格
¥770から
(2013/10/25 12:13時点)

海舟語録 (講談社学術文庫)

新品価格
¥1,050から
(2013/6/14 12:09時点)

英雄たちの選択 第2弾・勝海舟さんです。

1868年新政府は、5万という軍勢を江戸へ向かわせました。
慶喜討伐の為に・・・
この、徳川家絶体絶命を任されたのが、勝海舟でした。

勝は、官軍の西郷の直談判、江戸城を明渡し、戦争を回避することに成功します。
江戸城無血開城です。

しかし・・・勝にはもう一つの選択肢があったと言います。
それは、官軍に対する徹底抗戦・・・戦いでした。

徹底抗戦か?交渉による講和か?
直前まで悩み続けていたようです。
この難局をどのように切り抜けたのでしょうか?

幕府海軍の指導にあたっていた勝・・・横浜に台場を築きます。
そこは、横浜の外国人居留地の前でした。
外国との一触即発を思ってのことでした。
ペリー来航以来、西欧列強は幕府・諸藩に対して、利権を拡大しようと干渉を強めてきていました。

各地で攘夷運動が激化!!
列強に戦いを挑むものの、屈服せざるを得ませんでした。
この危機感が、無血開城へのヒントとなります。

1867年10月幕末動乱の時代は、大きな転換を迎えます。
15代将軍・慶喜が・・・大政奉還を行ったのです。
260年続いた徳川幕府に終止符が打たれ、徳川家は一大名となりました。

しかし・・・薩摩藩・長州藩は・・・新政府を樹立し、徳川家のお取り潰しへと動き出しました。
1868年1月3日鳥羽伏見の戦い勃発。
新政府軍と旧幕府軍が武力衝突!!!
旧幕府軍は大敗を喫し、慶喜は江戸に逃げ帰ってしまいました。

そして・・・1月7日、慶喜の追討命令が出されました。
”大逆無道”と断罪し、徳川家の廃絶、慶喜を討つ!!
徳川家、絶体絶命の危機・・・ここに全権を握るのが、勝海舟です。
陸海軍の全権を握る立場にありました。
どうしたら・・・この危機を乗り越えられるのか???

徳川の家臣たちは混乱するばかり・・・
江戸城内では、連日激論が!!
多くは、徹底抗戦を!!というものでした。

このまま抗戦論でいくと・・・江戸が火の海に!!
100万人の命が危機に陥ることに!!
これをどうしても避けたかった勝。。。

戦いが長期化すれば・・・
中国のように・・・
当時、清国」では、太平天国の乱がおこり、国内が大混乱となっていました。
そして・・・外国の食い物にされてしまう!!
戦いの長期化による外国勢力の介入を阻止する必要もありました。

最悪の場合・・・インドや中国のように・・・各国に干渉され植民地のようになってしまう!!

駐日イギリス公使、ハリー・パークス・・・
薩摩と急速に接近し、死の商人となっていきます。
対日貿易でイギリスに後れを取っていたフランスは、レオン・ロッシュ。
旧幕府を支持。。。
新政府と旧幕府の戦いは、英仏の代理戦争になる可能性を含んでいたのです。
日本の独立は!!??

①徳川家を守る
②江戸を戦火から守る
③内戦による外国の介入を防ぐ

これが、勝に任された3つの大きな使命でした。
矛盾したこの3つの使命をどのようにして乗り越えたのでしょう。

勝が亡くなる3年前に書いた屏風には・・・


幕末の動乱は、大波のように激しいもので
この国全体を暗雲が覆っていた
天は私を試すように国難に直面させた
私は買会代えきれないほどの問題に混乱し、
心を痛めることも多かった。


勝にはどんな道があったのでしょうか?

徹底抗戦策の決め手は、圧倒的な海軍力でした。
新政府がかき集めた軍艦は5隻。
対する旧幕府軍は、その倍もありました。

中でも最強を誇っていたのが開陽丸でした。
最新鋭の大砲が装備されていました。
清見関で待ち受けて、海から砲撃する!!
さらに、大阪湾に派遣して大坂・京都を脅かす!!

しかし、国が真っ二つに分かれるかも???
徳川家と江戸を守ろうとすると、国益を守ることができない・・・!!


講和策は・・・
交渉の余地は西郷のみ!!

交渉が上手くいけば・・・
戦わない・徳川家も安泰・諸外国につけいれられない
街も守れ・・・万々歳!!

しかし、敵も味方も拳を振り上げたまま・・・
交渉が成り立つ???

1868年2月慶喜討伐軍が京都を出発しました。
総勢5万・・・錦の御旗を掲げて・・・
そこには、参謀・西郷隆盛の姿がありました。。。

勝は・・・和戦どちらも対応できるようにしていたようです。
しかし、向こうが強行的に江戸城を占拠するという立場で来るなら・・・
迎え撃つしかない・・・と、思っていました。

旧幕府は優位に交渉を進めるために・・・
1868年2月12日慶喜・寛永寺に謹慎。恭順の意を示します。
その一方で、駿府にまで来ていた西郷に新政府を非難する書簡を送っています。
その内容は・・・官軍の進攻中止を要求するとともに、軍艦で抗戦すると脅迫したのです。

西郷は???

新政府軍は、東海道・東山道・北陸道を江戸に向かっていました。
3月には、先鋒隊が続々と江戸へ・・・。
3月15日には江戸城総攻撃が決定されていたのです。
3月9日に・・・
勝は、山岡鉄舟を西郷の元へ派遣し、交渉をさせます。
しかし・・・西郷から出されたのは、厳しい降伏条件でした。
その内容は・・・
①慶喜は備前藩預かり
②江戸城 武器 軍艦の没収
③徳川家臣の処罰
でした。

外様の備前藩に預けるということは・・・慶喜の処刑を意味していました。
徳川家の実質取り潰しも示唆していたのです。

これを満たさなければ・・・江戸城総攻撃を行う!!

勝は・・・
軍艦だけではなく、ゲリラ戦も決意していたようです。
帳簿には・・・250両の焼き討ち手当というものが残っています。
官軍総攻撃の際は・・・町火消しなどに江戸を焼き払うように依頼していました。
焦土作戦です・・・。

この作戦の真意は???
これは、イギリスの外圧を引き出させる・・・ためだったのかもしれません。
イギリスは、薩摩に武器を売っていながら横浜で貿易を行っていました。
その利益が一番大事で・・・。
大都市江戸が壊滅するのは・・・大打撃だったのです。

3月13日西郷の元に、パークスの意見が届けられます。
その内容は・・・
「徳川が恭順を示している以上、慶喜への厳罰は国際法上有り得ない」
薩摩藩の重要な後ろ盾だったイギリス・・・
そのイギリスの言葉に衝撃を受ける西郷。。。

勝が用意した焦土作戦が、イギリスをひきずりだしたのです。

そして・・・西郷に直談判を申し入れます。
それは、総攻撃前日の3月14日・・・。

折れない勝に・・・
「いろいろ難しい議論もあるでしょうが、 
 私が一身にかけてお引き受けします。」

勝の策が、功を奏した瞬間でした。
ここにおいて・・・ようやく徹底抗戦というカードを捨てることができたのです。

4月11日江戸城無血開城。
血を見ることなく新政府軍に明け渡されたのでした。

慶喜は故郷の水戸に隠居。
家臣も罰を免れ・・・
武器・軍艦も残され・・・徳川の存続が認められたのでした。

平和裏に行われた無血開城・・・
しかし、勝の事を裏切りと罵る人もいました。
上野では彰義隊が新政府軍と衝突、旧幕府艦隊を率いた榎本武揚たちは軍艦で江戸を発ち北海道へ・・・
五稜郭に立て籠もりました。

新政府軍は・・・東北諸藩に強硬な姿勢を崩さす・・・
内戦は、東北を中心に展開していきます。。。
特に会津藩は、大きな被害を出したのでした。




新政府にとっても、江戸が無傷の状態で手に入ったことは非常に好都合でした。
明治政府は、首都機能を引き継ぎ・・・新しい国家を造って行ったのです。

東北がなぜ・・・??
それは。。。黙認。。。
官軍側が勝った形にする・・・何らかの犠牲・・・象徴が必要だったのかもしれません。

しかし、勝の江戸城無血開城・・・動乱から一転、素早く維新を展開させた一因となったことは間違いありません。
katu

明治12年に集められた活躍した重臣たちの写真・・・明治天皇のアルバムには・・・役職についていない勝海舟も載っています。 それは、新政府樹立に貢献したことが認められたと言われています。

徳川慶喜将軍のナンバー2~勝海舟~はこちら
幕末維新SP「勝海舟VS坂本龍馬」はこちら
西郷隆盛~明治の礎を作った薩摩の怪物~はこちら

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると嬉しいです。 


にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村
幕末・明治(日本史) ブログランキングへ

氷川清話 (講談社学術文庫)

新品価格
¥1,050から
(2013/6/14 12:09時点)

勝海舟 強い生き方 (中経の文庫)

新品価格
¥580から
(2013/6/14 12:10時点)

一冊でわかるイラストでわかる図解幕末・維新―地図・写真を駆使 超ビジュアル100テーマ オールカラー (SEIBIDO MOOK)

新品価格
¥1,365から
(2013/6/14 13:54時点)

西郷隆盛 命もいらず 名もいらず

新品価格
¥1,890から
(2013/6/10 06:07時点)




今回のTHEナンバー2は、西郷隆盛さんです。

西郷さん、何回もいろんな場所でお見かけしているのでもうナンバー2で何回かしているのでは?と思ってしまいましたが、やっていなかったのですね。

でも・・・なんだか気乗りがしないというか、うまくまとめられないというか・・・
今回は、加治将一さんでした。
いつも解説してくれる時に・・・
「私が思うところ・・・」とか、「私の説では・・・」とか、突拍子もないことを言ってくれるので、頭の中が混乱しています。
いつもレポートするときは、感情移入しないつもりなんですけど・・・あせあせ(飛び散る汗)頑張ります。


1854年日米和親条約締結。
時代が大きく舵を切った時、歴史の表舞台に現れたのが西郷吉之助。
後に、幕末維新の表舞台に躍り出る西郷隆盛です。

江戸幕府を倒し、江戸城を無血開城に導き、明治政府で辣腕を振るうも、最期は政府に刀を向けた怪物です。

西郷隆盛は、維新最大の功労者でしょうか?
それとも、逆臣なのでしょうか?

その本当の顔を知るものはいません。

最も知られている顔・・・
topsyasin[1].jpg

は、会ったこともないイタリア人画家・キヨソーネが明治16年に描いたもので、隆盛の弟・西郷従道と、隆盛の父方の従弟・大山巌のオラージュしたものなのです。

また西郷の像も、本人とは全く違うとか。

生前の写真は存在しないと言われていました。

a1b2483256d17ff40044bf793169ad6b7920c83b.85.2.9.2[1].gif

しかし、加治将一さんによると・・・
1865年12月、若侍を中心に13人、その一番右端が西郷???
その理由は、大男でヘラクレスのようだということ。。。?????

本当にそんな理由で良いの???
と、私の中でモヤモヤが発生してしまいました。

でも、頑張って見ます。

一枚もないと言われてきた絵、平藩の藩校から出てきた一冊のアルバムにありました。

その決め手をもう少し深く掘り下げてくれました。

①永山弥一郎という影武者がいて、その人に似ている。
②背が高かった。
③オーストラリア人が、「まるでヘラクレスのようだと言っていた」
④島流しの後なので、がりがりだった。

本当にそれでいいの?加治さん。。。って、思ってしまいました。
モヤモヤがふくらんでいきます。

さて、勝海舟の目に映る西郷とは?
西郷の死から2年後に碑を建てています。
反逆者の碑は、当時では考えられないことでした。

きっとそこには、2人の信頼関係があったのでしょう。

禁門の変では幕府の指揮官だった西郷と、軍艦奉行だった勝。
2人の歴史的な出会いはどうだったのでしょうか?

勝海舟に会うことで、西郷の考えが180度転換します。
西郷を公武合体派から討幕にしたのは勝だったと言っても過言ではありません。

この日を境に、西郷は、長州との同盟を考えるようになります。

この13人の写真は、それから3か月後の写真です。
「薩英戦争講和修好時の島津久治」というキャプションがついています。

取り巻きは薩摩藩士。
東郷平八郎らしき人も映っています。
そう、後の薩摩閥で固めた海軍の大将や中将です。

この人たちは、10年前から長崎海軍伝習所に出入りしていた人たちです。
つまり、勝とは昵懇の仲でした。

この1年後に薩長同盟です。
加治さんの考えでは、この明治維新は裏でイギリスが糸を引いていたみたいなことを言っていました。


慶喜に対立する薩長に対し、慶喜は大政奉還をします。
しかし、やはり、実権は、徳川に・・・。

これを快く思わない人が・・・
12月大久保利通や岩倉具視らが図り、王政復古の大号令をかけます。

しかし、王政復古の大号令と言っても、絵に描いた餅。。。
相変わらず徳川に強力な力がありました。

大義を失った薩長は、大義名分を作ろうとします。
西郷は、江戸中に火を放ち、略奪をし、攪乱行動をします。

これに対し幕府側が、水戸にある薩摩邸を焼き討ちしてしまいます。

これが引き金、つまり薩長側の大義名分となって、鳥羽伏見の戦いが始まりました。
薩長は、兵力的には劣っていたものの、錦の御旗で勝利します。

勝と西郷が会見し、江戸城は無血開城。
そこには、天璋院篤姫の手紙もありました。西郷の恩人・斉彬の顔が浮かびます。


維新になって、廃藩置県に挑みます。この大事業を成し遂げられるのは、西郷しかいませんでした。
大久保は・・・
「是非とも東京に来てくれ  西郷どんが必要でごわす
  廃藩置県が出来るのは、おはんしかおらん」
涙ながらに説得しました。

「やるからには、命をかくっつもりでやらんとなりもはん」

西郷はすでに、鹿児島で廃藩置県に先駆ける改革を行っていました。
知行の返上・平均して200石の士族に統一します。
版籍奉還を行って、廃藩置県を行ったのです。


しかし、これは藩主と藩主の生活を脅かすものでもありました。
島津久光も大反対です。

難しいと思われた廃藩置県、御親兵の圧倒的な軍事力を持って、無血革命で達成します。
この、士族を一気に解体するのは気が引けた西郷、警察官3000人のうち2000人は薩摩を採用、士族の居場所を探します。

1871年9月15日、西郷は勝と三度目の対談をします。
「こげん面倒なことになるんじゃったら 早う死んじょった方がましでごわした」

「おいらも時々そう思う」  

と言ったとか。

廃藩置県は、西郷の軍事力を統率するカリスマ性がなければできませんでした。
その西郷のカリスマ性を利用する大久保。
廃藩置県は、政府にとって内政の大きな山でした。
これを西郷の力で乗り切ると・・・
「岩倉使節団」として主要メンバーは旅に出てしまいます。

その間に当時は鎖国中だった朝鮮との問題が勃発します。
朝鮮を開国させようとする「征韓論」が出てきて・・・
両国の関係は悪化の一途を辿ります。

西郷は韓国に行って、平和裏に納めようとしていましたが。。。

それを覆したのは、旅から帰ってきた大久保でした。
嫌気を出した西郷は、鹿児島へ帰ってしまいました。
そう、西郷は、新政府と決裂したのです。

1874年6月私学校を作ります。
銃隊学校・砲隊学校・吉野開墾社・・・鹿児島の士族を教育しようとしました。

しかし、これは軍隊???
近代国家として明治政府が成立するためには、放ってはおけません。

そして危惧していたことが・・・
私学校の生徒が、陸軍火薬庫を襲撃!!
西郷は。。。「おはんたちは 何たることをしでかしたか!?」

1877年2月15日、日本最後の内戦が始まりました。西南戦争の勃発です。

9月24日西郷自決。。。

明治維新の一番の立役者は、反逆者としてその一生を終えるのです。
享年51歳でした。

鎌倉時代より750年続いた武士の世を終わらせた男は、自らの命を武士の世の終わりの仕上げとしました。

討幕・廃藩置県・西南戦争・・・

日本が近代国家に生まれ変わるために、自らを人柱としたのです。

勝は、亡き友の追悼と、名誉回復に努め、息子・寅太郎を支援。
寅太郎が海外留学の際は、資金集めに奔走しました。

1898年師走・・・
銅像の除幕式にて・・・

「どうも出来がよくない・・・」

勝は、満足できなかったようです。

その顔は謎のままに・・・。


みたいな感じでした。
どうでしょうか?
初めての西郷さんなのに・・・

顔がどうとかよりも、西郷さんの生い立ちとか、成し遂げた偉業とか、してほしかったなあ・・・。
だって、顔は結局解らなかったのだから・・・。あせあせ(飛び散る汗)

これなら、まえにナンバー2でやった大久保利通の方が、かっこいいと思ってしまいました。。。あせあせ(飛び散る汗)

それはこちら。
大久保利通~明治を創った男・維新の設計者~


西郷さんには今も惹きつけてやまない魅力がたくさんあります。
人情とか、人情とか、人情とか、きっぷのいいところとか、官僚タイプの大久保とは違うダイナミックな部分とか・・・。

もっと歴史に忠実に・・・そして
かっこいい西郷さんを見たかったなあ。。。

って、私情ははさんで書かないつもりだったのに・・・。
今回は、なんだかグダグダに思ってしまったので。。。
ごめんなさい。反省します。


↓ランキングに参加しています。揺れるハート
↓応援してくれると嬉しいです。るんるん
にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ
にほんブログ村

幕末・明治(日本史) ブログランキングへ

人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ

新品価格
¥1,785から
(2013/6/10 06:07時点)



西郷の貌

新品価格
¥1,890から
(2013/6/10 06:08時点)


このページのトップヘ