BS歴史館  西郷隆盛  ~命もいらず 名もいらず~   です。

時は激動の時代・幕末から明治。
日本の大改革を成し遂げた男がいました。

図解で迫る西郷隆盛 [ 木村武仁 ]

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西郷隆盛。260年続いた江戸幕府の支配を終わらせ、近代国家の礎を築いた明治維新のリーダーです。
その豪快な行動の裏には、冷徹で緻密な計算がありました。

どんな敵をも味方にしてしまう圧倒的な包容力。その象徴が薩長同盟。その中に隠された西郷のしたたかな策略とは?

江戸城無血開城、この美談の裏に隠された、目的の為ならば手段を選ばない西郷の真実とは?

後の西郷を作りだしたのは、若いころの心中未遂事件。獄中生活。これが、西郷のリーダーの心得となっていきます。

「命もいらず 名もいらず
 地位も金もいらぬという人は
    始末に負えない
 しかし この始末に負えぬ人でなければ
    国家の大業は成し遂げられぬ」

西郷の目指したリーダーのあるべき姿とは?

日本人で最も難しいのが西郷です。
軍国主義の時代には理想の元帥として、敬天愛人を出すと民主主義の先駆けとして・・・時代によって解釈が違うのです。

しかし、西郷は必ずしもリーダーとは言えず、担ぎ上げられる最高の御神輿だったのです。

西郷の成し遂げた偉業の一つ。。。
宿敵長州と結び、反幕府勢力を作ったことです。

リーダーの流儀①
策略亡くして勝利なし。

1864年7月19日大事件が起きます。長州VS幕府諸藩連合軍の「禁門の変」です。
当時長州は、攘夷を唱えていましたが、過激な攘夷で京都政界から追放されていました。その政界復帰を求めて上洛します。

この時西郷は、幕府に味方しました。
薩摩軍の協力のもとに、幕府は長州を一蹴。さらに長州征討で長州のおとり潰しを画策します。それを強力に進めたのは西郷でした。

「今、長州を潰さなければ、将来に禍根を残す」

1864年下関戦争でさらに長州は追い詰められます。
長州は惨敗し、諸外国に対し幕府も多額の賠償金や不利な条約を飲まされます。

西郷は、この状況下で内乱は避けるべきだと思っていました。内乱が起こったら、間違いなく日本は植民地化される!!
征討軍の指揮官として、長州と幕府の和解を迫りました。
しかし、そこにはしたたかな作戦があったのです。

本来は軍使をたてるところ、指揮官西郷が自ら出かけます。
自分が殺されたら全面戦争になる!!

話し合いの結果、長州から和解案を提案させました。
その和解案とは・・・
  三家老の切腹
  山口城の取り壊し・・・

そして幕府をも説得し、すんでのところで和解させます。

敵をも味方につけるのが、西郷の真骨頂。窮鼠猫を噛む状況を避けるのが得意でした。

1866年第2次長州征討決定。
幕府に要請された西郷は、
「長州はすでに謝罪しており、この戦いは大義名分がない。出兵はお断り申し上げる。」

このことは、幕府にとっては晴天の霹靂でした。

この時すでに西郷は、密かに桂と薩長同盟を結んでいました。
薩長同盟の内容は、朝敵となった長州の復権への協力を約束したものです。
そして、長州が幕府と戦うときには軍事援助をすることを約束していました。
幕府打倒のシナリオが始まったのです。

西郷の思惑通り、幕府は長州に敗退、時代は討幕・新政府樹立に進んでいきます。

何故、宿敵長州と手を組んだのでしょうか?
幕府と長州、どちらが日本の為になるか?
幕府はもうだめだ!!結ぶのは長州!!

本当は内乱を避けたい・・・本当は血を流さずに・・・

リーダーの流儀② 
非情なまでの決断
西郷の最大の功績は、徳川が支配する世を終わらせたことです。

1867年10月14日、慶喜は大政奉還を宣言。
その目的は、徳川勢力の温存と新政権でも実権を握ること。

しかし、西郷は大久保らと画策し・・・
京都御所を軍勢で包囲。朝廷に新政権からの慶喜の追放を決定させます。

それが、12月9日王政復古のクーデターです。
何故クーデターが必要だったのでしょうか?

図抜けた才能を持つ慶喜。彼が新政府に入るという考えの人が殆どでした。
しかし、それでは現状容認的な新政府になってしまう!!
そこで、あえて武力によるクーデターを起こしたのです。

そして天皇を中心とする新政府樹立。
これに対して幕府が反発して・・・

鳥羽伏見の戦い勃発。

戦いは、西郷率いる新政府軍の勝利。
慶喜は新政府には反抗しないと申し入れますが、強固な姿勢で跳ね除けます。

「維新変革と言うものは、中途半端では済まされない。
 戦いを終わらせるのは、慶喜の切腹だけだ。」と、江戸総攻撃を宣言します。

江戸が焼け野原になる・・・。直談判したのは勝でした。
江戸城明け渡しを条件に総攻撃中止と慶喜救済を願い出ます。

この時の西郷の本来の目的は、「慶喜の切腹」ではなく、内戦を早く終わらせること。
互いの誠実さを持って戦いを終わらせる。。。

「いろいろ難しい議論もあるでしょうが、私が一身にかけてお引き受けいたします。」
と、自らの一存で受け入れます。

そして、歴史的な大英断。
1868年4月11日、江戸城無血開城、江戸は戦火から救われました。

どうして非情になったのでしょうか?
それは、西郷などの討幕派は、少数派だったということ。
薩摩や長州の上層部の大多数は、幕府を倒そうとは思っていません。既得権益があるからです。
おまけに幕府は400万石、朝廷は4万石しかありません。まともに戦って勝てるわけがないと思っていたのです。

追い詰められていたのは西郷の方。自分たちの今の立場、将来を見据えた時に、非常にならざるを得ないのです。

「作略と言うのは平生はやるべきではない。
 ただし事に臨んでは作略がなくてはならない。」

西郷は、薩摩人でありながら、日本の今後を見据えています。
どうしてそんな人物が出来たのでしょうか?

それは、薩摩の下級武士の生活に始まります。
西郷は農民から年貢の聴衆を行う役人でした。
農民の苦しい生活と、役人の不正を目の当たりにした西郷は、24歳の時農政改善を求め上層部に意見書を出します。彼を逸材と見抜いたのは第11代藩主斉彬、この斉彬、諸外国との外交と、産業の発展に国の浮沈がかかっていると幕府に意見をするような、開明派の名君です。
藩ではなく、日本国としての改革をしようとした人物でした。

斉彬は西郷を高く評価し、側近として育てました。西郷もこれを喜び忠勤に励みます。下級武士から今の自分にしてくれた斉彬に尽くしたのです。

斉彬は、国を挙げての幕政改革の必要性を目指し、西郷に情報収集や人脈工作をさせます。
藩を超えて有能な武士、公家とも親しくなりました。
西郷は、ついには篤姫に直談判するにまでになりました。

西郷35歳の時に斉彬病没。
敬愛していた主君の死に、殉死を覚悟する西郷。それを止めたのは、ともに工作に当たっていた清水寺の僧侶・月照。

しかし、1858年9月安政の大獄開始。
公家たちが断罪され、月照もお尋ね者に。。。西郷は薩摩に連れ帰ります。
しかし、藩は、西郷に月照の殺害を命じました。
それは出来ない!!と、月照と共に鹿児島の海に身を投げます。

しかし、運命は皮肉。一人だけ助けられ、生き延びてしまった自分。。。
このことが、リーダー西郷を生み出していくのです。


西郷さん、書くことが沢山あります。あせあせ(飛び散る汗)
時間が来てしまったので、また連休明けに。るんるん

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