日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

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タグ:池波正太郎

>鬼平犯科帳 決定版(一) [ 池波 正太郎 ]

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今なお愛されている時代小説の金字塔”鬼平犯科帳”。
誕生50周年・・・主人公は、鬼平こと長谷川平蔵です。
江戸時代に活躍した実在の人物です。
平蔵は、火付盗賊改めで、悪を懲らしめるヒーローでした。

1746年、長谷川平蔵は、旗本家の長男として江戸で生まれました。
本名は長谷川宣以・・・平蔵は通称です。
長谷川家は、家禄は400石と高くはありませんでしたが、三河時代から徳川家に仕える格式の高い家柄でした。
父・宣雄は、同じく通称を平蔵と言い、京都町奉行にまで出世した優秀な官僚でした。
本所に屋敷替えを命じられたのは、平蔵19歳の時・・・若い頃の平蔵は、名うての遊び人で、放蕩三昧でした。
しかし、1773年9月、28歳の時、父が、京都町奉行在職中に急死したことで、家督を継ぎ長谷川家の当主となります。
心を入れ替えて、生活を一変させる平蔵。
翌年には、将軍を護衛する書院番に・・・旗本の頂点である町奉行を目指します。
徐々に出世をしていった平蔵は、41歳で御先手頭となります。
御先手頭とは、戦の際に先鋒を務める弓隊、鉄砲隊の指揮官となることで、平蔵が任されたのは弓隊の頭でした。
1787年、松平定信が老中に・・・
老中就任の3か月後、定信は平蔵を火付盗賊改めに抜擢しました。

火付盗賊改めとは・・・??
放火犯・盗賊・博徒の取締をすることで、およそ30人いる御先手頭の中から選ばれ、当時は加役と呼ばれていました。
基本的に定員は2人、通年担当と、冬場のみの担当です。
始め、冬場のみを担当していた平蔵は、7か月後に通年担当となります。
火付盗賊改めには、決まった役所がないので、自宅を使用。
小さいながらもお白洲を設け、取り調べや裁定を行いました。
江戸には、警察司法組織としての町奉行がありましたが、彼らは非武装の文官で、火付盗賊改は武官・・・町奉行では手に負えない凶悪犯罪を取り締まる特別警察の存在でした。
他にも・・・町奉行は江戸の町人地、火付盗賊改は特定の管轄がありませんでした。
平蔵は、火付盗賊改として、与力や同心を束ねながら、治安を守っていくこととなります。
年数にして8年間・・・寝るのを惜しんで働きます。

検挙率も高く、平蔵の名を世に知らしめた事件は”真刀徳次郎の逮捕”です。
1789年4月、東北から関東一円で、数百件に及ぶ強盗殺人事件が発生!!
盗賊一味の頭は真刀徳次郎。
一説には800人の手下がいたとか・・・。
抵抗すれば、僧侶でも斬り殺す、極悪非道な男でした。
しかも、公儀御用を装って、関所を潜り抜ける知能犯で、平蔵配下の同心たちもまんまと騙されている始末・・・。
しかし、一度目をつけたら、蛇のように食らいつき、遂に一味のアジトを見つけます。
江戸から10里というところで、一網打尽にします。
場所は、今のさいたま市北大宮近くの四恩寺。。。
境内にある閻魔堂で徳次郎を捕まえたといいます。
この一件で、江戸だけではなく、関八州にその名が轟くこととなるのです。

46歳の時、一番の大取物に・・・”大松五郎の逮捕”です。
別名”葵小僧”です。
たった一人で商家から武家屋敷まで襲う大胆不敵な奴・・・。
一晩で23カ所盗みに入り、女子供を嬲り、人殺しも厭わない・・・武士たちでさえ、恐れおののき、夜も眠れない江戸庶民たち。。。
そんな男を捕まえます。
すると今度は、非道な行いを自慢げに白状する大松・・・どこまでも傲岸不遜な大松に、10日足らずで獄門に!!
これほどのスピード判決は、江戸時代の中でも珍しく、鮮やかな逮捕劇と迅速なお裁きに、人々は大喝采!!
平蔵は、一躍江戸のヒーローとなったのです。
鬼の平蔵の誕生でした。

どうしてこんなにたくさんの賊を捕まえることができたのでしょうか?
一つは若い頃の生活・・・江戸で名うての遊び人でした。
京都町奉行の父について京に赴いても・・・遊里などで遊んで、倹約家だった父の財を使い果たしてしまいます。
そして、賭場に出入りする者たちとも付き合い、裏社会に出入りしていきます。
こうした経験が後に役に立ったと言います。
犯罪者の心理を読むに長けていたのです。
その嗅覚を生かし、夕方には江戸市中をパトロール。
犯罪の火種を見つけていきます。
そして・・・捜査に欠かせないのは・・・”岡っ引き””目明かし”。
元罪人の岡っ引きや目明かしを通じて、犯人を見つけたのです。

人足寄場も作りました。
当時の江戸は、治安が悪化・・・原因は天明の大飢饉でした。
東北を中心に、悪天候や冷害により凶作・・・農作物の収穫が激減してしまいます。
そして・・・追い打ちをかけるように浅間山が噴火・・・
田畑は壊滅的な被害を受け、深刻な飢饉に陥ってしまったのです。
死者は数十万人・・・。
農民たちは、職を求めて江戸に流入・・・
しかし、その多くは仕事も見つからず、無宿人となりました。
中には盗みなどの悪事を働く者もあらわれ、江戸の治安は悪化の一途・・・。
老中・松平定信は、幕臣たちに呼びかけます。
そこで手を揚げたのが唯一、長谷川平蔵でした。
平蔵は、無宿人対策を・・・人足寄場を作り、無宿人たちを自立させようとします。

平蔵が目を付けたのは、当時離れ小島だった佃島の隣、石川島・・・ここなら無宿人を囲い込めると考えたのです。
「平蔵ならば。。。」と、人足寄せ場取扱」の兼務を命じられると、着工からわずか2か月で土地を埋め立て施設を建設、運用開始します。
広さ1万6000坪!!
平蔵はこの広大な人足寄場で、多くの人々の自立更生力を注いだのでした。

平蔵はこう考えていました。
仕事がなければ出所後も無宿人となる・・・何か手に職をつけさせれば・・・
そこで平蔵は、大工、紙漉き、わら細工、裁縫・・・施設内で様々な技術が習得できるように・・・職業訓練所にしました。
さらに、彼らが退所する時に開業資金を与え、すぐに仕事が始められるようにしたのです。

在所期間は3年間・・・しかし、成績優秀者はそれより早くに退所できます。
施設内では水玉模様に染め抜かれた法被を着ていましたが・・・
成績に応じて水玉の数を減らし、水玉がなくなったら退所・・・というようにしたのです。
ひとりひとりの状態、働きを目に見えるようにし、意欲を書き立て競争心を煽ったのです。

平蔵は、自立更生のためには心のケアも必要だと考えていました。
そこで、松平定信を通じて、心学者・中沢道二を招き、講義を開いたのです。
心学・・・説くのは実践的な道徳です。
辛抱すること、努力することの大切さを学びます。
その教えは、すさんだ心を癒します。

こうして平蔵は短期間で成果をあげ、定信に称えられます。

「人足寄せ場によって、無宿人たちは減り、犯罪も少なくなった。
 これも長谷川の功績である。」by定信

ようやく平蔵は報われます。というのも、資金面で苦労していたからです。
定信が、寛政の改革で質素倹約を旨としたので、あまり資金を割いてもらえず・・・
1791年、平蔵は運用資金をねん出する為に、公金を使って銭相場に手を出したのです。
一説には3000両もの大金をつぎ込んで、500両も儲けたと言います。
1792年、平蔵47歳・・・運営が軌道に乗ったところで、忍足寄場の任を解かれたのでした。

江戸の町には自身番というシステムがあり、町方が盗賊を捕まえ得た場合、自身番に一晩置くのが普通でした。
しかし、捕縛者の世話や人件費は町人持ちだったので大きな負担となっていました。
そこで、平蔵は彼らの負担を減らすために、直ちに自分の屋敷に連行するようにします。
町方が盗賊を連れて行くと・・・そばを驕ったり、部下の与力、同心に対しても、酒や食事を振る舞いました。
お裁きも情け深く・・・その刑罰は、老中に申請し、許可をもらうのですが・・・
平蔵は凶悪な犯罪者には重い刑を・・・それ以外には比較的軽い刑を申請しています。
また、誤認逮捕してしまったものには、拘留の日に合わせて銭を与えていました。
刑死したものは供養したと言います。

”懲罰正しく 慈悲心深く 頓知裁き多し”

そんな平蔵です。

慈悲深い平蔵は・・・「今の大岡殿」と呼ばれるようになります。
庶民たちから絶大な信用を得ていたのです。
町奉行に・・・という声が挙がってきました。
町奉行は、火付盗賊改よりも上の役職・・・平蔵にとっての出世の頂点です。
厳しくも人情熱く、人々に好かれていた平蔵・・・出世のチャンスが訪れました。
それは火付盗賊改就任2年後の事でした。
南・北の奉行所のうち、南町奉行所が空席となったのです。
過酷な火付盗賊改は、2,3年で交代させてくれるのが通例でした。
そのために、次は自分の番だ・・・と、内心期待していましたが、見送られました。
幕府の理由は・・・平蔵以上に火付盗賊改の適任者がいないということでした。
1791年、再びチャンスが・・・
北町奉行・初鹿野信興が、在職中に急死したのです。
平蔵は既に火付盗賊改4年・・・人足寄場を軌道に乗せ、実績はありました。
しかし、この時も平蔵は町奉行になれませんでした。
今度の理由は・・・”町奉行は目付を勤めていない者には命じられない”でした。

目付とは、老中のもとで旗本の行動を調べたりする役職で、出世の要となるポスト・・・確かに平蔵は勤めていませんでした。
しかし、この時、町奉行となった小田切直年は、目付を経験していませんでした。
つまり、平蔵が町奉行になれない理由は他にあったのです。

平蔵の支えとなっていたのは松平定信の言葉でした。
「平蔵ならば・・・」と。

平蔵が出世できなかった本当の理由は・・・松平定信でした。
定信は、平蔵のことを嫌っていたのです。
「功利をむさぼるがゆえに、山師などという姦なる事もあるよしにて人々あしくぞいふ」
銭相場に手を出したことなんかが、山師=よこしまと思ったようです。
そして、犯罪者まがいの手下を使っていたことも、気に入らなかったようです。
定信は、清廉潔白で、堅物、杓子定規な人・・・。
老中・松平定信が、平蔵を嫌い、出世させなかったのです。

1795年・・・火付盗賊改として働くこと足掛け8年・・・
平蔵の出世を阻んでいた松平定信は2年前に失脚。
誰もが平蔵の町奉行昇進を期待していました。
その矢先・・・激務がたたったのか、平蔵は倒れてしまいました。
多くの功績を残した平蔵・・・50年の生涯を静かに終えたのでした。
出世はできませんでしたが、平蔵の功績は今も残っています。

東京・新宿にある戒行寺・・・ここに長谷川平蔵は眠っています。



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歴史の中の日本
昨日のブログでBS歴史館の坂本龍馬を書いたので、思い出し読みをしました。

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司馬遼太郎さんの「歴史の中の日本」です。

私は司馬遼太郎さんが好きなのですが、若い頃に読みましたが、ほとんど忘れてしまいました。池波正太郎さんや子母澤寛さんに比べると、読みやすいのが魅力的でした。

この本には司馬遼太郎さんの書いた本についてだったり、色々な人物について、またものの見方なんかを書かれています。

その中に、「坂本龍馬」について書いてあったので、少し紹介したいと思います。

まず、司馬さんによると、歴史に影響を与えた人物の評価が、同時代からさまざまに変化して、その人物が生きた時代の余熱が冷えるころ、つまり一人の人物の評価が確定するには、百年はかかるというのです。

龍馬の場合、明治国家における彼の歴史的位置はほとんどなきに等しく、教科書でも、明治の元勲は、木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通の三人で、その後は、明治政府を作った伊藤博文・山県有朋となります。

龍馬という人物は、明治40年頃まで、タブーだったようです。それは、明治国家が薩長のものだったということと、民族主義者であったものの、共和思想の匂いの濃い人物だったからだと思われます。

思想的には、アメリカのように大統領を持つ国家を考えており、当時としては乱臣賊子です。ただ、見事なバランス感覚で、その考えを表に出すことはないのです。

龍馬の面白さは、倒幕ということが、龍馬にとっては、言わば片手間の仕事で、最終目標ではなかったのです。そして、彼の狙っていたものは、世界貿易だったのです。

そして、第二次世界大戦の敗戦により、明治政府の国家が崩壊し、坂本龍馬の自由奔放さが見直されてきたのかも知れません。

坂本龍馬という人は、時代をかなり早く生まれてきてしまったのでしょうね。私は幕末は好きですが、やはり、坂本龍馬という人は飄々としていてよく解りません。実を言うと、佐幕派のファンです。新選組みとか白虎隊とか

去年の大河ドラマも、半分ぐらいは見たのですが、後になってくると龍馬の型にはまらない行動がわからなくなって、いつの間にか見なくなっていました。世間ではあんなにもてはやされていたのに・・・。

きっと、凡人にはわからない、やはりヒーローなのでしょう。


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