日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:池田光政

戦国最強と謳われ数々のライバルを打ち負かした猛将・武田信玄。
しかし、領国・甲斐の統治は一筋縄ではいきませんでした。
四方を山に囲まれた甲斐の国は急流河川が幾重にも流れる日本屈指に洪水多発地帯でした。
独立心の強い豪族が、河川の流域に割拠し、信玄の支配をも脅かしていました。
治水のような広域にわたる協力体制が必要な事業を行うには、国内がバラバラのままでは実現性が高くありません。
信玄が戦国大名として豪族たちを束ねる上に立つ存在として治水工事を行うことで、甲斐国の人々の支持を得ていく・・・自らの求心力を高めていったのです。

治水を通して国をまとめ上げた信玄・・・その原点が、甲府盆地に築いた信玄堤でした。
信玄堤は、南アルプスから流れ来る急流河川から、甲府盆地を守るために作られたおよそ3キロに及ぶ堤防です。
戦国時代に信玄が作った本土手と呼ばれる堤防が、その原型と呼ばれています。
信玄堤は現在、釜無川と御勅使川を受け止める甲府盆地の治水の要です。
しかし、信玄の時代は今と異なり川が縦横無尽に盆地に流れ込み、信玄堤だけでは対処できなかったのでは?と言われています。
江戸時代に書かれた「甲斐国史」には、信玄堤の他にも治水工事が甲府盆地に存在したと記されています。
その一つが、信玄堤から7キロ離れた御勅使川上流に残っていました。
石積出と呼ばれ、高さ7m、幅15m、奥行き80mにも及ぶ城壁のような大きな石垣です。
当時、いくつもの流路を持つ御勅使川が釜無川にぶつかることで、広範囲の洪水が起きていると考えられ・・・洪水が起こりやすい川の合流点を一カ所にまとめるため、この石積出を築いたともいわれています。
暴れる一番根元を押さえるのがポイントでした。
石積出によって向きを変えられた川は、高岩と呼ばれる断崖に激突!!
一旦勢いを弱めた川を、下流の信玄堤が受け止め、甲府盆地への浸水を防いでいたのです。
信玄堤が途切れる釜無川の下流域にも工夫が凝らされます。
ここでは霞堤と呼ばれる隙間の空いた堤防が活躍しました。
今も、霞堤の跡を見ることができます。
洪水時には、隙間からゆっくり水があふれだすことで、水の勢いを逃がし、堤防の決壊を防ぎました。
そして洪水が治まれば自然と水が川へと戻っていく仕組みになっていました。
信玄の時代の人は、治水施設の能力を超える洪水が毎年来て溢れていました。
それに対して人々の生活は、洪水と共存する・・・洪水に勝つのではなく負けないようにする工夫が霞堤の極意でした。
水をもって水を制す・・・ユニークな信玄流治水術・・・川と人々との共存を支えていたのは、建造物だけにとどまりません。
信玄が堤防脇に新たな開拓地を作ろうと人々を集めました。
信玄堤の傍に家を建てれば、税金を一切免除する
その代わり、住民に堤防の修理や洪水への対応を義務付ける・・・治水ニュータウンを作り上げました。
この時出来た地区・竜王河原宿には、今も信玄堤へと続く細長い区画が残されています。
信玄は、平安時代に起源をもつ祭・御幸祭に莫大な費用をそそぎ、甲府盆地を巻き込む一大治水パレードへと発展させます。
水害に対する庶民の力と公の力をミックスさせ、水害を防ごうとしたのです。
川を治めるものが国を治める・・・治水を通して甲斐国を強国へとした信玄が、今も山梨を守っています。


岡山市の中心部に、津田永忠が生涯をかけて作ったものが残されてています。
普段はあまり水が流れていない百間川・・・全長13キロの人工河川が、一昨年、岡山市街を洪水から守りました。
西日本豪雨・・・岡山の平野部を三日間にわたる集中豪雨が襲い、平成最大規模の水害をもたらしました。
市街地を流れる旭川は水位が急激に上昇・・・下流部では氾濫も危ぶまれる事態となりました。
この時、市の中心部から北で、旭川から分流する百間川が放水路として機能しました。
水を海に流すことで、市街地のおよそ3300戸が浸水被害を免れたのです。
江戸時代前期に開削された百間川・・・その築造を指揮した岡山藩士・津田永忠は、城下のインフラを一気に引き受けた土木の名人でした。

1654年の備前洪水・・・局地的な豪雨によって、城下1455軒が家屋流失し、156人が犠牲となりました。
前代未聞の水害に、岡山藩主・池田光政は「我ら一代の大難」と嘆いたといわれています。
甚大な被害を招いた原因は、岡山城の造りにありました。
旭川を堀として利用していたために、激流があふれ出し、大洪水となって藩士や領民の暮らす城下を襲ったのです。
旭川の氾濫から城下を守るために作られたのが、百間川でした。
どのようにして旭川の水を百間川に導いたのでしょうか?
その要となる仕掛けが、分流部にあります。
洪水の取り入れ口として、旭川の堤防を切り下げて作られたのが、百間川の入り口です。
その左右に作られた丸みのある石積みが巻石です。
強度の高い岡山さんの花こう岩が使われ、永忠が作った当時の姿で受け継がれています。
西日本豪雨の時も、改修工事を終えたばかりの巻石が活躍しました。
百間川に流れた最大で毎秒1500トンの濁流に耐え抜き、市街地の浸水被害は軽減されたといいます。
三百数十年前に、永忠がこれを築造してから、岡山の町を守っているのです。

津田永忠は、洪水から人々を守るだけでなく、その先も見据えていました。
洪水によって田畑を失った農民たちは困窮し、飢饉が・・・およそ8万人が飢えに苦しみます。
永忠は、農村を復興し、藩と領民をすくうために大規模な新田開発が必要だと痛感します。
そこで、当時広大な干潟が広がっていた百間川下流域を干拓し、水田に変えるという大胆な計画を打ち立てます。
ところが、そんな大事業は不可能だと藩重臣たちの反対にあいます。
開発に要する工事費用は、半額までしか出せないと突き放しました。
それでも永忠は、残りの資金・銀500貫目(およそ10億円)にもなる大金を、大坂や京都の豪商から自分の名義で借り、工事費用を調達しました。
永忠は、私利私欲のために新田開発を行おうとしている・・・そんな周囲からの誹謗中傷に、こう反論しました。

「名誉が欲しいなら、新田開発には挑まない
 天道天下へのご奉公と思うだけである」

難事業だった新田開発・・・永忠は、巧みな技術を使って成功に導きます。
干拓のため、海水の侵入を防ぐ必要がありました。
そこで築いたのが、干潟を囲むおよそ12キロの堤防でした。
しかし、海より低い干拓地を堤防で囲ってしまうと、百間川から流れてきた水や水田を潤した農業用水を海へ排水することができない・・・
そのため永忠は、巻石でも使われた強固な花崗岩で水門を作り、海と接する百間川の河口一帯に並べました。
木製の板によって開け閉めのできる樋門・・・海の水位が河口より高い満潮には門を閉めて、海水が水田に侵入しないようにし、海の水位が下がる干潮に合わせて門を開き、たまった水を排水しました。
樋門を通して水を管理することで、新田開発が可能となりました。
百間川の治水を、農地の拡大に結びつけたのです。
こうして、江戸時代最大規模の沖新田が生れ、岡山藩と領民を窮地から救いました。
今も、開閉式の門のシステムは継承され、百間川水域の水田地帯を守り続けています。
300年以上岡山の人々を守ってきた百間川・・・その静かなたたずまいの中に、信念を貫いた武士・津田永忠の記憶が刻まれています。


実業家・金原明善・・・
明治から大正にかけ、天竜川の治水に尽力した実業家です。
江戸時代、暴れ天龍と恐れられた天竜川・・・全長213キロ、長野県の諏訪湖から静岡県の浜松平野に流れる急流河川です。
天竜川流域は、江戸後期の100年だけでも50回近くの洪水に見舞われ、その度に多くの命が失われました。
溺死者の魂を弔う慰霊塔が川沿いの至る所にあります。
1832年、浜松の名主の家に金原明善が生れました。
幼いころから村が水に沈むさまを幾度となく目の当たりにしてきました。
明善が洪水から人々をかくまったという屋根裏部屋・・・
洪水から村人たちを救いたいと、明治時代の幕開けと共に明善は動き出しました。

1874年、天竜川の治水を目的に、治河協力社を結成。
そして、自らの財産を元手に大規模な堤防工事を行いたいと明治政府に訴え出ました。
金原家の全財産を売り払い、工事費に充てるという明善に、国内行政を管轄した内務卿・大久保利通も困惑しました。
しかし・・・当時持っていた全財産、ガラスのコップ1個まで全部売って寄付をし・・・その覚悟が大久保を動かします。
明善の熱意に討たれた大久保は、以後、天竜川の治水事業を明善に一任し、政府から支援金を出すとまで約束します。
早速明善は、最新式の測量機器を買いそろえ、欧米の建築技術を取り入れた近代てきな堤防工事を計画します。
ところが・・・明善の治水計画に反発の声が上がり始めます。
公共事業は地域全体で話し合って行うべきだと流域の村々が治河協力社への参加を要求したのです。
しかし、明善は村々の加入を頑なに拒み続け、ついに治河協力社を解散させてしまいます。
天竜川を使って生計を立てている人にとって、漁業権が失われたり、天竜川の水運だったり・・・自分達の仕事を奪ってしまう事業だと考えた人がたくさんいたのです。
そんな人たちが、治河協力社に増えると、思惑が絡み合って合意形成が難しくなる・・・
明善は、多数決の原理を恐れたのです。
村々の協力を拒んだ明善は、地域から孤立・・・
政府からの支援金も絶たれ、近代的な堤防を建設する夢は絶たれてしまいます。
しかし、明善は全く別の角度から治水に迫ることを思い立ちます。
目をつけたのは山!!

森が討伐、青い山がはげ山へと変わっていっている・・・
雨が降れば土砂が流れて川にたまり、堤防が決壊しやすくなってしまう。
治水と植林とは方法は異なるが、その目的な同じではないか・・・??

治水から治山へ・・・
明善は、山の木々や水を貯える力で天竜川を鎮めようとしたのです。
見よう見まねで杉やヒノキなどの植林を始めた明善・・・
しかし、還暦間近のその行動を、初めは多くの人があざ笑いました。

かつては流域の人々との連携を拒んだ明善・・・
今回は、地域が一丸となって治山、治水を実現すると心に決めていました。
明善はまず山間に住む貧しい人々に賃金を支払い植林という新たな仕事を与えました。
さらに、丸太を運ぶ運輸会社、木材を加工する製材所、資金を回すための銀行を設立。
林業を中心に、新たな事業と雇用を生み出していったのです。
こうして流域の人々の心を掴んだ明善は、17年で680万本を植林します。
東京ドーム450倍の森林が生れ、後に天竜美林と呼ばれるようになりました。

明善が植林を始めてから40年近くたった大正11年6月・・・
歩くこともままならなくなった91歳の明善は、最後にもう一度山を見たいと仲間たちに頼みます。
明善が植えた杉やヒノキは、見違えるほど大きく育ち、人々を見下ろしていました。
明善を笑うものなど、もうどこにもいませんでした。

大正から昭和へ・・・山々に緑が戻ると同時に天竜川の洪水も次第に減少していきます。
明善が夢見たダムなどの近代的な治水施設にも支えられ、昭和20年を最後に浜松では天竜川の大規模な氾濫は無くなりました。
明善は、今も天竜川のほとりで人々の暮らしを静かに見守っています。

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戦国の世を生き抜き、齢62にして天下人となった徳川家康。
それからおよそ10年・・・天下統一の総仕上げとする最後の戦いに挑みます。
大坂の陣です。
難攻不落の大坂城を2度にわたる合戦で攻略・・・豊臣家を滅亡へと追い込むのです。
しかし・・・炎に包まれたその城には、家康最愛の孫・千姫がいました。
その生涯は悲劇に満ちていました。

徳川家康の孫娘・千姫は1597年4月11日に京都伏見で生まれます。
父・秀忠、母はお江です。
誕生の地・御香宮神社には、貴重な品が・・・贅を尽くした神輿が残っています。
これは、千姫の初節句に寄進したものです。
その重さは2トン・・・江戸時代から昭和35年まで、祭りで実際に担がれ、人々に親しまれてきました。
そこに込めた父・秀忠の思い通り、健やかに育った千姫・・・。
しかし、千姫の行く先には数々の悲劇が待ち受けていました。

①政略結婚
千姫が生まれた頃、天下を治めていたのは豊臣秀吉でした。
祖父・家康は五大老のひとりとして豊臣政権を支える一大名にすぎませんでした。
そんなある日・・・病に伏していた秀吉に、家康はこう言われます。

「徳川殿の孫娘を秀頼の正室に迎えたい。」

秀吉は、秀頼との婚姻を持ちかけたのです。
そこにはある思惑がありました。
秀吉は、秀頼と千姫を結婚させることで、自分が死んだ後も家康を豊臣家に従わせようとしたのです。

二人の婚礼を待たずに・・・
1598年8月18日、秀吉死去。。。
その後を狙って天下取りに動いたのが徳川家康でした。
豊臣家に忠義を尽くす石田三成と激しく対立!!
そして・・・秀吉の死から2年後・・・関ケ原の戦いが起こります。
戦いに見事勝利した家康は・・・3年後に・・・1603年に征夷大将軍となります。
これによって、豊臣家の五大老から天下人へ・・・!!
徳川の世が訪れたのでした。
そんな中、家康は秀吉との約束を果たすのです。

孫娘・千姫と、豊臣秀頼との縁組です。
この時、秀頼11歳、千姫は7歳になっていました。
どうしてここに来て千姫を豊臣家に嫁がせたのでしょうか?
家康は、秀吉との約束を守ることで、豊臣家を尊重しているとアピールしたかったのです。
淀の方・・・豊臣家に忠誠を誓っていた大名たちの多くが、徳川家はまだ豊臣の一家臣だと思っていました。
彼等は、秀頼さまが成人すれば、家康は政権を返すと思っていたのです。
そんな豊臣恩顧の大名達を納得させるためにも、
豊臣家と良好な関係を保っていると見せたかったのです。

1603年7月28日、千姫、伏見から大坂城に向かいます。

この時、千姫にお供した船は、1000艘以上・・・
前田利長、細川忠興、黒田長政が警護を務めるなど、盛大な輿入れでした。

祖父・家康の思惑で、僅か7歳で豊臣家に嫁いだ千姫。
嫁ぎ先の大坂城の暮らしは・・・??
姑となった淀の方が教育しました。
豊臣家にふさわしい最高の教養を身に着けるために・・・!!
我が子のように幼い千姫を養育しました。

しかし・・・千姫の幸せは長くは続きませんでした。
祖父・家康の思惑は・・・??
家康は・・・上洛した際に、秀頼に二条城にまで来るように要求・・・
秀頼が求めに応じて対面します。
久し振りの秀頼に驚きます。
19歳になった秀頼は、身長190㎝以上の聡明な男に成長していたのです。
この時、家康70歳。。。!!
徳川家安泰のために、豊臣家を潰しにかかります。

1614年11月大坂冬の陣!!
この戦いが千姫の運命を大きく変えるのです。

②夫・秀頼との死別
秀頼を総大将とする豊臣方は、全国から寄せ集められた浪人を含め15万!!
対する徳川方は20万で大坂城を包囲!!
兵の数では劣りながらも善戦する豊臣軍!!
徳川方は、巨大な堀を前に攻めあぐねていました。
そこで・・・和睦に持ち込もうとしますが、豊臣方がこれを拒否!!
徳川方が放った砲弾が淀の方のいた御殿を直撃!!
お付きの者が死傷したことで、淀の方がおびえだし、一転して和睦を受け入れるのです。
和睦の条件は、秀頼の領地を安堵する代わりに、大坂城の堀の一部を埋めるというものでした。
しかし、家康の策略により、堀の殆どを埋められてしまいました。

すると家康は、防御力が落ちた大坂城を一気に攻め落とそうとします。
1615年5月大坂夏の陣!!
総勢5万5000の豊臣方。
それを15万という兵力で大坂城を包囲!!
数の上で一方的に勝る徳川軍が、豊臣方の武将を次々と討ち取っていきます。
そして豊臣方の立て籠もっていた城が炎上!!
中の千姫たちに危険が・・・!!
落城寸前!!
千姫は、火の手を避けるために、秀頼や淀の方、お付きの者たちと糒櫓に避難します。
侍女たちは、この時、櫓から千姫を逃がそうとしていました。
それを察してか、淀の方は千姫の振袖を膝で押さえていたといいます。

が・・・大野治長が、秀頼と淀の方の助命嘆願の為、千姫を家康の元へ向かわせたといいます。
豊臣家のために城を出たのです。

夫秀頼らの助命嘆願のために、大坂城を出て茶臼山に向かった千姫・・・。
豊臣家の命運は、千姫に託されていました。
千姫は、徳川方から攻撃されないように葵の御門入りに衣を身にまとっていました。
そして、二の丸を出たところで・・・徳川方の坂崎直盛に出会います。
この坂崎の護衛によって家康のいる本陣に・・・!!

しかし、その判断は、秀忠に任せると家康は言い出しました。
父・秀忠の岡山砦に向かう千姫。
そして、秀頼と淀の方の助命嘆願をしますが・・・。

「なぜ、秀頼と共に自害しなかったのだ??
 夫を置いて一人城を出るとはどういうことじゃ!!」

と、激怒しました。

千姫の助命嘆願が受け入れられることはなく、5月8日秀頼と淀の方は大坂城の中で自害・・・豊臣家滅亡。
燃え上がる大坂城が見えた千姫・・・二人の自害を聞いて、ただただ泣き崩れたといいます。

家康は、徳川家が権力を掌握するためには、豊臣家を滅ぼすしかないと考えていました。
豊臣家と運命を共にしようと思っていた千姫は、自分だけが生き残ってしまったことに苦しみます。
病に伏せる千姫・・・。

大坂の陣の後、江戸に戻った千姫は、江戸城北の丸にあった御殿で暮らし始めましたが・・・。
夫・秀頼を救えなかったことで心に大きな傷を負い、病に伏せるようになります。
家康は・・・再婚相手を探すことにしました。
候補に挙がったのは・・・
大坂城から千姫を連れ帰った坂崎直盛。
家康は、千姫を助けたものには、千姫を嫁にやると言っていました。
ところが・・・この約束を反古にしてしまいます。
1616年正月・・・鷹狩りに出かけた家康は突然病に・・・駿府城で床に伏せっていました。
多きの見舞客の中には、孫娘・熊姫も・・・熊姫は、息子・本多忠刻とやってきていました。
忠刻は、桑名藩主・本多忠政との間にできた嫡男で、眉目秀麗と評判でした。
そんな忠刻に・・・家康は忠刻の祖父・忠勝(徳川四天王)を思い出しました。
坂崎直盛は、豊臣家五大老・宇喜多家の出身でした。
対して本多忠刻は徳川四天王・本多忠勝の孫・・・。
坂崎よりも、長く忠義を果たしてくれている本多家に嫁ぐのが幸せだと・・・千姫と忠刻の縁談を進めることにしました。

当時は夫に離縁されない限り結婚はできませんでした。
秀頼は、九州まで遁れて生き延びたという噂まで出ていましたが・・・。
このままでは再婚できない・・・と、家康は・・・。
満徳寺・・・妻が満徳寺に弟子入りすれば、夫と離縁できる習わしとなっていました。
家康は、千姫を満徳寺に入れることで、秀頼との縁を切ろうとしたのです。
千姫の場合、特別に撃場である刑部卿局が寺に入り、千姫は江戸城で修業するという形がとられました。

家康は、4月17日75歳の生涯を閉じました。
再婚する千姫の姿を見ることはなく・・・。
5か月後、千姫は本多忠刻と再婚。
桑名藩主となった本多家が、翌年姫路藩15万石の藩主となり、千姫も姫路城へと移りました。
本多家に結婚祝いとして10万石が与えられました。
忠刻は、姫路城西の丸に二人の御殿をもうけ、それを囲むように日本一の櫓を建てるのです。
夫の心遣いに癒された千姫は、長女・勝姫、嫡男・幸千代を授かります。
ようやく訪れた心の平安・・・しかし、不幸が襲います。

③相次ぐ家族の死

幸せな暮らしをしていた千姫・・・
1621年幸千代、3歳で夭折。
千姫はもう一度子宝に恵まれるようにと、城の傍に天満宮を建て、羽子板などを奉納します。
そして、朝に夕に櫓から見える天満宮に祈りました。
しかし・・・流産を繰り返します。
そんな千姫が、藁をもすがる思いで頼ったのが、占いでした。
それによると不幸の原因は、秀頼の祟りだというのです。
驚いた千姫は、秀頼のために仏像を彫らせます。

その願いもむなしく・・・子が生まれることはありませんでした。
そんな中、1626年参勤交代で江戸から戻った夫・忠刻が病に倒れてしまいました。
介抱するも・・・この世を去ってしまいました。
またしても夫に先立たれてしまった千姫・・・。
そして・・・熊姫、お江の死・・・。
愛する人々を次々と失った千姫は、この時30歳。
娘・勝姫を連れて失意の中江戸へ・・・。
天樹院となり、仏門に入ります。
そんな千姫を気にかけていたのが弟である三代将軍家光でした。
千姫には、江戸城の竹橋御殿で暮らし、500石が与えられました。
ここで、娘・勝姫と何不自由なく暮らすことに・・・
千姫は、家光の子・綱重の養育を任されたことで、大奥にも影響力を持つようになっていきます。

1628年千姫に嬉しい出来事が・・・
娘・勝姫が、鳥取藩主・池田光政と結婚。
二人の夫婦仲は良く、5人の子供に恵まれました。

千姫にはもう一人守りたい人が・・・
古都・鎌倉・・・東慶寺。
ここに千姫が守り続けた人物・東慶寺第20世住持天秀尼でした。
かつての夫・秀頼が側室との間にもうけた一人娘です。
秀頼は千姫との間に子は出来なかったものの、一男一女をもうけていました。
二人の子は、大坂の陣で大坂城から逃げだすものの、徳川に捕まってしまいました。
そして、豊臣家の血を絶やさねば・・・と考えていた家康によって、息子・国松は市中引き回しの上、京都・六条河原で斬首刑に・・・。
この時、国松は8歳でした。
娘もどうなるのか・・・千姫が家康に懇願します。
「秀頼殿の娘を、私の養女にさせてもらえぬでしょうか?」
そんな千姫の必死の嘆願に折れた家康。
娘は家康の命により、東慶寺に入れられて出家し、生きていくこととなったのです。
出家させて結婚できなくさせることで、処刑せずとも豊臣家の血を絶やすことができたのです。
千姫は終生天秀尼の事を気にかけ、何通もの手紙で強い絆で結ばれていきました。

天秀尼のいた東慶寺も縁切寺で、天秀尼はそこで夫と離縁できずに駆け込んでくる者たちの保護に努めていました。
千姫も縁切寺で救われた一人・・・。
千姫は、不幸な女性を天秀尼の寺で救いたいと思うようになります。
東慶寺の縁切り・・・二人は、東福寺の「縁切寺法」を幕府に認めてもらうため動きます。
その思いが通じ、東慶寺は幕府公認の縁切寺となり、その後200年以上、女性を守り続けました。

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