日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:池田恒興

愛知県北西部にある長久手市・・・リニアモーターカーが走るベッドタウンとしても人気のこの町で、今からおよそ440年前の1584年3月、戦後最大の頭脳戦と言われる戦いが繰り広げられました。
後の天下人秀吉と、徳川家康が激突した小牧・長久手の戦いです。
最初で最後直接対決でした。

織田信長亡き後、天下をわがものにしようとする羽柴秀吉と、信長の次男・信孝とタッグを組んだ徳川家康!!
果たして小牧・長久手の戦いとはどんな戦だったのでしょうか?

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1582年6月、天下統一まであと一歩と迫っていた織田信長と、その長男で織田家の家督を継いでいた信忠が、家臣である明智光秀の謀反によりこの世を去りました。
その後、頭角を現したのが主君の敵・明智光秀を山崎の戦で破った羽柴秀吉でした。
秀吉は、天下統一への野心をたぎらせ、障害となる武将たちを次々と排除していきます。
まず、信長の次男・信雄を味方につけると、信長の三男・信孝と組んだ柴田勝家と激突!!
賤ケ岳の戦いで、勝家を自害に追い込みます。
さらに、敗走した信孝に対し、兄である信勝に切腹を命じさせたのです。
これで、信長の子の中で、秀吉に対抗できる武将は次男・信雄だけでした。

「信雄殿の役目は終わったのう」by秀吉

秀吉は、一転、態度を変え、安土城にいた信勝を追い出すと、信勝の有力家臣であった岡田重孝・浅井長時・津川義冬の三家老を懐柔し、寝返らせます。

信雄は激怒し、遂には秀吉に宣戦布告します。
しかし・・・相手は、明智光秀や柴田勝家を倒した強者・・・しかも、この時秀吉は大坂城を拠点に四方に版図を広げ、すでに20か国を支配下に置いていました。
援軍が必要だと考えた信雄は、ひとりの武将に接近します。
それが、徳川家康でした。
亡き父・信長の盟友であり、同盟者だったからです。

秀吉・家康 たった一度の直接対決・・天下取りの知恵くらべ・・



家康はこの時、新たな領地である信濃と甲斐を加えた5か国130万石の経営に専念。
中央と距離を取り、天下取り争いを静観し続けていました。
それにもかかわらず・・・信勝からの要請を受けたのです。
どうして信勝と組んで秀吉と戦うことにしたのでしょうか??

①自領を守るため

信勝の領地である尾張と接していた家康は、信勝が秀吉に飲み込まれれば常に侵攻の脅威にさらされると恐れました。
その為、家康は領国の支配を盤石なものにしておくために、信雄と手を組んで秀吉と戦うことにしたのです。

②天下取りのため

賤ケ岳の戦いまでは、秀吉と友好関係にあった家康は、自身もまた天下を手に入れようともくろんでいました。
そこで、信雄を立て、織田家を守るという大義名分を手に入れることで、秀吉に対峙し、急速に拡大する勢力に歯止めをかけようとしたのです。

③北条氏との同盟関係

さらに、家康が秀吉と戦う決意をしたのには、北条氏が関係していました。
家康は、小牧・長久手の前年、自分の娘・督姫を北条氏政の嫡男・氏直と政略結婚させていました。
その証として北条氏と同盟を結んでいます。
この北条氏は、伊達政宗とも同盟を結んでいるので、三国同盟が樹立されていました。
強気だったのです。
家康は兵の上では秀吉に圧倒的に劣っていましたが、北条と伊達が味方に付けば秀吉とも対峙できると思っていました。
家康から、北条に援軍を要請していますが、北条氏も他の戦いが忙しくて援軍を送るに至りませんでした。

1584年2月、家康は信雄と同盟を結びます。
そしてすぐに援軍を養成して秀吉包囲網を確立します。
3月になると、信雄は、秀吉と内通した三家老を誅殺しています。
この時、家康は信雄にこう言いました。

「戦は先手を取る必要がある」by家康

3月7日、秀吉と内通していた三家老を信勝に殺害させた翌日、家康は1万3000の主力部隊を率いて浜松城を出発します。
3月13日には、信雄のいる尾張の清州城に入り、秀吉との直接対決に入ります。
そんな中、信雄のもとに驚きの報せが・・・

「池田殿が寝返り、我が方の犬山城を奪いました!!」

寝返った池田恒興は、幼いころから小姓として織田家に仕え、厚い信頼を置いていた重臣でした。
当然、自分につくであろうと思っていたのです。
池田恒興は、秀吉が力をもってきていると判断していました。
得意の懐柔策によって、池田恒興という即戦力を得た秀吉の動きも早く、家康が清州城に入る前、3月8日には恒興とその娘婿である森長可に犬山城と小牧山城を奪うように大坂から命じていました。
これを受け、恒興は犬山城を、長可は小牧山城を攻めることにすると、先に恒興の軍勢が犬山城を攻撃・奪取します。
まさに、家康が清州城に入った3月13日のことでした。
この池田恒興の裏切り行為による犬山城の占拠こそが、小牧・長久手の戦いの始まりでした。
犬山城を奪取されたと知った家康は、

「これで小牧山まで取られては後手に回る」

家康は、小牧山城を狙っていた秀吉の策を見抜いていました。
そこで、すぐさま重臣の酒井忠次を小牧山城に向かわせ守りを固めると、3月15日信勝と共に小牧山城に入り秀吉軍を待ち受けることにしたのです。

対して秀吉方では・・・
恒興が先に犬山城を奪取したことで、森長可が焦っていました。

「急ぎ、小牧山城を落とさねば・・・!!」

功を急いだ長可は、3月16日、小牧山城を奪取する為に援軍となる恒興の軍勢を待たずに単独で出陣してしまいます。
この動きはすぐに家康の知るところとなりました。
家康は、その夜長可の軍勢を討つため、松平家忠、酒井忠次ら5000あまりの兵を向かわせます。
そして、翌3月17日早朝・・・
酒井の軍勢の先鋒が、小牧山城に向かう途中の長可の軍勢に奇襲をかけるのです。
横から松平家忠の鉄砲隊の攻撃を受け、長可は後退・・・しかし、背後にはすでに酒井の別動隊が待ち構えていました。

勝機なしと判断した長可は敗走・・・羽黒での戦いは、信雄・家康連合軍が勝利しました。
そこで家康は、小牧山城周辺に土塁や砦を築かせ、秀吉軍への備えを盤石のものとします。

一方、羽黒での敗北を知った秀吉は、大激怒!!
すぐに大坂を発ち、3月27日、犬山城に入りました。
信雄・家康連合軍1万6000に対して、秀吉軍は10万の大軍勢でした。
数の上では圧倒的に優位だったのです。
さらに秀吉は、家康連合軍同様周囲に土塁や砦を作り、戦に備えます。
その為、両軍攻めあぐね、睨み合い・・・膠着状態が続きました。
総勢11万6000の兵が待機する中、この状況を打破するべく動いた人物がいました。
池田恒興です。
娘婿の失態を取り戻したい一心でした。

「我らに中入りをお許しいただきたい」

これを聞いた秀吉は、ほくそ笑んでいました。

犬山城は、室町時代、織田信長の叔父・信康によって築城された、現存する日本最古の天守です。

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1584年3月13日、天下を狙う羽柴秀吉軍に、信長の次男・信雄と徳川家康の連合軍が対峙した小牧・長久手の戦いは、信雄がたからこの犬山城を奪取したことで秀吉軍優位で始まりました。
しかし、羽黒での戦いで、信雄・家康連合軍が勝利しました。
敗戦の報せに自ら動いた秀吉は、犬山城から信雄・家康連合軍が陣を構える小牧山城に5キロと迫る楽田城日本人を移します。
両軍周囲の守りを固めたため、互いが見える位置に陣を構えたまま膠着状態に・・・。
そんな中、犬山城を奪取した池田恒興が、秀吉にある秘策を持ち掛けます。

「羽黒戦の屈辱を晴らすため、我らに中入りをお許しいただきたい」by恒興

この中入りは、空になった相手の領国を攻撃することです。
この場合は、三河の徳川家康が尾張まで出てきているので、三河・岡崎城を攻めるということです。
この時、恒興は自分の娘婿・森長可の小牧山城奪取の失敗を挽回するため、中入りを願い出たと思われます。

「良いであろう、貴殿らの志、この秀吉しかと受け取った」by秀吉

秀吉は、池田恒興と森長可をおとりにしようと考えたのではないかと思われます。
当然、城を出てくるであろう家康を討ちに行こうと考えたのです。
この策を聞きつけて、大将にしてほしいとはせ参じたのは、三好信吉・・・後の豊臣秀次でした。
秀吉は、軍略に長けた堀秀政を軍師にたてるということを条件に、参陣を許します。
秀吉が池田恒興の策に乗ったのは、甥の信吉が武功をあげるチャンスだと考えたのです。
中入りを許したのは、恒興と長可をおとりにして、家康をおびき出す狙いと、甥の信吉に 武功をあげるチャンスを与えたいといいう思いからだったのです。

1584年4月6日深夜・・・
三好信吉、池田恒興、森長可らは、三河に向け2万ほどの兵を率いて、本陣である楽田城を出発したのです。
秀吉の思惑通り、秀吉の動きは伊賀衆を通じてすぐに家康の耳に入ってきました。

「2万の兵とな!!
 秀吉め、何を考えておる・・・!!
 城攻めか・・・ならば、どこだ??」by家康

おとりとは知らず城から出てしまうのか・・・罠だと気づき残るのか・・・??
別の策があるのか・・・??

8日夜、家康は、榊原康政ら5000の兵を、城から10キロほど南東の小幡城に向かわせます。
さらに家康は、酒井忠次、石川教正、本田忠勝らに城を任せると、およそ9000の兵を率いて出発します。
秀吉の思うつぼ・・・??

1584年4月6日、膠着状態を脱するため、羽柴秀吉は甥の三好信吉を大将に、池田恒興、森長可ら2万ほどの兵を三河中入り隊として出陣させます。
家康はこの動きを伊賀衆から知らされます。
すると、5000の兵を先発隊として、自らも9000の兵を率いて小牧山城から出陣、小幡城に向かいます。

秀吉が思うより早く情報を得た家康は、秀吉が動く前に小幡城に。
そこで、家康は恒興らがここから2キロ北東のところを進んでいると情報を得ると逆に仕掛けます。

「明朝背後から忍び寄る 仕度いたせ」by家康

情報網に長け、敵の動きを素早く知ることのできた家康は、先に奇襲をかけようと考えます。
4月9日午前2時・・・家康軍は小幡城を出発。
この頃秀吉方は・・・第1陣として戦闘を進んでいた池田恒興の軍勢が、進路にある信雄方の岩崎城を襲撃、夜が明けるころ攻略していました。

殿をつとめる総大将・信吉は、その岩崎城から5キロ離れた林の中にいて知らせを聞きます。
すると・・・安堵したのか、兵を休めて悠長に昼食を取り始めたのです。
これが戦の流れを大きく変えることとなりました。

家康はすかさず奇襲をかけます。
油断していた信吉の軍勢は壊滅状態に・・・!!
大将の危機を知った軍師・堀秀政が向かうも、これも家康に読まれていました。
家康は引き返してくる残りの秀吉軍を一網打尽にしようと、長久手・御旗山に有利な陣形を作り待ち構えていたのです。
軍略に長けた秀政も、敗走するしかありませんでした。
そして、同じく引き返して来た恒興と長可は9000の軍勢も、家康軍に取り囲まれてしまったのです。
大きな動きがあったのは、午前10時ごろ、長可の正面突破で長久手の戦いの火蓋が着られました。

両軍、槍や刀を手に駆け回り、大乱戦です。
2万を超える軍勢が、鎬を削る中、先陣を切った森長可が、鉄砲で眉間をうたれ即死。
恒興も、家康に背後から狙われ首を取られてしまいます。

秀吉軍の敗北は、決定的となりました。
そして、午後2時ごろ・・・家康軍は高らかに勝鬨を挙げるのです。

どうして秀吉軍が負けたのでしょうか??
まずは、家康の情報網のすごさです。
敵の動きを十分に察知していました。
そして、秀吉側の軍師・黒田官兵衛が、現場にいなかったことも理由の一つです。
この時、官兵衛は毛利氏との国境画定協議に行き、戦場にいなかったのです。
官兵衛がいれば違ったかもしれません。

さらに、大将を秀吉の甥・三好信吉にしたことも敗因だったのかもしれません。
信吉はこれが初陣でした。
戦経験のない信吉は、岩崎城陥落の報せに油断、家康軍に不意を突かれ、秀吉軍が総崩れとなるきっかけを作ってしまったからです。
長久手の戦いで、秀吉軍が負けてしまったのは、
①家康軍の方が情報量がまさっていたこと
②頼れる軍師・黒田官兵衛がいなかったこと
③初陣の三好信吉を大将にしたこと
が要因だったのです。

本陣である楽田城で苦戦の報せを受けた秀吉は、怒りに震えます。
すぐに出陣するも、時すでに遅し・・・
勝敗は決し、家康の姿もそこにはありませんでした。
長久手の戦いでの敗戦は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった秀吉に汚点を残したのです。
復讐に燃えた秀吉は、美濃にある信雄方の支城を攻め落とし、尾張の蟹江城も占拠します。
しかし、一進一退の攻防が続き、長期戦の様相が呈してくると・・・

長久手の戦いで黒星を喫した秀吉は、もはや力で徳川家康をねじ伏せるのは難しいと判断、そこで、家康と共に戦う織田信雄に狙いを定めます。

そもそも、小牧・長久手の戦いの発端は、秀吉に圧迫された信雄が、家康に泣きついたからです。
秀吉が事の発端である信雄と和議を結べば、家康が戦う大義名分がなくなるのです。
秀吉は、信雄に単独の講和を申し入れています。
このまま戦が長引いて秀吉軍が苦戦したとなれば、全国の大名に秀吉おそるるに足らずと思われかねません。
そうなれば、秀吉に歯向かうものが現れ、天下統一の妨げになると思ったのです。

1584年9月、秀吉軍は信雄が治める北伊勢に侵攻・・・信雄方の重要な市場である戸木城を攻略しました。
すると信雄は精神的に追い詰められ・・・
11月11日、秀吉を恐れた信雄は、家康に黙って和議の申し入れを受け単独講和を結ぶのです。

秀吉の目論見通り、信雄という大義名分を失った家康は、浜松へと帰っていきました。
こうして、9か月に及んだ小牧・長久手の戦いは局地戦では家康が勝利したものの最終的には秀吉が信雄と講和を結ぶことに成功したことで引き分けに終わりました。

こののち秀吉は、紀州や四国などを平定。
1585年には関白に就任して絶大な権力を握ります。
すると秀吉は、家康に自分のもとに上洛して和議を結ぶように要求します。
しかし、家康はこれを拒否、何度交渉しても首を縦に振りませんでした。
再び家康を攻めると決めた秀吉は、前線基地となる大垣城に新たに兵糧蔵を築くとそこに、5,000俵あまりの兵糧を運ぶなど戦の準備を開始。
さらに、家康の右腕で豊臣家との交渉を担当していた石川教正に近づくと10万石の所領を餌に寝返らせたのです。
実質N0,2だった石川教正が秀吉側に転じたことで、徳川家滅亡の可能性がありました。
上洛して秀吉と和議を結び傘下に入るか、再び一戦交えるか・・・
徳川家の存亡をかけた決断が迫られた家康の元に、秀吉の使者が岡崎城にやってきます。
すすと家康は・・・

「わしは秀吉殿の家来ではない
 何故、指図を受けねばならぬのだ
 よって、秀吉殿のもとへ上洛する気など毛頭ない!」

「上洛せねば、関白殿下は大軍をもって攻めますぞ!!」

家康はひるむことなく・・・

「わしが、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国の兵力を集めれば、三万、四万は集まる
 潔く一戦交えようではないか!!」by家康

しかし本心は・・・

「わしが小牧・長久手で、多くの羽柴方の武将を討ち、秀吉殿は怒っていることだろうよ
 上洛?
 何をバカな、上洛して殺されでもしたらたまらぬではないか」by家康

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1585年11月、徳川家康を討つべく盤石の準備を整えていた羽柴秀吉は、こう宣言します。

「明くる年、正月十五日までには出陣し、家康を討つ!!」

対して家康は・・・??
右腕だった石川教正が秀吉に寝返ったことで、徳川家の情報が敵方に筒抜けとなり、このまま戦えば負けるのは必至・・・徳川家存続は今や風前の灯火でした。

ところが・・・11月29日夜・・・
中部・東海・北陸と、広範囲に及びM8、最大震度6の天正大地震が起こります。
この時、近江国大津に滞在していた秀吉は、最も安全とみられた大坂城に避難します。
事なきを得るも衝撃的な・・・大垣城全壊!!
大垣城は、家康討伐のための前線基地として兵糧蔵を置いていた城です。
前線基地が崩壊した秀吉は、家康討伐どころではなくなってしまったのです。

この天正大地震が起きたのは、家康が岡崎で秀吉の使者と交渉した翌日のことでした。
家康は、秀吉と一戦交えると腹をくくり、援軍を要請する書状を北条氏らに書き送るなど戦の準備に追われていました。
そんな中、大地震が起きたのです。
この地震がなければ、家康は秀吉の軍の総攻撃を受けていたと思われます。
家康は、天正大地震によって徳川家滅亡の窮地を逃れたのです。

風前の灯火だった家康・・・なんという強運の持ち主!!
こののち秀吉は、家康討伐を中止し、双方若い路線に転じます。

「もはやわしは五畿内・中国・北国まで支配下に置いた
 家康とて、わしに本気で勝てるとは思ってはおるまい
 妹の旭姫を家康の妻にやり、婿入りの挨拶にことよせて上洛させよう」by秀吉

家康も、旭姫を娶り、秀吉と講和をします。
しかし、秀吉は長久手の戦いで敗戦したこともあり、家康を厚遇せざるをえなくなります。
これが豊臣家崩壊へとつながるとは夢にも思わず・・・

江戸時代後期の歴史家・頼山陽の「日本外史」にはこう書かれています。

”家康が天下を取るは、大坂にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にある”

まさに、この言葉通り、2人の唯一の直接対決となった小牧・長久手の戦いこそが天下分け目の戦いと言えるのかもしれません。

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13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。 (幻冬舎単行本)

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琵琶湖の北に位置する余呉湖・・・そこは天女が舞い降りた羽衣伝説が残る美しい湖です。
かつてこのおだやかな湖の周辺で、血で血を洗う決戦がありました。
戦いの主役は後の天下人・羽柴秀吉と鬼柴田と呼ばれた猛将・柴田勝家です。
本能寺の変の直後、二人の重臣が天下争奪をかけて激突!!
賤ケ岳の戦いです。
しかし、戦国合戦の多くが、後世に編纂された史料に基づいているのでその実像は明らかではありません。
ところが・・・戦いのさ中に書かれた秀吉の書状に軍事機密が書かれていたのです。
その戦略とは・・・??
そして勝家の山城に隠された知られざる戦いの真相とは・・・??

戦国の覇王・信長のもと、全国で死闘を繰り広げた織田家の武将たち・・・
中でも優れた家臣たちを評した言葉にこうあります。

木綿藤吉
米五郎左
かかれ柴田に
のき佐久間

木綿藤吉とは羽柴秀吉のことで、秀吉は木綿のように貴重な存在だという意味です。
かかれ柴田は柴田勝家を指し、かかれとは、突撃の大音声のこと・・・戦上手な勝家を評した言葉です。
下賤の身ながら知恵と才覚で出世を果たした秀吉、対する勝家は信長の父の代から織田家に仕える筆頭家老。
二人の差は歴然としていました。
ところが・・・1582年6月2日未明、本能寺の変・・・二人の運命を変える大事件が起こりました。
明智光秀の謀反によって織田信長が討たれたのです。
その時織田軍は、それぞれの方面軍に分かれ全国に展開、毛利と対峙していた秀吉、勝家は北陸で上杉と死闘を繰り広げていました。
そこで本能寺の変が勃発、逆臣・明智光秀を討つべく京へ戻ることが武将たちの急務となりました。

この時抜きんでたのが秀吉でした。
毛利との講和に成功した秀吉は、すぐさま上洛の途につき京に・・・
世に言う中国大返しです。

6月13日、山崎の戦い・・・秀吉軍は、京都郊外で光秀軍を撃破。
本能寺の変からわずか11日後のことでした。
弔い合戦に見事勝利した秀吉・・・これまでの序列が崩れます。
秀吉と勝家の対立は、一気に深まっていきます。

6月27日、信長ゆかりの清洲城に織田家の重臣が集まって後継者問題、領地配分を行う清須会議が行われました。
結果、光秀を討ち果たした秀吉は領地を拡大・・・従来の播磨に加え畿内を中心に新しく三か国を手にしました。
一方勝家は、越前加賀の外秀吉の長浜城を獲得、それに配下の武将の領地を入れればようやく秀吉の勢力に拮抗する勢力となります。
琵琶湖の北に位置する勝家の玄蕃尾城・・・ここから秀吉に対抗する勝家の並々ならぬ思いが読み取れます。
玄蕃尾城の本丸は、堀がすごく、これほど巨大な堀をめぐらし、大規模な土塁をめぐらしている城は他にはありません。
その土塁も、物凄い高さで囲っていました。
注目されるのは、柱を支えていた建物の基礎の礎石が残っています。
砦と言うよりは、居城・・・常に置いておくような城・・・念入りな工事をしていたことがよくわかります。
玄蕃尾城は、北陸から近江に向かう玄関口・・・
そこは秀吉に対する勝家の攻めの拠点でもありました。
清須会議以降、秀吉をいかに撃退するか、勝家にとっては非常に大きな課題でした。
この玄蕃尾城を築くことで、北国街道の難所である峠を押さえて、いつでも近江へ進出できるルートを確保しておく・・・これが、秀吉に対して強い圧力をかけることとなるのです。
この後、二人の対立は、全国の大名を巻き込んで拡大していきます。

勝家は信長の妹・お市の方と婚姻関係を結びます。
織田家の一門衆に名を連ねたのです。
それに対し、秀吉が仕掛けます。
10月15日、京・大徳寺で信長の葬儀を挙行します。
参列者は3000人、見物する人は貴賤雲霞の如し!!
織田家の家臣としては、主君の葬儀に参列しないわけにはいかない・・・
これにより秀吉は丹羽長秀、池田恒興ら織田家の有力武将たちを味方につけることに成功します。
勝家を大きく上回る勢力圏を形成します。
秀吉はさらに勢力拡大を図り、周辺の大名たちに書状を送り、信長の次男・信雄を織田家の後継者と為します。
勝家の背後の上杉や、一向一揆の総本山・本願寺を引き込むことに成功します。
本願寺に宛てた秀吉の手紙にこうあります。

”勝家の加賀で一揆を起こし目覚ましい働きをすれば、加賀一国を本願寺に与えるであろう”と。

一方勝家は、信長の三男・信孝をはじめ、織田家重臣・滝川一益や周辺大名に書状を送り、反秀吉勢力の結集を画策します。
勝家は、将軍・足利義昭にも接触を図ります。
もともと義昭は、主君・信長が追放した宿敵でした。
毛利に宛てた義昭の書状には・・・

”勝家と手を結び、秀吉軍を挟み撃ちにすることを急ぐべきである”

そして12月初旬・・・
近江への道は雪に閉ざされ、北ノ庄城にいる勝家は、兵を動かすことができなくなります。
秀吉に好機が到来したのです。
秀吉は、5万の大軍勢で勝家方の城・長浜城を包囲、続いて信長の三男・信孝の岐阜城も包囲、どちらも秀吉の前にあっけなく降伏・・・。
さらに秀吉は、勝家に組する滝川一益の北伊勢に侵攻・・・

いよいよ雪解けの季節が到来しました。
それは勝家軍の襲来を意味していました。
決戦の地は琵琶湖の北の賤ケ岳周辺・・・いよいよ天下分け目の戦いが始まろうとしていました。

sizugatake















滋賀県長浜市・・・長浜城歴史博物館には秀吉の書状が残されています。
天正11年4月3日付の弟・羽柴秀長に宛てた書状です。
賤ケ岳合戦の前にどのように戦うべきか、柴田軍と対峙すべきかを命令した文書です。
秀吉の指示が事細かく書かれています。
普通は細かいことは紙には書きません。
敵に情報が洩れるとまずいからです。

3月9日、勝家、北ノ庄城を出陣。
急ぎ南下し、近江に進出します。
総勢2万と言われています。
勝家は頑張尾城に本陣を構え、別所山などに部隊を展開。
前線の拠点となる行市山には勝家の甥・佐久間盛政が陣を構え秀吉に対峙します。
一方秀吉が前線に到着したのが、勝家から遅れること5日後の3月17日・・・木之本に到着。
秀吉軍、およそ5万と言われています。
北の勝家軍に対し、南の秀吉軍の布陣は、東の山・堂木山を先頭に周辺の山々に砦を築きました。秀吉は木之本に本陣をおきました。
勝家の配下・前田利家が布陣した別所山砦・・・勝家側の戦略が顕著に読み解ける砦跡です。
秀吉の軍勢のいる南の方角には堀をめぐらしていません。
土塁の高まりも非常に低いのです。
別所山砦は、四角形に築かれた曲輪に、周囲に堀を築いただけのシンプルな構造です。
一体どうして・・・??
別所山砦は、実際にここで戦うという者ではなく、非常に簡素な造りでした。
ここで戦うよりは、一時の陣・・・相手に見せかければいいというものでした。

一方秀吉軍は、勝家軍とは全く異なる戦略の砦を作っていました。
東野山城は・・・至る所で城壁を屈曲させています。
敵が攻めてきても絶対にやっつける気満々です。
横矢掛けもあります。
勝家軍の砦とは違い、秀吉軍の築いた砦軍は、いくつもの曲輪に守られた堅固な軍事要塞でした。
この違いは何を意味しているのでしょうか?
秀吉軍は、強固に作り、最先端の築城技術を惜しみなく注いで造っています。
非常に守りの強い砦群でした。
秀吉の戦略は、専守防衛・・・いかにして敵の進撃を食い止めるか?防衛に徹した戦い方をしていました。
勝家は、周囲を秀吉に組した大名たちに囲まれています。
勝家が近江に進出するためには、琵琶湖の東側を南下せざるを得ません。
一方秀吉軍は、その南下を食い止めるのがこの合戦における両軍の基本戦略と考えられます。
さらに、秀吉の書状には、勝敗を左右する重要な言葉が記されていました。
”惣構え”の文字です。

”惣構えの堀から外へ鉄砲を放つことは言うに及ばず、草刈りの者に至るまで、一人も惣構えの外へ出してはならない”

この”惣構え”とは、何を意味しているのでしょうか?
高さ1mほどの土塁は、昭和30年代までこの地に残されていました。
東山砦から堂木山まで尾根伝いにずっと続いていたのです。
秀吉が築いた惣構えとは、東の山から堂木山を縦断し、街道を遮断した東西500mに及ぶ大規模な土塁の長城であったと考えられます。
惣構えを設けてシャットアウトし、柴田軍を南下させないことが目的でした。
惣構えも、賤ケ岳合戦の中で重要な意味を持っていたのです。
惣構えで、鉄壁の防御ラインを築いた秀吉軍・・・勝家軍は、その突破を試みるも果たせず・・・およそ1か月にわたるにらみ合いが続きました。
ところが、思わぬ方向から敵が出現しました。
北伊勢の滝川一益が、秀吉軍の背後・美濃に進出!!
すでに、降伏したはずの信孝もこれに呼応します。
このままでは、秀吉軍は、連合軍に挟撃されてしまう・・・!!
秀吉に危機が迫っていました。

①防御に徹する・・・??
秀吉の書状にもこう書いています。
”惣構えから先へ、一人の足軽も出さず、守りに徹しさえすれば、敵は動きが取れなくなるであろう”
秀吉軍にとって、防御に徹することが最善の策ではないか?
下手に動くと両軍の均衡は崩れ、惣構えを突破される可能性もあります。

”もし敵が、5日、10日と攻めかけてきたとしても、相手の様子を伺いながら、ゆうゆうと合戦に及ぶべきである”

防御に徹していれば、勝家軍も攻めあぐね、長期の対陣となり兵糧も枯渇・・・
いずれ勝家軍は、北陸に撤退せざるを得なくなる・・・!!

②軍を二手に分け、敵を各個撃破する!!
秀吉の書状には・・・
”秀吉自ら兵を率いて播州へ向かう 
 その間、前線の秀長より注進が来れば、姫路から引き返そうと思うが、日数がかかるであろう
 だが、秀吉が姫路に滞在する間は、決して出撃してはならぬ”

4月3日の段階で、姫路の方に出るといっているのは、毛利が攻めてくるのでは??
毛利軍の県政のために、中国地方に出陣するという意図があったのです。
秀吉は、勝家だけでなく、周囲を敵(毛利・長宗我部・雑賀衆・徳川)に囲まれていました。
敵の動向に気を配り、それに対応しなければならなかったのです。
あくまでも防御に徹するべきか、それとも軍を二手に分けてそれぞれの軍を討伐すべきなのか・・・??
秀吉に選択の時が近づいていました。

4月の中頃・・・秀吉は軍を二手に分けます。
信孝・一馬氏連合軍を討つために岐阜へ向かいました。
秀吉不在の前線は、弟・秀長が担いました。
ところが・・・大雨によって揖斐川が氾濫、岐阜城への道は閉ざされていたのです。
秀吉は、岐阜城からおよそ20キロ離れた大垣城にとどまり、敵の出方を伺いました。
その4日後の4月20日・・・秀吉の不在を知った勝家軍が、突如動き始めました。
勝家方の猛将・佐久間盛政が、惣構えを避け、密かに尾根伝いを伝い、秀吉軍の中ほどにある大岩山砦に突如攻撃を開始、中入りという戦術でした。
思わぬ敵の奇襲攻撃に、奮戦する秀吉軍・・・しかし、この時、秀吉方の有力大名・中川清秀が討ち死に・・・記録には、清秀の外に六百余人が戦死とあります。
秀吉軍にとって大打撃でした。
勢いに乗った盛政軍は、岩崎山砦も陥落させます。
勝家本隊は前進、惣構えに一気に猛攻をかけます。
惣構えを突破しようと攻めたてる勝家、秀吉軍が崩れるのは、もはや時間の問題でした。
しかし、秀吉は、この不測の事態に備えていました。
前線の秀長より注進が来れば、すぐに引き返す・・・秀吉が戻るまでは、勝手に出撃してはならない・・・
揖斐川の氾濫により、岐阜城の敵もまた秀吉軍を追撃することは不可能です。
秀長から注進を受けた秀吉は、作戦通り、すぐさま兵をまとめ前線の木之本を目指します。
大垣からおよそ52キロ・・・その道のりをわずか5時間で駆け抜けたといいます。
木之本へたどり着いた秀吉・・・勝家軍は、未だ惣構えを突破できずにいました。
秀吉は、敵襲で孤立した盛政軍を追撃、その時・・・勝家方の武将・前田利家が、突然陣地を放棄したのです。
秀吉に諜落されていた武将たちが、勝家に見切りをつけた瞬間でした。
これによって、勝家全軍は崩壊・・・戦いは、秀吉の大勝利となりました。

4月23日、秀吉軍、北ノ庄城を包囲。
4月24日、勝家は、お市の方と共に自刃!!
勝敗は決したのです。

戦い直後に書かれた毛利宛の書状で、秀吉はこう豪語しています。

「東は北条、北は上杉まですでに秀吉に従っている
 毛利が秀吉に従うことになれば、日本は源頼朝公以来、一つにまとまる事であろう」

猛将・柴田勝家を下したことで、天下人の後継者となった秀吉・・・賤ケ岳の戦いこそ、まさに秀吉にとっての天下分け目の決戦でした。

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尾張国・清須城・・・1582年6月27日、ここで本能寺の変で命を落とした信長亡き後の織田家の跡継ぎを決める重要な会議がありました。
清須会議です。
顔をそろえたのは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・・・そして、羽柴秀吉・・・4人の織田家家臣と言われています。
そんな清須会議・・・詳しいことはわかっていません。

1582年6月2日・・・天下統一目前の織田信長が、京都・本能寺で家臣の明智光秀の謀反に遭い自害しました。
その後、同じく信長の長男・織田信忠も明智軍に攻められ命を絶ちます。
強大な影響力を持っていた信長と、家督を譲られ織田家当主となっていた信忠の死・・・。
織田家存亡の危機に一早く駆けつけたのが、備中高松からおよそ200キロの道程を2万もの軍勢を率い、わずか8日間で駆け戻った中国大返しを果たした羽柴秀吉・・・。

6月13日、山城国山崎で光秀と対峙。
見事主君・信長の仇を討ったのです。
それから14日後・・・
1582年6月27日、清須会議が行われます。

その議題は二つ・・・
①織田家の家督相続者を決めること
②織田家の所領の配分を決めること
旧明智領を含む560万石の所領の分配です。

清須城には誰が参加していたのでしょうか?
「川角太閤記」によると・・・参加したのは、
・織田家の古参で家臣の筆頭である柴田勝家
・同じく宿老の丹羽長秀
・信長の仇を討った功労者・羽柴秀吉
・秀吉と同じく山崎の戦いに参加していた池田恒興
この4人が通説となっています。

しかし・・・参加者はもっといた・・・??
「多門院日記」によると・・・4人に堀秀政が加わり5人だったとされています。
秀政は、織田軍の中国方面軍に参陣し、秀吉の配下として活躍した武将です。
本能寺の変の後、秀吉軍と共に中国大返しで信長・信忠の弔い合戦に駆け付け貢献しています。
秀政が会議に参加した可能性は・・・??
清須会議の時点では、秀政は織田軍団でのランクは他の4人よりもかなり下でした。
そのため、織田軍団の重役会議に同席しているとは考えにくいと思われます。
また、「多門院日記」は、尾張の出来事を、奈良の僧が伝え聞いて書いています。
若干史実とは受け止め難いと思われます。

また、7人いたという資料も・・・山鹿素行の「武家事紀」です。
そこには、通説の4人の他に、滝川一益、信長の次男・信雄、三男・信孝が書かれています。
滝川一益は、勝家、長秀、明智光秀と共に織田四天王と呼ばれていました。
織田家の行く末を決める会議に参加していてもおかしくないのですが・・・。
織田軍団の重要メンバーでしたが、滝川一益は会議に参加していません。
どうして・・・??
一益は、会議への参加を自ら辞退したと言われています。
織田軍団の関東方面軍司令官と思われるポジションでしたが、本能寺の変の直後、上野国で起こった神流川の戦いで、北条の大軍に乾杯しています。
そのみじめな敗戦を恥じて、清須会議への参加を辞退したのです。
また、単に北条氏との戦が長引いて、会議に間に合わなかったともいわれています。

信雄と信孝は会議に参加していたのでしょうか?
清須城にいたとは言われていますが、家督継承の当事者であり、会議に参加していないと思われます。
出席を止められていた可能性もあります。

こうしたことから、「川角太閤記」に書かれた柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人が参加者と考えられます。

その中で、清須城での会議開催を呼び掛けたのが柴田勝家でした。
しかし、どうして清須城だったのでしょうか?
勝家が指定した清須城には、信忠の忘れ形見の三法師がいました。
そのために、清須城ですることを決めたのです。

6月27日・・・顔を合わせた4人・・・張り詰めた空気の中、話し合いの口火を切ったのは柴田勝家でした。

「上様親子を突然に失ったのはまことに口惜しいことだが、新しい天下人を定め、上様と仰ぎ奉るがよかろう」

こうして、織田家の後継者選びから話し合うことになりました。
ところが・・・誰一人口を開きません。
相手を伺っているようでした。
そこにはそれぞれの思惑がありました。

この時後継者候補となり得たのは、信長の次男・織田信雄、信長の三男・織田信孝、信長の孫(信忠の嫡男)・三法師でした。

①織田信雄
この時、25歳!!
信長の長男の信忠と同じ母から生まれた嫡流の子でした。
しかし、信長の伊勢攻略に利用されます。
伊勢国・北畠具教を取り込むために.、養子に・・・。
それ以後、信雄は北畠を名乗りながらも信長・信忠と共に戦に参加。
戦歴だけは重ねるものの・・・今一つ。
信長の死後、安土城に入ります。
安土城は五層七重の天主閣を持つ当時最大の城です。
信長が天下取りの夢を馳せた居城でした。
ところがこの城が、信雄が入った直後に炎上し、灰になってしまいました。
ルイス・フロイスの報告やイエズス会日本年報に書かれている「信雄が放火した」という説が現在では有力視されています。
そんなこともあってか、信雄は家臣団からの評判も悪く、清須会議の前には後継者争いから外されていました。
織田家の後継候補は、信長の三男・信孝と、孫・三法師の二人に絞られていました。

②織田信孝
信孝は、信雄とは異母兄弟でこの時25歳。
母親の身分が低く、信長から冷遇されていたせいか、記録は殆どありません。
歴史上、その存在が顕著になるのは信長が伊勢攻略の際、抵抗の大きかった有力豪族・神戸具盛のもとに養子に・・・。
その後、武功をあげるも信長の扱いは変わらず、信孝は不満を募らせていきました。
それを知ってか、信長は信孝を四国派遣軍の総大将に抜擢!!
大坂に入った信孝は、そのチャンスをものにしようと準備に精を出していました。
そこに本能寺の変の報せが・・・。
信孝はすぐに備中高松から戻った秀吉と合流し、山﨑の戦いで明智光秀を破り、見事、父と兄の仇を討つのです。
当時の人々も、父と兄の仇を討った信孝が後継者に相応しいと考えていました。
来日していた宣教師たちも、キリスト教に理解のある信孝を後継者に望んでいました。

③三法師
信長の長男で織田家当主となっていた信忠の嫡男です。
血筋的には最も有力でしたが、この時まだ3歳でした。

信孝か三法師か・・・??

・・・??張り詰める空気の中、遂に勝家が・・・

「信孝様こそお年頃といい、その利発さといい、まことに天下人として適任この上ない人物と存ずる」

信孝を、織田家の後継に挙げたのです。
しかし、それは表向きの理由・・・勝家には思惑がありました。
勝家が清須会議の開催を呼びかけたのは、信長の敵討ちで秀吉に後れを取ってしまった汚名を返上するためです。
会議をリードすることで、織田家家臣筆頭という立場を周囲に示そうと考えたのです。
そしてその立場を盤石にするためには信孝を後継者にする必要がありました。
勝家は、信孝の成人の際の烏帽子親で、信孝とのつながりが強かったのです。
勝家は、信孝を織田家の後継者にし、自分が中心となって織田家を支えていこうと考えていました。

事実上天下を掌握するのは誰・・・??

「勝家殿の意見はごもっともだが、ここは筋目から言ってもご嫡男を擁立するのが道理・・・
 信忠さまにれっきとした若君がおられる以上は三法師様をお取り立てるのが当然かと存ずる」

秀吉は、勝家が信孝の後ろ盾として前面に出てくることを避けようと考えていました。
勝家に対抗する候補を擁立しようといました。
何よりも血筋を重んじる時代だったので、信忠の後継者を決める会議となると、信忠の血をひく三法師がいる限り、家督相続者は三法師以外ありえませんでした。

宿老の勝家に対し、強気の秀吉・・・
秀吉には、明智勢討伐の実績があったからです。
光秀討伐の功績に伴う発言力は大きいものでした。
秀吉の思惑は・・・??
成人した信雄、信孝が織田家を継ぐと、その家臣として仕えなければなりません。
幼少の三法師であれば、自身の傀儡にすることができると考えたのです。

自分よりも各下で足軽からの成り上がり者の秀吉の態度に、勝家は顔に出さないもののはらわたが煮えくり返っていました。
武将として優秀な信孝を推す勝家に対し、筋目を理由に三法師を推す秀吉・・・。
真っ向から対立する二人を前に、会議は膠着状態に・・・
勝頼と同じく織田家古参で秀吉を嫌っていた丹羽長秀が・・・
「そうじゃな・・・秀吉の申すことは正論。
 三歳とはいえ三法師様が後を継がれるのが筋目であろうな。」

どうして長秀は秀吉に味方したのでしょうか?

秀吉の器量を認める長秀・・・。
丹羽家を守るためには、勝家と秀吉のどちらに味方した方が良いかを見極め、秀吉を選んだのです。
長秀の援護射撃で、会議は一気に秀吉に傾きます。
ところがとうの秀吉は・・・席を立ってしまいました。
これも秀吉の作戦で、秀吉が立った間に長秀、恒興も勝家を説得・・・。
「弔い合戦に間に合わなかったお前の出る幕はない」という勝家への直言を秀吉がすると角が立つからです。
わざと退席し、長秀に言わせたのです。
こうして三法師が後を継ぐこととなります。
清須会議の前、秀吉は信長の妹で浅井長政に嫁いでいたお市と勝家の再婚話を進めていました。
高嶺の花であるお市との縁談を持ちかけることで、会議前に勝家に恩を売っていたのです。

また違う見方も・・・
それは、そもそも「川角太閤記」は、秀吉の天下人への台頭を前提とした歴史観によって書かれたものだからです。
三法師が後継者に選ばれたのは、秀吉が擁立鹿からではなく、会議の前から決まっていたという説です。
血筋が重要視されていた当時ならば、三法師がすんなりと跡継ぎになっていたはず・・・。
そのために、会議では後継者はすぐに決着。
別のことが議題に・・・・
信雄・信孝は、織田家当主の座を争っていたのではなく、どちらが三法師の名代になるかを争っていたのです。
議論は紛糾・・・
次男の信雄を名代とすれば、血筋は大事にされるものの・・・
信長と信忠の仇討の功績のある信孝は・・・??
信孝のもとで活躍した家臣たちも不満が・・・。
信孝を名代とすれば、血筋が軽んじられる・・・となると、三法師を血筋で選んだことにも異議が生じます。
どちらを選んでも、不都合が生じることに・・・
そこで4人が出した答えは・・・三法師様に家督は継承させるが、信雄様、信孝様のどちらも名代にはしない・・・でした。
その代わりとして、三法師の世話役の傅役を置くことに・・・。
その傅役は、三法師が治める直轄領の代官に就任した堀秀政でした。
そして三法師は、居城である安土城が修理の間、信長の三男・信孝の居城である岐阜城に・・・信孝が後見人となったのです。

謀反人・明智光秀の所領を含む560万石の遺領分配は・・・??
織田家の血縁者たち・・・光景に決まった三法師は、近江の国一郡と安土城を。
次男・信雄は本領の南伊勢に加え尾張国と清須城を。
信雄は、織田家の父祖の地である尾張国と信長ゆかりの清須城を与えられたことで、あっさり受け入れます。
信孝には、本領の伊勢神戸に加えて、美濃国と岐阜城を分配することに・・・。
信孝はこれを不満に思うも、父信長の天下布武の根拠であった岐阜城を譲り受けること、自身が三法師の後見人となったことで、しぶしぶ承知しました。

会議に参加した織田家家臣4人は・・・??
池田恒興は、摂津国池田・有岡に加え、同じ摂津国の尼崎・兵庫・大坂を。
丹羽長秀には、若狭国に加えて近江国二郡と坂本城を。
羽柴秀吉には、播磨国に加えて丹波国・山城国・河内国を。
ただし、本領だった近江国三郡を手放すことになります。
その近江国三郡を本領の越前国に加えて手に入れたのが柴田勝家です。
これによって、秀吉の居城・長浜城も勝家のものとなりました。
どうして秀吉は、長浜城を勝家に譲ったのでしょうか?
勝家が所望したのか?秀吉から譲ったのかははっきりとはしていません。
しかし、家督問題で主導権を秀吉に握られ、信雄擁立に失敗した勝家にとっては、せめて遺領配分の県は自分の言い分を通したと考えます。
秀吉は、これ以上勝家を刺激しないように、自分の本拠地の割譲と、居城の譲渡という大幅な譲歩をし、プライドの高い勝家のメンツを立てたのです。
長浜城を手放すことになった秀吉の居城は、播磨国の姫路城となりました。
秀吉は、山崎の戦いの戦場にもなった天王山に山崎城を築城することにしていました。

そして、三法師が織田家当主となったこと、山城国を押さえ京都を手中にしたことで、天下を手中に収めるという構想が出来上がっていました。
長浜城を手放すことぐらい、痛くもかゆくもなかったのです。
この時、山城国を押さえて京都を手中にしたことが、後の天下統一への足がかりとなったのは、歴史が証明しています。

ところが・・・半年後、秀吉が長浜城を攻めます。
勝家の養子柴田勝豊が守っていましたが、あっけなく降伏・・・
もともと秀吉の城・・・攻め方はわかっていたでしょう。
そして季節は冬に・・・越前に帰っていた勝家が、すぐには動けないことをわかっていたのです。
1583年、秀吉と勝家は賤ケ岳の戦いで戦います。
敗北した柴田勝家は、その二日後に自害・・・!!
秀吉は1590年、天下を統一します。

清須会議の後織田家はどうなったのでしょうか?
武将として器量なしと言われていた信雄は、秀吉についたり、家康についたりと日和見で・・・。
しかし、最後は幕府をひらいた徳川家から、大和国宇陀松山藩2万8000石を与えられ、大名となり血を繋ぎます。
対照的な信孝・・・
秀吉と敵対し、勝家と共に賤ケ岳の戦いに臨みます。
しかし、敗れて降伏・・・切腹を命じられます。
信孝辞世の句は・・・

昔より
  主をうつみの
      野間なれば

報いを待てや
      羽柴筑前

信孝は秀吉への凄まじい怨念を抱いたまま切腹!!

織田家当主となった三法師は、元服して秀信となります。
その後、美濃国を与えられますが、秀吉の身内の扱いを受け、天下分け目の関ケ原では秀吉の西軍についたことで敗北・・・
家康によって改易となり、高野山に追放されます。
再び歴史の表舞台に出てくることはありませんでした。
1605年、26歳の時、静かにこの世を去ります。

天下を決めた清須会議の結末でした。

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1595年7月15日、驚くべき大事件が・・・
高野山青巌寺の一室・柳の間で、豊臣秀吉の甥で政権No,2だった関白・豊臣秀次が切腹したのです。
「秀次事件」・・・通説では、秀吉に跡継ぎが生れたので、秀次はお払い箱となって高野山へ追放され、間もなく切腹したということになっています。
しかし・・・新事実が・・・??

1568年、織田信長が上洛を果たし、天下統一への足掛かりを掴んだその塗ぢに・・・尾張国大高村で秀次は生まれました。
幼い頃の名は治兵衛・・・両親は、苗字を持たない農民でしたが、やがて運命は一変・・・。
母親の弟が信長の草履番から異例の出世を遂げ、後に天下人となる豊臣秀吉でした。
一生、秀吉に翻弄される生活となります。

1571年、信長に、浅井長政との戦いの最高責任者を任せられた秀吉は、浅井家の重臣・宮部継潤を寝返らせるため裏工作に奔走!!
この時利用したのが、甥の秀次だったのです。
当時秀次はまだ4歳・・・子供のいなかった秀吉は、この甥を宮部家に養子として差し出したのです。
それは、宮部を裏切らないという証建ての人質でした。
この裏工作は成功し、宮部は織田に寝返り、浅井滅亡の引き金に・・・
秀吉は、秀次を実家に戻し・・・またもや三好に養子に・・・。
秀吉は、四国で勢力を拡大する長宗我部に対抗すべく、阿波の有力大名・三好家に接近。。。
秀次を三好康長の養子に出したのです。

さらに・・・本能寺の変で信長が死んだ後・・・清須会議でも秀次を利用。
「池田の娘をもらえ!!」と、池田恒興の娘と結婚・・・池田を味方につけたのです。
こうして秀吉は、清須会議で主導権を握り、天下統一に向けて大きな一歩を踏み出したのです。

1584年、秀吉は徳川家康と、小牧長久手の戦いで激突!!
この時、秀次は秀吉の恐ろしさを身をもって知ることに・・・
17歳になっていた秀次・・・秀吉の甥であるため、経験不足のまま一軍の大将に担がれ、合戦に臨んでいました。
羽柴秀吉軍10万VS徳川家康軍3万!!
ところが、戦は一進一退の膠着状態に・・・
そこで秀次は、池田恒興らとともに、1万6000の兵を率いて出陣!!
家康の領国・三河に向かいます。
しかし、家康に察知され、挟み撃ちに・・・激戦の末、義父・池田恒興をはじめ名だたる武将が討死・・・死者2500人・・・。
秀次大失態!!
秀吉は激しく怒り、敗北の責任をとる書状を秀次に送りつけます。

「わが甥であることを鼻にかけ、傲慢である!!
 一時は秀次を殺そうと思った
 今後行いを改めないようであれば、首を切る」

再び同じ失態を演じたら、秀吉は自分を見限るに違いない・・・!!
秀次は・・・それ以後、武功を治めるために、獅子奮迅の働きをします。
1585年四国攻めでは副将を勤め、1587年九州攻めでは京を守り、1590年小田原攻めでは豊臣軍の先鋒として出陣し、秀吉の信頼を得ていきます。
そして・・・秀吉の養子のひとりとなったのです。

秀吉の問題は・・・実の子がいなかった事・・・
そんな秀吉に吉報が・・・
1589年側室・茶々が、鶴松を出産。
秀吉、54歳の時でした。
秀吉の喜びようは尋常ではなかったものの・・・
1591年3歳で鶴松が夭折・・・。
だれに豊臣家を継がせる・・・??
秀吉の養子は7人・・・うち、血縁関係のある者は3人・・・
秀勝は、朝鮮出兵の際に病死。
秀俊は、のちに小早川家に養子。
残った血縁関係のある養子は秀次のみ・・・
秀吉は、24歳の秀次に関白の座を譲ります。
豊臣家の後継者は秀次だと、天下の宣言したのです。
とはいっても、関白・秀次は名ばかりで、太閤となった秀吉が、実質的最高権力者でした。
1593年8月3日、茶々が再び男子を出産しました。
後の豊臣秀頼です。
57歳の秀吉は秀頼を溺愛し、この子に豊臣家を継がせたい・・・というのが望みとなりました。
しかし、秀頼を後継者とするためには、秀次に譲ってしまった関白の座を取り戻さなければならない・・・
この子が大きくなって自分がいなくなった時、秀次はそれを許すのだろうか・・・??
この頃秀吉は、秀次に約束します。
「日本を5つに割り、そのうち4つをお主に与える・・・」
秀次は、秀吉が秀頼を後継者にしようと思っていることを悟ってしまいます。
自分は豊臣政権にとって何なのか・・・??
秀頼の誕生によって、秀次の運命は再び大きく変わることに・・・。

滋賀県近江八幡市を本拠としたのは、秀次18歳の時でした。
近江の5郡を任され、43万石の領主となった秀次は、琵琶湖の東岸に城を築きます。
八幡山城です。
原野だった土地を、安土や近隣から人を集め、一から城下町を作りました。
秀次の建設プランは画期的。
今もその道幅は変わらず、碁盤の目になっています。
城下町は、敵が容易に攻め込めないよう、道を複雑に作るのが常識でしたが、近江八幡は住民が生活しやすいように碁盤の目に作られたのです。
縦12筋、横4筋の整然とした街並みで、商人、職人たちは無償で住居を貸与され、楽市楽座の特権も与えられました。
軍事より経済を優先した秀次・・・。
その結果、近江商人が生まれ、町が発展していきます。
秀次は城を守るための堀にも別の機能を持たせます。
八幡堀は東西は琵琶湖に通じており、水路・運河としての役割をし、近江商人たちの物資の運搬に非情に役立ち、近江商人たちが発展していきます。
”琵琶湖を通る船は、八幡堀を通らなければならない”と定めたことで、町はさらに賑わいます。
秀次は、ひたすら領民のためのインフラ整備に努めます。
背割という下水溝も作らせ、生活排水を八幡堀に流れるようにします。
飲料水などの上水は、良質な水が湧く遠くの水源から地中に埋めた竹の管で引き入れました。
当時としては前進なシステムです。
”開町の祖”秀次なのです。
戦が終わったら国がどうあるべきか・・・その理想郷を作ろうとしていたのかもしれません。

その矢先に秀頼が生まれました。
頑張れば頑張るほど、秀吉にとって疎まれる秀次・・・。
1595年7月3日、秀次の住まいだった聚楽第に、突然石田三成ら3人の奉行がやってきます。
秀次に謀反の疑いがあり、取り調べに来たというのです。

秀次の噂・・・
鹿狩りに名を借りて山に入り、反秀吉一派と謀反のための話し合いを持った。
戦に備え、大将用の武具を用意していた。
身に覚えのない秀次は、誓詞を認めます。
”神仏に誓って自分は無実である
 謀反の疑いは、根も葉もないこと。”
取り調べから2日後・・・
伏見城にいた秀吉は、直接話がしたいと、秀次に登城を命じます。
秀次は、無実を訴えようと伏見城に登城・・・!!
そこで思わぬ事態が・・・!!
伏見城についても中に入ることさえ叶わず・・・。
秀吉は、秀次を呼んでおきながら、弁解を聞いてしまうと許してしまう・・・??と、面会しなかったのか・・・??
ここで二人が話し合っていれば、歴史は変わっていたのかもしれません。

秀吉は弁明の機会を与えないばかりか、追い打ちをかけます。
秀吉に拒絶され、高野山へと言われてしまいました。
7月8日、言いつけに従って、紀州の高野山へ・・・!!
7月10日、従者らと共に高野山へ到着。
ところが急転直下、7月15日、福島正則らが秀次の元を訪れ、三成ら五奉行の連書による秀吉の命を届けに来たのです。
「秀次に切腹を命じる!!」
切腹に追い込まれた秀次は、高野山・青巌寺・柳の間で、28年の短い生涯を閉じたのでした。

しかし、近年新しい説が・・・??
秀吉に対する復讐説です。
謀反の疑いをかけられた秀次は伏見城を訪れますが、秀吉に面会を拒まれ高野山行きを命じられますが・・・
自らの意志での可能性もあります。
どの資料にも、「追放」という言葉がありません。
あくまで秀次の意志による出奔・・・??
当時の高野山は、入ってしまえば俗世間からの死・・・政治の世界からは引退すると意思表示だったのでは・・・??
謀反の気持ちはない!!とのアピールだったのでは・・・??
運命の7月15日、高野山の秀次のもとに、福島正則がやってきますが・・・
その手紙の一人の名前が間違っており、もう一人は伏見にいなかったので署名できない者も・・・。
手紙の信憑性に欠けるのです。
事件当時の資料によると、秀次が切腹する3日前に書かれた文書には・・・
”秀次を高野山に住まわす”=禁固刑と、書かれています。
勝手に高野山に行ってしまった秀次を、秀吉は禁固刑にしたのでは・・・??
秀吉の命令は切腹ではなかった・・・??

また、切腹の場所は・・・青巌寺は、秀吉が生母・大政所のために創建した菩提寺。。。
秀吉にとって特別な場所でした。
ここで秀次が切腹・・・秀吉が母の菩提寺を血で汚す命令をしたのか・・・??
ではどうして秀次は切腹したのでしょうか??
秀次は早く許してほしいが、いつまで・・・??
自分の無実を証明するためには切腹しかない・・・??
秀次は無実を訴えるために切腹した??

真言宗の高僧・木喰応其の書によると・・・
「関白殿、十五日の四つ時に切腹
 無実だからこのようなことになった」
と書かれています。

さらに秀次の切腹にはもっと深い意味が・・・??
積年の秀吉に対する感情の爆発・・・??
幼いころから秀吉の重圧、ストレスの中で生きてきていました。
それが最終的に命を懸けた切腹を選ばせた理由なのでは・・・??

幼い秀頼の後見になれる自分が死ねば、秀頼は困るのでは・・・??
そんな反抗・・・復讐があったのかもしれません。

豊臣政権の不信感につながりかねないこの事件・・・
そこで秀吉はその懸念を拭い去るために・・・秀次は大悪人だったとすることにします。
高野山に葬られていた秀次を掘り起こし、謀反人として京の三条河原でさらし首に・・・!!
””院の御所 手向けのための かりなれば 
            これをせっしゃう かんぱくといふ”
という落首が・・・!!
正親町上皇の喪中にもかかわらず、関白は狩りをして殺生を行った・・・
その関白はもちろん秀次のこと。
秀吉の思惑通り、さらし首になった秀次は悪人のイメージが・・・!!
「摂政関白」となったのです。
そして切腹から半年後の8月2日、前代未聞の事態が・・・
聚楽第で生活していた秀次の妻子たちが市中引き回しの上、三条河原に集められました。
その数三十数人・・・
正室・一の台をはじめ・・・年齢も様々・・・少女から乳飲み子まで・・・
秀次の首を拝ませると、次々と殺していきました。

あまりの無慈悲な光景に、見物人は皆涙し、役人たちも目頭を押さえたとか・・・
遺体は無造作に穴にほうり込まれました。
穴を埋めるとそこには塚が築かれ、秀次の首を納めた石櫃が置かれました。
都の人は、やがてそこを「摂政塚」と呼ぶようになるのです。

どうして罪のない妻子まで・・・??
秀次の切腹は、豊臣政権にとって想定外の出来事でした。
これをそのままにしておくと、無実の訴えを豊臣政権が認めたことになってしまう・・・。
秀次の無実を信じる者たちが生き残っていると、復讐の大義名分ができてしまう・・・。
秀吉の死後、秀頼が対象になってしまう・・・。
また、聚楽第を破壊、堀を埋め、高く積み上げられた石垣を壊し・・・徹底的に壊したので、現在聚楽第の遺構は残っていません。

秀次に近い人々や物が消え去った・・・やっと秀次事件が終わったのです。
その3年後、秀吉は62歳でその生涯を閉じました。
秀頼は僅か6歳でした。
その後、徳川家康が台頭し、政権トップの不在が関ケ原の戦いを招きました。
もし、秀次が生きていれば・・・家康は天下をとれたのでしょうか?
豊臣家滅亡のカウントダウンは、秀次の自害から始まっていたのかもしれません。




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関白秀次の切腹

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思いがけない血とは?織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、果たしてだれの子孫が天下に残ったのか?30分で読めるシリーズ



戦国乱世・・・たった一度だけ・・・天下人同士・・・秀吉と家康の直接対決が小牧・長久手の戦いでした。
江戸時代聖地となった小牧山城・・・家康公・御戦勝の地として山番を置いて一般人が入ることを禁じました。

”家康の天下を取るは
 大阪にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にあり!!”

小牧・長久手の戦い・・・
家康方1万7000VS秀吉方10万!!
さらに秀吉は、家康討伐に王手!!
これを打開してどうやって逆転する??

昭和2年戦地・小牧山で、天皇統監のもとに行われた陸軍大演習・・・
小牧・長久手の戦いを教訓に、平地決戦の戦術が行われました。
それは・・・そこに日本戦士に残る戦略の数々があったからです。

農民からものすごい勢いで成り上がった羽柴秀吉。
秀吉は18歳の頃、信長に仕えました。
敵を味方に引き入れる調略の才能を発揮し、数々の敵を織田家に引き入れます。
その実力を主君・信長に認めさせました。
武勇がものを言う戦国時代にあって、独自の方法で異例の大出世をするのでした。

海道一の弓取りと言われた徳川家康。
武家の名門・松平家に生まれるも、長い人質生活を送り、厳しい武家社会で育ちました。
やがて当主となって織田信長と同盟(清州同盟)を結ぶと、以後その関係を固く守っていきます。
戦場における家康軍の活躍は目覚ましく、信長軍に幾度となく貢献しています。
家康は信長の理不尽とも思える要求にもこたえながら、信長の天下取りを支えました。
全ては領国を守るために・・・!!

全く違う道を歩んできた二人・・・

1582年本能寺の変勃発!!

天下統一を前に織田信長が命を落としました。
この事態に、二人はそれぞれの想いで動いていきます。
秀吉は明智光秀を討ち、柴田勝家を倒し、織田家中での存在感をゆるぎないものに・・・!!
信長の次男・織田信雄を利用し、信長の跡目争いに参加。

家康はあくまでも同盟者として中立を守ります。
家康は目線を東へ・・・甲斐・信濃を手中に収めていきます。
しかし、秀吉の勢いには及びませんでした。

秀吉の大坂城築城・・・それは天下取りを狙うという事・・・。
織田家の当主・信勝の利用価値が無くなっていきます。
秀吉は、信勝を制圧しようとしていきます。。。
そこで、家康が立ち上がります。
同盟者として信勝を助ける!!
この時、秀吉の所領22か国に対し、家康の所領5か国!!
国力の差は歴然としていました。

家康にあったのは、”織田家を守る”という大義名分のみ!!
1584年3月8日、信雄と合流すべく、家康は伊勢長島城へ出兵!!
すると・・・翌3月9日秀吉出陣命令!!
秀吉VS家康!!小牧・長久手の戦いが始まろうとしていました。

1584年3月・・・小牧・長久手の戦い!!
兵力だけで言えば秀吉の圧倒的優勢に変わりはありません。
そんな家康の戦略とは・・・??

外交戦略・・・
家康は戦端が始まる前に、全国に書状を出し、協力を求めます。
目を付けたのが中国の毛利と四国の長曾我部。。。
しかし、その狙いは、秀吉によって阻まれます。
既に毛利を仲間にしていました。
秀吉は毛利から来ていた人質を無事に返したことで味方としたのです。
人たらしの天才!!秀吉!!

家康の思惑は外れ、味方となったのは長曾我部のみ・・・
しかし、いくつかの勢力は家康につき・・・
全国の勢力が秀吉派と家康派に分かれ・・・緊張関係が始まりました。

秀吉は近江・坂本城へ・・・家康は清須城へ・・・
戦う地は伊勢・・・??

秀吉の調略・・・秀吉は、家康・信雄方の池田恒興・森良可を調略し・・・二人は犬山城を占拠!!
秀吉は、池田恒興に、家康に勝てばその家康の領地を与えると約束していました。
このピンチに家康は・・・??
逆転の一手!!急遽、清州を出発し、犬山城へ進軍!!
それは、敵よりも早く小牧山城を占拠するために・・・!!
小牧山城は、織田信長が築いた城で、近世城郭のルーツと言われています。

小牧山城を押さえたことで、家康軍は、犬山城から出てきた秀吉軍を食い止めることに成功!!
その巧みな陣取りを秀吉は重く受け止めていました。
「あの山を家康に取られては、味方の勝利は心もとない。」by秀吉

秀吉は、自ら前線へ・・・!!
兵力圧倒!!
3月28日、大軍をもって着陣!!その数10万!!
一方、家康は1万7000!!

家康は、秀吉が到着するまでの数日間で小牧山城の改修を敢行!!
秀吉の想像を上回るものに仕上げていきます。
巨大な土塁で小牧山城を囲う家康!!
秀吉軍の攻撃を予想したものでした。
東側に4つの砦を築き、それによって約4キロの防御線を築きます。
小牧山城の家康に降参の文字はありませんでした。

完全な膠着状態に・・・!!
状況は熾烈な頭脳戦へ・・・!!
持久策??積極策・・・??

秀吉は兵力で圧倒する方法を首尾一貫させて・・・さらに増兵をしていました。
しかし・・・10万もの兵糧を用意できるのか・・・??
九鬼水軍も用意し、兵力を増す秀吉!!

その頃家康は・・・。
堅固な要塞を確保すれば勝てる・・・??
寄せ集めの秀吉軍、長期戦になれば、織田家の武将たちが内部崩壊するかも・・・??
しかし・・・調略に成功していれば多方面から攻撃されるかも??

それならば、兵の質はこちらの方が上!!
敵が増える前に各個撃破していけば何とかなる・・・??
こちらには三河武士に加え、武田の遺臣たちがいる!!

どうする・・・??

両軍が膠着状態で半年・・・決断の瞬間が迫っていました。
秀吉が積極策に出ます!!
難攻不落の小牧山城から、家康の領国・三河への直接攻撃に変えたのです。
それは、家康を城の外へおびき寄せる陽動作戦でした。
家康の退路を完全に断つ!!
1584年4月6日秀吉、別動隊2万5000を三河へ派兵!!
その2日後には家康を監視!!
そして4月9日、長久手まで進軍し、家康方の城へ攻撃!!

秀吉の詰めの一手がさされたのでした。。。
しかし、ここで予想外のことが・・・別動隊に襲い掛かる軍勢が・・・!!
それは、小牧山城にいるはずの家康軍でした。
電光石火のごとく、長久手の敵勢に攻め込んでいきます。

小牧山城から20キロのところに突然現れた家康軍、大将自らの襲来!!
兵たちは慌てふためき・・・森長可討死、池田恒興討死・・・秀吉軍は敗走してしまいました。

家康軍の大勝利!!

完ぺきだった秀吉の作戦をどうやって破ったのでしょうか?

家康は陽動作戦の情報を掴んでおり、小牧山城を離れ・・・それは、秀吉の別動隊と同じ日でした。
密かに秀吉勢に近づいて攻撃!!
秀吉のお株を奪う電撃戦でした。

想定外の奇襲・・・情報による勝利でした。

何もかもが後手に回った秀吉。。。
家康はこの勝利を最大限に利用し、形勢逆転を図ります。
自らの勝利を各地に知らしめ、秀吉を追いつめようとします。
一方秀吉は、戦略の立て直しを求められたのでした。
確実に家康を追いつめる方法を・・・!!


と、続くのでした。




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