日本を決定した百年―附・思出す侭 (中公文庫)

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東京にある三井本館・・・この建物には、GHQの外交局が置かれていました。
昭和26年、日本の戦後交渉が行われました。
対日講和特使J・F・ダレスと総理大臣吉田茂・・・敗戦から6年・・・独立を念願する日本に対し、ダレスは条件を出してきました。

前年に始まった朝鮮戦争・・・東西冷戦が強まる中、アメリカは日本を自由主義陣営に組み込むべく、再軍備を求めてきたのです。
30万の軍隊を・・・。

戦後日本は、アメリカの要求に応じ、非軍事化を推し進めてきていました。
しかし、とうのアメリカが方向転換してきたのです。
拒めば独立は遠のく・・・?
吉田の苦渋の決断とは・・・??
戦後日本の出発点となったサンフランシスコ講和への道は・・・??

昭和22年3月17、日本外国特派員協会で世界を驚かす会見が開かれました。
記者たちに語り掛けたのは・・・連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー。

「日本の民主化は進み、懸案の非軍事化も順調である。
 1年以内に占領を終わらせたい。」

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GHQによる占領から1年6か月、アメリカが要求していた非軍事化と民主化・・・戦争放棄をうたった日本国憲法にかかわったのは吉田茂。
「負けっぷりをよくしようではないか」
敗戦で焼け野原になってしまった日本・・・戦争孤児があふれ、その日食べるものにも困る・・・そんな日本。。。
一刻も早く独立し、戦後復興に邁進しなければ!!と、考えていました。
そんな吉田にとって、マッカーサーの発言は願ってもないことでした。


しかし・・・戦後急速にアメリカと対立関係になってきていたソ連が強硬に反対!!
盛り上がった講和の空気はしぼんでいきました。
そして、ヨーロッパで広がっていく東西冷戦。。。
ソ連によって東欧諸国は共産主義に組み込まれ、アメリカを盟主とする自由主義が激しく対立していました。
遠のいた講和の雰囲気が変わったのは昭和24年11月アメリカ国務省が「講和草案を準備している」との情報が入ったのです。
深刻化する冷戦化!!講和を実現し、日本を確実に自由主義勢力に引き入れたい!!と、思っていたのです。
占領開始から4年・・・日本では独立の機運が高まりますが、吉田は慎重でした。

吉田の気がかりは。。。アメリカ国防総省の反対でした。
大陸では中華人民共和国成立!!
独立すれば、日本にアメリカの基地を置くことができないかもしれない!!と思っていたからです。
このまま国防総省が反対すれば、講和は一向に始まらない!!
吉田は最も信頼する大蔵大臣・池田隼人を密使としてアメリカに送ります。

昭和25年4月25日、GHQから経済視察ということで渡米の許可が下ります。
池田が面会したのは・・・GHQ経済顧問のジョセフ・ドッジ。
ドッジは国防総省にも顔が効きました。
「講和条約を結んだ後も、アメリカは軍を日本に駐留させる必要があるだろうか?
 もしアメリカからその希望を言い出しにくいなら、日本政府から提案してもよい。」
吉田は国防総省が望んでいるアメリカ軍の日本駐留を日本から申し出ることで、事態の解決を謀ろうとしました。
劇的な効果・・・!!これがアメリカを動かします!!
いよいよ対日講和が・・・!!

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対日講和に本腰を入れ始めたアメリカ・・・
その特使に任ぜられたのが、J・F・ダレス・・・共産主義勢力に対する強硬派で知られていました。
昭和25年6月21日、ダレスが予備調査のために来日。
記者団に対し、「自由の世界・囚われの世界がある。」と、反共主義者をアピールします。
ダレスは、日本に基地の提供だけではなく、再軍備をも求める意向を示します。
吉田はどう対処したのでしょうか?

「再軍備は断った・・・日本はとても再軍備できる状態ではなかったからだ。。。
 日本は貧乏のどん底だった。
 戦前の過ちは、軍備の重さが引き起こしたのだから。」

独立国が自衛のための軍隊を持つことは当然だと考えていたダレスは・・・吉田の回答に困惑しましたが・・・過去の過ちを知り、経済だけでも回復させようと思っていた吉田にとっては再軍備の負担は大きすぎました。
平行線のまま・・・

昭和25年6月25日、朝鮮戦争勃発!!

38度線を越えて南下した朝鮮軍を国連軍が迎え撃ち、泥沼化していきます。
冷戦の始まりでした。
アジアの共産主義勢力の台頭をまざまざと見せつけられたダレスは、国防総省を説得!!
反共への目覚めが生まれてきたこのときに、交渉を進め、自由主義化するべきだ!!と。
ダレスに対して国防総省は、有事の際に日本の軍隊がアメリカ軍と行動を共にすることを要求。
どの程度の軍隊が想定されていたのでしょうか??
ソ連の脅威に対し、10個師団の軍隊が・・・1個師団=3万2500。。。3万×10個師団=30万人以上の軍隊を要求されていました。
現在の自衛隊は22万・・・国防総省の要求は苛烈なものでした。
昭和25年11月24日、アメリカ政府は、対日講和7原則を発表!!
日本が国際連合に加盟することを念頭に、すべての戦争当事国は日本への賠償請求権を放棄すべきと明記されました。
吉田が望んでいた寛大な講和に沿うものでした。
日本の安全保障は・・・アメリカとの間に”継続的かつ強力的な責任”と、暗にアメリカの駐留継続が書かれていました。
そして、正式に講和交渉が始まろうとしていました。
いろいろな案を想定していた吉田茂。

①国連安全保障案
すべてを国連軍にゆだねる。

②北太平洋軍事制限案
北太平洋地域の平和及び安全の強化のための提案で、そこには日本列島と朝鮮半島を非武装地帯とするというものでした。
再軍備拒否への強い思いがそこにはありました。

③日米二国間条約案
アメリカ軍を継続して駐留させるというもの。

昭和26年1月25日、ダレスが再び日本の地を踏みました。
29日・・・三井本館の1室で、第1回の交渉が行われました。
会談は冒頭から激しい応酬となりました。
「一刻も早く独立を!!」
「自由主義陣営の強化にどのような貢献をするのか?」
「再軍備すれば、自主経済が不能になる。
 対外的にも、再軍備には杞憂がある。」
「再軍備しないというのは、日本が何もしないことのいいわけか・・・??」

マッカーサーも交えることに・・・マッカーサーは、再軍備は日本経済の足かせになると吉田を支持します。
しかし、頑として主張を曲げないダレス・・・。
追い詰められていく吉田!!

2月2日・・・
「ただもぞ無だけでは、平和は得られません。
 我々は皆、家に住み、財産を持っています。
 警戒もせず、泥棒に家を荒らされるような人は、まったく同情に値しません。」
改めて強調された、ダレスの再軍備要求!!
それは、もはや無視出来ないものでした。
一刻も早く占領状態から脱したい!!
国民の期待も高まります!!

2月3日・・・
職員たちに・・・近いうちに5万人に近い保安隊を組織するという案をアメリカ側に提示することを相談します。
保安隊とは、自衛隊の前身です。
メモは英語にされ、ダレスのもとへ・・・。
その2日後の2月5日・・・
「対日講和7原則にのっとって講和作業を進展させる」と返事がありました。

2月7日ダレスと最後の会談に臨んだ吉田。
二国間で安全保障に関する新しい条約を結ぶ前提で講和をすることを確認します。
再軍備に関しては、アジアで反対論が出てくることを考慮し、当面公にしないことで一致します。
講和への道筋ができてきました。

2月11日、交渉を終えたダレスが日本を離れました。
アメリカには帰らず、オーストラリアやフィリピンの説得に回ります。
ヨーロッパにも回り、賠償金を求めないように熱心に説得します。
半年後の8月31日・・・吉田茂は、講和会議のために、サンフランシスコに向けて旅立ちました。
オペラハウスで行われ・・・参加国は、ソ連・ポーランド・チェコスロバキアなどの共産国を含めた52か国。
代表権問題を抱える中国や戦時下の韓国は招かれませんでした。
当初はソ連の妨害が考えられましたが、ダレスの根回しで順調に進みます。
自由主義陣営の48か国が日本との講和につくことになりました。
9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約に調印!!
ここに、長きにわたる占領が終わり、国家としての日本の独立が認められたのです。

6時間後・・・吉田はサンフランシスコ郊外に向かっていました。
第六兵団駐屯地・・・。日米安全保障条約の調印に臨むために!!
その際、吉田は池田隼人ら一員には誰にも署名させませんでした。
アメリカ軍の駐留継続と引き換えに、安全保障をアメリカにゆだねるという条約・・・
その責任を吉田一人で背負ったのです。

ダレスはその後、アイゼンハワー政権の国務長官になり、冷戦下のアメリカ外交をリードしていきますが・・・
がんを患い、昭和34年5月に死去。
昭和42年10月・・・吉田茂は89歳でこの世を去りました。
あの昭和の選択は、私たちに何をもたらし、何を問いかけているのでしょうか??

後の世代がこの不平等を平等に近づけてくれ!!という思いから、一人で署名したのかもしれません。

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