日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:河井継之助

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あ~先週、三郎が死んで、覚馬が行方不明になったとの知らせが山本家に届いていたのでした・・・

1868年3月・・・
旧幕府軍は、鳥羽伏見の戦いで敗れ・・・
新政府軍は、会津に迫っていたのでした。

奥羽鎮撫隊総督が仙台にやって来ました。
仙台藩に会津討伐の命を下すために。。。
参謀の世良修蔵は・・・会津を討つ気満々です。

東北一円が、戦火に見舞われようとしています。。。

山本家は・・・うらがまだまだ悲しみの底に打ちひしがれていました。。。
そんなうらを、八重は薙刀に誘うのでした。

そこに来たお雪は・・・喪が明けてもないのに薙刀の稽古を始めるようです。
修理に申し訳ないと・・・。

会津の女たちも、立ち上がって・・・信念を以て戦うようです。。。


慶喜は・・・江戸城を去る日が来たようです。

「徳川が残り、江戸が戦火を逃れた・・・
 では、会津はどうなる???」  

と、勝に言葉を投げかけて、水戸へと去る慶喜。。。

藩士が一致団結して容保公に尽くした・・・
そんな容保が羨ましかったようです。


東北の各藩は・・・
会津を討伐することを望んでいませんでした。
奥羽鎮撫隊の言いなりになるのか???

そして・・・新選組も、近藤勇が斬首・・・
怪我をした土方歳三に代わり、会津では山口二郎(斉藤一さんね)が、新選組を指揮することになりました。

あっ斉藤一と時尾が初めて顔を合わせてる・・・

奥羽25の諸藩は、嘆願書を提出・・・。
米沢藩の人々も、鉄砲を習いに山本家にやって来ました。


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米沢の軍備も、まだまだ旧式のようです。。。

しかし、この懇願も・・・
世良は破り捨ててしまいました。
同じころ江戸の総督府では・・・
勝海舟の添え状を持って・・・会津狩りの目を逃れて、西郷に会いたいと広沢富次郎がやって来ていました。

君臣一体となって御上の為に戦ってきたこと・・・
それを聞いてもらうために。。。
西郷にあえると思っていたのに・・・
なんと、捕えられてしまいました。。。

4月19日福島の遊郭遊んでいた世良は・・・
「奥羽をみな敵と見て討つべし」という密書を書いていました。。。
直訴嘆願も・・・聞き入れられなかった
成り上がりの下郎なので・・・仙台藩士によって斬!!!

世良を斬ってしまったこと・・・
総督府に攻め込まれるきっかけを作ってしまいました。。。
もう後へは引き下がれなくなってしまった会津。

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これをきっかけに・・・奥羽諸藩は新政府軍との全面戦争へと進んでいくのです。。。

5月1日白河城攻撃が始まりましたが。。。
敵陣に弾が届きません・・・。
敵の弾は到達しているのに・・・。
その武器に、大きな差があり。。。

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会津藩の戦死者は300人に及び、あっさりと城は落ちたのでした。。。

あ・・・河井継之助登場!!
ガトリング砲です。
奥羽越列藩同盟がなされたのでした。

白河から戻ってきた尚之助・・・銃を見てみたら・・・
思っていた以上に、各藩とも旧式の銃でした。

銃の研究をしたかった尚之助でしたが、八重は負傷者のお世話をしに日新館へ行くのでした。
日新館には・・・大勢の負傷者が待っていたのでした。。。

そして・・・覚馬は何かを思いついたようです。。。
なにをする?覚馬???


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あ!!!来週は二本松少年隊なの???


今回は・・・新政府軍との和解の望みが絶たれ・・・
奥羽越列藩同盟がなされたという回でしょうか???

なんともわかりにくかったんじゃないかしら???

あの世良さんじゃ・・・芹沢鴨もびっくりの悪役だし。。。
ま・・・新政府軍って言ったって、みんなあんな感じ(横暴で奪略しながらいってる下級武士てこと)だったような気もしますけど・・・
その悪代官並みの悪が長かったんじゃないかな???
と、思っちゃいました。

奥羽越列藩同盟・・・っていうか、河井継之助、いきなりでぱっと終わっちゃうし・・・
この人はすごい人なのよ~!!って、またやってくれるんでしょうか???
ちなみに河井継之助を見ると思い出しちゃうのが・・・
越後長岡の若武者・河井武士。

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そうなのよね、多分、継之助からとったと思うんですよ。
そんな重要な人を・・・っていうか、ガトリング砲を日本で初めて手に入れた人だとか、藩の軍備を重要視した人だとか・・・
もうちょっと説明があっても良かったんでは???
またしてくださいね

と・・・その話はおいといて・・・

でも、修理が責任を取って死んだんだから、この展開だと、ほかの人が責任を取って戦争回避ってこともできたんじゃないかなあ・・・と、思える回でした。

ま・・・誰も死んじゃあ困るんですけどね・・・

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1868年、戊辰戦争勃発!!

旧幕府軍VS新政府軍・・・政権の座を争い激戦を繰り広げました。
佐幕か討幕か・・・
どちらにつくか、全国の藩が迫られました。

そんな中、あえて中立という路線を築こうとした藩が・・・
石高7万4000石の越後長岡藩です。

この中立を、藩主に進言した男が、河井継之助。
負債総額14万両・・・荒廃寸前だった藩の財政を立て直し、約10万両の剰余金を持つまでにした継之助の藩政改革。

幕末の英雄はたくさんいますが、武装中立をを目指したのは長岡藩家老ただ一人です。

「兵馬の精強なくして
   一藩の正義なく
       独立なく
        自尊なし」

討幕でも佐幕でもない、中立を選んだ男、越後長岡の河井継之助。日本人の発想の常識を超えた男の生き様です。

継之助が一般的に知られていないのは、それが日本が勝者の歴史だから・・・
賊軍の扱いは低いのが現状です。

彼が注目されたのは、司馬遼太郎の「峠」です。

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峠|司馬遼太郎|新潮社|送料無料本来ならば、大河ドラマの主役になってもおかしくない人です。
それは、当時、長岡のように武装中立をしようとした藩がなかったからです。
そもそも、武装中立という発想がなかったと言えます。

そして、武装中立の為に、南北戦争で使ったガトリング砲・・・当時、日本に3門しかないのに2門も持っていたのです。

その日本人離れした継之助、幼いころは、親や先生の言うことを聞かない腕白な少年でした。
そして、王陽明の陽明学にはまっていました。
この陽明学は、「知行合一」をモットーとし、知識と行動は一つになるべきだと説いたものです。
これが、その後の性格の基盤となりました。

1852年26歳で江戸に遊学。3人の人物を師と仰ぎます。
古賀謹一郎
斉藤拙堂
佐久間象山
特に、古賀謹一郎の門を叩いたのが一番重要でした。

そこで「李忠定公集」と出会います。
「経済とは、経世済民の略。
 すなわち、乱れた世を整え、困窮している民を救うことこそ経済の本質」
この本にとりつかれます。

それには、長岡が直面している困難がありました。
負債総額が14万両と多額の借金がありました。
信濃川の氾濫
火事による損害
藩士による浪費生活・・・
これらが財政を圧迫していました。

「藩の為に、藩の民の為に・・・
  藩政改革を行いたい!!!!!」


10代藩主牧野忠雅に送った意見書が彼の目に止まり、御目付格評定方随役に任命されます。
藩の首脳部が会議に参加し、藩政の方針を決める際に意見を言う役目です。

これは、異例の抜擢です。江戸から長岡に帰ることになります。
しかし、世の中は甘くはなく、武士では中流の継之助、自分たちは良い生活をしたい上流階級・・・
何もできずに2か月で辞任します。

それは・・・
陽明学・・・これは、中国・王陽明が唱えた従学説です。朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説くものです。日本では、幕末に隆盛を誇りました。

しかし、陽明学は異端・・・普通家臣は朱子学を学びます。
というのも、知行合一するためには、反乱も辞さないという考えに行きつくからです。
戦国時代は・・・
「君 君たらざれば 臣 臣たらず」
でしたが、家康が平和な時代にするために
「君 君たらざるとも 臣 臣たらざるべからず」
と変えたのです。これは、林羅山の朱子学を取り入れたものです。

つまり、普通の家臣は朱子学を学んでいるので、仕組みと意識の壁が立ちはだかったのです。
政策として示すときに、具体的にどう実現すればいいのか・・・
若くて経験もなく、仲間作りも出来ていませんでした。

そして、これを機に西国へ遊学します。
ここで、運命を変える出来事が・・・

備中松山藩家老・山田方谷に会います。
山田方谷の藩政改革は・・・

特産物の考案
藩の商社化(貿易)
武士の俸禄削減
軍の近代化
身分秩序の見直し・・・

この改革を成し遂げるためには、封建制の今の世の中15年はかかるだろう・・・
「やさしいことから一つずつ成し遂げていけ」
何よりも大切なことは、藩民の信頼を得ること・・・
説明責任を果たすことが大切だと気付きます。
ここ松山で、6か月過ごし、方法論を見つけようとしました。

もう一つ影響を与えたのが・・・
長崎で見た「異国文化の脅威」でした。
東の方とは違い、西国は開国をしており、富国強兵・殖産興業が進んでいました。

「天下の情勢は、大変動の時期に来ている。
 力を養う他に藩の生きる道はない・・・。」

このことが、長岡藩を大きく動かします。
260年の科学知識の遅れを身に染みて感じたのです。

1860年桜田門外の変・・・
井伊の死後、混迷を深める幕府・・・

そんな中、第11代藩主牧野忠恭が、京都所司代に・・・!!
慌てる継之助。。。
富国強兵を推し進めている西国に、幕府が勝てるわけがない・・・。
藩主に、「京都所司代の辞任」をするように説得し、「藩政改革」に取り組むべきだと訴えます。

しかし、京都所司代からもっと重要な老中になってしまいました。
長岡藩の生きる道は、中立の道・・・辞任するように頼みます。

あらゆる政治の流れから無縁になり、我が藩や民が豊かになる政治をする資金が必要なので、産業を起こすべきだ。
そして、西洋から大砲や銃を買って、軍の強化にあたるべきだ!!

藩政改革をしたい!!と、殿に申し出ます。

この訴えが通り、殿は老中を辞任。
藩政改革を決意します。

1865年すべてを任され、忠恭のNo,2となりました。
賄賂の禁止
遊郭の廃止
賭博の禁止
禄高の改正   をしました。
その改革は、ぜいたくを禁止したものの、下の者には篤く行いました。
2000石⇒500石
700石⇒300石
95石⇒100石。。。平均して100石に近づけました。
しかし、みんなからの反論もなく・・・というのも、継之助自身出世前と同じ120石のままでした。

「民衆こそ国の主役、役人は民衆によって雇われたものにすぎない」

藩政を改革すること3年・・・
身分秩序が薄くなり、町が活気づきます。
借金を返済しただけでなく、剰余金約10万両の藩となりました。

しかし・・・時代の大きな渦に飲み込まれていくのです・・・。

1867年10月、大政奉還が徳川慶喜により断行されます。
12月王政復古の大号令・・・
ここから旧幕府軍VS新政府軍の政権争いが始まりました。

1868年1月鳥羽伏見の戦い勃発。
全国を巻き込んだ戊辰戦争となります。

早くから強兵を育ててきていた新政府軍は、各地で勝利しながら勢力を伸ばし・・・
長岡へ!!
長岡のピンチに、江戸にいた継之助は、江戸藩邸を処分し、その家財を売却、そこで得た資金で外国商人からガトリング砲を購入します。日本に3門しかなかったガトリング砲を2門買いました。その威力は、1分間に200発の弾が撃てるというものでした。他にも最新式の小銃を手に入れます。

江戸で中立の準備をし、おまけに暴落していた米も購入、さらに銅銭を買い入れます。
しかし、陸路を使って長岡に運び入れることは出来なくなっていました。

海路で運搬します。外国人から船をチャーター、米不足の北海道で米を売り、新潟で相場の上がっていた銅銭を売り、帰る時にも軍資金を増やしました。

江戸を出発してから1週間、軍資金を携えて、越後に帰りました。

そんな中、新政府軍から恭順命令が!!
これを継之助は黙殺します。

お金と軍備で戦争を中止できるかも!?

1868年5月2日早朝、信濃川を南西に・・・そこにあるのは、小千谷市慈眼寺。新政府軍の本陣がありました。

そこに待ち受けていたのは、軍監の岩村精一郎。
戊辰戦争の中止の・・・長岡藩の中立をかけた一世一代の交渉が行われました。
小千谷談判です。
しかし、交渉決裂。

藩に戻って、全軍に出陣を支持します。

後に新政府軍・奥羽鎮撫総督参謀・品川弥二郎は・・・
「なぜあの時、岩村のような小僧を出したのか・・・
 もし、河井の話をまともに聞ける人間が対応していれば、北越戦争は止められた」
といったとか。

長岡藩は、光福寺に本陣を置き、奥羽列藩同盟に加盟VS新政府軍の戦いです。

3か月に及ぶ北越戦争が、開戦しました。
長岡藩は、ガトリングで激しく抵抗します。
しかし、信濃川からの奇襲攻撃に、城は陥落・・・。
民の為にも歴代藩主の為にも城を取り返す!!

強い忠誠心を持って、落城から2か月後、八丁沖から襲撃し、城を奪い返します。
しかし、4日後にまたもや城は陥落・・・。

この時の戦いで、左足を負傷した継之助は、会津に向かいます。
南会津についたとき、その傷がもとで亡くなります。

そこで、部下たちに最後の指示をしました。

「いずれ奥州連合は敗れる。。。
 その時、殿の世継ぎをフランスに逃がすのだ!!
 その為の船は、外国商人に頼んである。
 そして、私の棺を作ってくれ。
 火を焚いてくれ。。。
 私を焚く火を。。。
 この首は、だれにも渡さん!!」

1868年8月16日享年42歳の生涯でした。

本当は戦いたくなかった継之助。
武装中立の武装は完ぺきでしたが、新政府軍はパスしてくれませんでした。
中立を武装によって守ることが出来なかったのです。

この北越戦争・・・
戊辰戦争の際、越後長岡とその周辺で戦われた戦。その戦死者は、両軍合わせて2200人を越えました。

越後長岡藩の敗北理由は・・・。
武装中立という考えが、長岡藩にも浸透していなかったのでは?
理念は前に走るも、家臣はついて行けなかったのかもしれません。

しかし、その忠誠心は、今も人々の心に受け継がれています。
遺骨は部下の手によって、妻の元へ。。。
長岡市栄涼寺、そこで、継之助は歴代藩主の墓を見守っています。


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