古代史も変わっています。
かつて4世紀中頃は、大和朝廷がその他の豪族を支配下に置き、統一政権として政治を行っていたとされてきました。
しかし、現在の教科書では、”大和朝廷”は”ヤマト政権”と表記されています。
表記が変わった理由は・・・??
大和が漢字ではなくなったのは・・・やまとを”大和”と書いた最古の文献は、8世紀後半の養老律令です。
4世紀中ごろは、大和ではなく、”倭””大倭”という文字が使われていました。
そのため、現在では4世紀中ごろに「大和」という漢字を使っていた確証がないため、カタカナの「ヤマト」と表記するようになりました。
朝廷が政権となったのは・・・??
朝廷は天皇を中心に政治を行う場所です。
しかし、当時の日本では、小国がたくさんありその王が支配し、その上に大王がいた・・・
「ヤマト政権」の時代は、天皇が全国を支配した統一政権ではなく、大王を盟主とした連合政権だったのです。
まだ朝廷という形態はなく、政治権力のみだったため、「政権」と表記するようになったのです。

実際に、朝廷が成立したのはいつ・・・??
朝廷の確立は、天皇が日本全国を支配下に置いたときとされています。
初代天皇といわれた神武天皇・・・古代においても天皇はいましたが、天皇の称号は後からつけられたもので、大王でした。
最初に自らを天皇と名乗ったのは誰でしょう・・・??
それは、第33代推古天皇といわれてきました。
その根拠の一つが法隆寺の薬師如来像で、銘文に大王天皇と書かれています。
そして丁卯年・・・これは推古天皇15年=607年だと考えられました。
なので、この銘文が天皇という表記が最も古い・・・初めて称したのは推古天皇でその頃に朝廷が成立したと考えられてきたのです。
ところが、昭和初期・・・薬師信仰が始まった時期や、銘文の筆跡から、薬師如来像は推古天皇の時代以降に作られたもの・・・もしくは、銘文が後に書かれたものと考えられるようになりました。
その時代についても諸説あり、一つ目は薬師信仰が日本にもたらされた第40代天武天皇の時代という説、もう一つが天智天皇9年・・・670年に、法隆寺が一度消失しています。
その再建にあたり、この薬師如来像が新たに据えられたのではないか??というのです。
つまり、天武天皇の兄である第38代天智天皇の頃という説です。
天智天皇は皇太子時代に大化の改新を断行、その詔で、公地公民制・・・「すべての土地と人民は、天皇が所有し支配する」と政策方針を示し、その後即位しました。
他にも天智天皇は現存しない幻の近江令を出したともいわれています。
なので、朝廷という政治形態が確実に存在した時代は、天智天皇~天武天皇の時代の頃だと思われます。

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