土方歳三最後の戦い 北海道199日

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今年の1発目は私の大好きな”歳さん”で!!

かつて、司馬遼太郎はこう言った・・・。
「京は季節の都である」
四季に彩られた都を血に染めた男・・・新選組副長・土方歳三です。
黒船来航をきっかけに、国論は攘夷と開国にわかれ・・・250年続いた徳川幕府は大きく揺らぎました。
この争乱に乗じ、幕府転覆に暗躍する藩士、浪士たち・・・。
鬼の副長土方歳三は、局長・近藤勇と輩を屠り、新選組隊士をも鉄の掟で葬りました。
幕末維新の時代・・・何が土方を駆り立てたのでしょうか? 

京都の夏の華・祇園祭・・・153年前のそのさなかに、事件は起こりました。
1864年6月5日・・・新選組が一躍その名をあげた池田屋事件です。
この時討幕を目論む一派は、京都に火を放ち、混乱に乗じ天皇を長州に連れ去ろうと計画していました。
その集会に僅かな手勢で乗り込んだ新選組・・・
凄惨な斬りあいの末、数人をその場で殺害し、多くの討幕派を捕らえました。

この時、新選組副長・土方歳三が身に着けていたのが残されています。
古くから甲州街道の宿場として栄えた日野・・・
1835年土方歳三は、武州(武蔵国)石田村に豪農の六男として生まれました。
土方が暮らした家は、歳三の兄の子孫が受け継ぎ資料館として公開されています。
土方は、この鎖帷子をつけて池田屋に駆け付けたと言います。

kusari
槍で突かれたような跡、補修された跡・・・土方の汗がしみ込んだ防具からは、自らの命と引き換えに、幕府への忠義の姿が浮かびます。


土方家には、歳三の遺品以外にも武具が伝えられてきました。
武州は天領なので、徳川に何かあったら馳せ参じる気概が農民にもあったのです。




土方が生れる1年前、局長となる近藤勇も武州上石原村に生まれています。
幼いころから剣術に秀でた近藤は、27歳で天然理心流を継承し、土方は門人として腕をあげました。
1歳違いの二人は、幕府への忠義の心を育み、激動の時代を二人三脚で歩むこととなります。

この頃、250年続いた徳川幕府は大きく揺らいでいました。
ペリー来航以来、国論は、攘夷と開国に分かれ・・・幕府は、朝廷に攘夷実行を約束したものの、道筋は見えていませんでした。
政治の中心地・京都には、強硬な攘夷派の藩士や浪士が集まり、幕府寄りの人物を殺害するなどのテロ行為に及んでいました。

そんな中、朝廷への攘夷対策言上に14代将軍家茂の上洛が決まります。
その警護のために、江戸城下で腕に覚えのある者が募集されます。
土方や近藤は迷うことなくこれに参加し、運命の地・京都へ・・・!!
京都での土方たちは、京都守護職・会津藩主・松平容保の預かりの身分となり、京都の治安維持を担うこととなります。
新選組は取締に当たり、過激な攘夷派の殺害を厭わず、討幕運動への脅威となっていきます。
新選組の命知らずの戦いと強固な結束は、厳しい大規によるものでした。

第一 指導を背くこと
第二 局を脱すること
第三 勝手に金策を致すこと
第四 勝手に訴訟を取り扱ふこと

四箇条を背くときは
切腹を申し付くること

切腹の理由は・・・
新選組は、正式な武士ではありません。
町人、農民からも入隊していました。
本来の武士ならば、閉門、蟄居など、段階を追った処分ができましたが、彼らが差し出せるのは・・・自分の命だったのです。
新選組が殺した敵は26人ですが、約40人が粛正されています。
正式の武士に侮られないように、より武士らしく生きる・・・それが、ポリシーとなっていました。
内部の粛正を続けながら、新選組を維持し、京都の治安維持に努める土方・・・。
当時、土方が使っていた刀は・・・「大和守源秀圀」です。
直刃で、波紋が真っすぐになっており、まさに人を斬るための・・・戦うための刀でした。
近藤勇が長曽祢虎徹・・・他の隊士たちもブランド刀を好むのに、土方はブランド物よりも実際によく斬れる刀を好んでいます。
土方の愛刀の柄の中には・・・「幕府侍土方義豊戦刀」と名がきられています。
義豊とは土方の諱で、戦刀とあるので、戊辰戦争でこの刀を使ったと考えられています。
1868年正月・・・戊辰戦争は、京都郊外・鳥羽伏見で始まりました。
新選組は、銃や大砲を上手く使う新政府軍に敗れ、江戸に逃れることに!!
江戸にもどった土方は、旧幕府の役人に鳥羽伏見での戦いを語ります。
「最早、武器は砲でなくてはいけない。
 私は剣を帯び、槍を執ったが、一切役に立たなかった。」
幕府侍・土方は、西洋の最新銃器を見せつけられ、自らも洋装へ・・・!!

鳥羽伏見での敗戦後、江戸に戻った新選組は、旧幕府軍の責任者・勝海舟の配下となりました。
勝は、西郷隆盛との会談で、江戸城を無血開城に導き、徳川家の存続を図ろうとしていました。
しかし、土方は、幕府侍として応戦を考えていました。
鳥羽伏見での敗戦から3か月後・・・土方は、およそ200人の新選組隊士を引き連れて、近藤らとともに江戸川を渡りました。
仁を構えたのは、現在の千葉県流山!!
対陣の表向きの理由は、幕府寄りのこの地の反乱を鎮めるためでした。
しかし、土方の本意は、新選組を近代的な様式部隊に訓練することでした。
新選組が会津軍の一員として戦う??
時代は、洋式訓練、銃や砲の訓練・・・。
流山では・・・近藤は大久保大和、土方は内藤隼人という偽名を使っていました。
これは、新政府軍の追撃をかわすためだったと言われています。

新政府軍の動きは早く・・・土方らの流山着陣の翌日、新選組の本陣は、多数の新政府軍に取り囲まれてしまいました。
この時、隊士たちは野外訓練に行っており、本陣には土方・近藤以外には数名しか残っていませんでした。
ここまで鯛を引っ張ってきた近藤は、観念しました。

「最早これまで!!切腹いたす!!」by近藤勇

土方・・・どうする??

近藤を切腹させる??それとも、最後まで死力を尽くして新政府軍と戦う・・・??
それとも近藤を出頭させる・・・??

近藤と共に死を選ぶのか??一縷の望みにかけるのか・・・??

新政府軍に包囲され、切腹を覚悟した近藤勇・・・
この時・・・

「ここで割腹するは犬死になり。
 運を天に任せ、あくまで鎮撫隊を主張し、説破するこそ得策ならん」by土方

土方は、偽名を貫き近藤を出頭させ、生き抜くことを選びます。
近藤は、大久保大和として悠然と敵陣に乗り込みます。
土方は急いで江戸に走ります。
走った先は、旧幕府軍責任者・勝海舟の元!!
近藤出頭の翌日の勝の日記には・・・

慶応四年四月四日
土方歳三来る
流山転末を云

とあります。

土方は、勝に近藤の処遇を託し、旧幕府陸軍と合流。
新政府軍の手に渡っていた宇都宮城を様式訓練をしていた隊を指揮して陥落させます。
銃砲を駆使しての見事な勝利でした。
しかし・・・戦闘中に足を怪我した土方は、会津に入って治療に時間を有します。
そこに、追い打ちをかける悲報が・・・
新政府軍に出頭した近藤は、間もなく素性が露見し、罪人として斬首の末、首を京都三条河原に晒されました。
新政府軍の熾烈な攻撃の前に、土方が身を寄せた会津の命脈は尽きようとしていました。
しかし、土方は、近藤の最期を知って以降、常に口にしていました。

「近藤と共に死ななかったのは、ひとえに徳川家の冤を雪ぐためだ。
 万一赦されたら、何の面目をもって地下の近藤に見えんや」と・・・。

土方は、まだ戦いを終えるわけにはいきませんでした。
近藤は、「大久保大和などという者はいない」と、幕府に捨てられる形となりました。
彼らの組織自体が、幕府にとっても邪魔なものになりつつあったのです。
土方も・・・自分達は、和平路線の中で生きていくのではなく、徹底抗戦で生きていくという思いを強くしていました。
自分達が武士としての理想を追求したのにという怨念みたいなものが、近代的なエネルギーに昇華していったのです。
会津を脱出した土方は、榎本武揚と仙台で合流!!
蝦夷地を目指す決心をします。

「到底勝算あるに非らず。
 我等戦ふて快く死せんのみなり。

 吾輩は、已に死神にとりつかれたる也。
 死すへきときに死すれば則ち可なり。」と、松本良順に送っています。

かつて蝦夷地と呼ばれた港町・箱館・・・
市街地の中央に広がる五稜郭は、西洋の城郭を真似て作られ、その中心には箱館奉行所が置かれていました。
土方がここに入城したのは、1968年(明治元年)10月26日のことでした。
死神に取りつかれた男・土方は、蝦夷地でも鬼神の如く戦います。
上陸から1か月足らずで新政府に恭順していた松前藩を駆逐!!
翌1869年(明治2年)4月9日、新政府軍は大挙して蝦夷地に上陸します。
土方は、上陸地から最短ルートの山中・・・二股口で新政府軍を迎え討ちます。
敵が真下に見える場所に塹壕が作られていました。土方がそこで指揮していたのかもしれません。

土方率いる旧幕府軍は、巧みに築いた塹壕から一日3万5000発を新政府軍に浴びせ、撃退します。
再戦でも、熱を帯びた銃身に水をかけながら堡塁を守ります。

蝦夷の陸軍の戦い、これをもって最も烈しとなす

しかし、土方の奮闘虚しく・・・他の守りが突破され、土方は五稜郭への撤退を余儀なくされたのです。

1869年(明治2年)5月11日、箱館山を越えて、新政府軍の大攻勢が始まりました。
土方は、箱館港と五稜郭の中間にあった一本木関を死守するべく指揮を執ります。
そして・・・土方歳三享年35歳・・・
奇しくも、流山でわかれた盟友・近藤勇と同じ年でした。

土方の死後1週間・・・五稜郭は新政府軍に明け渡され、日本の近世から近代への架け橋となった内戦は終わりを見るのです。

戊辰戦争の激戦地・福島県会津若松・・・戦争のさ中、山麓の寺に罪人として首を落とされた近藤勇の墓が建てられました。
それは山腹にひっそりとたたずんでいました。
この墓が建てられたときの逸話・・・
この当時、侍のような姿がよく目撃されています。
それが・・・土方歳三ではなかったか・・・??
近藤の墓と肩を並べるようにして建てられた土方の慰霊碑。
幕府への忠義に生き、盟友への信義に死んだ土方歳三・・・。
150年前、近代明治に舵を切った日本に、彼の居場所はありませんでした。


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