ペリリュー島玉砕戦―南海の小島七十日の血戦 (光人社NF文庫)

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アメリカ海兵隊のクアンティコ基地・・・情報戦略の拠点です。
その地下倉庫に、アメリカ史上最大の犠牲を払った闘いの記録がありました。
太平洋戦争の激戦地・・・”ペリリュー島”の記録です。

初めて実戦で導入されたアメリカ軍最新鋭の殺戮兵器。。。
日本兵たちの狙撃。。。
戦闘意欲を失った日本兵への容赦ない攻撃。。。
過酷な戦場に耐え切れず精神が破壊されていく兵士・・・。
撮影したのは海兵隊18人の兵士たちでした。
プロパガンダ映画を作るために派兵されていたのです。
生き残れるかどうかは運だけ。。。
狂気が狂気を呼ぶ戦場。。。それがペリリューでした。

サンゴ礁に囲まれた周囲26キロの小さな島・・・
この地を巡って、日米が血で血を洗う戦いをしたのです。
アメリカ海兵隊が記録した死傷率は史上最悪で、およそ1万人の日本兵のうち、最後まで生き残ったのはわずか34人でした。
あまりの犠牲の多さと過酷さから、今まで語られることはありませんでした。

日本から南に3200キロ、パラオ諸島のペリリュー島には、今も太平洋戦争直前に作られた滑走路が残っています。
東洋一といわれた日本軍の飛行場で、一時は300機置かれていました。
戦いも終盤の1944年4月、ペリリュー島守備隊長としてやってきたのは中川州男率いる陸軍歩兵第2連隊。
関東軍として派遣された中でも最強と謳われた連隊です。

この頃・・・サイパン島・ニューギニア島・・・アメリカ軍に絶対国防圏の島々を占領されてきていました。
アメリカ軍は、日本の拠点・フィリピン・レイテ島に照準を置いていたのです。
そのレイテ島攻略のために・・・ペリリュー島の飛行場に戦略的価値を見出していたのですが。。。
日本もそれに気づいて精鋭部隊を送り込んでいたのです。

1944年9月、ペリリュー島攻略に向かうアメリカ軍。。。
中心となったのは、1万3000人に及ぶ第一海兵師団でした。
海兵隊きっての精鋭部隊です。
第1海兵師団師団長のウイリアム・ルパータス少尉は、「3日もあればペリリュー島を制圧できる」と、考えていました。


9月15日・・・上陸作戦が始まりました。
目指したのは飛行場に近い西側の海岸。。。
日米の激突が始まりました。
一番に上陸したのは第1海兵師団・第1海兵連隊・3000人です。
日本軍の猛攻を受けながら前進しました。

日本軍の”バンザイ突撃”に備えます。
圧倒的武力でこれを突破してきたアメリカ軍は、3日で決着がつくと思っていたのです。
しかし・・・バンザイ突撃はありませんでした。

どうしてバンザイ突撃はなかったのか???
日本軍の大本営は、戦術の大転換を行っていました。
サイパンの玉砕を受け・・・バンザイ突撃を禁止し、戦いを長引かせるように転換していたのです。
その最初の戦いの場が、ペリリュー島だったのです。
ここを境に、日米の戦い方が大きく変わっていきます。

中川大佐は、持久戦の準備に取り掛かります。
固いサンゴを掘り掘り、複雑なトンネル陣地を構築していきます。
1000人以上入れる物もありました。

上陸から8時間後・・・アメリカは最大の目的、飛行場の制圧に取り掛かります。
飛行場防衛の要だった戦車隊は初日で壊滅。。。
飛行場を制圧するため、前進するアメリカ兵たち。。。
岩山からの日本兵の銃弾攻撃に、なかなか前へは進めません。

上陸して3日目。。。飛行場付近の日本の陣地を制圧するアメリカ。。。
米などの備蓄倉庫もアメリカ軍の手に落ちます。
3日間の戦いで亡くなった日本兵は、少なく見積もっても2400人。
アメリカ軍も2000人の死傷者を出していて。。。
3日で落とせると思っていたアメリカ軍が、この時点で制圧できていたのは1/3でした。
兵士の間で不安が高まっていきます。

陸軍から援軍を受けるべきだ!!という意見も出始める中、ルパータス少尉は支援を断ります。
陸軍をライバル視していたので、海兵隊単独での勝利にこだわったのです。

お蔭でアメリカ軍は、急峻な岩山での戦いに引き込まれていきます。
日本軍の守備隊の訓示・・・必殺必勝の訓示。。。
それは、戦力に劣る日本軍の接近戦でした。
日本軍のゲリラ戦で、負傷兵が増えていきます。
トンネルからの不意打ちな攻撃に悩まされるアメリカ兵たち。。。
精神的に追い込まれていきます。

この接近戦・・・もはやどこが前線かもわからない状況になっていました。
精鋭部隊なアメリカの海兵隊も、上陸から1週間後・死傷率が60%を越えます。
海兵隊創立後、最悪の事態でした。
上陸から1週間後には撤退を余儀なくされます。

この間にも、ペリリュー島に対する戦況は変わっていました。
マッカーサーの陸軍6万人が、ペリリュー島陥落を待たずにレイテ島に上陸することを決定。
ペリリュー島の戦略的意味が無くなってしまいました。

上陸から2週間。。。
多くの犠牲者を出していたアメリカ軍は、最終の兵器を出してきました。
火炎放射器を搭載した装甲車です。
炎を130m先まで噴射することができます。
日本兵を生きたまま焼き殺すのです。

さらに上空からはナパーム弾を投下。
岩山をまるごと焼き尽くします。
日本兵の死者は9000人を超え・・・
生き残った兵士はトンネル陣地で隠れているほかはありません。
投降はもとより玉砕さえ許されない持久戦は、1月以上に及びました。

小さな島は死体の山となっていきます。
50日が過ぎた12月8日・・・中川大佐率いる隊は300人となっていました。
食料も、武器も尽き・・・飛行場に斬り込む覚悟を決め、玉砕を決行しようとします。
が、持久戦を最後まで続けるように指示されます。

アメリカでもひとたび始まった戦いが見直されることはありませんでした。
10月20日マッカーサーがレイテ島に上陸、この時点でペリリュー島の戦略的意義が無くなります。
大きな戦局から取り残されるペリリュー島・・・しかし、いつ終わるかもわからない戦いは続きます。

憎しみが憎しみを呼ぶ狂気の戦場ペリリュー島。。。
正気を保つことさえできなくなっていく異常な戦場の中、その殺戮は味方にまで及んでいきます。

11月24日、日本軍・守備隊本部以外はすべてアメリカ軍に制圧されていました。
この時、日本軍の生き残りは120人・・・。
長期持久戦を続けてきた守備隊長は、「状況切迫、陣地保持ハ困難ニ至ル」と電報を打ち、自決しました。
その後、アメリカ軍による敗残兵の掃討が行われ、74日に終わる戦いが終結しました。

日本軍がペリリュー島で初めて行った長期持久戦・・・
それに初めて対峙したアメリカ軍。。。
そしてそれは、硫黄島、沖縄へと続くのです。

日本が長期持久戦によって最後まで徹底抗戦をするとさとたアメリカ軍。。。
ペリリュー島で洞窟に潜む日本兵に使った火炎放射器やナパーム弾を、硫黄島や沖縄ではさらに大々的に行って・・・
遂には日本の本土を焼き尽くす焼夷弾の使用にまでつながっていきました。
容赦なき戦いの原点が、ペリリュー島の戦いなのです。

あれから70年・・・

ペリリュー島ではあらたにトンネル陣地が見つかります。
そこには日本軍の武器がそのままに残っています。
島には、2500人にも及ぶ日本兵の遺骨が今なお眠ったままです。

狂気の戦場ペリリュー・・・地獄のような戦場。
70年経った今も、兵士たちは苦しみから逃れることはありません。

ペリリュー島の戦いは、戦争が何をもたらすのか???訴え続けています。


私は父方の祖父をペリリュー島の戦いで亡くし、母方の祖父は硫黄島の帰還兵でした。
昨日の終戦の日・・・全国戦没者追悼式があり、80歳になる父も遺児として、母と共に参列してきました。

なんだか重く考えさせられる番組でした。


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